都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[33700]2004年10月2日
Issie
[54421]2006年10月13日
hmt
[57304]2007年3月17日
音無鈴鹿

[33700] 2004年 10月 2日(土)23:10:52【1】Issie さん
三多摩移管のこと
けふは,さほど酔っ払ってはをらないのでした。

[33692] hmt さん
Issieさんの掲示板

すみません。当掲示板は現在休止中です。
そのうちに再開するかもしれませんが(再開しなくてはならないですねえ),そのときには旧掲示板はチャラになっているかもしれません。
何分,当HPについては,思い切り“いい加減な運営”をモットーにしていますので,ご容赦を。最近の合併ラッシュについては,「気が向いたら」の更新を旨としていますので,どうぞよろしく。
(実は津久井地域のバス方面で根本的改訂が必要なのですが,市町村関係で少しく手が回りません。)

玉川上水の水源管理がねらいでした。三多摩の人々は東京府編入に猛反対したようですが、帝国議会は編入を決定しました。

三多摩を「奪われた」ことは神奈川県にとっては少なからずショックであったようで,「県史」にも比較的詳しく触れられています。とはいえ,政治的な生臭いことは公式な記録には残されないのでしょうね。
ともかく,「県史」で少なからずこだわっているのは,水源管理がねらいであれば「三多摩」である必要はなく,北・西の「両多摩」でよかったはずではないか,ということです。

慶応4=明治元年3月に新政府軍が江戸城に入城し,旧幕府直轄領と旗本領を(のちに寺社領も)政府直轄とし関東地方に「府・県」を編成しました。一方で,1万石以上の大名領は翌明治2年の版籍奉還を経て,“公式な行政区画”としての「藩」の管轄に。
多摩郡の府藩県への所属は極めて錯綜していて,1つの「村」が複数の藩・県に分割されることも珍しくなかったのですが(…というより,南関東ではこれが普通),おおよそ多摩川・秋川以南の,のちに「南多摩郡」となる村々の多くは「神奈川県」の管轄とされました(さらに,武蔵南部3郡[久良岐・橘樹・都筑]と酒匂川以東の相模国内の旧幕府・旗本・寺社領が「神奈川県」管轄)。それに対して,後の北・西・東多摩各郡に属する村々は,「品川県」と「韮山県」に分属して…,それはそれは極めて複雑です。
実は,明治4年の廃藩置県後,11月(旧暦)に関東地方の府県の合併再編が行われたときには多摩郡は「東京府」と「入間県」とに分割されると一旦告示されました。しかし,まもなく多摩郡全体が神奈川県管轄に変更され(足柄県管轄された高座郡も),さらに“東に飛び出た”中野町以下の町村がもう1度東京府に移管されて,東多摩郡・豊多摩郡を経て,「23区」入りを果たしています。

北・西多摩郡はともかく,南多摩郡の東京府移管については,この地域が比較的高度に商業化した養蚕・製糸・絹産業の発展を背景に自由民権運動の盛んな地域であったことがしばしば指摘されています。
以前にも同趣旨の発言をしたことがあるのですが,南多摩郡の東京府移管がなければ,八王子は間違いなく「神奈川県北部」の中心都市として発展したことでしょう。立川に地位を奪われることもなかったかもしれない。
同じ「神奈川県」であれば,相模湖(与瀬)・藤野の八王子市への編入は問題なく進行しただろうし,町田市と相模原市の合併のハードルもずっと低かったことでしょう。

やはり神奈川県にとって,南多摩郡を失ったことは返す返すも残念なことだったかもしれないなあ,と思ったりもします。
[54421] 2006年 10月 13日(金)19:47:08hmt さん
神奈川・横浜(4)県域の変遷
神奈川宿から海を隔てた横浜村の砂洲の上に造成された開港場[54351]、開港場を見下ろす丘の上に設けられた戸部役所[54388]、その神奈川奉行所が慶応4年に新政府に移管された後、慌しく何度かの改名を経て明治元年(1868)9月21日に「神奈川県」と改称され、現在に続く名前が生まれました。

今回は、開港場・横浜の外国人と深い関係にあった「神奈川県」の管轄区域の変遷を振りかえります。

[54415]で紹介した「横浜周辺外国人遊歩区域図」
この区画、現在の「神奈川県」の管轄区域と似ているようでもあり、違うようでもあり…

発足当初の神奈川県の管轄区域は、この外国人遊歩区域内の旧幕府領・旗本領を引き継いだものでした。
遊歩区域内には、武蔵金沢の六浦藩、相模の荻野山中藩、その他諸藩の飛び地が存在し、神奈川県管内図は虫食い状態でした。その一例である高座郡の状態が、Issieさんのページ の中で詳細に紹介されています。

この虫食い状態は、廃藩置県後の明治4年(1871)11月、旧藩領だった六浦県及び各県の飛び地が神奈川県になって解消されました。しかし、11月14日の(第1次府県統合) 太政官布告 では、武蔵国多摩郡と相模国高座郡とは神奈川県に含まれていませんでした。
これに対して神奈川県は、外国人遊歩区域に含まれる多摩郡と高座郡とは、従前通り神奈川県の管轄区域であるべきとする上申書を提出しました。

この上申が認められた結果、神奈川県の区域は多摩川以北の多摩郡にも拡がりました。
一方、相模川から酒匂川の間は足柄県になっており、県域は外国人遊歩区域と比べて少し北東にずれてくることになりました。
なお、多摩川以北の多摩郡のうち、東京市街地の西に隣接する地域は、明治5年(1872)8月に東京府に移管されました(後に東多摩郡→豊多摩郡の一部→中野区・杉並区になった部分)。

神奈川県の管轄区域は、第2次府県統合(明治9年4月)によって足柄県(伊豆国を除く)を併せ、相模国全域と武蔵国4郡(多摩郡の分割後は6郡)に拡大し、最大の領域になりました。

しかし、明治26年(1893)に至り、神奈川開港以来横浜と密接な関係にあった多摩川以南(南多摩郡)を含む三多摩を失います。

[33700] Issie さん
北・西多摩郡はともかく,南多摩郡の東京府移管については,(中略)自由民権運動の盛んな地域であったことがしばしば指摘されています。
やはり神奈川県にとって,南多摩郡を失ったことは返す返すも残念なことだったかもしれないなあ,と思ったりもします。

東京の水源確保関連では、既に1881年に玉川上水の左右十数尺の東京府移管が合意されました。
その後も、コレラ流行に端を発する上水汚濁取締強化のための北多摩郡・西多摩郡移管上申(明治19年=1886)があり、甲武鉄道開通の翌年(1890)には、住民からの北多摩郡・西多摩郡管轄替の建白も出されていました。この段階まではいずれも両多摩移管案です。
南多摩郡を含む三多摩の東京府移管上申は、明治25年(1892)9月に東京府知事から出されたものですが、これは既に神奈川県知事の積極的な合意を得ていたものでした。

南多摩郡は、生糸貿易の横浜との関係が深い繭・生糸の集散地である八王子や原町田を含み、県の財政にも重大な影響があります。それにもかかわらず、南多摩郡を東京府に移管することに神奈川県知事(内海忠勝)が賛成したことは、たしかに異常なことでありました。

その背景としては、1892年の「大干渉選挙」で罷免要求を突き付けられていた内海による、南多摩自由党に対する報復的措置と伝えられています。三多摩移管の政治的背景参照。
[57304] 2007年 3月 17日(土)01:01:30【1】音無鈴鹿 さん
世の中に三多摩移管のなかりせば…
こんばんは、音無です。

しばらく暖かな陽気の日々が続いておりましたが、ここへ来て寒のもどり。皆様いかがお過ごしでしょうか?先日、新宿中央公園を通りましたところ、池のほとりで早くもオスのガマガエルがのそのそと集合していたのですが、その後すっかり寒くなってどうなったやら。繁殖失敗でしょうか?
気象庁発表の桜の開花予想は、なにやら計算式が間違っていたそうで訂正されています。

さて。
先週末3月11日づけで巨大相模原市が誕生しました。居住者ではないのであまり実感がなかったのですが、
[57277]geoさん
中央本線の神奈川区間が相模原市とはちょっと違和感が
とのこと。考えてみればいつの間にか八王子市と相模原市が接触してたんですね。その一方で相模原くんと町田さんとの恋はいまだかなわず。「ああ町田さん、あなたはどうして東京都なの?」恋仲の二人を引き裂くのは都県境というお家の事情。それは武相国境時代からの長い長い因縁なのでしょうか?そんな二人にも結ばれるチャンスがあったのに。嗚呼あの時…

[57220] Issieさん
「あの時!」,“三多摩移管”などと言わず,南多摩郡だけでも神奈川県に残っていれば,「神奈川県町田市」と相模原市の合併へのハードルは今よりもずっと低かったでしょうにね。

一度は同じ屋根の下”同棲”をしていた二人を引き裂いた三多摩移管。返す返すも口惜しい。
既に落書き帳でも話題になっておりますが、玉川上水の水源管理が目的であれば西多摩郡と北多摩郡だけで目的を果たすには充分であり、南多摩郡は移管せずともよかったはずなのですが。その政治的な背景に関しては、すでに触れられております通り、
「南多摩自由党に対する報復的措置と伝えられ」([54421]hmtさん)
「南多摩郡の東京府移管については,この地域が比較的高度に商業化した養蚕・製糸・絹産業の発展を背景に自由民権運動の盛んな地域であったことがしばしば指摘され」([33700]Issieさん)
と、自由民権運動との関連が指摘されています。

妄想しても仕方がないのですが、もし東京都へ移管されたのが「北西両多摩」だけだったなら、南多摩郡あるいは神奈川県はどうなっていたでしょうか?八王子市は神奈川県北の中心都市として発展していたであろうことはほぼ間違いなく、逆にいま東京都多摩地域の中心都市となりつつある立川市は、逆に現状よりは発展していなかった可能性があります。
そして南多摩郡の多摩丘陵で行われた最大の開発事業である多摩ニュータウン(事業主は東京都・都住宅供給公社と住都公団ですね)はできなかったかもしれません。なんらかの違った形で宅地開発されたでしょうが、計画人口35万人(結果は計画半分強の20万人程度で開発終了なのですが)の一大都市計画もなかったでしょう。考えれば考える(妄想ですが)ほど、三多摩移管は、神奈川県にとっては最大の失政…といっては言いすぎでしょうが、結果としては「痛恨のタイムリーエラー」であったのかもしれません。そしてそれは同時に多摩地域もいえることでしょうか。東京都という自治体の性格(東京府+東京市)もあいまって、東京都という領域内において、多摩地区は都市基盤の整備状況では400万人の人口を抱える地域としては決して恵まれた状況ではなく、都内(800万人)に対して、すくなくとも33%のエフォートを配分されてはいないようです。
…少し妄想が過ぎましたでしょうか?

そして思うこといろいろ。
[57288]ペーロケさん
かのサイトは大体当たっていますが、結構ウソが含まれていますからね。私は参考程度にしか考えておりません。
まったく同意いたします。
 誰でも記事を投稿したり編集したりすることが出来るというのは、多数の人間の意見が集約されるから公平かつ正確になるのでは~と誤解されがちです。学術論文等の審査においては、査読Peer Reviewというシステムが広く採用されています。これは論文を執筆した研究者やグループが導き出した実験結果あるいはその解釈の評価について同分野あるいは関連分野の研究者に判断させることで、間違いや語解釈を防止するものです。学術論文ではなくても、文章を書き出版という作業のなかで記事の校正という作業は何らかの形で必ずといっていいほど行われているはずです(私はこの業界でどうしているか詳細は存じ上げませんが)。そして誤りあるいは虚偽があれば文責者は相応の責任は免れません。しかしながら、この数年でインターネットの普及により誰もが自由に表現できるようになりました。それに加え検索システムも年々進歩していますから、単独あるいは少数のキーワードの入力により検索者が要求する情報を瞬時にして得られるようになってきています。それゆえに検索されて表示されてきた文章について、果たしてそれが正確なものである可能性はむしろ低下しているのではないでしょうか?当該文章が公正に記述されたものであり信頼度の高い情報であるかどうかまでは、検索システムは評価・判断してはくれません。基本として数多くリンクされているものを検索上位にするので、多数の虚偽情報により少数の正確な情報が検索から漏れてしまう、まさに悪貨が良貨を駆逐する事態が起こりうるわけです(有名なのは「売国新聞」と検索すると…なんてのもあります)。私の周りでも、明らかにネットで検索してあきらかにそのまま”コピペ”(=copy and paste)した文章をレポートとして平然と提出してきたりする学生さんとかいますから。
 他者のデータ等を使用するなとは言いません。知識の共有や次世代への伝達は、人間にとっての世代を超えた情報伝達を可能とする”もうひとつの遺伝情報”ですから。ただ、ちゃんとどこの何を引用したと明記し、その情報の正確さを保障するとともに、著作者に敬意を払わなければいけません。それと折角ですから、ただデータを羅列するのではなく、ぜひその内容に対する意見や見解を付け加えていただければ幸いなのですが。(この部分[57177]における白桃さんのご意見に対する返答でもあります。)
自戒を含めて書きとめておきたいと思います。

[57225] hmtさん
なんか茶々を入れるようになってしまい恐縮です。
残念ながら「翼の揚力が機体の重量を定常的に支えていて、なおかつパイロットが自分の意のままに機体を操れる状態」からは程遠かったものと思われます。
やはりそうなりますか。落下の速度を緩和したという程度で随意操縦にはならなかったのでしょうね。ほか名字帯刀に関してもフォローくださりありがとうございます。

※訂正
八王子市と相模原市は、2006年の相模原市と相模湖町・城山町を合併の時点ですでに接触していましたね。訂正いたします。


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