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落書き帳

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[36159] 2004年 12月 28日(火)23:02:23【1】hmt さん
埼玉県の生まれた後―県域変更あれこれ
埼玉県の生まれた頃の経過を3回にわたりたどりました。
(1)埼玉県と入間県の時代[36047]   (2)(群馬・入間両県が統合された)熊谷県と埼玉県の時代[36081]
(3)は「杤木縣」などの話[36083]になって  (4)熊谷県を分割して武蔵は埼玉県へ統合[36111]
これで “ほぼ” 現在の形になったわけですが、このような大きな変化だけでなく、マイナーな県域変更もあるので、一応補足しておきます。

その中で最も目立つものは、江戸川の流路で分断された葛飾郡北西部の管轄修正です。

1875年(明治8年)8月に、下総国葛飾郡金杉村(現・松伏町)ほか42ヶ村が、千葉県から埼玉県に移管されています。
利根川東遷の前は渡良瀬川の下流・太日川だった川筋に、新しい河道(江戸川)が開削されたのは、寛永12~18年(1635~41)というからはるか昔のことです。しかし、庄内古川という名になった旧河道が境界であり続けたために、江戸川により下総台地から切り離された西岸も、下総国・印旛県(千葉県)でした。1875年に千葉県と茨城県の境を利根川に改めたのを機会に、千葉県と埼玉県の県界も江戸川に改めたのでしょう。かくて千葉県は、現在のように“島”になりました。

県界は江戸川に移りましたが、下総国と武蔵国の国界は庄内古川のまま。1879年に「郡」が復活すると、ここは「埼玉県下総国中葛飾郡」となりました。
ところが、1896年になると「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」というのができて、国界も江戸川に移り、中葛飾郡は北葛飾郡に統合して消滅。
わざわざ「国界変更」をしたことは、この時代までは 旧国が実質的な地域名称として機能していた事実を示しています。

この1875年には荒川の南北の飛地も埼玉県川口町と東京府岩渕本宿町との間で交換しています。「東京府へ足立郡舎人町引渡書類」も同じく1875年。
それよりも前、1872年に渡良瀬川の改修で生じた西岸の土地を茨城県から編入しました。

戸田橋付近の改修の結果、荒川の南岸になった浮間(1926年)・船渡(1950年)は東京府・東京都に編入されています。
これは、すぐ後に出てくる保谷に続き、20世紀のできごと。

実現しませんでしたが、21世紀には茨城県五霞町と埼玉県幸手市との合併話[16062]が話題になりました。五霞町は、前記「下総国葛飾郡金杉村ほか42ヶ村」の北側にあり、新旧河道の間に存在するという、同様な条件の土地なのですね。

河川がらみでない府県境越えの移籍もあります。
古くは明治4年(1871)11月に入間県とされた多摩郡の一部が、間もなく神奈川県に移管されています(M5/1/28)。
“多摩郡の一部”とはどこなのか? と調べてみました。
箱根ヶ崎村・増子村・青梅村・拝島村と、入間郡に近接している西多摩の村々については、入間県だったことも一応うなづけますが、北多摩の関前・境村、更には南多摩の恩方村となると、このように離れた村がなぜ入間県だったの?と疑問が湧くばかりです。

1891年には埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村他が東京府北豊島郡石神井村の一部(上土支田)と越境合併して大泉村(現・練馬区)になりました。“企画倒れの大泉学園”が計画されるのは、もっと後のこと。[3868]参照
埼玉県新座郡は、この後1896年に荒川の東の北足立郡に統合され、そこから 保谷村が1907年に東京府北多摩郡への越境編入を果しています。現在は西東京市。
元・新座郡の残党は、現在東上線沿線の4市になっており、近年合併の動きがありましたが、実現しませんでした[13099]

戦後の埼玉県からの越境合併としては、入間郡元狭山村から東京都西多摩郡瑞穂町への分村合併騒動[4049]があります。

もっとマイナーな飛地交換も明治時代には何回も行なわれたようです[4111]
それでも残った飛地があり、この落書き帳で話題を提供しています。
[54252] 2006年 9月 29日(金)23:33:47hmt さん
埼玉・群馬県境変更へ
[52705] KMKZ さん 群馬県太田市南前小屋地区、深谷市へ編入求め両市議会に請願提出
[53313] いっちゃん さん  国盗り物語

新聞記事(読売2006/9/29)によると、埼玉県深谷市と群馬県太田市とのそれぞれの市議会は、9月28日に、群馬県太田市南前小屋地区から出されていた深谷市への編入合併を求める請願を全会一致で採択したそうです。

大正年間の利根川改修工事で集落が分断され、利根川南側になってしまった南前小屋地区(20ha)には、36世帯147人が住んでいるそうですが、小中学校への通学を含めた生活圏は、当然のことながら、完全に深谷市側になっています。
今回の請願採択で県境変更への道が開けたことは確かですが、両市の間や県、国との間の県境変更手続きに要する時間があり、実現は2~3年後の見通しとのこと。

河川改修から80~90年という年月を要したのは、どのような事情があったのでしょうか。
そして、ようやく方向性が決まっても、行政手続に更に2~3年とは。
明治時代の「小さな政府」は、大規模な変革を、もっと素早く実現させたのに。

少し下流の熊谷市妻沼小島地区(利根川北岸)の場合では、住民の足並みの乱れと熊谷市の消極的態度とがあいまって、太田市への編入運動は、実現性が薄いようです。

埼玉県の県境変更については、[36159]で概略を記しました。
その中に記した戦後の事例は、船渡(1950)と元狭山村(1958)だけでしたが、1961年の 北足立郡大和町(現・和光市)と東京都練馬区との間の境界変更 が最も新しい事例のようです。
と言っても、50年近く前のことになりますね。県境変更を阻むいろいろな思惑の存在が推察されます。
[65713] 2008年 7月 9日(水)15:59:30hmt さん
内間木から岩渕にかけての荒川の流路と行政境界線
[65707] ryo さん
笹目橋より西側の怪しさは只者ではありません。(このあたりは和光市の境界線も怪しすぎる…)

笹目橋の西側、つまり彩湖の南端部で 和光市が戸田市に突出している境界線付近 を、古い地形図で確認してみました。

明治42年測量図では、上流側の内間木村から荒川の蛇行が続いています。対岸の美谷本村(合成地名コレ集録済み)にある「曲本」なんて地名も、曲流からきているのでしょう。
新河岸川との合流点を過ぎた後にある、ご指摘の和光市(当時は新倉村)が戸田市(美谷本村・笹目村)側(北)に突出する境界線も、もちろん蛇行した荒川の流路です。

その先、白子川を合わせて東京府と埼玉県の境界になると蛇行はおさまり、少し東流した後、船渡で南に突出、更に浮間で大きく南に突出するというのが、改修前の荒川の流路です。
浮間は、[65477]で言及した浮間ヶ原の所在地で、岩淵町の赤羽(鉄道駅ができてからはこの地名が有名)に隣接しています。

江戸時代の西遷工事[38111][39453]によって入間川の流路に押し込められた荒川。
「荒ぶる川」が旧入間川流路で納まっていたはずもなく、江戸時代にもたびたび洪水に見舞われました。
そして、近代になると明治43年(1910)の大水害を契機として、新たな大改修工事が行なわれました。

下流部の対策の柱は岩渕で分水する荒川放水路[35860]
そして、中流部において水を抑える手段としては、連続堤防や横堤によって1~2kmもの川幅に洪水滞留させる構想です。
中流部の末端に位置するこの付近も、蛇行していた流れを直流に変え、広い河川敷を確保する対策が取られました。

# “広い河川敷”といえば、国土交通省認定 「川幅日本一」 地点も荒川にあり、その川幅は 2532mとのことです。航空写真

内間木・岩渕間の荒川流路に話を戻します。
昭和31年応修の地形図になっても、直流化された荒川に沿って、かつての蛇行の痕跡をたくさん認めることができます。
右岸の内間木村は戦時合併[37842]で志紀町になりましたが(皇紀2604年の2月11日紀元節)、この際に荒川左岸の地は一足先に発足した美笹村に編入され、行政境界線は荒川の新流路と一致することになりました。昭和合併を経た昭和31年地形図では朝霞町。

一方、その前年(1943)に同じく戦時合併によって右岸・大和町(現・和光市)と左岸・美笹村(現・戸田市)とが発足した時には、このような調整が行なわれず、境界は旧河道のまま残りました。
昭和43年の地形図になると、旧河道の跡はほとんど消え、“怪しすぎる”境界線だけが目立つことになりました。

ここよりも下流側で荒川の直流化によって南岸に取り残された2つの埼玉県突出部も後に東京に編入されました。[36159]
埼玉県北足立郡横曽根村(現・川口市)のうち浮間が、東京府北豊島郡岩淵町(現・北区)に編入されたのは 1926年。
その上流側の埼玉県戸田町船渡が、東京都板橋区に編入されたのは 戦後の1950年。
戸田葬祭場や戸田変電所の名称に、かつてこの地が戸田町であった歴史を留めています。

笹目橋より西側の埼玉県と東京都の境界。
これは基本的には白子川(矢川)の流路でしょう。この川に流入先は、荒川改修の結果、並行する独立流路が設けられた新河岸川に変わっています。小さな川ですが、白子川も直流化の結果、現在の流路と都県境とは不一致になっています。
神奈川県と東京都の境界にあるその名も「境川」よりも短距離ですが、たびたび言及されている境川と類似した情況にあるようです。

この白子川を遡ると、その水源は「大泉」という地名の由来になった湧き水です。
現在は完全に練馬区内になっている大泉地区ですが、元々は左岸の埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村と右岸の東京府豊島郡石神井村上土支田とに別れていました。学校統合による経費節減を狙った越県合併であったことを[62334]で記しました。
流路変更とは無関係ですが、ここでも府県境の変更が行なわれていました。
[71933] 2009年 9月 12日(土)18:27:21hmt さん
東京博善の創業者・木村荘平
明治20年、日暮里に新設した火葬場を運営すべく創立された東京博善。
同社は明治26年に江戸時代からの伝統ある火葬場の落合・代々幡を合併し、更に日暮里から町屋の隣接地に移転して町屋も合併しました(明治37年)。町屋斎場の中に、東京博善や日暮里火葬場の 旧標柱 が保存されています。

大正の大震災を経て、昭和初年には桐ヶ谷も合併。現在 23区内にある9つの火葬場(地図)のうち、町屋・落合・代々幡・桐ヶ谷・堀ノ内・四ツ木の6斎場が東京博善の運営です。
立地の原則から外れ、住宅地の中になってしまった火葬場もありますが、もはや 郊外への移転 もままならず、ひっそりと存続を続けています。

# 東京博善とは無関係ですが、ネットの中には、“埼玉県松戸市にある「四ツ木斎場」”などと記してある ページ がありました。お客の中には、埼玉県や松戸市の人もいるんでしょうが…
公営斎場でもないし、間違いだらけ。

東京博善以外は都営の瑞江火葬場。1937年東京市営として発足。
2004年開場の臨海斎場。これは、5区による一部事務組合の運営。
そして 1950年まで埼玉県北足立郡戸田町だった 舟渡 にある 戸田葬祭場[65713]です。

東京博善は現在は廣済堂の傘下ですが、元々は木村荘平が明治20年日暮里に創業しました。
創業者の木村荘平は、実は他の事業でも有名な人物でした。
それは、日本初の外食チェーン店・牛鍋の「いろは」です。

興味のある方は 人物伝 を読んでいただくとして、この明治人を少し紹介しておきます。

木村荘平は京都の商人で、鳥羽伏見の戦いの時に薩摩の川路利良と知り合い、大警視になった川路のつてで上京して、警視庁管轄下の屠場監理を任されました。要人とのコネ、世間の偏見を逆手に取った事業展開。このあたりの話は、藤田伝三郎[67425]を思い出させます。

藤田は軍隊の革靴で儲けましたが、木村の商売は、ようやく日本人の口に入り始めた牛肉を使う外食産業でした。
現代の牛丼チェーン店と違うところは、店長がすべて木村荘平のお妾さんという家族経営だったということ。

多くのお妾さんに生ませた子供の名前は、店名と同様にナンバー方式。
画家の木村荘八(著書も多数)、直木賞作家の木村荘十、映画監督の木村荘十二など、20世紀後半にも活躍していた人たちが、木村荘平の息子でした。
[78504] 2011年 6月 7日(火)15:19:24hmt さん
東京市の面積
市区町村雑学・東京市ってあったの?
修正意見が小出しになってしまいましたが、気になるところを、もう1ヶ所。
当時の「東京市」は現在の東京23区よりもかなり狭い範囲でしたが、少しずつ周辺の町村を取り込み現在の23区に近い大きさになりました。

東京市が周辺の町村を取り込む「市域拡張」は、隣接部の編入を繰り返した他の五大都市に遅れており、概ね江戸の朱引内由来の 15区のままという状態が続いていました。

関東大震災(1923)後に加速した 郊外への人口流出に対応するために、東京の市域は拡張されましたが、それは“少しずつ”ではなく、1932年10月1日に、隣接5郡の一括編入という形の“大拡張”を行ったのでした [74867]
いわゆる“大東京市”になった日は、東京市にとって、実質的に 34回目の誕生日[78433]でした。

市の変遷 にも示されているように、1932年に 現在の23区に近い大きさの “大東京市” が実現する前の町村編入は、1920年の内藤新宿町だけでした。

陸地測量部が昭和10年(1935)3月末日現在で調査した面積の内閣統計局版[74314]が、[74308] YT さん により紹介されています。
これにより面積を計算すると、東京の旧市域 15区は 81.23km2で、5郡編入後の35区は 550.85km2です。
1936年に ひと足遅れで編入した北多摩郡千歳村・砧村を加えると 572.81km2で、面積が約7倍になる大拡張でした。

参考までに、市区町村プロフィール の特別区面積は 617.18km2で、1936年の値よりも 44km2増加した計算になります。

葬祭場や変電所に「戸田」の名を残す船渡[65713]のような 隣接地編入もありますが、大部分は臨海地域の埋立です。
1935年の深川区 8.24 + 城東区 10.18 = 18.42km2 から 2009年の 39.94km2へと 21.5km2も増加した 江東区[75307] がダントツ。
以下、羽田空港の大田区 13.91、大井ふ頭の品川区 6.76、お台場の港区 3.14、葛西臨海公園の江戸川区 3.05と続き、増加トップ5区合計で 48km2の増加。
もちろん、「東京市」と無関係になってからの埋立地が大部分です。

内陸部の大部分の区は、1935年に比べて面積が減少しています。
これは面積測定ベースが5万分1地形図から2万5千分1地形図になり、陸海境界も変更されるなど、1988年に基準変更があった[67248]ためです。


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