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落書き帳

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[38354] 2005年 3月 6日(日)19:30:59hmt さん
新宿・角筈・柏木・淀橋・千駄ヶ谷・代々木
駅前駅の「新宿西口駅」から発展した話題の新宿付近の地名をもう少し。

先ず「新宿」と「内藤新宿」
「新宿」の由来は、日本橋から4里も離れていた甲州街道の高井戸宿までの中間に設けられた(1698)「新しい宿場」ですが、実は江戸時代初期に江戸城の白壁に大量に使用された石灰の運搬路であった青梅街道には、それ以前から「内藤宿」があったようです。「内藤」は、この地に下屋敷があった信州高遠藩主内藤氏から。
では、元禄11年に浅草の高松喜六らが上納金5600両を幕府に納めてまで申請、獲得したものは何か。やはりビッグビジネスにつながる営業権でしょう。“民営化”による交通ターミナルの活性化。先日開港した中部国際空港「セントレア」の元禄版です。

こうして誕生した「内藤新宿」。目論見通りに繁盛したものの、20年後には「風紀の乱れ」を理由に突然廃止されます。享保の改革の一環ですが、その背景には新興勢力の抬頭に危機感を抱いた「吉原」「品川」など既存業界の思惑があったはずです。このへんのビジネス事情は現代も同じ。「風紀の乱れ」が登場するあたりは、さすが「歌舞伎町」の先達です。
内藤新宿の再開は、申請しては却下されを繰り返し、田沼意次が権力者になった後の 1772年にようやく実現しました。

「角筈」
内藤新宿の西隣が角筈村。明治13年の迅速測図には町村境界線が入っていないのですが、おおまかには、東の追分を頂点・西の十二社通りを底辺として、甲州街道と青梅街道とに挟まれた三角形の地域と考えてよいでしょう。まさに新宿駅と新都心とを含む「現在の新宿」そのものです。
更に詳しく、現在の新宿駅東口付近を五千分の一図で追うと、三越・大塚家具までが角筈村であったと思われます。

上野からの日本鉄道が、赤羽から山の手経由の連絡線により官設鉄道の品川との間を結んだのが、今から120年前[38325][38338]。この鉄路が角筈村の東部「字渡辺土手際」を南北に貫き、「内藤新宿」停車場が作られました。2年後に「新宿」停車場に改称。つまり、新宿駅の東も西も両方とも角筈村です。

[38314]Issie さん
昔々の新宿駅案内図には,西口が「角筈口」と書いてあったような気がします。
うーん。これは記憶にございませんが、「角筈口」では東か西かわからないように思います。
実は、hmtが「角筈」という地名から真っ先に頭に浮ぶのは、新田裏から現在は遊歩道公園になっている専用軌道を通って紀伊国屋の西側に入っていた東京市電13番系統(角筈―万世橋間)のターミナル、つまり東口なのです。このあたり、青梅街道の北側も角筈村(字五十人町)。

新宿駅の駅舎と乗降口も、時代と共に何回も変っていますが、西口が「青梅口」、南口が「甲州口」だった時代は はっきりと記憶にあります。この名は、乗降場が2つあった[38292]歴史から、自然のなりゆきです。

「淀橋」と「柏木」
[38294] N-H さん
住所としての「新宿区北新宿」のあたりは柏木といったほうがイメージがわきます。
[38307] sutekinaおじ さん
新宿には「淀橋」という立派な地名がありましたが、今では使われることはないようです。

角筈村の三角形の北西端、青梅街道が神田上水を渡るところに架けられた橋が「淀橋」ですね。明治13年測量の迅速測図では、淀橋は橋の名として載っており、付近に郡役所の記号がありますが、まだ地名にはなっていません。
1889年に角筈村と柏木村が合併し、淀橋町となり、1932年には更に広範囲な淀橋区に出世しましたが、戦後の1947年に「新宿」に区名を奪われてしまい、今はカメラ屋により名を知られる状態になるという栄枯盛衰を味わいました。

「千駄ヶ谷」と「代々木」
[38314]Issie さん
新宿駅施設の南半分が属していたのは旧千駄ヶ谷町の区域でした。だから,「代々木」駅も,有名な予備校も,むかし「代々木」の符丁で呼ばれた某政党も,本来の「代々木」ではなく「千駄ヶ谷」にあったのでした。
「千駄ヶ谷」と「代々木」の行政上の境界も、郡部時代の谷筋から山手線沿いへと東遷していますが、現実は、更に東の明治通りに及んでいるのでしょうね。最寄駅名の影響大。

渋谷区に「新宿高島屋」というのも,さすがにちょっと戸惑いますね。
渋谷タカシマヤ[36207]だったらもっと戸惑うでしょう。

最後に、新宿関連で 復活を期待したい地名が、「十二社(じゅうにそう)」。
[44006] 2005年 8月 9日(火)18:30:42【1】hmt さん
新宿には 通りに面していない場所に 「裏」地名 があった
[43993] matsu さん
新宿の日清食品ビルのある辺り、…ここは以前(15~16年前は間違いなく)「新田裏」という停留所名でした。
私が不思議に思っているのは「裏」です。何に対しての「新田裏」なのか?

そうか、「新田裏」は既に過去の地名になっていたのか。[38354]では、何の疑いもなく使っていました。

それはさておき、現在の地図ではわかりませんが、昔は、新宿歌舞伎町一丁目と二丁目の境から 東へ流れる 蟹川 という流れがあり、新田裏を過ぎてから北へ向きを変えて、現在の戸山ハイツ、早稲田大学を経て 神田上水(神田川)に合流していました。
神田川に近い早稲田には、名の示すように 田園がありましたが、戸山ハイツ付近には 江戸時代に 広大な尾張徳川家下屋敷[34120]があり、その上流も 右岸には武家地、左岸には給地手作場が多く、「新田」がどこなのか、よくわかりません。

「新田裏」という地名は、そんなに古くまで遡るべき地名ではないのかもしれません。明治の2万分の1迅速図には見えない「新田裏」が、大正時代の1万分の1や5万分の1に登場しています。これを見ると、豊多摩郡大久保村西大久保の中には、新田裏・南裏・北裏と「裏」地名が並んでいます。そう言えば、新宿追分の街道に面したところは「内藤新宿三丁目」でしたが、その北隣は「字三丁目裏」(明治21年5千万分の1)というように、通りに面していない場所には、「裏」地名を使う土地柄でした。

matsuさんの記憶にある「新田裏」交差点やバス停は 明治通りにありましたが、明治通りが貫通していなかった戦前には、「角筈」ターミナル(紀伊国屋の西側)を出て、現在は遊歩道公園になっている専用軌道を通って万世橋に向かっていた東京市電13番系統の新田裏停留所は、100m余り西(新宿区役所第二分庁舎北西隅)にありました。
[48580] 2006年 1月 21日(土)01:22:01Shuji_Kamano さん
新宿周辺で思い出すこと
今の紀伊国屋ビルのところに木造2階建ての紀伊国屋とオリンピックというレストランがあって,その横に万世橋,牛込柳町を通ってくる都電13番の角筈終点があった.今の靖国通りのあたりには四谷三光町という停留所があった.それから新田裏です.
都立六中の正式住所は知らないけど京王新宿駅の直ぐ裏で新宿御苑か旭町だったのでしょう.一時渋谷区になっていましたが,最近新宿区に復帰したようです.
小田急南新宿は千駄ヶ谷新田の後,小田急本社前と名のっていました.
歌舞伎町は都立第五高女の跡地で開発して歌舞伎劇場を建てようと言う意図で歌舞伎町と命名された物と聞きました.
西武の軌道線が新宿駅横まで乗り入れていました.
新宿駅は最初一番奥の中央緩行線が7番線でしたが,戦前に8番線になりました.小田急が9-12番線,後から乗り入れた京王線が板張りのホームで13-16番線を名乗っていました.小田急駅の改造で通し番号を止めたようです.
[48626] 2006年 1月 22日(日)19:12:14hmt さん
むかしの新宿追分周辺
[48567] Shuji_Kamano さん
京王線の京王新宿駅はよく利用しました.3番線まであって1番線が急行用でした.

かつて音無鈴鹿 さん[38371]
“電気不足で跨線橋を超えられなくなった伝説の京王線「新宿追分駅」の利用経験は如何でしょう?
との問いかけに対して、[38397]
「四谷新宿駅」を経て「京王新宿駅」になってからの時代(1937―1945)にも残念ながら利用の機会がなく終りました。
と答えたことがありましたが、追分にあった旧京王本社ビルの駅を利用した「時代の証人」(笑)がついに現われました。

京王線は、軌道時代から急行運転をしていたのですか。これは知りませんでした。
現在の新線新宿-笹塚間には 地下の2駅しかありませんが、かつては省線新宿駅前、新町、天神橋、西参道、初台、幡代、幡ヶ谷とたくさんの電停があり、軌道ながら急行運転を必要としたのですね。

[48580] Shuji_Kamano さん
木造2階建ての紀伊国屋(中略)都電13番の角筈終点(中略)四谷三光町(中略)新田裏

紀伊国屋書店は、内装に大谷石を用いた建築でした。その横の角筈終点から四谷三光町、新田裏へと通じていた市電の路線跡は、音無鈴鹿 さんの自転車通勤ルートになっているようです[44128]
新田裏という地名についても、[43993] matsu さんを発端にいくつかの記事があります。

これらを含めて、角筈・三光町・新田裏に関する記事 をまとめてみました。
アーカイブズ「新宿・角筈散歩」に収録済みの記事も、多数含まれております。

都立六中の正式住所は(中略)一時渋谷区になっていましたが,最近新宿区に復帰したようです.

東京府立第六中学校の旧々校舎は、1923年関東大震災の半年前に、天竜寺の東側・当時の東京市四谷区内藤町に落成しました。1947年東京都新宿区になった翌年1948年度から新制高校になり、1950年にナンバースクールから東京都立新宿高等学校に改称しました。

1969年に、天竜寺の南側に新築した校舎に移転。ここは、新宿御苑の一部の使用を許され、グランドとして使っていた隣接地です。
昔の地図に描かれていた “ゾウリムシのお化け”のような池[44701] のある谷筋 「千駄ヶ谷」 は、北西の玉川上水からの分水で養われており、この水路が内藤新宿と千駄ヶ谷村、現在の新宿区と渋谷区の境界になっています。
天龍寺と旧々校舎は新宿区でしたが、1969年の校舎の位置は渋谷区側だったので、「渋谷区にある新宿高校」が出現しました。町名は既に渋谷区大谷戸町から千駄ヶ谷六丁目に変った後かな。所在地名と名称のねじれについては、新宿タカシマヤ[36207]の先輩格です。

2004年に3度目の新校舎ができて、またグランドと校舎が入れ替わり、正門も甲州街道側に移り、学校の所在地表記も新宿区内藤町に復帰したというわけです。


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