駅前駅の「新宿西口駅」から発展した話題の新宿付近の地名をもう少し。
先ず「新宿」と「内藤新宿」
「新宿」の由来は、日本橋から4里も離れていた甲州街道の高井戸宿までの中間に設けられた(1698)「新しい宿場」ですが、実は江戸時代初期に江戸城の白壁に大量に使用された石灰の運搬路であった青梅街道には、それ以前から「内藤宿」があったようです。「内藤」は、この地に下屋敷があった信州高遠藩主内藤氏から。
では、元禄11年に浅草の高松喜六らが上納金5600両を幕府に納めてまで申請、獲得したものは何か。やはりビッグビジネスにつながる営業権でしょう。“民営化”による交通ターミナルの活性化。先日開港した中部国際空港「セントレア」の元禄版です。
こうして誕生した
「内藤新宿」。目論見通りに繁盛したものの、20年後には「風紀の乱れ」を理由に突然廃止されます。享保の改革の一環ですが、その背景には新興勢力の抬頭に危機感を抱いた「吉原」「品川」など既存業界の思惑があったはずです。このへんのビジネス事情は現代も同じ。「風紀の乱れ」が登場するあたりは、さすが「歌舞伎町」の先達です。
内藤新宿の再開は、申請しては却下されを繰り返し、田沼意次が権力者になった後の 1772年にようやく実現しました。
「角筈」
内藤新宿の西隣が角筈村。明治13年の迅速測図には町村境界線が入っていないのですが、おおまかには、東の追分を頂点・西の十二社通りを底辺として、甲州街道と青梅街道とに挟まれた三角形の地域と考えてよいでしょう。まさに新宿駅と新都心とを含む「現在の新宿」そのものです。
更に詳しく、現在の新宿駅東口付近を五千分の一図で追うと、三越・大塚家具までが角筈村であったと思われます。
上野からの日本鉄道が、赤羽から山の手経由の連絡線により官設鉄道の品川との間を結んだのが、今から120年前
[38325][38338]。この鉄路が角筈村の東部「字渡辺土手際」を南北に貫き、「内藤新宿」停車場が作られました。2年後に「新宿」停車場に改称。つまり、新宿駅の東も西も両方とも角筈村です。
[38314]Issie さん
昔々の新宿駅案内図には,西口が「角筈口」と書いてあったような気がします。
うーん。これは記憶にございませんが、「角筈口」では東か西かわからないように思います。
実は、hmtが「角筈」という地名から真っ先に頭に浮ぶのは、新田裏から現在は遊歩道公園になっている専用軌道を通って紀伊国屋の西側に入っていた東京市電13番系統(角筈―万世橋間)のターミナル、つまり東口なのです。このあたり、青梅街道の北側も角筈村(字五十人町)。
新宿駅の駅舎と乗降口も、時代と共に何回も変っていますが、西口が「青梅口」、南口が「甲州口」だった時代は はっきりと記憶にあります。この名は、乗降場が2つあった
[38292]歴史から、自然のなりゆきです。
「淀橋」と「柏木」
[38294] N-H さん
住所としての「新宿区北新宿」のあたりは柏木といったほうがイメージがわきます。
[38307] sutekinaおじ さん
新宿には「淀橋」という立派な地名がありましたが、今では使われることはないようです。
角筈村の三角形の北西端、青梅街道が神田上水を渡るところに架けられた橋が「淀橋」ですね。明治13年測量の迅速測図では、淀橋は橋の名として載っており、付近に郡役所の記号がありますが、まだ地名にはなっていません。
1889年に角筈村と柏木村が合併し、淀橋町となり、1932年には更に広範囲な淀橋区に出世しましたが、戦後の1947年に「新宿」に区名を奪われてしまい、今はカメラ屋により名を知られる状態になるという栄枯盛衰を味わいました。
「千駄ヶ谷」と「代々木」
[38314]Issie さん
新宿駅施設の南半分が属していたのは旧千駄ヶ谷町の区域でした。だから,「代々木」駅も,有名な予備校も,むかし「代々木」の符丁で呼ばれた某政党も,本来の「代々木」ではなく「千駄ヶ谷」にあったのでした。
「千駄ヶ谷」と「代々木」の行政上の境界も、郡部時代の谷筋から山手線沿いへと東遷していますが、現実は、更に東の明治通りに及んでいるのでしょうね。最寄駅名の影響大。
渋谷区に「新宿高島屋」というのも,さすがにちょっと戸惑いますね。
渋谷タカシマヤ
[36207]だったらもっと戸惑うでしょう。
最後に、新宿関連で 復活を期待したい地名が、「十二社(じゅうにそう)」。