都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[4082]2002年10月22日
Issie
[20717]2003年10月7日
白桃
[20736]2003年10月7日
Issie
[20740]2003年10月7日
YSK
[20742]2003年10月8日
ズッキー
[21020]2003年10月14日
ズッキー
[39455]2005年4月6日
百折不撓
[39460]2005年4月6日
百折不撓
[39508]2005年4月8日
百折不撓
[39531]2005年4月9日
Issie
[39541]2005年4月10日
ズッキー
[39561]2005年4月10日
Issie
[41897]2005年6月4日
ズッキー
[56960]2007年2月22日
グリグリ
[75499]2010年7月18日
hmt
[79386]2011年9月26日
Issie
[79395]2011年9月27日
Issie

[4082] 2002年 10月 22日(火)21:45:56Issie さん
岐阜
[4061]
>岐阜) --県庁×/市役所△/旧中系高校×/------/国立大附属小中学校×

都市としての連続性という観点から,私は「城下町」を近世のものに限定したいと思うのですが,その点で岐阜はどうでしょう。

確かに「岐阜」は美濃を制圧した織田信長がその拠点として建設した城下町なわけですが,関ヶ原の後,西軍に立った城主の織田秀信が改易されて以降,岐阜城は廃城となっています。これをもって,“城下町”としての岐阜の歴史は途切れた,と考えるべきだと思います。
同じ織田信長が建設した近江(滋賀県)の安土は「城下町」としては扱われませんよね。本能寺で織田政権が瓦解して安土は“城”としての地位を失ってしまったわけですが,その点,関ヶ原後の岐阜も同様だと思います。
廃城となった岐阜に代わって濃尾平野北部の中心都市としての地位を取り戻すのが中山道沿いの宿場町でもある「加納」です(戦国時代,守護大名の土岐氏の居城があったのが加納でした)。以来,幕末に至るまで譜代中堅大名の城下町として,加納が美濃の主要都市の1つとしての地位を保ちました。

岐阜が美濃地域の中心として“復活”するのは1871年の廃藩置県後,同年11月の全国的な府県統合で「岐阜県」が発足し,暫定的に笠松に置かれていた県庁が隣接地区の今泉村に移転してきた1873年のことです。
この段階で「岐阜」と「加納」とはお互いに独立した都市でした。
東海道本線が開通したとき,「岐阜駅」が当時の「上加納村」に設置され,岐阜と加納の間の地区(つまり,上加納村)の市街化が始まり,1903年に上加納村は岐阜市に編入されました(上加納村のうち岐阜駅前地区は1889年の市制施行の際に岐阜市の一部となっています)。
加納城下町の本体を占める「加納町」が岐阜市に編入されたのは1940年のことです。

もし岐阜を城下町として扱うなら,ぜひ「千葉」も城下町にカウントしてほしいなぁ。
鎌倉時代以来,下総を支配した千葉氏の“城下町”(もちろん,戦国以降の「城下町」とは性格が違うのは確かですが)。戦国時代,関東の騒乱で衰退した千葉氏と一緒に衰退した千葉だけど,その点,幕末ギリギリに城下町として復活した「山口」(大内氏と一緒に衰退した)と五十歩百歩では。
千葉にもしっかり城郭の跡は残っています(現在,亥鼻(いのはな)公園にある近世天守閣風の郷土資料館はもちろん偽者ですが)。というより,千葉・亥鼻城はきれいに保存された中世城郭の1つとされています。
現在の千葉大医学部(旧制千葉医科大学)と亥鼻公園の部分が中世千葉亥鼻城の中核部分ですね。そして,公園内の県立中央図書館および文化会館の区画が旧制千葉師範学校,つまり千葉大教育学部の敷地です。もちろん,附属小中学校もここにありました。
1960年代半ばに教育学部と附属学校が西千葉のキャンパスに統合されて現在に至ります。

[4062]
>とりあえず学校側が主張する継承を公式な沿革と
>するべきでしょう。

もちろん,それでいいんですけどね,
ノーベル賞をとったからといって,県立横須賀高校が全校集会を開いた,というのには私は何か違和感を感じました。60年前の旧制中学の卒業生と今の高校生と,どれほど関係があるんだろう。
…ま,「伝統校」に縁のない者の僻み,といえば僻みなんですけどね(でも,雑魚さんの一覧の中に私の母校も一応ありました。有名な卒業生って,俳優の高橋英樹しか知らないんですけどね)。
[20717] 2003年 10月 7日(火)07:13:17白桃 さん
加納性の追求
[20716]両毛人さん
ところで、上加納村の編入からけっこう時間が経過してから岐阜市に編入されている加納町自体、複数の自治体との合併を経験しているということはないですよね?
途中から、割り込んですみません。加納町は明治22年(1889)の市町村制度が出来たときには、東加納町と西加納町に分かれておりました。でも、もともと「ひとつの加納」であったのでしょうか?1920年国勢調査で加納町は10082人を数える大きな町でしたから、当時から岐阜市と市街が繋がっていたのでしょうね。
[20736] 2003年 10月 7日(火)21:44:29【4】Issie さん
上加納村岐阜駅前
[20726] 深海魚 さん
長らく 「ペギー松山 / モモレンジャー」 と混同していました。(笑)

「ゴレンジャー」は見てないけれど,ペギー葉山といえば,そりゃあなた,「緑のおばさん/ウルトラの母」ですよ。

[20716] 両毛人 さん
[20717] 白桃 さん

町村制施行後の「加納」の変遷は次のとおりです。

【上加納村】
1889(明治22).7.1上加納村の一部をもって「上加納村」を編成
(岐阜駅および駅前通・安良田町は岐阜市)
1903(明治36).4.1岐阜市へ編入

【東加納町・西加納町・下加納村 →加納町】
1889(明治22).7.1加納町のうち東部20ヵ町をもって「東加納町」を編成
加納町のうち西部6ヵ町をもって「西加納町」を編成
下加納村をもって「下加納村」を編成
1897(明治30).4.1東加納町・西加納町・下加納村 が合体
1940(昭和15).2.11岐阜市へ編入

市制・町村制施行直後の1891(明治24)年測図の地形図(の復刻版)によれば,
・「東加納町」と「西加納町」は,実際には“北”側の中山道に沿った「東加納町」,“南”側のお城とその周辺の「西加納町」という位置関係になっています。
・町村制施行以前の(旧)上加納村のうち,「岐阜市」の一部となったのは,岐阜駅構内と岐阜市街へのびる通り沿い,および名古屋から岐阜へ通じる街道に沿った街区(安良田町[のうち東海道線以北])の区域のようです。1891年段階で既に市街化していて,中心部と市街地が連続しています。
・東海道線の南側と,安良田町の東側が,町村制による「上加納村」を構成しますが,1891年の段階では安良田町のすぐ東側の通り沿い以外は市街化されていません。
・当然,「岐阜」と「加納」とは全く別個の市街地を形成しています。

1920(大正9)年測図の地形図では,既に開業している笠松への軌道線(現在の名鉄本線の一部)を軸に,(狭義の)岐阜と加納の間の区域の市街化が始まっています。
(ついでに,元々,岐阜都市圏の私設鉄道網では[新]岐阜から笠松を経て竹鼻・大須方面へ向かう路線が「本線」でした。一方で,尾張[愛知県]側では,名古屋[押切町]から枇杷島を経て津島へ向かう路線がいち早く建設され,次いで,弥富から津島・一宮を経て奥町[尾西市]から木曽川橋の手前まで延びる路線,つまり現在の名鉄尾西線が早く整備されました[木曽川橋~玉ノ井間は統合後に廃止]。枇杷島から新岐阜へ向かう現在の名鉄本線は,昭和になってこの地域の各鉄道が統合されてから整備された新しい路線です。)

全体を俯瞰すると,次のようになると思います。

・大雑把な地域の把握として,稲葉山下・長良川南岸の市街地を(狭義の)「岐阜」と呼ぶ。
・「岐阜」に南隣する区域を,大雑把に「加納」と呼ぶ。
・加納は,北側の「上加納村」と,南側の「下加納村」に分割される。
・江戸時代初期以降,「加納」に大名が配置された。
・加納に入封した大名は,この地位の南側「下加納地域」に築かれた城郭を本拠地とし,「加納城下町」を整備した。
・この城下町区域を,「上・下加納村」から特に分けて「加納町」とする。
・城下町のうち,“町人地”はこの町を通過していた中山道に沿って配置した。
・一方で,中山道筋の南側,お城に近い区域は武家屋敷地とした。
・明治に入り,中山道沿いの町人町と,お城の近くの武家屋敷地区とは,それぞれ別個に行政末端の区画を構成する。
・1889(明治28)年の市制・町村制施行に際し,旧城下町「加納町」を分けて,中山道沿いの町人町区域を「東加納町」,お城の近くの武家屋敷地区を「西加納町」とした。
・城下町・加納を取り巻く,“農村”としての上・下加納村は,岐阜市街の延長区間として既に市街化した岐阜駅周辺を分離して,そのまま“村”となった。
・そんなこんな,全部ひっくるめて1940年の大合併で,この地域全域が「岐阜市」となった。

考えてみれば,
戦国末期に美濃1国を「乗っ取った」斎藤道三が稲葉山城に拠り,麓の「井ノ口」に城下町を整備するまで,戦国後半,美濃国の守護大名であった土岐氏が本拠を置いたのは加納でした。
それが斎藤氏の支配(前にも触れたことがありますが,斎藤道三[利政]の「国盗り物語」は,実は彼一代ではなく,彼の父親から2代にわたる乗っ取り工作の結果,という考え方が最近では有力です)下で「井ノ口」に中心が移り,斎藤氏を滅ぼした織田信長がこの地を新たな本拠とし,「岐阜」と改名して以来,美濃南西部の中心として成長したのでした。
ところが,徳川政権(江戸幕府)の支配下では,岐阜城とその城下町が廃棄され,かわって加納が再び美濃西部の行政中心として整備されたわけです。
これに対して,県庁設置を節目に岐阜が“巻き返し”に出て,結局昭和初期までに“加納に対する優位”を確立しました。結果,加納は岐阜市に編入されることとなります。

かくて,すべてをひっくるめて,最近500年間を通した 岐阜 vs. 加納 の“熾烈”な競争は,全般に岐阜優位に進んでいるように感じます。

1920年国勢調査で加納町は10082人を数える大きな町でしたから、当時から岐阜市と市街が繋がっていたのでしょうね。

1920年の段階ではまだ,岐阜市街と加納市街とは別個の市街地を形成しています。
ただ,この頃から岐阜から笠松方面へ敷設された電鉄線を軸に市街化が進行し,高度成長が終結する1970年頃までに「駅裏」たる加納側の市街化がほぼ完了します。
1920年段階の「加納町」の人口は,近世以来の「城下町 兼 中山道の宿場町」という,二重の役割を反映したものではないか,と思います。
[20740] 2003年 10月 7日(火)22:57:23【1】YSK[両毛人] さん
憧憬、「複核都市」岐阜
Issieさん、詳細なお話、ありがとうございます。

江戸期に行政中心としての地位を加納に明渡していた狭義の岐阜の町は、どのように存立してきたのでしょう。興味深いです。

加納の町も、城下町としての面、中山道の宿場町としての面、いろいろと味わいがあるように思えます。加納城跡には石垣も残っているようですね。ただ、手許にある「中山道を行く」という本の加納宿のくだりを見ると、「当時を偲ばせるものはほとんど無い」とありますので、仙台における芭蕉の辻界隈のように、拡幅された広幅員の道路沿いを中心に都市化が進み、それらのあわいの相対的に落ち着いた都会の風情なのではないのかな、と想像します。

長良川北岸の長良の町を含め、「複核都市」岐阜を歩いてみたくなりました。また1つ、目標がみつかりました。
[20742] 2003年 10月 8日(水)00:07:38ズッキー さん
日本一・・・
Issieさんの詳細な話は、元地元民ながら、大変参考になりました。

で、思い出しついでに書きますが、明治6年に県庁が笠松から岐阜町近郊の今泉村に仮設で移り、翌年に小熊村に庁舎が竣工!ということは明治22年の合併まで、岐阜町に県庁が無いのに、岐阜県と名乗っていたんですね!昔の人はおおらかだったのかな?他にもそんな県庁所在地があったんでしょうか?
現在、岐阜市が日本で一番、県庁と県庁所在都市市役所が離れているのは、戦後の市長と知事の、喧嘩の賜物のようですが・・・
[21020] 2003年 10月 14日(火)00:21:02ズッキー さん
元、岐阜県民だから、それしか知らないのぉ♪
郊外に移転する例は、例えば熊本県庁(S44)、新潟県庁(S60)、茨城県庁(H11)、石川県庁(H15)などがありますね。
岐阜県庁はS41年に、車社会対応(それ以外の人は無視)の、ど郊外の、県全体からみても偏る方向に移転しましたが、道路が整備されて、かえって県内の各地から来やすくなったそうです。
当時は岐阜市が県庁に従い移転しようとしたのに、移転予定地を県庁が買収して、郊外移転できなかったとか、岐阜市が県庁の改築に協力しなかったので、県庁が郊外に行く羽目になったとか、県庁が市内で一番高いビルでありつづけるために、岐阜市の都市計画変更を認めず十六銀行本店ビルが低くなったとか、さまざまな都市伝説が生まれました。

[20997] 深海魚 さん

岐阜県の御三家は岐阜・大垣・高山かな。四天王は岐阜・大垣・高山・多治見だと思うのですが、人によっては多治見の代わりに、各務原や美濃加茂を推されるかも知れませんね!
[39455] 2005年 4月 6日(水)20:36:50百折不撓 さん
あれれ?
[39423]で「西濃圏域合併協議会」と「西濃圏域1市2町合併協議会」のホームページへリンクができない旨を書かせていただきましたが、「西濃圏域1市2町合併協議会」の方はホームページが残っていたのですね。

個人的には、合併してしまったり、合併協議会が解散してしまったりしてもホームページは残しておいていただきたいと思います。

可児市・兼山町合併協議会は、合併協議会のホームページのトップページに3月31日に解散した旨が書いてありました。
また、「平成17年 3月20日に岐阜県議会で合併議案が可決されました。」とありますが、これは誤りですよね。「市町村合併情報」にあるとおり、3月23日可決だと思います。
3月20日は日曜日で、しかもカレンダー的には3連休の中日ですよ(笑)。
合併協議会の事務局に連絡した方が良いのでしょうか?

それから、市町村役場間の距離の短いところが話題になっていますが、岐阜県内でもどうかと思い地図を見ていました。
その結果、近いところでもせいぜい2キロくらいで全国ランキング(?)に登場するようなところは無かったのですが、一つ気が付いたことがありました。

岐阜県庁は、落書き帳をご覧の方々ならご存知の通り岐阜市内にあります。
しかし、距離的には岐阜市役所よりも、お隣の瑞穂市役所・柳津町役場の方がずっと近いところにあります(笠松町役場・墨俣町役場・岐南町役場も良い勝負かもしれません)。
このように、県庁所在地の市役所よりも、他の市町村役場に近いところに位置する県庁は他にあるのでしょうか?
[39460] 2005年 4月 6日(水)22:20:57百折不撓 さん
県庁と市役所
[39457] くは さん
でも昔の方が県庁と市役所が近い傾向があるかも…。
岐阜県も昔は県庁と市役所は近かったようです。
私がすぐに思いつくのは、愛知県庁と名古屋市役所ですが、県庁と市役所が隣同士のところも結構あるのではないかと思います。

法律的にも地方自治法第4条第2項に
前項の事務所の一を定め又はこれを変更するに当つては、住民の利用に最も便利であるように、交通の事情、他の官公署との関係等について適当な考慮を払わなければならない。
とありますから、県庁と市役所に限らず国の機関などとも近い方が良いのでしょうね。
岐阜のように車社会となってしまっては、距離はあまり関係無いのかもしれませんが。

岐阜県庁の場合は、昭和41年ごろに今の位置に移転しているようですが、当時の知事は、現在の瑞穂市出身です。
[39508] 2005年 4月 8日(金)19:16:38百折不撓 さん
いろいろ
[39484] 般若堂そんぴん さん
でんしゃのこものはくぶつかんによれば,駅名票には
市役所
Shiyakusho (City Hall)
(県庁
Prefectural Office)
とありますね(県庁[改行]Prefectural Officeがひとつのかっこに入っています).
どこまで信憑性のある話かは定かではありませんが、こんなホームページを見つけました。
本当に愛知県議会議員の苦情により「県庁」「Prefectural Office」の文字が入ったのなら面白いですね(笑)。

[39490] wasi さん
♪県庁と市役所は、なぜお隣りさんなの~?
それは、城下町だから~♪
確かに県庁所在地の市は、城下町が多いですね。
と言うか、城下町で無いところの方が少ないでしょうね。

岐阜市は城下町ではありませんが、元々は県庁と市役所は近いところにありました。
岐阜市司町というところを中心とした地図なのですが、「岐阜総合庁舎」となっている建物が昔の県庁で、朝日新聞の下の緑になっている部分(現在は公園になっています)の位置に市役所があったようです。

県庁・市役所・NHK・ラテ兼営民放、の4つが目と鼻の先にある県はかなり多いはず。
官有地だった場所なので建てやすかったんだと思います。
NHKは少し離れていますが、マスコミがあって、(去年移転しましたが)大学の医学部と付属病院、さらに南には裁判所もありますので、元々官有地だった地域かもしれませんね([39494]EMM さん のようにきちんと調べられなくて、すみません)。

[39500] N-H さん
大都市圏のほうが自分のまわりの自治体のことを知らない傾向にあることあるかもしれませんね。
大都市圏は、生まれてから死ぬまで同じところに住みつづける割合が低いのではないでしょうか。
それから通勤・通学、買い物、レジャーなどで、市町村(都府県)を越えて移動することも多いと思います。
それゆえに、自分のまわりの自治体のことを知らない傾向があるのだと思います。

[39501] 山中鹿次 さん
私の地域でも夕方6時台のニュースは、「東海地方」のニュースですね(岐阜放送はあまり見ませんし)。

[39505] トライランダー さん
[39506] miki さん
面積日本一で、人口が10万人を切る高山市が旧町村の区域でしか指定されないのに不思議ですね。
[39531] 2005年 4月 9日(土)20:50:23Issie さん
城下町か否か
[39508] 百折不撓さん
確かに県庁所在地の市は、城下町が多いですね。
と言うか、城下町で無いところの方が少ないでしょうね。

[39524] 中島悟 さん
城下でないところ・・・長崎、宮崎、山口、あと沖縄(首里じゃなく那覇)もいいのかな?結構あるよ。

確認してみましょう。

【類型1】城下町A ---“江戸時代”に大名領(藩)の中心都市であったところ(支藩も含む)
盛岡市,仙台市,秋田市,山形市,福島市,水戸市,宇都宮市,前橋市,東京,富山市
金沢市,福井市,名古屋市,津市,和歌山市,鳥取市,松江市,岡山市,広島市,徳島市
高松市,松山市,高知市,福岡市,佐賀市,熊本市,大分市,鹿児島市

【類型2】城下町B ---江戸時代初期に大名領の中心であったことがあり,幕府直轄となって以降も中心都市としての機能を維持したところ
甲府市,静岡市,大阪市

【類型3】準城下町 ---大名領の中心都市に類するところ
京都市

【類型4】非城下町 ---“江戸時代”に大名領の中心都市すなわち「城下町」ではないところ
札幌市,青森市,さいたま市(浦和),千葉市,横浜市,新潟市,長野市,岐阜市,大津市
神戸市,奈良市,山口市,長崎市,宮崎市,那覇市

江戸(東京)は言うまでもなく,将軍を主君とする徳川家中の総城下町ですね。
「朝廷」を天皇を主君,公家をその家臣とみなして大名家中(藩組織)に見立てれば,京都も機能的には「城下町」に準ずるものと見なせなくもなさそうですが,もちろん普通は「城下町」とはされません。
首里も京都に準ずるものとみなすことができますが,米軍統治下の1954年に那覇市に編入されるまでは那覇とは別の都市でした。

【類型4】のうち,以下の都市は後の合併によって旧城下町ないしは陣屋町を市域に含むことになったけれども,中心市街自体は「城下町」ではありません。
 さいたま市(岩槻),千葉市(生実),横浜市(金沢),長野市(松代),岐阜市(加納)
 大津市(膳所),奈良市(柳生)

「城下町」をどのように定義するかによってこのあたりの判定は変わってくるでしょうが,一般に理解されている公約数的な解釈は
・領域全体にわたって領主(大名)の直接的支配が確立し
・家臣が個々の領地から離されて城下への集住が進み
・領域内の主要な商人・職人も城下への集住が求められ
・それらの居住区が計画的に配置されて
その結果
・領域全体の政治・経済の中心としての機能を確立した都市
と言うようなものであるように思います。

このような都市は戦国時代末期から現れ始めますが(美濃の斎藤氏の支配拠点である井ノ口,すなわち後の岐阜など),本格的に全国に建設されたのは徳川氏の支配の下に幕藩体制が確立してからで,その意味ではすぐれて江戸時代のものです。

岐阜は関ヶ原で西軍についた織田秀信が領地を没収されて以来,廃藩置県に至るまで大名が配置されることはなく,その意味で「城下町」としての機能を失いました。
山口も関ヶ原に参加した(でも戦闘に参加していない)毛利秀元が長府に移されて以降「城下町」としては廃れました。文久3(1863)年に萩から藩庁機能が移されて行政中心として復活しますが,江戸時代の「いわゆる城下町」には含まないほうがいいように思います。

ま,要するに,
現在残っている県庁所在都市の中で,小柳ルミ子の歌で連想されるような「いわゆる城下町」ではない都市も,意外に多いよ,
という結論でよろしいかと思います。
[39541] 2005年 4月 10日(日)01:02:03ズッキー さん
驚きの市民
ばんやりROMってしまい、久しぶりの書き込みになってしまいましたが、流して置けない話題があったので(笑)

[39531]Issie さん
岐阜は関ヶ原で西軍についた織田秀信が領地を没収されて以来,廃藩置県に至るまで大名が配置されることはなく,その意味で「城下町」としての機能を失いました。

岐阜がいわゆる城下町では無いと、定義され、岐阜市生まれのズッキーは、ビックリ!大多数の岐阜市民も、いわゆる城下町だと思い込んでいるでしょう(笑)
宇都宮市が城下町なのに?
岐阜でお城と言えば、加納城でも黒野城でも鷺山城でも無く、岐阜城なのに!!
その意味で言えば、あの、いかにも城下町な地名の数々は、普通の城下町以上の歴史を超えて残っているのですね。
[39561] 2005年 4月 10日(日)11:40:26Issie さん
鎌倉は「中世都市」か?
[39541] ズッキー さん
大多数の岐阜市民も、いわゆる城下町だと思い込んでいるでしょう

つまるところ,「城下町」をどのようにとらえるか,ということなのです。

[39531] で触れたとおり,井ノ口(→岐阜)は最も早い時期に出現した「城下町」の1つです。
けれども関ヶ原後,岐阜城は廃棄され,主要建築物は加納城に移されました。江戸時代を通して金華山上にあったのは「城址」であって,「現役のお城」ではありません。
岐阜城址にも麓にもお殿様が住まうことはなく,岐阜は藩政の中心ではなく商業都市として江戸時代を過ごしました。
その意味で,岐阜は少なくとも「近世城下町」ということはできなかろうと思います。

同じように江戸時代初め,こちらは豊臣氏の滅亡後ですが,城の廃棄された伏見も江戸時代を「城下町」としてではなく,京都の外港としての商業都市として過ごしています。けれども町名に豊臣時代の記憶をとどめていることは,少し以前にここで一連の書き込みが行われたとおりですね。

多くの住民が城下町と「思い込んで」いる,というのは,現代の岐阜市が「城下町」であることに自らのアイデンティティを求め,セールスポイントとした結果だと思います。
現在,金華山の上に建っている建物は1956年に350年ぶりに建てられた鉄筋コンクリート造りのものですね(中世千葉氏の支配拠点として関東有数の都市に発展したとは言っても,あるはずのない天守閣を亥鼻台に建ててしまった千葉よりは,ずっと歴史に沿ったものではありますが)。
「城下町・岐阜」としてのアイデンティティは,ある意味,「作られた歴史」というべきものかも知れません。

ところで,鎌倉市では現在,中世以来の歴史を持つ都市として世界遺産への登録をめざす動きがあります。
もちろん,鎌倉は12世紀末以来,室町時代前半まで武家政権の中心地として繁栄し,それを伝える歴史的事物が現在も多く存在する事実を確認した上で,
それでは,鎌倉は「中世都市」と呼べるのか,考えてみましょう。

鎌倉は,足利政権が幕府を京都に置いて以降も,関東の中心として鎌倉公方と関東管領を頂く“小幕府”の所在地として栄えました。けれども,鎌倉と京都の対立,鎌倉公方と関東管領の対立,関東管領上杉氏の分裂・抗争などを通じて,関東は京都よりも早く騒乱の時代を迎えました。抗争の中で鎌倉は政治的求心力を急速に失い,都市として衰退していくことになります。
戦国時代,(後)北条氏が関東での支配を確立したとき,その「首府」の地位にあったのは小田原でした。そして北条氏の滅亡と徳川氏の入府によって,その地位は江戸に移ります。

江戸時代,7つの切通しの内側を主なエリアとする「狭義の鎌倉」には,極楽寺・坂ノ下・長谷・乱橋材木座・大町・小町・扇ヶ谷・雪ノ下・西御門・二階堂・浄妙寺・十二所の12ヵ村がありました。
これらの村は江戸時代後期にはいずれも幕府直轄領として,一部が大寺社の領地としてあてがわれるという形で,奉行支配の「都市」ではなく代官支配の「農村」として支配を受けていました。
実際,明治半ばの地図でも,長谷に門前町のような街並みが見られ,鶴岡八幡宮門前の雪ノ下に小集落がある程度で,鎌倉に広がっているのは純農村的な土地利用です。
「明治の大合併」に始まる近代市町村制を,鎌倉は「西鎌倉村」「東鎌倉村」の2つの“村”からスタートしました。
明治・大正期に「鎌倉郡」の郡役所が置かれたのは鎌倉ではなく戸塚です。昭和になって戸塚を含む鎌倉郡の北半分が横浜市に引き剥がされた後,残った南半分は1948年までに「鎌倉市」に統合されますが,広域行政上は藤沢を中心とする「高座地域」または「湘南地域」と一体のものとして扱われ,現在に至ります。
鎌倉が「都市」として復活するのは,保養地として注目され,横須賀の海軍将校の住まいとして人々が流入し始めた明治末期以降のことで,つまり,現在の鎌倉市は近代以降に建設された都市です。

このあたり,古代以来ずっと「都市」でありつづけた京都や博多などと根本的に違うところです。
鎌倉には「中世都市」としての“記憶”が多く残されているけれど,現在の鎌倉は「中世以来」の都市ではなく,その間に大きな断絶が存在します。
それを「中世都市」ととらえるかどうかは,きちんと議論されてしかるべきものと考えます。

岐阜が「城下町」であるか,という議論も,同じようにあり得るように思います。
[41897] 2005年 6月 4日(土)11:34:30ズッキー さん
忘れた頃に書き込む趣味
[41841]N-H さん
「永田町」といえば政界を表し、「霞ヶ関」といえば日本の官庁を象徴するような。

以上は東京の都心に限っての考察でしたが、他の都市でもこういう考察は可能なのでしょうか。
わが岐阜で通じるのが、「薮田」といえば「岐阜県庁」を指すようです「ケンチョウ」より「ヤブタ」の方が、言いやすいからでしょうか?出来た当時には県庁関連施設以外、目立つものが無かったからでしょうか?
[56960] 2007年 2月 22日(木)21:48:39オーナー グリグリ
瑞穂市役所は岐阜市役所よりも岐阜県庁に近い
[56903] 2007 年 2 月 18 日 (日) 10:30:45 geo さん
[56452]市役所が県庁所在地の市役所よりも県庁に近い市 瑞穂市
マピオンの「キョリ測」で調べてみました。
岐阜市役所~岐阜県庁 約4999m
瑞穂市役所~岐阜県庁 約2833m
半分近くも距離が違うとは・・・意外でした。
意外に感じていただきありがとうございます。私もこの事実を最初に知ったときには、おっ、という感動がありました。第九回全国の市十番勝負問八の共通項「都道府県庁から直線距離で最も近い市役所がある(当該都道府県庁所在地の市役所は除く)」に該当する47市のうち、瑞穂市は唯一カッコ内の但し書きが不要なんですね。[46635]に全都道府県の測定結果を書きましたが、当時はまだマピオンのキョリ測がなかったので国土地理院の距離計算プログラムを利用しています。当然ですが測定結果はほぼ同じになっています。キョリ測があれば検証も楽でしたね。
[56934]で k-aceさんにも意外性を感じてもらいました。(謝々
[75499] 2010年 7月 18日(日)23:50:38【1】hmt さん
笠松町のあゆみ
[75486] オーナー グリグリ さん
白山市と同じような生い立ちを表現した図を掲載している自治体ページを集めてみたいと思います。

[75497]で話題にした 岐阜県羽島郡笠松町に 笠松町のあゆみ がありました。

明治4年11月22日に 美濃73万石を管轄する岐阜県が成立しましたが、当初の庁舎には旧笠松県庁(遡れば江戸幕府の笠松陣屋)の建物が使われました。
「笠松にあった岐阜県庁」は、この落書き帳の中でも何回か話題になっていますが、統合当初から「岐阜県」を名乗っていたということは、岐阜付近への移転が既に予定されていたからでしょう。

このことは、埼玉郡岩槻への県庁移転が予定されていたために、旧浦和県の庁舎(浦和は足立郡)を使用しながら「埼玉県」を名乗った前例を思い出させます。[20917][22470]
埼玉県の場合は、太政官布告に“県庁岩槻”と明示されていながら、そのまま浦和に居座ってしまったのでした。

岐阜県を置く太政官布告は、県庁所在地を岐阜とも笠松とも示していませんが、県名そのものが“県庁岐阜”を暗示しており、笠松は便宜上の仮庁舎所在地にすぎなかったと思われます。
岐阜町に隣接する今泉村への県庁移転が実際に行われたのは、明治6年でした[4082]

県庁のことはさておき、「笠松町のあゆみ」に戻ります。
町村の変遷はこの表に記録されているのですが、明治30年(1897)に行われた郡変更については、無視されています。
「岐阜県の明治30年」という切り口は、[70820]で書いたこともあります。
当サイトの変遷情報では、羽島郡設置 についての詳細な情報も記録されています。

現在では住所を記す時くらいしか出番のない「羽島郡」ですが、「笠松町のあゆみ」という歴史的切り口のページなのですから、かつて存在した「羽栗郡」と共に、郡名ぐらいは記録しておいてほしかったと思います。
[79386] 2011年 9月 26日(月)22:40:30Issie さん
「日本橋」とは首都高の高架橋のこと?
[79382] ペーロケ さん
お江戸日本橋に播磨屋橋以上のガッカリを覚えました。

[79383] N-H さん
日本橋については、川を埋め立てまくった都心の中で暗渠にならなかっただけでもまだましだと思うことにしています。

まあ,評判悪いですよね,日本橋。
私も,頭の上を高速道路に押さえつけられている日本橋がかわいそうに思えてきます。
さらには「日本橋」のネームプレートが首都高の高架橋についていてこれが目立つので,ちょっと見,高速道路の方が日本橋に思えてしまいます。
確かに日本橋の惨状はその通りなのですが,一方で首都高の高架橋自体は捨てたものではないという見方もないのではないかとも思います。いや,建設以来半世紀近くも経って高架橋の塗装も色あせてしまった今ではなくて,首都高が建設された1960年代半ばには。
子供の頃,親に買ってもらった学習百科事典。買ってもらったのは70年代に入ってからですが,「上越線」の項目で“清水トンネルの湯檜曽ループに差し掛かる「下り」特急とき”の写真が掲載されているので,編集されたのは60年代半ばなのでしょう。
その美術特集巻の中に“現実世界の中に見られる美”の一つとして,日本橋のお隣の江戸橋JCTで首都高の高架橋が幾重にも重なる曲線美が紹介されています。私は幼すぎてこの当時の空気をリアルタイムでは全く記憶していないのですが(私の記憶の中には渋谷の道玄坂上を走る玉電がぎりぎり含まれています),「高速道路」はオリンピックを控え,本格的なモータリゼーションが始まる直前の東京では東京タワーとともに「現代化」の象徴の一つだったのではないかと想像しています。
それが日本橋の上を覆いかぶさるように建設されても,必ずしも否定的な受け取り方ばかりではなかったのではないかと思います。
その辺り,高度経済成長真っ只中の半世紀前と20年にわたり景気の良さを実感できない現代とでは感覚が違うのではないか,そんな気がします。
だからもう一度言うと,日本橋の上に覆いかぶさる首都高というのも必ずしも悪い評価ばかりではないのではないか,と。

[79385] むっくん さん
#上記の内、岐阜駅及び浜松駅は、当時はそれぞれ岐阜市内及び浜松町内にない可能性が有ります。

手許に市町村制施行後の1891(明治24)年当時の岐阜周辺の地図がありますが,岐阜駅を通過する東海道線の南側のラインが 岐阜市 と 上加納村 の境界になっています。東海道線の北側も含めて周りが 上加納村 の領域である中,北の岐阜市街から駅前に伸びる街路ともう一本東の街道(←当時は大きな街道でしたが,大正以降拡張されることもなく現在は周囲の市街地に埋没しています)に沿った区域だけ 岐阜市 に編入されたのは明らかですね。
1889(明治22)年7月1日の市制施行の際,“岐阜51町”に隣接4村と“上加納村の一部”で「岐阜市」が発足していますが,その“上加納村の一部”というのがこの部分なのでしょう。
1891年の段階で既に岐阜市街から駅前へ続く市街地が形成されつつあります。やがて「岐阜」が「加納」を完全に飲み込んでしまうのですが,最初の位置から移転してきたという現在位置でも,岐阜駅は“本来の岐阜”ではなく,“本来は加納”にあるということになるのでしょう。
[79395] 2011年 9月 27日(火)21:57:59Issie さん
岐阜駅は動く
[79386]
手許に市町村制施行後の1891(明治24)年当時の岐阜周辺の地図がありますが,岐阜駅を通過する東海道線の南側のラインが 岐阜市 と 上加納村 の境界になっています。

と書いたのですが,某所を見るとどうも岐阜駅はこの後1913(大正2)年にもう一度移転して現在位置に来たらしいということがわかりました。
そこで地図を見比べてみると,なるほど,1891年当時の東海道線は岐阜駅付近で現在よりもやや北に膨らんだ経路を通っていて,現在の名鉄岐阜駅(←新岐阜だと思っていたら,いつの間に…)あたりのラインを通っていたのですね。
その某所では,当初の「加納駅」が現在の名鉄岐阜駅付近にあって,1889(明治22)年に「西に移動した」とあり,それが1891年当時の岐阜駅なのですが,どうもこの時の移転はそれほど大きなものではなかったらしい。踏切をはさんで反対側に移動した京成高砂駅や京王調布駅程度のものでしょうか。
いずれにしろ,1891年当時の東海道線ラインは今よりも北の長住町の通りの南側にあったようで,長住町と問屋町の境辺りが当時の岐阜市と上加納村の境界に当たるようです。
1913年に岐阜駅がやや南の現在位置に移転することで岐阜旧市街から伸びる駅前市街地がさらに南に広がったことになるのですね。
そんなわけで,今の岐阜駅はますます“岐阜ではなくて本来は加納”と言える場所にあるわけです。


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