「海を越える道」について書いてみます。
海を越える道というと、オーナーグリグリさんの「海上架橋」
[57062]があります。
最初に例示されているのは、海上をかすめたという感じの
房州大橋。道路の一部が海上を通過する場所を発見する面白さという観点でしょうか。
海上を通過する様子もさまざまです。陸が通りにくかった点は房州大橋と同じでも、はみ出した先が湾ではなく日本海そのものである親不知の北陸自動車道
[57134]。まともに湾口を横切る真鶴道路の岩大橋
[57156]。人工島に渡るための関西国際空港連絡橋(スカイゲートブリッジ)など。
[57062]は隅田川河口の埋立地を連絡する橋にも言及しており、
境界線について のシリーズで海と陸との境界を考える契機になりました。
「海上架橋」は、最初は経県のオプション
[57022]として取り上げられ、
書き込み が続いた後、
[57151]で地名コレクションの方に誘導され、太白さん
[60626]により準備中です。
今回は、海上をかすめたり、湾口・埋立地を連絡する短い橋とは少し異質の、普通には船が使われるような「海を隔てた地域」を結ぶ固定連絡設備の代表的なものを、取り上げてみます。
わが国において この種の固定連絡設備が建設された代表的なルートは、本州と四国とを連絡する3つの橋梁ルートですが、この他に、津軽海峡(鉄道トンネル)、関門海峡(単線並列の在来線・国道・新幹線の各トンネルと関門橋)、それに東京湾横断道路がよく知られています。
この6つのルートは県境でもあり、都道府県隣接数のまとめ
[40541]にも記されています。
ここに6ルート以外で唯一の県境架橋として挙げられているのが岡村大橋。この7号橋を含む
安芸灘諸島連絡架橋 [47126] は、11月18日開通予定の
豊島大橋(3号橋、愛称は県の鳥にちなむアビ大橋)により、呉から愛媛県岡村島までの島伝い海上ルートが開通することになります。
その一部である大崎下島広域農道は安芸灘オレンジライン
[46678]と呼ばれています。
島伝いに更に東に延長して西瀬戸自動車道(しまなみ海道)につなぐルートは構想段階。
【追記】
県境へのこだわりや、近年出現している長大橋の影で、つい書き落としてしまいましたが、架橋技術の上で一時代を画した「海を越える橋」として、西海橋と若戸大橋とを追加しておきます。
1955年 針尾瀬戸
[18561]に架けられた
西海橋 は、当時世界第三位のアーチ橋でした。50年を経た現在、隣に新西海橋が作られています。
若戸大橋が完成したのは1962年9月。洞海湾の両側は(当時)若松市と戸畑市。
北九州市発足 の少し前です。
1989年に2車線から4車線への拡幅工事(歩道廃止)をしましたが、更に沈埋トンネル工法による
新若戸道路 を工事中です。完成予定は2006年春から2年遅れる見通し。もうそれも過ぎていますね。
西海橋や若戸大橋によって培われた長大橋技術は、関門橋(1973)、南備讃瀬戸大橋(1988)、明石海峡大橋(1998)と記録を更新してゆきました。【追記終】
津軽海峡の公海の下を通る青函トンネルの場合は、海底の国有地
[66873]として処理できない部分があり、
自治体の海上境界問題の中では、やや特異な立場にあるものと思われます。閣議決定により特別な編入手続きが行なわれた
[46750]のも、そのためでしょう。
一方、橋梁よりももっと陸続きに近い固定連絡設備として、連絡堤防があります。こちらは埋立地扱いかもしれません。
国内で代表的な連絡堤防は、沖縄県うるま市の平安座(へんざ)島と勝連半島との間 約5kmを結ぶ「海中道路」です。
これは、米軍が水陸両用車を使って、文字通り海中の干潟を通行した頃に由来する名とか。
島民悲願の道路建設は 1961年から具体化し、村人総出の石運びによる基礎作りも、台風被害により断念。
そこにガルフ石油の石油備蓄基地(現在は出光系の沖縄石油)建設計画が登場し、1971年「海中道路」開通。
【追記】全部土手の上かと思っていましたが、
斜張橋 の部分があるのですね。
地図
中海の大根島に通じる
大海崎堤防と森山堤防 は、2005年の合併前は、松江市・八束町・美保関町の境界にありました。