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落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[46981]2005年11月29日
hmt
[31152]2004年7月29日
hmt
[4049]2002年10月21日
TN
[25925]2004年3月8日
恵那山
[31291]2004年8月2日
hmt
[2878]2002年9月2日
YSK
[14592]2003年5月3日
G
[14616]2003年5月3日
YSK
[14588]2003年5月3日
Issie
[41400]2005年5月20日
ニジェガロージェッツ
[46914]2005年11月26日
hmt
[31165]2004年7月30日
みやこ♂
[46924]2005年11月27日
YSK

[46981] 2005年 11月 29日(火)16:59:37hmt さん
地勢図で「県界変更史跡」めぐり
[46937]今川焼 さん
現佐用町の北部(旧石井村・旧江川村)は明治29年までは旧美作国(岡山県吉野郡)でした。

これは知りませんでした。
早速、20万分の一地勢図「姫路」で現状を確認してみたところ、兵庫・岡山の県界と、播磨・美作の国界とは一致していました。

この県界変更が行なわれた明治29年(1896)は、明治23年に公布された「郡制」が全国的に施行の時期を迎えた時代です。
兵庫県についての直接の資料は持っていませんが、埼玉県では同じ明治29年に、中葛飾郡(最近春日部市と合併した旧・庄和町など)が北葛飾郡に併合されました。

実はこの地域は、もともと利根川が太日川として東京湾に注いでいた時代の川筋(庄内古川、現在は中川の一部)の左岸(つまり下総側)でしたが、17世紀に江戸川の開削によって下総台地の本体から切り離されました。しかし、ずっと下総国の一部であり、明治8年に千葉県から埼玉県に移管されて中葛飾郡という名が付いてからも相変わらず下総国でした。
ところが、明治29年になると、わざわざ「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」によって、武蔵と下総の国界を庄内古川から江戸川に移し、埼玉県全体は武蔵国の一部になりました。
このような「国界変更」が行なわれことは、旧国が実質的な地域名称として機能していたことを示しています[36159]

旧美作国吉野郡石井村・江川村が兵庫県佐用郡に移管されたのは、これと同じ明治29年です。県界変更と同時に播磨・美作の国界も変更され、県界との一致を保ったものと思われます。

つまり、兵庫県内には「美作国」の地域はなく、1896年の時点では、摂津(一部)・播磨・但馬・丹波(一部)・淡路の五ヶ国でした。1963年に日生(ひなせ)町の一部(旧・福浦村)編入により備前の一部が加わった後は六ヶ国となり、首位の座を固めています。

旧国が既に実質的な地域名称として機能を失った戦後の県界変更になると、それに伴なって国界を変更して一致させる必要性はなくなりました。
そのために、20万分の一地勢図上ので県界と国界との不一致として「県界変更史跡」が残されることになりました。

“備前国で兵庫県”の備前福河[46914]は地勢図「姫路」で、“丹波国で大阪府”の旧・京都府樫田村[31152]は地勢図「京都及大阪」で県界変更の跡を見ることができます。
“越前国で岐阜県”になった旧・福井県大野郡石徹白(いとしろ)村[31291]は、「岐阜」と「金沢」にまたがっています。手持ちの昭和43年発行の地勢図「岐阜」を見ると、石徹白付近に“白鳥町”の注記はあるものの、13年も前にできた筈の岐阜・福井県境が描かれていません。

同じく1955年に愛知県に越境合併した旧・岐阜県三濃村の一部の「県界変更史跡」は、地勢図「豊橋」にあります。この付近を中心として、北の現県界、東の明智川、南の矢作川、西の国界(表示なし)に囲まれた範囲が“美濃で愛知県”です。

有力メンバーの多い栃木・群馬県界の変更については、さすがにこの落書き帳に多数の記事があります。
地勢図は「宇都宮」で、手持ちの昭和34年版と平成10年版とを比較してみます。
昭和34年版でも桐生市街の対岸にある旧栃木県菱村[14592]は、明瞭な「県界変更史跡」を見せています。この“下野国で群馬県”の地域が、平成10年版になると、北方に更に拡大しています。これが1968年に桐生市に編入された栃木県飛駒村の一部[31165]ですね。

逆に“上野国で栃木県”になったのは、旧・群馬県矢場川村の一部[14616] です。昭和34年版は足利市編入の前年ですから、当然ながら県界=国界であった矢場川の南はすべて群馬県でした。矢場川は、渡良瀬川の旧河道[4618]で、その名も両毛橋が架けられています[25139]。平成10年の地勢図では、栃木・群馬県界が矢場川の少し南に移っているのは良いのですが、矢場川の位置に残るべき国界が消されています。
YSK[両毛人]さんのご指摘[17073] により、国土地理院は昭和56年からの編集ミスを認め、昨年発行の図から訂正されて、「県界変更史跡」が復活したようです。

最後に、“信濃国で岐阜県”の地域。地勢図は「飯田」です。
手持ちの昭和35年発行図を見たら、恵那山の北方に“中津川市”と記され、昭和33年に長野県西筑摩郡神坂(みさか)村の一部が越県合併した時に生れた新県界が、信濃・美濃国界から離れて北東へと描かれているのですが、ほんの一部だけで途切れ、東と北の県界は描かれていません。要するに「県界変更史跡」は未完成状態。
今年の2月に、長野県木曽郡山口村の岐阜県中津川市への編入が実現しました。“信濃国で岐阜県”の地域は、更に拡大したわけです。

“岐阜県でも信濃国”ですから、この地域の馬籠宿で生まれた島崎藤村は、[37786] 北の住人 さんのおっしゃるように、「信濃国出身」と書くことができます。たしかに「岐阜県出身」よりは数等「まし」な言い方です。
しかし、藤村本人の意識としては、彼の生まれた馬籠宿は、「筑摩県」でも「長野県」でも「信州」でもなく、「木曾」だったのだと思います。[37785]参照。
「信濃国」や「長野県」、「岐阜県」のような広域であり、かつ行政の都合で変化してしまう地名を「出身地」に使うことは、誤りではないにしても、「ふるさと」という感覚からはあまり適切でないケースがあるように感じます。

# 実は、県境の話題とは関係ないことなのですが、来年の3月になったら、メンバー紹介記事の「出身地」をどのように記すべきかと悩んでいるのです。
[31152] 2004年 7月 29日(木)15:08:21【1】hmt さん
三国境・分水界
[31111]みやこ さん
地図上での国境で,川にあった三国境からへんなのを2例お示しいたします。(中略)
もう一つは,「三国地名」でなかったのでリストには出ていませんが,「摂津・山城・丹波」の,地図上での三国境です。

ここは大阪府が頭一つ京都府に突き出していて、地図を見ると気になる場所です。
旧樫田村[588]は丹波と攝津を分ける分水界の攝津側斜面にあるのに、かつては丹波(京都府)に所属していました。1958年に水系の先にある高槻市に越境合併した結果がこのポリプです。
その西側にも攝津側斜面(旧東別院村)があるのですが、こちらは大阪府への越境をせずに亀岡市に残っているので、分水界と府県境との不一致状態 http://uub.jp/arc/arc299.html を維持しています。
[4049] 2002年 10月 21日(月)14:02:33TN さん
入間郡元狭山村分村事件
埼玉県でも過去に分村・越境合併の事例がありましたので、ご紹介したいと思います。時代背景は1953年10月に3年間の時限立法として制定された「町村合併促進法」の頃です。もちろん、私は生まれておりませんので、参考文献に頼ってしまう事をご容赦願いたいと思います。
以下は、4年前に埼玉県から発行された「地方分権時代における自治体の規模と広域行政について」という出版物から原文のまま引用致します。

※ 県入間郡武蔵町と東京都西多摩郡瑞穂町への編入紛争
武蔵町:人的、物的交流があり、県に留まり農業発展を期待
埼玉県:純農村であり、産業構造からも、今後の繁栄を図るために、武蔵町と合併して農業県としての本県に留まることが、村民の福祉向上に望ましい。
瑞穂町:横田基地拡張の条件として武蔵町合併実現を要求 内閣総理大臣に答申、政府は告示で分離合併へ(境界変更)

隣接する東京都西多摩郡瑞穂町との合併を希望していた入間郡元狭山村は、両町村の合併を決議し、昭和30年5月、内閣総理大臣にあてた合併申請書を埼玉県に提出したが、県及び県議会は、東京都編入を不適当とした。その後県は元狭山村に再三にわたって県にとどまるように要請したが、元狭山村はこれを受け入れなかった。一方東京都側は編入を認め、合併の受け入れ方につき内閣総理大臣あてに意見書を提出するにおよび、ここに、埼玉県と東京都は政府をはさんで共に綱引きをするという三つどもえの様相となったが、昭和33年新市町村建設促進中央審議会が、元狭山村の東京編入を承認したため、4か年におよんだ紛争はようやく決着した。

これを見る限り、当時の元狭山村民のことはそっちのけで行われた埼玉県・政府・東京都の3者の駆け引きが見て取れます。特に横田基地の拡張という米国の思惑までもが介在する部分は、私には興味深く感じられます。
「二本木」「駒形富士山」「高根」という地名が入間市、瑞穂町に並存する訳が、改めて市町村合併の難しさを物語っているような気が致しました。

追記:なお、過去ログ検索の結果元狭山村の合併経緯は[2878]でYSKさんがすでに述べられておりますが、私なりに再度掘り起こしてみようと取り上げさせて頂きました。
[25925] 2004年 3月 8日(月)22:09:13恵那山 さん
越県合併に思ふ
いよいよ岐阜県中津川市と長野県山口村の合併調印式が完了しました。
地元の気持ちとしては、越県合併云々よりも、「これでやっと旧神坂村がひとつに戻る」
といういうのが大きいです。

皆さんご存知のように、中津川市は昭和の大合併で旧神坂村の一部を合併していますが、
なぜ「一部」なのか。

詳しい話は「神坂村」で検索すれば当時の経緯がよくわかりますが、要は長野県が
『信州の島崎藤村が岐阜県人になってしまう』というふざけた理由で神坂村(主に馬籠)
の合併に反対したのです。
こうして両派入り乱れての激しい運動がはじまり、親兄弟や親戚どうしが対立し、
その関係がズタズタにされるほどその争いは激化しました。
そして最終的には政府の裁定により、馬籠を長野県に残す分村合併という結果になりました。
住民のしこりを残して。

なので今回の合併では「同じ過ちを繰り返したくない」という気持ちが非常に強く、
そのおかげでようやく50年近くにわたる分村にピリオドが打たれるわけです。
私はもちろん当時のことは経験してないですが、親から話を聞いていたので、やはり
非常に感慨深いものがあります。

ところで、長野県から岐阜県に変わるということはいろいろな区分けで東日本から西日本に
管轄が変わるわけで、官公庁よりも民間企業の対応が気になりますね。
わかり易いところでいえばコカコーラボトリングの管轄がが北陸から中京になって
自販機のジュースの種類が変わるかも(笑)
[31291] 2004年 8月 2日(月)17:13:35hmt さん
越美線
[31283]淡水魚 さん
以前、越美北線とつなげる予定があったとか聞いた覚えがあるのですが

長良川鉄道は、国鉄時代の線路名称(越美南線)が示すように、福井(越前)から美濃太田(美濃加茂市)に通じるべき「越美線」の一部でした。長良川沿いの南線は1934年にできていますが、北線はずっと遅く、福井から越前大野に到達したのが1960年、九頭竜湖は1972年です。

すぐにつながりそうな距離と思うのですが

本来は油坂峠を越えて美濃白鳥に出る路線を予定していましたが、九頭竜ダムの建設により水没し、その後、石徹白(いとしろ)経由に路線変更したあと、工事が打ち切られました。
余談ですが、石徹白も越県合併[588]のあった村です。

鉄道全通の夢が消えた後も、国鉄バス→JR東海バスが九頭竜湖‐美濃白鳥間を連絡していましたが、この「空気を運ぶバス」も2002年に廃止されました。

そして2004年7月の福井豪雨。越美北線は足羽川の鉄橋5基や十数カ所の盛土がを流されて寸断されました。JR西日本社長の会見では明言されていませんが、廃線の可能性大と受け取られているようです。 http://www.nikkei.co.jp/sp1/nt82/20040721AS3K2101W21072004.html

いまさら以下のような妄想を抱いても無意味ですが…
京都電灯は1918年までに福井‐勝山‐大野間を開通させていました。越美北線はこれと重複する福井‐大野間を建設せずに大野からひたすら美濃白鳥間を目指して全通させるべきだったのではないでしょうか。
もっと早く全通していたら、それなりの交通需要も生まれ、高山本線のように生き残れていたかも?
なお、京都電灯線は京福電気鉄道になってから勝山‐大野間を廃止、衝突事故を経てえちぜん鉄道として現存。
[2878] 2002年 9月 2日(月)18:38:53YSK さん
菱村と矢場川村の越境合併
[2875][2876]

mikiさんのご指摘どおり、「群馬県菱村」ではなく、「栃木県菱村」ですね。
1959.4.1に、群馬県桐生市が菱村を編入しています。現在は桐生市菱町となっています。

また、1960.7.1には、群馬県矢場川村(当時)が、栃木県足利市と群馬県太田市に分かれて編入されるという、いわゆる「越境分村」がありました。
同様な事例は、埼玉県元狭山村(当時)が、東京都瑞穂町と、埼玉県入間市に越境分村した例があります。
ただし、細かく言えば、

1958.10.14 境界変更により、元狭山村の一部が入間市となる。
1958.10.15 瑞穂町、元狭山村を編入する。

という過程を経ています。

話を元に戻します。
足利市、桐生市、太田市周辺(「両毛地域」といいます)は、県は違いますが、同じ生活圏を共有しています。この特殊な生活圏構造が、相次いで県境を越えた合併を実現させたと言えるのではないでしょうか。また、菱村、矢場川村ともに、県全体からすればわずかな人口であったことも、県議会や国の同意を得やすい要因だったといえます。

このHPの市町村変更情報にもありますように、この地域における合併に向けた公式の組織は、太田市外5町による任意合併協議会があります。この合併協議会発足後間もない頃だったと思いますが、足利市長が記者会見で、「足利市は太田市と合併し、“両毛市”を目指すべきだ。同じ県ならとっくに合併している」と発言しました。実は小学生さんがおっしゃっているのは、この報道のことではないでしょうか?

足利市は、人口では栃木県で第2の都市ですが、近年は人口も停滞し、合併を模索したいところなのです。しかし、栃木県の西端に位置し、適当な合併相手がないのが実情です。そこで、県境をまたいで密接なつながりのある太田市との合併が望ましいのではないか。足利市長の発言の真意はこういったところなのではないかと思われます。

ただ、菱村や矢場川村と違い、足利市は人口約16万の栃木県第二の都市です。越県合併は現実的にはほぼ不可能に近いといえます。したがって、足利市長の発言の後も、越県合併についての目立った動きはありません。
[14592] 2003年 5月 3日(土)13:12:44G[わたらせG] さん
両毛
[14588]Issieさん YSKさん
広報の市長のコラムに合併関連の話題があったのでかいつまんで

 昭和22年(1947),栃木県足利郡には、この狭い地域に17の市町村がありました。足利市、毛野村、山辺町、三重村、山前村、北郷村、名草村、富田村、御厨町、筑波村、梁田村、久野村、三和村、小俣町、葉鹿町、吾妻村、菱村です。
 昭和30年(1955)に、吾妻村が佐野市へ、昭和34年(1959)に菱村が桐生市へそれぞれ合併し、昭和26年(1951)から37年(1962)までに全部の町村が足利市に合併され、足利郡がなくなったわけです。
 この間、菱村が群馬県に編入するにあたり、群馬県からは矢場川村が編入されるわけでありましたが、村で議論があり、分村という形で全部が編入されませんでした。その代案として、現在の太田市高瀬地区を足利市へとの考え方があったようですが、それも結論に至らず、現状のままとなっています。現在でも高瀬地区の子供たちは、足利の山辺小学校と、山辺中学校へ市(県)を越えて通学しているのです。
 昭和34年(1959)に菱村が桐生市に合併の際は、1140世帯、5700人の人口移動がありました。しかし、矢場川は分村の結果、540世帯、3019人の足利市への流入ということで、合併による単純比較で申しますと、面積は約18k㎡、人口2681人、600世帯のそれぞれ減とらります。
 今頃になって群馬県の栃木県への対応を不満として議論することはできませんが、過去合併の歴史として私たちは認識しておく必要があると思い記述したのであります。

とありました。矢場川村の合併に関しては、他書籍によると、最終的には当時の自治庁による現地調査、調整斡旋が行われるほどの騒動が展開されたそうです。明治期の廃藩置県後の一時期、館林県が栃木県に所属していた時もあり、生活、文化などさまざまな面において、名目上の群馬県、栃木県という括りだけでは済まされない地域が「両毛」なのだと思います。


[14616] 2003年 5月 3日(土)21:01:16YSK さん
矢場川村(やばがわむら)について
[14588]Issieさん
旧矢場川村の半分が栃木県足利市へ編入されていたということ。
私も過去ログ[616][2878]で、この「越境分村」について書いております。

現在の住所表記でいいますと、

足利市:南大町(足利市街地に「大町(だいちょう)」がすでに存在していたので、もとの字名「大町」に「南」を冠しました)、 里矢場町、新宿町(あらじゅくちょう)、藤本町、荒金町

太田市:矢場町、植木野町、東新町の一部

が「旧矢場川村」の村域でした。旧村名にもなっている矢場川の流路が旧県境です。

県道足利千代田線(39号線)が同川を渡河する橋の名前は「両毛橋」。現在は足利市堀込町と同市藤本町との間にかかる橋となっていますが、地域の歴史がその橋の名に刻まれています。

Issieさんもご推察の通り、旧矢場川村の足利市に編入された地域は、隣接する足利市山辺地区と市街地が連担しており、また現在の県境となっている地域には水田が広がって市街地は一応途切れているので、旧県境よりもむしろ現県境のほうが、より地域の実態にあっているように感じられますね。

(旧矢場川村域における、20万分の1地勢図の旧国界と現県境との)ズレは地勢図には反映していませんね。
この点は、私も気づいておりました。旧菱村や旧飛駒村の一部にかかわる、旧国境と現県境とのずれは明確に記載されているのに、どういうことなのかな、と。地域住民として、国土地理院に確認を求めてみようかな?

矢場川村にあった小学校は、足利市に市立矢場川小学校として存続していますが、1つの中学校を維持する規模ではなかったため、「矢場川中学校」は廃止となりました。同小学校の児童は、卒業後隣接地区の山辺中学校へ通学することとなります。

太田市に編入された地域は、やはり独立した小中学校を設置するほどの規模ではなく、隣接する韮川地区の小中学校の学校区に編入されました。中学校は、太田市街地北東に接する現北中学校。かなりの距離の通学を強いられたことになりますね。現在は、韮川地区東部に「城東中学校」が開校しています。

行政地区でも、「矢場川」は「韮川地区」に編入されています。
[14588] 2003年 5月 3日(土)10:50:59Issie さん
新田山田
[14576] YSK さん

例のページの「群馬県編」を作ったのですが
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/03kanto/10_gunma.htm
明治の大合併以降の動きが比較的に緩やかな群馬県の中で,新田郡と山田郡は県境を越えた異動も含めて割りと複雑な動きをしているのに少し驚きました。

たとえば太田市。
“新田地域の中心”なわけですが,現市域の東側半分は山田郡からの編入ですね。
逆に明治の大合併以前の旧新田郡太田町が丸ごと「新・太田町」になったのではなくて,一部は同じ新田郡の鳥之郷村・強戸(ごうど)村だけでなく山田郡の韮川村・毛里田(もりた)村の一部となっている…。大字としては太田町にしか残らず,隣接各村では隣の大字に編入されてしまっているのでよくわからなくなっているのですが,“旧太田町”のひろがりはどのようなものであったのか。
いずれにせよ,このあたりでは郡界をはさんだ異動が結構激しかったことがわかります。
やがては新田地域(太田)と山田地域(桐生)が一体化する,なんて流れも自然かな,と感じたりもしました。

で,知らなかったのが,旧矢場川村の半分が栃木県足利市へ編入されていたということ。
桐生川左岸の菱村や田沼町の一部が栃木県から群馬県の桐生市へ越境編入されたことは有名で,これは20万分の1の地勢図でも旧国界と現県境のズレとして目にすることができるのだけど,その逆もあったというのは知りませんでした。
こちらのズレは地勢図には反映していませんね。

現実には足利地域(足利市)も含めた一体化が進んでいるのでしょうが。
[41400] 2005年 5月 20日(金)01:50:50ニジェガロージェッツ さん
取揚島の謎
[41370] hmt さん
表自体に含まれていない赤穂付近の「取揚島」(兵庫・岡山県境)を含めて、「2県にまたがる島」は8つということになります。

[15470] KMKZ さん
取揚島は、兵庫・岡山の県境になりますから、海上保安庁の島の一覧表で、兵庫県の「2県に跨る島」の数がゼロになっているのは記載漏れでしょうか。これでは7島という数も信用していいのか悩みます。本当は6島しかないのかも。

[41356]でるでるさんよりアナウンスのありました、地名コレクション「2県にまたがる島」拝見致しました。
兵庫県赤穂市の沖合いに浮かぶ小さな無人島「取揚島」ですが、地図上では確かに兵庫・岡山県境が赤穂市福浦地区の海面で大きく東に迫り出し、取揚島を分断しており、「2県にまたがる島」と言えます。
このことは、でるでるさんが[15406]にて『日本の島ガイド~シマダス』(財)日本離島センター刊、より調べられた結果にも反映されています。
一方で、KMKZさんが[15470]にて海上保安庁の島の一覧表より調べられた結果、兵庫県の「2県に跨る島」の数がゼロになっていることについては、この島が岡山県にのみ属していると解釈できます。

この島はもともと岡山県に属していた福浦地区のもので、この地区(旧・岡山県和気郡福河村)が一旦は1955年に岡山県日生町に編入されたものの、生活圏の関係から、後の1963年に兵庫県赤穂市に編入された際に、その編入区域からは除外されています

原因は、この地区の兵庫県への越境編入を岡山県側が容易には認めず、結果的には陸上部分は渋々兵庫県への移管に同意するものの、漁業権の絡む海上部分の移管は頑として認めず、兵庫県側がそれで妥協したことによるものです。

このことは、2002年10月に奈良県桜井市での第3回市町村合併講演会「兵庫県の事例に見る市町村合併の課題」にて、「昭和の大合併の遺恨」として、詳しく経緯が述べられています。
これによれば、このイレギュラーな妥協の結果、取揚島の鼻先に赤穂火力発電所を建設した際、その排水を目の前の海に流せず、わざわざ6キロも先までパイプラインを敷設して、赤穂御崎の東まで迂回した排水設備を造るなどの苦労話として語られています。


【追記】でるでるさんへ
Поздравляю Дэрудэру-сан с 28-ым днём рождения !!!
[46914] 2005年 11月 26日(土)23:57:37hmt さん
備前福河
[46891] デスクトップ鉄 さん
・ 赤穂線の兵庫・岡山県境は、備前福河・寒河間にある。兵庫県は、摂津・播磨・丹波・但馬・淡路の5カ国だけでなく、備前国も含んでいたのですね。

兵庫県赤穂市所在なのに「備前福河」という駅名を名乗っているこの駅は、1955年3月1日に赤穂線が播州赤穂から日生まで延長開業した当時は岡山県和気郡福河村に開設されました。同月末に合併で日生町に。
ところが、[41400] ニジェガロージェッツ さんの記事にあるように、1963年に福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)は生活圏を共にする兵庫県側の赤穂市に越県合併したために、現在のように「備前」なのに兵庫県という状況になりました。

「2県にまたがる島」である「取揚島」は、江戸時代から播磨と備前の境界で、その備前部分も「備前福河」駅と同様に旧・福浦村でしたが、この島については、岡山県が漁業権に絡む“領海”を守り抜き、赤穂市への編入から除外させたとされています。
取揚島は無人島で、道路はないと思います。この島での県境越えとなると、まず上陸できるのかな?

なお、県境をはさんで岡山県側にある寒河(そうご)駅は赤穂線全通を前にした1962年4月開業。この駅名は、旧・福浦村と共に福河村になった旧・寒河村に由来します。「合成地名」コレクション参照。
[31165] 2004年 7月 30日(金)00:33:02みやこ♂[みやこ] さん
黒い噂(たぶん,大嘘)
[31152] hmt さん 「三国境・分水界」
三国コレクションにレスをいただき,ありがとうございます。「越境合併」ですか,それで・・・なるほど納得。国境は素直に真っ直ぐだったのに,何で府境になったら曲がってンだろう,と思ってました。

そういえば,我らが両毛地域の「菱村」の越境合併は,誰が見ても納得できるケースだと思います。
そして菱村といえば,今度佐野市になる田沼町の旧飛駒村,その分水嶺の西側(地図リンク)の皆沢地区も,やはり国を越えて桐生市にお嫁入りしていましたっけ。イヨイヨ栃木県民から群馬県民になるという頃,皆沢集落のみなさんと飛駒村のみなさんがサヨナラ宴会をしたと聞きます。
もっともこの例は「田沼町」を割ってのお輿入れですから,「越境合併」とは言わないのでしょう。で,この件に関してですが昔々に変な噂を聞いたことがあります。曰く,
「菱村を群馬県にお渡しし,群馬県から矢場川村の一部を迎えたものの,余計に頂きすぎたので,飛駒の奥をお分けした」
何だか土地をケーキか羊羹みたいに。
菱村が群馬県になったのが昭和34年,矢場川村の一部を栃木県が迎えたのが昭和35年,そしてこの,田沼町の一部が群馬県になったのが昭和43年のことと8年近く離れています。手元に統計資料がないので面積の比較もできませんが,桐生川左岸は結構広そうですし,結局は「田舎オヤジの酒のサカナ話」なのでしょうねぇ。
[46924] 2005年 11月 27日(日)10:35:08YSK さん
越県合併及び旧山口村について
落書き帳アーカイブズからのご紹介です。

白桃さんもご紹介くださっていますが、
越境(越県)合併への方途
旧長野県山口村の越県合併関連情報
あたりをご参照ください。

[36969]には、
総務相は21日、長野県山口村の村長と岐阜県中津川市の市長に合併決定書を交付した。2月13日に山口村が中津川市に編入合併される。県境を越えた合併は、1959年に栃木県菱村が群馬県桐生市に編入されて以来46年ぶり。「平成の大合併」では初めて。
との記述も見られます。


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