都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[49090]2006年2月10日
がっくん
[49091]2006年2月10日
88
[49100]2006年2月11日
千本桜
[49121]2006年2月11日
88
[49139]2006年2月12日
千本桜
[49209]2006年2月15日
88
[49276]2006年2月17日
88
[49288]2006年2月18日
千本桜
[49296]2006年2月18日
88
[49307]2006年2月18日
千本桜

[49090] 2006年 2月 10日(金)19:54:28がっくん さん
調べてしまいました
[49071]yamadaさん
合併数地名コレクション、できている分を拝見しました。いいですね、けっこういろんな数字のがあって。でも高知県はまだなんですね・・・
ということで気になっちゃあ仕方がない・・・調べてしまいました。
とりあえず市町村制施行後について調べました。高知県はすべて旧村名です。以下に書きます。

幡多郡 八束村 現四万十市 8ヶ村が合併
吾川郡 三瀬村 現吾川郡いの町 勝賀瀬・楠ノ瀬・柳ノ瀬の3ヶ村が合併
土佐郡 十六村→分村編入現高知市/吾川郡いの町 16ヶ村が合併
長岡郡 三里村 現高知市 3ヶ村が合併
      三和村 現南国市 3ヶ村が合併
香美郡 三島村→編入?現南国市/香美郡野市町 3ヶ村が合併

○のついているものは、角川日本地名大辞典に合併数由来の記述がしっかり書いてあったものです。
八束村・・・8ヶ村を束ねた意
三里村・・・3ヶ村が合併したことによる。
三和村・・・3村が合併して新村をつくり、その和を求めて命名
その他はたぶん・・・のレベルで書いてます。
土佐郡十六村は、1928年に分割され、6つが土佐郡朝倉村(現高知市)、7つが土佐郡鏡村(現高知市)、2つは吾川郡神谷村(現いの町)、残り1つが吾川郡伊野町(現いの町)に編入されたそうです。みごとにばらばらになったものです(笑)
香美郡三島村については、1942年に香美郡日章村(現南国市)に入りましたが、神岡地区のみ野市町に入りました。

けっこうあるもんですね。市町村制施行前でも、高岡郡七里村などあやしいものがあります。
でも・・・卒論の最後の仕上げが残っているぼくにはここまでが限界(笑)
[49091] 2006年 2月 10日(金)20:22:1188 さん
フォローしてしまいました
[49090] がっくん さん
「角川日本地名大辞典 39高知県」は、私も所有していますので(四国4県は所有)、フォローします。私は「ン十年前」に卒論を済ませたので、がっくんさんは卒論に励んでください(笑)。
七里 ななさと
七里村
明治9~22年の村名。高岡郡のうち。本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山の7か村が合併して成立。
七里
明治22年から昭和30年までは松葉川村の大字、昭和30年からは窪川町の大字。

今年3月20日の「高岡郡四万十町」発足後は、四万十町の大字ですね(七里甲、七里乙、七里丙、)。
合併協議会HPより、excelファイル


確かに、あやしいのは他にもいっぱいありそう・・・。
[49100] 2006年 2月 11日(土)00:29:23千本桜 さん
素朴な疑問
[49091]88 さん
七里村
明治9~22年の村名。高岡郡のうち。本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山の7か村が合併して成立。
七里
明治22年から昭和30年までは松葉川村の大字、昭和30年からは窪川町の大字。

宮城県の一般的市町村を基準にして推測した場合の話です。廃藩置県~町村制施行間に合併して成立した「七里」という地名は、明治22年、つまり明治の大合併で松葉川村が誕生した際に消える可能性があった。また、「松葉川」という地名は昭和の大合併の際に消える可能性があった。しかし、廃藩置県以前からあった本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山の地名は消える可能性が低い。あくまでも、宮城県を基準にした考えです。

ところが、七里小学校の住所は窪川町七里甲1214となっています。廃藩置県以前の村名(本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山)に当たるものが無くなっています。何処へ行ってしまったのでしょう。七里甲の「甲」の中に隠れているのでしょうか?
[49121] 2006年 2月 11日(土)16:13:2388 さん
七里について
[49100]千本桜 さん
七里について

「七里」は、「角川日本地名大辞典 39高知県」の地誌編によると、
四万十川と勝賀野川の合流点を中心とした地域で、楠谷川下流の小野川・影山と四万十川左岸、影山の北西の越行、影山の東の沖野々・本在家・柳瀬と対岸の志和分をいう。
とあります。ウォッちず(久礼・南西)で、これらの集落名を見ることができます。

七里村発足以前の7村の名は、沖野々以外はMapionの地図でも確認できました。
本在家柳瀬沖野々(たぶんこのあたり)・小野川西影山(「影山」で代用)・越行志和影山(「志和分」で代用)

さて、
[49100]千本桜 さん
廃藩置県以前の村名(本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山)に当たるものが無くなっています。何処へ行ってしまったのでしょう。七里甲の「甲」の中に隠れているのでしょうか?

七里小学校の住所は、念のため確認させていただきました。高岡郡窪川町七里甲1214番地で間違いないようです(資料)。

Mapionで七里の地番を見てみると、「七里」全体を不動産登記法でいうところの「地番区域」に設定しているようです。
「甲」「乙」については、混在しているようで判断できませんが。(現行大字では「丙」もあるようですがMapionには出てきません。)

これらを総合してに想像すると、地番設定の経緯(時期)は次のとおりだと思います。
江戸期~明治9年7村(本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山)
明治9年七里村誕生
(この間)地番設定(旧7村は小字だが、地番区域は七里村全体で設定)
明治22年松葉川村誕生、七里は大字に
昭和30年1月5日窪川町誕生、七里は大字で継続

地番区域を七里全体で設定したため、住所を特定するのに小字はなくても問題なく、「七里甲○○番地」で事が足りたため、小字は通常は使用する必要がなく、不動産登記等にしか残らなかったと推測します。おそらく、七里小学校は小野川にあることから、不動産登記簿上は
「高知県高岡郡窪川町七里字小野川甲1214番」
の土地の地番に所在していると思います。

――――――――――――――――

ところで、皆様、法務省の登記情報提供サービスをご存知でしょうか。これは、不動産登記簿や商業登記簿を、インターネットで取得できるものです。これを使えば、わざわざ管轄の法務局へ行って登記簿を申請しなくても、在宅で全国のもの(一部を除く)が取り寄せできます(従来も郵送での交付は可能でしたが)。
私、個人的に(業務上ではなく)利用しようと、ちょうど、登録手続きを完了したところです。さっそく、京都市役所と、七里小学校の登記簿を調べてみようと思います。
しかし、利用時間が平日の午後7時までというから・・ちょっと使いづらいです。
[49139] 2006年 2月 12日(日)20:30:41千本桜 さん
江戸期の小字は何処へ
[49121]88 さん
江戸期~明治9年 7村(本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山)
明治9年 七里村誕生
(この間) 地番設定(旧7村は小字だが、地番区域は七里村全体で設定)
明治22年 松葉川村誕生、七里は大字に
昭和30年1月5日 窪川町誕生、七里は大字で継続

丁寧なレスをありがとうございました。宮城県の場合ですと、小字なしに大字と番地が直結している例は無かったように記憶しています。(確認しないで書いてます。間違っていたらごめんなさい)。大字の下に直ぐ番地がくる例として一番身近なのは山形県高畠町です。ずいぶん昔のことですが、菓子パンの袋に書いてある製造元住所が高畠町大字○○××番地となっているのを見て、「わっ!、小字が印刷漏れしてる」と思ったことがありました。いま確認したところ、それは「たいようパン(株)高畠町大字深沼2859-6」でした。たぶん、般若堂そんぴんさん御愛食の、あのパン屋さんです。うっ、脇道に逸れそう。話を七里に戻します。

ひとつ引っかかるのですが、江戸期から明治9年まで存続した、本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山の各村には字があったと思いますが、それらは現在、完全に消滅してしまったのでしょうか。こんな面倒な質問をして申し訳ありませんが、お分かりでしたなら教えてください。
[49209] 2006年 2月 15日(水)14:29:5688 さん
不動産登記簿調査 その1
[49100]千本桜 さん
七里について

[49121] 拙稿
地番区域を七里全体で設定したため、住所を特定するのに小字はなくても問題なく、「七里甲○○番地」で事が足りたため、小字は通常は使用する必要がなく、不動産登記等にしか残らなかったと推測します。おそらく、七里小学校は小野川にあることから、不動産登記簿上は
「高知県高岡郡窪川町七里字小野川甲1214番」
の土地の地番に所在していると思います。

本日、 法務省の登記情報提供サービスを時間内(午後7時まで)に利用するために、職場をサボりました(?)。自宅で書き込み中です。で、確認した結果です。答えは、
「高知県高岡郡窪川町七里字エビスノ前甲1214番1」
(地目:学校用地、面積:634.71平方m、所有者:高岡郡窪川町)
でした。

想像は見事にはずれました。「小野川」はどこにも出ません。千本桜さんが[49100]で想定された、
ところが、七里小学校の住所は窪川町七里甲1214となっています。廃藩置県以前の村名(本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山)に当たるものが無くなっています。何処へ行ってしまったのでしょう。七里甲の「甲」の中に隠れているのでしょうか?
でもありませんでした。つまり、正式には、小野川はどこにも残っていません(通称では残っているようですが)。「小野川村」のまま、明治の大合併を迎えれば、その時点で「七里村大字小野川」となり、昭和の大合併では「窪川町(大字)小野川」、平成の大合併では「四万十町小野川」として残った可能性が強いです。ところが現実には、明治9年に市制町村制に先行し合併し、あたかも、「七里村」が江戸期からの藩政村であったかのような取扱いになっています。せめて、市制町村制時に「七里村大字小野川」としていれば・・。長く地名の存在した藩政村が消え、7村合併というまったく新しい「合併数地名」が現在に至るまで現存しています。

――――――――
七里と似て非なる例をご紹介します。

東かがわ市(旧大川郡大内町、旧旧大川郡丹生村)です。
江戸期~明治11年大内郡馬篠村、小砂村、土居村、中山村、三殿村、町田村、松崎村、落合村、大谷村、小磯村
明治11年~(上記10村が合併して)大内郡丹生村(馬篠、小砂等は字(小字)・・大字ではない)
明治23年2月15日~(市制町村制)大内郡丹生村(馬篠、小砂等は字(小字)・・大字ではない)
明治32年3月16日~大川郡丹生村(郡再編)
昭和29年4月1日~(大川郡誉水村と合併し)大川郡大内町
(馬篠、小砂等は小字から大字に変更(昇格?)・・「大内町馬篠」等と正式に住所としても表記)
昭和30年3月15日(大内町と三本松町が合併し)(新)大川郡大内町
平成15年4月1日~東かがわ市(馬篠、小砂等は大字のまま・・「東かがわ市馬篠」等と正式に住所としても表記)

[45004]白桃 さん や、拙稿[44212][45044][48397]でふれたベッセルおおちの不動産登記簿もとりました。
「東かがわ市馬篠1200番」
です。つまり、大字:馬篠、小字:なし という状態です。

上記昭和29年の昭和の大合併時に、歴史の浅い「丹生」ではなく、歴史の深い「馬篠」等を大字として選択した結果だと思います。
ちなみに、いつも使用している「角川日本地名大辞典 37香川県」によると、「丹生」の由来は、
「和名抄」入野郷(にゅうのやごう)
にちなむ、という説と、
大谷八幡宮が「誕生」の神として崇められたため、当地を誕生の地と称するようになり、のち誕に丹の字をあてたという伝承もある(丹生村今昔物語)
の説があるそうです。
[49276] 2006年 2月 17日(金)22:02:1188 さん
不動産登記簿調査 その2
京都市役所の住所についてです(既に古い話題になりつつある・・)。

拙稿[49209]と同様、 法務省の登記情報提供サービスで確認しました。答えは、
「京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番」
です。

正確に言うと、
所在京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町
地番488番
地目宅地
地積9479.67平方m
です。

も一つ正確に言うと、入手したのは
不動産登記規則(平成17年2月18日法務省令第18号)
(登記事項証明書の作成及び交付)
第197条
2  前項の規定により作成する登記事項証明書は、次の各号の区分に応じ、当該各号に定める様式によるものとする。ただし、登記記録に記録した事項の一部についての登記事項証明書については適宜の様式によるものとする。
一  土地の登記記録 別記第7号様式
による別記7号様式の「登記事項証明書」(実質、電算化された「不動産登記簿」)なのですが、この記載が上記です。

この様式による「所在」は、上記のとおりなのですが、この様式の欄外部に「見出し用」と思われる住所の記載があり、ここには、
「京都府京都市中京区上本能寺前町488」
とあります。
ちなみに、[49209]で書き込んだ、高知県高岡郡窪川町立七里小学校の件では、
欄外部高知県高岡郡窪川町七里甲1214-1
所在高岡郡窪川町七里字エビスノ前
地番甲1214番1
でした。

電算化される前(「登記事項証明書」は電算化後に作成された様式)は、この「欄外部」(見出し?)に相当するものがそもそもなく、「所在」だけでしたから、この「所在」が不動産登記法で通常使用する表記方法なのでしょう。

――――――――
以下考察です。
その1
京都市役所の不動産登記法上は、
「京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番」
でいいのだとは思います。ただし、[48851]むっくんさんが例示されているような、2つの「京都市中京区石橋町」は「欄外部」はどう表記されているのだろう? と、あらたな疑問が・・・。

その2
[48866]まがみ さんが紹介されている
市役所の住所表示について
…現在市役所の住所については「京都市中京区寺町通押小路下る上本能寺前町488番地」と表示していますが,来る4月1日から,下記のとおり表示することとします。…(略)…
1 市役所の住所表示
京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地
2 留意事項
(1) 登記等において既に使用されている旧表示について
登記等において既に使用されている旧表示については,直ちにこれを変更する必要はありませんが,・・・(略)
は、おそらく、法務局の不動産登記簿は法務局が職権で訂正するが、既に登記済みのもの(登記済証など)については機会があるごとに順次整理する、ということだと思います。

その3
京都市役所の地番の「閉鎖登記簿」(電算化以前のもの)をとれば、「寺町通押小路下る」が「寺町通御池上る」に変更になったことが確認できるのだと思いますが、・・どうしよう? やはり私が確認するのが自然な流れでしょうか・・・?(笑)
[49288] 2006年 2月 18日(土)08:49:21千本桜 さん
Re: 不動産登記簿調査 その1
[49209]88 さん
高知県高岡郡窪川町七里字エビスノ前甲1214番1」

てっきり、大字七里字小野川かと思っていましたが予想外れでした。字エビスノ前は旧小野川村の字名だったのかな?などと考えますが、あまり深部に入り込んで88さんのお手を煩わせるのも何ですから、止めときますか。「角川日本地名大辞典 39高知県」に掲載されているであろう小字一覧が解決の糸口になりそうですが、角川の高知県を持ち合わせていないので残念です。

ところで、江戸期~明治9年の7村(本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山)が、大字名どころか小字名にも名を残すことなく消えてしまった理由を考えてみました。もちろん外れ覚悟です。藩政期の7村(本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山)、つまり大字七里のエリアを地図に線引きしてみたところ、思いのほか面積が狭いのですね。しかも耕地面積、可住地面積とも狭そうですから人口も多くはなさそうです。この規模ですと、旧7村全体で仙南地域の一般的な藩政期の1村と同規模に思えました。と言うことは、藩政期の七村を字より一段上の階層に置く必要が無かった。大字七里の後に旧七村の小字をダイレクトに配置しても支障が無かった。そのようなことを考えてみましたが、もちろん真相は分かりません。

「小野川村」のまま、明治の大合併を迎えれば、その時点で「七里村大字小野川」となり、昭和の大合併では「窪川町(大字)小野川」、平成の大合併では「四万十町小野川」として残った可能性が強いです。ところが現実には、明治9年に市制町村制に先行し合併し、あたかも、「七里村」が江戸期からの藩政村であったかのような取扱いになっています。

同感です。このことについて意見を述べたいのですが、時間の都合で後日にします。
[49296] 2006年 2月 18日(土)12:42:3188 さん
本在家・柳瀬・沖野々・小野川・西影山・越行・志和影山
(表題は、あえて「藩政村」を並べました。)

[49288]千本桜 さん
字エビスノ前は旧小野川村の字名だったのかな?
私もそう想像します。というのは、
「角川日本地名大辞典 39高知県」に掲載されているであろう小字一覧が解決の糸口になりそうですが、角川の高知県を持ち合わせていないので残念です。
申し遅れましたが、私も、[49121]
「高知県高岡郡窪川町七里字小野川甲1214番」
と想像する時点で、上記辞典を確認しました。なぜか、「窪川町」については、「小字一覧」がそもそも掲載されていないのです(他の市町村についてはありますが)。そのため、「字小野川」と想像した経緯がありました。発言が前後して失礼しました。

大字七里のエリアを地図に線引きしてみたところ、思いのほか面積が狭いのですね。しかも耕地面積、可住地面積とも狭そうですから人口も多くはなさそうです。
再び上記辞典によりますと、大字七里はのデータは次のとおりです。
  明治24年の戸数163・人口662(男353・女309)、厩42
さらに、旧7村の「寛保3年郷村帳」の資料は次のとおりです。
村名ふりがな村高(石)戸数人数猟銃
本在家村ほんざいけ31116603525281
柳瀬村やなぜむら9122804535171
沖野々村おきののむら544137611
小野川村おのがわむら1482410052481521
西影山村にしかげやまむら228371537776322*
越行村えっきょうむら20198249331281
志和影山村しわかげやまむら*
85212248826522379223
*寛保3年郷村帳では、西影山村と志和影山村はあわせて「景山村」として記載されており、上記の「西影山村」欄の数値は、この「景山村」のものです。

この規模が、[49288]千本桜さんの
この規模ですと、旧7村全体で仙南地域の一般的な藩政期の1村と同規模に思えました。と言うことは、藩政期の七村を字より一段上の階層に置く必要が無かった。大字七里の後に旧七村の小字をダイレクトに配置しても支障が無かった。
という想像の検証になるでしょうか?

こういった検証は、とても有意義だと思いますし、興味があります。明治以降の市町村合併の歴史を確認する際にも、合併前の各市町村の規模(面積・人口など)を整理できれば、時代(制度、社会背景など)につれて、「適正」とされる市町村の規模、住民の意識も変化してきたであろうし、今後とも変化するであろう、「枠組み」を考察するのにも一石になるでしょう。


#みなさまへ
私は、四国4県分、「角川日本地名大辞典」を所有しております。地元香川県は10年ほど前に新刊で購入し、他の3県はここ数箇月間でネット古書店で購入しました。この辞典で判明しそうなことであれば(図書館へ行くのが面倒であれば)、何なりと調査依頼をお申し付けください。また、必要に応じて現地調査もあわせていたします(笑)。
[49307] 2006年 2月 18日(土)22:02:49千本桜 さん
大字の人口比較
[49296]88 さん
この規模が、[49288]千本桜さんの
この規模ですと、旧7村全体で仙南地域の一般的な藩政期の1村と同規模に思えました。と言うことは、藩政期の七村を字より一段上の階層に置く必要が無かった。大字七里の後に旧七村の小字をダイレクトに配置しても支障が無かった。
という想像の検証になるでしょうか?

七里村を構成する旧7村の人口ありがとうございました。やはり、仙南地域の村と比較すると小規模のようです。東北自動車道白石インター付近に位置する4村の人口(明治18年)を見てみましょう。深谷村1,304人、八宮村621人、長袋村393人、蔵本村1,072人です。七つの村を合わせた七里は、八宮村1村の人口とほぼ同じ。しかし深谷、八宮、蔵本などは面積が広大ですから、人口が多いのも当然といえば当然。そこで、仙南地域の中では小面積の村同士が隣接しあっていた地域を見てみましょう。現在の柴田町を構成する藩政期の村々です。

【明治17年の人口】
船岡村(1,314人)、上名生村(301人)、中名生村(293人)、下名生村(437人)、入間野村(1,277人)、船迫村(906人)、小成田村(17人)、成田村(389人)、葉坂村(517人)、入間田村(988人)、海老穴村(135人)、四日市場村(703人)、上川名村(300人)、富沢村(391人)、以上です。

これら江戸期に存在した村は現在、柴田町の大字となっています。ただし、現在では入間野が槻木に改称。船迫が船迫と本船迫に分離しています。


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