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[51058] 2006年 4月 29日(土)21:34:32【1】inakanomozart さん
従来からの区域
[51056] 2006年 4月 29日(土) 19:46:14   hmtさん
「市」はこの時に初めてできたと思われるのに、「従来ノ区域」などあったのですかね?
長崎区、金沢区など「区」のあった区域はもちろんのことですが、以前は町々を統合する行政区域が存在しなかった?城下町にも、「従来からの市街化区域」自体はは存在していたということなのでしょう。

私のルーツを何代かさかのぼった戸籍の謄本を見ると、1888年以前のものと思われる戸籍の本籍欄は
『静岡県安倍郡静岡○○町○丁目○○番地』とあり
その後、市町村制度発足後の戸籍の本籍欄は
『静岡市○○町○丁目○○番地(以後静岡県の記載が省略されている。)』とあります。
(この「○○町○丁目」は、いわゆる江戸期からの駿府城下の町名のひとつ)

この「安倍郡静岡」と言うのが「従来からの区域」ということになると思われますが、ただ単に、『静岡』というのは、今の感覚からするとちょっと違和感を感じたりします。
(当時、いわゆる『静岡』周辺には、今の町・村とは違うとは思いますが、○○町・○○村というのが存在したようですが、それらの町・村との関係においては、町でも村でもなく特別な存在だったのでしょうか?)
[51090] 2006年 5月 1日(月)19:04:32【1】hmt さん
都市名を冠した町名
[51058] inakanomozart さん
『静岡県安倍郡静岡○○町○丁目○○番地』
この「安倍郡静岡」と言うのが「従来からの区域」ということになると思われますが、ただ単に、『静岡』というのは、今の感覚からするとちょっと違和感を感じたりします。

なるほど、明治22年の「市制」によって静岡市になった「従来からの区域」安倍郡と有渡郡とにまたがる124町(追手町、鷹匠町一丁目、…、安倍川町、白山町)は、従来から習慣的に「静岡」と呼ばれていた区域というだけでなく、戸籍簿にも「静岡○○町○丁目」というように「静岡」を冠した町名が記されていたのですか。

# “従来から”と言っても、駿河府中からの改称は明治2年のことでした。[12387]
静岡市の建てた由来記によると、賤機山(しずはたやま)の字を学者の向山黄村が「静岡」に変えたとのこと。

それはともかく、改めて 太田孝(編)「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」を見た結果、明治22年中に市になったところでは、秋田、山形、米沢、水戸、富山、高岡、福井、甲府、岐阜、津、姫路、松江、岡山、徳島などの諸都市で、それぞれの都市名を冠した町名を確認することができました。
静岡の場合、戸籍簿からすると、正式には「静岡」を冠した町名だったように思われますが、この資料に収録された静岡124町名の頭には「静岡」が付いていませんでした。自明の場合は冠が省略されることが多かったのだろうと思われ、この資料では冠のない他の都市でも、正式には都市名を冠していた可能性があります。

面白いのは神戸市で、神戸海岸通一丁目以下「神戸」を冠する51町、兵庫多聞通一丁目以下「兵庫」を冠する79町、それに八部郡荒田村、菟原郡葺合村となっていました。前身として「神戸」と「兵庫」という2つの市街地が存在したことがはっきりと示されています。もちろん、この場合は「市制」よりも10年前に「神戸区」として一応は統合されていたわけですが。

神戸と兵庫との関係については、ニジェガロージェッツ さんが詳しく紹介されています[18378]
安政5年(1858)の日米修好通商条約で開港を約束した5港のひとつ「兵庫」ですが、警備上の理由から外人居留地のある開港場は少し離れた「神戸」にしたという「兵庫と神戸との関係」は、「神奈川と横浜との関係」[20917]と類似していますが、地理的には神奈川と横浜ほどには隔絶していなかったようです。

福岡市の場合も「福岡」と「博多」を冠した2つの市街地が町名から認められるのかと思ったのですが、前記資料ではほとんどの町名に冠は付いていませんでした。

東京市の町名にも冠によるグループが認められます。例えば東京市牛込区には、市ヶ谷田町一丁目以下「市ヶ谷」を冠する町名が29、牛込細工町以下「牛込」を冠する町名が46ありました。なお、江戸時代には御細工町・御納戸町[43929]、現在は細工町、納戸町[41218]で、「牛込」は区名だけでなく町名の冠称からも消えてしまいました。

タイトルの「都市名を冠した町名」からは外れますが、この資料「幕末以降市町村名称変遷系統図総覧」を見ると、各都市になった江戸時代からの町名の数には大きな相違のあることがわかります。

おそらく現在でも最大と思われる町名の宝庫・京都市は2区で2000町、東京市は15区で1400町、大阪市の4区520町よりも多いのが金沢市531町。御三家の城下町は和歌山400町、名古屋276町、水戸120町。
極端に少ないのが盛岡市で、市制施行前の区域にあった村は、南岩手郡仁王村、志家村と7村の一部という少数でした。
行政区画の名称や数はともかくとして、これも従来から「盛岡」と呼ばれる一つの市街地を形成していた区域なのでしょう。
[51105] 2006年 5月 2日(火)00:47:02【2】ニジェガロージェッツ さん
旧神戸市街地に見られた「冠称」
[51090] hmt さん
面白いのは神戸市で、神戸海岸通一丁目以下「神戸」を冠する51町、兵庫多聞通一丁目以下「兵庫」を冠する79町、それに八部郡荒田村、菟原郡葺合村となっていました。前身として「神戸」と「兵庫」という2つの市街地が存在したことがはっきりと示されています。

過去の拙稿までリンク頂き、恐縮です。
少し補足させていただきます。
戦前の神戸市の住所表示において、町名に「神戸」とか「兵庫」とか「尻池」とかを冠していたのは、昭和6年9月1日の行政区設置までです。
例えば
区設置前昭和6年9月区設置後現在
神戸市神戸海岸通一丁目神戸市神戸区海岸通一丁目神戸市中央区海岸通一丁目
神戸市葺合生田町一丁目神戸市葺合区生田町一丁目神戸市中央区生田町一丁目
神戸市葺合二宮町一丁目神戸市葺合区二宮町一丁目神戸市中央区二宮町一丁目
神戸市神戸三宮町一丁目神戸市神戸区三宮町一丁目神戸市中央区三宮町一丁目
神戸市兵庫多聞通一丁目神戸市湊東区多聞通一丁目神戸市中央区多聞通一丁目
神戸市兵庫多聞通七丁目神戸市湊東区多聞通七丁目神戸市兵庫区西多聞通一丁目
神戸市兵庫東出町一丁目神戸市湊西区東出町一丁目神戸市兵庫区東出町一丁目
神戸市平野神田町神戸市湊区神田町神戸市兵庫区神田町
神戸市尻池菅原通一丁目神戸市林田区菅原通一丁目神戸市長田区菅原通一丁目

但し、当時の神戸市街地全域にこうした「冠称」が付いていたかと言えば、そうではありません。
以下、冠称の付かなかった例です。
区設置前昭和6年9月区設置後現在
神戸市海岸通神戸市神戸区海岸通神戸市中央区海岸通
神戸市熊内町一丁目神戸市葺合区熊内町一丁目神戸市中央区熊内町一丁目
神戸市東山町一丁目神戸市湊西区東山町一丁目神戸市兵庫区東山町一丁目
神戸市荒田町一丁目神戸市湊東区荒田町一丁目神戸市兵庫区荒田町一丁目
神戸市楠町一丁目神戸市湊東区楠町一丁目神戸市中央区楠町一丁目
神戸市菊水町一丁目神戸市湊区菊水町一丁目神戸市兵庫区菊水町一丁目
神戸市一番町一丁目神戸市林田区一番町一丁目神戸市長田区一番町一丁目

神戸のうち、旧外国人居留地の各町・通には、「神戸」を冠しません。「海岸通」の場合、旧居留地内の海岸通は冠称なし。一方、旧居留地外の「海岸通1~6丁目」には「神戸」を冠していました。区の設置で冠称である「神戸」が取れて元来異質の「海岸通」が二つになり、却って紛らわしくなった珍例です。
同じ「葺合」にあっても、上記の例「生田町」には葺合を冠しますが、「熊内町」には冠しませんでした。同様に「兵庫」にあっても「東山町」には兵庫を冠していませんでした。
さらに都心近くに位置しながら、元々神戸でも兵庫でもなかった旧坂本村の「楠町」や、旧荒田村の「荒田町」にも冠称は付いていません。
[51150] 2006年 5月 3日(水)18:11:29hmt さん
静岡県静岡静岡宿
[51090] 都市名を冠した町名の続編です。

[51058] inakanomozart さんの“静岡○○町”に誘発されて、角川の地名大辞典を見ていたら、「静岡宿」の項目に次の記載がありました。
明治2年から大正4年の町名。明治5年~22年は静岡を冠称。明治22年から静岡市の町名。江戸期からの伝馬町を改称。大正4年伝馬町と改称。

なるほど、明治2年6月20日奉行所から町年寄へのお達し“駿河府中静岡与御唱替被令候”で府中宿が静岡宿になり、明治4年に静岡藩が静岡県に、そして明治5年には城下町と宿場町とを含む市街地の町名に一律に「静岡」を冠称することにしたために、「静岡静岡宿」になってしまったのですね。

このような「冠称」、既に[51090]で明治22年市制施行都市の例を挙げましたが、同じく「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」によると、それ以後に市になった都市でも多数の事例を見出すことができます。
例えば、横手・本荘・鶴岡・酒田・宇都宮・前橋・高崎・八王子・横須賀・三崎・小田原・長岡・高田・新湊・魚津・氷見・八尾・七尾・小松・大聖寺・松任・敦賀・武生・小浜・大野・勝山・鯖江・丸岡・大垣・豊橋・大津・岸和田・洲本・尾道・福山

これらの中には、明治22年には高田を冠称する町のうち51町が高田町に、50町が高城村へという具合に一旦は別々の町村になり、その後両者の合併(明治40年)を経て高田市が誕生した(明治44年)といような経過をとったものもありますが、要するに極めて多くの都市では、明治の前期に、江戸時代からの市街地名を冠称した町名が使われていたことがうかがえます。

これらの大部分は明治22年の市制・町村制の際に市名や町村名になり、「冠称」としては消滅したものと思われますが、市制施行後も「冠称」が付けられた町名もあるのですね。

角川の地名大辞典には、明治12年に神戸区が125町1村で編成された後、
明治中期から旧神戸町の各町は神戸、旧兵庫津の各町および坂本村は兵庫を冠称
とあり、その後の明治22年には、神戸区と荒田村・葺合村が合併して65町、8大字を編成しているので、市制施行の際に町名整理が行なわれたことがうかがえます。

そして、この市制施行・町名整理の後にも、[51105] ニジェガロージェッツ さんが示してくださったように、昭和6年の区設置までの期間は「冠称」が使われ、葺合・平野・尻池など新種の冠称地名も登場しています。

町名に付く「冠称」は、その後も必要に応じて使われました。
東京でも35区が現行の区に統合された昭和22年に、中央区日本橋○○町や、港区赤坂○○町の類が多数できました。
最近の市町村合併で、たくさん生まれている旧自治体名を冠称する町名も、このように見てゆくと、過去の多くの事例からの流れであることを実感します。
[62391] 2007年 11月 4日(日)23:10:2888 さん
鳥取市・久米郡倉吉町・企救郡小倉町の成立等について
[62287][62371][62384] むっくん さん
詳細な調査、投稿ありがとうございます。

(1)久米郡倉吉町について([62287][62371])
「倉吉町の中に東町等」(町が二段階ある)というのは、私も理解しにくいです。むっくんさんの
郡区町村編制法の下で行政機構は、府県―郡区―町村という三段階で例外なく成り立っていたと考えられる
に同感です。郡区町村編制法は、制度自体は成熟したものだと思われます。何らかの考え方で、「倉吉町が神坂村・余戸谷村を合併した」という件が整理できれば、「東町等の25町がM22.10.1に合併して久米郡倉吉町が発足」と考えることには私も異議ありません。
「地方行政区画便覧」の巻頭に「例言」があり、同書で「倉吉葵町」等と、「倉吉」を小さい文字で記載していることについての説明があります。(原文は旧字体)
数町村ニシテ一ノ総称ヲ冠スルモノ(神奈川県武蔵国南多摩郡八王子八幡町同横山町ノ類)ハ総称ヲ其町村名ノ傍ニ細記ス然レモ東京(十五区)京都(二区)及横浜、長崎(一区)ノ如キハ其総称ヲ略ス但神戸区(神戸兵庫ヲ含ム)福岡区(福岡博多ヲ含ム)ノ如キ一区分レテ二総称ヲ有スル者ハ特ニ之ヲ別記ス
「数町村にして」と明記しているように、倉吉各町はやはり、個々の25町と見るのが自然でしょう。むっくんさんの解釈
自治体数としては25であったが、実態は1つの町と人々には見られていた
にも、同感です。全国の城下町などの多くは、同じような実態でしょう。京都の上京区・下京区をあわせた「京都市」の類のものがなかったのもよく似た話でしょうか。むっくんさんの仮説はかなり的を得ていると思います。どうしても文献間の矛盾がある以上、仮設も苦しいのだとは思いますが、全国の他の町村でも同様な例が数多くあると推測され、今後の全国展開に向けてもとても参考になりました。ありがとうございました。

(2)企救郡小倉町について([62384])
福岡県についても、市制町村制の告示(県令)を発見していただき、ありがとうございます。これを見ると、
町村制施行以前はokiさんが[58922]前半分で書かれていたことがおそらく真実ではないかと私は推察しています。
に同感です。
つまり、okiさんのご紹介のように、M8(1875)年の地租改正の際に小倉の室町等25町は「小倉町」となり、M14(1871)の「郡区町村一覧」やM20(1877)の「地方行政区画便覧」では通称の室町等がそのまま記載されてしまったものの、市制町村制時の県令第四十三号では正しく「小倉町 長浜浦 平松浦」が合併して、市制町村制は「企救郡小倉町」となった、と判断します。
なお、「幕末以降・・・」では、M8の「小倉町」となった経緯の記載はないものの、M22の市制町村制は「小倉町 長浜浦 平松浦」の合併と県令どおりの記述となっています。

(3) (1)(2)の総括について
[62287][62384]では、原本ではないもののそれを転載した鳥取県令・福岡県令をご紹介いただいたので、何よりもこれが根拠だと思っています。文献作成時の転載ミスの可能性は皆無ではないのですが、鳥取市久米郡倉吉町ともに、ご紹介のとおりに修正しました(順序、町名とも)。小倉町はまだその入力に至っておりませんので、その際に対応します。
ほんとは「市制町村制の施行は県令によりその効力が生じる」旨の規定どこかにあれば間違いないのですが、「市制町村制」の本文にない以上、これ以上の調査は非常に困難なので諦めています。それにしても、遂に明治22年の県令をもとに議論できることは、とても満足しています。
今後も必要に応じ、「幕末以降・・・」を当面の資料としながら、随時「地方行政区画便覧」「郡区町村一覧」、究極は県令(告示等)を確認したいと思います。
それにしても、「鳥取県令第九拾四号」(明治二十二年九月二十二日)「(香川)県令第八拾四号」(明治二十二年十二月二十八日)、「(福岡)県令第四十三号」と、「県令」が続いています。ここでいう「県令」とは、県知事に相当する「県令」とは明らかに異なりますから、県の「指令(または命令)」という意味なのでしょうね。

(4)その他 郡名の遺漏修正について
[62108] むっくん さん でご指摘のあった、郡名の遺漏についても修正しました。上記の鳥取市久米郡倉吉町の他にも、岐阜市厚見郡西加納町厚見郡東加納町渥美郡豊橋町徳島市松山市越智郡今治町北宇和郡宇和島町北宇和郡吉田町高松市那珂郡丸亀町を修正(郡名を補記)しました。
[62867] 2007年 12月 16日(日)19:57:06【1】むっくん さん
「地名表記」と「町村の総称」
[62778]hmtさん
ましてや、人々の日常生活に縁の薄い戸籍簿書式「府県 + 郡区 + 町村」が地名表記の主流になることはありませんでした。
廃藩置県以降の書物発行で、書物の最後に記される発行者・出版社の住所表記は「府県 + 郡区 + 町村」の形式をとっていたようです。府県が略されることはありはしましたが。。。
上記以外の表記事例を私が単に目にしていないだけ、という可能性も無きにしもあらずなので胸を張っては言えないのですが。。。
#ちなみに大区小区時代には「府県 + 郡 + 大区小区 + 町村」の形式をとっていたようです。

[62856]hmtさん
明治19年の表には、岩槻町の右肩に小さく「岩槻」とあり、それに続く太田町右肩には「同」とあります。これは、両町の総称として冠されたもので、正式には「岩槻岩槻町」なのでしょう。
このことは以前[62391](88さん)で触れられています。要旨を再掲しますと、巻頭の「例言」
数町村ニシテ一ノ総称ヲ冠スルモノ(神奈川県武蔵国南多摩郡八王子八幡町同横山町ノ類)ハ総称ヲ其町村名ノ傍ニ細記ス然レモ東京(十五区)京都(二区)及横浜、長崎(一区)ノ如キハ其総称ヲ略ス但神戸区(神戸兵庫ヲ含ム)福岡区(福岡博多ヲ含ム)ノ如キ一区分レテ二総称ヲ有スル者ハ特ニ之ヲ別記ス
とあることより、あくまでも正式な行政組織名としては「岩槻町」であり「太田町」であるとするのが自然な解釈であるものと考えられます。例え人々の意識が「岩槻の岩槻町」「岩槻の太田町」であるとしても。
そのことを裏付けているものとして、私からは拙稿[62863]で紹介している埼玉県の市制町村制施行に伴う町村の廃置分合規定(県令甲第7号)を挙げておきます。表中の記載によりますと、市制町村制施行で「岩槻町」となったところの旧町村名は「岩槻町」及び「太田町」となっています。
[64173] 2008年 3月 31日(月)04:36:19oki さん
盛岡仁王村について
[64165] hmt さん
これらの村の多くは、近くの「○○町」と共に津・宇都宮・大津・岐阜・青森・山口・宮崎の市街を形成していますが、盛岡城下町だけは市街地の名称に「仁王村」など「村」だけが用いられており、「町」という名は使われていません。
従って、明治22年の市制にあたり、「仁王村」などいくつかの「村」から直接に「盛岡市」が誕生したことになります。
これが 村だけで市になった事例 の第1号と思ったのですが、念のため 新旧対照市町村一覧 を開いてみたら、仁王村・志家村に続いて“仙北町の内”と書いてあります。地方行政区画便覧では「仙北町村」だったのですが、疑問が残ります。

hmt さんがあげられたうち盛岡仁王村(等)は、ほかの村から市になったものとは性格が違うと思うので、以前に調べた結果を記しておきます。

盛岡は南部藩20万石の城下町であり、幕末明治初期、東北のみならず全国でも有数の都市に数えられ、市制施行時の最初の市の一つであったことはご存じの通りです。
通常であれば盛岡レベルの城下町は、郡区町村編制法の下で、区にはならないものの、旧城下町を構成した町々が単独の自治体として郡に直属するのが通例です(多くの場合、各町には城下名が冠称されます)。その中で盛岡のみ、旧城下が解体されて仁王村、志家村、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の「村」になっています(これらの村には盛岡が冠称されています)。
その理由はよく分かりませんが、はっきりしているのは、盛岡城下が村に分解されたのは1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行時ではなく、明治4(1871)年だということです。
南部藩は戊辰戦争の結果いったん改易され、改めて白石13万石に転封されることになりましたが、償金70万両を納めることを条件に盛岡13万石への復帰が許されました。しかし、敗戦、転封、所領の10郡から4郡への縮小などのため、最終的に藩財政が破綻、明治3(1870)年、他藩に1年先がけて廃藩し、盛岡県となっています。
盛岡城下町の各丁、小路が、城下形成以前の旧村に属せられ、城下が(形の上で)消滅するのが翌明治4(1871)年です。廃藩と旧城下町の消滅に何らかの関係があると見るのが妥当でしょうが、理由は不明です。考えられるのは、明治新政府の南部藩に対する懲罰、あるいは南部藩から明治政府に対する恭順の意の表明、というところです。ただ、明治政府にとってのA級戦犯である若松や仙台、長岡でも、旧城下町はそのままの形で維持され、盛岡のように村になってはいませんから、明治政府側の意向とは考えにくい面があります(長岡藩も盛岡と同様、明治3年に財政破綻によって廃藩しています)。南部藩内部には、明治政府への恭順派と反政府派との対立があったようで、盛岡城下の解体にはそれが影響している可能性がありますが、詳しいことは分かりません。

いずれにせよ、盛岡は他の大規模城下町とは異なる形で「村」とされたわけですが、それによって住民が四散したわけではありません。明治5年以降の記録である第1回共武政表で盛岡の人口が25,457人、1880(明治13)年の第2回共武政表で32,735人、1886(明治19)年の地方行政区画便覧で盛岡仁王村をはじめとする6ヶ村の人口が30,069人(盛岡仙北町村、山岸村、新庄村3ヶ村の人口が含まれていません)、1889(明治22)年の合併時点で31,581人等々の状況で、旧城下の人口がそのまま維持され、おそらくは増加傾向を示していたと考えられます。
盛岡が市町村制施行時に最初の市の一つになったのも、市となるに十分な人口と、「都会輻輳ノ地」と呼ぶに相応しい市街地を備えていたからでしょう。その意味で、盛岡仁王村などを「村だけで市になった事例の第1号」と呼ぶのは誤解を招きかねない表現だと思います。行政区画として「村」であったことは事実ですが、そもそも盛岡城下を「村」にしたこと自体が例外的、変則的な事態で、実際には他の城下と同じく、南岩手郡に直属する町の集合体であり、人口集積の面でも、「村」と呼ばれるべき実態はなかったからです。
なお、盛岡市は、仁王村、志家村の全域と、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の各一部(旧城下町部分)が合併して成立しますが、9村の村名は大字として維持され、その下に58の小字が設定されています。この小字が、本来の盛岡の町名に当たるものでしょう。ただ、大字が維持されたために、市内の正式地名は盛岡市大字仁王字内丸などといった表記になったようです。実際には、岩手県の公式文書でも「大字仁王字」の部分が表記されず、盛岡市内丸などとされたようですが。

新旧対照市町村一覧で「仙北町の内」とあるのはよく分かりません。1886(明治19)年の地方行政区画便覧で仙北町村なので、1889(明治22)年の合併時までに仙北町に改称していることは考えにくいのですが、この間の文書が入手できないので、確言はできません。
仙北町(ちょう)は北上川西岸に位置しますが、東岸中心に形成された盛岡城下の一部でした。仙北町村(まちむら)は、城下の一部である仙北町に、北上川西岸の周辺農村を併せて成立した村であったかと思われます。
[64174] 2008年 3月 31日(月)14:52:39【1】hmt さん
Re:盛岡仁王村について
[64173] oki さん
詳細に解説していただき、有難うございます。

2年前に「都市名を冠した町名」という記事 [51090] の末尾で言及した頃から、盛岡市街地を形成する区域であることは想像していました。
しかし、他の都市に比べて数が異常に少ないことと、町でなく村を名乗っていることに疑問を抱いていました。
今回のご教示により、 廃藩翌年の明治4年に旧城下町の解体・再編制が行なわれた結果であることを知り、納得できました。

“村だけで市になった事例 の第1号”というのは、もちろん形式的な話であり、近代産業国家の中で発展した「町村制下の村」が市になったケースと同一視することができないのは当然です。

市内の正式地名は盛岡市大字仁王字内丸

ここは「城下町」ではなく、お城そのものなのでしょうね。
新旧対照市町村一覧 では、盛岡市の旧領域の筆頭に(村も町もつかない)「内丸」が記され、役所役場のマークがついています。
廃城になり住民のいない土地は、明治4年の城下町再編制の際にも「村」を作る必要がなかったのかとも思われますが、地方行政区画便覧による県庁所在地は「盛岡仁王村」となっていますから、やはり(便宜上?)仁王村に属していたのでしょう。

ところで、「盛岡仁王村」か「仁王村」か
地方行政区画便覧 では関係する9村([64173]で列挙された8村+新庄村)に「盛岡」の冠称があります。
しかし、郡区町村一覧 や新旧対照市町村一覧には冠称がなく、単なる「仁王村」と記されています。

『静岡県安倍郡静岡○○町○丁目○○番地』という本籍表示や、“明治5年~22年は静岡を冠称”という角川地名大辞典の記載から、 “静岡県静岡静岡宿” 、更には “正式には「岩槻岩槻町」なのでしょう” と発言したことがあります。
ところが後者については、“あくまでも正式な行政組織名としては「岩槻町」”というご指摘を受けました。
関係記事

府県により扱いが異なる?
[64201] 2008年 4月 2日(水)23:54:07【2】むっくん さん
仙北町村&総称
[64165] hmt さん
念のため 新旧対照市町村一覧 を開いてみたら、仁王村・志家村に続いて“仙北町の内”と書いてあります。地方行政区画便覧では「仙北町村」だったのですが、疑問が残ります。

「仙北町村」or「仙北町」ですが、岩手県における町村制施行区域における各町村の廃置分合を定めた岩手県令第13号から「仙北町村」に関連するところのみを以下に引用します。(ただし、カタカナは平仮名に、漢数字はアラビア数字に、旧字体は新字体に変換しました)

-------------
従来の各村を合併又は分離して左の町村を置く
但町村制施行まては従来の区域名称に依る
明治22年2月16日 岩手県知事 石井省一郎

南岩手郡
新町村名旧町村名
本宮村仙北町の内盛岡市に属せし分を除く。本宮、向中野、下鹿妻
(略)
-------------

さて、この県令の文書では、旧来の○○村は総て村の部分が省かれて記されていることと同時に、従来の“各村”とあることより、「仙北町村」が正しいものと考えられます。

#本来は盛岡市の区域について詳細が書かれている岩手県令第12号を紹介できればなおのこと良かったのでしょうが、原文が見つかりませんでした。


次は町の総称についてです。

[64174]hmtさん
府県により扱いが異なる?

明治になってすぐは、町村の頭に付いている総称が付いていることに対して、どこまでが正式な町村名かがはっきりしていました。ところが明治になって年月が過ぎるにつれて、従来は未発達であった町村が発展したりすることで、「どこの町村に総称を付けて、どの町村にはつけない」という基準が徐々にあやふやになってきたことが考えられます。
そのため、例えば島根県では、甲第42号布達(M19.3.26)において
町村の総称あるものは其町村名の上に総称を冠すへし
とわざわざ布達せざるを得なかったのではないでしょうか。

このようにわざわざ布達などをした府県としては、他には愛知県(甲第56号布達(M17.7.1))や兵庫県(戌第73号告示(M17.6.19))や岡山県(甲第46号布達(M17.6.23))を挙げる事が出来ます。
さらには本文はよく分かりませんが、おそらく総称の取り扱いを再度定義しなおしたと考えられる府県までいれますと、上記に福井県(甲第68号布達(M17.8.28))と長野県(告示戌第132号(M17.7.5))も加えることが出来ます。

このように、明治17年ごろに県布達や県告示などで総称まで正式な行政組織名として含めるのか否かを、一般人にも区別しやすいようにという便宜を図る意味合いで、個別に再度定義しなおした府県があり、その結果として府県により扱いが異なるようにも見える、というのが実は真相であると私は推察しますがいかがでしょうか。
[64213] 2008年 4月 4日(金)19:18:11hmt さん
町村ニ総称アルモノハ其町村ニ総称ヲ冠スヘキ事
[64201] むっくん さん
府県令に立ち入って調べていただき有難うございます。
兵庫県告示を見ると、
町村の総称ある者は其町村の上に総称を冠すべき処往々総称を冠せざる者有之錯雑相生じ不都合少なからず候條以来総て総称を冠すべし
とあり、「総称 + 町村」で呼ぶというルールを徹底するもののようです。
「町村」そのものには総称が付いていないが、“呼び方としては総て総称を冠する”という解釈でよろしいでしょうか?

上記兵庫告示が前提としている“其町村の上に総称を冠すべき”というルールは全国的なものか?

郡区町村一覧では単に(巌手県南巌手郡)「仁王村」だったものが、地方行政区画便覧の第一表( 県庁所在地 )では「南岩手郡盛岡仁王村」となっているのは、上記のルールに基づいて「郡 + 総称 + 町村」とうフォーマットで記載した結果と理解されます。
なお、同書の第二表(郡役所所在地、17コマ)では「盛岡仁王村」の右肩に小さい字で「南岩手」と郡名がつけられ、第三表(戸長役場、320コマ)では「仁王村」の右肩に小さい字で「盛岡」という総称が表示され、郡>総称>町村という階層の存在を読み取ることができます。

上記第一表で他の県庁所在地を見ると、静岡県庁所在地は「安倍郡静岡追手町」と総称が付きますが、岐阜米屋町の戸長役場管内ながら「岐阜」の総称が付いていない今泉村の岐阜県庁[20742] の所在地は「厚見郡今泉村」です。
それはよいのですが、滋賀県庁所在地の滋賀郡「別所村」の右肩には「大津」の総称を意味する「同」が付いているのに、第一表では「大津別所村」と表記されていません。栃木県庁所在地の河内郡「塙田村」にも「宇都宮」の総称があるのに冠されていません。
やはり府県により扱いが異なるのでしょうか?

“其町村の上に総称を冠す”という昔のルールを見ているうちに、現代の市町村の内部に存在する階層構造のことを思い出しました。
広島市佐伯区-湯来町-大字和田(佐伯区役所湯来出張所) の「湯来町」は、合併に伴なった「新設の町」[48729] ゆうさん。
上越市-柿崎区-柿崎(柿崎区総合事務所) や 相模原市-津久井町-(大字)青山(串川出張所) における中間階層は、「合併特例法に基づく地域自治区」の名称[48804] suikotei さん。

姫路市の区 も内部階層のように見えますが、姫路市
飾磨区細江など、○○区○○で一つの地名となります。
と言っているので、「町丁字」の中に含まれている「○○区」は 実体的な階層構造を形成しておらず、「みかけの階層」ということになります。

「盛岡仁王村」や「静岡追手町」の例に見える町村に冠せられた「総称」も、町村より上位という違いはありますが、当時の地方行政体系であった「県-郡-町村」の中間に発生した「表記上の階層」と見ることができます。但し、「戸長役場管轄区域」とほぼ一致して、実質的な階層に近いものとなっているケースも多いようです。

現代の地方行政体系は「県-市町村」になっていますが、両者の間には実体を失った「郡」が「表記上の階層」として存在しています。
地方自治体としての「郡」が1923年に廃止され、行政官庁として実体も1926年に失った後も、都道府県の中に同名の村を含めて多数の町村があった時代には、概略の位置を知るためにも「表記上の階層」である「郡」の存在意義は大いにありました。

ところが、昭和大合併を経て平成大合併の時代になると、町村の数は劇的に減少し、「表記上」の存在意義も失われてきたのは事実です。
でも、2004年に岡山県加賀郡、2005年に石川県鳳珠郡、福井県三方上中郡、北海道二海郡、2006年に北海道日高郡と、新しい名前が次々と登場していることが示すように、「表記上の階層」である「郡」は厳として存在しています。

“私は昨年まで郡を省略して○○県○○町としておりました。” とする 白桃さん[64142] の言い分も理解はできますが、あくまでも「省略」ですね。
町村名の方を「省略」して、○○県○○郡と“ご丁寧?に変更”した若い女性に対しては、「形式的には」同程度の省略だが、「地理的実務」では大きな違いがあるのだよ ということを、丁寧に教えてあげましょう。
[64674] 2008年 4月 13日(日)06:48:18【5】むっくん さん
総称PART2
[64213]hmtさん
「町村」そのものには総称が付いていないが、“呼び方としては総て総称を冠する”という解釈でよろしいでしょうか?

総称の扱いについて語るには、少なくても明治初期の大区小区制の時代にまで遡る必要があると考えます。
例えば総称のある大津では、内務省布達甲第4号(M8.2.8)では、
「滋賀県近江国滋賀郡第三区大津町之内 米屋町,塩屋町→白玉町」
という書き方になっています。
この時代、正式に総称があるのはあくまでもある程度の大きさの町のみであり、農村部にも存在していた『○○郷』や『△△荘』『××庄』といった総称は内務省としては無視していたようで見つけることが出来ません。

その後、郡区町村編制法が施行されます。「郡区町村一覧」を見ますと、大津のように一町とならなかったところでは総称“大津”が小さく記されていることが分かります。これが原則です。
ところが尼ヶ崎のように合併して一町となってしまっているところでは従来のような総称“尼ヶ崎”は当然付いていません。また、神戸のように区制が施行された地域では町名に総称は付きません。

「郡区町村一覧」における総称の記載方針はその後の「地方行政区画便覧」においても基本的には踏襲されたのでしょう。
「郡区町村一覧」で総称が記載されているところと、「地方行政区画便覧」で総称が記載されているところは一部の例外を除き、大部分は重なるようです。

さて、ここからが本論です。
ここで考えたいのが鳥取です。総称“鳥取”を構成する各町においては、郡区町村一覧を見ますと、総称“鳥取”の文字が小さく記されています。地方行政区画便覧においても同様に総称“鳥取”の文字が小さく記されています。
しかしながら、市制町村制施行時には、鳥取を構成する各町には総称“鳥取”が記されていません。([62287]拙稿参照)

これは何を意味するのでしょうか。鳥取の事例が指し示すものは、「郡区町村編制法が施行されたときの公式な町名には総称が付かない」ことであると私は推察します。さらには鳥取に限らず、全国総ての町名には公式な総称が付かない原則であるということが実情であったと考えることは出来ないでしょうか。
このように考えると、公式な町名には総称が付かないことが支障をきたしたために、例えば兵庫県では戌第73号告示(M17.6.19)で、姫路など総称のあるところでは総称をつけた町名を初めて公式な町名とした、と考えることが出来ます。
そしてこの告示があったことで、市制町村制施行時の廃置分合根拠の兵庫県令第24号(M22.2.22)で市制町村制前の町村名に姫路や西宮などの総称を見出せるようになりました。

[64201]拙稿で記した各県の布達・告示を、上述のように、「布達・告示の時に初めて総称までが公式な町村名となった」と私は解釈しているのですがいかがでしょうか。

この考えに基づくならば、盛岡や以前の岩槻([62856][62867])の事例は総称に対する布達・告示がなかったとするならば説明できますし、岐阜の事例においては総称に対する布達・告示があったとするならば説明することが出来ます。実際はどうだったのかは分かりませんが。

#本稿での兵庫の総称としては『明治前期全国村名小字調査書第三巻(著:内務省地理局編纂物刊、出版:ゆまに書房、昭和61年)』を参考としました。同書によると、明治7年当時に兵庫県の町名に付いていた総称としては、神戸, 兵庫, 西宮, 尼ヶ崎, 三木, 高砂, 姫路, 豊岡, 柏原, 出石郷がありました。
#『明治前期全国村名小字調査書』の詳細については[54378]に書いていますので、ここでは省略します。


滋賀県庁所在地の滋賀郡「別所村」の右肩には「大津」の総称を意味する「同」が付いているのに、第一表では「大津別所村」と表記されていません。
正式には別所村ですので、第一表で「大津別所村」ではなく「別所村」と表記されていることについては何の問題もありません。問題は滋賀郡「別所村」の右肩に「大津」の総称を意味する「同」が付いていることです。

本当のところはよく分かりません。ただ仮説を2つばかり挙げることが出来ます。

「仮説1:滋賀県の県庁の位置と何らかの関係があるのではないかということ」

まず廃藩置県の前に幕府直轄地であった大津は、大津裁判所を経て明治元年閏4月に大津県となります。この後、大津県の管轄地域ではない、別所村にある園城寺の円満院に県庁が移ります。その後廃藩置県及び県の廃置分合を経て明治5年に現在の滋賀県が成立します。円満院は明治21年に現在地(当時は東浦村)に新たに県庁舎が建設されるまで、県庁舎として使わます。(参考:滋賀県HP県庁舎の歴史
ここでは単に、本来大津にあるべき県庁舎が単に一時的に園城寺の円満院に移っているだけ、でありそのことを示すために本来は総称がつかないはずの別所村に“大津”との総称が付いている、と考えられないでしょうか。苦しい説明ですが。。。

「仮説2:園城寺(寺門)と比叡山延暦寺(山門)との歴史より」

園城寺(寺門)は常に比叡山延暦寺(山門)と対立してきた歴史もあり、延暦寺の所在地は比叡山&坂本に、園城寺の所在地は大津にあるとおそらく当時の人々(少なくても近隣府県の人々)は認識していたことでしょう。その人々の認識も相まって、園城寺のある別所村は大津別所村と書かれ、別所村と大津の間にあって、大津と一体化しつつあった神出村も大津神出村と書かれている、と解釈することができます。仮説1と比較すると無理はあまりありません。
しかしながら、私の総称に対する考えと整合性があるようにするためには、『大津別所村と大津神出村の2村だけは公式な町村名に含まれない単なる総称であり、他の大津各町の右肩にある「大津」は公式な町名に入っている』という状況を作らなければなりませんが、当然ながらありえません。この仮説はhmtさんの
「町村」そのものには総称が付いていないが、“呼び方としては総て総称を冠する”という解釈
とのみ親和性があることとなります。
[64833] 2008年 4月 20日(日)17:06:11hmt さん
町村の総称(1)福井は消えてしまったのか?
明治22年の町村制以前の時代に使われた「総称」とは何か。「都道府県市区町村」(当時は「府県・郡区・町村」ですが)の中における「町村の総称」なるものの位置付けを探ります。過去記事

明治12年の 郡区町村一覧 の石川県越前国足羽郡をご覧ください。92町が並んだ大きな市街地があります。
この市街地は、もちろん「福井」のことです。寛永元年(1624)に北ノ庄から縁起の良い地名(当初は福居)に改められ、元禄の頃から「福井」と呼ばれてきた親藩の城下町です。
しかし、「府県・郡区・町村」という階層からなる明治11年からの行政区画名には「福井」の名が見えません。
福井は消えてしまったのか?

「総称」とは、このような不都合を解決する仕組みであったと思われます。
例えば、島根県島根郡(171コマ)22町と意宇郡11町に、町名の右に小さな字の肩書「松江」を共有する町々があります。
これは、“消えた松江”になることを避けるため、正式町名の傍に「総称」として市街地全体を示す地名を注記したものであると理解されます。
「総称」として実質的な市街地名を残す手法は、松江の他にも鳥取・姫路・松山・大津など多くの都市で採用されています。
神奈川県南多摩郡(26コマ)の「八王子」も同類ですが、誤記のために肩書はいきなり「同」で始まっています。

新潟県中頚城郡(52コマ)では、「高田ノ内」(90町)、「直江津ノ内」(15町)という肩書表記になっています。
石川県越中国の場合は、上新川郡(168コマ)77町と婦負郡8町とにまたがる「富山○○町」という町名群が見られます。町名に「富山」を冠称することにより、行政区画の「郡」を越えた富山市街地の存在を示し、肩書総称と同様の効果を果たしています。
もちろん金沢532町(153コマ)の場合は、市街地の範囲が行政的にも一つの「金沢区」が設定されているので、町名に総称をつける必要はありません。

このように、郡区町村編制法施行から間もない時期に編纂された明治12年の資料では、行政区画としては使われなかった市街地の「地名」を示す目的で、肩書総称を使い始めていますが、まだ全国的には不統一です。
富山・静岡のように肩書でなく冠称で処理した市街地もあり、福井・宇都宮・岐阜・岡崎など範囲を示す総称の記載を欠く市街地も存在します。「広島区広島○○町」のように不必要と思われる総称を使った事例もあります。

タイトルには“福井は消えてしまったのか?”などと刺激的な書き方をしましたが、実質的には「福井」という市街地名は使われ続けており、「郡区町村一覧」に「総称」として記載されていなかっただけであると推察します。

「福井」という市街地名が使われていた証拠として、明治14年2月7日の 太政官布告 を挙げておきます。
今般福井県を置き越前若狭両国一円管轄せしめ 堺県を廃し大坂府へ合併候條此旨布告候事
但福井県庁の位置は越前国足羽郡福井に相定候事
[64835] 2008年 4月 20日(日)17:14:55hmt さん
町村の総称(2)「行政区画」と市街地名たる「総称」の関係
明治11年の郡区町村編制法では、「福井」などの市街地名が正式行政地名の枠外になってしまい、この不都合を解決するために「郡区町村一覧」には町村の「総称」が記載されましたが、不徹底な部分や表記の不統一がありました。

明治19年の「地方行政区画便覧」になると、福井などの市街地にも「総称」が記され、冠称書式となっていた富山・静岡も肩書書式に変っています。その一方で、屋上屋を架する感のあった広島区内の町名総称は廃止されました。
要するに、「肩書総称」表記に統一されたわけです。この本の例言に、“数町村ニシテ一ノ総称ヲ冠スルモノハ総称ヲ其町村名ノ傍ニ細記ス”と記されたことは 88さん[62391] が引用されている通りです。

この「地方行政区画便覧」では、福岡区 の中に「福岡」と「博多」、神戸区(96コマ)の中に「神戸」と「兵庫」、というそれぞれ「1区2総称」が登場して複合都市を印象付けます。
[54297]で、既に「神戸区」が誕生しているのに、「神戸区市街之図」でなく「兵神市街之図」となっていること指摘したのですが、行政区画としては単一の「神戸区」であっても、市街地名としては「神戸」であり「兵庫」である意識なのでしょう。もう少し前の時代、行政区画が「愛知県第一区」だった時代の市街地名「名古屋」の例[62886]を考えれば、よく理解できます。

隣接する市街地で異なる総称が用いられている例としては、岐阜県厚見郡の岐阜と加納の場合も同様ですが、岐阜市が加納町を編入したのは市制町村制施行後半世紀を経た1940年でした。

ところで、「行政区画」たる郡区・町村の枠外で使われ始めたとおぼしき「総称」は、町村制実施までの間に「正式の町名の一部」に組み込まれたものと、「枠外」に留まったものとが存在するようです。

この点に関しては [64174]に対する むっくんさんのレス[64201]があり、島根・愛知・兵庫・岡山などいくつかの県において“町村の総称あるものは其町村名の上に総称を冠すへし”という趣旨の布達や告示が出されていることの教示をいただきました。
更に、町村制施行の際の「旧町村名」を根拠として、明治17年に告示のあった兵庫県においては姫路や西宮という総称が公式町村名の一部になっており、(そのような告示のなかったと思われる)鳥取県では総称が旧町村名に組み込まれていないことも示されました[64674]

総称を正式町名に組み込む布達や告示の有無(特に存在しないこと)を網羅的に調べるのは困難ですが、町村制施行の際の「旧町村名」を根拠とするこの手法を使えば、全国的な情況が判明するので、調べてみました。

既に [62863]むっくんさん により町村制施行の際の府県令を紹介していただいており、「旧町村名」はこれに求めるのが本筋でしょうが、ここでは 新旧対照市町村一覧 を利用しました。この資料は冠称表記になっており、原典(兵庫県令) の肩書表記と相違がありますが、今回の調査目的には支障ないものと思われます。
その結果、総称の扱いは府県により異なるだけでなく、同一の県内でも異なる事例があることがわかりました。

例えば明治22年旧町村名を調べてみると、神奈川県南多摩郡「八王子」の総称は「正式の町名の一部」に組み込まれたことがわかります。
しかし、同じ神奈川県内でも、橘樹郡「保土ヶ谷町」等4町に使われていた (違う字の)「程ヶ谷」の総称 は使われておらず、川崎(4町)・神奈川(2町)の場合と共に「郡区町村の枠外」に留まったと判断されます。
新潟県中頚城郡高田・直江津の場合。
明治12年には「高田ノ内」等だったのが、明治19年には普通の肩書総称表記で高田と直江津。これが明治22年の旧町村になると、高田の冠称は高田町と高城村の旧町名に多数並んでいるのに、直江津はなし。(これは統合の影響?)
[64836] 2008年 4月 20日(日)17:21:57【1】hmt さん
町村の総称(3)「総称」が正式町村名に組み込まれた府県、「枠外」に留まった県
「地方行政区画便覧」で使われた「総称」と、明治22年旧町村名とを比較して、総称が正式町村名に組み込まれた府県を列挙してみました。(グループ1)
秋田県、山形県、茨城県、栃木県、群馬県、東京府、神奈川県、新潟県、富山県、石川県、福井県、山梨県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、京都府、大阪府、兵庫県、島根県、岡山県、広島県、愛媛県、高知県、佐賀県

ざっと眺めた結果をまとめただけなので、見落しがあるかもしれません。水戸や松本のような少し怪しいものも含んでいますがご容赦ください。

明治19年に総称が用いられていたが、郡区町村の「枠外」に留まった県も挙げておきます。(グループ2)
青森県、岩手県、埼玉県、滋賀県、鳥取県、山口県、徳島県、香川県(M19は愛媛県)、福岡県、大分県、宮崎県、鹿児島県

# 大分県大分郡大分大分町 の「3番目の大分」は行政区画枠外の総称であり、[51150]で触れた静岡県 静岡静岡宿 のような正式町名ではなかったようです。
# 正式町名ではない「総称」を許容すれば、大分県大分郡大分大分町も 同音繰り返し四冠王の仲間入りをします。静岡県(有渡郡)静岡静岡宿の方は、静岡市ができた後は静岡県静岡市静岡宿で三冠のまま。

そして、明治19年の地方行政区画便覧で総称が未確認の県。(グループ3)
宮城県、福島県、千葉県、奈良県(当時は大阪府)、和歌山県、長崎県、熊本県

ここで、滋賀県の滋賀郡別所村について。
[64213]で 地方行政区画便覧の第三表では「大津」を意味する肩書総称「同」が付いているのに、第一表(県庁所在地)では単に「別所村」と表記されている旨を記したところ、むっくん さん[64674]から正式には「別所村」なのになぜ第三表に肩書総称がついたのかについて、 2つの仮説を挙げたレスをいただきました。

滋賀県については、明治19年に「大津」の総称が用いられていましたが、明治22年の旧町村名を見るとこの総称は正式町村名に組み込まれていません。つまり、上記のグループ2に属する滋賀県では、島根・愛知・兵庫・岡山などの県(グループ1)で実施された「総称の正式町名化」が行なわれなかったものと推察されます。
ということで、特別な仮説を立てなくとも、第一表と第三表の違いは納得できます。

なお、地方行政区画便覧で「大津」の総称が用いられていた別所村・神出村は、郡区町村一覧 では 大津の総称が用いられた範囲 の外となっており、大津市街地の境界付近に存在した様子を窺うことができます。

総称を「枠外」に留めたグループ2の県は少数派ですが、大津のほかに、盛岡[64174]、岩槻[62867]、更には倉吉でも問題の種になりました。
88さん が[62245]で疑問を呈しておられる「倉吉町」について推測します。
郡区町村一覧 の時代(M13)には「倉吉町」が存在しました。
しかし、地方行政区画便覧の時代(M19)になると、「倉吉」という総称を付けて記載されている市街地は、行政上の公式町名としては 東町・西町などの25町 に分割されており(分割の時期は不明)、実体は「(倉吉)西町戸長役場」管轄下の一体化した市街地であっても「倉吉町」そのものの名称は消滅していたのでしょう。
そして、明治22年に町村制が施行された時の鳥取県令[62287]に記されているように、(正式には倉吉という総称が付けられていない)25町から新たな「倉吉町」が生まれたということになります。


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