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[51058] 2006年 4月 29日(土)21:34:32【1】inakanomozart さん
従来からの区域
[51056] 2006年 4月 29日(土) 19:46:14   hmtさん
「市」はこの時に初めてできたと思われるのに、「従来ノ区域」などあったのですかね?
長崎区、金沢区など「区」のあった区域はもちろんのことですが、以前は町々を統合する行政区域が存在しなかった?城下町にも、「従来からの市街化区域」自体はは存在していたということなのでしょう。

私のルーツを何代かさかのぼった戸籍の謄本を見ると、1888年以前のものと思われる戸籍の本籍欄は
『静岡県安倍郡静岡○○町○丁目○○番地』とあり
その後、市町村制度発足後の戸籍の本籍欄は
『静岡市○○町○丁目○○番地(以後静岡県の記載が省略されている。)』とあります。
(この「○○町○丁目」は、いわゆる江戸期からの駿府城下の町名のひとつ)

この「安倍郡静岡」と言うのが「従来からの区域」ということになると思われますが、ただ単に、『静岡』というのは、今の感覚からするとちょっと違和感を感じたりします。
(当時、いわゆる『静岡』周辺には、今の町・村とは違うとは思いますが、○○町・○○村というのが存在したようですが、それらの町・村との関係においては、町でも村でもなく特別な存在だったのでしょうか?)
[51090] 2006年 5月 1日(月)19:04:32【1】hmt さん
都市名を冠した町名
[51058] inakanomozart さん
『静岡県安倍郡静岡○○町○丁目○○番地』
この「安倍郡静岡」と言うのが「従来からの区域」ということになると思われますが、ただ単に、『静岡』というのは、今の感覚からするとちょっと違和感を感じたりします。

なるほど、明治22年の「市制」によって静岡市になった「従来からの区域」安倍郡と有渡郡とにまたがる124町(追手町、鷹匠町一丁目、…、安倍川町、白山町)は、従来から習慣的に「静岡」と呼ばれていた区域というだけでなく、戸籍簿にも「静岡○○町○丁目」というように「静岡」を冠した町名が記されていたのですか。

# “従来から”と言っても、駿河府中からの改称は明治2年のことでした。[12387]
静岡市の建てた由来記によると、賤機山(しずはたやま)の字を学者の向山黄村が「静岡」に変えたとのこと。

それはともかく、改めて 太田孝(編)「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」を見た結果、明治22年中に市になったところでは、秋田、山形、米沢、水戸、富山、高岡、福井、甲府、岐阜、津、姫路、松江、岡山、徳島などの諸都市で、それぞれの都市名を冠した町名を確認することができました。
静岡の場合、戸籍簿からすると、正式には「静岡」を冠した町名だったように思われますが、この資料に収録された静岡124町名の頭には「静岡」が付いていませんでした。自明の場合は冠が省略されることが多かったのだろうと思われ、この資料では冠のない他の都市でも、正式には都市名を冠していた可能性があります。

面白いのは神戸市で、神戸海岸通一丁目以下「神戸」を冠する51町、兵庫多聞通一丁目以下「兵庫」を冠する79町、それに八部郡荒田村、菟原郡葺合村となっていました。前身として「神戸」と「兵庫」という2つの市街地が存在したことがはっきりと示されています。もちろん、この場合は「市制」よりも10年前に「神戸区」として一応は統合されていたわけですが。

神戸と兵庫との関係については、ニジェガロージェッツ さんが詳しく紹介されています[18378]
安政5年(1858)の日米修好通商条約で開港を約束した5港のひとつ「兵庫」ですが、警備上の理由から外人居留地のある開港場は少し離れた「神戸」にしたという「兵庫と神戸との関係」は、「神奈川と横浜との関係」[20917]と類似していますが、地理的には神奈川と横浜ほどには隔絶していなかったようです。

福岡市の場合も「福岡」と「博多」を冠した2つの市街地が町名から認められるのかと思ったのですが、前記資料ではほとんどの町名に冠は付いていませんでした。

東京市の町名にも冠によるグループが認められます。例えば東京市牛込区には、市ヶ谷田町一丁目以下「市ヶ谷」を冠する町名が29、牛込細工町以下「牛込」を冠する町名が46ありました。なお、江戸時代には御細工町・御納戸町[43929]、現在は細工町、納戸町[41218]で、「牛込」は区名だけでなく町名の冠称からも消えてしまいました。

タイトルの「都市名を冠した町名」からは外れますが、この資料「幕末以降市町村名称変遷系統図総覧」を見ると、各都市になった江戸時代からの町名の数には大きな相違のあることがわかります。

おそらく現在でも最大と思われる町名の宝庫・京都市は2区で2000町、東京市は15区で1400町、大阪市の4区520町よりも多いのが金沢市531町。御三家の城下町は和歌山400町、名古屋276町、水戸120町。
極端に少ないのが盛岡市で、市制施行前の区域にあった村は、南岩手郡仁王村、志家村と7村の一部という少数でした。
行政区画の名称や数はともかくとして、これも従来から「盛岡」と呼ばれる一つの市街地を形成していた区域なのでしょう。
[51105] 2006年 5月 2日(火)00:47:02【2】ニジェガロージェッツ さん
旧神戸市街地に見られた「冠称」
[51090] hmt さん
面白いのは神戸市で、神戸海岸通一丁目以下「神戸」を冠する51町、兵庫多聞通一丁目以下「兵庫」を冠する79町、それに八部郡荒田村、菟原郡葺合村となっていました。前身として「神戸」と「兵庫」という2つの市街地が存在したことがはっきりと示されています。

過去の拙稿までリンク頂き、恐縮です。
少し補足させていただきます。
戦前の神戸市の住所表示において、町名に「神戸」とか「兵庫」とか「尻池」とかを冠していたのは、昭和6年9月1日の行政区設置までです。
例えば
区設置前昭和6年9月区設置後現在
神戸市神戸海岸通一丁目神戸市神戸区海岸通一丁目神戸市中央区海岸通一丁目
神戸市葺合生田町一丁目神戸市葺合区生田町一丁目神戸市中央区生田町一丁目
神戸市葺合二宮町一丁目神戸市葺合区二宮町一丁目神戸市中央区二宮町一丁目
神戸市神戸三宮町一丁目神戸市神戸区三宮町一丁目神戸市中央区三宮町一丁目
神戸市兵庫多聞通一丁目神戸市湊東区多聞通一丁目神戸市中央区多聞通一丁目
神戸市兵庫多聞通七丁目神戸市湊東区多聞通七丁目神戸市兵庫区西多聞通一丁目
神戸市兵庫東出町一丁目神戸市湊西区東出町一丁目神戸市兵庫区東出町一丁目
神戸市平野神田町神戸市湊区神田町神戸市兵庫区神田町
神戸市尻池菅原通一丁目神戸市林田区菅原通一丁目神戸市長田区菅原通一丁目

但し、当時の神戸市街地全域にこうした「冠称」が付いていたかと言えば、そうではありません。
以下、冠称の付かなかった例です。
区設置前昭和6年9月区設置後現在
神戸市海岸通神戸市神戸区海岸通神戸市中央区海岸通
神戸市熊内町一丁目神戸市葺合区熊内町一丁目神戸市中央区熊内町一丁目
神戸市東山町一丁目神戸市湊西区東山町一丁目神戸市兵庫区東山町一丁目
神戸市荒田町一丁目神戸市湊東区荒田町一丁目神戸市兵庫区荒田町一丁目
神戸市楠町一丁目神戸市湊東区楠町一丁目神戸市中央区楠町一丁目
神戸市菊水町一丁目神戸市湊区菊水町一丁目神戸市兵庫区菊水町一丁目
神戸市一番町一丁目神戸市林田区一番町一丁目神戸市長田区一番町一丁目

神戸のうち、旧外国人居留地の各町・通には、「神戸」を冠しません。「海岸通」の場合、旧居留地内の海岸通は冠称なし。一方、旧居留地外の「海岸通1~6丁目」には「神戸」を冠していました。区の設置で冠称である「神戸」が取れて元来異質の「海岸通」が二つになり、却って紛らわしくなった珍例です。
同じ「葺合」にあっても、上記の例「生田町」には葺合を冠しますが、「熊内町」には冠しませんでした。同様に「兵庫」にあっても「東山町」には兵庫を冠していませんでした。
さらに都心近くに位置しながら、元々神戸でも兵庫でもなかった旧坂本村の「楠町」や、旧荒田村の「荒田町」にも冠称は付いていません。
[51150] 2006年 5月 3日(水)18:11:29hmt さん
静岡県静岡静岡宿
[51090] 都市名を冠した町名の続編です。

[51058] inakanomozart さんの“静岡○○町”に誘発されて、角川の地名大辞典を見ていたら、「静岡宿」の項目に次の記載がありました。
明治2年から大正4年の町名。明治5年~22年は静岡を冠称。明治22年から静岡市の町名。江戸期からの伝馬町を改称。大正4年伝馬町と改称。

なるほど、明治2年6月20日奉行所から町年寄へのお達し“駿河府中静岡与御唱替被令候”で府中宿が静岡宿になり、明治4年に静岡藩が静岡県に、そして明治5年には城下町と宿場町とを含む市街地の町名に一律に「静岡」を冠称することにしたために、「静岡静岡宿」になってしまったのですね。

このような「冠称」、既に[51090]で明治22年市制施行都市の例を挙げましたが、同じく「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」によると、それ以後に市になった都市でも多数の事例を見出すことができます。
例えば、横手・本荘・鶴岡・酒田・宇都宮・前橋・高崎・八王子・横須賀・三崎・小田原・長岡・高田・新湊・魚津・氷見・八尾・七尾・小松・大聖寺・松任・敦賀・武生・小浜・大野・勝山・鯖江・丸岡・大垣・豊橋・大津・岸和田・洲本・尾道・福山

これらの中には、明治22年には高田を冠称する町のうち51町が高田町に、50町が高城村へという具合に一旦は別々の町村になり、その後両者の合併(明治40年)を経て高田市が誕生した(明治44年)といような経過をとったものもありますが、要するに極めて多くの都市では、明治の前期に、江戸時代からの市街地名を冠称した町名が使われていたことがうかがえます。

これらの大部分は明治22年の市制・町村制の際に市名や町村名になり、「冠称」としては消滅したものと思われますが、市制施行後も「冠称」が付けられた町名もあるのですね。

角川の地名大辞典には、明治12年に神戸区が125町1村で編成された後、
明治中期から旧神戸町の各町は神戸、旧兵庫津の各町および坂本村は兵庫を冠称
とあり、その後の明治22年には、神戸区と荒田村・葺合村が合併して65町、8大字を編成しているので、市制施行の際に町名整理が行なわれたことがうかがえます。

そして、この市制施行・町名整理の後にも、[51105] ニジェガロージェッツ さんが示してくださったように、昭和6年の区設置までの期間は「冠称」が使われ、葺合・平野・尻池など新種の冠称地名も登場しています。

町名に付く「冠称」は、その後も必要に応じて使われました。
東京でも35区が現行の区に統合された昭和22年に、中央区日本橋○○町や、港区赤坂○○町の類が多数できました。
最近の市町村合併で、たくさん生まれている旧自治体名を冠称する町名も、このように見てゆくと、過去の多くの事例からの流れであることを実感します。
[62856] 2007年 12月 15日(土)17:50:45hmt さん
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (6)郵便制度の影響? その1
埼玉県南埼玉郡岩槻町以下の町村名が列挙された 明治13年「郡区町村一覧」の 埼玉県
現在の視点からすると、これは「地名」のリストに見えるのですが、実は「郡区町村編制法」によって「編制」された「地方行政組織」のリストなのでした[62795]

「地方行政組織」であることは、明治11年の布告名だけでなく、明治19年1月のデータを記載した「地方行政区画便覧」というタイトルにも現れています。こちらは、 対応するページ を見てもわかるように、郡と町村の間に「戸長役場の所在地」という欄が設けてあり、行政組織表であることがより明らかになっています。

脱線しますが、約6年を隔てたこの二つの表を見て気がついたこと。
明治13年には「南埼玉郡」が埼玉県の筆頭に掲げられていましたが、明治19年では郡を記す順番が、浦和町のある北足立郡から始まる時計回りに改められました。現在も使われている順番です。
これは、埼玉県の県庁所在地が最初は「埼玉郡岩槻」とされ、県名もこの郡名によりましたが、実質的には旧浦和県の県庁舎(足立郡所在)が使われ、そのまま浦和に居座ったためです。関係記事

なお、武蔵国北足立郡浦和町が埼玉県庁所在地になったのは、正式には 明治23年の勅令 によりますが、地方行政区画便覧の時代には、既に既成事実になっていたと理解できます。

明治19年の表には、岩槻町の右肩に小さく「岩槻」とあり、それに続く太田町右肩には「同」とあります。これは、両町の総称として冠されたもので、正式には「岩槻岩槻町」なのでしょう。

ここで 静岡県静岡静岡宿[51150] のことを思い出して確認してみたら、確かに 静岡県有渡郡静岡誉田町戸長役場管内 の「静岡宿」の右肩に(静岡を意味する)「同」の文字がありました。

本論に戻り、最初は「行政組織名」だった「府県」[62778]が、どのようにして「地名」になったのか?

過去の発言中に次のような記事がありました。
[47066] ゆう さん
国にかわる地域単位としての都道府県名は、住所表記が「道府県名+(郡名)+市町村名+字など」という形式が普及する過程で一般化したのではないかと思います。とりわけ、郵便制度の影響が大きかったのではないでしょうか。
住所表記に「国名」を使っていれば、今でも「県」は役所の名前に過ぎないままだったかもしれません。

たしかに、郵便は日常生活に密着していること、戸籍の比ではありません。
住所表記の「府県+郡市町村+町字+番地」という書式が定着すれば、郵便の宛先で「府県」を地名として使う機会が多くなります。
でも、その前に「国+郡区町村…」から「府県+郡市町村…」になったのは、果たして郵便制度の影響でしょうか?
[62867] 2007年 12月 16日(日)19:57:06【1】むっくん さん
「地名表記」と「町村の総称」
[62778]hmtさん
ましてや、人々の日常生活に縁の薄い戸籍簿書式「府県 + 郡区 + 町村」が地名表記の主流になることはありませんでした。
廃藩置県以降の書物発行で、書物の最後に記される発行者・出版社の住所表記は「府県 + 郡区 + 町村」の形式をとっていたようです。府県が略されることはありはしましたが。。。
上記以外の表記事例を私が単に目にしていないだけ、という可能性も無きにしもあらずなので胸を張っては言えないのですが。。。
#ちなみに大区小区時代には「府県 + 郡 + 大区小区 + 町村」の形式をとっていたようです。

[62856]hmtさん
明治19年の表には、岩槻町の右肩に小さく「岩槻」とあり、それに続く太田町右肩には「同」とあります。これは、両町の総称として冠されたもので、正式には「岩槻岩槻町」なのでしょう。
このことは以前[62391](88さん)で触れられています。要旨を再掲しますと、巻頭の「例言」
数町村ニシテ一ノ総称ヲ冠スルモノ(神奈川県武蔵国南多摩郡八王子八幡町同横山町ノ類)ハ総称ヲ其町村名ノ傍ニ細記ス然レモ東京(十五区)京都(二区)及横浜、長崎(一区)ノ如キハ其総称ヲ略ス但神戸区(神戸兵庫ヲ含ム)福岡区(福岡博多ヲ含ム)ノ如キ一区分レテ二総称ヲ有スル者ハ特ニ之ヲ別記ス
とあることより、あくまでも正式な行政組織名としては「岩槻町」であり「太田町」であるとするのが自然な解釈であるものと考えられます。例え人々の意識が「岩槻の岩槻町」「岩槻の太田町」であるとしても。
そのことを裏付けているものとして、私からは拙稿[62863]で紹介している埼玉県の市制町村制施行に伴う町村の廃置分合規定(県令甲第7号)を挙げておきます。表中の記載によりますと、市制町村制施行で「岩槻町」となったところの旧町村名は「岩槻町」及び「太田町」となっています。


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