気球や飛行船はさておき、「空気よりも重い飛行機械」においても、1853年には、
ケイリー卿 Sir George Cayley による有人滑空飛行が実施されました
[47496]。場所は、イギリスのヨークシャー州、スカボロー近くの彼の領地でしょう。
この時、単葉グライダーに乗せられた大人は、ケイリー卿の馬車の御者で、“私の仕事は馬を操ることで、空を飛ぶことではない”と哀訴した話が伝えられています。
1849年には少年を乗せた「制御可能なパラシュート」(三葉グライダー)を飛ばしているとか。
この1853年の実機テストは、ケイリー卿79歳の晩年の話ですが、仰角のある固定主翼と調節可能な尾翼とを備えた最初の模型は、はるかに早い時期の1804年に作られています。
1809年には、“空気の抵抗に打ち勝つことのできる動力を用い、固定した翼面に働く揚力によって重量を支えること、これが問題のすべてだ”と飛行の原理を明確に認識しています。
ケイリーの説に基づいて、1840年に「空中蒸気車」を設計した人もいました。もちろん実現はしませんでしたが、日本の蘭学者も図面だけは見ていました。
ケイリー自身は重い蒸気機関を飛行機に乗せるのは無理なことを承知していましたが、このような野心家の動きが、長らく中断していたケイリーの飛行研究を復活させ、有人滑空飛行をもたらしたようです。
実は、ケイリーが飛行機から遠ざかっていた間に、最初に滑空したグライダーがフランスにありました。
ル・ブリ Jean Marie Le Bris が作った
「人造アルバトロス」 がそれで、パイロットはル・ブリ本人でしたが、ここでも牽引用馬車の御者が吊り上げられるという御難に遭ったそうです。
そして、日本最初のグライダー飛行は、代々木で動力飛行よりちょうど1年前の 1909年12月、場所は上野・不忍池西側でした。
「江戸明治東京重ね地図」
[56611] (3月15日までなら
古地図で東京めぐり でも OK)によって明治40年頃の不忍池を見ると、20~30m幅の草地が回りを一周しています。1884~1893年に「不忍馬見場」と呼ばれたコースの跡です(馬券とは無関係)。
グライダーを作って飛ばしたのは、フランス大使館付武官で通訳候補生の
ル・プリウール Yves Paul Gaston Le Prieur。彼が田中館愛橘・相原四郎と協力した初飛行の物語は、
村岡正明:航空事始 に詳しく紹介されています。
ケイリーの飛行理論が世に知られ、飛行機が手に届きそうになった19世紀後半のヨーロッパに戻ります。
ともかくも空気抵抗に打ち勝つ動力源を探して離陸することが先決と考える人々もいました。しかし、彼らの飛行機はジャンプするのが精一杯。
一方では、動力の問題は後回しにして、安定性や操縦性を無動力のグライダーで実地に研究しようとする人もいました。
その代表格がリリエンタール Otto Lilienthal で、ベルリンの郊外で 15タイプのグライダーによる試験飛行は、2500回に及びました。失速に備えて尾翼の操作を改良した新型機を作りましたが、新しい操縦法を会得する前に1896年に墜落死しました。
しかし、このリリエンタールの道を受け継ぎ、その飛行データを参照し、風洞実験に基づいて製作したグライダーによる実験を重ね、自ら12馬力ガソリン機関を製作して動力飛行を実現したのがライト兄弟でした。
なお、ライト兄弟と同時期に本命視されていたラングレー Samuel Pierpont Langley の飛行機は、ポトマック川の水上でのカタパルト発射でテストされましたが、制御に失敗して墜落しました。後にカーチスが復元して飛行可能であったことを立証しました。
ところで、ガソリン機関発明(1883 ダイムラー)よりも前、さしあたり利用できる軽い動力源はねじったゴム紐でした。
アマゾン流域に自生していた天然ゴムの樹脂を大改良して、強靭な弾性体に変えたのは、1839の冬にグッドイヤー Charles Goodyear が偶然発見した加硫法(硫黄による架橋法)です。これをハンコックが工業技術として確立したのは1843年。
余談ですが、グッドイヤー社の名前は彼の功績を讃えるものですが、借金を抱えて死んだ本人とも、その家族とも無関係な会社です。
1871年にフランスのペノー Alphonse Penaud は、自力で飛べるゴム動力の模型単葉機を作り、パリ・テュイルリー宮殿の庭60mを安定して飛行しました。もちろんまだ有人飛行は実現しませんが、1876年には多くのアイディアを盛り込んだ2人乗り水陸両用単葉機の設計に進んでいます。
ゴム動力の模型飛行機と言えば、丸亀連隊の看護卒・二宮忠八が、固定翼模型の飛行実験に成功したのが明治24年(1891)ですから、ペノーの20年後です。場所は丸亀練兵場でした。
彼の「軍用飛行機発明顛末」(1926)には、“前部の空気に抵抗する仰角翼を付し後部に推進力を施すの装置ある機体を用ふれば人体といえども空中飛行可能なるを発見”と記され、ケイリーの論文を思い出させます。
二宮忠八は、その後、玉虫型足踏み式人力機の実用化も構想し、日清戦争時に、長岡外史将軍に「軍用飛行器考案之儀ニ付上申」を送ったが却下されました。長岡は後に不明を詫びています。