都道府県市区町村
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[53577] 2006年 8月 23日(水)16:54:02hmt さん
日本のフロンティア・北海道 (1)「北海道地方費」
[53441] faith さん
現在の北海道は、戦前(正確には昭和21年まで)地方官庁としては「北海道庁」と呼ばれ、地方自治体としては「北海道地方費」と呼ばれたと言います。

「北海道庁」と呼ばれたことは聞いていましたが、「北海道地方費」という地方自治体があったとは初耳であり、かつ意外でした。
昔は「都道府県市区町村」は「都費府県市区町村」だったの? いや、1943年より前、「都」も「特別区」もなかった戦前だから「費府県市町村」?

でも、やっぱりおかしいな…というのが、率直な気持ちです。そんな動機からの「夏の自由研究」を少し記します。
実は、地方制度や北海道のことに詳しい方からのレスがあることを期待して待っていたのですが…

第1回は、「北海道地方費」という、地方自治体の名としては奇妙な呼び方について。
faith さんも引用している「都道府県の沿革」というpdf文書 の3頁に、「戦前の北海道の性格」として、次の注記がなされています。
北海道は、府県と同じように国の行政区画として北海道庁長官の管轄する区域であると同時に、地方自治団体の性格も有していたが(地方自治団体としての北海道は「北海道地方費」と呼ばれていた。)、その性格は府県とやや異なり、経費支弁団体としての性格が強かった。

なるほど、経費支弁団体だから、このような名前なのか。
参考までに、この文書は、第27次地方制度調査会 の第16回専門委員会(2003/2/14)で使われた資料のようです。

この注記にも示されているように、都道府県は、国の政策実行に関わる国の機関としての性格と、地方自治団体としての性格とを併せて有しています。
現行憲法の下の地方自治法では、後者の性格が強調されていますが、明治憲法制度下では、官選知事に代表される国の機関としての性格が現在よりも強く、2つの性格の比重も時代と共に変化してきた歴史を持っています。

北海道について言うと、その上に、日本のフロンティアという特殊性があり、国の占める比重が更に高まります。
地方自治法施行以後の民選知事時代になっても、1950年に北海道開発法に基づいて中央政府に北海道開発庁(現地には北海道開発局)が国の機関として設置されて、国の影響力を確保し、現在は2001年の中央省庁再編により国土交通省に統合されています。

その北海道開発局がまとめた北海道開発の沿革 を見るとわかるように、 開拓使時代(1869~1881)、成果の挙らなかった3県1局時代(1882~1885)を経て、1886年に「北海道庁」が設置され、20世紀になると北海道10年計画(1901~1909)、第1期拓殖計画(1910~1926)、第2期拓殖計画(1927~1946)が実行されます。

20世紀前半に実行された北海道拓殖を資金面で裏付けるものが、1900年に特殊銀行として設立された「北海道拓殖銀行」でした。
# 戦後、普通銀行として営業し、1997年に銀行破綻のさきがけとなった同名の銀行(愛称・たくぎん)は、一応は別の銀行です。

そして、国の機関である「北海道庁」が支払う費用が「北海道拓殖費」。
上記「北海道開発の沿革」の中に、その金額が示されています。

ここまで来れば、「北海道地方費」は、「北海道拓殖費」と対比されるべき言葉であることがわかります。
要するに、2面性を備えた組織「北海道庁」の中で、国の機関としてフロンティア開拓を進めるための費用が「北海道拓殖費」、そして、開拓をした結果として民政の段階に移り、本州以南の府県に準じた地方団体としての統治を行なうための費用が「北海道地方費」です。

この20世紀初頭、本州以南の府県については、1890年に制定された「府県制」が全部改正され(「新府県制」1899年)、府県には法人格が付与され、府県知事の権限規定の整備・強化されるなど「地方自治体」への道を少しずつ歩みつつあったわけですが、北海道には「新府県制」が適用されず、特別の「北海道会法」と「北海道地方費法」とが制定されました(1901年)。
地方制度調査会資料の「都道府県の沿革」には、
北海道が内地と法制を異にしてきたのは、その開発が日尚浅く、内地と同一の自治制を施行するのに適さないとされたことに基づく。
という理由が記されていました。

「北海道地方費」という「地方団体」名が使われていたとしても、それは、まだ「地方自治体」と呼べる存在ではなかったようですね。
[53601] 2006年 8月 24日(木)19:14:25【1】hmt さん
日本のフロンティア・北海道 (2)「北海道庁」・「北海道地方費」・「北海道」の使い分け
[53441] faith さん
現在の「道道」に対応するものは旧制度下では「北海道地方費道」と呼ばれていたような形跡があります。

[53577]に書いたように、2面性を持つ「北海道庁」のうち、本州以南の府県に準じた地方団体としての名前が「北海道地方費」であるならば、「北海道地方費道」という呼び名は順当と思われます。
それにしても、リンクしていただいた第6回国会は1949年ですから、既に明治憲法下の「北海道地方費」自体は消滅して、現在の地方自治体「北海道」になった後の発言ですね。
団体の名称が変わった時期と、それから派生した道路の名称に使われた時期との間には、ずれがあったということでしょうか。

一方、よく知られているように、学校を初めとする、現在の「北海道立」の施設は、旧制度下では「北海道庁立」でした。
この使い分けはどうなっているのでしょうか。

「北海道地方費」によって賄われる学校である以上、「北海道地方費立」と呼んでもよさそうなのですが…
「北海道地方費」よりも前から「北海道庁立○○学校」が存在し、1901年以降も使い続けられたのではないか?
というわけで、最も歴史の古そうな学校の六華同窓会 を調べてみました。

それによると、北海道庁告示で1895年に設置された時の校名は「札幌尋常中学校」。
その後1899年に「札幌中学」と改称。ここまでは設立主体の名が入っていません。
そして、1901年6月15日に北海道庁告示で「北海道庁立札幌中学校」と改称。

意外にも、「北海道庁立○○学校」の誕生は、「北海道地方費法」制定(1901年3月28日)直後のことでした。
この事実から、この時点では、地方団体の名称として「北海道地方費」を使うという習慣はまだ行なわれておらず、役所本来の名称である「北海道庁」が使われたものと思われます。
そして、後年、地方団体名「北海道地方費」が使われるようになっても、すべて「北海道庁立○○学校」のフォーマットを踏襲。

道路の方は、何時からかはわからないが、「北海道庁道」から「北海道地方費道」に変わり、1949年にもまだ使われていた。
こんな解釈でいかがでしょうか?

それにしても、「文部省立」という言い方はないのに、「北海道庁立」があったのですね。
戦前の「官立」学校は、戦後に「国立(こくりつ)」学校へと変わりましたが、この言葉が特定の学校名の中に現れたのは、1949年の横浜国立大学でしょうか。
# 「国立(くにたち)音楽学校」の校名は1947年。小学校などの「国立」は1951年の国立町発足よりも後でしょう。

1886年に生まれた「帝国大学」という名には、「立」の字を使っていません。
「立」の字を使わないと言えば、[22003]で書いた“東京市立愛日尋常小学校”。
これも「立」の字のない「東京市愛日尋常小学校」が正式だったようです。古い記事ですが訂正。

それはさておき、
「北海道庁」は、1886年(明治19年)に「北海道庁官制」という勅令で定められ、その後何回かの改正を経て1947年に地方自治法施行令で廃止されるまで続きました。

設置された当初はフロンティアゆえの特殊性が多かったとしても、時代と共に「北海道庁」も「府県」に近い存在になってゆき、その結果、「庁府県」という併称も生まれます。
実例:昭和17年8月21日閣議決定
朝鮮総督府,台湾総督府,関東局,樺太庁,南洋庁,枢密院,会計検査院,行政裁判所,貴族院事務局,衆議院事務局 及 庁府県関係 行政簡素化案大綱

# 上記タイトルに現れているように、朝鮮総督府,台湾総督府には「府」という語尾が、樺太庁,南洋庁には「庁」という語尾が付いていますが、内務省管轄の「庁府県」とは別の存在です。これら「外地」の行政機関は拓務省が監督していました。
関東局という名も出ていますが、これは遼東半島の先端部・関東州の行政庁で、[35703][38110]で書いたように、かつては関東庁など別の名前でした。

戦後の1946年9月の法改正で「府県制」は「道府県制」となり、ようやく北海道にも本州以南と同じ制度が適用されるようになりました。
「北海道地方費法」はこの時に廃止され、地方団体の名前も、晴れて「北海道」になりました。
# 自治体を「道」と呼ぶことにした改正は、上記改正法の附則に規定されているようですが、確認はしていません。
# ついでに、この時の改正(「東京都制」の改正を含む)によって、全国の知事が公選になりました。

「北海道庁立」の学校も、この時に「北海道立」になったのでしょう。

この明治憲法時代最後の改正で、地方公共団体の名が「北海道庁」でも「北海道地方費」でもない「北海道」になっていたので、翌年施行の地方自治法第3条により“従来の名称”を引き継いだ名が「北海道」として現在に至っているわけです。

このようにして地方公共団体「北海道」の名が決まった頃の用例として、昭和22年1月8日閣議決定 を示しておきます。
“公共団体たる北海道”、“北海道庁の機構を利用”、“北海道地方費の負担増加”というように、3つの言葉が登場し、それぞれの使い分けが良く理解できます。
# 勅令「北海道庁官制」自体は、この時点ではまだ生きています。

先に触れたように、時代が変われば言葉の使い方も変わるだけでなく、法令改正と現実に使われる言葉の変化も、その時期が一致しません。
地方公共団体「北海道」の名が正式に決まったのは上記のように1946年9月かもしれませんが、現実にはもっと早い時期から(庁も地方費も付かない)「北海道」が使われています。

例えば、昭和9年の勅令22号では「北海道地方費、府県、市町村等ノ吏員、委員及役員ノ懲戒免除ニ関スル件」という使い方だったものが、昭和13年の勅令79号では「北海道、府県、市町村等ノ吏員、委員及役員ノ懲戒免除ニ関スル件」になり、「北海道地方費」→「北海道」の変化を先取りしています。
faithさん提示の「高等学校令」は、更に古い大正7年に(「庁府県」でなく)“北海道及府県”と使っていました。

「北海道地方費」と「北海道庁」の使い分けが、勅令を起草するような者でも混乱するぐらい微妙なものだったのか、それとも混乱しているようで、実は厳密な使い分けが行われているのか

たとえ法令を起草する人が混乱しても、内閣法制局のチェックを入れて、最終的には統一性は取っている筈だと思うのですが、まちまちなように見えるのは何故でしょうね。
[53939] 2006年 9月 12日(火)22:14:36hmt さん
「北海道地方費-道」ではなくて「北海道-地方費道」か?
[53601] hmt
道路の方は、何時からかはわからないが、「北海道庁道」から「北海道地方費道」に変わり、1949年にもまだ使われていた。
[53912] じゃごたろ さん
たまたま見ていたら「地方費道」との記述のある法律がありました。昭和二十七年公布の『道路法施行法』の第二条です。

大正8年(1919)というと「北海道地方費法」制定から18年も後のことですが、この年に制定された(旧)道路法(大正8年法律第58号)は、第60条により
本法中、府県、府県知事、府県庁又は府県道に関する規定は、北海道に付ては道、道庁長官、道庁又は地方費道に関し(中略)之を適用する。
とされいました。
ご指摘の通り、昭和27年12月5日施行の(現行)道路法では、第7条で「都道府県道」が規定され、旧法律は廃止されました。

従って、この規定が法律制定当初からのものだとすれば、1919~1952年に「地方費道」という言葉が使われたものと考えられます。
それよりも前に「北海道庁道」と呼ばれたのか否かは不明です。

# 上記の法律は、「府県」に対応する「道」に適用するとあります。やはり、大正時代から「北海道庁」でも「北海道地方費」でもない「北海道」という団体名が使われていたように思われます。
[53950] 2006年 9月 13日(水)19:04:03hmt さん
まだ北海道地方費
[53907] faith さん 「北海道地方費」について
職員などの実体を持たない、予算上の区分ということなのか?それとも経費支弁「団体」なのだから、やはり「団体」、すなわち、職員を持つような「組織」なのか?

先ず、「北海道地方費法」(明治34年法律第3号)を見ると、
第1条 北海道地方費は、北海道地方税その他地方費に属する収入を以ってこれを支弁す。
とあります。
この条文からは、「組織」というよりも「予算上の区分」のように思われます。

また、「北海道地方費令」(勅令第18号)では、次のように記されています。
第1条 北海道地方費に関する行政は、北海道庁長官これを担任す。
第2条 北海道庁長官は、北海道地方費の行政に関し、その職権に属する事務の一部を部下の官吏または区町村吏員に委任し、または区町村吏員をして補助執行せしむることを得。

第2条からは「北海道地方費」という「組織」があるようにも取れますが、事務を行なうのは「北海道庁」の官吏ですから、やはり「団体」とは言い難いように思われます。

第41回地方分権改革推進会議小委員会 における久保審議官の発言
北海道は府県ではなかったんですね、戦前は。(中略)国がかなり直轄している意識が相当あって、府県制ではなくて、北海道会法と北海道地方費法と、二つの法律の下での極めて不完全自治体。
のような有様でしたから、先に引用された「都道府県の沿革」というpdf文書 の3頁に記されていた
(地方自治団体としての北海道は「北海道地方費」と呼ばれていた。)
の部分には、いささか疑問を感じます。

[53577] hmt
ここまで来れば、「北海道地方費」は、「北海道拓殖費」と対比されるべき言葉であることがわかります。

ご指摘を受ける前に弁明しておくと、「地方費」と対比される言葉は、もちろん正確には「国費」です。
国費の中には、他の府県と同様な国の行政費も含まれますが、北海道に関しては、支出される国費の大きな割合が拓殖費であるために、「北海道地方費」と「北海道拓殖費」との対比ということで、あのように記しました。
参考までに、これらの用語の使用例 を示しておきます。
…(北海道農事試験場の)本・支場は何れも国費(拓殖費)が支弁されていました。一方,地方費支弁の農事試作場(後の分場)は…

ついでに、北海道拓殖銀行の件。

言われていることを誤解しているかも知れませんが

はい、誤解です(笑)。
“同名の銀行(愛称・たくぎん)は、一応は別の銀行です。”の「一応は」の部分にご注目ください。

「北海道拓殖銀行法」によって明治33年(1900)に設立された「北海道拓殖銀行」は、資本金300万円のうち100万円が政府出資で、債券発行の特権を与えられた反面、政府の監督を受ける特殊銀行で、その存立期間は50箇年とすると定められたいました。
たまたま戦後の体制変換期となった50年後の昭和25年に、日本勧業銀行などと共に準拠法が廃止され、「銀行法」による普通銀行に転換しました。
# 昔は、「拓銀」でなく「北拓」という略称が使われていたようです。
[63738] 2008年 2月 15日(金)20:12:53hmt さん
北海道二級町村制施行に伴なう当縁郡廃止事例
[63736] 紅葉橋律乃介 さん
十勝支庁にも「当縁(とうぶい)郡」が消滅した例がありますが、(中略)市町村変遷情報では、上記のように(引用者注:郡設置と)表記されています。

少なくともこの事例については、「郡設置」はおかしいというお説の通りで、明治39年勅令第23号 の文言にある通り、「編入」とするのが正しいようです。
# [62924]におけるこの勅令のリンクは正しいが、番号を誤記していました。

当縁郡廃止の事情については、既に[33322] Issie さんの記事があります。
これは,北海道で“自治体”としての「町村」を編成するための合併によるもので,本州以南の町村制施行のための「明治の大合併」,「郡制」施行のための郡の統合に相当するものと思われます。
1923年4月に「振別郡」が「択捉郡」に吸収されて消滅したのも同様。

郡廃止事例の件からは外れますが、関連して、北海道一級町村制、北海道二級町村制の施行地指定に関する内務省令のうち、明治33~39年のものをリンクしておきます。
明治33年 北海道一級町村制施行地16町村 (旭川町のみは明治35年)
明治35年 北海道一級町村制施行の旭川町と 北海道二級町村制施行の62町村
明治39年 北海道二級町村制施行の73村 (旧当縁郡に関係する広尾郡茂寄村と十勝郡大津村は次のコマ)
[65633] 2008年 6月 28日(土)19:51:57hmt さん
道議会で可決成立した北海道総合振興局設置条例
[65630] futsunoおじ さん

今回成立した条例で設置される9つの「北海道○○総合振興局」は、地方自治法第155条第1項の規定により、北海道知事が“必要な地に…設けることができる”“支庁” に該当します。
名称のうち、○○と書いた部分と【所在地】を示すと、道央【岩見沢市】、後志【倶知安町】、日胆【室蘭市】、道南【函館市】、道北【旭川市】、宗谷【稚内市】、オホーツク【網走市】、十勝【帯広市】、道東【釧路市】となっています。

従って、正確に言えば、“北海道の「支庁」が廃止へ”でなく、“支庁の区分けや呼び名が変更”ということでしょう。

地方自治法の規定(下記)において、“支庁出張所”と位置付けされる5つの「振興局」も設置されます。
普通地方公共団体の長は、その権限に属する事務を分掌させるため、条例で、必要な地に、都道府県にあつては支庁(道にあつては支庁出張所を含む。以下これに同じ。)及び地方事務所、…を設けることができる。

北海道道央総合振興局石狩振興局【札幌市】、北海道日胆総合振興局日高振興局【浦河町】、北海道道南総合振興局檜山振興局【江差町】、北海道道北総合振興局留萌振興局【留萌市】、北海道道東総合振興局根室振興局【根室市】
単純化して言えば、14支庁のうち5つの組織を簡略化して人員や経費の削減を狙ったもののようです。

具体的な区分けは、ほぼ従来の支庁区分けを踏襲しているようですが、従来は空知支庁の管轄であった雨竜郡幌加内町が北海道道北総合振興局(上川地域)の管轄へ、留萌支庁管内であった天塩郡幌延町が北海道宗谷総合振興局(宗谷地域)へというように、一部ですが変更箇所があります。

そうそう、大きな変更点がありました。
従来の「北海道支庁設置条例」[33354]別表 で示された各支庁の「所管区域」は、郡名で表示されており、「市」になった範囲が含まれていませんでした。

そのために、アーカイブズ 北海道の支庁は市を所管しているのか? ということが問題になっていたのでした。

今回成立した「北海道総合振興局設置条例」の別表第1では、所管区域として市町村名が列挙されており、総合振興局が市を所管していることが明示されました。
# 今回の条例には、「郡」が書かれていません。
64郡に145町村という現状は、北海道においても「郡」の存在が不要になっているのでしょう。
[70240] 2009年 5月 21日(木)18:57:15【1】hmt さん
かつて北海道に存在した広大な村の面積
[70233] k-ace さん
北海道で過去1000平方km以上だった村で現在複数の自治体にわかれているケースを調べてみました。

北海道に限れば 別の面積資料があるのかもしれませんが、20世紀前半以前における 全国市町村別面積の 唯一の資料 は、「昭和10年全国市町村別面積調」だそうです。[67057]統計局HPの 資料解説 による。
この1935年データを用いて、北海道に存在した、かつての広大な村の面積で、k-ace さんのデータで「?」となっているものの値を求めてみました。

渚滑村 面積? 現在は紋別市の一部、滝上町

紋別郡渚滑村 は、1918年滝上村を分立、1932年下渚滑村を分立しているので、1935年当時は3村でした。
1935年面積資料によると、渚滑村と下渚滑村は合計で 468.86 (単位km2、以下同じ)、滝上村 714.06 となっており、合計面積は 1182.92 でした。
なお、この面積調よりも後に、渚滑村→上渚滑村(1937)、下渚滑村→渚滑村(1940)という改称が行なわれています。何か事情がありそうですね。

茂寄村 面積? 現在は大樹町の一部、広尾町、幕別町(旧忠類村の部分)

広尾郡茂寄村 の成立も、渚滑村と同じ明治39年(1906)4月1日で、 北海道二級町村制 の第2次指定によるものでした。同時に当縁郡が廃止され[63738]、その一部はこの茂寄村になりました。
茂寄村は、1926年に広尾村と改称。1928年にその一部が分立して大樹村になっていますから、1935年当時の面積は、広尾村 595.53 + 大樹村 830.68 = 1426.21です。

本別村 面積? 現在は足寄町の一部、本別町

十勝国中川郡(天塩国にも別の中川郡あり)本別村 は、1915年成立。[67007]の(7)にあるように二級町村指定。1921年西足寄村が分立。従って1935年の面積は 本別村 440.37 + 西足寄村 900.73 = 1341.10。
なお、現在市区町村面積6位(町村では1位)の足寄郡足寄町1408.09は、1955年にこの西足寄町(1950)と足寄郡足寄村との合併により生まれました。足寄郡足寄村は、以前は釧路支庁の所管でしたが、1948年に中川郡西足寄村と同じ十勝支庁管内に変わっています。
1935年の面積は、釧路国足寄村が522.07で、西足寄村との合計は現在の面積と合いません。これは 1988年に 面積測定の基準が変更された [67248] ためです。基準変更前後の面積を厳密な数字で比較することはできません。

大正村 面積? 現在は帯広市の一部、中札内村、更別村

河西郡大正村 は 1915年に3村合併で成立。市区町村変遷情報にも、本別村で記した[67007]の(7)にも記されていませんが、つかんぼやんと北海道年表 によると、大正村も二級町村指定。1924年川西村分立。1935年面積は 大正村 558.76 + 川西村 444.38 = 1003.14と、ぎりぎりで 1000 のハードルをクリア。

【訂正】[70263]参照
上記の“大正村も二級町村指定”は、不正確な表記であり、“大正村は引き続き二級町村指定地”と訂正します。

#士別村(現在の士別市の一部)、上名寄村(現在の名寄市の一部、下川町)とかはどうなんだろう?

天塩国上川郡(石狩国と十勝国にも別の上川郡あり) 士別村 も1906年の二級2次組。1935年には士別町になっていますが、面積 152.74、上士別村(1913分立)676.88にこの値を加えても 1000 には届きません。
同じく天塩国上川郡下川町の前身・下川村 は、上名寄村でなく名寄町からの分立です。1935年面積は、下川村 672.00 + 名寄町 205.23 = 877.23 で、これも 1000に及ばず。

なお、1935年の面積が 1000 を越えていた村は、石狩国上川郡上川村 1038.00、十勝国上川郡新得町 1062.83、阿寒郡舌辛村 1309.48、野付郡別海村 1386.66、標津郡標津村 1273.99、択捉郡留別村 1429.73、紋別郡生田原村+遠軽町の合計 1286.04、枝幸郡枝幸村 1097.32、幌延郡幌延村 1115.49でした。
[70263] 2009年 5月 22日(金)20:17:05hmt さん
「幸福」への切符
[70258] むっくん さん
書き落としではなくて一安心です。

ご心配をかけたことをお詫びします。
[70240]hmtの“大正村も二級町村指定”が、不正確な表記だったのが原因なので、“大正村は引き続き二級町村指定地”と訂正する旨を追記をしておきます。

前身の村が既に二級町村指定地なので、合併や分立により生まれた村は、改めて「指定する」必要はない……という論理なのですね。
確かに、[67007]の(7)“24村にはT4.4.1より北海道二級町村制が施行されました。”という記載に間違いはありません。

改めて認識したのは、これは“T4.4.1より北海道二級町村になった”村々のリストではないこと。
これは、郡区町村編制法による町村から北海道二級町村制へと移行した町村のリストでした。

従来からの二級町村指定地3村の合併で生まれた「大正村」も、二級町村からの分立で生まれた4村(多度志村・和寒村・置戸村・武華村)も、この時に誕生した二級町村ですが、それは既に施行されている北海道二級町村制の枠内での廃置分合であり、新たに枠内になった前記24村とは異質の変遷でした。

このような混乱を生じた原因は、市町村変遷履歴情報において、両者が同居しているからではないでしょうか?
つまり、現状では“「市制町村制」施行時以降の都道府県別変遷一覧”(北海道)に記されている情報の一部は、“「市制町村制」施行時の都道府県別一覧”(北海道は未入力)に記載されるべきではないかということです。

1915年4月1日のデータを例にとると、「村制」又は「新設/村制」と記されている前記24村は、根拠が郡区町村編制法から北海道二級町村制へと移行したものなので、“「市制町村制」施行時(北海道)”に移動するのが適切ではないかということです。

“現在の市区町村変遷情報の記載には当然何の問題もありません。”というご意見[70258]もありますが、この件、ご検討願います。>88さん。

これに対して、新制度の枠内での廃置分合は9町村。上記二級内施行地内で新たに生まれた5村の他に、芽室村(編入あり)と浦河町・網走町・帯広町(廃置分合と共に二級から一級への変更あり)が該当。
野付牛村は、二級から一級への変更だけでなく、分立による村域の変更もありますが、これらはいずれも変遷情報の集録対象外ということで、リストに入っていません。

河西郡大正村を構成することになった3村(上帯広村,幸震村,売買村)

幸震村は、福井県大野からの移民が、「サチナイ(乾いた川)」に当てた漢字が音読みされたものとされます。
昭和初期に帯広から南に向かって建設された広尾線の幸震駅は、戦時中に大正駅に改称。
幸震と福井とからの合成地名「幸福」を名乗る駅ができたのは、気動車になってからでしょう。

もともと「福井」も北ノ庄から改められた縁起の良い地名[64833]ですが、福井団体によって北海道に移植された「福」は、1973年のテレビ放送(新日本紀行)をきっかけに、「愛の国から幸福へ」【注意!音が出ます】の縁起切符ブームを巻き起こしました。
1987年広尾線廃止。現在は十勝バスの縁起切符があるそうです。
[71731] 2009年 8月 20日(木)12:15:20hmt さん
支庁を考える (8)北海道の「支庁」-その概略史(戦前編)
北海道では、始めから14支庁だったわけではありません。一応の概略史を記してみます。

明治新政府の支配下になった蝦夷地改め北海道では、幕府直轄の箱館府は開拓使の所管となり、渡島半島にあった松前藩は、館藩>館県を経て弘前県>青森県の所管になりました。そして開拓を待つ残る地域について、明治2年に政府が決めた方針は分領支配でした。
分領支配とは、一部の要地を政府直轄地として確保するにとどめ、残る大部分を諸藩、省、士族、寺院等などに分割して、旧武士団を開拓と北辺防備の任に当たらせるというもので、その一例をリンクしておきます。徳島藩佐賀藩

結局のところ、この分割統治体制は長続きすることなく、明治5年9月に北海道のすべてが 開拓使直轄統治 という形で統一され、開拓使本庁が 東京から札幌に移転開設されました。
「支庁」の初登場はこの時で、函館・根室・宗谷(M6留萌M8廃止)・浦河(M7廃止)・樺太(M8廃止)の5つ。

開拓使廃止後、函館・札幌・根室の三県と農商務省北海道事業管理局との二重構造時代がありましたが、成果の挙らなかった三県一局体制は、明治19年の 内閣布告 で廃止され、“北海道庁を札幌に支庁を函館根室に置く”ことになりました。2代目の支庁です。

現在の支庁の直接の先祖は3代目です。
それは、北海道庁が、明治30年(1897)に数郡程度の単位で設けていた郡長・郡役所に代えて設置した19支庁でした。
函館支庁の管轄区域は函館区、札幌支庁は札幌区と札幌郡など5郡という具合で、郡区町村編制法時代の「区」は、郡と並んで支庁の管轄下にありました。明治30年勅令第395号

この明治30年とは、本州より南の府県では、従来からの行政区画であった「郡」に自治体的な役割も兼ねさせる「郡制」を施行するための準備として、郡の再編が行なわれた時代です。

北海道の支庁は、弱小の郡を統合した産物という点では、府県において再編された郡と共通点を持ちます。
しかし、郡会などにより人民の意思を多少なりとも反映させる自治体を目指した後者とは異なり、直轄植民地的な性格であった北海道の支庁は、あくまでも政府の統治体制下の北海道庁出先機関でした。

参考までに、明治38年の北海道庁官制 を見ると、1部 総務、2部 教育兵事民籍、3部 産業、4部 警察、5部 殖民、6部 土木運輸の6部制をとっており、これにより役所の主な仕事を推測することができます。

変遷情報 には 1897年のこの3代目支庁設置以降の情報が既に入力されています。

1899年の変遷情報として記録されている、北海道区制による3区(札幌・函館・小樽)と、亀田支庁→函館支庁とを説明します。
この北海道区制は、19支庁を設けた前記勅令よりも前に、明治30年勅令第158号 として公布されていましたが、施行は2年後になったものです。議会を備えた自治制度への第一歩ということで準備期間が必要だったのでしょう。

そして、北海道区制により新設された3区(札幌・函館・小樽)は、「札幌区」・「函館区」という名前は郡区町村編制法時代と同じであっても、北海道庁専制の郡部とは一線を画す存在として、支庁の管轄を外れることになりました。
かくして 1899年に従来の函館支庁は自然消滅し、郡部を所管する亀田支庁が函館支庁に改称しました。

支庁の数が14になったのは、3支庁統合による 後志支庁誕生 の1910年でした。
それ以後は、支庁の数には変りがありませんが、大正11年(1922)になってようやく北海道にも施行された「市制」による「市」も、当然のことながら支庁の管轄外になるので、北海道庁専制支配下の支庁の管轄する地域は、少しずつ減少したことになります。

1922年の4支庁改称(変遷情報の「支庁設置」は誤記?)は、このような市部と郡部との違いを、名称の上からも明確にするという趣旨からのものでしょうか。
[71744] 2009年 8月 21日(金)19:44:58hmt さん
支庁を考える (9)北海道の「支庁」-その概略史(戦後編)
北海道庁官制の戦前体制は、前報[71731]のような経過による50年を経て、1947年に施行された日本国憲法・地方自治法の戦後体制に移行します。
ここで国の地方官庁である「北海道庁」から、地方自治体の「北海道」への大転換がありました。

支庁の性格も、本庁の出先機関であるという点では従来通りながら、地方官庁から自治体の機関へと大きく変りました。

新しい法令体系の下、従来北海道の支庁の存在根拠になっていた「北海道庁支庁ノ名称位置及管轄区域ニ関スル件」という明治30年勅令第395号[71731]は消滅しました。
代って、戦後の支庁の存在根拠になったのは、地方自治法155条第1項でした。
普通地方公共団体の長は、その権限に属する事務を分掌させるため、条例で、必要な地に、都道府県にあつては支庁(中略)及び地方事務所、(中略)を設けることができる。

つまり、戦前のような北海道特有の制度ではなく、東京都の島嶼部や島根県の隠岐に設ける支庁と、いわば「同じ制度の下の支庁」になりました。
“同じ”と言っても、それは地方自治法レベルで“同じ”というだけで、条例レベルでは「都道府県ごとに別の制度」という方が実態には合っているでしょう。

ともかく、この新しい支庁制度は、1947年5月3日から1年以上を経た1948年10月20日から、「北海道支庁設置条例」(昭和23年条例第44号)という形で施行されました。
支庁とは? に全文が掲載されています。
変遷情報 のこの日付には、3町村の支庁変更情報だけが示されていますが、すべての支庁がこの日を境に新制度に移行したことになります。

ここだけ時代が先行しますが、これ以後、現在まで支庁変更の事例はなく、実施が近いとされている支庁再編に伴なう2件[65633] が61年ぶりの事例になります。
天塩郡幌延町  留萌支庁から宗谷(総合振興局)管内へ
雨竜郡幌加内町 空知支庁から上川(総合振興局)管内へ

1948年に戻ります。
日本国憲法第92条や地方自治法第1条で述べられている「地方自治の本旨」からすれば、条例で設置される新しい支庁の所管区域は、市部・郡部を区別する必要などなくなったはずでした。
市部に対してはある程度の自治を認めながらも、こと郡部に対しては、北海道庁が専制支配することができた戦前体制の道具であった従来の支庁とは違うものなので、これは当然のことです。

ところが、民主主義的な考え方は、そう一朝一夕に身につくものではないのですね。
現実に制定された北海道支庁設置条例の別表に記された所管区域は、従来と同じく「郡部だけ」でした。

この時の「ボタンの掛け違え」が、その後60年以上にわたり、北海道当局には「地域たる支庁」と「条例の支庁」の使い分けを余儀なくさせる結果となり、落書き帳では 北海道の支庁は市を所管しているのか? という話題を生んだのだと思います。

昨年、条例改正の機会に、支庁である総合振興局の管轄区域に市を加えて、この掛け違えを正そうという試みがなされました。
しかし、残念ながらこの改正は実現しませんでした[71685]。その理由は、公職選挙法にあったようです。

衆議院(小選挙区選出)議員の選挙区を定めた公職選挙法第13条には、“別表第一に掲げる行政区画その他の区域”とあります。その区域とは、府県に関しては原則として市・郡であり、必要に応じて町村などの下位区分が記されています。
「支庁管内」という区域が記されているのは、北海道と東京都だけです。
東京都は島嶼部での郡の代わり?[71480]であり、北海道は「役に立たない郡」[71695]を無視した結果と思われます。

ともかく、北海道支庁設置条例を、「北海道総合振興局設置条例」の別表第1(北海道公報掲載[71685])のように改めると、公職選挙法に影響を与えてしまうということになります。
公職選挙法別表第一を、他の府県並みに市・郡単位の記載に改めれば解決する問題でしょうが、法律改正が間に合わず、今回のボタン掛け直しは実現しませんでした。

明治30年(1897)に生まれ、110年以上も使われてきた北海道の「支庁」。
親方である本庁の変身に伴ない、支庁の性格も変化しましが、現在も「行政機構」のままである点は変りません。
「中間階層として役に立たない郡」に代って広域指標には使われるものの、「府県」のような実体を備えた存在に進化しようもない「支庁」は、「地名もどき」の存在に留まっています。

総合振興局や振興局になった後、この「地名もどき」の使われ方はどのようになるのか?
「支庁」という言葉が表舞台から消えて、従来からも使われてきた「○○管内」に統一されるのでしょうね。

明治時代の用例、堺県管内[17181]、埼玉縣菅内[37601]、宮城県管内[42730]、滋賀県管内[64158]、岡山県管内[65091]などには、「県」という1字が入っていましたが、地名もどきとしては長すぎる「○○総合振興局管内」という使い方になることは、まずないでしょう。


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