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[54297] 2006年 10月 1日(日)23:15:25hmt さん
兵庫・神戸(1)「兵神市街之図」
[54253] ニジェガロージェッツ さん
1874(明治7)年開業の初代神戸駅(中略)、この場所は意外にも兵庫の領域です。…「兵庫相生町」
なお、駅名を「神戸」と命名したことについては、こういった「陸上の論理」だけでは済まないかもしれません。
というのは、海上では神戸港と兵庫港が共存していた時代でもあり、両港の境界は湊川の河口としていました。
ですから「海上の論理」では、神戸駅は正に神戸港に隣接していたことになります。

神戸と兵庫に関する考察、興味深く拝読しました。なるほど、陸上の境界と海上の境界とは異なるのですか。

神戸・大阪間鉄道の開通から6年後の明治13年出版の「兵神市街之図」(Hiogo and Kobe Map)を見ると、宇治川の中に境界線らしきものが見えます(鉄道より下流では、川筋よりも少し南)。これが陸上の境界線とすると、たしかに「鉄道ステーション」は「兵庫」の領域ということになります。

もっとも、明治13年というと、既にその前年(明治12年)に郡区町村編制法による「神戸区」が誕生しており、行政上は“兵庫と神戸の境界線は存在しないはず”ではないかと思われます。
まあ、昔の人はそんな杓子定規なことは言わず、地図のタイトルも「神戸区市街之図」でなく、「兵神市街之図」としているくらいですから、兵神境界線が残っていても不思議はありません。
この「兵神」という「合成地名」。明治初期から使われたのかもしれませんが、統一「神戸区」の誕生によって使う必要がなくなり、自然消滅したものと思われます。

地図には境界線は示されていませんが、兵庫港と神戸港、それぞれの湾入の自然地形から、湊川の河口が境界であることは一目瞭然です。鉄道建設の経緯からしても、神戸港に隣接しているステーションの名が「神戸」であるのは当然なのでしょう。

この地図の左下隅には、星型の土塁を備えた和田岬砲台 が見え、右側の神戸港には、「Foreign」として外国人居留地の詳細図が描かれています。

この地図において、ステーションの山側「別格官幣湊川神社」の隣には「神戸裁判所」があります。
かつてこの場所(兵庫)にあった「兵庫県庁」は既に神戸(元町の裏山)に移転しています([1776]によると明治6年)が、県の名前はもちろん「兵庫」のまま変わっていません。
兵庫県庁の海側には「神戸市役所」らしい文字が読め、「三ノ宮ステーション」(現在の元町駅付近)もあります。

明治13年(1880)の「兵神市街之図」はこんな具合で、「Hiogo and Kobe」並立時代の名残もあるものの、両者は既に融合の時代に入っていたように思われます。

この地図は、講談社「日本の古地図7」(1976)に収録されたものを見ているのですが、その前の頁には、ほぼ同じスタイルの慶応4年(1868)「開港神戸之図」と、明治2年(1869)「兵庫津細見全図」とが収録されており、この時代にはまだ別個の市街として認識していた神戸と兵庫を、2枚シリーズの地図として発行したことがわかります。

宇治川と湊川の間は「開港神戸之図」(1868)だけでなく、「兵庫津細見全図」(1869)にも収録されています。
「楠公墓」(湊川神社になったのは明治5年[54258])の近くに「兵庫県御裁判所」(兵庫図では「県役所」)があります。
慶応4年当時の“裁判所”は、行政機関でもありました[229]。つまり県庁の前身。

宇治川口には、「福原町」と書かれた、いかにも遊郭らしい町並みが見えます。ニジェガロージェッツ さんの記事[5887]参照。
[54322] 2006年 10月 3日(火)23:47:28hmt さん
兵庫・神戸(2)兵庫開港、そして開港場の地名「神戸」について
[18378] ニジェガロージェッツ さん
旧幕府は安政の条約で兵庫津の開港を諸外国と約束しましたが、(中略)
そこで、兵庫港から北北東へ約2キロ離れた神戸村の浜辺を「兵庫港」の名のまま開港場としました。

兵庫開港の時期については、安政条約では「1863年1月1日(文久2年11月12日)」とされていました。
しかし、安政6年に神奈川などで貿易が始まってみると、物価高騰や攘夷運動が激化。この政情不安を沈静化させるため、兵庫・新潟の開港の延期を求めることになり、難交渉の末、5年間延期させることに成功しました。
一方、外国側もイギリス艦隊による鹿児島砲撃(1863)、4ヶ国連合艦隊による下関攻撃(1864)で開港反対派の薩長をたたいた後、1865年にはその連合艦隊が兵庫沖に現れ、早期開港を迫りました。

薩長には、幕府直轄領・兵庫での開港による貿易独占に対する警戒があったのでしょう。もちろん、公家たちが、都に近い兵庫の開港を嫌う気持ちもありました。孝明天皇は、異人に対する生理的な嫌悪感の持ち主だったようです。

期限の慶応3年12月7日(1868年1月1日)が近づいた3月、徳川慶喜は兵庫開港の勅許を奏請し、反対派の抵抗はあったものの、イギリスなどの外圧に耐えきれず開港に踏み切ることになり、5月24日ようやく勅許が得られました。

開港準備は勅許前から進められ、4月には(旧)生田川の川口西岸・神戸村に居留地が設置されることが決まりました。
[54297]で触れた慶応4年(1868)「開港神戸之図」には、生田川口右岸に「外国人居留地」や「御運上所」が見えます。現在も、まさに運上所の後身である「神戸税関」の存在する地ですが、ここは、文久3年から翌元治元年(1864)にかけて勝海舟の 「神戸海軍操練所」 が建設された所です。[54297]で触れた和田岬砲台と同じ時期です。

このようにして、ともかく予定通りの慶応3年12月7日に兵庫開港を迎えました。
時代背景を見ると、8月に名古屋付近から始まった「ええじゃないか」が京畿にも拡大してきた真っ最中であり、兵庫開港式にも乱舞する村人がなだれ込んだとか。

そして、2日後の12月9日に王政復古の大号令。年が改まった慶応4戊辰年、1月3日の鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府は江戸に引き揚げてしまい、兵庫・神戸は統治者不在状態になりました。
これより後は朝廷側の統治になり、閏4月の政体書 によって「県」の制度ができると、兵庫裁判所は「兵庫県」になりました。初代「知県事」に任命されたのは伊藤博文(慶応4年5月23日)。

本題に戻ると、外国人居留地の造成は、開港に間に合わず、明治政府に引き継がれた後の慶応4年6月に完成。
そのために、新政府は生田川と宇治川の間を指定した雑居地に、外国商人の居住を認めざるを得ないことになりました。

[54258] ezekiel さん
江戸期の幕末前夜までは“一集落の地名”でしかなかったが「神戸」という地名が、明治の区名に選ばれ、市名になり、日本の重要な港名になり、国鉄の停車場の名前に選ばれた理由。

「神戸」という地名が、世界的なブランドになったのは何故か?という問題を解くキーの一つとして、上記のように居留地になった場所に存在した「神戸海軍操練所」の存在にもご注目ください。
歴史のある「兵庫津」から少し離れたこの地「神戸」は、幕末前夜から開港までの10年余の間に“一集落の地名”を脱して、幕府時代に設置された公的機関の名に使われた地名になっていたのです。

隣接する「生田」であっても良かったわけです。

たしかに、この近くには「神戸」の名の由来でもある生田神社が存在しますが、そこの近世の村名は内陸の「生田宮村」(海岸の神戸村と共に八部郡)であり、「生田村」は生田川の東岸・菟原郡でした。従って、新しい開港場の名前とし、港に直結する村名「神戸」の方がより適切だったのではないかと考えます。

なお、生田川の流路は神戸開港後の明治4年に付け替えられ、明治13年(1880)「兵神市街之図」[54297]では既に東側に移っています。この1.9kmの付替工事の請負人・加納宗七の名は、新神戸駅から三ノ宮駅至る大通り(フラワーロード)に沿った町名(加納町)として残っています。ここが「神戸区」時代にも市街地の東端だった(旧)生田川の流路跡で、付替工事の後で彼に払い下げられたのですね。
[54339] 2006年 10月 5日(木)19:08:53hmt さん
兵庫・神戸(3)開港場は、約束した兵庫でなくて神戸でも「ええじゃないか」
[18378] ニジェガロージェッツ さん
兵庫の町は中世から続く古い街で外国の商館や居留地を設けることは土地的に余裕はなく、また治安の面からも当時は幕末の騒然とした時代で攘夷論もやかましく、古くからの因習に満ちた兵庫の住民と、西洋諸国の居留民との間で衝突の懸念もありました。
そこで、兵庫港から北北東へ約2キロ離れた神戸村の浜辺を「兵庫港」の名のまま開港場としました。

ここに挙げられたように、土地的条件と警備面が理由であるとすると、「兵庫」の名で開港したのが神戸になったことは、「神奈川」の名を使って横浜を開港した手法を繰り返したように思われます。
[20917] hmt 参照
安政5年(1858)の日米修好通商条約で開港を約束した5港のひとつは「神奈川」でしたが、幕府は警備上の理由から開港場を横浜村に変更し、外国に対しては「横浜は神奈川の一部である」という強引な論理で押し通しました。

しかし、「神奈川」の名を使いながら実際の開港場を横浜に変えたのは、まさに日本側(江戸幕府)の都合であり、商売上から神奈川宿を主張した外国側の意向を無視して強行したのに対して、条約上の開港場が「兵庫」であるにもかかわらず、実際の開港場を神戸に変えたのは、外国側の同意を得たものであったようです。

国土交通省近畿地方整備局神戸港湾事務所の 神戸港の歴史(幕末から明治へ) によると、当初は兵庫の市街地に近い和田岬から妙法寺川尻に至る臨海部を外国人居留地とし、沖合いに防波堤を築いて内側を開港場とする計画だったようです。

しかし、結局のところ前記の理由により、居留地は神戸村に選定。
この兵庫外国人居留地規定に英国公使パークスが賛同した(慶応3年4月14日)ことにより、各国代表もこの取り決めを承認しました。
パークスは、英米蘭仏4ヶ国連合艦隊が下関を砲撃した翌年(1865)に着任していますが、この年に艦隊が兵庫に来航した[54322]際の測量結果から、“天然のすぐれた投錨地となっている小さな湾”(神戸の入り江)の方が、兵庫津よりも港に適していると判断したのだそうです。

パークス曰く
開港場は、約束した兵庫でなくて神戸でも「ええじゃないか」[54322](冗)。

開港場は神戸になりましたが、勅許がようやく得られた後の慶応3年7月に「兵庫奉行」が任命され、開港後も公文書には「兵庫居留地」と記されています。

開港後間もない慶応4年4月の「開港神戸之図」[54297]が示しているように、「神戸港」の名は最初から使われていたのでしょうが、「神戸港」の名が公的にも現れたのはいつからでしょうか?

ずっと後のものですが、明治17~20年に、「二万分一仮製地形図」が測量されています。平凡社の「兵庫県の地名」に付いている復刻版(集成縮小図)を見ると、ニジェガロージェッツ さんの略図[54321]と同じ位置に「神戸港」、「兵庫港」の文字が入っています。
これよりも更に後の、明治25年9月15日勅令第77号「神戸港船舶碇繋所区域拡張ノ件」によって、兵庫港域も「神戸港」に統合されました。
[54430] 2006年 10月 14日(土)19:22:09hmt さん
兵庫・神戸(4)県域の変遷
安政5年(1858)に米・蘭・露・英・仏の5ヶ国との間にそれぞれ調印した修好通商条約に基づいて開港した五港のうち、名目と実態が異なる 兵庫と神奈川 について書いてきました。

神奈川・横浜の最終回に神奈川県域の変遷を記したので、バランス上(?)兵庫・神戸シリーズの方にも兵庫県域の変遷を付け加えておきます。
これに関連して、興味ある話題に言及することができればよいのですが、あいにく手持ちがなく、データの列挙に近いだけのものになりそうです。

と、言いつつ調べてみたら、兵庫県のHPの中に 県域の変遷 が図示されており、その説明も参考になりました。今川焼さんの記事[46937]からのリンクは、URLが変更されたために、切れています。
以下、このHPを参照しながら、役所と管轄区域の変遷を記してみます。

神奈川よりも8年半遅れ、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に兵庫が開港した翌月、慶応4年正月に、兵庫奉行などの幕府関係者は将軍慶喜の後を追って江戸に引き揚げてしまい、後は接収した新政府の管理するところとなります。

外国掛兵庫事務所、兵庫鎮台、兵庫裁判所を経て、知県事・伊藤博文が任命されて「兵庫県」になったのは慶応4年5月23日です[54322]
「兵庫県」になった根拠は、慶応4年閏4月21日の太政官布告(政体書) ですから、当然のことながら神奈川県の前身の「神奈川府」の発足と同じ年ですが、知府事・東久世通禧の任命で神奈川府が発足したのは6月17日というように、日付はまちまちです。
# 慶応4年は、この後9月8日(1868年10月23日)に明治元年と改元。

「第一次兵庫県の県域」によって最初の兵庫県管轄区域を見ます。
開港場の神戸、西攝津4郡内の旧幕府領の他に、播磨国にも飛び地があります。神奈川県の場合にも“虫食い状態”[54421]と書きましたが、尼崎藩領や三田藩領が介在するこちらは、入り組み方が更にひどく、「飛び地の集合」状態です。
現在の大阪府域のうち、淀川より北(旧摂津県→豊崎県)も兵庫県になっていた時代がありました。
稲田騒動のあった淡路国津名郡の一部も、一時的に兵庫県管轄になっていました。

「第二次兵庫県の県域」には、明治4年廃藩置県後の第1次統合により、ようやく「飛び地の集合」を脱して、摂津5郡(八部、兎原、武庫、川辺、有馬)一円となった「小さな兵庫県」(17万石)が、大きな飾磨県(66万石)と豊岡県(46万石)、そして名東県の一部(淡路9万石)と共に図示されています。

「第三次兵庫県の県域」には、明治9年(1876)8月21日の第2次府県統合によって、面積で9倍と一気に拡大し、現在に近い大きさになった姿が示されています。この巨大な県がいかにして生まれたのか?

先ず特筆されるのは、飾磨県だった大国・播磨の全域が兵庫県になったことですが、兵庫県のHPによると、内務卿大久保利通が
開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ
と指示したことが、飾磨県を消滅させて兵庫県にした原動力になったようです。
県庁ひとつを減らすことができるなら、一挙両得である
なるほど。

実は慶応4年正月に遡ると、江戸に引き揚げた幕府関係者の中に、老中だった姫路藩主・酒井忠惇がいたために、佐幕姫路藩の追討令が出されていたのです。すぐに開城恭順したのですが、どうもこれが姫路、ひいては播磨の政治的地位に悪影響を及ぼしていたようです。
明治4年11月の第1次統合で誕生した「姫路県」が7日後には「飾磨県」と改められただけでなく、明治9年の第2次統合では、“県庁ひとつを減らす”対象にされてしまったのです。お気の毒。

日本海側の豊岡県は分割され、但馬国全域と丹波国2郡とが兵庫県に編入されました。山陰に近いこの地域が因幡国でなく播磨国と同じ県になった理由は、内務省地租改正局出仕の櫻井勉(但馬国出石出身、後に内務省地理局長)の意見(交通の便を考慮)によると伝えられます。そして前記のように播磨国が兵庫県になったので、但馬国までも兵庫県ということになりました。

更に、淡路国も全域が兵庫県になりました。「阿波への路」という意味で、四国と密接な関係にあった淡路国が兵庫県になったのは、明治3年の稲田騒動で悪感情が高まっていた淡路と阿波(名東県→高知県→徳島県)とを分離させるためでした。

こうして5ヶ国に及ぶ大県になった兵庫県。人口も6倍強になり、東京府・大阪府よりも多かったとか。

この明治9年(1876)の第2次府県統合では、山間部の交通が不便という櫻井勉の意見により但馬国との合併が否定された因幡国までの山陰5ヶ国(隠岐国を含む)が島根県になっています。
この年、石川県も越前国から越中国まで4ヶ国に及ぶ大県になり、明治14年に堺県を併合した大阪府も摂河泉に大和国を加えた4ヶ国です。
しかし、明治14年(1881)以降の分割・再編成でこれら3つの府県域は縮小しました。

# 5ヶ国に及ぶ兵庫県と共に無傷で生き残ったのは4ヶ国に及ぶ三重県でした。3ヶ国(伊勢・伊賀・志摩)の全域と紀伊国の一部。なかなか侮れない存在です。

その後、明治29年(1896)に美作国の一部も岡山県から兵庫県に編入されましたが、県界変更と同時に国界も変更されたようなので、5ヶ国は変わらず。
現在ではほとんど実用的価値を失っている旧国の領域ですが、昭和38年(1963)の備前福河編入により、兵庫県は一応6ヶ国に及ぶことになっています。
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