都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[57443]2007年3月27日
むっくん
[57481]2007年3月30日
88
[57484]2007年3月31日
oki
[57500]2007年3月31日
矢作川太郎
[57885]2007年4月9日
oki
[57886]2007年4月9日
oki
[58062]2007年4月17日
oki
[58096]2007年4月21日
むっくん
[58109]2007年4月22日
oki

[57443] 2007年 3月 27日(火)19:51:04【2】むっくん さん
藩政村
[57435]88さん
それにしても、現行の町名・大字と、藩政村を見比べた場合、藩政村の名前がよく現在も残っているといえる例でしょうか? 多いか少ないか、というと、感覚的な要素が入るので判断が難しいのですが、私の感覚としては、中心部を除くと現実としてよく残っている、と感じました(個人的にはもっと残っていて欲しいですが)。「○○△丁目」をつくるときも、極力藩政村の地名を残そうとしていることも感じられます。
私もそのように思います。そうでないところも、江戸時代に俗に大津百町と呼ばれた大津中心部以外は藩政村もしくは小字の名称を用いているところが多いようです。

ただ、ここで拙稿[57414][57415]の補足をしておきます。
私には下記の4点の疑問があり、どこまでを藩政村として取り扱えばいいのかが分かりません。
そのために拙稿[57414][57415]において比較の対象を藩政村にせずにあえて明治5年4月7日の区政施行時の町村としています。
#以下の疑問であげる村は拙稿[57414][57415]で取り扱っている範囲の村です。

疑問1:A村の枝村となっているB村まで藩政村として扱ってよいのか?

例:鵜川村(滋賀郡の中で唯一高島市に所属することになった村)

鵜川村は明治時代以前は北小松村の枝村とされていて、独立した一つの村として見なされていませんでした。


疑問2:○○新田という名の村?をすべて藩政村として扱ってよいのか?

一口に○○新田といっても様々あります。
大萱新田明治大合併後は瀬田村に所属元禄郷帳(1701)に既に記載されている。
真野新田明治大合併後は真野村に所属明治5年に滋賀県に所属し明治7年に合併で真野村となった。
しかし真野村の成立過程の各種記録には記されていない。
今村新田明治大合併後は下田上村に所属江戸時代には里村の枝村となっていたのが明治5年の区制成立時には
独立した一つの村として扱われている。(疑問1で既出)

多種多様の○○新田という名の村?のどこが藩政村でありどこが藩政村とならないのかという線引きをするにあたり、何らかの基準を定める必要がありそうです。


疑問3:複数の村(町)が集まって一つの村(町)とされている藩政村をどのように扱うのか?

例:五別所村(別所村と神出村の集まり)

江戸時代には実際には別所村と神出村という名前の村でしたが、公式の記録(e.g.天保郷帳(1834年))には五別所村として書かれていました。明治5年の区制施行時には滋賀郡第十区所属の別所村と神出村となり、明治の大合併後には大津町となりました。


疑問4:城下町をどのように扱うのか?

大津市には膳所城があり、慶長6年(1601年)に膳所城城下町として別保村・中ノ庄村・膳所村・木ノ下村・西ノ庄村(明治大合併以後は膳所村)の5か村が指定されました。そしてその村域の一部に町人町(八軒町など)と侍屋敷町(家中町など)が作られました。
ここで町人町(八軒町など)や侍屋敷町(家中町など)を藩政村とは別個に取り扱った方がいいのか否かが私には分かりませんでした。全国的に見ると城下町の取扱いについては藩政村の字として取り扱うところと、藩政村とは別個の町として取り扱うところの両方がおそらくあるものと私は推察しますが、88さんはどのような方針を採用される予定なのでしょうか。
もっとも、『滋賀県の地名(日本歴史地名大系25)(平凡社、1991)』では膳所城下町の様子が完全には解明されていないとのことで、侍屋敷町の名称がすべて分かっているのかさえが甚だ疑問ではありますが。。。

#このようなことを書く以前に、明治22年の明治大合併で上田上村・瀬田村になったエリアでの現在の町・大字の記述が不正確である状態(住居表示実施に未対応)なままに[57414][57415]を書き込んだことを本当は反省しなければならないのですが。
#さらには[57414]を訂正したときに、明治22年の町村として仰木村を誤って消してしまいました(泣)。
[57481] 2007年 3月 30日(金)23:43:4188 さん
藩政村、城下町、字・・・・・
[57443] むっくん さん
疑問1:A村の枝村となっているB村まで藩政村として扱ってよいのか?
「枝村」は「支村」と同じ趣旨だと思っているのですが、過去ログでもあまり話題になっておらず、こちらの3件だけのようです。私はよくわかりません。答えにならなくてすみません。

疑問2:○○新田という名の村?をすべて藩政村として扱ってよいのか?
これも私は知識が追いついておりません。不勉強です。
私が藩政村を見るときに参考にしているのは、「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(1,2)(別冊)」 (2000年9月、西川治監修、太田孝編著、東洋書林) なのですが、私は単純に「○○新田」という「藩政村」という位置づけをしていました(便宜上)。同様に「○○宿」という「藩政村」があるとみなしています(乱暴かもしれませんが)。これも答えになっていません。

疑問3:複数の村(町)が集まって一つの村(町)とされている藩政村をどのように扱うのか?
これも、私は不勉強です。

疑問4:城下町をどのように扱うのか?
[55501]拙稿で少し城下町について触れました。参考文献は「地方自治百年史 第一巻」(平成4年3月30日発行、地方自治百年史編集委員会編集、地方自治法施行四十周年・自治制公布百年記念会発行、財団法人地方財務協会発売)でしたが、[55501]を一部再掲すると、
城下町では「町」一つ一つが藩政村と同様に自治団体であり、例えば江戸、大阪、福岡といった都市が全体として自治体であったことはありません。
とのことでした。また[55568]拙稿でも述べたように、
「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(1)」(2000年9月、西川治監修、太田孝編著、東洋書林)の「序」では、『江戸時代の幕藩体制下の町村』という表現があり、『藩政村』なる表現は出てきません。また、「町」については、『城下町』『商業町』『港町』『門前町』『鉱山町』等、との表現があります
なので、これらが同列で「自治団体」と理解しているのですがいかがでしょうか。
もっとも、「個々の城下町によってその権能が異なる」ということがあると、お手上げになってしまいそうです。
また、[55766] 矢作川太郎 さん にもご教示をいただきましたが、
「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」の位置付けは参考資料の一つでしか有りません。
と書いていらっしゃるように、確かに一つの資料を信用しすぎるのもどうか、と自分でも思います。あらゆる資料(特に原典)をあたれるもの(例えば最近の変遷であれば告示を押さえる)はよいのですが、藩政村や城下町の時代になると資料が乏しく、また、その中でもどの資料を採用すべきものか悩ましい(判断するほどの材料も少ない)ことも多いと思います。
このようなときには、例えば「市区町村変遷情報では○○の資料による」という断りを入れる方法しかないのかな、とも思います。
よって、私もまだ十分に検討できているわけではありません。このままいくと、「『幕末以降・・・』のまま何も考えずに掲載する」という方針になってしまいそうです。

以上、4つの質問に対して十分な回答になっておらず申し訳ありません。詳しい方からご教示をいただけると幸いです。

―――――――――――――――――――――――――

[57458] じゃごたろ さん
それは「字」に関するもの。住居表示に関するもの以外にも字の変更の告示が見られまして、現在では消滅してしまったものもその告示で見ることができます。それこそ集落単位で命名されたと思われるものがゴロゴロと。

長野県限定ですが、そのデータを提供するために調査することは可能です。あっ、長野市よりも甲府市の方が近いから、山梨県の情報も収集可能です。

もし御興味がある方がいらっしゃいましたら、御一報下さい。。。。

呼ばれたような気がしますので(笑)・・・・。
試行品をさらに本格化させる折には、お世話になるかもしれません。もっとも、現在ではそこまで手が回っておらず、また、個人的に地元香川県のものは整理したいと思っているのですが、それでもまだ図書館での調査がほとんど進んでおりません。
よって、大変興味はあるのですが、当分の間、私としては残念ながら「パス」でお願いいたします。
[57484] 2007年 3月 31日(土)05:51:30oki さん
藩政村について
[57481] 88 さん

藩政村や城下町の時代になると資料が乏しく、また、その中でもどの資料を採用すべきものか悩ましい(判断するほどの材料も少ない)ことも多いと思います。

初めまして、okiと申します。地理と地図は子供の頃から好きで、かなり前からROMっていました。どちらかというと歴史地理的な分野に興味が強く、Issie先生やhmtさんの卓見には敬服しています。
皆さんに刺激を受けて、藩政村と現在の町丁大字区域との対応関係を地図上に表現できないかと考え、可能な資料を集めて悪戦苦闘しているのですが、なかなか思うようにはいきません。
この間の、88さん、むっくんさんなどの議論を読んでいて、ひょっとして私でも少しはお役に立てるかもしれない、と思って投稿することにしました。すでにご存じのことも多いでしょうが、お読みいただければ幸いです。

明治以降の自治体と藩政村との関係を考える場合、「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」など、これまでにあがっているものを除くと、基礎にすべき資料としては以下のようなものが考えられます。以下で○をつけているのは、ネット経由で閲覧可能な資料です。

江戸時代末期の資料
1.天保郷帳
2.天保国絵図(○)
3.地名研究必携

明治初期の資料
4.旧村旧高取調帳(○)
5.郡区町村一覧(○)
6.地方行政区画便覧(○)
7.新旧対照市町村一覧(○)

以下、簡単に説明しておきます。

まず郷帳というのは、「江戸幕府が国絵図とともに作成・提出させた帳簿。郡ごとに村名とその石高を書き上げ,一国単位でまとめたもの(平凡社百科事典より)」です。江戸時代に何度か編纂されていますが、その最終版が「天保郷帳」で、年次は天保5(1834)年です。
影印本が出版されていますが、大きな図書館にしかないと思います(東京でも、国会図書館以外では都立中央図書館にしかないようです。大学図書館は別ですが)。

「天保国絵図」は天保郷帳と対になる絵図で、蝦夷・松前、琉球を含む全国の絵図が、国立公文書館のHPで閲覧可能です。urlは以下の通りで(これは滋賀県)、JPEG2000で閲覧する方が便利です。

http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/map/shiga.html

天保郷帳がなくとも、この国絵図を見れば、その時点の村名を知ることが可能です(絵図なので、書体は筆による崩し字であり、活字ではありません。古文書解読の能力がなければ、「素のまま」で読むのはかなりシンドいと思います。しかし、以下の旧村旧高取調帳などで当りを付けた上で見れば、ほぼ読解可能です。これは古文書解読能力のない私の経験から言えることです)。

「地名研究必携」は、長野県地名研究所の滝澤主税氏が天保郷帳以降の自治体の変遷を整理された大作で、天保郷帳記載村名、天保~明治大合併以前、明治大合併時、昭和大合併時まで、昭和大合併時、に分けた記載があります。サンプルは以下の通り。

http://www.geocities.jp/chimeikenkyui/chimeikenkyuu.htm

この本は大図書館以外には所蔵していないと思いますが、入手もしくは閲覧できれば、かなり役に立つと思います。


次に「旧村旧高取調帳」は、「明治政府が編纂した江戸時代の末期時における全国村名目録で、明治初年における近世村落の概要を知ることのできる資料」です。掲載されているのは明治2年(1869)頃の村名で、現在は地名として消失したものも含まれている、とのことです。
近世史家で明治大学教授・学長であった木村礎氏が校訂した刊本がありますが、これをもとに歴史民俗博物館がデータベースを作成しており、同館のHPから検索可能です。

http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param

このDBでは、村名だけでなくその石高も知ることができますが、一つの村が複数の領主に宛行われている場合(これを相給といいます)、同一の村が領主の数だけ検索されます(これがどういうことなのかは、例えば「山城国 乙訓郡 久我村」で検索すれば分かると思います)。そのため、単純に全国の村名を知るためには、データを取り込んで加工する必要がありますが、総件数が97,359件に達するので、結構大変なものがあります。
また、この資料で把握できるのは「石高」の付された村だけです。三都はもちろん、主な城下町の町名は載っていません。町場には田畑がなく、年貢徴収がなされないためです。逆に、石高がつけられるのは「村」だけでなく、在郷「町」、港や漁師町である「浦、浜」、宿場町の「宿」、「新田」など色々なものがありますが、煩雑なのでここでは詳説しません。
それ以外にも、藩政村の特性に起因する色々な問題があり、私自身がかなり前から整理しているのですが、まだ全国の藩政村を一意的に把握するには至っていません。

「郡区町村一覧」は、ご存じの方も多いと思いますが、内務省地理局が明治11(1878)年時点で全国の郡区名およびそこに属する町村名をとりまとめたものです。この時点の町村名を確認できるとともに、旧村旧高取調帳と照合することで、この間に合併・名称変更等のあった町村を確認することができます。国会図書館のデジタルライブラリーで閲覧が可能で、urlは以下の通りです。

http://kindai.ndl.go.jp/index.html

「地方行政区画便覧」も内務省地理局の編纂物で、デジタルライブラリーから閲覧可能です。市町村制施行直前の明治19(1886)年時点の郡区町村名を知ることができます。また、戸長役場所在町村と、そこに属する町村、戸長役場単位での人口が記載されています。

「新旧対照市町村一覧」もデジタルライブラリーから閲覧可能です。文字通り、市町村制施行直後に、新しい市町村とそこに属する旧町村を整理した資料です。本来、このような資料は地理局が刊行すべきだと思いますが、どういうわけか「東京都和泉橋警察署著作」となっています。同署の署長が府県庁等に問い合わせた結果をまとめたもので、各府県の官吏も警視庁警視にデタラメな資料を提供することはないでしょうから、それなりの信頼性はあると思います。

資料紹介は以上の通りです。
枝村や新田の扱いなどに関しては、私の意見がありますが、長くなったなので次の機会に回したいと思います。

では、今後ともよろしくお願いいたします。
[57500] 2007年 3月 31日(土)23:59:53【1】矢作川太郎 さん
私見ではあるが一応レス。
[57443]むっくんさん
[57481]88さん

私も色々と私見ではありますが、例を挙げて関連しそうな事例を紹介したいと思います。

疑問1:A村の枝村となっているB村まで藩政村として扱ってよいのか?

この問題に関連していると思われる例に常滑市蒲池町(旧:知多郡西之口村の一地区-枝郷)を紹介します。江戸期には、蒲池地区は西之口村の一部と見なされ独立して扱われていませんでした。しかし、郡区町村編制法にかかる合併によって、M.11年に所属する西之口村は近隣の榎戸村と共に大村である「大野村」に繰り入れられました。ですが、一旦合併したものの、産業形態の相違その他と思われる事情によりM.16年に分離し、その際に西之口村とは別に蒲池村が分置されました。その後、明治の大合併によって西之口村に併わせられますが、大字名としてS.51年まで存続し、後には蒲池町が設定される事に至った訳です。ところで、新町起立の際に同時に北隣の「小林町」も起立されました。この小林と言う名前は蒲池地区のさらに内部にあった枝郷に由来します。包含関係を整理して書くと、

西之口村>蒲池村(地区)>小林地区

と言う風になります。私としては蒲池村を江戸期旧村(所謂、藩政村の事)とまではいかないが、「准旧村」位には扱っても良いのではないかと考えます。(まあ、名前が准教授、扱いが冥王星の様ですが・・・) 要するに江戸期から幕末期にかけては別個の村として扱われなかったが、明治期以降にはれっきとした大字として扱われた事実を鑑みるとある程度の重視が必要になると思います。

疑問2:○○新田という名の村?をすべて藩政村として扱ってよいのか?

これもかなり疑問1と領域が重なる点が多いと思います。例として岡崎市真伝町を挙げます。この町は江戸期には東隣の滝町にある「滝山寺」の寺領であった新田地域でした。(余談ですが、父が人から聞いた話に依ると江戸期には滝山寺はかなりの隆盛をしており賑わっていたそうです。)この新田地域がM.24年に真田(若しくは新田)と言う大字になって大字滝から分離したそうです。後にS.30年になると「真伝町」と改称される事になり現在に至っています。その証拠に手元の道路地図(引用の地図では解りづらい。)をみてみると滝町、真伝町相互の境界が「岡崎総合運動場~(岡崎)滝団地」に掛けて若干錯綜している様に見えます。

この事例では前項目と同じく江戸期旧村の一地域をもって成立した町名を取り上げました。同様に仮に○○村と○○(村)新田と言う組になった本郷-新田関係の2つの村(新田)を元にした町名(隣接・非隣接を問わず)が並立した状態に現状なっている場合がいくつかはある事も念頭に置いておいた方が良いでしょう。 ただ、地租改正等のごく初期の段階で本郷-新田関係の2つの村(新田)が合併してただの○○村と名乗っている場合もあるので個々人の必要に応じて如何様にも解釈は可能だと思います。

多種多様の○○新田という名の村?のどこが藩政村でありどこが藩政村とならないのかという線引きをするにあたり、何らかの基準を定める必要がありそうです。

私としては後世の町名起立に何らかの変更を与えたと思われる新田を中心に据えて考えています。(この点かなり曖昧な表現になってしまいます。)

疑問3:複数の村(町)が集まって一つの村(町)とされている藩政村をどのように扱うのか?

これには春日井市坂下町を挙げます。この坂上町は江戸期に名古屋から現:恵那市付近の中山道に至る下街道(善光寺街道)の宿場として機能していました。M.11年以前には東部を「和泉村」、西部を「一色村」と言っていましたが実態は坂下宿と総称されていた様です。角川地名辞典から引用・要約するに、詳細には「宿場南部が和泉村、中部東側が和泉村、中部西側が一色村、北部が一色村」とされています。引用した地図の中央に見える細道が多分旧道です。また、中央右側を流れる内津川に架かる2つの橋の名前が泉・一色橋となっているのも名残でしょう。思うにかなり境界が錯綜していたのでしょう。

疑問4:城下町をどのように扱うのか?

この点については2つ例を挙げたいと思います。それは犬山市(大字)犬山西尾市街地です。どちらも城下町ですが、まず、この2つの市街地の大きな違いは市街地が「大字」か「町の総体(集合体)」で構成されているか、と言う点です。無論、明治期の合併の際も施行の手法が犬山は「稲置村→犬山町」と言うものだけなのに対して、西尾は「(俗に言う)西尾20町+鶴城村(鶴城と言うのは西尾城の別名?)→西尾町」と言う様に異なっています。私はこの2つの市街地がナゼこの様に異なった対応をされたのか大変不思議に思っています。例えば町の数に依ってこの様な差が生じているのでしょうか?この点は後世の調査に期待したい所です。そして本題ですが、私は村的な区域の名前と町名を並立した形で並べるのは少し混乱を生じる恐れがあると思います。理由は、所謂町名は総括する地名の存在を前提としていると考えるからです。イメージとしては、

城下町の総称>個別の町名
江戸期旧村名>小字名

と言う風になるでしょうか?かなり抵抗のある考えでしょうが、明治初期の一時期、城下町の町名にわざわざ総称となる地名を冠称している点を見ると、当時はその様に捉えられていたように思えます。

あと、
もっとも、『滋賀県の地名(日本歴史地名大系25)(平凡社、1991)』では膳所城下町の様子が完全には解明されていないとのことで、侍屋敷町の名称がすべて分かっているのかさえが甚だ疑問ではありますが。。。

との事ですが、郡区町村編制法を適応する際に、(多分)全国的に城下町に於いてかなり町名の整理が行われた様です。多分、その様な町名は通称に依るモノが多いので公称とはかなりの差違があり尚かつ、呼び名が複数有るのが普通だった様なので行われたのでしょう。拘る必要は余り無いと思います。

私としては郡区町村編制法施行期前後の合併は境界錯綜や飛び地、一体化した複数の村の統合・合理化に目的の重きが置かれているように捉えています。ですから、土地所有者や徴税する立場にある人以外にはそれほど気にするべき事柄では無かったように思えます。だから、同時期に合併された村の境界を同定するのはかなり大変だと思います。自分の方針としては集落名や寺院・神社の位置・現地踏査など総合的に踏まえてだいたいで解れば良い方だと思います。(山間部に於いては集落の一体化が進んでおらずかなりの精度で特定が可能です。)

まあ、
このままいくと、「『幕末以降・・・』のまま何も考えずに掲載する」という方針になってしまいそうです。
と言うのも一つの選択肢でしょうね・・・

【1】・・・疑問3以降を大幅に改訂。
[57885] 2007年 4月 9日(月)03:01:12oki さん
藩政村について~その2
[57608] 88 さん
楽しみにしています。お手すきのときに、またよろしくお願いいたします。

レスが遅くなって申し訳ありません。皆様十番勝負に夢中だと思い書き込みを遠慮していたのと、出張が入ったのと、その他諸々ありまして。しかし十番勝負は、あんな問題がどうして解けるのでしょうね。私が今までに解けたのは奥の細道関係の1問だけで、ほかは説明を受けてもよく分かりません。そのため最初から諦めているので参戦する勇気は起きませんが・・・。

さて、以下はあくまで私見です。私は専門的な歴史教育を受けたわけではなく、単なる物好きがいくつかの書物を読んで自分なりに理解した結果を記述してだけで、誤りは多々あると思いますので、その点をご承知の上でお読み下さい。

疑問1:A村の枝村となっているB村まで藩政村として扱ってよいのか?

江戸時代の村が「独立した村(=藩政村)」であるか否かは、「原則として」、村高(石高)が付されているかどうかによって決定されると思います。
近江の天保国絵図(以下天保国絵図を「国絵図」と称します)を見ると、五別所村には村高が表示されています。国絵図記載の高は私の能力で判読不能ですが、「旧高旧領取調帳」(以下「旧高旧領」)によると280石余のようです。そして、「五別所村内」として「神出村」と「唱文師村」が図示されています。この場合、五別所村が親村(藩政村)であり、神出・唱文師は枝村で、両村の村高は五別所村に含まれているはずです。(鵜川村については、国絵図に村高が記載されており(「旧高旧領」で483石)、天保郷帳の時点では独立した村として扱われていたようです)。
ただし、以上の「独立した村」というのは、あくまで領主の側からの見方です。江戸時代の村は年貢納付に関して「村請制」をとっており、領主は「村」に対して村高に年貢率(五公五民とか四公六民の「公」の部分ですね)を乗じた高の年貢を賦課し、「村」の側はこれを皆済する義務を負っていました。「村」の方では、これを個々の村民に割り当てて所要の年貢を集めるわけですが、領主はそこまで介入しません。どのような手法によろうと、割り当てた年貢を納めればいいわけです(江戸後期になると、他村から米を買って年貢に充てる村もあったようです)。このような「村請」の主体になるのが、領主から見た「村」、すなわち「藩政村」です。

しかし実際には、ほとんどの「村」は領主側から見たような一体的な存在ではなく、小地域ごとに細分されていました。小地域の呼称は、小名、坪、庭、垣内など、地域によってさまざまですが、それらこそが自然的に形成された集落(いわゆる自然村)であり、領主の規定した「藩政村」は「行政村」だと捉えられています(民俗学ではこの小地域を「ムラ」と呼んでいるようです)。
小名などの小地域は、領主から認められなくとも、内部的には村と称していた例が多々あります。また、自力で新田を開くなどによって収穫高を高め、公式に「村」として認められるようになる場合もあります(鵜川村はその一例でしょう)。独立村として認められなくとも、「○○村内△△村」の形で国絵図に掲載されることもあります。神出村などはこの例で、親村からの独立性が比較的高かったからだと思われます。しかし、これはむしろ例外で、藩政村内の小地域は独立村として認められず、国絵図にも掲載されないことがほとんどだったと考えられます。
さて、この「村」内の小地域が明治以降どうなったかですが、神出村は明治初期に村として独立し、最終的に現在の神出開町などになったようです。ほかにも、江戸期には独立した村として扱われなかったものの、明治時代に独立村になり、現在の大字等に名を残している事例はかなりあるようです。逆に、親村の小字扱いで、現在も小字に留まる、あるいは全く消えてしまったものも多数あります。
以上は一般論で、実際のところは、枝村などの存在形態は非常に多様で、私の理解を超えるものが多々あります(平凡社の歴史地名辞典によれば、神出村、唱文師村は江戸時代前期には村高が表示されていたのが、天保郷帳の頃にはなくなったとのこと。なぜなのかはよく分かりません)。同様に、明治以降のあり方も様々だと思います。

以上の記述では、「枝村を藩政村として扱ってよいのか?」という問いへの答えになっていませんが、私の考えは、国絵図などの領主側資料で枝村となっているものについては、「村」として扱っていいのではないか、というものです。先のように、小名などの小地域で枝村として表示されている地域は、親村に対する独立性が比較的高く、明治以降は独立した村になり、現在も大字として残っているところが多いからです。
「市区町村変遷情報」の充実を図るという観点から見れば、神出村の場合は明治以降独立し、現在も大字・町名に名を残しているわけですから、独立した村として扱うのが自然だと思います。(この場合、幕末期に「枝村」であったという情報を付加した方がいいと思います)。唱文師村は明治以降の動向が不明ですが、とりあえず情報としては記載しておき、その後の経緯は不明としておくのがいいのではないでしょうか。
幕末時の独立村で、現在は大字内の小字(もしくは通称地名)に留まり、あるいは全く消失してしまった地名もかなりあるという現実を考えると、以上のような扱いが妥当ではないかと考えるのですが、いかがなものでしょう。
[57886] 2007年 4月 9日(月)05:34:43oki さん
藩政村について~その3
疑問2:○○新田という名の村?をすべて藩政村として扱ってよいのか?

江戸時代の「新田」について、平凡社百科事典は次のように解説しています。
『江戸時代の新田には、新しく開発された耕地という一般的な意味のほかに、本田畑に対する新田という法制上の土地範疇としての意味が存在した。本田畑とは、ふつう江戸幕府初期の慶長初年(1596)以前に行われた総検地(古検ともいう)によって石高をつけられた土地をいい、これに対し、その後に新田開発され、寛文・延宝検地や元禄検地(新検ということがある)によって新たに高付けされた田畑屋敷地をすべて新田と称した。新田は、比較的大規模なものは本村の枝村となったり新田村として独立することがあったが、その他の場合は新田高として村高の内に編入された。ただし、石盛が低くつけられるなど、あくまで本田畑とは別扱いであり、後年になって両者の差異が事実上なくなっても、土地法制上の区別は形式的に残された。幕府は1726年(享保11)に新田検地条目を制定したが、この条目による享保以降の新田と区別するために、享保以前に成立した新田を古新田と呼ぶことがあった。』

さて、上記で「新田村として独立」したものは村立新田と呼ばれ、「村高の内に編入された新田」は持添新田と呼ばれています。
前者の典型例は、武蔵野台地の開拓によって生まれた畑作新田や、干拓地に新たに作られた新田です。この場合の「新田」というのは「村」と同義であり、慶長検地以前に村切りされた地域の行政区画単位を「村」と呼ぶのに対し、それ以降の新開村を「新田」と称しているだけです(江戸時代の行政区画の単位名称は多様で、村、新田以外の主なものに町、浦、郷、宿、浜、島などがあります。なかには「新田新田」というのも見受けられます)。享保の新田検地条目以前に村立新田であった地域は村と呼ばれるようになり、それ以降のものは新田と称されたとも言われますが、これも地域によって様々で、必ずしもその原則に従っているわけではありません。

一方、持添新田のあり方は多様で、最終的に独立した村になったもの、枝村であったもの、あるいは新田高として村高の内に編入されたものなど色々です。ただ、新田の特異性は、たとえ村高に編入されたものでも、土地法制上の区別があるため、国絵図等で石高が記載されていることです。
具体的に、大津市の事例を見ましょう。以下は旧高旧領をもとに、現大津市内で「新田」であった地域の地名とその石高を示しています。

旧村名石高
大萱新田354
今村新田98
栗林新田47
入江北新田41
赤尾新田30
小野新田26
入江南新田13
苗鹿新田8
八幡野新田8
荒川新田8
南小松新田8
錦織村地先・大久保新田7
北田新田7
真野浜新田6
今宿新田6
下坂本村地先・大久保新田5
山上村地先・大久保新田4
真野新田3
五別所村地先・大久保新田2
南滋賀村地先・大久保新田1
(石高は簡単のため石単位で四捨五入しています。)

以上のうち、現在も大字・町名として残っているのは大萱新田、栗林新田、赤尾新田だけのようです(すべてを確認したわけではありません)。国絵図によると、大萱新田、赤尾新田は独立村、栗林新田は南笠村の枝村になっています。逆に石高が微少な「五別所村地先・大久保新田」、「南滋賀村地先・大久保新田」などは、それぞれの本村に含まれていると考えることが可能です。
では今村新田や入江北新田、小野新田はどうなのか、今村新田については、国絵図に森村の枝村として今村新田があるので、これかもしれません。入江北新田は分かりません。小野新田はおそらく小野村の内部に含まれていると思われます。
他の新田についても、本村の名称が付されているものはその一部と考えられ、そうでないものはよく分からない、というのが正直なところです。

以上を前提に、「市区町村変遷情報」で「新田」をどう扱うかですが、大萱新田や栗林新田のように独立村、枝村であったものは先にお示ししたのと同様に考えればいいと思います。
問題はそれ以外のものです。
[57500] 矢作川太郎 さん
私としては後世の町名起立に何らかの変更を与えたと思われる新田を中心に据えて考えています。
このように考えてもいいのですが、今村新田のように幕末期には枝村で(?)、現在の所在がよく分からないという事例もあるので、即断も禁物です。可能であれば、詳細は不明とした上で、明治期の村、現在の大字・町名との関係を推定で記載した方がいいのではないかと思います。
[58062] 2007年 4月 17日(火)01:57:52oki さん
藩政村について~その4
むっくん さん
[58044] 犬山と西尾の差異
[58043] 新田・枝村・城下町
[58035] 天保国絵図・旧村旧高取調帳・郡区町村一覧

十番勝負でお忙しい中、詳細なレスを付けていただき有り難うございます。
ただ、いくつか誤解があるようなので、その点への説明も加えながら、私の意見を述べたいと思います。

1.明治時代以前は米を中心に社会が成り立っていたのであるから、石高を持つ農村(藩政村)を行政単位の中心とし、石高を持たない町は行政単位の例外事項と見る。

これは私の説明不足だと思いますが、石高を持つのは農村だけではなく、また石高の内容は米だけではありません。
石高の基礎となるのは水田、畑地、宅地の面積で、この面積に石盛と呼ばれる単位当たり収量(1反当たり1石など)を乗じ、これらを総計して石高が決定されます。江戸時代の水田と畑地との面積に関する資料はごく少ないですが、「明治以前日本土木史」所収の「町歩下組帳」では、江戸中期に水田172万町、畑地132万町で、両者の比率は57:43になっています(関東は特に畑地が多く、比率は37:63です)。水田から得られる米は現物納ですが、畑地、宅地は石高をその時々の米価で換算した金納であったようです。
重要なのは宅地も石高に組み入れられることで、結果として農耕収穫のない漁村、港町、宿場町などにも村高が付されます(宅地に収穫高があるわけはありませんが、現在の固定資産税のようなものとして高付けされ、石盛は畑地と同様であったようです)。そのため、
例外として石高を持たない宿場町・港町・門前町などを付け加える
とは言えないわけです。

次に城下町ですが、城下町の特性をきわめて簡単に整理すると次のようになるかと思います。
1.近世初期、兵農分離を徹底するため、従来農村に居住し農民を直接支配していた武士を、藩主直轄地である城下に集住させた
2.集住した武士に消費物資を供給するため、商工業者も城下に呼び寄せた
こういう形で計画的に建設された都市が城下町である。
城下町は武士の居住地域と商工業者(町人)の居住地域に分けられますが、領主直轄地として一体的な都市と考えることができ、その内部は複数の町に区分されています。
また、商工業者を集めるため、先の宅地に関わる年貢を免除されることが普通です(これを地子免除といいます)。武士の宅地に年貢が課されることはありませんから、城下町には石高がないわけです(あくまで原則で、例外は多数あります)。
もっとも、城下町といってもピンからキリまであるわけで、数百の町から構成される大都市から、数町の小城下町まで多様です。さらには、藩主の半数程度は城を持たない陣屋大名ですが、これらについては、厳密には「城下」町が存在し得ない、ということにもなります。

[58044] 犬山と西尾の差異
で展開された各城下町に関する考察は、おそらく考えすぎで、実態はもっと単純なものだと思います。
まず、彦根と西尾ですが、どちらも城下町としては比較的大きいものです。特に彦根は、井伊家35万石、譜代最大の大藩で、嘉永3年(1850)に町方だけで50ヵ町,3099戸を数え、藩士数は元禄8年(1695)に彦根在城だけでは1万9000人に達したとのことです(いずれも平凡社百科事典による)。明治5年頃の数値を反映する「共武政表」では、人口は24368人となっています(共武政表は国会図書館のデジタルライブラリーにあります)。
西尾は幕末期の石高が6万石とさほどでは大きくはありませんが、「江戸時代は西尾藩の城下として栄え,岡崎,吉田(豊橋)とともに三河三都と称された(平凡社)」とのことで、かなり繁華な都市だったことがうかがえます。共武政表による人口は7095人です。
この2つについては、幕末期に城下を構成した町々が明治維新後もそのまま維持された上で(多少の異動はあったでしょうが)、最終的に明治合併期に彦根町、西尾町が形成され、その内部に、旧城下内の町々が大字の形で残されたのだと思います。
この過程で、彦根町→彦根村→彦根村から96町の分立→明治大合併期に彦根町誕生などというプロセスを仮定する必要は特にないでしょう。(そもそも、天保国絵図に彦根村はありますが彦根町はありません。彦根村というのは彦根城下町を建設した際に城下から外れた部分が村方として残ったものだと思われます。また西尾町はありますが、これは西尾城下町の町方の総称と考えるべきでしょう)。
一方、仁正寺(西大路)と大溝ですが、前者は幕末に1.8万石、後者も2万石の極小藩で、いずれも陣屋大名です。つまり城を持っていないわけで、先のように、厳密には「城下」町を持ち得ない藩です。実際のところは、大溝は町だったようですから、武士の居住地のほか若干の町場が形成されていたのかもしれません。西大路は陣屋所在地が村なわけですから、傍目から見ても町と言えるほどの人口集積がなかったのでしょう。(共武政表によれば、西大路村の人口は1646人、大溝が周辺の2村と合併した勝野村が1917人です)。
どちらにせよ、これらは彦根などの城下と違ってその内部構成体である町々を持たず、明治以降は陣屋や武士居住地を含めて村になってしまったものと思われます(現在の地図を見ても、1藩の中枢が所在した片鱗すらうかがえません。)

次に犬山ですが、国宝犬山城はあまりにも有名ですし、その城下町も形成されていたようです。しかし実際のところ、犬山の城主成瀬氏は石高こそ3.5万石ですが、身分は尾張名古屋藩の付家老であり、独立の藩として認められたのは明治になってからです。おそらく、犬山城下町がさほど大きいものではなかったため、明治維新後に犬山村に編入され、犬山村が稲置村に改名された上で明治合併期に犬山町になったものだと思います(共武政表による稲置村の人口は6159人で、西尾と大差ありませんから、犬山城下町の村への編入には何らかの事情が作用したかもしれません。藩政期に存在した犬山村は、犬山城下町になり損なった村方でしょう)。
明治合併前に合併していた町村は、たとえ藩政期に独立村であったものでも大字として扱われず、それが現在まで引き継がれているのが一般的ですから、犬山城下町に関してもその一例と見なして差し支えないと思います。

膳所に関してはよく分からないのですが、
江戸時代には膳所城城下町のうち、町人町は農村たる藩政村からは独立した村とされていてました。
膳所の場合は町人町・侍屋敷町は共に農村たる藩政村の一部であるとの説も有力なので
という記述から推測すると、膳所村などのうちの一部が膳所の城下町になっており、残りは高のついた村方だったのだと思います。膳所藩の石高は6万石ですが、大津という大商業都市が近接していたため、商工業は不振で、つまり町人はあまり居らず、城下町の住民は武士が主体だったのではないかと思います。共武政表による膳所村の人口はわずか1840人ですから、版籍奉還や廃藩置県によって士族が四散した後は独立した町を形成するに至らず、旧城下町が元々の村に編入されたのではないでしょうか。

大津は、都市としては膳所よりよほど大規模です。信長時代の城郭は明智光秀の居城であった坂本ですが、秀吉の時代には大津に移されました。大津が城下町であったのは関ヶ原合戦時までで、このとき、東軍についた大津城主京極高次は籠城戦で西軍の進撃を阻止しましたが、この籠城戦によって大津は焦土と化し、その結果として城が膳所に移っています。しかし、大津自体は家康から地子免許の特典をうけて復興し、東海道の宿場町、琵琶湖水運の要的な港町として幕府の直轄都市となり、元禄期には2万人近い人口を記録しています(共武政表では15932人)。最盛時で100ヵ町を数えたそうですが、天保国絵図の大津町というのはこれら町々の総称でしょう。関寺町に高が付いているのは、地子免許を受けた時点では大津に含まれいなかったためだと思われますが、国絵図、旧領旧高いずれでもわずか9石ですから、すべて地子(宅地年貢)であり、実質的には大津の町と一体化していたと考えていいのではないかと思います。

長くなったので、とりあえず切ります。
[58096] 2007年 4月 21日(土)10:40:03【3】むっくん さん
藩政村の具体的分析
[57608]88 さん
「藩政村の定義」なるものを確立しないと、同列には議論できないのでしょうか。

これについて私見を述べたいと思います。
「藩政村の定義」については[57885]oki さんにあるように
江戸時代の村が「独立した村(=藩政村)」であるか否かは、「原則として」、村高(石高)が付されているかどうかによって決定される
との定義づけで基本的にはいいと思います。が、私はこれだけでは藩政村の範囲を特定するにあたり少し足りないかもしれないと思っているので、この点について一言補足させていただきます。
新修大津市史第3巻(出版:大津市役所,1980)のp.401を引用しますと、
江戸時代の農村では、中世以来の郷を一村落単位に分轄し、一村落ごとに庄屋をおき、年貢の徴収を請け負わすという、いわゆる「村切り」の制度が実施されていた。それは、領主が農民の支配を簡便にするための、一つの政策であった
とのことで、藩政村は中世以来の郷(庄)の存在をなしには語ることが出来ません。
[57885]oki さんの言葉「ムラ」(自然的に形成された集落)を借りて包含関係であらわしますと、

郷⊇藩政村⊇ムラ

と言う風になります。この包含関係は「藩政村」を位置づけるにあたっての前提条件として念頭に置いておいたほうがよいと私は考えています。


さてこれから本論に入ります。「藩政村」をいくら厳密に定義しても、具体的にどのような種類の藩政村があったかを知らないことには話は前に進まないと私は考えます。そこで私の知る藩政村の代表的な例を滋賀県からあげてみます。

◎多数派の事例

(1)滋賀郡(伊香立)生津村(現:大津市)
中世以来の伊香立庄5村の内の1村から成っています。枝村(新田)は村内にはありませんでした。

(2)滋賀郡寺邊村(現:大津市)
中世以来の石山庄5村の内の1村から成っています。枝村として北田新田がありました。
#天保国絵図には親村の寺邊村のみが書かれていて北田新田の記載はありません。

(2-2)高島郡天増川村(現:高島市)
この村には、梨子木村,六ツ谷村,轆轤(ろくろ)村,水谷村という枝村4村がありました。
天保国絵図にはこの内、梨子木村,轆轤(ろくろ)村が記載されていますが共に天増川村の枝村であるとの記載はありません。

(2-3)高島郡鴨村(現:高島市)
この村には、北鴨村,南鴨村,出鴨村という枝村3村がありました。
天保国絵図には枝村は北鴨村など2村のみが記載されています。

滋賀県においては(1)の独立村のみ、(2)の枝村1村とその親村1村、そして(2)の派生系の枝村数村とその親村1村からなるという藩政村(2-2)(2-3)のみで、80%以上の事例を数えます。次に少数派の事例を示します。


◎少数派の事例

(3)蒲生郡小脇郷(現:東近江市)
江戸時代には小脇郷は広義には中世以来の8村、狭義には広義の8村のうちの5村(辻村,今里村,宿村,脇村,成願寺村)とされていました。
さて本題ですが、狭義の村の名は

・小脇村
・辻村,今里村,宿村,脇村,成願寺村(,成願寺村枝郷鳥居前村)

の2通りで呼ばれていました。
天保国絵図には後者の辻村,今里村,宿村,脇村,成願寺村が記載されています。
#明治7年5月2日に辻村,今里村,宿村,脇村,成願寺村の5村及び成願寺村枝郷鳥居前村と野口村(広義の小脇郷8村のうちの1村)が合併して小脇村となり、さらに同日に小脇村から野口村が分立しました。

(4)愛知郡百済寺村(現:東近江市)
この村は江戸時代になる前は5村(大萩村,下山本村,北小屋村,上山本村,北坂本村)の総称として百済寺村となっていました。江戸時代には、大萩村,下山本村,北小屋村,上山本村,北坂本村と分かれ、明治12年3月14日に再び百済寺村となるまでは5村のままでした。
天保国絵図には百済寺村,百済寺村ノ内大萩村と記載されています。

(5)高島郡濱分村(現:高島市)
この村は、5村(領家村,地頭村,川尻村,辻村,石田村)の総称でした。ところが、天保国絵図には濱分村の他に濱分村ノ内領家村という記載が見られます。(他にも濱分村ノ内濱分新田という記載があります。)
#郡区町村一覧(編:羽山庸納,内務省地理局,明治14年)では濱分村の他に濱分村支郷川尻という記載があります。

(6)坂田郡長久寺村,坂田郡岩ヶ谷村(2村とも現在は米原市)
この2村は親郷である坂田郡柏原村から村高割渡しが行われ、諸役なども独自に負担しました。ところが、完全独立したものと扱われなかったため依然として柏原村の枝村とされていました。
天保国絵図には長久寺村,岩ヶ谷村には柏原村枝郷や柏原村ノ内といった記載はなく、独立村のように書かれています。これは柏原村の横にあった柏原村ノ内長澤村とはかなり違います。実質的には独立していたのだから書かなかったのだろう、という考えもありそうですが。。。

(7)犬上郡出町村(現:彦根市)(天保国絵図に未記載)
この村はある村の枝村です。ただし出町村の周囲の村々が出町村を枝村になるかの争いがあった後の結末としての決定されたはずの出町村の親村が判明していません。
親村が犬上郡尼子村(現:彦根市)になったと記す資料と、親村は尼子村,犬上郡松寺村(現:彦根市),犬上郡四十九院村(現:犬上郡豊郷町)の3説があると記す資料があります。
#これでは、枝村である旨を記すにあたりどこの村の枝村であるのかを記すのが難しくなります。
参考:現在の出町村付近

(8)愛知郡梅林村(現:東近江市)
この村は、愛知郡上岸本村・中岸本村・下岸本村3ヶ村の枝村でした。明治12年3月14日に独立村になります。

明治12年以降の上岸本村・中岸本村・下岸本村・梅林村の変遷は

上岸本村&梅林村→西小椋村→愛東町→東近江市
中岸本村&下岸本村→豊椋村→湖東町→東近江市

となります。

このように明治になってから独立村となる村がありますので枝郷を無視して記さないわけにはいきません。また、その後の変遷を見ると梅林村を記すにあたり、数村の枝村であることも注釈として書かざるを得ないものと思われます。

(9)坂田郡小一条村(現:長浜市)
この村は、そもそも坂田郡布施村(現:長浜市)の枝村として成立します。江戸時代には布施村から分離して独立村になることと布施村の枝村となることが繰り返されます。
果たして小一条村に枝村か否かの注釈をつけるとするとすればいかなる記載をすればよいのでしょうか。
一度独立村となれば独立村のままであり続けるのがほとんどの場合でしょうし、再び枝村となったり、ましてや独立村になることと枝村となることが繰り返されることはまれであると思われます。
#ちなみに江戸時代最後の郷帳である天保郷帳には布施村ノ内小一条村として記載されています。


<国絵図の記載基準について>

(2-2)(2-3)(6)を比較してみて私には国絵図に、枝村の記載をするのかしないのか、そして記載した村が枝村である旨の記載をするのかあたかも独立村かのような記載のようにしておくのか、ということに対しての明確な基準が見えてきません。
また、(4)の百済寺村ノ内大萩村のように、枝村と記載しまっていいのか迷う場合もあります。(2)の場合のように親村と枝村の関係ではなく集合体の村を構成する5村の内の1村ですから。


以上の各村の説明は以下の文献の記述に従っています。
参考文献:滋賀県市町村沿革史第2巻(編・出版:滋賀県市町村沿革史編さん委員会,1967)
滋賀県市町村沿革史第3巻(編・出版:滋賀県市町村沿革史編さん委員会,1964)
滋賀県市町村沿革史第4巻(編・出版:滋賀県市町村沿革史編さん委員会,1960)
角川日本地名大辞典滋賀県(編:「角川日本地名大辞典」編纂委員会,出版:角川書店,1979)
日本歴史地名大系滋賀県の地名(出版:平凡社,1991)

藩政村を具体的にどのように市区町村変遷情報で取り扱うのかに当たって、(1)~(9)の事例を挙げてみました。この分類が藩政村を市区町村変遷情報に記すにあったっての一助となれば幸いです。


訂正
【2】各村の位置情報を追加。
[58109] 2007年 4月 22日(日)01:51:29oki さん
藩政村について~その5
[57608]88さん
「藩政村の定義」なるものを確立しないと、同列には議論できないのでしょうか。

[58043]むっくんさん
ながながと書いてきて傍と気づきました。もしかして、[57481]88さんの
「『幕末以降・・・』のまま何も考えずに掲載する」という方針
と大して差がないのではないかと。

[58096]むっくんさん藩政村の具体的分析
(2-2)(2-3)(6)を比較してみて私には国絵図に、枝村の記載をするのかしないのか、そして記載した村が枝村である旨の記載をするのかあたかも独立村かのような記載のようにしておくのか、ということに対しての明確な基準が見えてきません。

考える必要があるのは、市区町村変遷情報で取扱う「藩政村」の時点をどこに置くか、依拠すべき基礎資料は何か、ということだと思います。
具体的な計数値を示しておきます。

年号  西暦  町数  村数  計  石高 基礎資料
正保2  1645554595545923292668正保国絵図
元禄10  1695627916279127095466元禄郷帳
天保1  1829634726347230553440天保郷帳
明治6  1873697366973632555897郡村石高帳(宮内省租税寮)
明治6  187311942688208076231017135府県概表(東京・有隣堂)
明治8  1975125936825980852日本全国戸籍表(内務省)
明治19  1986125375871971256地方行政区画総覧(内務省地理局)
(※この数値は、年次も含めて必ずしも正しいとは限りません。私が現時点で把握している数値というにすぎません。また明治になって町が出現するのは、村高がないため幕府の郷帳に記載されていなかった、城下町等を構成する町々が統計に表われてくるからです。江戸期の郷帳では城下町以外の町(新田、宿、浦など含め)も村の中に入っていますが、明治以降の町(これは町だけ)は、新田等を含む村と別扱いです。)

以上から分かるように、村の数は江戸期を通じて増加を続けています。新田開発による新村の出現、枝村の独立村化などによるものです。しかし、単純に増加だけがあったわけではなく、減少もあったようです。
「新田開発(菊地利夫 古今書院 1958)」によると、元禄~天保間の増加村数が1978、減少が1632で差し引き346村の増加(上の表とは合いませんね)、天保~明治間で増加7550、減少1286で純増が6264(これは上表と一致)とのことです。現在でもそうであるように、江戸時代にも村の数は常に変動しており、ある地域が独立村であるかどうかは、時期によって異なってくる可能性があります。そして、独立村であるかどうかは、領主が決めることです。より正確に言うと、領主が決めた村以外に、我々としては判断のしようがない、ということです。
江戸時代に幕府が行なった全国的な村名、村高の総覧としては、慶長、正保、元禄、天保の国絵図、郷帳しかありません。そのうち、国絵図、郷帳が完全な形で残っているのは天保だけです。これ以外に、「将軍の代替りごとの朱印改めに際し、諸大名らより提出された帳簿で,その領知している所領の村名と村高が国郡別に記載されている『郷村高帳』(平凡社百科事典)」があるようですが、全国一律の時点、基準で相互比較を行なうのは無理でしょう。また、「○○村明細帳」などの村方文書(村側で作成した文書)はそれこそ無数に残っていますが、これらをすべて読むのはとても不可能なことです。

[58096] むっくんさん
(2-2)高島郡天増川村(現:高島市)
この村には、梨子木村,六ツ谷村,轆轤(ろくろ)村,水谷村という枝村4村がありました。
天保国絵図にはこの内、梨子木村,轆轤(ろくろ)村が記載されていますが共に天増川村の枝村であるとの記載はありません。
元禄国絵図で見ると、天増川村(30石)と梨子木/轆轤村(18石~併記です)の記載があります。旧高旧領では、天増川村(48石)、梨木村(13石)、轆轤村/六ツ石村/水谷村(6石~これも併記です)が掲載されています。
現在の状況を見ると、すべてが高島市今津町天増川に含まれていると思われます。若狭国境に近い近江の山村であり、現在では天増川の集落以外ほとんど家もないようです。石高から見ても、独立村はおろか、枝村としても成り立つかどうか怪しい程度のものです。
そして、これらが村であるか否かといえば、その時点時点で、国絵図や郷帳に書いてあるように、領主が把握していたのだろう、としかいいようがありません。
村方文書を博捜すれば、梨子木村,六ツ谷村,轆轤村,水谷村という枝村があった、ということになるのでしょうし、村民の側ではムラとして意識していたのかもしれません。しかし、領主としては国絵図に記載されているように把握しているわけです。
このような、領主側と村民側との意識の相違は、おそらく全国の村であったはずで、それらをすべて確認するのは不可能です。

以上のような状況を考えると、とりあえずは、市区町村変遷情報における「藩政村」は「天保郷帳」記載の村とする、というのが妥当な線だと思います。「地名研究必携」の基礎資料が天保郷帳であるのも、このような考えに基づいているのではないかと思われます。
ただ問題は、天保~明治間で増加村数が7550にものぼるということで、この中には江戸期中に独立村になったものもあれば、明治初期に独立村として認められたものもあると思いますが、その区分が私にはよく分かりません。
天保郷帳以降の全国的な村名資料は旧高旧領ですが、これには以下で示すような欠点があります。その後は「郡区町村一覧」で、これは1979年(明治12)12月時点となっていて、「幕末」の資料というのは無理があります。
「幕末以降・・・」の依拠資料を知らないので何とも言いようがないのですが、以上を前提とした上で、幕末期と明治期を区分けしているのであれば、基礎資料として天保郷帳より相応しいでしょう。

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なお、天保郷帳には枝村は記載されていません。郷帳に記載されているのは村高のある村だけで、枝村を記載しているのは国絵図の方です(あくまで原則ですが)。したがって、この時点の枝村を把握するには国絵図を舐めるように見ていくしかなく、全国でこれを行なうのはかなりシンドイことだと思います。
また、「旧高旧領」は、元々明治新政府が維新直後の状況を把握するために編纂した資料だと思いますが、原本は存在しません。写本を木村礎氏が校訂したのが近藤出版社の刊本で、歴博のデータベースはそれに基づいています。しかし、写本は全国分が揃っているわけではなく、存在しない国の分は天保郷帳を流用しています(どの国が郷帳の流用分かは刊本に当たらないと分かりません)。歴博では「誤記や表記の統一性に欠けることが少なくありません」と記載していますが、私が検証した限りでも、明かな脱落がありました。そのため、「旧高旧領」をそのまま基礎資料にはできませんが、デジタルデータが得られるので、PCで扱うにはとても重宝します(私が整理した限りでは、「旧高旧領」記載の村数は64000村くらいです。)

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本当は城下町の扱いについて書こうと思っていたのですが、後にします。
先の表で、明治になって急に町が表われたことからも分かるように、城下町を構成する町々は、藩政「村」とは別に扱うことが必要だろうと考えています。


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