[57608]88 さん
「藩政村の定義」なるものを確立しないと、同列には議論できないのでしょうか。
これについて私見を述べたいと思います。
「藩政村の定義」については
[57885]oki さんにあるように
江戸時代の村が「独立した村(=藩政村)」であるか否かは、「原則として」、村高(石高)が付されているかどうかによって決定される
との定義づけで基本的にはいいと思います。が、私はこれだけでは藩政村の範囲を特定するにあたり少し足りないかもしれないと思っているので、この点について一言補足させていただきます。
新修大津市史第3巻(出版:大津市役所,1980)のp.401を引用しますと、
江戸時代の農村では、中世以来の郷を一村落単位に分轄し、一村落ごとに庄屋をおき、年貢の徴収を請け負わすという、いわゆる「村切り」の制度が実施されていた。それは、領主が農民の支配を簡便にするための、一つの政策であった
とのことで、藩政村は中世以来の郷(庄)の存在をなしには語ることが出来ません。
[57885]oki さんの言葉「ムラ」(自然的に形成された集落)を借りて包含関係であらわしますと、
郷⊇藩政村⊇ムラ
と言う風になります。この包含関係は「藩政村」を位置づけるにあたっての前提条件として念頭に置いておいたほうがよいと私は考えています。
さてこれから本論に入ります。「藩政村」をいくら厳密に定義しても、具体的にどのような種類の藩政村があったかを知らないことには話は前に進まないと私は考えます。そこで私の知る藩政村の代表的な例を滋賀県からあげてみます。
◎多数派の事例
(1)
滋賀郡(伊香立)生津村(現:大津市)
中世以来の伊香立庄5村の内の1村から成っています。枝村(新田)は村内にはありませんでした。
(2)
滋賀郡寺邊村(現:大津市)
中世以来の石山庄5村の内の1村から成っています。枝村として北田新田がありました。
#天保国絵図には親村の寺邊村のみが書かれていて北田新田の記載はありません。
(2-2)
高島郡天増川村(現:高島市)
この村には、梨子木村,六ツ谷村,轆轤(ろくろ)村,水谷村という枝村4村がありました。
天保国絵図にはこの内、梨子木村,轆轤(ろくろ)村が記載されていますが共に天増川村の枝村であるとの記載はありません。
(2-3)
高島郡鴨村(現:高島市)
この村には、北鴨村,南鴨村,出鴨村という枝村3村がありました。
天保国絵図には枝村は北鴨村など2村のみが記載されています。
滋賀県においては(1)の独立村のみ、(2)の枝村1村とその親村1村、そして(2)の派生系の枝村数村とその親村1村からなるという藩政村(2-2)(2-3)のみで、80%以上の事例を数えます。次に少数派の事例を示します。
◎少数派の事例
(3)
蒲生郡小脇郷(現:東近江市)
江戸時代には小脇郷は広義には中世以来の8村、狭義には広義の8村のうちの5村(辻村,今里村,宿村,脇村,成願寺村)とされていました。
さて本題ですが、狭義の村の名は
・小脇村
・辻村,今里村,宿村,脇村,成願寺村(,成願寺村枝郷鳥居前村)
の2通りで呼ばれていました。
天保国絵図には後者の辻村,今里村,宿村,脇村,成願寺村が記載されています。
#明治7年5月2日に辻村,今里村,宿村,脇村,成願寺村の5村及び成願寺村枝郷鳥居前村と野口村(広義の小脇郷8村のうちの1村)が合併して小脇村となり、さらに同日に小脇村から野口村が分立しました。
(4)
愛知郡百済寺村(現:東近江市)
この村は江戸時代になる前は5村(大萩村,下山本村,北小屋村,上山本村,北坂本村)の総称として百済寺村となっていました。江戸時代には、大萩村,下山本村,北小屋村,上山本村,北坂本村と分かれ、明治12年3月14日に再び百済寺村となるまでは5村のままでした。
天保国絵図には百済寺村,百済寺村ノ内大萩村と記載されています。
(5)
高島郡濱分村(現:高島市)
この村は、5村(領家村,地頭村,川尻村,辻村,石田村)の総称でした。ところが、天保国絵図には濱分村の他に濱分村ノ内領家村という記載が見られます。(他にも濱分村ノ内濱分新田という記載があります。)
#郡区町村一覧(編:羽山庸納,内務省地理局,明治14年)では濱分村の他に濱分村支郷川尻という記載があります。
(6)
坂田郡長久寺村,坂田郡岩ヶ谷村(2村とも現在は米原市)
この2村は親郷である坂田郡柏原村から村高割渡しが行われ、諸役なども独自に負担しました。ところが、完全独立したものと扱われなかったため依然として柏原村の枝村とされていました。
天保国絵図には長久寺村,岩ヶ谷村には柏原村枝郷や柏原村ノ内といった記載はなく、独立村のように書かれています。これは柏原村の横にあった柏原村ノ内長澤村とはかなり違います。実質的には独立していたのだから書かなかったのだろう、という考えもありそうですが。。。
(7)犬上郡出町村(現:彦根市)(天保国絵図に未記載)
この村はある村の枝村です。ただし出町村の周囲の村々が出町村を枝村になるかの争いがあった後の結末としての決定されたはずの出町村の親村が判明していません。
親村が犬上郡尼子村(現:彦根市)になったと記す資料と、親村は尼子村,犬上郡松寺村(現:彦根市),犬上郡四十九院村(現:犬上郡豊郷町)の3説があると記す資料があります。
#これでは、枝村である旨を記すにあたりどこの村の枝村であるのかを記すのが難しくなります。
参考:現在の
出町村付近
(8)
愛知郡梅林村(現:東近江市)
この村は、愛知郡上岸本村・中岸本村・下岸本村3ヶ村の枝村でした。明治12年3月14日に独立村になります。
明治12年以降の上岸本村・中岸本村・下岸本村・梅林村の変遷は
上岸本村&梅林村→西小椋村→愛東町→東近江市
中岸本村&下岸本村→豊椋村→湖東町→東近江市
となります。
このように明治になってから独立村となる村がありますので枝郷を無視して記さないわけにはいきません。また、その後の変遷を見ると梅林村を記すにあたり、数村の枝村であることも注釈として書かざるを得ないものと思われます。
(9)
坂田郡小一条村(現:長浜市)
この村は、そもそも坂田郡布施村(現:長浜市)の枝村として成立します。江戸時代には布施村から分離して独立村になることと布施村の枝村となることが繰り返されます。
果たして小一条村に枝村か否かの注釈をつけるとするとすればいかなる記載をすればよいのでしょうか。
一度独立村となれば独立村のままであり続けるのがほとんどの場合でしょうし、再び枝村となったり、ましてや独立村になることと枝村となることが繰り返されることはまれであると思われます。
#ちなみに江戸時代最後の郷帳である天保郷帳には布施村ノ内小一条村として記載されています。
<国絵図の記載基準について>
(2-2)(2-3)(6)を比較してみて私には国絵図に、枝村の記載をするのかしないのか、そして記載した村が枝村である旨の記載をするのかあたかも独立村かのような記載のようにしておくのか、ということに対しての明確な基準が見えてきません。
また、(4)の百済寺村ノ内大萩村のように、枝村と記載しまっていいのか迷う場合もあります。(2)の場合のように親村と枝村の関係ではなく集合体の村を構成する5村の内の1村ですから。
以上の各村の説明は以下の文献の記述に従っています。
参考文献: | 滋賀県市町村沿革史第2巻(編・出版:滋賀県市町村沿革史編さん委員会,1967) |
| 滋賀県市町村沿革史第3巻(編・出版:滋賀県市町村沿革史編さん委員会,1964) |
| 滋賀県市町村沿革史第4巻(編・出版:滋賀県市町村沿革史編さん委員会,1960) |
| 角川日本地名大辞典滋賀県(編:「角川日本地名大辞典」編纂委員会,出版:角川書店,1979) |
| 日本歴史地名大系滋賀県の地名(出版:平凡社,1991) |
藩政村を具体的にどのように
市区町村変遷情報で取り扱うのかに当たって、(1)~(9)の事例を挙げてみました。この分類が藩政村を
市区町村変遷情報に記すにあったっての一助となれば幸いです。
訂正
【2】各村の位置情報を追加。