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落書き帳

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[58575] 2007年 5月 19日(土)23:30:10hmt さん
神田川あれこれ(1)聖橋付近の風景
相模川の小倉橋(おぐらばし)の記事[58485]で言及した聖橋(ひじりばし)の架かる神田川の風景。
この落書き帳の中でどんな具合に取り上げられていたかを検索してみました。

[49282] まかいの さん メトロで街巡り
私の一番のお気に入りは、聖橋と神田川(御茶ノ水駅)です。
[31464][47265] N-H さん 「川は流れる」、高架の上を高架が越える
東京の川の中で「谷」のイメージがよく合うのは同じ神田川でも御茶ノ水付近だなあ。
谷の中腹にはりつくように走る中央線。川も線路もいっしょくたにまたぐお茶の水橋と聖橋。
まさに都心なのですが、文京区側の岸から川面まではかなりの比高がありますよね。

たしかに、かなり深い谷になっており、聖橋の下手では、両岸の崖から顔を出した地下鉄(丸ノ内線)よりも低い水面がよくわかります。
見上げれば大きく股を開いた橋脚で中央線と神田川を乗り越す総武線の高高架橋。見えないけれど聖橋の地下深くには千代田線と、4本の鉄道、2本の道路、それに水路が立体的に絡み合い、交通絵本などにも使われる格好の風景になっています。

かつては、聖橋の下で立体交差する外堀通りには都電も走っていました。もっとも、千代田線がなかった頃だから、電車はやはり4本か。
1950年代中頃に丸ノ内線の鉄橋工事を眺めていましたが、この低い橋の架設が神田川の舟運廃止に結びついたものと思われます。
江戸時代から続いた舟運の最後の積荷は都市が出す廃棄物だったのでしょう。御茶ノ水の濠では汚穢舟が働いていました。

南向きの土手には「自由学校」(ご存知の方は少ないでしょうね)のモデルとなったバラックが立ち並び、ひどく汚れた都市河川になっていた時代を経て、下水道普及のおかげでやっと水質が改善された御茶ノ水渓谷。

「小赤壁」というと 姫路付近にある海食崖 が有名ですが、かつては、お茶の水渓谷も「小赤壁」でした。
「茗渓」という呼び名もあり、かつてこの地にあった学校の 同窓会 の名に使われています。
東都名所 御茶之水之図 を見ると、断崖の先に「水道橋」という地名の由来になった神田上水の「掛樋」が描かれています。

神田上水取水用ダム(大洗堰)があったのは、現在の江戸川橋より少し上流の関口村。もちろん「堰」に由来します。
「関口芭蕉庵」の存在が示すように、松尾芭蕉は水道局勤務だったようです。

江戸川橋といえば、上水を取水した余水が流れる大洗堰から飯田橋付近の船河原橋までの間は「江戸川」と呼ばれていました。大洗堰から上流は「神田上水」です。そして、船河原橋から下流の運河化されていた部分だけが「神田川」。
1964年の河川法改正によって、3つの名前が「神田川」に統一されたとのこと。[20103] ありがたき さん。
戦前に見た「江戸川」は、既に汚れた都市河川でしたが、江戸時代には、市民の水道水を取水していた川ですから、当然きれいに管理されていた筈です。

水道水だけでなく、極上の水もありました。
[18611] kentan さん
御茶ノ水の地名由来は、江戸時代にお偉いさんが休憩して、この地に湧き水を使ってお茶を飲んだ事で絶賛した程だったとか?

徳川2代将軍秀忠に献上された高林寺の「御茶の水」は、順天堂付近に湧き出ていた名水と伝えられます。
元和年間(1620年頃)に伊達政宗によって工事が行なわれた神田山切り通し工事後も、この湧き水は残っていたようですが、万治年間(1660年頃)にこの濠を拡張して運河とした際に水没したとされます。
[58603] 2007年 5月 21日(月)23:18:40hmt さん
神田川あれこれ(2)神田山切り通しとその運河化
[58575]hmt
元和年間(1620年頃)に伊達政宗によって工事が行なわれた神田山切り通し工事後も、この湧き水(御茶の水)は残っていたようですが、万治年間(1660年頃)にこの濠を拡張して運河とした際に水没したとされます。

東京都心にある7ヶ所の風致地区(明治神宮、芝、弁慶橋、市ヶ谷、御茶ノ水、上野、関口台)のうち、3ヶ所が神田川沿いですが、その中でも御茶ノ水渓谷は、純然たる人工河川に由来します。

仙台伊達家は、元和年間に政宗が切り通し工事を命じられただけでなく、40年後の万治年間(輝宗の代)には、この切り通しを拡張して隅田川から市ヶ谷に達する大運河に変える工事も命じられました。

将軍家光と碁を囲んでいた伊達政宗の発言“城のうしろから入るぞ”がきっかけになったという話(甲子夜話)の真否はともかくとして、元和年間の工事は、本郷・湯島から続く台地(神田山)に大砲を引き入れて、江戸城を攻撃する拠点になることを防止するという軍事的な意義が第一だったのでしょう。

本郷台地の先端の神田山は、家康江戸入り当時の海から半里ほどの近距離にあり、埋立による下町市街地造成工事の土取り場として慶長年間から切り崩されてきましたが、更に根元にも鍬が入れられ、駿河台として本郷台から分離することになりました。

切り通しは最初は空壕だったようですが、平川の水を東に流して江戸を水害から守る放水路の機能も持ち、防衛・採土・防災と一石三鳥の工事だったと思われます。
そして、万治年間の運河化工事により、隅田川からの水運が通じて内陸部に物資の流通拠点が実現しました。現在でも、JR貨物の本社が飯田橋にあり、汐留に移る前の日本通運本社も秋葉原と、神田川の近くが流通拠点だった姿を伝えています。
伊達家の財政負担による幕府への叛乱防止効果も含めれば一石五鳥。

更に神田山切り通しの効果を付け加えると、[31474] Issie さんは、近代になってからの甲武鉄道(現・中央線)市街線工事を挙げています。
御所トンネルを抜けた四ッ谷駅から先は、自然河川を利用して造られた市ヶ谷濠と、この運河のルートにより、高架線や地下鉄を作らないで容易に万世橋に達することができたのでした。

仙台伊達家の工事による人工の神田川は、伊達堀とか仙台堀とか呼ばれました。
「伊達堀」といえば、大阪の「立売堀(いたちぼり)」は、「伊達堀」の誤読?に由来するそうですね。[29895] 今川焼 さん

1660年に開通した運河は、神田を東西に貫くことから、自然に「神田川」と呼ばれるようになったと思われます。
神田川だけは名付け親がわかります。喜多条忠です
[31454] 白桃 さん ♪誰が名づけた川なのか)という意見もありますが…

外濠の中でも江戸城の防衛にとり特に重要な地点であると認識された神田川の切り通し部分(水道橋・昌平橋間)は、江戸時代を通じて橋を架けることが許されませんでした。
というわけで…
[18611] kentan さん
万世橋から水道橋・飯田橋と経ますが、なぜ御茶ノ水だけ「橋」が付かないだろうか?
に対する[18619] Issie さん の下記回答には、「江戸城の防衛線だから」という意味があったのです。
御茶ノ水に「橋」がつかないのは,もともとここには橋が架かっていなかったからです。
御茶の水橋が架かったのは明治になってから。さらに新しい聖橋は,北側の湯島聖堂と南側のニコライ堂とにちなんで命名された,というのはわりと有名な話です。

聖橋北詰の石碑にもこの由来が記されていますね。湯島聖堂の更に北は神田明神ですから、江戸っ子の「産土神」(うぶすながみ)[58593] 、中国伝来の儒教、西洋からのキリスト教(と言っても東方正教会)の三者が揃い踏みです。

最後は、また聖橋付近の風景[58575]に戻ってきました。
[58635] 2007年 5月 23日(水)22:37:35【2】hmt さん
神田川あれこれ(1.1)まだ生きていた神田川舟運
[58629] k-ace さん
今、神田川で見かける船といえば、神田川の中継所から家庭の不燃ごみを載せて中央防波堤を往復する船だけだそうですね。

[58575]では、“(丸ノ内線の)低い橋の架設が神田川の舟運廃止に結びついたものと思われます。”と、50年前に水上輸送路の地位を失ったような書き方をしていましたが、千代田区の不燃ごみは、今でも神田川を運ばれていたのですね。知りませんでした。

更に調べてみたら、毎年5月と10月に「神田川船の会」という催しが募集されており、客船も通ることもわかりました。
丸ノ内線の橋は低いように見えますが、写真 のように、高さの低い船ならばその下を通行できるのでした。

この催しの参加者による 川面からの風景 には、緑いっぱいの御茶ノ水渓谷だけでなく、ごみ輸送の船も撮られていました(下から2枚目)。

積み出し基地(千代田清掃事務所三崎中継所)は、後楽園の対岸 です。秋葉原から先は動力船を変え、隅田川経由で 中央防波堤埋立地にある不燃ごみ処理センター へ運ばれます。
[58642] 2007年 5月 24日(木)19:32:08【1】hmt さん
神田川あれこれ(3)神田川東遷
聖橋付近の風景[58575]から出発し、御茶ノ水渓谷を造った切り通し工事[58603]と、局所的な話題を語ってきましたが、ここで視野を広げて、江戸の水系が変遷してきた全体像を見ておきます。

家康入城(1590)頃の江戸 (以下A図)を見ると、中央下部に、「日比谷湊」と「江戸湊」が記され、その間には「江戸前島」と書かれた半島が突き出しています。この江戸前島は、本郷・湯島の台地の続きで、その中心線は、およそ日本橋・京橋・銀座・新橋の中央通になっています。

水系を見ると、先ず東の隅田川ですが、当時は利根川の末流で、現在江東区になっている深川あたりは、沖積作用が進行中。海とも陸ともつかない状態です。
僅か60年前には、東京の近く でも、まだ同じような状態が撮影されています。右寄りの江戸川河口で形成されつつある中州(現・東京ディズニーランド)は、沖の百万坪[25826]と呼ばれていました。

西方の台地から流れてきて、白鳥池・小石川大沼から南へと向きを変えて日比谷湊に流入している川は「平川」。これが本題の神田川の原型ですね。
西の台地の南方には、溜池[33199]があり、ここから流出して日比谷入江の口で海に入る川は汐留川です。湾口の対岸は江戸前島の先端部で、現在の汐留地区。

[12741] KMKZ さんのリンク先(URL変更)神田川のページ(神田川下流の流路の変遷、以下B図)は、地名が入っていないので解かり難い点もありますが、その最初、「手付かずの江戸」 を見ると、やはり中央の北部に本郷の台地、その南に半島状の江戸前島があります。

B図の東側を流れる川は、 A図でははっきり描かれていなかったのですが、谷田川です。北の方にあるのが不忍池。その南に描かれているのは、神田のお玉が池でしょう。
# 神田お玉が池というと、幕末の千葉周作道場が有名ですが、その頃は池はなくなっており、地名のみ残っていました。

この谷田川(藍染川)は、古くは石神井川の下流だったのですが、この川の左岸の武蔵野台地東端は、飛鳥山の北側で幅僅か100m程度の“薄い壁”になっていました。そしてある時、自然の洪水によるものか人為的な開削かは両説があるようですが、石神井川の水は、この部分をショートカットして、北東の入間川(現・隅田川)低地に落ちるようになりました。侵食力を増した川は急流となり、滝野川(35区時代に「滝野川区」がありました)という地名を生むことになりました。
# 滝の音が轟く川なのに、なぜ 音無川 ? 音無鈴鹿さん、ご存知だったら教えてください(笑)。

残された旧河道は、本郷台地と上野台地の間の水を集めるだけの谷田川になりましたが、 B図に示されている旧石神井川河口は港湾として好適で、中世に「江戸湊」が形成されたものと思われます。現在の江戸橋付近。

日比谷入江(中心線は現在の日比谷通り)に西側から流れ込む川は、現在の桜田濠です。
日比谷入江から、平川を北へと遡ると小石川大沼。ここには谷端川が北から合流しています。

B図の2番目 太田道灌の江戸湊開発から家康入城まで では、この平川の流路が、半島の基部を横断する形で江戸前島東側の江戸湊に伸びています。現在の日本橋川のルートです。
この第1回目の“東遷”の時期は、太田道灌説を含めて諸説あります。A図は後の時代(江戸湊から江戸城への物資搬入ルートである「道三堀」が出現)なのに、まだ東遷していません。
平川にせよ道三堀にせよ、江戸開府と同じ慶長8年(1603)には「日本橋」が架けられました。

そして、元和年間に神田山の切り通し[58603]ができると、引き続き平川改修工事が行なわれることになりました(1620)。
三崎橋([58635]の中継所)から水路を開削し、神田山の切り通しとつなげることにより、平川と谷端川(やばたがわ)[41575]を共々に東に流して、両者の合流点付近の氾濫原(かつての小石川大沼)を宅地化するのです。これで現在の千代田区三崎町、神保町、一ツ橋などの土地が市街地になりました。

かくして、「平川」は更に“東遷”して隅田川に注ぐ「神田川」に生まれ変りました。
この時代の神田川は、まだ船の通行ができない放水路であったものの、平川下流部の洪水や江戸湊の埋没を防止し、江戸城北部の外郭線を形成するという意義を持ったものでした。

平川は、三崎橋と堀留橋 との間が埋め立てられ、頭を切られた下流の水路は、江戸城の濠として利用されました。
なお、「堀留」という名にもかかわらず、この区間には現在も首都高速道路下に水路がありますが、これは1903年(明治36年)に復活したものです。

このように、正確に言うと「神田川が東遷した」のではなく、平川が東遷した結果、神田川になったのですが、利根川東遷 をまねた副題を掲げておきました。


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