聖橋付近の風景
[58575]から出発し、御茶ノ水渓谷を造った切り通し工事
[58603]と、局所的な話題を語ってきましたが、ここで視野を広げて、江戸の水系が変遷してきた全体像を見ておきます。
家康入城(1590)頃の江戸 (以下A図)を見ると、中央下部に、「日比谷湊」と「江戸湊」が記され、その間には「江戸前島」と書かれた半島が突き出しています。この江戸前島は、本郷・湯島の台地の続きで、その中心線は、およそ日本橋・京橋・銀座・新橋の中央通になっています。
水系を見ると、先ず東の隅田川ですが、当時は利根川の末流で、現在江東区になっている深川あたりは、沖積作用が進行中。海とも陸ともつかない状態です。
僅か60年前には、
東京の近く でも、まだ同じような状態が撮影されています。右寄りの江戸川河口で形成されつつある中州(現・東京ディズニーランド)は、沖の百万坪
[25826]と呼ばれていました。
西方の台地から流れてきて、白鳥池・小石川大沼から南へと向きを変えて日比谷湊に流入している川は「平川」。これが本題の神田川の原型ですね。
西の台地の南方には、溜池
[33199]があり、ここから流出して日比谷入江の口で海に入る川は汐留川です。湾口の対岸は江戸前島の先端部で、現在の汐留地区。
[12741] KMKZ さんのリンク先(URL変更)神田川のページ(神田川下流の流路の変遷、以下B図)は、地名が入っていないので解かり難い点もありますが、その最初、
「手付かずの江戸」 を見ると、やはり中央の北部に本郷の台地、その南に半島状の江戸前島があります。
B図の東側を流れる川は、 A図でははっきり描かれていなかったのですが、谷田川です。北の方にあるのが不忍池。その南に描かれているのは、神田のお玉が池でしょう。
# 神田お玉が池というと、幕末の千葉周作道場が有名ですが、その頃は池はなくなっており、地名のみ残っていました。
この谷田川(藍染川)は、古くは石神井川の下流だったのですが、この川の左岸の武蔵野台地東端は、飛鳥山の北側で幅僅か100m程度の“薄い壁”になっていました。そしてある時、自然の洪水によるものか人為的な開削かは両説があるようですが、石神井川の水は、この部分をショートカットして、北東の入間川(現・隅田川)低地に落ちるようになりました。侵食力を増した川は急流となり、滝野川(35区時代に「滝野川区」がありました)という地名を生むことになりました。
# 滝の音が轟く川なのに、なぜ
音無川 ? 音無鈴鹿さん、ご存知だったら教えてください(笑)。
残された旧河道は、本郷台地と上野台地の間の水を集めるだけの谷田川になりましたが、 B図に示されている旧石神井川河口は港湾として好適で、中世に「江戸湊」が形成されたものと思われます。現在の江戸橋付近。
日比谷入江(中心線は現在の日比谷通り)に西側から流れ込む川は、現在の桜田濠です。
日比谷入江から、平川を北へと遡ると小石川大沼。ここには谷端川が北から合流しています。
B図の2番目
太田道灌の江戸湊開発から家康入城まで では、この平川の流路が、半島の基部を横断する形で江戸前島東側の江戸湊に伸びています。現在の日本橋川のルートです。
この第1回目の“東遷”の時期は、太田道灌説を含めて諸説あります。A図は後の時代(江戸湊から江戸城への物資搬入ルートである「道三堀」が出現)なのに、まだ東遷していません。
平川にせよ道三堀にせよ、江戸開府と同じ慶長8年(1603)には「日本橋」が架けられました。
そして、元和年間に神田山の切り通し
[58603]ができると、引き続き平川改修工事が行なわれることになりました(1620)。
三崎橋(
[58635]の中継所)から水路を開削し、神田山の切り通しとつなげることにより、平川と谷端川(やばたがわ)
[41575]を共々に東に流して、両者の合流点付近の氾濫原(かつての小石川大沼)を宅地化するのです。これで現在の千代田区三崎町、神保町、一ツ橋などの土地が市街地になりました。
かくして、「平川」は更に“東遷”して隅田川に注ぐ「神田川」に生まれ変りました。
この時代の神田川は、まだ船の通行ができない放水路であったものの、平川下流部の洪水や江戸湊の埋没を防止し、江戸城北部の外郭線を形成するという意義を持ったものでした。
平川は、三崎橋と
堀留橋 との間が埋め立てられ、頭を切られた下流の水路は、江戸城の濠として利用されました。
なお、「堀留」という名にもかかわらず、この区間には現在も首都高速道路下に水路がありますが、これは1903年(明治36年)に復活したものです。
このように、正確に言うと「神田川が東遷した」のではなく、平川が東遷した結果、神田川になったのですが、
利根川東遷 をまねた副題を掲げておきました。