都道府県市区町村
落書き帳

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[58897] 2007年 6月 7日(木)22:27:42【1】Issie さん
「国」の化石
少し間が空いてしまいましたが…

[58847] mi(わ)
何がしかのものをリストアップしようとするときには,まず「基準」を明確に定義しておくことが必要だと思います。

…と言っておきながら,実はこの話題について私自身どこに「基準」を置くべきか迷いがあるのでした。

[58852] むっくん さん
たださすがに両国は武蔵で長野県木曽地方は信濃である時期を基準に選ぶべきと考え、廃藩置県の前後で分けました。

ここに「基準」を置くというのも1つの捉え方であって,これを“統一の基準”としてリストアップがされるならば,それはそれで構わないことだと思います。

ただ,以下はあくまで私個人の捉え方であって,「このようにすべきである」と主張するわけでは毛頭ないのですが…

その前に,まず確認しておきたいのは,
「国」という区画(←私,“某所”ばかりで特に目立って使用される「令制国」という呼称について,どうしても違和感があって受け入れたくないのです)について,
たとえば「旧国界」のような表現が用いられるけれども,この区画が“公式に廃止”されたことがあったわけでは決してなくて,単に“使われなくなった”だけである。ただし,いくつかの例外を除いて現実に使われている区画としての性格はとっくに失っていて,その意味では「化石」のような存在である,
…ということです。

話を戻して,
「廃藩置県」を1つの画期点として捉える立場も十分に根拠のあるものであることに異存はないのですが,私としてはもう少し後の時点にその「基準」を置きたいと考えています。

明治4(1871)年7月14日(旧暦)に断行された「廃藩置県」というものは,封建制に由来する「藩」という制度を廃止し,中央集権の確立に向かったという点で,わが国の地方制度において極めてラディカル(根本的)な変革ではありました。
けれどもこの変革は,従来からの 国・郡 という区画には全く手をつけず,これとは全く別の次元で行われたことでした。廃藩置県において,「国」や「郡」という区画の領域については,全く問題にされていません。
「府県」と「国郡」という全く次元の異なる地方区画が初めてリンクするのは,この年の10~11月に行われた「第1次府県統合」です。ここで初めて,「府県」の領域が「国郡」によって規定されました。ただしここでは,「国」と「郡」という区画が“ア・プリオリ”(初めら存在する)として扱われており,その領域を新たに定めたものではありません。

私が 国・郡 という区画にとって最も大きな画期点となったと考えているのは,[58847] でも示唆した1878(明治11)年の「郡区町村編制法」です。
この時に「郡」という区画が“公式”の行政区画として位置づけられました。ただし,それは

---------------------------------------------
地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス(第1条)
---------------------------------------------

とあるように,「府県の下位区分」として。
一方,従来の「国」という区画に公式の行政区分としての地位は与えられませんでした。

恐らく,ここで「国」と「郡」の地位の逆転が生じたと私は考えています。
律令制以来,「郡」という区画は「国」という区画を“分かって”設置されるものでした。平安中期以降,律令制が形骸化した後も,この 国 と 郡 の関係は“暗黙の了解事項”であったと思います。徳川将軍が“臣下”である諸大名や旗本にその領知(領地)をあてがう時にも,そのような存在である国・郡,さらに「村」という区画があることを前提に,それらを単位として領知あてがいが行われたことでしょう。

ところが,郡区町村編制法によって「郡」は公式に位置づけられたけれども,「国」はそうではなかった。それでも現実の生活の中で,為政者も含めて人々の間に「国」という区画は“実用に供される地方区画”として“活きて”いた。
しかし“公式の行政区画”ではない「国」の領域を規定するのは何かというと,それは“公式の行政区画”として規定された「郡」である。今や,それぞれの「国」に属するはずの「郡」によって,逆にその「国」の領域が規定されるようになった。
たとえば,「甲斐国」の領域は,山梨県 に属する 西山梨・東山梨・東八代・西八代・南巨摩・中巨摩・北巨摩・南都留・北都留 の各郡の領域によって構成される。
あるいは,「下総国」の領域は,千葉県 に属する 千葉・東葛飾・南相馬・印旛・下埴生・香取・海上・匝瑳 の各郡,および 茨城県 に属する 結城・豊田・岡田・猿島・西葛飾・北相馬 の各郡によって構成される。
もはや,「国」という区画は“それ自体”で存在するものではなく,それを構成する「郡」によってその領域が定まる存在である…

そのように考えると,現在の区画に直結する「郡」(すでに多くの郡が消滅し,残るほとんどの郡も「市」に蚕食されてその領域を大幅に縮小していますが)が確立した「郡制」施行,つまり,最後に 岡山県 で郡の再編が行われ,郡制が施行されて「郡」という区画が確定した1900年まで「基準」点を下げていいのかもしれません。郡という区画が確定して,ここでようやく「国」の領域も確定した。ちょうど時代は「国」という区画が“現実の地方区画”としての生命を失い始めた時期であり,徐々に使用されなくなっていく。つまり,この頃から「国」の“化石化”が進行した。

一般に,下総国と常陸国の境界は 鬼怒川~小貝川~利根川 ラインとなっています(その後の流路変更によって完全に一致するわけではないのですが)。
現在,千葉県の旧香取郡(現・香取市および成田市)と茨城県の旧稲敷郡(現稲敷市)の境界は,おおよそその通り,“現在の”利根川となっています。
けれども,1899年までは両県の境界は現在の利根川よりももう少し北側にありました。つまり,現在の稲敷市(…のうちの旧河内町・東町)の一部は,もとは 千葉県香取郡,つまり「下総国」に属する村々でした。1899年に現在の利根川が両県境とされて,利根川以北の村々が 茨城県稲敷郡 に編入されたものです。稲敷郡は「常陸国」の所属ですね。
だからと言って,「稲敷市」が 下総・常陸 両国にまたがる,とは考える必要はないように思います。
この場合,利根川以北の村々が 千葉県香取郡 から 茨城県稲敷郡 に編入されたときに,下総国 と 常陸国 の国界も移動した,と考えた方がよい…

と,考えるわけです。

つまり私としては,郡区町村編制法 か,あるいは 郡制施行 のあたりまで,「基準」点を下げたいな,と思っているのです。

ところで,
明治4年11月20日に 摂津国住吉郡 が「大阪府」に,11月22日に 和泉国大鳥郡 が「堺県」に属するものとされました。
この時,堺市街と大和川の間にある以下の村々

 中筋村,七道村,北庄村,西万屋新田村,遠里小野村

は,大阪府(摂津国住吉郡)と堺県(和泉国大鳥郡)のどちらに属していたのでしょうか。
なお,これらの村々は,1889年の町村制施行のための「明治の大合併」で 大鳥郡向井村 となりました。
[59110] 2007年 6月 14日(木)21:39:39hmt さん
「国」という区画(1)ずっと昔の「国」
[58515] スピカ さん
港南区が武蔵・相模両国に跨っていますがどうしてでしょうか。

港南区の件に関する答えは、[58545] Issie さんの “たまたまです。”で尽くされているわけですが、せっかく「国」という区画の存在に注目したので、それがどのような区画なのかを考えてみましょう。

ずっと昔の「国」は、律令制度による「行政区画」でした。お題の武蔵国を例に取れば、現在でも「府中」という地名を残す国府があり、その長官(カミ)として、国司が任命され、口分田を耕す農民に租庸調を課していたわけですね。
相模国には、 淘綾(ゆるぎ)郡→中郡に「国府村」(現・大磯町)がありましたが、他の候補地もあり、相模国府所在地は未特定とか。

やがて、墾田開発のために特例が裏目に出て、「不輸・不入」の荘園が増殖して、公地公民制の律令政治は事実上崩壊します。
でも、建前としては有効だった律令に基づいて、国司の任官は続けられました。
「武蔵守」で有名なのは高師直です(実は武蔵権守?)。
相模守には、鎌倉時代の執権が名を連ねていますが、江戸時代の将軍は「武蔵守」ではありません。地方長官である「武蔵守」よりも、「令外官」である「征夷大将軍」の方が値打ちがあると考えて任官を拒否したのでしょうか。

そして、江戸幕府から「大政奉還」を受けた新政府は、王政復古の大号令(慶応3年12月9日=西暦1868年1月3日)で、
自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ
と仮の新体制を作りますが、まだ「律令制の廃止」は宣言していません。王政「復古」ですからね。

明治新政府組織の実質的な発足は、慶応4年閏4月21日の「政体書」 で、
天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス則チ政令二途ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ権力ヲ分ツテ立法行政司法ノ三権トス…
と宣言し、太政官の下の地方制度として、府藩県三治制を実施します。

すなわち、旧幕府直轄地のうちの重要地には江戸府・神奈川府などの「府」、それ以外の旧幕府直轄地には品川県・韮山県などの「県」、旧大名家領地には六浦藩(現横浜市金沢区)・荻野山中藩(現厚木市)などの「藩」が置かれます。
武蔵・相模の府藩県を例示している中に「韮山県」があるのを奇妙に思われるかもしれませんが、江川代官所(韮山)の支配地は、伊豆だけでなく、武蔵・相模・駿河・甲斐の各国に及ぶ広大なものだったのでした。

この政体書でも「養老律令を廃止する」と直接に宣言したわけではありませんが、「行政区画としての国」に代る府藩県三治制によって、建前だけでも有効だった「令制国」は、遂に引導を渡されたものと理解できます。

蛇足ですが、このように名目的にも律令体制から決別した新政治体制だからこそ、「太政官」の呼び方も、律令時代の「だいじょうかん」と異なる、「だじょうかん」なのでしょう。

[5567]Issieさんの記事も参照してください。
明治以降の「国」の領域は、豊臣秀吉による中央政権の下で行なわれた「郡」の再編成に伴なってほぼ確定したことが記されています。
[59112] 2007年 6月 14日(木)21:50:31【1】hmt さん
「国」という区画(2)明治になってから誕生した「国」もある
[59110]で記したような経過を経て、かつて行政区画だったいわゆる「令制国」が1868年に廃止されたわけですが、「地理的名称としての国」は存続します。
これは、一時行政区画だった「郡」が大正の末年に廃止された後も「地理的名称としての郡」として存続し続けているのと同様です。

# 郡の場合は、明治初期の戸籍制度から展開した大区小区制の後、「郡区町村編制法」(1878)で行政区画として復活し、市制・町村制より後の「郡制」(1890)とその全部改正法(1899)により、府県の出先機関と地方自治体としての性格を兼ねることになりましたが、「郡制」廃止(1923年施行)、郡長・郡役所廃止(1926)で、「行政区画としての郡」は消滅しています。

単なる「地理的名称」へと性格が変わった「国」ですが、消極的に存続しただけでなく、陸奥国・出羽国を分割して7ヶ国とし、北海道の11ヶ国も新設しています。

明治元年12月7日 太政官布告 第1038 奥羽両国ヲ七国ニ分チ国郡石高ヲ定ム
陸奥国を磐城岩代陸前陸中陸奥と五国に出羽国を羽前羽後と二国に分国被 仰付候條此旨可相心得事
(各国の範囲を示す郡名を列挙。明治2年の改正で、刈田郡は岩代国から磐城国へ所属替え)

明治2年8月15日 太政官布告 第734 蝦夷地ヲ北海道ト称シ十一国ニ分割国名郡名ヲ定ム
蝦夷地自今北海道と被称十一ヶ国に分割国名郡名等別紙之通被 仰出候事
別紙 北海道十一ヶ国 渡島国 後志国 石狩国 天塩国 北見国 胆振国 日高国 十勝国 釧路国 根室国 千島国(各国の郡名省略)

琉球国については、行政的には明治5年(1872)の「琉球藩」、明治12年(1879)の「沖縄県」設置により日本の一部としています。
北海道と同様の国名郡名を定めた布告は見当たりませんが、
明治15年3月15日 太政官達 沖縄県下琉球国首里城ヲ陸軍省ニ受領ス
という用例から見ると、地理的名称の「琉球国」も、「石狩国」などと同列であったと思われます。

江戸時代に存在した「国」の数は68国。「日本六十余州」と言います。「六十六州」というのは、壱岐嶋、対馬嶋を数えていないのでしょう。
明治になって奥羽両国が分割されて5増、北海道の11国を加えると84国。琉球まで入れて85国。

これで日本全国が「国」でカバーされたのかと思うと、「小笠原諸島」[26683]は、伊豆国でも武蔵国でもありません。
ここは、文久元年(1861)に咸臨丸派遣により回収をしたが、1863年に開拓移民を引き揚げてしまい、1875年明治政府による再回収と、いささか腰の据わっていないところがあります。いずれかの「国」に編入するだけの領土意識がなかった?

府藩県三治制や、その「藩」を「県」に置き換えただけの3府302県時代の行政区画は、飛び地だらけのモザイク状態( 兵庫県を例示 )であり、とても「地理的な広域名称」として使えるものではありませんでした。だから、「地理的名称としての国」の存在意義は十分にありました。

でも、廃藩置県から4ヶ月後には第1次府県統合によって、ほぼ昔の「国」に匹敵する広さの「県」が生まれます。
「山梨県」のようにちょうど「甲斐国」と同じ領域の県ができたにもかかわらず、おそらく意識的に「甲斐県」を避けたのは、どのような理由からでしょうね。

「行政区画たる県」と「地理的名称たる国」との区別を明確にしておきたかったからでしょうか。
[59131] 2007年 6月 15日(金)19:01:42hmt さん
ご指摘を受け、コメント行「郡」を修正
[59116] むっくん さん
コメント行に取り違えた内容を書いていましたが、ご指摘を受けて修正しました。

戸籍編成の単位として設けられた明治初年の大区小区制は、地方制度としてはうまく機能せず、その失敗から「郡区町村編制法」で「郡」や町村を行政区画として復活したのでした。

滋賀県では郡というものが出来て以来、郡は消えたことはありません。

確かに明治政府が画一的な大区小区制度を押し付けた時代にも、「地理的名称たる郡」は生き続けていたのだろうと思います。
公式文書の表記が大区小区になっていても、長年使ってきた地理的名称の「郡」が、そう簡単に世の中から消滅しないであろうことはごもっともです。

どのような使われ方をしていたのか、具体的には知りませんが。
[59173] 2007年 6月 16日(土)19:08:31hmt さん
「国」という区画(3)20世紀まで事例のある「国界変更」
[58897] Issie さん
「令制国」という呼称について,どうしても違和感があって受け入れたくないのです

11世紀頃から実体を失い、明治になって名実共に廃止された律令制に基づく、建前上は「行政区画たる国」[59110]
近代国家の中で、新しい地方行政制度と共存しながら使われてきた「地理的名称たる国」[59112]

「令制国」という呼称が、前者に限定されるものならば、理解できないこともないのですが、後者(明治以後の「国」)を含めて使われる呼称だとすると、両者の区別をわざわざ混乱させているように思われます。
# 実は私は「令制国」という呼称を知りませんでした。目立って使用されるという“某所”がどこなのかもわかりません。

# [55523]で、天領を含めて使われる「藩政村」という用語に違和感を表明したことがありますが、近代を含めて使われる「令制国」に比べたら、こちらの方がずっと「まし」なようです。「幕藩政治体制下の村」の省略形ともとれますから。

それはさておき
「行政区画たる県」と「地理的名称たる国」と使い分けながら、両者を併用するやり方は、明治以後ずっと続きました。
そして、ある時期までは、後者を前者に整合させるための「国界変更」が行なわれました。

例えば [46981] “地勢図で「県界変更史跡」めぐり” で紹介した、江戸川と庄内古川(現・中川)との間の地、行政的には埼玉県でありながら、地理的な区域は「下総国」だった中葛飾郡。
明治29年法律第40号 埼玉県下国界変更及郡廃置法律 の中には次の項目があり(次頁です)、郡の廃置分合と共に、ここが武蔵国に所属替えになっています。
埼玉県武蔵国北葛飾郡及同県下総国中葛飾郡を廃し其の区域を以て北葛飾郡を置き武蔵国に属す

同じ記事に登場する「岡山県美作国」の石井村などが兵庫県に編入された事例では、「国界変更」が表面に出ていません。しかし、編入先が「兵庫県播磨国佐用郡」と明記されており、行政区画が兵庫県佐用郡に編入されると同時に、地理的名称も播磨国に変更されたものと理解できます。
明治29年法律第56号
第1条 岡山県及兵庫県の境界を変更すること左の如し
岡山県美作国吉野郡石井村を兵庫県播磨国佐用郡に編入し岡山県美作国吉野郡讃甘村大字中山を兵庫県播磨国佐用郡江川村に編入す
# 現・佐用町の北部で、3市町に跨る光都1丁目[59152]の20kmほど北のようです。

ついでに、同時に行なわれた福岡県・大分県の境界変更については、[47106]で“変更地は不明”としていたのですが、第2条でわかるように、山国川支流に関するものでした。国界変更とは無関係。

リンクした法令全書の右側のページには、「鹿児島県下国界並郡界変更及郡廃置法律」が見えます。明治29年法律第55号の冒頭部は1枚前にめくってください。
日向国南諸県郡が大隅国噌唹郡へ、大隅国北大隅郡(桜島)と菱刈郡とが薩摩国鹿児島郡と伊佐郡へと、いずれも郡の廃置分合と共に国界も変更されています。

このように、「地域名称たる国」の範囲を変更していたのは いつまでか?
少なくとも、20世紀になってから制定された法律にも「国界変更」がありました。
明治35年法律第14号
京都府丹後国与謝郡雲原村を同府丹波国天田郡に編入す

この事例を利用して、「国」に関する基準時点[58847]について 考察してみます。
既に、廃藩置県(明治4年)の前日[58852]とか、郡区町村編制法 か,あるいは 郡制施行 のあたり[58897]というご意見がありました。

私としては、「国境に跨る市町村」というテーマで考える場合には、「国境の基準時点」と「市町村の基準時点」とは同一であるべきだと考えます。
つまり、一方が「現在の市町村」なら、他方は「現在の国境」。もし「1900年当時の国境」を使うなら、「1900年当時の市町村」の領域から該当するものを拾うべきでしょう。

具体的な問題を挙げます。
現在の福知山市は丹波・丹後両国に跨っています。いつから両国に跨がることになったのか?
答えは2006年1月1日に丹後国である加佐郡大江町を合併した時からです。

ところが、1955年に福知山市に編入されていた丹波国天田郡雲原村を遡ると、上記のように1902年4月1日に丹後国与謝郡から丹波国天田郡に所属替えになったものなのですね。
つまり、国の基準時点だけを郡制施行や廃藩置県前に遡らせることになると、福知山市は1955年から丹波・丹後両国に跨っていたことになってしまう。
これでは、ちょっとおかしいというのが、私の意見です。

参考までに、中世の雲原村は丹波国天田郡だったようですから、中世基準時点に取れば、福知山市が両国に跨がるのは2006年ということになります。

たもっちさんの パラパラ漫画風市町村合併史 で、1902年に郡境(この場合国境でもある)の赤線が移動した雲原村を確認しました。
天座川は、雲原村から金山村へと東に流れるので、中世のように天田郡に戻すのが確かに自然ではありますが、この小さな山村の所属変更のためにわざわざ「法律」を制定するとは…。
[59178] 2007年 6月 16日(土)20:14:28hmt さん
「国」という区画(3.1)誤解を避けるためのコメント
[59173] hmt において、
「国境の基準時点」と「市町村の基準時点」とは同一であるべきだ
と記しましたが、この意見を他の方に押し付けるつもりはありません。

特に、[30496] いっちゃんさん の
市域が複数の旧国(幕末~明治初期)にまたがっている。
の場合は、明治の新体制になる前の 建前上は 「行政区画たる国」[59110]であると 比較対象を明確にしていますから、私が対象とした「地理的名称たる国」[59112](あえて言えば「現在の国」)とは全く異なり、前者を「(投稿当時における)現在の市」と対比することはおかしくありません。

私が例示した「丹波国天田郡雲原村」(1955年福知山市に編入)についても、これを先に例示された[30517] 今川焼さん の記事では“旧国(幕末~明治初期)”基準ですから、
旧丹後国に属していました。(旧与謝郡雲原村)
で、正しいわけです。

この2つの記事の当時は、丹後国加佐郡大江町に福知山市域が及んでいなかったので、旧雲原村の存在がポイントになったのでした。
[59199] 2007年 6月 17日(日)16:46:53hmt さん
「国」という区画(4)明治以降の使われ方
ずっと昔からあった国[59110]が、近代国家の中で性格が変り、新設されたり[59112]、境界変更があったり[59173]しました。

「地域名称たる国」は、20世紀になってからも、しばらくは広域地域名称として普通に使われていたようです。
夏目漱石の「坊ちゃん」に登場する“日向の延岡”や、 「我輩は猫である」の“ 肥前の国は唐津の住人多々良三平君”を例示した記事 [47036]を書いたことがあります。

ところが、住所表記として行政区画の「県」の使用が定着したためか、「国」は次第に広域地域名称の地位を奪われ、「国の化石」状態に移行してゆきました。

日常の会話における「国名」の使用が稀になりつつある現代において、国名の保存に貢献?しているものの一つに、鉄道の駅名や線路名称があります。
多くの地域で、鉄道駅名に冠される広域地名としての「国名」の使用は、本州・九州・四国のほぼ全域62ヶ国(岩代[47045]を含む)に及びますが、「上野こうづけ」だけは例外です[47036]
JRにない「志摩」も、「国名愛好家」の近鉄のおかげで入っています。美乃坂本、播州赤穂、上州富岡の類もあります。
会津・伊那・津軽など国名に準ずる広域地名を使った駅もありますが、「岩手」[47045]と「群馬」以外の県名は、使用例 (岐阜羽島、愛知御津)が少ないようです。

「国名」が、意外に多用されているのが「市の名前」ではないでしょうか。
泉大津、泉佐野、大和郡山、大和高田、豊後高田、陸前高田、安芸高田、…のように頭に国名を付けて先輩の都市と区別する正統派。
そのものズバリの国名を名乗ってしまった日向市、長門市、美濃市、伊予市、…。でも、安芸市は安芸国でなくて、土佐国でした。
いわき市、さぬき市のように、かな書きも出現。
伊豆市と伊豆の国市、淡路市と南あわじ市、そして、甲斐市と甲州市となると、大先輩の甲府市をさしおいて国名の取り合い。

このように、「国名由来の造語」は行なわれていますが、国名自体が日常で使われなくなっている傾向は、紛れもありません。
そして、行政区画の変更があっても、かつては行なわれた「国界変更」の手続きが行なわれなくなりました。

備前福河など戦後の県境変更事例[54264]の多くが、これに該当します。事例のすべてが「国界」というわけではないし、逆に県境でない「国境越しの合併」もあるわけですが、とにかく行政界が「国界」の存在を意識しなくなったことも、国境に跨る市町村を生み出す一因になっています。


もともと、「行政区画たる都道府県市区町村」と「地理的名称たる国」とは別体系の区分[5567]ですから、「たまたま」国境に跨ることになっても、実用的には何の不都合もないことです。
趣味的に該当する箇所を列挙してみたり、その来歴を考察して面白がる程度のことでしょう。

社会科の地図帳や市販の多くのアトラスにも「国界」が表示されていないようです。
地図の元締め・国土地理院の地形図にさえ表示されなくなっています。ずいぶん前のことかな?
「二十万分の一地勢図」だけは、国界を表示してくれています。しかし、[17073] YSKさんの記事にあるように、作業ミスもありました。国界のミスではないのですが、[46981]で記した石徹白や神坂の事例のように、新しい県界の方がきちんと記入されていない例もありました。

一応、 国にまたがる市区町村 の記事を集めておきました。
[59271] 2007年 6月 19日(火)20:03:00【1】hmt さん
現代に生きてる国名
現代に生きてる国名 に関するご意見、ありがとうございました。

[59199]で、“国名自体が日常で使われなくなっている傾向”と書いたのは、全国的にあてはまることではないようですね。

私の地元での日常感覚は、[59243] Issieさんの発言にある
「武蔵」という呼称で,旧国の領域全体を“一まとまりの地域”と理解されることは,現代ではない
ということなのですが、「県」という大区画の下位区分としての使い方にしても、[59238] グリグリさんが示されたように、「能登」や「若狭」という “国名自体を 日常で使っている” のだとすると、国名不使用は全国的な傾向ではなく、地域差が存在するということのようです。
[59254] EMMさん の記事を見ると、「能登」と「加賀」でも使い方に地域差がありそうだし…

府県で分断された「丹波」が、県境の両側で“別々の丹波”として使われているという[59253] 今川焼さん の記事も、興味深く拝見しました。

「国名」ではないのですが、“別々の丹波”から思い出したのは、「葛飾」という広域地名の運命です。
もともと下総国葛飾郡だった区域が、江戸時代に下総国葛飾郡と武蔵国葛飾郡になり、明治11年に、下総国葛飾郡は千葉県(東…)、茨城県(西…)、埼玉県(中…)に、武蔵国葛飾郡は東京府(南…)、埼玉県(北…)と5つの葛飾郡([755] Issie さん)と東京府の2区(本所・深川)に分かて編制されました。

茨城県西葛飾郡は1896年施行の郡制で猿島郡に編入されて消滅。
本家格の千葉県下総国東葛飾郡でさえ、9市(市川・船橋・松戸・野田・柏・流山・我孫子・鎌ヶ谷・浦安)の出現で領域を狭めたあげく、平成の合併により遂に2005年消滅。
武蔵と下総に分かれていた埼玉県の区域は、北葛飾郡として統合後、三郷・幸手・吉川各市の出現や庄和町の編入で狭まりましたが、まだ存続。
東京府は、郡部として残った地域も1932年に東京市に編入されて更に4区が誕生しますが、そのうちの一つが、「葛飾区」として現存します。寅さんの葛飾柴又[59285]はここ。

その結果、本来「下総国」だった「葛飾」という広域地名は、行政区画としては、その一部が東京都・埼玉県に、“別々の葛飾”として残存することになっています。
ところで、江戸川よりも東の地域では、“また別の葛飾”であるという感覚は、現在も生きているのでしょうか?

【追記】
[59285] 役チャンさんご紹介の京成電鉄「葛飾」駅の改称は、本家葛飾がその地位を失墜したことを感じさせます。
それにしても、「西船」とは!! あまりにも大きな落差に唖然。


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