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23件の記事を検索しました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[59680]2007年7月9日
むっくん
[54355]2006年10月6日
EMM
[53195]2006年8月9日
EMM
[53189]2006年8月9日
ペーロケ
[49150]2006年2月13日
かぱぷう
[49135]2006年2月12日
EMM
[49132]2006年2月12日
かぱぷう
[45640]2005年10月14日
EMM
[44026]2005年8月10日
Issie
[44020]2005年8月9日
EMM
[44017]2005年8月9日
Issie
[43947]2005年8月7日
EMM
[43944]2005年8月7日
グリグリ
[37806]2005年2月14日
ken
[36650]2005年1月10日
Issie
[23442]2004年1月6日
EMM
[23361]2004年1月4日
Issie
[22533]2003年12月5日
EMM
[20506]2003年10月1日
だんな
[15022]2003年5月11日
だんな
[14029]2003年4月26日
だんな
[9279]2003年2月15日
かつ
[1671]2002年5月31日
深海魚

[59680] 2007年 7月 9日(月)00:30:25むっくん さん
薬師&主計&鉄炮
[59661]EMMさん
[59662]作々さん
[59666]Issieさん
[59669]稲生さん
[59676]hmtさん
皆様、「薬師」についてレスありがとうございます。過去ログにも「薬師」についての話題はありましたが、いろいろと勉強になります。

既にhmtさんが[59676]で詳述されていますが、
「くずし」と読む地名が日本全国で1件だけ
であることには私も驚いています。実は竜王町の事例が「くずし」だから他にもこのような事例があるだろうと思って、総ての読みを確認したわけではない状態で拙稿([59659][59660])を書いたのでした。[59661]でEMMさんが書かれたことは想定していましたがまさか一例しかないとは思いませんでしたから。。。
#書き込み直後にゆうびんホームページで一応読みは既に確認済です。


以下、「薬師」とは別件で。

>笠津前浜さん
「職業由来町名」コレクションに下記コレクションはいかがでしょうか。今回も名称から機械的に判断しての提案です。

『主計』
・岩手県奥州市胆沢区小山字主計谷地
・山形県東田川郡庄内町吉方字主計田
・石川県金沢市主計町
・福井県福井市主計中町
・滋賀県長浜市西主計町
・滋賀県長浜市東主計町
『鉄炮』
・福島県伊達市保原町字鉄炮町
・福島県伊達郡川俣町字鉄炮町
・福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字鉄炮町
・福島県相馬郡新地町大字福田字鉄炮町
・愛知県豊田市貝津町鉄炮迫
・滋賀県近江八幡市鉄炮町

また、記載済の鉄炮町(宮城県志田郡三本木町)は宮城県大崎市三本木伊場野字鉄炮町になりましたね。
また、蜂屋(滋賀県栗東市)の由来は古来、養蜂場があったことによります。
[54355] 2006年 10月 6日(金)23:35:13EMM さん
遅ればせながら、金沢オフ会報告その1:準備期間~1次会まで
オフ会から早くも1週間が経ってしまいました。
本当なら翌日の日曜にでもレポートを、と思っていたのですが、オフ会終了と共に9月中の疲れが一気に出てしまい半沈没気味となった上、水曜に仕事上の大きなヤマを抱えており、さらに来週出張があるため週の後半は締め切りのある仕事を片づけねばならず…等々が重なってしまい、数日書き込みが手に付かない状態でした。
週末まで来て、やっと書き込みに手をつけられた…と言うことで少々間があいてしまいましたが、金沢オフ会のご報告をさせて頂きたいと思います。


まず、今回の会場は次の通りとなっております。

1600~17250次会(16名)市内散策(武蔵ヶ辻尾山神社長町武家屋敷跡香林坊・旧映画街片町スクランブル
1730~19451次会(18名)赤玉本店(片町2丁目
2000~21452次会(16名)Kitchen&Bar VOO-DOO(木倉町
2200~00503次会(11名)ご馳走魚菜と北陸の地酒 台場 金沢駅前店(此花町
0100~02304次会(3名)カラオケパラダイス(堀川町
0245~05155次会(3名)すかいらーく金沢駅前店(昭和町

最終的には5時半頃金沢駅にて散会となっております[54280]
4次会以降は参考データかなぁ…(爆)。



続いて全体の流れを、時間に沿ってご紹介したいと思います。


1:準備期間
[53569][53711][53718][53789]にある通り、9月3日に金沢市内にていっちゃんさん・だんなさん・私で1次会の大まかな打ち合わせを行いました。
いっちゃんさんより「グリグリさんが少し早め(午後3時~4時頃)に始めるのがよいのではないか?とおっしゃっている」という話が出たため、だんなさんが持ってきて下さったHot Pepperを見ながら良さそうな店を探しましたが、宴会のできるような店ってほとんど夕方5時~6時開店なんですよね。
どうしたもんか、と悩んでいたらいっちゃんさんから「例えば武蔵ヶ辻を出発して尾山神社とか武家屋敷あたりとかを散策して、それから宴会に突入しても良いのでは?」というご意見を戴きました。
また、だんなさんが「金沢はおでん屋の数が多く、おでんが隠れ名物(?)である」「おでん屋の中でも赤玉は昭和初期から続いている老舗である」と言う話をされるとこれがいっちゃんさんの琴線に触れたようで、1次会会場の第1候補は赤玉にしよう、と言う事になりました。
あと、予約交渉は私が行う事となりました。
その後紆余曲折あったのですが、結局市内散策~1次会の流れは9月3日の打ち合わせの時の話ほぼそのままになりました。
(市内散策のコースについては休日にひがし茶屋街~梅の橋~並木町~主計町~久保市乙剣宮~武蔵ヶ辻・近江町~尾山神社~長町武家屋敷跡~片町スクランブル交差点~犀川大橋~寺町・忍者寺付近を実際に歩いてみて、その時の所要時間から決定しています)
また、市内散策についてはいっちゃんさんのご提案により観光ボランティアガイド“まいどさん”にガイドを行ってもらうことになりました。(こちらの折衝のみいっちゃんさんが行っています)

2次会についてはオフ会直前の火曜日に店を予約しました。
1次会が片町なので、2次会は旧町名復活の舞台である木倉町か柿木畠にしたいと考えてましたが、なんだかんだ言っても土曜日の8時頃の話なのでなかなか空いてない。
結局予約が取れたのは3軒目だったのですが、当初の思い通り木倉町の店が取れたので良かったです。

3次会は最初成り行きで行ってまえ、と思っていたのですが、確認したところ参加希望者が10名前後であったために席だけ予約することにしました。
片町方面にするか金沢駅前にするか悩みましたが、お泊まりの方の宿が全て金沢駅周辺だったのと金沢駅発のバスで帰られる方があったことから駅前にしました。

以上、ここまで場所を決めた上で当日に臨みました。
(4次会以降は成り行きで決めることにしましたが、[53749]に書いたことを念頭に置いて片町パターンと駅前パターンは考えてありました)


2:集合場所にて…
さて当日です。
市内散策の集合場所は武蔵ヶ辻・めいてつエムザ前歩道、集合時間は16時。
私は15時ちょっと前に武蔵ヶ辻に到着したのですが、バスの中から集合場所を見てみたら想定していなかったテーブルと椅子が歩道に置かれていて、何人か休憩している人がいるのが目に入りました。
実は当日はめいてつエムザのセールをやっていて、その一環で屋外で生ビールを販売していたためにテーブルが置かれていたらしいのですが、単に休憩のため座っていても特に怒られることはありませんでした。
とりあえずバス停近くの店を回って新しいHot Pepperを確保し、さらにエムザ地下の本屋でネタになりそうな本を買い込んでから集合場所に行くと南砺、先ほどバスの中から見た「テーブルに座っている人」はいっちゃんさんと白桃さんでした。
14時頃から座っていたそうで…
その後グリグリさん、星野彼方さんが到着し…そのあとの順番は忘れてしまいましたが、昨年の神戸駅と同様、徐々に「妖しげな集団」が形成されていきました。
初参加の皆さん、さらには案内をお願いしてあった“まいどさん”も我々の「妖しげさ」に引かれて声をかけて来たような??
一番最後にいらっしゃったのはたしかぺとぺとさんでした。

#余談ですが、過去2回のEMMの目印はヤンキース帽子でした。しかし、2個持っていたのを沖縄旅行と8月の某イベント参加時に無くしてしまったため、今回は開き直って背広とネクタイで参加してます。途中白桃さんに何回も「なぜ背広なのか」聞かれましたが、あまり深い意味はありませんでした(^^;;;。と言いつつも、こんなネクタイをわざわざ買ってきて締めておりましたが…おや?どこかで見たような方言も…


3:市内散策
15時55分に予定の16名が集合したので、予定より5分早く市内散策スタート。
スナフキんさんより昭和35年当時の金沢市内の地図が配られ、それを見ながらの散策となりました。
案内して下さった“まいどさん”は柳田さんと言うおじいさん。
事前にいっちゃんさんから柳田さんに「地理・地図・地名などに異常な関心を持っている人たちの集団である」「石川県出身者や金沢市在住者も混ざっている」と言うことが伝えられてあったため、普段の案内時にはしないような「豆知識」的な話も織り交ぜて案内して頂きました。
(APAグループの社長の家なんて、普通案内しませんよね…。あと、香林坊の名の由来である香林坊家が薬屋であったことにちなんで植えられたメグスリノキの看板の位置が悪くて誰も気付かない、とか…)
金沢の町中を歩くのが数年~数十年ぶりという方が多く、集合の前に通ってきた金沢駅周辺と合わせて変貌の様子に驚いた方が多かったようです。
かくいう私も、約1年ぶりに通った香林坊の旧映画街(下見時には通らず)の元映画館が全部取り壊されて駐車場に変貌していたのはショック大でしたが。
最後は片町スクランブル交差点にある「芭蕉の辻」の石碑の前で柳田さんとお別れし、横断歩道を渡った先にある1次会会場・赤玉へと向かいました。


4:1次会
赤玉本店到着は17時25分頃。
5分ほどして別途市内散策されていたかすみさん、医王山散策(登山?)をされてきたfutsunoおじさんが到着され、ほぼ予定時刻(5時半頃)に1次会スタートとなりました。
グリグリさんのご挨拶、白桃さんによる乾杯に続き、恒例の自己紹介。
進行役のJOUTOUさんにより初書き込み年月日、書き込み記事数、1記事あたりの平均文字数、紹介文が読み上げられたあとに名前が呼ばれ、自己紹介…と言う形だったのですが、皆さん初書き込み年月日と記事数で自分であることが分かってしまい、名前を呼ばれる前にすでに立つ準備をしていましたですね。
一渡り自己紹介が終わったあとは、今回は特に大きな企画は用意せず、時間が来るまで歓談タイム。
最初は固さも見られましたが、徐々に話題の花が咲きました。
(なお、完全に企画がなかった訳ではなく、2次会の宿題としていっちゃんさんから1問だけクイズ([54266]参照)が出題されています)
歓談のみでもあっという間に時間が経つものです。2時間って短い。
と言いつつも、当初1次会は7時半頃終了を予定していましたが、料理が出てくるのが若干遅れ気味だったため、実際には皆がデザートを食べ終えた7時45分頃に閉会しています。
赤玉本店と2次会会場は300mほどの距離だったので、歩いて移動。途中の片町バス停で葵区さん・今川焼さんとお別れした後、2次会会場のある木倉町へと向かいました。


長くなったので、2次会以降は別稿にて。
[53195] 2006年 8月 9日(水)03:29:29EMM さん
[53087] の補足
[53189] 愛比売命さん
問題ないのなら、せっかくだし、ひがし茶屋街と主計町にも行ってみたいですね♪
各茶屋街は「格子戸の町並みを見ながら散策するところ」というイメージでして(じゃらんの紹介例)、お茶屋さんに入って…と言うことでお考えであればお子さんの動きを考慮した方が良いかも、です。
ちなみに、ひがしには見学できるお茶屋さんがあります。
金沢ひがし廓 志摩
ひがし茶屋街 懐華楼
見学だけなら数百円でOK。

しかし醤油系はいいですね!健康オタク気のある嫁が飛びつきそうな場所です(笑)。ただし、ソフトクリームはNG。母乳の味に影響するそうです(涙)。海沿いって遠いのかなと思いきや、石川県庁から意外と近いのですね。
奥さん、ソフトクリームは×ですか。じゃあ愛比売命さんだけでも味わってみるとか?
それはともかく、醤油自体が味が独特なので(甘いんですよ。そう言えば、鹿児島に出張に行った時、あまり違和感がなかったなぁ)、それを味わって頂くだけでも面白いかも。
ちなみにひしほ蔵はヤマト醤油味噌さんの単独経営で、もろみ蔵は大野の町内の色々な業種の店・会社が参加した協同組合の運営(建物は紺市醤油さんのもので、通常の管理運営は紺市醤油さんがおこなっている)です。
場所はひしほ蔵の方が分かりやすいかも。
県庁から大野町までは、車でなら迷わなければ10~15分で着きます。
バスだと県庁前から大野の方に行くバスが日に5本しかないので注意が必要。
武蔵・香林坊方面からだと1時間に2~3本あります。経由地・終点が異なる「61 大野」行きと「63 大野港」の2つの路線がありますが、最寄りバス停は至近なのでどっちに乗っても特に問題なし。
もし市内中心部からバスで行かれるのであればなかなか凄いところを通る「61 大野」が面白いかも。
参考サイト(実際はフレームが使用されています)

あと、定番スポットの中では妙立寺(忍者寺)が小学生未満の子供連れの拝観不可となっておりますので注意が必要です。
(そもそも予約が必要で、思った日に取れるとは限らないのですが)



以下余談…
北陸鉄道バスと言えば、私の旧自分色
[53189] 2006年 8月 9日(水)00:51:54ペーロケ[愛比売命] さん
れす2題
[53087]EMMさん
 早速、いろいろ候補を出していただきありがとうございます。今回は加賀屋の他は金沢市内の観光がメインのつもりですので、残念ながら能登は行く時間がないかもしれません。しかし醤油系はいいですね!健康オタク気のある嫁が飛びつきそうな場所です(笑)。ただし、ソフトクリームはNG。母乳の味に影響するそうです(涙)。海沿いって遠いのかなと思いきや、石川県庁から意外と近いのですね。
 それと、もうひとつ気になるのが、茶屋街。「一見さんお断り」といった敷居の高いイメージがあり、赤ちゃんなんて連れて行ったらつまみ出される、なんて思っていましたが、
ひがし茶屋街も、天気さえ悪くなければ(11月ではチト微妙な時期ですが)お子さん連れでもあんまり問題ないと思います。
問題ないのなら、せっかくだし、ひがし茶屋街と主計町にも行ってみたいですね♪
 これらも参考にさせて、旅行の計画を立ててみます。(身軽ではないので、結構大変。。。)

[53095]白桃さん
 甲子園、熱戦が始まりましたね。私も基本的に同じようなスタンスで応援しております。もちろん、広島勢よりも四国勢。間違っても兵庫勢は応援しません(笑)。
[49150] 2006年 2月 13日(月)01:55:07【1】かぱぷう さん
一等地ですからね…
[49135]EMMさん 石川県庁旧庁舎関連+α

ありがとうございます。興味深く拝読いたしました。
主計町の件は、なるほどおっしゃるとおりですね。金沢の茶屋街はガイドブックには結構紹介されていますね。そこでも主計町は人名由来と記されておりました。当初は「そう大したもんではないだろう」と思い行かないつもりだったのですが、雨晴海岸に行かなくなった関係で時間が余り、訪れることにしました。するとなかなかどうして、風情のある町並みでした。行ってよかったと思います。

さて、県庁についてです。
旧県庁本館は現時点では「空き家状態」で、県の管理のもと、関係者以外立ち入り禁止となっております。
「もったいない」と思う一方、
現在、県としては旧県庁の建物を利用して「いしかわ文化・情報の総合センター(仮称)」を作る構想を持っています(中略)少なくとも南ブロック(かぱぷうさんがご覧になった「正面」)はそのまま活用される方向にあるようですが、その他のブロックは改築が重ねられていることから歴史的価値は低いという判断がなされており、最終的にどうなるかは不透明です。
保存の可能性があるとのことで、少し安心しました。

わが福岡県は昭和56年に県庁が天神から博多区東公園へ移転。その際旧庁舎は跡地利用の計画が決まることもないのにあっけなく取り壊されてしまいました。跡地一帯は公園と“国際・文化・情報の交流拠点”となる施設の建設がなされることとなり、公園は天神中央公園として整備。この公園の中に、旧県庁舎に使われていた石材をオブジェとして再利用したという噴水広場がありますが、あまり目立ちません(^^; 何も跡形を残さないよりはマシなんでしょうけど。
ハコモノは平成7年にアクロス福岡が完成。外観・施設どちらの面からみても面白い建物です。特に外観は天神中央公園に面した側にステップガーデンなるものを設け、都市緑化に一役買おうと試みました。完成当初は異様な建物に見えましたが、10年が経過し緑もそれなりに育ってきました。

んなこと書き込んでますが、私自身は旧福岡県庁舎を見たことはありません。昭和56年当時私は4歳で門司に在住しておりましたので福岡に行くこともありませんでしたし、もし福岡に住んでいたとしてもおそらく記憶にないでしょう。旧福岡市役所も味のある建物だった「らしい」のですがこれもまた知りません。福岡に引っ越してきたのは8歳のときでしたからもう取り壊された後の話です。県庁跡地の処遇、むしろ当時の時代背景からして噴水広場にオブジェとして県庁があった証を残したことは評価されてもいいことなのかもしれません。アクロスという建物も、なんだかんだいって結構気に入っているのも確かです。旧石川県庁舎にしても、金沢市のど真ん中の一等地であることは誰の目にも明らかで、文化財保護をとるのか土地の有効利用をとるのか頭の痛いところでしょう。う~ん、これだから“近代建築は”難しい。

一等地といえば、うろ覚えなので詳しくは書けませんが、郵政公社が『○○中央郵便局』の敷地の有効活用(高層化・移転再開発等)を検討しているという新聞記事を最近読みました。例えば東京中央郵便局などはハコを壊すのももったいないし、かといってあのままにしておくのももったいないですし。

#福岡県庁舎のリンク、いろいろ探しましたが見つからず。この画像でご勘弁くださいm(_ _)m
[49135] 2006年 2月 12日(日)12:34:03【2】EMM さん
石川県庁旧庁舎関連+α
何やら呼ばれたような気がしまして…

[49132] かぱぷうさん
「金沢に電車で行くげな何日かかるとや?」約5時間、案外近いんですけど。「妊婦を雪国に連れてって転びでもしたらどうすると?」白川郷とか白山山麓にいくならともかくねぇ…ハイ、福岡の人間の北陸観とはこんなもんです。
距離感覚はともかくとして…(飛行機なら出入りも含めて3時間ちょっとのはず)
今の時分だと日によっては金沢よりくじゅう高原や阿蘇のほうがよっぽど足許が怖いことがある様な気がします。


旧石川県庁舎。堂々とした建物と正面左右のシイノキが印象的で、思わずため息が出るほどの建物でした。
シイノキは「堂形のシイノキ」と呼ばれており、国指定天然記念物となっております。


旧県庁舎の現状・今後についてお詳しい方がいらっしゃれば、ご教示いただけると嬉しく思います。
本題。
旧県庁本館は現時点では「空き家状態」で、県の管理のもと、関係者以外立ち入り禁止となっております。
10月には県主催のイベントの会場として使われていたようですが。(参考:県庁記者発表用資料より

#敷地内には現在も使用されているところもあり、未使用部分も厳重に管理されているので無断侵入は出来ません。

さて、跡地利用ですが、最終的にどうなるかはまだ決まっていません。
県庁移転前には「NHK金沢放送局の移転用地として提供する」という話がありましたが、アンテナ設置により景観が壊されると反対運動が起き、この話はポシャりました。
現在、県としては旧県庁の建物を利用して「いしかわ文化・情報の総合センター(仮称)」を作る構想を持っていますが、周辺住民や国会議員など多方面から「公園としての整備」を求める声もあり、具体的な計画立案には進んではいない状態です。
本館ですが、少なくとも南ブロック(かぱぷうさんがご覧になった「正面」)はそのまま活用される方向にあるようですが、その他のブロックは改築が重ねられていることから歴史的価値は低いという判断がなされており、最終的にどうなるかは不透明です。
(参考:石川県企画課内県庁移転跡地のホームページ

#現在、南ブロックの活用法を話し合うアドバイザー会議が進められているようですが…


妻が一言「なんか博物館にでもすればいいのにね…」全くそのとおりだと思います。
石川県立博物館は以前は旧制第四高等学校校舎、現在は旧陸軍兵器庫が使用されています。
旧四高校舎は歴博移転後は石川近代文学館となっています。
いずれも明治~大正期の建築物で、しかも旧県庁のすぐ近く(文学館に至っては旧県庁の真隣)にあるため、どうしても違う形での利用を考えざるを得ない、と言うのがあります。


犀川周辺やひがし・主計の茶屋街を散策し金沢の街を後にしました。
地元では「主計」で切ることはほとんどありません。
「主計町」で一個の固有名詞として扱われています。
以前に拙稿[43947][44020]でご紹介していますが人名由来の町名でして、「町」が無いとどっちのことか分からなくなるためかな、と思います。


翌8日(水)は晴れていれば高岡・雨晴海岸から富山湾越しに立山連峰を眺めようかと計画していましたが、
全体から見ると一部分で観光には差し支えないようですが、雨晴海岸ではこんな事が起きているようです。
[49132] 2006年 2月 12日(日)02:05:03【2】かぱぷう さん
石川県宿泊で経県値up!
先週、妻と二人で金沢に行って参りました。
当初は長崎ランタンフェスティバルに行こうかと考えていたのですが、もうすぐ二世が誕生し、夫婦水入らずの旅行はしばらくお預けとなりますので思い切って遠出をすることに。「どこ行きたいと?」と問へば「雪吊りが見たい」とのたまふものですから、じゃあ行こうと。あまり連休も取れないものですから、一泊二日で『周遊きっぷ 加賀・能登ゾーン』を利用し 小倉(新幹線)新大阪(北陸線特急)金沢 と単純に往復するコースを選択しました。
周りの反応が面白いですね。「金沢に電車で行くげな何日かかるとや?」約5時間、案外近いんですけど。「妊婦を雪国に連れてって転びでもしたらどうすると?」白川郷とか白山山麓にいくならともかくねぇ…ハイ、福岡の人間の北陸観とはこんなもんです。

7日(火)12:00雷鳥9号にて金沢駅着。近江町市場で昼食とし、いざ市内観光に向かいます。このときはなかなかよい天気だったのですが、長町武家屋敷や香林坊周辺をそぞろ歩きしているうちに雲行きが怪しくなり兼六園に入園した瞬間、強風!雨!参りました。それでも小降りになってきたので園内を散策し、妻念願の雪吊りもしっかり目に焼き付けてまいりました。
ホテルにチェックインし、夕飯前に“金沢城・兼六園ライトアップ~冬の段”を観賞するためにもう一度兼六園に足を運びます。たまたま石川県のHPで発見し、これが金沢訪問の最終的な決め手となったイベントだったので足取り軽く向かったのですが、残念ながら中止。昼間の風雨を考えれば仕方ないと諦め、飯食うぞと片町方面に歩いて行くと立派な建物が。

旧石川県庁舎。堂々とした建物と正面左右のシイノキが印象的で、思わずため息が出るほどの建物でした。私の大好きな大正~昭和初期の建築に違いないと推察し、帰って調べるとやはり1924年築とありました。(恥ずかしながら、前回金沢を訪れたときはレンタサイクルで郵便局めぐりに夢中になっており建物も一瞥しただけでしたので、まじまじと眺めたのはこれが初めてです。)
妻が一言「なんか博物館にでもすればいいのにね…」全くそのとおりだと思います。現在どのように利用されているか、あれこれ調べてみましたが見当たりませんでした。なにがしかの形で有効活用されていればいいのですが。そして、取り壊されることがないよう祈りたいものです。旧県庁舎の現状・今後についてお詳しい方がいらっしゃれば、ご教示いただけると嬉しく思います。

翌8日(水)は晴れていれば高岡・雨晴海岸から富山湾越しに立山連峰を眺めようかと計画していましたが、あいにくの天気。時折降る雪を楽しみながら、犀川周辺やひがし・主計の茶屋街を散策し金沢の街を後にしました。


#以下補足

石川県が●→○になりました。
But、経県値をアップしたいがために金沢を旅先に選んだのではありません、絶対に…

[49084] いっちゃんさん
3月18日のダイヤ改正で「日本海」は2往復とも青森発着となるそうです。
帰路、新幹線乗り継ぎの新大阪で『日本海 函館』の方向幕をケータイに収めてきました。横にいる身内が他人のふりをしていたのは言うまでもありません…
[45640] 2005年 10月 14日(金)22:04:24【1】EMM さん
意地でも我田引歌
[45626]で書いていた「仕事の山場」は来週頭にずれ込んでしまいまった。
でも土日まで潰して、と言うことにはならず。


[45639] 88さん
ミニオフ会中
良いタイミングで東京に行かれたようですね。
私は先週末東京にいたものの、日程や行程の都合でどなたにもお声掛けしなかったのですが、結果的にグリグリさんや白桃さんとは入れ違いでしたし…。


[45628] 白桃さん
金沢説も説得力ありますが、ちょっと大都会すぎませんか?
まぁ歌詞中のキーワードが断片的なので、自分がここだ!と思った場所であればそこで良いのかもしれません。
何つっても「私の城下町」ですから。
それでもあえてあの歌詞の町がどこの町かを考察するとしたら、重要視すべきは「歌詞に描かれた情景によく似たところがあるかどうか」であるべきで、城下町風情さえ残していれば町の大小はどうでも良い、と思うのです。
ぴったりな場所さえあれば、たとえそれが東京だろうが大阪だろうが福岡だろうが構わないと思いますよ。
ちなみに金沢の場合、子供(=ご幼少のみぎりの我が)にも「あの歌は金沢の歌で間違いない」確信させるほどの良いポイントがあるんですよ。
それは東山界隈

・東廓や主計町を要する地であるし、その他にも格子戸のある家が結構残っている
・東山近辺は西側も平野で、家屋以外に夕焼け空を遮るものはない。「夕日」だとちと苦しいが…
・すぐ近くに浅野川が流れており、川沿いをそぞろ歩くことができる
・浅野川を上流に向けて歩いていくと天神橋辺りで山が迫ってきて町並みがとぎれる…「町はずれ」がある
・天神橋のたもとには公園がある。確か花も植えられていたはず。そこに限らず周囲にも小さい緑地があちこちあり、四季折々の花が植えられている(さすがに冬場は葉ボタンとか種類が限られますが…)
・梅ノ橋、天神橋と言った、他の歌謡曲の中にも出てくる橋がある

と、うまく当てはめることができます。
これが西廓だと当てはまらないキーワードがあるんですよね…

それと、郡上八幡は通過しかしたこと無いので現地の様子はよく分かりませんが、町並みを見ていけば当てはまるところがあるかもしれません。
しかし、大きなマイナスポイントがあります。
それは、真西に1,000mクラスの山がデン、と控えていること
しかも町のすぐそこまで山が迫っている。
歌詞の流れ通りの時系列で情景が移り変わっていくとすると、「夕焼けの空」を見上げながらしばらく「川のほとり」を歩いていくとやがて「橋のたもと」に「灯がともる」、と言うことではないでしょうか。
西側にでっかい山があると、夕焼け空が見える頃には町中はもう暗くてすでに灯りがともってると思われます。
[44026] 2005年 8月 10日(水)00:54:40Issie さん
とみたさん
[44020] EMM さん
とだ かずえ

あ,「とだ」さんかぁ…。

違うネタになりますけれど,
「富田」を「とみた」と読むか,「とだ」と読むか,あるいは「とんだ」と読むか(さらに“た”の濁点の有無も含む),どのような分布をするか,というのも面白いかもしれませんね。
苗字(名字)としても,そのルーツとなる地名にしても。

そうそう,財務省には「主計官」という職名がありましたね。
「○○主計官」と呼ばれるわけだ。「かずえ(かぞえ)」の伝統と申せましょうか。

「かずえ」さんのほかにも,
「みき」さん(造酒),「うた」さん(雅楽),「しま」さん(志摩[守])なんていうように,
元は官職名由来の男性の名前であったものが女性の名前になってしまった(もちろん,漢字表記は違うが)というのも,面白く思います。
[44020] 2005年 8月 9日(火)23:22:24【2】EMM さん
剣豪・「名人越後」の嫡男
[44017] Issieさん

富田主計についてもうちょっと調べてみると、「富田主計重家」(とだ かずえ しげいえ)と書かれている所を見つけました。
「主計」は呼称で間違いありません。
ちなみに、富田主計の父は富田流剣術の達人で前田家の剣術指南役だった富田越後守重政。
重政は利家・利長・利常の三代にわたって前田家に仕えています。
その石高ですが、重政の頃が13500石、重家が家督を継いだ時には16000石だったそうです。
また、重家の妻は前田利家の孫(豪姫の娘)でした。
富田家は家老格である「加賀八家」(親族筋の前田家(直之系)・前田家(長種系)、尾張からの譜代である奥村家宗家・奥村支家・村井家、前田利家が城持ちとなって以降の家臣である本多家・横山家・長家)にこそ名は連ねていませんが、八家のうち親族・譜代の5家の石高(9000~18000石)と遜色なく、かなりの重臣であったといえます。

#余談ですが、加賀八家の事実上の筆頭・本多家の禄高は最大で50000石。
八家のなかでは家臣となったのが一番あとなのにこの破格の禄高だったのは、徳川家とのパイプライン役だったから…
(初代本多政重は徳川家康の重臣・本多正信の次男。ただし、政重は宇喜多家→福島家→前田家→上杉家(直江兼続の娘婿となった)→前田家と頻繁に主を変えている。そのため、徳川家が送り込んだお目付役、と言うような話もある)



なお、主計町は公式には「かずえまち」なのですが、地元民の中では「かぞえまち」と言うのも結構使われていたりします。
[44017] 2005年 8月 9日(火)22:39:46【1】Issie さん
旧楢川村
…に行ってきました。
某県地理学会の催しで。
話題の1つは旧楢川村の塩尻市への合併で,前村長さんのお話も聞きました。合併するにしても,しないにしても,木曽郡内のある村のように周辺町村から合併を拒否されるにしても,それぞれに取り組むべき問題があるなぁ,なんてありきたりな感想を持ちました(拒否された村にとっては,洒落にゃあならねぇぞ…)。
や,あたしんところも無関係ではないんですよ。神奈川県内で唯一,「合併」が現実の問題となるところまで(ようやく)到達した市なのですから。合併対象の4町の動向はこれからも無視できません。

実は前日に名古屋から木曽に入ったのですが,途中の中津川では汽車の接続時間の関係でラッチの外に出てみました。駅前に「ダイエー址」があったのでそこで“用”を足してから,いつもの習慣でバス路線網がどの範囲まで広がっているかを確認して,ふと広場を見ると「大中津川市」の観光案内地図が。当然,しっかり馬篭も「中津川市」の一部として描かれていました。

楢川村では手回し良く看板の「塩尻市」への書き換えが進んでいたし,旧村営バスも「楢川地域バス」に表記が変わっていましたが,如何せん,“民間”分野ですぐに対応せよというのは無理な話です。「楢川村」の表記をほじくり出しては「変わってねぇだねぇか」などと文句を言うのは野暮の極みです。

[43944] グリグリ さん
主計町

[43947] EMM さん
富田主計と言う武士の屋敷

“富田さん”がどのくらいのレベルの“さむらい”かわからないので,それが「主計頭(かずえのかみ:長官=従五位上相当)」なのか,「主計助(かずえのすけ:次官=正六位下相当)」なのか,それとも「頭」とか「助」とかを落としてしまう程度の身分の名乗りかわかりませんが,これらの官職名の人が“長官”なり“次官”なりを占めていたのは律令制によれば「民部省」の「主計寮」という役所でした。
「主計寮」の和名は「かぞへのつかさ」。
主計寮ならぬ「主計局」という部署がいまだに「大蔵省」(←これも律令由来)改め 財務省 にあるのについて,“千三百年もの古きよき伝統”を誇りに思っていいのか,それとも“どうしようもないセンスの古さ”を嘆いていいのか,どちらともとれないのですが…。
あ,今は「しゅけいきょく」と読みますね。大蔵/財務官僚の超エリート部局でしたっけ。

「主計」を「かずえ」と読むのは,律令制が形骸化する一方で官職名が一定ランク以上の身分にある人の呼称として(hmt さんのご説明の[43834]通り,「実名」はふだんは公称されない。「坂本直柔」さんてご存知ですか? 幕末史上,有名な人ですが)用いられるうちに律令時代の「かぞえ」から転訛したものと思われます。

「かずえ」と読む限り,“由来”は確かに官職名ではあっても,直接には人名由来と考えたいと,私は思います。

そういえば,
楢川村見学のテーマの1つとして「権兵衛(ごんべえ)トンネル」を見学してきました。
木曽谷の宮ノ越と伊那谷の伊那町とを結ぶ峠で,車の通行のできない山道が「国道361号線」に指定されている“その筋”では有名な国道の1つです。ようやくトンネルが開いて,来年春に供用が開始されるのだそうです。
なぜ「権兵衛峠」と呼ぶかと言えば,元禄年間にこの峠道を整備した 古畑権兵衛 によると伝えられていて,つまり直接には人名由来の地名です。

けれども「権兵衛」とはもともと「権兵衛督(ごんのひょうえのかみ)」または「権兵衛佐(ごんのひょうえのすけ)」という官職名に由来します。現在の皇宮警察のような役割にあたる「左兵衛府」または「右兵衛府」の長官(または次官)の“臨時代理”“権限執行者”というほどの意味です。
それが人名呼称として用いられるうちに限りなくインフレ現象を起こして“蒔いた種をカラスにほじくられる百姓”や,あげくに“名前さえ持たない者”の代名詞となるまでに値下がりしてしまいました。
でも,れっきとした「官職名由来」の固有名詞なのですね。

「兵庫(ひょうご)」は,官職名由来ですか? それとも,官庁名由来ですか?

※まさかとは思いましたが,衆議院が解散してしまいましたね。
とりあえず,うちのHPの“あそこ”も「9月11日現在」に書き換えなくてはいけません。
遅くとも来年秋までにはしなくてはならなかったのですが,今回の展開は「余分な仕事を増やされた」気分で一杯。
それにしても,「旧山口村」関連の法律(平成17年法律第72号「公職選挙法の一部を改正する法律」,6月29日公布)が間に合って,本当に良うござんした。
[43947] 2005年 8月 7日(日)19:54:48【1】EMM さん
○○右衛門や○○左衛門なんかも同様
[43944] オーナー グリグリ様

金沢の主計町の由来は富田主計と言う武士の屋敷があったからだそうで、直接の由来は人名と言うことになっちゃいます。

まぁ、「主計」と言う名称の由来をたどっていけば朝廷の役職名にたどり着きますから、職業由来と見ても良いのかもしれません。
[43940]で今川焼さんが
それからずっーと時代をさかのぼった古代の職種に関係ありそうなところで
と言うくくりで挙げておられる町名と同グループですね。

でも、江戸時代まで来るとかつての役職とは全く縁のない、単なる名前として使われている場合も多いので(大石内蔵助・主税親子の名前なんかはまさにそうでは?)、あとはそこをどう判断するかでしょう。
難しい…
[43944] 2005年 8月 7日(日)19:39:26オーナー グリグリ
主計町はいかが?
[43915] 2005 年 8 月 6 日 (土) 23:32:31 笠津前浜 さん
[43881] 2005 年 8 月 5 日 (金) 12:59:20 EMM さん
「職業名由来町名」コレクションで地名コレクションのページに登録をいたしました。
ありがとうございます。コレクション名はこれで結構です。
新コレクション、楽しみですね。金沢出身なので、材木町、主計町、博労町など、職業由来の町名には興味津々です。とは言え、その後の皆さんのふぉろ~を見ていると、定義、収集範囲、解釈など難題が色々ありそうですね。どうぞマイペースで、また、厳密性や網羅性よりも面白いところからというスタンスで進めてみてはどうでしょうか。

ところで、コレクション名ですが、レイアウトを美しく保ちたいのでできるだけ短くしたいということと、「名」の文字が被ることを考えて「職業由来地名」としてはどうでしょうか。厳密には職業名由来でしょうが、職業由来としてもそれほど違和感がないと思います。ご検討のほど。
[37806] 2005年 2月 14日(月)03:57:46ken さん
武蔵
[37787] miki さん
[37786] 北の住人さん
[37803] Issie さん
身分の低い武士が勝手に名のることもよくあったようです。

一応、近世史担当?として、マメ知識、補足すると、戦国時代は箔を付けるために、○×守を勝手に名乗っていた人物も多いです。
江戸幕府体制下では、「守」「頭」「正」など、「かみ」官名を名乗るためには、本来朝廷の役職ですが、武家に関しては、幕府が、発給権限を代行していて、勝手に名乗ることは許されていませんでした。

国名+守の「国司」だけではないのですが、例えば「樅の木は残った」の原田甲斐、などのように、大名の陪臣などになると、「守」「頭」「正」の付かない「甲斐」、「大膳」、「刑部」などは勝手に名乗ってOK。
幕末の長州藩家老、「長井雅楽(うた)」もいますね。

また「守・頭・正(かみ)」官でなく、(大石)「内蔵助」など、「介・助」官名なら、勝手にOK。
おなじ「内蔵司」の官職名でも、長官の「内蔵頭(くらのかみ)」は、正式に許可を得ないと名乗れませんし、そもそも、武家なら大名本人or嫡子でないと、名乗れない名前ですが、内蔵助はOK。

主税〔ちから〕寮でも、主税頭(ちからのかみ)は許可必要ですが、大石主税(ちから)の主税の部分でとめておけば、勝手に名乗ってOKです。

では大石内蔵「助」が勝手だから、といって、吉良上野「介」も同様かというと、さにあらず。
上野の国の極官が「上野介」だからです。
上野守、常陸守、上総守は存在しません。
歴史小説か何かに、上記3か国の「守」が出てきたら、その著者は相当、薄学と思ってよろしい。
この3ヶ国は、「親王任国」で、(概念上)皇室直領とされていて、守官には、「親王」が就任して、「上野太守(こうずけのおおかみ)」となり、臣下が国司長官になることは出来ません。
江戸期には実際に、例えば、戊辰戦争時の征討大総督になった有栖川宮幟仁親王(陸軍大将)の父、有栖川宮韶仁親王は「上総太守」に任官しています。常陸、上野も同様です。
ですので、「上野」「常陸」「上総」では「介」が臣下では極官ですので、他国の「守」と同じ扱いなのです。

平手造酒(ひらてみき)なんて名前も、造酒司(みきのつかさ)には、造酒正(みきのかみ)という官職があって、この長官名は、幕府許可必要ですが、ただ、造酒(みき)、と名乗る分には、勝手。
国名もそうですが、主水(もんど)、釆女(うねめ)、大膳(だいぜん)、主馬(しゅめ)、舎人(とねり)、主殿(とのも)、図書(ずしょ)、内匠(たくみ)、縫殿(ぬい)、主計(かずえ)、修理(しゅり)、外記(げき)、左京、右京なども、武士の名乗りとして、多様されるものですね。
これらも、長官名でなければ、勝手に名乗ってOK。

蛇足ながら、江戸時代では、大名はやはり、領国の支配者という観点から、官職の名乗りでも国司の長官である、「国名+守」を好んで申請する傾向がありました。
自分で好きなのを申請して良いんですが、
武蔵守は武蔵国が幕府の所在地であることから遠慮、陸奥守は伊達家独占なので不可、薩摩守、大隅守も島津家独占で不可、阿波守も蜂須賀家独占で、他人が名乗ることは許されません。
同姓で同官名は、事務手続き上、不都合が多いため禁止されており、特に松平姓は大名以外にも旗本や松平姓を許された外様大大名もありますので、大変な数で、好きな名前を申請してよいと言っても、空いている名前を探すのに苦労した、という話も。
他にもいろいろ制限ありますが。
自分の領地の国名を名乗って良いのは、伊達、島津、前田、などの大大名、対馬の宗家など特殊な例に、限られており、結構、制約が多いものでした。
石田三成の名乗りだった治部少輔も遠慮、尾張守は「終わり」に通じて縁起が悪いので、使用例なし、など、いろいろあります。

さて、マメ知識という割には、ヘビーな板違いの書き込みになってしまいましたが、

[37787] miki さん
確か宮本武蔵は「たけぞう」と呼ばれていたそうですね。
[37803] Issie さん
これは,もしかしたら 吉川英治 の創作では
宮本武蔵の初名は、弁之助ですので、私も「たけぞう」は吉川英治の創作だと思います。
宮本武蔵に関しては、江戸初期から、数々の評伝が出され、出生地も生い立ちも、そもそも江戸期から、真偽入り乱れているのですが、

播磨国印南郡米堕村(現兵庫県高砂市米田)に田原家貞の子として生まれ、黒田藩士、新免(しんめん)無二之助(むにのすけ)一真(かずまさ・・・か?)の養子となる。
播磨国揖東郡宮本村に居し、元服時に姓を居所の宮本とし、宮本 武蔵 玄信(はるのぶ)、または宮本 武蔵 政名(まさもと か?)と名乗った、ということのようです。

播磨ではなく、従来、美作生誕説も根強く、英田郡大原町の智頭急行には宮本武蔵駅もあり、生家跡もありますが、近年の研究では播磨生誕説の方に分がある感じで、宮本武蔵駅はガセビアのおもむき強し。

武蔵は晩年は、細川家の客分となり、武蔵には実子はないので、養子の宮本伊織が継ぎますが、この宮本伊織なる人物からしてが、悪意はなかったと思いますが、養父武蔵の粉飾「伝説化」に貢献した功績が大なので、武蔵はすでに子の代にして、真偽定かでない伝説の人物になってしまっていたようです。
そこから、孫引き曾孫引きの諸伝が流布。
まあ、謎に満ちたところが武蔵の魅力かも。

武蔵で、ずいぶん引っ張って失礼しました。

ところで、
相模国と武蔵国が、「むさかみ」「むさしも」であった、というのは、ガセビアでしょうか?
[36650] 2005年 1月 10日(月)20:44:05【2】Issie さん
どんごろす
[36648] hmt さん
「叺」

やっぱり高度成長期の前ぐらいまでかなぁ…
その頃までの資料(史料)では割とよく見る単位ですね。
「俵」は単位としては“実際には”生きているけれども,藁で編んだ俵が使われているのは大相撲の土俵くらい…,かしら。今では,稲藁や麦藁自体が貴重品のようですね。
もちろん,私は「かます」を博物館ではなく実生活の中で見たことは,ありません。
…別の話だけど,「尺貫法」も,「尺」や「寸」「間」といった長さの単位は実際には生きているのでわかるのだけど,重さの「貫」の方はまったくイメージがつかめません。

麻袋

「ドンゴロス」というのもありますよね。

実はこの言葉を初めて聞いたのは本来の麻袋のことではなくて,宮崎駿の某アニメーション作品の登場人物の名前としてですが…,
後で全く別の機会に読んだ,太平洋戦争期に徴兵で海軍主計兵となったある漫画家(徴兵されたのは日米開戦の前年)が著した手記(高橋孟『海軍めしたき総決算』,新潮文庫,1984年;雑誌に連載していたらしい)の中で,「ドンゴロス」という麻袋が登場して「おやおや」と思ったのでした。
私にはなじみのない言葉だけれども,宮崎駿さんのような世代以前の人にはなじみのある言葉だったのだろうな,と思いました。
…ついでに,軍艦では米や麦は麻袋に入っていたようです。

このページ によれば,「ドンゴロス」とは英語の dungaree の訛ったものだとか。そういえば「ダンガリー・スーツ」ってのがありますよね。
さらに英語の辞書で dungaree を引いてみたら,ヒンディー語起源の“英語にとっての外来語”なのだそうで。
つまるところ,インド由来,ということなのでしょうね。

次の冬

ああ,この冬の終わった春休み,母親に連れられて「チャーザァ村」に行きました。
雪がいっぱい(1~2m)あって,田んぼの上で初めてスキーをやりました。
[23442] 2004年 1月 6日(火)02:14:57EMM さん
生活の中に生き続けていた旧町名
長くなりそうだったので割りました。

[23421] なきら さん

金沢市は全国でも特に住居表示法による町名変更が極端に進められたところですが、それには理由があるのです。
実は、昭和38年、住居表示法のモデル都市に、金沢市が選ばれてしまったのです。
それがために、どうしてもまとまらなかった近江町周辺・竪町周辺、行政から忘れられてしまっていた卯辰山山麓のごく一部、大方が国鉄用地だった金沢駅近隣のごく一部を除き、旧金沢市の区域はほぼことごとく町名変更が行われてしまい、由緒ある多くの地名が地図上から消えてしまいました。

しかし、旧町名が生活から全く失われてしまったのかというと、そうではなかったんです。
住居表示実施前は各町々(小さい町は幾つかが連合したものもあるが)で自治会組織が結成されていたのですが、住居表示実施後も、自治会組織は旧来の区割りそのまま引き継がれました。
その後、都市開発により町域のほとんどが道路や商業ビルに飲み込まれてしまったり、ドーナツ化により人口減で他の町会に吸収合併されてしまった所もあるものの、現在でも旧町由来の区域・町会名の自治会が多数残っています。
これら自治会の中でも結束力の強い所を中心に、町名復活の運動が行われてきているのです。

一方、行政サイドでも、町名変更から約30年が経ち、新たなまち造り政策として、歴史に根ざしたまち造り、地域のコミュニティの再構築、と言ったものが掲げられるようになりました。

このことが結びついて、現在の旧町名復活の動きに繋がるわけですが、幾つかの壁があり、簡単にいくものではありませんでした。
一つは法律の壁。国サイドでは街区方式と道路方式を混在して住居表示を進めることを認めておらず、現在の街区方式の範囲内での住居表示変更、と言う形で進めざるを得ませんでした。
もう一つは時間の壁。町名変更後に住民が多数入れ替わっているところも多いです。新しい住民の中には町名復活は煩わしい手続き等が増えるだけで不必要、と言う人もいて、もめ事の種になるところもありました。

そこで、金沢市は「歴史・由緒ある地名で」「住民の総意を得ることができ」「法律の範囲を越えないこと」を条件に旧町名復活を進めることとなりました。
まず、市サイドがモデル地区として働きかけを行い、「主計町」(尾張町2丁目より)「飛梅町」「下石引町」(ともに石引3丁目より)の復活にこぎ着けました。
ついで手挙げ方式で復活が進められることとなり、「木倉町」(片町2丁目より)「柿木畠」(広坂1丁目より)が昨年復活しました。
これら5町は街区方式での町域が旧の町域とおおむね(残念ながら一部はみ出ているが)一致しています。
(4町で町境の一部が段丘崖となっているのも要因か?)
また、一部はみ出してしまった住民、逆に別の町だったのに取り込まれたところの住民も含めて合意を得ることができたため、町名復活に至りました。

ところが、これに続いて復活を予定している町で、「街区方式ではみ出してしまう部分も何とか旧町名復活できるようにしてほしい」と言う強い希望があり、金沢市が困ってしまったのです。
現在は芳斉2丁目の一部となっている六枚町は町内会一丸となって復活運動を進め、今年6月に町名復活となることになったのですが、街区方式で町域を定めた場合、10軒ほどが芳斉2丁目に取り残されてしまうことになってしまいました。
この10軒も六枚町になれるよう何とかならないか、と言う意見を受け、金沢市が総務省に街区方式と道路方式の混在を認めるよう折衝したのですが、総務省はなかなか首を縦に振らない。
(前にも書きましたね。上に行きゃ行くほどかたいんです)
そのため、金沢市では特区申請をした上で2段構えで復活をはかることも考えていたのですが、最近になって突然、
「まぁとこどこによっていろいろ事情やら経緯やらあるだろうから、弾力的にやってってよかろう」
と総務省が行ったものですから、それなら、と言うことで一気に条例化して事を進めることになったんでしょうね。

春までに条例制定を目指す、というのは六枚町の復活までに間に合わせる意味があるのでしょう。
また、これにあわせて新たな町名復活の動きが出てくると思います。
今後の動きに要注目、かも。


[23439] 稲生 さん

確かに、浜松の地図を見ると、町中はほとんど手をつけられていませんね。
新潟、富山なども町中の住居表示が進んでいません。岐阜もそうかな?
住居表示完全拒否の京都市もありますね。
これらの町のように歴史を盾にあらがい通すことができたことは、誇りに思って良いと思います。

ただ、東京の一部のように、旧町名は守り通したものの、バブル期の地上げで地域のコミュニティが完全に破戒されてしまったところもあります。
そういうところがあることを思えば、金沢のように旧町名の復活に向けて動くことができるのは幸せなことと考えるべきなんでしょうか。
[23361] 2004年 1月 4日(日)07:17:15Issie さん
郡家
「郡家」というのは,もともと律令時代の郡役所の名前です。
日本史用語としては「ぐうけ」と読む習慣のようですが,「国府」が「こふ」「こう」などと変わって読まれるのと同様に,地名としては千年の間に読みが変わって定着しているものが多いようです(「郡衙(ぐんが)」という呼称が使われることもありますが,「国府」と「国衙」の関係と同様,ニュアンスの違いがあるように思います)。
読み方が変わってしまうというのは人名共用の固有名詞も同じ。たとえば,「主計」を「かずえ」と読むのは律令時代の「かぞへ(数え)のつかさ=主計寮」から変化して,戦国末期以降この読み方で定着したものです。

話を戻して「郡家」という地名は,「国府」「府中」がそうであるように,古代の郡の中心であったことを示唆するものであることが多いようです。
もちろん,明治以降の郡(特に1890~1900年頃の統合後の郡)の「郡役所」とは無関係ですが,千年来中心性を保ってきたことを背景に,現在も地域の中心であることもよくあります。
摂津茨木のあたりも,古代の「島下郡」の中心であったのでしょうね。

ただし,いつでもそうかというと必ずしもそうではないようだ,というのは,「甲府(甲斐府中)」も「新府(新府中)」も古代の甲斐国府所在地ではない(古代の所在地は現在の石和町)という例があるのと同様です。
[22533] 2003年 12月 5日(金)02:01:00EMM さん
愛比売命様へ
だんなさん宛のレスになってますが、拙稿[22527]はお読みいただいたでしょうか。
金沢市の中心部はおおむね河岸段丘の上に乗っかっています。
香林坊から片町に向かうところの斜面も扇状地に由来すると言うよりは、河岸段丘の段々の端っことみるべきです。
これは、高校の時の地学(地理ではなく)の先生が言っていた話です。

以下は自分の考察になります。

扇状地に該当するであろう部分は、犀川は新橋~御影大橋あたり、浅野川は浅野川大橋~小橋あたりから下流の部分になるかと思われます。

ただし、浅野川の流域は北陸本線より下流域は湿地帯的な土壌になります。扇状地に該当するのは浅野川大橋~北陸線の間くらいではないかと推測されますが、浅野川大橋あたりから水があふれて北岸が洪水になったことがあるので、地学的には浅野川大橋あたりから下の平野部は氾濫原になるのかもしれません。
また、浅野川大橋より北も開けてはいますが、主計町~尾張町~彦三にかけて河岸段丘の端っこと思われる段差が川のかなり近くにあり、旭町~浅野川大橋の間も広めの段丘面になります。

犀川の方は湿地帯ぽい所はかなり下の方に行かないと無いみたいですが、これは手取川の扇状地の端っこと重なっているからかもしれません。

もし機会がありましたら、金沢の中環状線の、寺町1丁目交差点~下菊橋~笠舞3丁目交差点~石引1丁目交差点~小立野トンネル~田井町交差点のルートを通ると、河岸段丘の具合が一番はっきりわかると思います。


※地図帳で河岸段丘のモデルとしてよく出てくるのは群馬県沼田市辺りですが、実際に見てすごいのは新潟県津南町の河岸段丘だと思います。
http://www.tsunan.or.jp/02tsunan/sizen/sizen.htm
[20506] 2003年 10月 1日(水)17:29:42だんな さん
祝・旧町名復活
今日10月1日は衣替えや東海道新幹線品川駅開業などイベントが盛りだくさんですが、金沢市では消えた町名がひとつ復活しました。金沢市役所裏手にある「柿木畠(かきのきばたけ)」です。柿木畠の名は寛永年間に三代藩主前田利常が火災の延焼を防ぐため空き地に柿の木を植えたことが由来とされています。1966(昭和41)年に住居表示整備で広坂1丁目の一部となり消滅しましたが、地元の熱意が通じ、今日37年ぶりに復活の運びとなりました。これで金沢市での町名の復活は「主計町」「飛梅町」「下石引町」「木倉町」についで5町となりました。

ただ、今後の復活については地元の要望が強くても、住居表示の街区方式が足かせとなって難しいケースがあるため、思うように進むかは未定です。
[15022] 2003年 5月 11日(日)09:55:35だんな さん
旧町名の保存
[14966]ありがたきさん
東京都台東区で見かけたんですが、街路にある近辺住居地図みたいな立て看板には、住居表示にかかる丁目・番・号の表示と合わせて、住居表示実施前の旧住所も縮尺が違いますが地図入りで併記されています。これは由緒ある町名の保存の手法のひとつですね。
[15015]ニジェガロージェッツさん
神戸市兵庫区の兵庫津周辺では、「兵庫区歴史花回道構想」というのがあり、史跡の整備などが進められていますが、廃止された町名については、手付かずのようです。

全国各地で旧町名の記憶を残そうとしているのですね。金沢市では昭和54年から「歴史のまちしるべ」といって旧町名や坂道などの名称と由来の入った石碑を建てております。平成14年現在で219基があります。住居表示で消えた町の場合、旧○○町と表記されているのですが、復活した主計町などは復活にあわせて旧の字が埋められました。本当は住民の意向を汲んで復活できればいいのでしょうが、いろんな事情でなかなか進まないですね。

ありがたきさん、15000件目おめでとうございます。
[14029] 2003年 4月 26日(土)11:27:27だんな さん
住居表示の影響
[14026]ゆうさん
「街区方式」と「道路方式」のいずれかを選択できます。
落書き帳で皆さんが日本式とされてるのが「街区方式」で、欧米式とされてるのが「道路方式」です。

金沢市は「街区方式」をとったために現在すすめられている旧町名の復活がなかなか進みません。いま復活させた町は街区で構成されていり(主計町)、住宅が少ないところ(飛梅町、下石引町)です。
そのために道路方式でも復活できるようにする特区構想があります。
[9279] 2003年 2月 15日(土)21:07:55かつ さん
「よみがえる歴史的町名」
先ほど新聞を整理していたらこんな見出しが目につきました。
ちなみに,私は新聞の切抜きをスキャナで取り込んでデジタル化しようとする壮大な(?)計画があるのです!しかし現実は切り取った記事だけが整理されずにデジタル化されることなくどんどんたまっていっているのです…(涙)

さて本題ですが,消え去った歴史的に由緒ある町名復活に向けての検討が全国の自治体で活発になっていると言うものです。平成の大合併が進む今,かつての町の様子を示す無形の歴史的,文化的遺産としての町名が再評価されているようです。
東京都台東区では「検討委員会を設置し,「御徒町」などの旧町名を復活させた場合,事業所などに与える影響や住民の意見をもとに復活の可能性を探る動きがあるのだそうです。
このような動きは住民の請願も含め,会津若松市,高知市,甲府市で見られるそうです。
全国の先駆けは金沢市で「主計(かずえ)町」などの旧町名を3つ復活させています。

秋田市には「餌刺町」という町名がかつてあって,その由来は江戸時代に鷹の餌取りを担当する役所があったからなのだというのを何かの本で読んだことがあります。このような町名も復活するといいですね。あと私個人としてはダムの湖底に沈んだ地名にも興味ありますね~!
[1671] 2002年 5月 31日(金)10:35:19深海魚[雑魚] さん
江田島
江田島町が合併後の名称にこだわる理由は何でしょうか? 旧海軍以来の
伝統在る地名、と云う自負が大きいのですかね?(海軍の将校養成機関は
江田島に兵科、舞鶴に機関科、築地に主計科が在ったそうです。)海軍の
鎮守府は確か呉に置かれたと記憶しますが(佐世保にも在ったのですが、
此れが村から一気に市に昇格する要因になったそうですね。)海兵学校が
海を隔てた江田島に置かれたのは、地形に基いた戦略上の理由かな?

出身高校の戦前の卒業生名簿を見た処、陸士と比較して、海兵、海機への
進学者が極端に少なく、相当の難関だったと見受けられます。(東亜同文や
満州○○大学等、時代を感じさせる校名がずらり。)

「○丁目」表示を持つ中心街を以てしても、人口要件が覚束ないのですね。
地形が険しい分、市街の面的展開が余り大きくない為かな。

閑話休題。過日、或る自治体の元首長の御子息と飲む機会が在りました。
代々に渡り議員等を務めた名門らしく、何れは貴方も?と話を向けたら
笑って曰く「その頃には合併で消滅して居るよ。」 自治体合併の進捗は、
そうした政治家にも大なり小なり影響して来るのでしょう。


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