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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[61194]2007年9月17日
千本桜
[61545]2007年10月7日
88
[61551]2007年10月7日
千本桜
[61557]2007年10月7日
faith
[61653]2007年10月8日
千本桜
[61756]2007年10月9日
faith
[61799]2007年10月10日
千本桜
[61815]2007年10月10日
faith

[61194] 2007年 9月 17日(月)01:05:18【2】千本桜 さん
東かがわ市の大字
[61175]88さん
試行品は、藩政村(≒大字)と現在の町・大字名との対比をも目的としています(究極の目標は、この表を全国に展開することですが)。

試行品を拝見させていただきました。これを全国展開するとなると かなりの労力を費やさなければなりません。老婆心ながら、88さん大丈夫なの?と考えてしまいます。でも、これが完成すれば勿論のこと、たとえ未完に終わろうとも、費やした熱意はきっと88さんの宝になるはずです。

ところで、試行品によると東かがわ市の大字は34ですが、実際は35の大字があるようです。何が増えた(抜けてた)かと言うと、大字大内です。私もいま気が付いたばかりです。よその地域の、いま気が付いたばかりの事柄を思いつきで書くのは危険ですが、それを承知で書き込みたくなってしまいました。単に大字の名称を拾い集めるだけなら、「あ、大内という大字があるのね」で済まされるでしょう。しかし、大字名というものが一定の区域に対して与えられた名称であることを思えば、ここに位置する、この区域に大内という大字名を与えるのはいかがなものかと考えてしまいます。こちらのHPには
この会社は香川県大川郡大内町松崎の工業団地にあり、他の地区とは独立していることから、せめて、工業団地だけでも大内の町名を残そうと社長さんが署名運動を行い、工業団地の町名は大内として残ることになったということです。大内町長と話し合いの結果、団地の所在地は「大川郡大内町松崎」から「東かがわ市大内」となるそうです。工業団地の敷地内だけが大内となり、それ以外の旧松崎地区はそのまま松崎として残ります。限定された範囲とはいえ、心配していた「大内」が残ったことを知り、よろこびにたえません。関係者方々のご努力に敬意を表します。
と、書いてあります。でも、私はこの地名継承方法を喜べません。そもそも、引田町も白鳥町も旧町名は捨てると言っているのですから、大内町も捨てるべきなのです。そうしないとバランスがとれません。とは言うものの、引田町、白鳥町には藩政時代からの引田、白鳥という集落があって、その名が大字名として新市に引継がれます。ところが、大内町には大内という集落がありませんから、大内という地名は完全消滅してしまいます。この事態を大内町民に立って捉えると、引田町、白鳥町の名は残るのだから、大内町の名も残して欲しい、と言うことになるのでしょう。そこで、地名変更決定権を持つ方々にお願いしたいのは、住民に対して地域の履歴(生い立ち)を徹底して説得して欲しいと言うことです。東かがわ市に引継がれる引田、白鳥という地名は引田町、白鳥町の意味じゃないんだよ。あれは、藩政村の引田、白鳥の意味なんだよ。大内町には藩政村の大内はないでしょう。だから、東かがわ市に引継ぐ大内という地名はないんだよと、なぜ説き伏せない。東かがわ市35大字のうち34は藩政村を継承したものです。そこに一つだけ現行町名(今となっては旧町名ですが)の大内が紛れ込んでいることに私は強い違和感を覚えます。もし、百歩も千歩も譲って どうしても大内の地名を残すとしても、あの場所のあの区域に大内と言う地名の継承を委ねるのは地理的・歴史的にいかがなものかと、大内を知らない よそ者の私は思ってしまうのです。この大内の問題は、底辺に地名侵蝕で取り上げたことと同じものが流れているように感じます。それは、一般住民は藩政村名と現行町名の係わりを知らないでいること。そして、もしかすると地名決定権を持つ人たちも知らないでいるか、知っていても そのことに重要性を感じないでいることです。

書き込み訂正機能を使って訂正します。
東かがわ市に引継がれる引田、白鳥は引田町、白鳥町の意味じゃないんだよ。を、東かがわ市に引継がれる引田、白鳥という地名は引田町、白鳥町の意味じゃないんだよ。に訂正しました。
[61545] 2007年 10月 7日(日)09:29:37【2】88 さん
大字の復活
レスが遅くなりました。

[61194] 千本桜 さん
大字の大内の件、初耳でした。
「ひょっとすると『大内』は通称で、あくまで正式には『松崎』ではないか」と、淡い期待を胸にインターネット登記情報サービスで確認してみたのですが、残念ながら正式なものでした。例に挙げて日付を確認すると、
年月日地番
H15(2003).3.24 まで大川郡大内町松崎200番1
H15(2003).3.25~H15(2003).3.31大川郡大内町大内200番1
H15(2003).4.1~東かがわ市大内200番1
でした。小字はありません。この土地は、大内町土地開発公社が元は所有していましたが、現在では企業に売却済でした。
それにしても、東かがわ市発足とは同時ではなく、大内町の時代に変更していたのですね。もちろん、引田町・白鳥町・大内町合併協議会の第2回協議会会議資料(pdfファイル)の12/23ページ「町、字の区域及び名称の取扱い」には記載がなく、他の2町には関係なく、旧大内町が独自で決定したものと思われます。この「大字『大内』の設定」の香川県告示については、ネット上には存在せず未確認ですので、図書館へ行く機会に見てみたいと思います。
あの場所のあの区域に大内と言う地名の継承を委ねるのは地理的・歴史的にいかがなものか
(中略)
一般住民は藩政村名と現行町名の係わりを知らないでいること。そして、もしかすると地名決定権を持つ人たちも知らないでいるか、知っていても そのことに重要性を感じないでいることです。
私の今までの主張からみると述べるまでもないとは思いますが、同感です。この考えは、大内に限らず、他地域においても同じです。
藩政村≒大字は、大多数のものは1000年以上の歴史を重ねてきています。明治の大合併時に「(例えば合成して)人為的に作られた」100年少々の期間しか存在していないものや、昭和の大合併時に作成された50年ほどの期間のものとは異なります。ましてや、藩政村の名前は、地元住民による自然発生的なもの(=これこそ本来の「地名」と言えると思う)によるものが多いのではないでしょうか。「○○村にしよう」と、人為的・行政的に新たに造り出したものとは異なると思います。
また、「地名」を、長い歴史の中でたかだか100年しか存在しない「現在の住民」に、恣意的に決定する権利があるのかどうか、個人的には大いに疑問を持っています。「現在の」住民の感覚で判断するからさまざまな誤解が生じるのではないか、と。その地名の対象範囲に拘らず、今回のように「どこでもいいから名称だけを残せばいい」という発想など・・・。
「地名」は、ブランド名・商品名などのように、一時的に流行を追うことを可とする(流行らなくなれば次の名称に置き換えればよい)ものとは本質的に異なるものだと思います。
・・・・・・と、この話は始めると熱くなってしまうので、今回はこのくらいで。

―――――――――――――――――――――――――
実は、試行品は、他の箇所にも要修正箇所がありました。東かがわ市で現行の大字に継承されていない藩政村があったのです。「塩屋村」です。「角川日本地名大辞典 37香川県」(角川書店)によると、現在の東かがわ市引田の一部で、小海川東側の沖積地、由来は当地に安戸新田の塩釜が設けられていたことによる、とのことです。このあたりになるでしょうか。M8年には塩屋村は戸数56、人口345、反別17町余、です(前掲書、「梶山家文書」よりの孫引き)。現在は小字になっているか、単なる通称かは未確認ですが。
「香川県史」の情報を加えて変遷をたどります。
変更年月日変更種別郡名自治体名変更対象自治体名
M11(1878).12.16編入大内郡引田村大内郡引田村,塩屋村
M23(1890).2.15村制大内郡引田村大内郡引田村(市制・町村制施行)
M42(1909).10.1町制大川郡引田町大川郡引田村
S30(1955).4.1新設大川郡引田町大川郡引田町,相生村,小海村
H15(2003).4.1新設/市制東かがわ市大川郡引田町,白鳥町,大内町
塩屋村は市制町村制・明治の大合併に先駆けて引田村に編入され消滅しました。市制町村制時にはこの引田村が単独で村制し、旧引田村も旧塩屋村も「大字なし」地域です。S30年の合併で旧塩屋村も含めて大字引田となり、現在は「東かがわ市引田」となっています。現在に至るまで、「大字塩屋」は存在しておりません。大字の復活でも、「この旧塩屋村の範囲を大字の塩屋として復活させよう」と言う主張ならば私も賛同できるのですが。
同じM11.12.16付けで、すぐ近隣で8村が合併して大内郡丹生村が誕生しています([49209]拙稿)。この8村については、昭和の大合併時に藩政村名が「大字」として復活し、現在も大字として現存されています。塩屋とはすぐ近くなのに対照的です。
ちなみに、この塩屋村の件は、1年半ほど前に千本桜さんと議論した、高知県高岡郡七里村(現四万十町の一部)についてと同じような例ですね。市制・町村制に先駆けて合併したために、大字引田の範囲が恰も藩政村の引田村であったかのような様相を示しています。

なお、同様に藩政村が明治の市制町村制に先駆けて合併し、現在に至るまで大字としては使用していなかったものが、平成の大合併で復活した例があります。現在の香川県仲多度郡まんのう町です。先に関係部分の変遷の抜粋を記します。
変更年月日変更種別郡名自治体名変更対象自治体名
M7(1874).9.28新設那珂郡十郷村那珂郡生間村,後山村,追上村,大口村,買田村,新目村,
山脇村,宮田村,帆山村,福良見村
M23(1890).2.15新設/村制那珂郡十郷村那珂郡十郷村,佐文村
新設/村制那珂郡七箇村那珂郡七箇村,塩入村
S30(1955).4.1新設仲多度郡仲南村仲多度郡十郷村,七箇村
S45(1970).1.1町制仲多度郡仲南町仲多度郡仲南村
H18(2006).3.20新設仲多度郡まんのう町仲多度郡琴南町,満濃町,仲南町
琴南町・満濃町・仲南町合併協議会第6回協議会議事録(pdfファイル)の9/46ページ(議事録のフッダページ数ではp.5)に、大字十郷内においては従来の小字の一部(帆山,後山,大口,新目,山脇,追上,宮田,買田,生間)を大字とする(ただし「大字」の冠称はしない)とあります。
資料(pdfファイル)の16/99~24/99ページ(資料のフッダペ-ジではp.19~p.27)に詳細があります。
  合併前:仲南町大字十郷字帆山東原○○番地
  合併後:まんのう町帆山字東原○○番地
藩政村である、「生間」「後山」等の(福良見を除く)9村の名称が、小字の一部が大字として復活しました。従前の小字名を設定するときに、大字にならなかった旧9村の名称を小字名に冠して称したようです。この理由として、議事録では
大字十郷には・・9つの字のグループが存在・・それぞれのグループごとに土地地番が付けられて・・土地標記には必ず字名の表示がなければわからない状態・・現在の自治会の名称も、帆山、後山、大口、新目など
とあります。欲を言えば、「もともと藩政村は帆山、後山等であった。『塩入』『造田』などに相当するのは十郷ではなくこれらものである」と言って欲しかったところではありますが。
そういえば、ある知人が住所を通常は「仲南町宮田○○番地」と標記していたことを思い出します。敢えて「十郷」を省いていたようです。いまは晴れて「まんのう町宮田○○番地」と標榜しているとは思いますが・・・。

少し横道に入ります。資料は前掲の「角川日本地名大辞典」から。
「福良見」は・・・国土地理院の25000分の1の地形図の図幅名にもなっており、馴染みのある方も多いかもしれません。このあたりはちょっと歴史が複雑なので説明を。十郷の説明をするには「七箇村」に触れないといけません。
「七箇村」の地名の由来は、7つの村という意味に加えて「多くの村々」の意味があります。戦国末期頃には七箇村と呼ばれていました。「寛永17年生駒氏惣高覚帳」(生駒氏は松平頼重(徳川光圀の兄)の前の高松藩主)では、
  七ヶ村西分:新目・山脇・大口・追上・宮田・生間・買田
  七ヶ村東分:本目・春日・小池・照井・帆山・後山・福良見
としています。福良見はこのとおり高松藩領でしたが、寛永18年に丸亀藩が成立した際に、七ヶ村西分7村と、七ヶ村東分のうちの帆山・後山・福良見の一部(西北部の17石余)で丸亀藩の七箇村(総称、西七箇村とも)となり、福良見村は丸亀藩の領地の一部として引き続き存在しました。一方、高松藩側は、七ヶ村東分の4村と福良見村の残余で七箇村(東七箇村とも)となり、残余は福良見村との名称は残らなかったようです。丸亀藩の総称の(西)七箇村(実態は10村)は前掲のようにM7年に十郷村となりました。
十郷村は合併数地名と言えますが、七箇村はそうとは単純には言えないようです。
丸亀藩領となったの福良見村(→十郷村)は、おそらくなのですがこのあたりで、過小のため旧帆山村と一体化したと思われます。現在はまんのう町帆山の一部です。
高松藩領の旧福良見村(→(東)七箇村)はこのあたりで、現在はまんのう町七箇(字福良見)です。昭和の大合併で、寛永から昭和へと約300年ぶりで同じ村になったことになります。
十郷村の各村は今回大字として復活した一方、(東)七箇村の各村(本目・春日・福良見等)が復活しなかったのは、この経緯の違いもさることながら、先述の議事録にもあるような「地番区域」の設定の相違が大きいのでしょう。十郷と異なり、七箇は本目・春日等の単位ではなく、七箇全体が不動産登記法の地番区域です。七箇は「七箇○○番地」で住所は特定できます。十郷は「十郷○○番地」では特定できず、「十郷帆山○○番地」「十郷新目○○番地」としなければ特定できません(純粋な小字(帆山『東原』など)は表記しなくても特定可能)。本目・春日等を冠しなくても土地を特定できたため、大字名としての復活には障害とはなったのかもしれません。当地域(香川県内)では、地番区域はほとんどが大字単位であり、そのためもあって小字を普段意識することはあまりありません。
不動産登記法の地番区域については、拙稿[41581][48881]をご参照ください。

ついつい長文になり、失礼しました。
[61551] 2007年 10月 7日(日)16:41:05【1】千本桜 さん
道路案内板および大字変更問題
[61540]ペーロケ さん
交差点の交通量が多いとの事。ひょっとしたら、あふれる右折車両を短い青信号時間の中ではとても捌き切れないために、意図的に分散させようとしているのかもしれません。
現地の様子からすると上記の理由は考えにくいのですが、
「予算が余っていたから付けてみた」ってやつでしょうか?
という理由は、無きにしも非ずと薄々感じています。なぜ、このような考えを抱くかというと、案内板の建て替え、書き直しが多すぎるからです。吟味して設置すれば直さなくて済むのに、無駄なことをしているなと感じます。何年前か忘れましたが、白石市の国道4号で「→南蔵王」と表示された案内板を見て、「これは まずい」と直感したことがあります。南蔵王という地名が広域すぎて、的を絞り込めないからです。案の定、現在は「→鎌先温泉」に書き換えられています。書き換えに要した費用はどれほどなのか知りませんが、当初に地名選択を吟味すれば出費しないで済んだ費用です。

[61541]じゃごたろさん
それまでは矢印のみだった青看板にいつの間にか県道番号を示すヘキサのパッチがあてられたり
そのとおりです。例の、直進「福島・仙台」、右折「大河原・角田」にも県道番号が付してありました。昨日たまたま知人と道路標識の話になったのですが、「6号線の相馬から亘理までの区間は、どの交差点も左折すると至・角田だなや」と話していました。どこを通っても至・角田なら案内表示は要らないべ、ということなんです。その打開策として、
1・行先地名は市町村名至上主義を改める。
2・経由地を表示する。
3・道路番号を表示する。
などが考えられます。そのような理由からして、県道番号が表示され始めたのはありがたいことです。しかし、例の案内板で最初に目に飛び込んできたのは行先地名であり、走行中に道路番号まで判読するのは困難かもしれません。

[61545]88さん
「地名」を、長い歴史の中でたかだか100年しか存在しない「現在の住民」に、恣意的に決定する権利があるのかどうか、個人的には大いに疑問を持っています。
全く以って同感です。反感を喰らうことを覚悟で書けば、転居してきてまだ5年とか、地区の生い立ちを知らないとか、地域全体の中における地区のアイデンティティーを考えたことがないとか、そういう類の町民を含んでの住民意識調査結果を楯に、住民から多数要望があったとして地名変更を画策した某町のやりかたに、疑問を超えて憤怒を覚えるのです。

訂正機能で助詞を1字訂正
[61557] 2007年 10月 7日(日)19:13:06【1】faith さん
地名の決定権
[61551] 千本桜さん
[61545] 88 さん
転居してきてまだ5年とか、地区の生い立ちを知らないとか、地域全体の中における地区のアイデンティティーを考えたことがないとか、そういう類の町民を含んでの住民意識調査結果を楯に、住民から多数要望があったとして地名変更を画策した某町のやりかたに、疑問を超えて憤怒を覚えるのです。
心情的には理解できますし、昔から伝わる地名を理由もなく変えて欲しくないと私も個人的に思っていますが、ここまでくると、(不穏当な言葉かも知れませんが)「選民意識」というものに近く、私には受け入れにくいものを感じます。
どのような人の意見だったら「正しい」のですか。

地元の人だったら嫌がるだろうなと思う名称が、(おそらく他地域にお住いの方から)無邪気に提案されているのを見たこともあります。
もちろん、地名の歴史についての啓蒙はなされるべきですが、地名については、その地域で実際に生活して、納税して、地名の影響を直接に受ける、当の住民たちに最終決定権があると私は考えます。
それに、1000年前の地名だったら正しく、今の人が自然と思う名前より優先されるべき、というのも、考えておられるほど、万人に通用するロジックではないように思います。
いつの時代も、人々は自然と思う名前で周囲の土地を呼んできたはずです。狭い範囲の地名がいつの間にか広い範囲に転用されることなどいくらでもあったでしょうし、いつのまにか範囲がずれていることだってあったはずです。似たことが、少々違った形ではありますが、現代に起きているということではないでしょうか。

###こういう意見の方がこの掲示板では勇気が要りそうですが(笑)

矛盾と思われるかも知れませんが、[61545] 88 さんの
「地名」を、長い歴史の中でたかだか100年しか存在しない「現在の住民」に、恣意的に決定する権利があるのかどうか、個人的には大いに疑問を持っています。
自体は、深い洞察を含んでいるように思われ、一概に否定するわけではありません。

※第1センテンスの表現を少し改めた。「いつの時代も…」以下を追加。[61545]への言及を追加。
[61653] 2007年 10月 8日(月)03:43:59千本桜 さん
どのような人の意見だったら「正しい」のかについて
[61557]faithさん
どのような人の意見だったら「正しい」のですか。

早速の反論、ありがとうございます。一口に地名の変更といっても様々なケースが考えられます。[61551]は大字界の移動を伴った大字名の変更を念頭において書いています。大字は特定の大字だけが単体で世の中に存在しているのではなく、周辺の大字と係わりを持ちながら今日に至っています。結論を言えば、大字界と大字名の変更を望むなら、その結果、周辺大字との係わりがどのように変化するかを知った上で要望するのが望ましいのです。

たとえ話を書くと言葉尻を捕まえて反論される恐れがあるので心配なのですが、faithさんなら物の本質を見てくださると思うので、敢えて たとえ話を書きます。大字六本木、大字三本木、大字一本木が一緒になって銀座町を形成していたとします。六本木は銀座町の中心部に位置し、都市化が進み役場や何やらがあって良いイメージを持たれています。川向の三本木はもともと農村でしたが、都市化する六本木の余波を受けて区域内のあちこちに住宅団地が出現し、都市と農村が混在するようになりました。山懐の奥に位置する一本木は都市化と無縁の山村です。昔からの住民は、自然地形で区分された三つの大字区分を当然のものとして受け入れてきました。

ところがです。三本木に点在する新興住宅団地の住民の間に、自分の住んでいる区域だけでいいから三本木を六本木に改称してくれという声があがりました。住んでいる団地は六本木のように都市的なのに、住所が三本木だと田舎に見られて嫌だと言うのです。行政はそれを受けて要望のあった区域を六本木に改めました。さあ、faithさん。これによって銀座町の地図がどのように変わるのかを想像してください。もともとは自然地形によって明確に区分されていた大字なのに、川向の大字三本木の中に大字六本木が飛んできて、飛地のように点在することになるのですよ。これでは良いはずがありませんね。果たして、住民はそうなることを知った上で要望したのかどうか、とても重要なことです。そして、もっと重要なのは、そのような要望を行政がよく審議した上で変更に臨んだか否かです。

大字三本木の中に飛地状態の大字六本木が幾つも出現すると知って、関係者はこれは まずいと思い始めました。そうだ!妙案がある。飛地状態をなくすには、大字六本木と大字三本木を統合して大字銀座に改称すればいい。こうして、銀座町は大字六本木、大字三本木、大字一本木を、大字銀座、大字一本木の二区分に変えることにしました。ちょっと待って!。誰かが口を挿みました。そうなると、住所は銀座町大字一本木字○○、銀座町大字銀座字○○になるんだね。だったら大字銀座は要らないでしょう。銀座を二度も連ねるのは意味がないよね。そうだ、そうだ、その方が合理的だと、満場一致で決議されました。こうして銀座町は、銀座町大字一本木字○○と書かなければならない区域と、銀座町字○○とだけ書いて済む区域に分かれてしまいました。

これを見て驚いたのは大字一本木の住民です。六本木地区と三本木地区は住所が短くなったのに、なぜ一本木地区だけ長いんだ。しかも古臭い大字の二文字を冠したままだなんて差別じゃないか。明治以来今日まで六本木、三本木、一本木は歴史を共有してきたじゃないか。それなのに、なぜ地名変更発案者は我々の地区のことを考えてくれないんだ。こんな大字一本木住民の思いもどこ吹く風。地名変更を要望した人たちは、自分の住所に田舎臭いイメージの大字三本木を書かずに済むと喜び、周辺地区に及ぼした影響など意に介しません。このような形で大字をいじられると、次世代に地域の歴史を伝えるのが難しくなります。

以上は たとえ話ですが、まんざら根も葉もない創り話ではありません。これに似た話を私は目の当たりにしています。大字の領域と名称変更は少なからず周辺大字にも影響を及ぼします。地名変更を要望する住民に、周辺地域のことも考えた上で要望してくれと言っても難しいでしょう。往々にして住民は自分のことだけ考えて要望するものです。だから住民は要望してはいけないとは言いません。問題は、それを関係者がどのように審議し結論をくだすかです。最後になりましたが、faithさんのご質問、どのような人の意見だったら「正しい」のですか、にお答えします。それは、自分のことだけでなく、広く地域全体を見ることのできる人の意見だと、私は思います。
[61756] 2007年 10月 9日(火)13:47:24faith さん
地名の決定権
[61653] 千本桜 さん
早速の丁寧な回答をありがとうございます。
大字界と大字名の変更を望むなら、その結果、周辺大字との係わりがどのように変化するかを知った上で要望するのが望ましいのです。
自体は、私は賛成ですし、そもそもそのような変更自体、むやみに行うべきではないと考えます。
ただし、そのような歴史的な地名の継承を、現在の住民に強制できるのか、といえば、手続き的には明らかに現代の社会ではNo です。それが、ここで問題にされているような事例を生んでいるわけでしょう。

意見が分かれるのはおそらくここからで、
たとえ、上記の見地からいって、まずい決定がなされる可能性があっても、住民に最終決定権を与えるべきと思うのがfaith なのに対して、そうではなく、
自分のことだけでなく、広く地域全体を見ることのできる人
が決めるべきとお考えなのが千本桜 さんであるわけでしょう。

[61194] 千本桜 さんが取り上げられている実例については
東かがわ市に引継がれる引田、白鳥という地名は引田町、白鳥町の意味じゃないんだよ。あれは、藩政村の引田、白鳥の意味なんだよ。大内町には藩政村の大内はないでしょう。だから、東かがわ市に引継ぐ大内という地名はないんだよ
という考え方と
引田町、白鳥町の名は残るのだから、大内町の名も残して欲しい
という考え方のいずれを優先するかは、やはり住民に最終決定権が与えられるべきことと思います。(東かがわ市になる前は「大内町」だった地域に暮らしていた人たちが「大内町」の地名を残したいというのは、藩政村の地名がどうあれ、自然なことと思います。)

もし、百歩も千歩も譲って どうしても大内の地名を残すとしても、あの場所のあの区域に大内と言う地名の継承を委ねるのは地理的・歴史的にいかがなものか
ということを言うのであれば、そもそも
大川郡大内町松崎
という地名を工業団地が名乗っていたこと自体もおかしいということになります。
推測の域を出ないのですが、地名が記録されるようになる前には、
これまで知られていた土地Aに隣接していた土地が、いつのまにかAと呼ばれるようになり、やがてAといえば後の方の土地を指すようになった、
などという例はいくらでもあったと思われます。
藩政期の地名を可能な限り保存して、それを基準に地名を決定するという考え方も1つの考え方と思いますが、現在の住民が、現在の状況(この例では、東かがわ市になる前の状況)を基準にして新しい地名を考えるのは自然なことであり、それを「誤りである」と決めつけることはできないと考えます。

最後に。暢気なことを言うなと叱られそうですが、このようにして(不本意な事例を含みつつも)地名が変わっていくから、[61175]88さん
試行品は、藩政村(≒大字)と現在の町・大字名との対比をも目的としています(究極の目標は、この表を全国に展開することですが)。
のような地理的な趣味も成り立つのではないかとも思いますがどうでしょう(笑)。
[61799] 2007年 10月 10日(水)07:47:49千本桜 さん
Re: 地名の決定権
[61756]faithさん

そのような歴史的な地名の継承を、現在の住民に強制できるのか、といえば、手続き的には明らかに現代の社会ではNo です。
何と答えたら良いのやら、そのような論理で地名を考えたことがないんですよ。自分が生まれる前から地域があり、地名があり、その地域や地名を当然のものとして育ったものですから、地名の継承を強制されているという感覚が私にはありません。

まずい決定がなされる可能性があっても、住民に最終決定権を与えるべきと思うのがfaith なのに対して、
faithさん、本当にそう思うのですか?。もし、その行く先に "まずい" ものが見えたなら、誰かが「ストップ!」と声を上げるのが筋だと私は思うのです。それからもう一つ。「住民に最終決定権を与えるべき」とおっしゃいますが、それは住民が責任を負うことを前提にしなければ成り立ちません。理想じゃなくて現実を見た場合、責任を持って地名と取り組める住民は極めて少数です。みんな忙しいのです。そして何より、地名に関心が薄いのです。そのような一般住民に責任を負わせるのは酷です。一般住民の関心の薄さは、住民に向かってfaithさんが突撃体当たりインタビューをしてみれば直ぐに判明することです。

自分のことだけでなく、広く地域全体を見ることのできる人が決めるべきとお考えなのが千本桜さんであるわけでしょう。
設問の仕方にもよりますが、行政が住民アンケートを実施するのは良いことですから否定はしません。しかし、その結果を咀嚼しないで丸呑みするのは無責任だと思います。先にも述べましたが、一般住民は常日頃から地名のことを考えているわけではありません。各人が理想的な地名のあるべき姿を構築しているわけでもありません。そのような人たちがアンケート用紙を目の前にしたとき、何を根拠に地名の選択をすればよいのでしょうか。単に語感字面の好みでしょうか。仮に、そのようにして地名を選んだとしても次の課題が待っています。住所表示形式の決定です。これが一般住民の頭に構築できていないのです。人はよく、合併しても旧町村名を残して欲しいと言います。それでいながら、長い住所は嫌だと言います。これは非常に矛盾したことですね。現在、和渕小学校が立地している場所の自治体変遷を見てみましょう。小字が佐沼川、藩政期に和渕村、明治22年から前谷地村、昭和30年から河南町、平成17年からは石巻市です。これをすべて継承すると石巻市河南前谷地和渕字佐沼川になります。長いですね。住所を書くのが辛くなります。何かを捨て、何かを残して住所表記を決定しなければなりません。これが完成して初めて地名決定が完了します。石巻市は藩政村の和渕を残し、和渕小学校の住所を石巻市和渕字佐沼川としました。小字を抱えた地域では、大字たる藩政村を残すのが最良です。藩政村を残すことで小字の同名回避を図ることができます。このような地名の決定に一般住民の一人一人が決定権を持ったなら、こんがらかって話が前に進まなくなるのではないでしょうか。ですから、ここはやはり市町村議会、審議会、行政に踏ん張ってもらわないと。でも時々、審議会って笊になるから困るんですね。

「大内町」の地名を残したいというのは、藩政村の地名がどうあれ、自然なことと思います。
近隣諸国と統合して日本が消滅するとします。どこかの都市を「日本」という都市名に変更し、日本という国が存在したことを後世に残そうという動きが芽生えました。その動きに賛同した八戸市が市名を日本市に改称しました。これをもって、日本の名を残せて良かったねと喜べるでしょうか。どこでもいいから名前さえ残せば日本という国が存在したことの証明になると言うものではありません。ふさわしい場所に引継がれてこそ歴史を伝えられるのであって、ふさわしくない場所にその名を残すと、何百年後、何千年後に歴史を紐解く妨げになりかねません。大内町大字松崎の一部を大字大内に改称したのも、その類に思えるのです。

大川郡大内町松崎という地名を工業団地が名乗っていたこと自体もおかしいということになります。
済みません。ちょっと理解できません。松崎に位置するのだから松崎で良いと思いますが・・・。

これまで知られていた土地Aに隣接していた土地が、いつのまにかAと呼ばれるようになり、やがてAといえば後の方の土地を指すようになった、などという例はいくらでもあったと思われます。
だからといって、それが最良な出来事だったとは思えません。これから新たに地域と地名を構築していく際に、そのような事例を参照しても意味を成さないと思います。
[61815] 2007年 10月 10日(水)23:16:00faith さん
地名の決定権
[61799] 千本桜 さん
何と答えたら良いのやら、そのような論理で地名を考えたことがないんですよ。自分が生まれる前から地域があり、地名があり、その地域や地名を当然のものとして育ったものですから、地名の継承を強制されているという感覚が私にはありません。
自分たちの住んでいる自治体が合併でなくなるなど、新たに地名を与える契機があって発生することだと思います。そういう契機がなければ、そんなことを考えないのは当然のことです。(これについては後述)
faithさん、本当にそう思うのですか?。もし、その行く先に "まずい" ものが見えたなら、誰かが「ストップ!」と声を上げるのが筋だと私は思うのです。それからもう一つ。「住民に最終決定権を与えるべき」とおっしゃいますが、それは住民が責任を負うことを前提にしなければ成り立ちません。理想じゃなくて現実を見た場合、責任を持って地名と取り組める住民は極めて少数です。みんな忙しいのです。そして何より、地名に関心が薄いのです。そのような一般住民に責任を負わせるのは酷です。
はい。「まずいものが見えても」住民に最終決定権を与えるのが正しいと私は本当に考えます。
この問題は実は地名だけではありません。関心の薄い住民だって含まれているでしょう。それでも、住民の意思を問う以外に、誰もが認めうる、手続き的な根拠がないでしょう、ということです。

呆れられているようですが、1つお考えになって下さい。
今回の「藩政村の地名を継承すべき」というのは、「自分たちの住んでいた自治体の名前を地名に残したい」という意見に比べて、万人にとって「正しい」のですか。
いずれも、地名を決定するのにあたっての、1つの立場でしかないように思えます。
だから、いずれを採用するかについては住民に決めさせるしかないでしょう、と申し上げているのです。
千本桜さんから見れば、正しい決定が常に行われるものではないと思います。でも、自分たちの住む地域の名前をそうでたらめに付けるはずもありません。(どちらかというと、「でたらめ」に近い名前は、行政の側から出ているような気がします。)

自治体名を地名に残したい、だけど日常使うので、長い地名は嫌だ、
と思うのはそんなに愚かなことでしょうか。
人間として自然なことではないでしょうか。私だってそう考えるでしょう。
そこで、この地名はこのように残した方が良いものだから、という啓蒙はなされても良いと思います。ただ、後者の立場を強制するのは、現代では無理がありますね、と申し上げているのです。(それが「歴史的地名の継承を強制することはできない」ということです)
石巻市は藩政村の和渕を残し、和渕小学校の住所を石巻市和渕字佐沼川としました。小字を抱えた地域では、大字たる藩政村を残すのが最良です。藩政村を残すことで小字の同名回避を図ることができます。このような地名の決定に一般住民の一人一人が決定権を持ったなら、こんがらかって話が前に進まなくなるのではないでしょうか。
「こんがらがって」の意味が分かりません。住民に意思を問うにあたって、合理的な案があるなら、それを示せばよいことです。その説得力が十分あればそれが選ばれるでしょうし、それが選ばれないということは、合理的だと住民が思わなかったか、それ以外に他の案を選好する、もっと強い理由があったということになります。
「こんがらがって」どころか、当たり前のことが起きるだけと思うのですが。
その動きに賛同した八戸市が市名を日本市に改称しました。これをもって、日本の名を残せて良かったねと喜べるでしょうか。どこでもいいから名前さえ残せば日本という国が存在したことの証明になると言うものではありません。ふさわしい場所に引継がれてこそ歴史を伝えられるのであって、ふさわしくない場所にその名を残すと、何百年後、何千年後に歴史を紐解く妨げになりかねません。大内町大字松崎の一部を大字大内に改称したのも、その類に思えるのです。
ではどこだったら「日本」という名前を継承してよいのですか。(まさか橿原市ではないですよね(笑)。)日本である以上、八戸市も京都市も同じだけの権利はあると思います。
済みません。ちょっと理解できません。松崎に位置するのだから松崎で良いと思いますが・・・。
工業団地が大内という名前を継承するのが正しくないのであれば、もともと工業団地が「大内町」と呼ばれる地域に含まれているのも間違いということになるのじゃないかと思いました。
(対偶ももちろん正しいと思います。)
だからといって、それが最良な出来事だったとは思えません。これから新たに地域と地名を構築していく際に、そのような事例を参照しても意味を成さないと思います。
これは私にとっては本質的なことと思います。
地名はこれまでも変わってきたはずです。文字による記録がなされる前からもそうですし、それからも自然に発生したり、なまったり、新しく成立した権力によって命名されたりといろいろです。
それなのに、なぜある時期に成立した地名に基づかない決定は間違いとされてしまい、住民はそのような決定ができないから、といって意思決定から排除されてしまうのでしょうか。

以上、意見の一致を見るような気がしないですが、こういう考えもあります、ということで書かせて頂きました。


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