レスが遅くなりました。
[61194] 千本桜 さん
大字の大内の件、初耳でした。
「ひょっとすると『大内』は通称で、あくまで正式には『松崎』ではないか」と、淡い期待を胸に
インターネット登記情報サービスで確認してみたのですが、残念ながら正式なものでした。例に挙げて日付を確認すると、
年月日 | 地番 |
H15(2003).3.24 まで | 大川郡大内町松崎200番1 |
H15(2003).3.25~H15(2003).3.31 | 大川郡大内町大内200番1 |
H15(2003).4.1~ | 東かがわ市大内200番1 |
でした。小字はありません。この土地は、大内町土地開発公社が元は所有していましたが、現在では企業に売却済でした。
それにしても、東かがわ市発足とは同時ではなく、大内町の時代に変更していたのですね。もちろん、引田町・白鳥町・大内町合併協議会の第2回協議会
会議資料(pdfファイル)の12/23ページ「町、字の区域及び名称の取扱い」には記載がなく、他の2町には関係なく、旧大内町が独自で決定したものと思われます。この「大字『大内』の設定」の香川県告示については、ネット上には存在せず未確認ですので、図書館へ行く機会に見てみたいと思います。
あの場所のあの区域に大内と言う地名の継承を委ねるのは地理的・歴史的にいかがなものか
(中略)
一般住民は藩政村名と現行町名の係わりを知らないでいること。そして、もしかすると地名決定権を持つ人たちも知らないでいるか、知っていても そのことに重要性を感じないでいることです。
私の今までの主張からみると述べるまでもないとは思いますが、同感です。この考えは、大内に限らず、他地域においても同じです。
藩政村≒大字は、大多数のものは1000年以上の歴史を重ねてきています。明治の大合併時に「(例えば合成して)人為的に作られた」100年少々の期間しか存在していないものや、昭和の大合併時に作成された50年ほどの期間のものとは異なります。ましてや、藩政村の名前は、地元住民による自然発生的なもの(=これこそ本来の「地名」と言えると思う)によるものが多いのではないでしょうか。「○○村にしよう」と、人為的・行政的に新たに造り出したものとは異なると思います。
また、「地名」を、長い歴史の中でたかだか100年しか存在しない「現在の住民」に、恣意的に決定する権利があるのかどうか、個人的には大いに疑問を持っています。「現在の」住民の感覚で判断するからさまざまな誤解が生じるのではないか、と。その地名の対象範囲に拘らず、今回のように「どこでもいいから名称だけを残せばいい」という発想など・・・。
「地名」は、ブランド名・商品名などのように、一時的に流行を追うことを可とする(流行らなくなれば次の名称に置き換えればよい)ものとは本質的に異なるものだと思います。
・・・・・・と、この話は始めると熱くなってしまうので、今回はこのくらいで。
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実は、
試行品は、他の箇所にも要修正箇所がありました。東かがわ市で現行の大字に継承されていない藩政村があったのです。「塩屋村」です。「角川日本地名大辞典 37香川県」(角川書店)によると、現在の東かがわ市引田の一部で、小海川東側の沖積地、由来は当地に安戸新田の塩釜が設けられていたことによる、とのことです。
このあたりになるでしょうか。M8年には塩屋村は戸数56、人口345、反別17町余、です(前掲書、「梶山家文書」よりの孫引き)。現在は小字になっているか、単なる通称かは未確認ですが。
「香川県史」の情報を加えて変遷をたどります。
変更年月日 | 変更種別 | 郡名 | 自治体名 | 変更対象自治体名 |
M11(1878).12.16 | 編入 | 大内郡 | 引田村 | 大内郡引田村,塩屋村 |
M23(1890).2.15 | 村制 | 大内郡 | 引田村 | 大内郡引田村(市制・町村制施行) |
M42(1909).10.1 | 町制 | 大川郡 | 引田町 | 大川郡引田村 |
S30(1955).4.1 | 新設 | 大川郡 | 引田町 | 大川郡引田町,相生村,小海村 |
H15(2003).4.1 | 新設/市制 | | 東かがわ市 | 大川郡引田町,白鳥町,大内町 |
塩屋村は市制町村制・明治の大合併に先駆けて引田村に編入され消滅しました。市制町村制時にはこの引田村が単独で村制し、旧引田村も旧塩屋村も「大字なし」地域です。S30年の合併で旧塩屋村も含めて大字引田となり、現在は「東かがわ市引田」となっています。現在に至るまで、「大字塩屋」は存在しておりません。大字の復活でも、「この旧塩屋村の範囲を大字の塩屋として復活させよう」と言う主張ならば私も賛同できるのですが。
同じM11.12.16付けで、すぐ近隣で8村が合併して大内郡丹生村が誕生しています(
[49209]拙稿)。この8村については、昭和の大合併時に藩政村名が「大字」として復活し、現在も大字として現存されています。塩屋とはすぐ近くなのに対照的です。
ちなみに、この塩屋村の件は、1年半ほど前に千本桜さんと議論した、
高知県高岡郡七里村(現四万十町の一部)についてと同じような例ですね。市制・町村制に先駆けて合併したために、大字引田の範囲が恰も藩政村の引田村であったかのような様相を示しています。
なお、同様に藩政村が明治の市制町村制に先駆けて合併し、現在に至るまで大字としては使用していなかったものが、平成の大合併で復活した例があります。現在の香川県仲多度郡まんのう町です。先に関係部分の変遷の抜粋を記します。
変更年月日 | 変更種別 | 郡名 | 自治体名 | 変更対象自治体名 |
M7(1874).9.28 | 新設 | 那珂郡 | 十郷村 | 那珂郡生間村,後山村,追上村,大口村,買田村,新目村, |
| | | | 山脇村,宮田村,帆山村,福良見村 |
M23(1890).2.15 | 新設/村制 | 那珂郡 | 十郷村 | 那珂郡十郷村,佐文村 |
同 | 新設/村制 | 那珂郡 | 七箇村 | 那珂郡七箇村,塩入村 |
S30(1955).4.1 | 新設 | 仲多度郡 | 仲南村 | 仲多度郡十郷村,七箇村 |
S45(1970).1.1 | 町制 | 仲多度郡 | 仲南町 | 仲多度郡仲南村 |
H18(2006).3.20 | 新設 | 仲多度郡 | まんのう町 | 仲多度郡琴南町,満濃町,仲南町 |
琴南町・満濃町・仲南町合併協議会第6回協議会
議事録(pdfファイル)の9/46ページ(議事録のフッダページ数ではp.5)に、大字十郷内においては従来の小字の一部(帆山,後山,大口,新目,山脇,追上,宮田,買田,生間)を大字とする(ただし「大字」の冠称はしない)とあります。
資料(pdfファイル)の16/99~24/99ページ(資料のフッダペ-ジではp.19~p.27)に詳細があります。
合併前:仲南町大字十郷字帆山東原○○番地
合併後:まんのう町帆山字東原○○番地
藩政村である、「生間」「後山」等の(福良見を除く)9村の名称が、小字の一部が大字として復活しました。従前の小字名を設定するときに、大字にならなかった旧9村の名称を小字名に冠して称したようです。この理由として、議事録では
大字十郷には・・9つの字のグループが存在・・それぞれのグループごとに土地地番が付けられて・・土地標記には必ず字名の表示がなければわからない状態・・現在の自治会の名称も、帆山、後山、大口、新目など
とあります。欲を言えば、「もともと藩政村は帆山、後山等であった。『塩入』『造田』などに相当するのは十郷ではなくこれらものである」と言って欲しかったところではありますが。
そういえば、ある知人が住所を通常は「仲南町宮田○○番地」と標記していたことを思い出します。敢えて「十郷」を省いていたようです。いまは晴れて「まんのう町宮田○○番地」と標榜しているとは思いますが・・・。
少し横道に入ります。資料は前掲の「角川日本地名大辞典」から。
「福良見」は・・・国土地理院の25000分の1の地形図の図幅名にもなっており、馴染みのある方も多いかもしれません。このあたりはちょっと歴史が複雑なので説明を。十郷の説明をするには「七箇村」に触れないといけません。
「七箇村」の地名の由来は、7つの村という意味に加えて「多くの村々」の意味があります。戦国末期頃には七箇村と呼ばれていました。「寛永17年生駒氏惣高覚帳」(生駒氏は松平頼重(徳川光圀の兄)の前の高松藩主)では、
七ヶ村西分:新目・山脇・大口・追上・宮田・生間・買田
七ヶ村東分:本目・春日・小池・照井・帆山・後山・福良見
としています。福良見はこのとおり高松藩領でしたが、寛永18年に丸亀藩が成立した際に、七ヶ村西分7村と、七ヶ村東分のうちの帆山・後山・福良見の一部(西北部の17石余)で丸亀藩の七箇村(総称、西七箇村とも)となり、福良見村は丸亀藩の領地の一部として引き続き存在しました。一方、高松藩側は、七ヶ村東分の4村と福良見村の残余で七箇村(東七箇村とも)となり、残余は福良見村との名称は残らなかったようです。丸亀藩の総称の(西)七箇村(実態は10村)は前掲のようにM7年に十郷村となりました。
十郷村は合併数地名と言えますが、七箇村はそうとは単純には言えないようです。
丸亀藩領となったの福良見村(→十郷村)は、おそらくなのですが
このあたりで、過小のため旧帆山村と一体化したと思われます。現在はまんのう町帆山の一部です。
高松藩領の旧福良見村(→(東)七箇村)は
このあたりで、現在はまんのう町七箇(字福良見)です。昭和の大合併で、寛永から昭和へと約300年ぶりで同じ村になったことになります。
十郷村の各村は今回大字として復活した一方、(東)七箇村の各村(本目・春日・福良見等)が復活しなかったのは、この経緯の違いもさることながら、先述の議事録にもあるような「地番区域」の設定の相違が大きいのでしょう。十郷と異なり、七箇は本目・春日等の単位ではなく、七箇全体が不動産登記法の地番区域です。七箇は「七箇○○番地」で住所は特定できます。十郷は「十郷○○番地」では特定できず、「十郷帆山○○番地」「十郷新目○○番地」としなければ特定できません(純粋な小字(帆山『東原』など)は表記しなくても特定可能)。本目・春日等を冠しなくても土地を特定できたため、大字名としての復活には障害とはなったのかもしれません。当地域(香川県内)では、地番区域はほとんどが大字単位であり、そのためもあって小字を普段意識することはあまりありません。
不動産登記法の地番区域については、拙稿
[41581][48881]をご参照ください。
ついつい長文になり、失礼しました。