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落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[6171]2002年12月9日
Issie
[10904]2003年3月10日
special-week
[12382]2003年4月3日
KMKZ
[14286]2003年4月29日
special-week
[14293]2003年4月29日
special-week
[14611]2003年5月3日
special-week
[27015]2004年4月7日
hmt
[27286]2004年4月14日
烏川碧碧
[56611]2007年2月3日
hmt

[6171] 2002年 12月 9日(月)00:41:09Issie さん
西巣鴨,巣鴨,大塚
[6100] 白桃 さん
[6107] ふぁいん さん
わずか24時間足らず前の書き込みなのですが,ずいぶん下のほうになっちゃってますね。

>旧・西巣鴨町のことですが、現在の池袋周辺一帯がそうらしいです。

そうです。現在の豊島区中央部の池袋地区と大塚地区に当たる部分に相当します。
↓こんなページにリンクしちゃいますが,
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/13_tokyo1.htm#tosima
ご覧のとおり,「西巣鴨町」となったのは町制を施行した1918(大正7)年7月20日のことで(あっ,年が間違ってる!),それ以前は「巣鴨村」でした。すでに「巣鴨町」(現豊島区巣鴨・駒込地区)が存在するので,重複を避けるために「西…」となったのですね。
…というより,それまでは「巣鴨町」と「巣鴨村」が並存していたわけです。
「巣鴨村」は明治の大合併で「(旧)巣鴨村」と「池袋村」などの一部が合併して発足したので,「巣鴨町/巣鴨村」並存状態はそれ以前から,ということになります。
おそらくは,「巣鴨村」とよばれていた地域のうち,中山道沿いの町場の区域が「巣鴨町」として独立したものと思われます。
ともかく当時,この地域では「巣鴨」が最も盛った地区だったのでしょう。

「池袋」が繁華街として浮上するのは実は戦後のことです。
始まりは,品川-赤羽間で開業した現在の山手線(の母胎)に田端への支線が建設され,その分岐点に「池袋駅」が設置されたときにあります。けれども赤羽開業当初には駅が設置されなかったことでわかるように,当時はそれほど重要な場所ではなかったのです。
大正から昭和のはじめにかけて繁華街として成長したのは「大塚駅」周辺でした。市電の終点となったこと,そして当時は独立した私鉄であった王子電気軌道(現都電荒川線)もここを通過したことが大きかったと思われます。
池袋には東上鉄道(現東武東上線)や武蔵野鉄道(現西武池袋線)が乗り入れてくるのですが,繁華街としての成長は大塚に大きく後れを取ります。池袋駅前に都電が乗り入れるのは,実に戦後になってからのことなのです。でも,その後は池袋が急速に成長して,大塚や巣鴨を大きく引き離すことになります。

「大塚」といえば,ちょっと前に話題になった「八犬伝」の最初の舞台でしたね。
最初の主人公は「犬塚信乃」ですが,彼の家は本来「大塚」という名字で武蔵大塚村の庄屋だったが讒訴にあって没落し,名字に点をつけて「犬塚」になった。信乃は主筋の古河公方に仕官するために家宝の名刀「村雨」を持って下総古河へ向かったが,その刀が“なまくら”とすりかえられていて仕官に失敗した上,捕り手の犬養現八に追われた天守閣の屋根の上から現八もろとも利根川へ落ちて…,というストーリーだったかな。
“振れば玉散る氷の刃!”

ところで,この「大塚村」ですが,現在の大塚駅周辺のことではありません。ここは前述のとおり,「巣鴨村」。「大塚」というのは本来,現在の豊島区内ではなく,文京区(旧小石川区)内の地名です。筑波大学附属中・高校(私には“お受験”関係で「東京教育大学附属…」の方がシックリ来るのですが)を駒場の方の附属学校と区別して「大塚」と呼ぶのは正しい用法です。
実は「駒込」も同様。これも現在は文京区本駒込地区が本来の「駒込」で,現在の駒込駅周辺は巣鴨町の一部。“明治の大合併”以前は「染井村」と呼ばれていました。
どちらも山手線の駅が設置されたときに駅の所在地ではなく近くのメジャーな地名をとり,駅周辺に繁華街が成立するにつれてその駅の名前が周辺地区の地名になった,ということでしょうね。
[10904] 2003年 3月 10日(月)10:43:09special-week さん
桜前線

 先日、飛鳥山公園まで出掛ける用事がありました。
 飛鳥山公園といえば、徳川吉宗が享保の改革で江戸町民(江戸って町民でよいの?)のために、金のかからない娯楽として桜を植樹したという歴史的由緒のある公園です(学生諸君、\_( ・_・) ココテストニデマスヨー)
 飛鳥山公園の桜はまだ咲いていませんでしたが、あと1カ月もすれば花見客で昼夜にぎわうでしょう。今から楽しみですな。(雑魚さんにも思い出深いでしょう)
 東京には桜の名所がたくさんありますね。
 代表的なところといえば、上野公園、千鳥が淵、隅田川周辺、渋いところで面影橋周辺も私は好きですが。
 東京になぜ桜の名所が多いのか?これはやはり将軍のお膝元である江戸を中心に江戸期に植樹されたからだと考えられます。桜の中でも代表的な品種のソメイヨシノも駒込の「染井」という地名から命名されたわけですからね。駒込といえば、やはり将軍家ゆかりの六義園も桜の名所です。

 ということで、せっかくこの掲示板で全国津々浦々の猛者がいるのですからここで各地の桜自慢もいいかなあ~なんて緊急思いつき企画です(笑)もちろん、旅で訪れた地の桜でもようござんすよ。
 名古屋ですと山崎川の桜は壮麗で、しかも客が少なくてのんびり見れるいいスポットです。名城大学の正門の坂もとても綺麗ですが、大学の正門前なので酒宴ができません。残念です(笑)
 大学で思い出しましたが、高校・大学名でも「桜」がつく学校名が多々あります。桜美林大学なんて綺麗な響きですね。やっぱり桜と関係あるのかな?

 北海道だと静内駅から馬産地に向かう道に桜並木が続きます。ここは5月下旬ぐらいまで見れるので、本州で5月病に陥った人が訪れるにはお薦めです。
[12382] 2003年 4月 3日(木)20:03:02KMKZ さん
桜吹雪の遠山の金さんのお墓とソメイヨシノ
[12378]夜鳴き寿司屋 さん
「この桜吹雪が目に入らぬか」と遠山の金さんの真似
何年か前に、地図で偶然に遠山の金さん(遠山金四郎景元)のお墓を見つけたことがありました。
改めてネットで調べてみると、「有名人、著名人のお墓案内」のHP内に遠山の金さんのお墓が載っていました。

http://www.kokohe.com/info01/jidai2.html
豊島区巣鴨5丁目 本妙寺 JR山手線 巣鴨駅徒歩10分

別のHPには、お墓の写真が載っていました。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/shin1ro/onihei/oni_doc/tour_7.html#7-3
本妙寺を出ますと,今度は道沿いに染井霊園へ。染井といえば「ソメイヨシノ」の染井。

面白いことに、遠山の金さんのお墓の近くは、江戸時代は染井村と呼ばれた植木屋さんの村でして、
桜のソメイヨシノ(染井吉野)は、ここが発祥の地です。

遠山の金さんって、本当に桜に縁がある方だったんですね。
[14286] 2003年 4月 29日(火)19:03:03special-week さん
駐在所
 本日、駒込駅西口から細い道を染井方向へと歩いてみました。駒込駅の雑踏から一転、急に閑静な住宅街になり、私も東京区部にこんな場所があったのかと驚くばかりでした。緑も多く、鶯の鳴き声も聞こえるのどかな環境。周囲に商店街などがないのが生活上、不便を感じさせるかもしれないけれど、そのことさえ除けば本当にいい環境の場所です。
 そこで駐在所を見つけました。
 駐在所の名前は「そめい駐在所」。そのままですが、山手線沿線にも関わらず、こんな場所に駐在所があることに驚きました。建物自体は古くなく、最近にできたような感じでした。東京都内をはじめとする都心部でも常に警察官がいる駐在所が見直されており、増加傾向にあるのは知っていましたが、まさか山手線エリアにもできているとは驚きでした。
 そこで家に帰ってきて早速、ネットで東京都内の駐在所を検索してみると意外とたくさんありますね。しかも染井どころか渋谷にも近い恵比寿にも立地しているではありませんか。この恵比寿南駐在所は、渋谷区管内では唯一の駐在所ということです。
 しかし調べていくうちに東京区部だけでもたくさん駐在所があることが分かりましたので、ちょっと表にしてみたいと思います。

管轄警察署名駐在所名
中野署青原寺駐在所
月島署リバーシティ駐在所
大崎署長者丸駐在所
荏原署洗足駐在所
世田谷署桜木駐在所
玉川署等々力不動前駐在所尾山台駐在所
成城署八幡山駐在所喜多見駐在所上祖師谷駐在所松葉通駐在所鎌田駐在所
目黒署駒場1丁目駐在所
碑文谷署東が丘駐在所
渋谷署恵比寿南駐在所
戸塚署下落合3丁目駐在所
野方署白鷺駐在所上鷺宮駐在所
杉並署成田西駐在所
高井戸署大宮八幡駐在所久我山4丁目駐在所宮前駐在所富士見ケ丘駐在所
荻窪署神明駐在所
巣鴨署染井駐在所
王子署豊島5丁目駐在所
板橋署桜川3丁目駐在所
高島平署徳丸駐在所
練馬署氷川台駐在所
光が丘署高松駐在所旭町駐在所
石神井署東大泉駐在所武蔵関駐在所石神井南駐在所
下谷署天王寺駐在所
竹の塚署舎人駐在所古千谷駐在所
綾瀬署足立駐在所
向島署堤通駐在所
亀有署西水元駐在所水元駐在所亀田橋駐在所青戸北部駐在所青戸南部駐在所
小松川署椿町駐在所
葛西署宇喜田駐在所東葛西9丁目駐在所
小岩署上一色駐在所上篠崎駐在所北小岩駐在所

 なお、駐在所がない23区内の警察署は、
麹町署、丸の内署、神田署、万世橋署、中央署、久松署、築地署、愛宕署、三田署、高輪署、麻布署、赤坂署、東京水上署、品川署、大森署、蒲田署、池上署、東京空港署、北沢署、原宿署、代々木署、牛込署、新宿署、四谷署、富坂署、大塚署、本富士署、駒込署、池袋署、目白署、滝野川署、赤羽署、上野署、浅草署、蔵前署、尾久署、南千住署、荒川署、千住署、西新井署、深川署、城東署、本所署、葛西署



 特別区は23区なのに警察の管轄は74もあるようで。3倍以上です。どうしてこんな管轄区域になったのでしょうか。警視庁の再編もそのうち行われるかもしれません。
 そして駐在所を列挙しているうちにちょっと特徴らしきものがあることに気が付きました。江戸時代から開けていた下町地域に比べて、山手エリアや新興住宅地の方が駐在所が立地されやすいようです。知らないもの同士が隣り合う町内では、やはり警察機構を設けて安全を図ろうという意図があるんでしょうか。下町の人なんて、みんな顔馴染ですからねえ。
[14293] 2003年 4月 29日(火)20:40:02special-week さん
霊園の公園化
 谷中、染井、雑司ヶ谷、青山の都立4霊園を公園化して、広く都民の憩いの場になるようとの計画が既に発表されていますが、この計画、本日染井霊園を散策してきて、施行されたら面白いかもしれないと思いました。今日で4霊園すべて制した私ですが、青山霊園以外の3霊園は東京のまちなみとは一線を画しており、ちょっと府に気が違います。とても牧歌的であり、東京の未開の地とでも言えそうです。
 特に今日散策してきた染井霊園は、駒込駅から歩いても15分ぐらいあり、東京23区最後の「陸の孤島」とでも呼べるような雰囲気です。近所の住宅も昔ながらの家屋で、細い路地、長屋が立ち並んでいました。
 染井霊園の北方は都電荒川線の利用圏になるのですが、自家用車も通行しづらく、地元以外の人が入り込んだら必ず迷うことでしょう。そんなくねった道です。
 谷中霊園もどうような感じでしたが、営団地下鉄千代田線の開通により、千駄木からのアクセスも可能になったためにまだまだ面影は残しているものの、ちょっとした下町ブームの影響で、古い家屋は減っていますし、昭和を感じられる個所も消失しつつあります。
 雑司ヶ谷はサンシャイン60を眺められるほどの立地ですが、近隣はいたって静かで、サンシャインは見えるものの池袋に距離を感じさせてくれます。
 古い街並みがなくなっていくのは時代の流れで仕方のないことですが、川越のように積極的に古い街並みを保存しようとしている自治体もありますね。
 とは言えども、見ている側は「保存したい」と言い、保存しなければならない住民側にとってはとても労力のかかるものであるとは思います。

 染井霊園の公園化がどのような手法でなされるのかは、私は存じませんが、都内(特に山手線内側)には珍しい青々とした緑木。風もさわやかに感じられ、散策しているだけで気持ちよくなってきます。長く歩いていても疲れを忘れてしまいますね。
[14611] 2003年 5月 3日(土)19:58:54special-week さん
江戸の薫り

 本日は天気が良いので、白山通りおよび本郷通りをひたすら歩いてきました。
 先日も染井については触れたのですが、この一帯は、六義園もあるように将軍家ともゆかりの深いエリアです。山手線内側にも関わらず、寺社が建立されていてちょっと都会と言ってしまうとそぐわない雰囲気ですね。
 さてここらを歩いていて思うのは、地名と町会名が必ずしも一致しないということですね。染井も同様、染井町会といった言い方をしますが、染井という町名はないです。本郷通り沿いには、富士見町会というのがあったのですが、これは以前の駒込富士見町が由来ですね。
 つまり、町会の方が江戸時代から残る地名を残していると言えそうです。[7964]でも触れましたが、近年では昔の町名復活も考えられていますからもしかしたらこういった町名の復活もあるかもしれません。本郷通り沿いには「吉祥寺」なんて町会もありますから町名として復活したら若者のまちの吉祥寺と混同しそうです。
 ところで江戸の範囲ってどこまでだろう?
[27015] 2004年 4月 7日(水)18:37:44hmt さん
児島高徳・染井吉野・春爛漫
[26930]白桃 さん
「テンコウセンヲムナシュウスルナカレ」

1914年の小学唱歌「児島高徳」 http://www.owasechojuen.or.jp/karaoke/shi/02s-ka/05ko12-kojima-takanori.html ですね。2番の歌詞は正しくは「…桜の幹の…」。越王勾践を助けた范蠡(ハンレイ)の故事をふまえた太平記の物語です。
君の御座ある御宿の庭に大なる桜木有けるを、押削りて大文字に、一句の詩をぞ書付けたりける。
天莫空勾践 時非無范蠡

[26950]なおさん
後醍醐天皇が見てた桜は東京の染井の職人が『ソメイヨシノ』に改良したといわれる、吉野の桜でしょうか?

児島高徳が幹を削って十字の詩を書いた院庄の桜は、西日本に多い「ヤマザクラ」である可能性が大きく、これは後醍醐天皇ゆかりの吉野山の桜でもあります。
一方、「ソメイヨシノ」は、白い大きな花の「オオシマザクラ」と美しいピンク色をした「エドヒガン(江戸彼岸)」の交配種とされています(国立遺伝学研究所の竹中要博士)。この品種は、江戸郊外染井の植木屋が「吉野桜」として売り出して江戸時代末期から普及しましたが、1885年に博物局(現東京国立博物館)の植物学者・藤野寄名が、実際に吉野山にあるヤマザクラとは別の品種であり紛らわしいので、「染井」を付けて「ソメイヨシノ」と命名したとされています(日本園芸会雑誌1900年)。なおさんの投稿で、「ヨシノ」ブランドを捨てきれなかったツケがまだ尾を引いていることを感じました。

さて現在も染井霊園に地名を残している「染井」。
江戸東京重ね地図 http://www.cd-v.net/rakugo/cgi-bin/shoping/maker/app/edo/main.html を見ると、豊島区駒込6丁目に現存する西福寺付近から西の方へかけて、11軒の植木屋が並んでいます。
染井の藤堂家下屋敷や駒込の柳沢家下屋敷(六義園)をはじめとする大名・上級武士・豪商などの広大な庭園をもつ上得意だけでなく、江戸市民に広がった園芸ブームにより、江戸の園芸センター・染井の里は大いに繁盛したようです。

アーカイブズ「春爛漫 桜を見に行こう」 http://uub.jp/arc/arc189.html で、日本全国だけでなく 外国までを含む各地の桜を楽しませていただきました。
花の吉野山の千本桜もちょっぴりだけ登場。
千本桜と言えば軒下提灯さん。なかなか現れず、やきもきしながら読み進むと 最後に登場。
さすが真打。めでたしめでたし。
[27286] 2004年 4月 14日(水)16:09:04【1】烏川碧碧 さん
駒込・本駒込
かつて本駒込の住人でした(豊島区駒込にも少なからぬ縁がありますが)。


[27277] 愛比売命 さん
これも藤沢と同じく、住居表示された町名と駅名のどちらが先かは詳しくは無いのですが、

その後、町名も住居表示実施されるときに駅名に合わせて付けられたのかなって勝手に推測しております。

私の説明不足でした。
東京メトロ(営団)南北線本駒込駅の開業は1996年と新しく、「本駒込」の住居表示から何十年も経ってのものです。それで「少し違うのかな」と思ったわけです(「少し」の所以は「本駒込」の住居表示自体が同名回避によるものである可能性を排除しきれなかったので)。
「本駒込駅」は文京区本駒込の南端にあるため、もし、先行する「駒込駅」(文京区本駒込の北隣、豊島区駒込との境あたりにある)が別の駅名であったとしても、あえて積極的に「駒込駅」を名乗る理由がないような気がしました(古くからの住民の感情等は私にはわかりませんが)。「本駒込」でなければ「向丘」(本駒込の南側の住居表示)でしょうか。

結局のところ、「駒込」の中心はどのへんにあったのか?といったことが関係してくると思います。

[27242] 烏川 では、
昔の駒込村の中心集落がどちらにあったかは知りませんが、文京区の駒込の方は、旧・本郷区ということで「本」が付いたという説も
としか書いていなかったのですが、個人的な印象としては、

駒込南部(現・文京区本駒込ほか)……江戸(東京)の事実上の市街
(人口に膾炙した表現に、「かねやすまでは江戸の内」というのがありますが、その「かねやす」のすぐ外側――北側から、だいたい、駒込が始っています)

駒込北部(現・豊島区駒込)……江戸(東京)の郊外
(植木の街・染井を含み、さらに北に抜ければ飛鳥山など)

――といったところで、少なくとも幕末・明治以降は、駒込としての「中心」を見出すには江戸(東京)の中心部に近過ぎるような気がします。実際に歩いてみた雰囲気も、豊島区駒込の方がどことなく田舎っぽいように思われます。

ですから、文京区の駒込が「本駒込」の住居表示を行ったときに、
こっちのほうが元祖なんだぞという意味も込めて
と想像することは、私も、そういう意識もあったのかもしれないな、と思います。


ところで、そろそろ駒込駅のツツジがきれいな頃ですね。


※本駒込駅の位置について訂正しました。向丘も元は駒込でしたから、その辺りに配慮すれば同名回避説が強化される可能性がありますね。
[56611] 2007年 2月 3日(土)19:39:34hmt さん
江戸の市街地図(2)江戸・明治・現代比較図、復元江戸情報図
[56540] 敷守ほむら さん
Yahoo!地図情報 - 古地図で東京めぐり
[56563] アルバトロス さん
この手のものは好きですね、はまります。期間限定といわづずっと続けてほしいものです。

実は、30年前から 「はまって」 いるのです。
1977年、平凡社から「太陽コレクション・地図・江戸明治現代」の第1号として「江戸・東海道」が刊行されました。
# 本稿を書くにあたり参照しようとしたのですが、手元に見当たりません。
江戸の切絵図のいくつかの地点について、明治の東京地図、現代の地図と並べて示し、対比するというもので、今回ネット上で行なわれている企画の直接の先祖でしょう。
幕末の江戸切絵図が、あまりにも大幅なデフォルメがなされており、明治や現代の地図と重ね合わせるのは無理があることは、この時に認識しました。

1977年の時は江戸府内のいくつかの地点を取り上げただけでしたが、その後、点から面へと進み、「江戸東京大地図、地図にみる江戸東京の今昔」(平凡社1993年)では、およそ明治16~17年陸軍測量局測量・東京五千分一図の全域にわたり、江戸切絵図(尾張屋板)・明治測量図・現在の地図・航空写真の並置が試みられています。新宿・渋谷など五千分一区域外は、明治42年一万分一により補足。

1994年になると、江戸図の世界に新たな動きがありました。
グラフックデザイナーの中川惠司氏が、江戸史研究者の吉原健一郎・俵元昭両氏の参画を得て安政3年(1856)の江戸を復元した地図を発表したのです。「復元・江戸情報地図」(朝日新聞社1994年)

幸いにも平和裏に行なわれた江戸開城により、江戸の町は大規模な改変を免れて、武家屋敷の地割りと旧政権の文書は概ね明治の東京に引き継がれました。幕末文書に収められた武家屋敷の面積情報、居住者情報などを、近代測量技術による明治の地形図の位置情報と組み合わせることで、幕末の江戸市街図を再現することができました。
基本資料として使われたのは、「諸向地面取調書」というリスト、前記の「御府内往還其外沿革図書」「御府内場末往還其外沿革図書」という図面その他です。参考文献リスト

1994年の「復元・江戸情報地図」は、36面のグリッド分割地図で、主として尾張屋板切絵図の表現法を使っています。色分けでは公儀用地の紫を追加、大名の家紋なども同じように付いています。範囲はおおよそ朱引き内。現代の東京地図を単色で重ねることにより、位置を対比しています。

2001年にエーピーピー・カンパニーによって製作されたCD-ROM「江戸東京重ね地図」では、この江戸地図と東京地図とが、重ね合わせたレイヤによって連続的に移行 できるようになりました。シームレスな地図をスクロールにより移動できることと共に、デジタル時代の地図の便利さに感心したものです。

更に2004年には、明治40年(1907)の東京地図が加わった「江戸明治東京重ね地図」がDVD-ROMで市販されています。
商品一覧紹介記事

市販品のことはさておき、せっかくなので無料のYahoo! 古地図を拝見。
今回、Yahoo!が公開している「古地図」は、上記のように、20世紀の末頃に復元された江戸図というわけです。
新旧の対比が「重ね地図」方式でなくて並置切り替え方式であること、江戸・明治・現代に加えて航空写真を含めていることは、1993年の「江戸東京大地図」(平凡社)に近いものと言えるでしょうか。

辛うじて朱引き内ですが、西のはずれに近い新宿。
明治の新宿駅を見ると、青梅街道に面した専売局工場の隣に「甲武線電車乗降場」あります。甲州街道口と青梅街道口との“二つあった新宿駅”の双方に電車が停車した時代です[36207]
所在地の「字渡辺土手際」を江戸時代に遡ると、「火消役・渡辺図書助」。五千石ですが、甲州街道に面した大きな旗本屋敷です。その甲州街道には玉川上水が流れ、天竜寺の横から千駄ヶ谷・原宿[48334] [48626]への分水。
内藤新宿の追分から北に目を転じると、「三光院」とあるのが現在の花園神社。三光町の名の由来ですね[44124]。その北側を流れているのが蟹川で、明治に切り替えると「字新田裏」[44006] と書いてあります。

新宿近辺の歴史に関する記事は、アーカイブズ新宿・角筈散歩[48626]の中でリンクした「角筈・三光町・新田裏」にありますが、このような江戸・明治の地図を参照しながら見ると、一段と興味深いことと思われます。

所は変って「ソメイヨシノ」にその名を残す江戸の園芸センター・染井[27015]
無料のYahoo!古地図は花見の季節が到来する前に終了しそうですが、豊島区駒込6丁目に現存する西福寺付近の藤堂屋敷門前から西にかけて並んだ11軒の植木屋を、江戸の地図で確認することができます。
1994年の本では“此辺染井植木屋多し”と書いてあるだけでしたが、その後他の資料により書き入れたのでしょう。
明治の地図では「字染井」や藤堂邸はあるが、植木屋は消えています。


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