[56540] 敷守ほむら さん
Yahoo!地図情報 - 古地図で東京めぐり
[56563] アルバトロス さん
この手のものは好きですね、はまります。期間限定といわづずっと続けてほしいものです。
実は、30年前から 「はまって」 いるのです。
1977年、平凡社から「太陽コレクション・地図・江戸明治現代」の第1号として「江戸・東海道」が刊行されました。
# 本稿を書くにあたり参照しようとしたのですが、手元に見当たりません。
江戸の切絵図のいくつかの地点について、明治の東京地図、現代の地図と並べて示し、対比するというもので、今回ネット上で行なわれている企画の直接の先祖でしょう。
幕末の江戸切絵図が、あまりにも大幅なデフォルメがなされており、明治や現代の地図と重ね合わせるのは無理があることは、この時に認識しました。
1977年の時は江戸府内のいくつかの地点を取り上げただけでしたが、その後、点から面へと進み、「江戸東京大地図、地図にみる江戸東京の今昔」(平凡社1993年)では、およそ明治16~17年陸軍測量局測量・東京五千分一図の全域にわたり、江戸切絵図(尾張屋板)・明治測量図・現在の地図・航空写真の並置が試みられています。新宿・渋谷など五千分一区域外は、明治42年一万分一により補足。
1994年になると、江戸図の世界に新たな動きがありました。
グラフックデザイナーの中川惠司氏が、江戸史研究者の吉原健一郎・俵元昭両氏の参画を得て安政3年(1856)の江戸を復元した地図を発表したのです。「復元・江戸情報地図」(朝日新聞社1994年)
幸いにも平和裏に行なわれた江戸開城により、江戸の町は大規模な改変を免れて、武家屋敷の地割りと旧政権の文書は概ね明治の東京に引き継がれました。幕末文書に収められた武家屋敷の面積情報、居住者情報などを、近代測量技術による明治の地形図の位置情報と組み合わせることで、幕末の江戸市街図を再現することができました。
基本資料として使われたのは、「諸向地面取調書」というリスト、前記の「御府内往還其外沿革図書」「御府内場末往還其外沿革図書」という図面その他です。
参考文献リスト
1994年の「復元・江戸情報地図」は、36面のグリッド分割地図で、主として尾張屋板切絵図の表現法を使っています。色分けでは公儀用地の紫を追加、大名の家紋なども同じように付いています。範囲はおおよそ朱引き内。現代の東京地図を単色で重ねることにより、位置を対比しています。
2001年にエーピーピー・カンパニーによって製作されたCD-ROM「江戸東京重ね地図」では、この江戸地図と東京地図とが、重ね合わせたレイヤによって
連続的に移行 できるようになりました。シームレスな地図をスクロールにより移動できることと共に、デジタル時代の地図の便利さに感心したものです。
更に2004年には、明治40年(1907)の東京地図が加わった「江戸明治東京重ね地図」がDVD-ROMで市販されています。
商品一覧 と
紹介記事
市販品のことはさておき、せっかくなので無料のYahoo! 古地図を拝見。
今回、Yahoo!が公開している「古地図」は、上記のように、20世紀の末頃に復元された江戸図というわけです。
新旧の対比が「重ね地図」方式でなくて並置切り替え方式であること、江戸・明治・現代に加えて航空写真を含めていることは、1993年の「江戸東京大地図」(平凡社)に近いものと言えるでしょうか。
辛うじて朱引き内ですが、西のはずれに近い新宿。
明治の新宿駅を見ると、青梅街道に面した専売局工場の隣に「甲武線電車乗降場」あります。甲州街道口と青梅街道口との“二つあった新宿駅”の双方に電車が停車した時代です
[36207] 。
所在地の「字渡辺土手際」を江戸時代に遡ると、「火消役・渡辺図書助」。五千石ですが、甲州街道に面した大きな旗本屋敷です。その甲州街道には玉川上水が流れ、天竜寺の横から千駄ヶ谷・原宿
[48334] [48626]への分水。
内藤新宿の追分から北に目を転じると、「三光院」とあるのが現在の花園神社。三光町の名の由来ですね
[44124]。その北側を流れているのが蟹川で、明治に切り替えると「字新田裏」
[44006] と書いてあります。
新宿近辺の歴史に関する記事は、アーカイブズ
新宿・角筈散歩や
[48626]の中でリンクした「角筈・三光町・新田裏」にありますが、このような江戸・明治の地図を参照しながら見ると、一段と興味深いことと思われます。
所は変って「ソメイヨシノ」にその名を残す江戸の園芸センター・染井
[27015]。
無料のYahoo!古地図は花見の季節が到来する前に終了しそうですが、豊島区駒込6丁目に現存する西福寺付近の藤堂屋敷門前から西にかけて並んだ11軒の植木屋を、江戸の地図で確認することができます。
1994年の本では“此辺染井植木屋多し”と書いてあるだけでしたが、その後他の資料により書き入れたのでしょう。
明治の地図では「字染井」や藤堂邸はあるが、植木屋は消えています。