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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[62368]2007年11月3日
グリグリ
[62370]2007年11月3日
Issie
[62373]2007年11月4日
雪の字
[62375]2007年11月4日
Issie
[62377]2007年11月4日
hmt
[62379]2007年11月4日
faith
[62386]2007年11月4日
北の住人
[62392]2007年11月5日
雪の字
[62394]2007年11月5日
hmt
[62501]2007年11月13日
北の住人
[62539]2007年11月16日
hmt

[62368] 2007年 11月 3日(土)21:38:35オーナー グリグリ
都道府県
過去記事にあるのかも知れませんが(記憶にはありません)、「都道府県」という用語はいつできたのでしょうか。何故、「都・道・府・県」の順番に並んだのでしょうか。「都府道県」「都府県道」などでもおかしくないように思いますが(都府県道は別の意味になってしまうかな)。
[62370] 2007年 11月 3日(土)22:43:53【1】Issie さん
Re:都道府県
[62368] グリグリ さん
過去記事にあるのかも知れませんが(記憶にはありません)、

ずっと前にあったかもしれませんね。
「地方行政官庁」を並列する際の呼称,という意味でなら,
「府県制」が「道府県制」と改称され,それまで北海道(という名前の地方)における自治体の法人としての呼称であった「北海道地方費」がこの改正法律の附則によって「道」と呼ばれることになった1946年9月,あるいは「地方自治法」施行に際して「北海道庁官制」が廃止されて地方官庁としての「北海道庁」が地方自治体としての「北海道」にかわった1947年5月3日,といえるのかもしれません。

「都道府県」に至る流れをおさらいすると…

1)初めに「府藩県」という呼称が成立した。
・王政復古によって成立した明治新政府は,慶応4(明治元)年閏4月21日(太陽暦1868年6月11日)に 政体書 を発し,地方官庁として「府,藩,県」を置くこととした。府→藩→県 というのは,政体書の第12条「官職」に記載されている順番。
「府」と「県」は明治政府の直轄地に置かれる。当初,「府」は(江戸)町奉行や遠国奉行の支配地など各地に設置されたが,明治2年7月17日(太陽暦1869年8月18日)の布告により,京都・東京・大阪の3府に限定される。この措置から「府」が「県」よりも上位であることが推察される。
「藩」は,大名改め“諸侯”の支配地。明治2年6月17日の 版籍奉還 により,諸侯は天皇(政府)により任命される地方長官,すなわち「知藩事」とされ,「藩」が正式な地方行政官庁となる。
この地方制度を「府藩県三治制」と呼ぶ。

2)廃藩置県 (明治4年7月14日;太陽暦1871年8月29日)により「藩」が廃止。地方行政官庁として「府」「県」が残る。

3)1886年1月,北海道3県(札幌・函館・根室)が廃止されて,「北海道庁」が設置される。以後,地方官庁を並列する際には「庁府県」という呼称が用いられるようになる。

4)1943年7月に「東京都制」が施行されて「東京都」が設置,地方官庁の首位に置かれる。

5)1946年9月に「府県制」の改正に際して「北海道会法」と「北海道地方費法」が廃止されて「府県制」に統合される(同法は「道府県制」と改称)。
・なお,この府県制改正は,それまで“官選”であった知事・長官(東京都,北海道庁)を住民による直接選挙による“公選制”とすることが主たる目的であった。東京都と北海道の住民が1947年4月5日の「第1回統一地方選挙」で選んだのは「知事」ではなく「長官」である。

6)1947年5月3日,新憲法および地方自治法施行により,「道府県制」「東京都制」が廃止。「東京都」も「北海道(庁)」も各府県も等しく 地方自治法 による自治体(普通地方公共団体)となる。

「北海道開拓使」ないし「開拓使」が置かれていた時期には「使府県」という呼称が行われていたような気がしないのでもないのですが,確認していません。
また,地方官庁として並列する場合には「庁府県」ですが,「道府県」という呼称も「北海道庁」存在時にも行われていたかもしれません。これも未確認です。

当たり前のことですが,少なくとも「都道府県」の4つがそろう1943年7月1日以前ではないことだけは,確かですね。
順番は…,結局は“過去の歴史の蓄積”ということなのでしょうかね。「庁府県」なのは,どうも 北海道庁 が他の一般府県よりも上位に置かれていたせいであるようです。たとえば,俸給の面でも 北海道庁長官 の方が 府県知事 よりも高給でした。逆に言えば,「東京府知事」の地位はそれほど高くなかったのですね。
でも,東京都が設置されると,他の府県知事や北海道庁長官が「勅任官」(天皇の命令で任命する)とされたのに対して,「東京都長官」は 内閣総理大臣 などと同じ「親任官」(天皇が直接任命する)とワンランク上に位置づけられていました。
だから“長官”(知事を含む)のランクから言えば,都→道→府→県 という順番なのでしょうね。
(この部分,百瀬隆『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年,吉川弘文館 を参照)
[62373] 2007年 11月 4日(日)05:49:40【1】雪の字 さん
「都道府県」の起源
ご無沙汰しております、雪の字です。

[62368] グリグリ さん
「都道府県」と言う言葉がいつから使われるようになったのかは、私もずっと気になっていました。樺太の地方制度について調べていくうちに、ふと気になったのがきっかけでした。
「落書き帳」の過去ログを検索してみたりしましたけれど、本格的に「都道府県の起源はいつなのか?」と調べるまでには至っておらず、残念ながら、はっきり「これだ!」と申しあげる根拠は、未だ発見できておりません。
ご参考までに、これまで気づいたことをご紹介したいと思います。

なお、以下は「都道府県」と言う「言葉」の起源について考えてみたものです。制度上の「都道府県」については、これまで幾人もの方が詳しく書いておられますので、そちらをご覧下さい。
「地域」と「自治体」を混同なさらないよう、お願いいたします(グリグリさんをはじめ、ほとんどの方には申し上げるまでも無いことですけれど)

まず、既に[62370]でIssieさんも書いておられる通り、「都」の出現が昭和18年です。
このとき、従来の「庁府県」と合わせて「都庁府県」という言葉が現れます。例としては、昭和18年勅令第548号「地方行政協議会令」などがあります。
そして、この時点で、「道府県」と言う言葉は既に存在していました。
北海道を「道」と略すことは、意外ですけれど、「北海道庁」時代にも行われていました。いくつかの法令などでも、「道府県」という言葉が使用されています。起源はかなり古いようで、私がこれまで目にした中で最も古いものは、明治40年の「師範学校生徒定員ニ関スル件」(勅令第347号)です。
(これ以前の使用例をご存じの方がおられましたら、ご教示頂ければ幸いです。なお、明治19年の「師範学校令」(勅令第13号)では、「府県」という言葉が使われています)
このように、昭和18年には、「庁府県」と同時に「道府県」と言う言葉が存在しており、前者については「都」と合わせて使われています。
このことから考えると、「都道府県」という言葉も、昭和18年に使われ始めた可能性がきわめて高い、と思います。

とはいえ、実際の使用例は未確認ですから、現実の起源は、やはり制度と同じ「地方自治法」以降かもしれません。曖昧なことしか申し上げられず、恐縮ですけれど、この一文がさらなる話題の呼び水となればと思い、あえて書き込みさせて頂きました。


[59383]以降にレスを下さったみなさん
時機を逸してしまい、反応することができず、失礼しました。
いろいろご教示くださり、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
[62375] 2007年 11月 4日(日)11:56:49【3】Issie さん
続・都道府県
[62373] 雪の字 さん
北海道を「道」と略すことは、意外ですけれど、「北海道庁」時代にも行われていました。いくつかの法令などでも、「道府県」という言葉が使用されています。

補足をありがとうございます。
「師範学校生徒定員ニ関スル件」(勅令第347号) の現物を今,目にすることができないので,ここで使われる「道」が“地方官庁としての「北海道庁」”を意味するのか,“地方区分としての「北海道」”を意味するのか,どちらかわからないのですが,後者の意味として「北海道」を「道」と称することはあると思います。

「東京府」とか「神奈川県」などの府県名は,“地方官庁の名前”であると同時に“地方区分の名前”でもあります。前者を「北海道庁」「樺太庁」,後者を「北海道」「樺太」と呼んで区別できる両地域とは違って,“内地”の府県はこの二面性があるために,むしろややこしくなるのかもしれません。
が,この後者,“地方区分”の単位を並列するときには,「道府県」という呼称が成り立つのだろうと思います。

「蝦夷地」を改称した「北海道」(明治2年8月15日:太陽暦1869年9月20日)という地方区分名の由来には,さまざまな説明があるわけですが,“内地”の地方区分との整合性を考えれば,「東海道」以下の7道と同格のものであると思われます。それは,「北海道」を 渡島国 以下11の「国」に分け,各国をさらに「郡」に分ける,道・国・郡制を内地と同様に採っていることからも分かります。
まず,「道」が「国」よりも大きな地方区分単位であることは明白です。ただ内地では,本来は道国郡とは全く別系統の制度である「府県」で分けることが行われて,「東海道」以下の7道は行政上の地方区分としては,ほぼ廃れてしまいました。

本来別系統ですから,「道」と「府県」の上下関係あるいは包摂関係を考察することはできないのですが,1つだけ手がかりとなるのは 北海道 に「県」が設置されていた4年間(1882~86年)。「北海道」の中に「札幌県」「函館県」「根室県」の3県が設置されていたわけだから,「道」の方が「県」よりも“大きな”単位であることが推察できそうです。そういえば,「箱館府」が設置されたこともありました(ただし,「北海道」設置前に廃止)。
とりあえず,区分の大きさという点では「府」と「県」が“同格”であると考えれば,「道>府県」ということになるのかもしれません。
いや,こんな回りくどいことを考えなくても,「道府県」という順序はその大きさから感覚的に理解できそうです(この場合,「府」の方が「県」よりも上位であるという暗黙の了解があってのことですが)。

最後に登場した「都(と)」が首位に躍り出るのは,結局のところ「都(みやこ)」であることに尽きるのでしょう。むしろ,[62370] で触れた「東京府」の地位の低さの方が,(今日の目から見れば)驚きの対象です。が,実際,東京府知事には他の45人の知事が持っている“警察権”を(形式的にも)持っていなかった(各府県における警察の責任者は知事であるが,東京府のみ 警視総監 とされ,知事の指揮下にはなかった)ことをはじめ,46人の知事の中で最も権限の少ない知事だったかもしれません。
その警視総監も,1943年には 東京都長官 の指揮下(制度上は,長官が兼任する 関東信越地方総監 の指揮下)に入り,「都長官」の地位・権限は大きなものであったようです。
ま,「都」が首位であるのは当然,というのは理解できることでしょう。

今さら参考にする必要もないことですが,ついでに 律令官制 にさかのぼってみると,現在の道府県知事に相当する「国守」(国司の長官)と東京都知事に相当する「左京大夫(さきょうだいぶ)/右京大夫」(京職[きょうしき]の長官)」を比較すると,前者は大国(国は大きさないし重要度により 大・上・中・下 の4等級に区分された)の守(かみ)で“従五位上”,後者は“従四位下”で3ランクも上に位置づけられています。上国の守は“従五位下”が相当とされていますが,これは京職の次官,つまり 東京都副知事 に相当する「左京亮(さきょうのすけ)/右京亮」と同格です。
都(みやこ)を管轄する役人の地位は,地方官よりも高かったのです。
もちろん,20世紀も半ばになってこのようなものを参考にしたわけもないでしょうが,「都(と)」の位置づけは,やっぱり高いのですね。
[62377] 2007年 11月 4日(日)12:31:53【1】hmt さん
「都道府県」という用語は、昭和18年7月1日の東京都制と同日に誕生
[62368] オーナー グリグリ さん
過去記事にあるのかも知れませんが(記憶にはありません)、「都道府県」という用語はいつできたのでしょうか。
[62370] Issie さん
当たり前のことですが,少なくとも「都道府県」の4つがそろう1943年7月1日以前ではないことだけは,確かですね。
[62373] 雪の字 さん
昭和18年…従来の「庁府県」と合わせて「都庁府県」という言葉が現れます。例としては、昭和18年勅令第548号
昭和18年には、「庁府県」と同時に「道府県」と言う言葉が存在しており、前者については「都」と合わせて使われています。
このことから考えると、「都道府県」という言葉も、昭和18年に使われ始めた可能性がきわめて高い、と思います。

日本法令索引 により、法令名に現れた「都道府県」という用語を調べてみました。

それによると、制定時の昭和16年10月1日には「道府県農業再保険審査会規程」(勅令889)の題名が、昭和18年7月1日の東京都制と同日に「都道府県農業再保険審査会規程」と改正されています。
農林省令の「都道府県農業共済保険審査会規程施行規則」も、同日の改正で「道府県…」から変ったようです。

この昭和18年よりもずっと前から、「北海道庁」を「府県」と併称する「道府県」という言葉が存在したことは、雪の字 さんの発言にある通りです。明治40年の勅令よりも前、明治38年の大蔵省令 を早い事例として示しておきます。
北海道罹災救助基金法第4条及罹災救助基金法第16条第2項に依り道府県罹災救助基金管理方法左の通指定す

もっと前に遡ると、明治35年の 司法省令第4号 では、
監獄費ヨリ北海道地方費及府県ニ償還スヘキ費額
というように、「北海道地方費」と「府県」とを書き分けていますから、日露戦争頃が分かれ目でしょうか。

「北海道地方費」という言葉については、過去記事 でも触れていますが、上記の例に示されたように、北海道庁の管理する「費用区分」としての使い方が正統的なもののような気がします。

北海道(という名前の地方)における自治体の法人としての呼称であった「北海道地方費」[62370] Issie さん
のように、北海道地方費そのものが北海道庁とは別の「法人」だったという根拠があれば、考えを変えなければならないのですが。

[62368] オーナー グリグリ さん
過去記事にあるのかも知れませんが

冗談めかした言い方ですが、かつて[53577]において、こんなことを書いたことがあります。
「北海道庁」と呼ばれたことは聞いていましたが、「北海道地方費」という地方自治体があったとは初耳であり、かつ意外でした。
昔は「都道府県市区町村」は「都費府県市区町村」だったの? いや、1943年より前、「都」も「特別区」もなかった戦前だから「費府県市町村」?
でも、やっぱりおかしいな…というのが、率直な気持ちです。

【追記】
本文で記した明治38年の大蔵省令の例示は、[62373] 雪の字 さんの発言
明治40年の「師範学校生徒定員ニ関スル件」…(これ以前の使用例をご存じの方がおられましたら、ご教示頂ければ…
に応じたものだったのですが、[62385]で記したように、「師範学校…」が明治30年の勅令だったので、明治38年の使用例を示すことは無意味だったようです。
[62379] 2007年 11月 4日(日)14:57:04faith さん
北海道及び府県
[62377] hmt さん
もっと前に遡ると、明治35年の 司法省令第4号 では、
監獄費ヨリ北海道地方費及府県ニ償還スヘキ費額
というように、「北海道地方費」と「府県」とを書き分けていますから、日露戦争頃が分かれ目でしょうか。
明治34年(1901年)の北海道会法(法律第2号)、北海道地方費法(法律第3号)によって、(島としての)北海道全体をカバーする自治体が初めてできたわけで、それまでは道と府県を並列する必要がほとんどなかったということではないでしょうか。
実際、この両方の法律には、府県に関する法律(のいくつか)を適用するという趣旨の条文が含まれています。
すなわち、「北海道及び府県」という言葉が使われるようになるきっかけはここにあると考えます。(実際にその表現が現れたのはhmtさんが言われるあたりなのでしょうが)
[62386] 2007年 11月 4日(日)21:42:36北の住人 さん
北海-道
「都道府県」「道府県」という語の使用時期ではなく、北海道という地域を単に「道」と表現したのはいつ頃からかということについてです。
手元にある明治20年代の本(明治24年発行、永田方正「蝦夷語地名解」など)には「当道」「本道」という表現がみられ、明治30年2月発行の「札幌沿革史」(札幌史学会著)の序文には「自明治二年、始定置道之制、以札幌為庁治」という表現があります。
明治2年の松浦武四郎「北海道々国郡名撰定上書」で「道名之儀申上候書付」として幾つかの名称を武四郎が考え、その後「北海道」の名が制定されたわけで、公式ではないかもしれませんが、道内ではその頃から「道」という略称を用いていたのではと思います。

なお、「札幌沿革史」を著した「札幌史学会」の会長は新渡戸稲造であり、「札幌沿革史」編集の中心人物は永田方正です。
[62392] 2007年 11月 5日(月)00:43:46雪の字 さん
都庁府県と都道府県
[53090]で、三文字県名は無い、などと書いてしまった雪の字です。またやってしまいました…

既に[62385]hmtさんがご指摘下さいました通り、勅令第347号「師範学校生徒定員」(前の書き込みでは、法令名を「師範学校生徒定員ニ関スル件」としましたけれど、日本法令索引に従います)の年代は、明治40年ではなく、明治30年でした。
図書館で条文を筆写した際に誤記したものと思います。最近はできるだけコピーを取らせて頂くようにしているのですけれど。とにかく、誤った内容を書き込んでしまい、申し訳ありませんでした。
なお、[62373]の誤記につきましては、敢えて訂正せず、そのまま残したいと思います。紛らわしい内容が残るのは好ましくないと思いますけれど、頂いたレスとの整合性を保つため、そして自戒の意味を込めてのことです。どうか悪しからずご理解下さい。

では本題です。
[62375]Issieさん
ここで使われる「道」が“地方官庁としての「北海道庁」”を意味するのか,“地方区分としての「北海道」”を意味するのか(中略)後者の意味として「北海道」を「道」と称することはあると思います。
[62385]hmtさん
“地方官庁としての「北海道庁」管内”を意味しているようですね。
ここで思い出したものがあります。
内務省警保局が作成したある史料(戦前期であることは間違いないと思いますけれど、正確な年代は不詳。国立公文書館蔵。請求番号:分館-06-031-00・平13警察00045100。国立公文書館デジタルアーカイブで画像を閲覧できます)の中では、北海道および他の府県に並ぶ「庁府県」として、東京府(或いは東京都?)ではなく「警視庁」が挙げられているのです。「庁府県」と「道府県」の意味の違いを示す、一つの例のように思われます。
「都庁府県」は、地方官庁の略称、そして「都道府県」は、その管轄区域を指す略称、と理解して良いのではないでしょうか。

[62386]北の住人さんの書き込みは、上の解釈を補強しているようです。また(少し話題とは外れますけれど)、松浦武四郎から「地方自治法」に至るまで、北海道の「道」とは、「五畿七道」と言う場合のような「道」である、という感覚が(制度上の実態とは関わりなく)働いていたことを示している様にも思われます。
ちなみに、このあたりの話題は、アーカイブスの北海道はなぜ「北海」と略さないの?などでも詳しく触れられておりますね。興味深く拝見致しました。

余談ですけれど、
[62377]htmさん
[53577]の「都費府県市区町村」は衝撃的で、良く記憶に残っております。樺太はどうなるの?と頭を捻ってみたものです。答えは出ませんでしたけれど。

それに致しましても、[62373]で書き込みさせて頂いた後、[62375]で早速Issieさんのレスを頂き、さらに[62377]ではhmtさんのご教示で「都道府県」の起源が(しかも「日本法令索引」と言うページの存在を知ることができたというプラス・アルファまで付いて)判明するまで、経過時間は6時間足らず、レス数にして僅か4つ!
改めて、「落書き帳」の凄さを感じました。
[62394] 2007年 11月 5日(月)17:51:53【1】hmt さん
戦前 内地の地方官庁は 2庁3府43県?
[62392] 雪の字 さん
北海道および他の府県に並ぶ「庁府県」として、東京府(或いは東京都?)ではなく「警視庁」が挙げられているのです。

例示された文書を閲覧してみると、“カフェーは各地方法令たる庁府県令に依って取締まっている。” と記した上で、警視庁「特殊飲食店営業取締規則」、千葉県「カフェー取締規則」等を紹介しています。

戦前の「警視庁」は、知事の管轄下にある現在とは立場が異なり、内務省の直轄でした。
警視総監は 東京府知事と同格、というか俸給は上だったとか。
戦前、内務省管轄下の 北海道庁長官や 府県知事は、「北海道庁令」や「府県令」という命令を制定することができましたが、同様に、警視総監も「警視庁令」を制定することができたのですね。

そういう意味では、地方官庁としての性格もあった3府43県と並ぶ存在として、「北海道庁」の他に「警視庁」もあったわけで、内地の地方官庁は 「2庁3府43県」だったのでしょうか。
# 拓務省管轄下の外地には、朝鮮総督府、台湾総督府、樺太庁、南洋庁などもありました。関東州[35703]の行政官庁の名は時代により異なりますが、関東庁の時代もありました。

東京都公報の歴史 を見ると、ずっと下の方に、警視庁と東京府が共同で発行した公報の写真が掲載されています。
本年十月一日より警視庁東京府公報を発行し、警視庁令は同日より右公報に登載するを以て公布式と定む(明治31年9月25日、警視庁令第28号)

これを見ても、「警視庁」は「東京府」と同格の地方官庁だったことが窺えます。
[62501] 2007年 11月 13日(火)06:29:43北の住人 さん
カラトの島から樺太庁へ
突然ですが、樺太に関する、にわかメモです。古書・古地図は原典を確認していないので、実際にはどうなっているのかは分かりません。

●其一 カラフトの呼称の変遷
・哈喇土(の酋長云々) 松前藩の文書? 文明17年(1485年)
・カラトノ島  『正保御国絵図』 正保2年(1645年)?
・からふと島  『元禄御国絵図』 元禄13年(1700年)
・からと島  『松前島郷帳』 享保2年(1717年)
・唐太  『蝦夷拾遺』本文挿入の地図 佐藤玄六郎行信 天明6年(1786年)
・カラフト島  『絵図面方角道規地名控』 寛政3年(1791年)
・唐太島  『蝦夷巡覧筆記』 寛政9年(1797年)
・北蝦夷  『東韃地方紀行』巻頭の地図 間宮林蔵 文化7年(1810年) 
・カラフト  『北蝦夷図説(別名、北夷分界余話、銅柱余録)』間宮林蔵 安政2年(1885年) (「蝦夷地」との混同を避けるため、公称の「北蝦夷」を使わず「カラフト」を使用)

これを見ると、当初は「カラト」と呼ばれたのが「カラフト」に変化したのではないかと思います。
 
ところで、全国樺太連盟のサイト内樺太の名前の由来[62450]ニジェガロージェッツ さんの記事をご覧ください)のURLを見ると「kabaren」の文字があり、連盟の略称として「樺」を「かば」と読んでいるようです。実際、「樺太」の読みとして「かばふと」も書いている辞書もありました。

●其二 樺太地名解
全国樺太連盟が昭和53年に発行している「樺太沿革・行政史」には、「樺太」の語源として、9説紹介されています。この他にも2説(アイヌ語辞書で有名なバチェラー氏の説と、この辞書をもとに考案されたと思われる説)があります。
仮説「地名の語源の数は、その地の面積が大きいほど増える」の1つの例となるでしょう。なお、この仮説の関数式は、そのうち(遅くとも100年以内に)発表したいと思います。

ちなみに「樺太沿革・行政史」では「カバフト」は誤称としています。

●其三 カラフトの当て字
「樺太沿革・行政史」によると、「カラフト」について次のような表記があるそうです。
 哈喇土・加良不止・加羅不登・穀太・嘉楽?土・哈良敷登・加良布止

以上、仮名的当て字が多いですが、江戸時代を通じ一般的なものは「唐太」です。一時的に「北蝦夷」が使われますが、幕末からまた「カラフト」と称され、「柄太」「柯太」が多く使われ、明治2年以降は「樺太」に定まりました。
「樺太」については、「樺が多いから」という松浦武四郎の意見が採られたようです。

今思い付いたんですが、哈喇土はトカラ列島の「トカラ」と通じるものがあるような、そんな気がする、冬の朝です。(明日から、札幌は雪ですよ)

●其四 カラフトの別称
「北蝦夷」も別称ですが、他にもいろいろあるようです。以下「樺太沿革・行政史」から
 奥蝦夷・初島・クエ(クヱ、苦夷、庫葉、庫頁)・流鬼圍(ラヱルリ=クエ)・サガレン(撒甲連、薩哈嗹)・ヱレウテ=ボウセ・徳楞※山(デレンガサン)[※は「口」偏に「戛」]・タライカイ・シルン=モシリ

●其五 樺太庁について
「都庁府県」の「庁」には、北海道庁のほか「樺太庁」も入っているようです。昭和18年勅令第548号「地方行政協議会令」([62373]雪の字さんの記事をご覧ください)のほか、昭和20年勅令第350号「地方総監府官制」でも「都庁府県」の表現があり、「北海地方総監府」の管轄区域が「北海道」「樺太」になっています。
[62539] 2007年 11月 16日(金)14:02:24【1】hmt さん
夏目漱石の復籍届 その宛先は牛込警察署
[62394]「戦前 内地の地方官庁は2庁3府43県?」において、“地方官庁としての性格もあった3府43県と並ぶ存在として、「北海道庁」の他に「警視庁」もあった”こと記しました。

この記事を書いた後で、たまたま江戸東京博物館で開催中の 特別展 に出品されていた 夏目漱石 の「復籍届」を見ました。
復籍御届  平民 塩原昌之助養子 下谷区下谷西町4番地 塩原金之助 慶応3年4月生
明治21年1月 牛込区牛込喜久井町壱番地 平民 戸主 夏目直克
牛込警察署御中

宛先が「牛込区」でなく、「(警視庁)牛込警察署」になっています。

この当時に施行されていた明治19年式戸籍の 「戸籍取扱手続」 には
第一条 戸籍は戸籍用紙を以って之を造り…一町村毎に帳簿に編成すべし…
第二条 戸籍簿は副本を造り郡役所に納め置くべし 区長に於いて戸籍を取扱ふときは之を管轄庁に納め置くべし
とあります。

この規定だけから見ると、戸籍事務を取り扱い、正本を作成するのは町村役場又は区役所にあると理解できるのですが、上記の復籍届の宛先を見ると、東京15区は例外となっていて、「区役所」でなく 「警察署」が戸籍事務を扱っていたのではないかと思われます。
戸籍取扱が「区役所」でなく 「警察署」ならば、その管轄庁は、もちろん「東京府庁」ではなくて「警視庁」です。

東京においては、「警視庁」がこのように戸籍までを管轄する地方官庁であったことを裏付ける資料として、明治初期警察制度に関する梅森氏の論文pdf を挙げておきます。
その13頁右によると、
この(戸口調査手続)制度において、(警視庁)巡査は、受持区域内の住民の本住・寄留の別、住所、借家・借地・地主の別、各戸の番号、族籍、職業・年齢などを記入した戸籍簿を作成し、増減があるごとにこれに訂正を加えることが求められた。
とあります。
# 上記と同一の制度か否かは知りませんが、子供の頃(戦前)、「戸籍調べ」の巡査が戸別訪問していた記憶があります。

やはり、「戦前 内地の地方官庁は2庁3府43県」だったのではないのでしょうか。

ついでに、「戦前」と限定した理由。
第二次大戦中の昭和17年(1942)11月1日、拓務省等の再編成で大東亜省に変った際に、樺太庁が内務省に移管され、樺太は「内地」になりました。
[62501] 北の住人 さん
「都庁府県」の「庁」には、北海道庁のほか「樺太庁」も入っているようです。
内地に、北海道庁・樺太庁・警視庁と「3庁」が存在した時代が、短期間ながら存在したようです。

[62392] 雪の字 さん
「都費府県市区町村」は衝撃的で、良く記憶に残っております。樺太はどうなるの?と頭を捻ってみたものです。
私は外地だった時代の「樺太庁」しか頭になく、「南洋庁」[35703]「関東庁」[38110] などと共に、ノーカウントにさせていただいた ということでご容赦を…。


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