[65136]oki さん
納得できる話ばかりです。
明治3年の郷村高帳の存在はやはり大きいです。縦書表記について、「四日市|次郎丸村」という併称表記なのか、「四日市次郎丸村」という連称表記なのかということを明示しているわけですから。
また、旧高旧領取調帳データベースの記載にしても、広島県史・年表(別編1)の記載にしても、確かに縦書の併称表記を担当者がどのように解釈するのか、という余地があります。
担当者の解釈の余地の有無や原典の記載方式まで気を配らなければならないということにまでは、考えを巡らせることが出来ていませんでした。地方行政区画便覧の件につきましては単なる私の読み違えでした(恥)。
実は私は、滋賀県・京都府・大阪府の3府県の市町村の天保国絵図から現在までの変遷を、城下町・幕府直轄地の町場の変遷も含めて、その廃置分合の年月日を含めて既に(IssieさんHP類似の形式で)表にまとめています。
私がまとめた3府県においては、遅くても明治5年の区制(大区小区制)の時期には、okiさん定義の「連称表記」になるため、特に縦書表記に関しては深く考えたことはありませんでした。他の都県も同様だろうと考えていましたので。
それがひょんなことから、広島県史・年表(別編1)を調べることになり、たまたま「四日市次郎丸村」の記載に出会うことになり、旧高旧領取調帳データベースの記載と併せて考えることで
[65106]拙稿のような疑問を提起した次第です。ひょっとしたら「四日市次郎丸村」は例外的に併称表記のまま奇跡的に残ったのではないかもしれないのではないかと思いましたので。
やはり例外的に併称表記のまま残ってはいなかったようですね。
最後になりましたが、ご解説ありがとうございました。
[65062]oki さん
山下町/村ですが、まずは資料の追加です。
兵庫県管下各区並村名取調書(編:兵庫県、M7)でも、第14区摂津国川辺郡 山下町との記載がありました。
そして山下町/村の判断ですが、私も
いったん町になった自治体が村に戻った例を知らない
ので、町を村と誤植した可能性の方が、山下町から山下村に改称した可能性よりは高いと考えています。
いったん町になった自治体が村に戻った例を知らない
に関連してですが、合併で村になったところが大阪府にありますので紹介します。
玉造西伊勢町(東大組),玉造紀伊國町(東大組),玉造左官町(東大組),玉造國分町(東大組),玉造八尾町(東大組),玉造半入町(東大組),玉造大和橋町(東大組),玉造越中町(東大組),東雲町通壱丁目(南大組),東雲町通二丁目(南大組),東雲町通三丁目(南大組),仁右衛門町(南大組),岡山町(南大組),彌宜町(南大組),東阪町(南大組)の15町が合併して西玉造村(東成郡)となりました。
#東大組,南大組とは共に、当時大阪市街地を4つに分けた大組の一つにあたります。京都での上京や下京に相当するものです。
参照:
大阪府第438号達(M6.11.17)
以下大阪市街地に関連しての余談です。
#大阪市街地は、江戸時代からの三郷が明治2年5月4日に廃止され新たに東大組,南大組,西大組,北大組に分けられました。その後、東大組,南大組,西大組,北大組は明治8年4月30日にそれぞれ第1大区,第2大区,第3大区,第4大区と改称し、明治12年2月10日に第1大区,第2大区,第3大区,第4大区はそれぞれ東区,南区,西区,北区と改称し、明治22年4月1日に大阪市東区,大阪市南区,大阪市西区,大阪市北区となりました。
#大阪市街地は本来的には東成郡と西成郡からなっていたはずなのですが、江戸時代を通じて郡から独立した大坂三郷という形式で統治されており、京都(
[64725])とは異なり大坂三郷管下の各町が東成郡と西成郡のいずれに所属するかということに関して、あまり考えられてはいなかったようです。そして大阪市街地における東成郡と西成郡の境界は、おそらく谷町筋であろうとされているようです。