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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[65106]2008年5月13日
むっくん
[65136]2008年5月16日
oki
[65151]2008年5月17日
むっくん

[65106] 2008年 5月 13日(火)06:50:59むっくん さん
五郎兵衛新田村の由来、四日市次郎丸村の謎
[65058]桜通り十文字さん

まず初めに藤井寺道明寺町についてですが、落書き帳上部にある記事検索を使って調べると、過去にはこれだけ話題として出ているようです。

さて、長野県の五郎兵衛新田村の由来についてです。
まず新田開発には、(1)村をあげて村人たちが自分たちの住んでいる村内の未開地を開墾したもの、(2)ある村の村人たちが自分たちの住んでいる村の内ではなくて近隣の村の未開地を開墾したもの、(3)ある有力者が藩に願い出てある場所の開墾をしたもの、の3通りがあります。

(1)の場合
自分たちの住んでいる村がA村とするならば、A村新田もしくはA村新田村などと名付けられることが多いです。

(2)の場合
開墾した村人たちの住んでいる村がA村で開墾した未開地がB村にあったとすると、A村出作などと名付けられることが多いです。しかしA村出作という独立した村とされるかどうかは別で、開墾地がA村の一部になることもあれば、従来からのB村の一部のままという場合もあります。このあたりはA村とB村の力関係や管理する藩の都合などが複雑に関係します。

(3)の場合
春日出新田物語によると、(ア)開発を請け負った有力者の名前を関連させて命名される場合、(イ)開発時の十二支年から命名される場合、(ウ)開発時の歴史的な背景で命名される場合の3通りがあるようです。

以上を踏まえた上で、五郎兵衛新田村をYahoo!などの検索エンジンで検索すると、上野国(現在の群馬県)南牧村に住んでいた市川五郎兵衛が開発の主導権を取り、新田開拓したものであることが分かります。上述のパターンでは(3)-(ア)の「開発を請け負った有力者の名前を関連させて命名される場合」におそらくあたるのでしょうね。
参考:社団法人土地改良建設協会(PDF)


さてここからが、私の本題です。
藤井寺道明寺町(大阪府)や五郎兵衛新田村(長野県)と並んで漢字6文字の町村といえば、明治23年9月末日まで存在した広島県賀茂郡の四日市次郎丸村が挙げられます。

ただ、本当に四日市次郎丸村という1つの村であったのか、という疑問を私は持っています。より正確には、四日市村/次郎丸村の内・四日市村と四日市村/次郎丸村の内・次郎丸村の2村で四日市村/次郎丸村という1村を形成していたと考えるのが自然なのではないかと私は考えています。以下に経緯を時系列で紹介したいと思います。


天保国絵図によれば、四日市町屋敷分、四日市田畠分とあり、『日本歴史地名大系 広島県の地名』(平凡社、1982)によれば石高は隣に記載されている寺町村に含まれているとのことです。

明治初期の旧高旧領取調帳によれば、四日市村/次郎丸村とあります。

明治7年の広島県管下郡村区別帖によれば、素直に読めば四日市次郎丸村なのでしょうが、四日市村/次郎丸村とも読めないことはありません。

郡区町村一覧(著・出版:内務省地理局、明14.3)でも広島県管下郡村区別帖と同様に記載されています。そのため明治13年当時の村名は、素直に読めば四日市次郎丸村なのでしょうが、四日市村/次郎丸村とも読めないことはありません。

地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)によると明治19年1月当時についてでは、四日市次郎丸村が2箇所記載されています。その下の村数から考えると、これは四日市村/次郎丸村の内・四日市村と四日市村/次郎丸村の内・次郎丸村の2村で四日市村/次郎丸村という1村を形成していたと考えるのが妥当な解釈ではないかと、私は考えます。

広島県新旧市町村名全書(編著:早速勝三、出版:早速社、明22.3)によれば、県令第22号に記載されている市制町村制施行前後の村名は、素直に読めば四日市次郎丸村なのでしょうが、四日市村/次郎丸村とも読めないことはありません。

新旧対照市町村一覧(第2冊)(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22)によっても市制町村制施行前後の村名は、素直に読めば四日市次郎丸村なのでしょうが、四日市村/次郎丸村とも読めないことはありません。さらにはここで注目すべきが管轄の警察署の名称が四日市署と記載されていることです。本当は四日市次郎丸村ではなく、四日市村/次郎丸村の内・四日市村と四日市村/次郎丸村の内・次郎丸村の2村で四日市村/次郎丸村という1村を形成しているからこそ、四日市署と名付けたのではないのでしょうか。

現行広島県法令索引(編著・出版:浅枝実、明26.4)での明治23.10.1の賀茂郡西条町への町制への記載においても、村名は四日市村/次郎丸村とも四日市次郎丸村とも読めます。ただ、この町制を施行して西条町となった県告示について、広島県史・年表(別編1)(編・出版:広島県、1984)には、
賀茂郡四日市村・次郎丸村を合併し西条町と改称(明治23年広島県告示第97号)
と記載されています。

以上で文献の紹介は終わりです。
上述の各文献の記載内容からは私の仮説を否定するよりは肯定した方がいいのではないか、と私は考えます。特に地方行政区画便覧と広島県史の記述は、私の仮説に立った方が説明しやすいのではないでしょうか。

となると、市区町村変遷情報・広島県に記載されている
2 1890.10.01 町制/改称 賀茂郡西条町 賀茂郡 四日市次郎丸村


2 1890.10.01 町制/改称 賀茂郡西条町 賀茂郡 四日市村/次郎丸村

とでも記載した方が実は実情をより良く表していることになります。以上の私の考えに対し、皆様の意見を伺いたい次第です。

#ちなみに『日本歴史地名大系 広島県の地名』(平凡社、1982)によれば、明治初期に四日市村と次郎丸村が合併して四日市次郎丸村となったとあります。
[65136] 2008年 5月 16日(金)01:11:30oki さん
四日市次郎丸村についての考察
[65106] むっくん さん
本当に四日市次郎丸村という1つの村であったのか、という疑問を私は持っています。より正確には、四日市村/次郎丸村の内・四日市村と四日市村/次郎丸村の内・次郎丸村の2村で四日市村/次郎丸村という1村を形成していたと考えるのが自然なのではないか

となると、市区町村変遷情報・広島県に記載されている
2 1890.10.01 町制/改称 賀茂郡西条町 賀茂郡 四日市次郎丸村

2 1890.10.01 町制/改称 賀茂郡西条町 賀茂郡 四日市村/次郎丸村
とでも記載した方が実は実情をより良く表していることになります。以上の私の考えに対し、皆様の意見を伺いたい次第です。

私の考えは、「四日市村/次郎丸村」とする必要はない、とするものです。理由は以下に述べますが、この件に関しては四日市次郎丸村の実態と、その表記に分けて考える必要があると思うので、説明を2つに分けます。

1.四日市次郎丸村の実態
この村について考えるには、むっくんさんも触れられた寺町村の説明から始めなければなりません。
寺町村は天保国絵図記載の石高が2800石という大村ですが、実際には4つの村に分かれていました。遅くとも16世紀初めには次郎丸方など4地域からなっていたと見られ、江戸時代初頭に四日市次郎丸、吉行、土与丸、助実の4村に分立します。
慶長6年(1601)に福島正則の行なった検地では寺町村として一括され、それ以降も、天保郷帳など幕府に提出された文書では寺町村とされていますが、広島藩内部の文書では独立した4つの村として扱われていたようです。庄屋などの村役人も各村ごとに居たと思われます(4村分立の正確な年次は不明です。また、このように幕府に出す文書と各藩内部の文書とで、村の扱いが異なることはままあることです)。
次に四日市と次郎丸ですが、文書上に名称が初めて現れるのはともに天文年間(1630~50年頃)で、それ以前から地名が存在したことは確実です。次郎丸は、上に述べた寺町村を構成する地域の一つ、次郎丸方として初出しています。四日市は天正年間(1670~90年頃)に4の日に市を開いていたとされ、その後山陽道(西国街道)の宿場になっています。次郎丸の一部が町場になったもので、街道に沿って人家が密集する地域が四日市、その周りの田園地帯が次郎丸であったと考えられます。町場と農村という2つの地域からなっていたわけですが、先のように近世初頭から、2つ合わせて四日市次郎丸村という1つの村を構成しており、江戸期を通じて、庄屋職も1人しか置かれていません。
なお、天保国絵図では寺町村のほかに四日市町屋敷分、四日市田畠分が高付けされていますが、これは町場である四日市の分を別に表記しただけで、実際には、上記のように四日市次郎丸村という1つの村でした。
これを証拠立てる資料が、明治3年の郷村高帳です。廃藩置県の前年の文書で、この種の文書としては広島藩が最後に作成したものだと思いますが、「四日市次郎丸村」の文字がはっきりと読み取れます。これから推定して江戸期の広島藩内では、国絵図など幕府文書の記載とは無関係に、四日市次郎丸村として扱っていたことは確実です。
当然、明治以降も四日市次郎丸村という1つの村であり、四日市村/次郎丸村の中に四日市村、次郎丸村があったのではない、と考えます。
(※以上の記述は、「日本歴史地名大系 広島県の地名」(平凡社)および「角川地名大辞典 広島県」に基づいています。)

2.四日市次郎丸村の表記
むっくんさんは、
素直に読めば四日市次郎丸村なのでしょうが、四日市村/次郎丸村とも読めないことはありません
との表現を繰り返されていますが、これは、引用されている各種明治期文書の次のような縦書表記について述べられたものだと思います。
 四 次
 日 郎
 市 丸
  村
(※以下では、このような表記を「併称表記」と呼び、横書きでは「四日市|次郎丸村」と書くこととします、これに対して、「四日市次郎丸村」のような表記を「連称表記」と呼びます。あくまでも、ここだけの便宜的な呼び方です)。
「四日市|次郎丸村」という併称表記が、「四日市次郎丸村」の連称表記と異なることは事実です。しかし、それが直ちに、四日市村、次郎丸村の2村が存在したという結論に結びつくわけでありません。
むっくんさんが「四日市村/次郎丸村」の表記にこだわるのは、歴博の旧高旧領取調帳データベースにそのような記載がなされていたからではないかと思うのですが、その元資料も縦書きであった、ということに注意が必要です。おそらく、そこには「四日市|次郎丸村」の併称表記がなされており、それを「四日市村/次郎丸村」としたのは、歴博の担当者の解釈だと思います。また、
町制を施行して西条町となった県告示について、広島県史・年表(別編1)(編・出版:広島県、1984)には、賀茂郡四日市村・次郎丸村を合併し西条町と改称(明治23年広島県告示第97号)と記載されています。
とあるのも、明治期資料の併称表記を「四日市村・次郎丸村」と解釈したものでしょう。したがって、四日市、次郎丸の双方に「村」を付した「四日市村/次郎丸村」の表記は、原資料のどこにも存在しないはずです。
さらに
地方行政区画便覧によると明治19年1月当時についてでは、四日市次郎丸村が2箇所記載されています。
とありますが、これも考えすぎではないでしょうか。当該箇所には、上段に戸長役場所在地、その下に戸長役場が所管する村名を記載しています。ここは単に、四日市|次郎丸村所在の戸長役場が、四日市|次郎丸村、土与丸村、吉行村の3村を管轄していることを示しているだけ、だと思います。

以上の結果
上述の各文献の記載内容からは私の仮説を否定するよりは肯定した方がいいのではないか、と私は考えます。特に地方行政区画便覧と広島県史の記述は、私の仮説に立った方が説明しやすいのではないでしょうか。
という主張は、その前提が崩れてしまうと考えます。

-------------------------------------------------------------------
以上から、「四日市村/次郎丸村」ではなく、現在の市区町村変遷情報の通り「四日市次郎丸村」の連称表記で記載する方が適切である、というのが私の結論です。
むっくんさん、いかがでしょうか。
(※以上の説明では、明治になって併称表記がなされるようになったのはなぜか、という疑問が残り、それに対する考えもあるのですが、あまりに長くなったのでここら辺でやめておきます)。
[65151] 2008年 5月 17日(土)14:10:49【1】むっくん さん
四日市次郎丸村&山下町/村
[65136]oki さん

納得できる話ばかりです。

明治3年の郷村高帳の存在はやはり大きいです。縦書表記について、「四日市|次郎丸村」という併称表記なのか、「四日市次郎丸村」という連称表記なのかということを明示しているわけですから。

また、旧高旧領取調帳データベースの記載にしても、広島県史・年表(別編1)の記載にしても、確かに縦書の併称表記を担当者がどのように解釈するのか、という余地があります。
担当者の解釈の余地の有無や原典の記載方式まで気を配らなければならないということにまでは、考えを巡らせることが出来ていませんでした。地方行政区画便覧の件につきましては単なる私の読み違えでした(恥)。

実は私は、滋賀県・京都府・大阪府の3府県の市町村の天保国絵図から現在までの変遷を、城下町・幕府直轄地の町場の変遷も含めて、その廃置分合の年月日を含めて既に(IssieさんHP類似の形式で)表にまとめています。
私がまとめた3府県においては、遅くても明治5年の区制(大区小区制)の時期には、okiさん定義の「連称表記」になるため、特に縦書表記に関しては深く考えたことはありませんでした。他の都県も同様だろうと考えていましたので。
それがひょんなことから、広島県史・年表(別編1)を調べることになり、たまたま「四日市次郎丸村」の記載に出会うことになり、旧高旧領取調帳データベースの記載と併せて考えることで[65106]拙稿のような疑問を提起した次第です。ひょっとしたら「四日市次郎丸村」は例外的に併称表記のまま奇跡的に残ったのではないかもしれないのではないかと思いましたので。
やはり例外的に併称表記のまま残ってはいなかったようですね。

最後になりましたが、ご解説ありがとうございました。


[65062]oki さん

山下町/村ですが、まずは資料の追加です。
兵庫県管下各区並村名取調書(編:兵庫県、M7)でも、第14区摂津国川辺郡 山下町との記載がありました。
そして山下町/村の判断ですが、私も
いったん町になった自治体が村に戻った例を知らない
ので、町を村と誤植した可能性の方が、山下町から山下村に改称した可能性よりは高いと考えています。


いったん町になった自治体が村に戻った例を知らない
に関連してですが、合併で村になったところが大阪府にありますので紹介します。

玉造西伊勢町(東大組),玉造紀伊國町(東大組),玉造左官町(東大組),玉造國分町(東大組),玉造八尾町(東大組),玉造半入町(東大組),玉造大和橋町(東大組),玉造越中町(東大組),東雲町通壱丁目(南大組),東雲町通二丁目(南大組),東雲町通三丁目(南大組),仁右衛門町(南大組),岡山町(南大組),彌宜町(南大組),東阪町(南大組)の15町が合併して西玉造村(東成郡)となりました。
#東大組,南大組とは共に、当時大阪市街地を4つに分けた大組の一つにあたります。京都での上京や下京に相当するものです。
参照:大阪府第438号達(M6.11.17)


以下大阪市街地に関連しての余談です。

#大阪市街地は、江戸時代からの三郷が明治2年5月4日に廃止され新たに東大組,南大組,西大組,北大組に分けられました。その後、東大組,南大組,西大組,北大組は明治8年4月30日にそれぞれ第1大区,第2大区,第3大区,第4大区と改称し、明治12年2月10日に第1大区,第2大区,第3大区,第4大区はそれぞれ東区,南区,西区,北区と改称し、明治22年4月1日に大阪市東区,大阪市南区,大阪市西区,大阪市北区となりました。

#大阪市街地は本来的には東成郡と西成郡からなっていたはずなのですが、江戸時代を通じて郡から独立した大坂三郷という形式で統治されており、京都([64725])とは異なり大坂三郷管下の各町が東成郡と西成郡のいずれに所属するかということに関して、あまり考えられてはいなかったようです。そして大阪市街地における東成郡と西成郡の境界は、おそらく谷町筋であろうとされているようです。


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