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[65806] 2008年 7月 18日(金)19:30:14hmt さん
利根川と国境・県境との関係(1)古代は内海だった下流部
少し前に埼玉県北川辺町と茨城県五霞町とに関する「勝手に越県合併の構想」という記事[65690]がありました。
これは、利根川が北関東3県と南関東との境界線をなしているという大原則に逆らっているように見える2つの町に違和感を抱き、交換によりこれを是正?したいとする構想であろうと思われます。

埼玉県と茨城県との境界に関しては、その後で Issieさんの説明[65700]がありました。
すなわち、埼玉・茨城県境は、渡良瀬川を境界とした武蔵国と下総国との関係を引き継いだものです。
江戸時代になってからの人工的な開削によって、現在の利根川流路が形成される前から存在した境界線ですから、「利根川を境界線とする原則」の支配を受けるものではないということになります。

この埼玉・茨城県境から東は、千葉・茨城県境になります。
こちらには、「利根川を境界線とする原則」が存在しました。明治8年(1875)太政官布告第76号
(1)新治県被廃下総国香取匝瑳海上の三郡は千葉県へ(2)常陸国新治筑波信太行方鹿島河内六郡並(3)千葉県管轄下総国猿島結城岡田豊田の四郡及び葛飾郡の内3ヶ町四拾八ヶ村相馬郡の内2ヶ宿九拾九ヶ村茨城県へ管轄被 仰付候條此旨布告候事

便宜上付与した番号により説明すると、(1)と(2)は利根川下流の両岸にまたがっていた新治県を廃止し、南3郡は千葉県へ、北6郡は茨城県へと分割するもの、(3)は千葉県のうち利根川以北を茨城県に移管するものです。

この布告によって、概ね利根川が境界になっったわけですが、それでも、利根川の流れと県境との不一致はあります。
その一類型は、その後の改修工事で流れが変り、川の対岸に取り残された土地であり、1920年完成の改修工事に伴なう取手市小堀[65697] について話題になりました。江戸川流頭部・関宿[65693]も、1930年の改修による流路変更に由来します[42005]

この2ヶ所に比べて、ずっと広い地域に関して、茨城・千葉県境が利根川と外れている場所が下流部にあります。
[1638] 深海魚[雑魚] さん
佐原付近で県境が利根川本流から北に外れて居る

昭和30年までは千葉県香取郡新島(しんしま)村だった与田浦周辺の地域です。「十二橋」で知られる加藤洲など「日本水郷」の中心地帯ですが、現在の地図 で見ると、干拓が進んだ与田浦はずいぶん小さくなっています。

この地の南には香取神宮、北東には鹿島神宮があり、いずれも神武天皇の時代に遡ると伝えられる古い神様です。
古代には、この両社は 巨大な内海 の対岸に鎮座していたと考えられます。例えば常陸国信太(しだ)郡の南から東にかけての海(下の部分拡大図)は、常陸国風土記で榎浦流海・信太流海という部分的な名で呼ばれ、内海全体の名はなかったようですが、現在は「香取海」と通称されています。
その水域は、現在の北浦と西浦(霞ヶ浦)だけでなく、西方の印旛沼・手賀沼に及びます。

霞ヶ浦河川事務所のHPには、20万年前から現在までの様子が掲載されていますが、約1千年前の水系図 にも、これに近い形の香取海が見えます。

つまり、下総国とか常陸国とかいうような「国」の制度が生まれた時代になっても、現在の利根川下流域は、かなりの幅を持つ内海によって隔てられており、境界線を引くべき陸地はなかったということになります。
[65807] 2008年 7月 18日(金)19:35:28hmt さん
利根川と国境・県境との関係(2)海から陸へ、千葉県から茨城県へ
古代に「香取海」だった地域は、流入河川による堆積と干拓とによって、だんだんと「陸地」に変ってゆきます。そのあたりを、[1639] Issieさん の記事から抜き書きしてみます。
関宿以東の現在の利根川筋は,平将門の時代はもちろん中世末期まで陸地だか水辺だか分からないような湿地帯でした。
当然,下総と常陸の境も曖昧だったわけで,ある程度確定する頃には少し北寄りのラインとなった。
江戸時代初めの東遷事業でそうした水路の1つが利根川筋として固定され,沿岸の排水と新田開発が進められます。
現在「水郷」と呼ばれている与田浦一帯の地域は佐原周辺の村からの新田でした。そんなこともあって,(中略)潮来は常陸の行方郡だけど川(後に常陸利根川となる)の対岸は下総の香取郡。

徳川家康の関東入国時(1590)には、境界水域で常陸の佐竹氏との間で紛争もあったものの、結局は家康の許可による旧江戸崎城主土岐氏の家臣団などにより、新田開発が進められたようです。 『利根川図志』の挿絵図 には、横利根川より東側の下新島(図の左側、現在は千葉県香取市)と西側の上新島(右側、現在は茨城県稲敷市)とを合わせて16ヶ村が見えますが、それ以外の新田もできています。

このような開発によって陸地化した江戸時代の姿を、天保下総国絵図 でご覧ください。

図の中央・印旛沼に接する安食付近から東へ十六島にかけての一帯、かつての香取海から陸地になった領域のかなりの部分が、利根川の少し北まで下総国香取郡になっていることがわかります。

拡大してみると 、この地域にできたいくつもの新田村の名が現れます。
図の東半分、香取神宮の北側のブロックに掌形の与田浦があり、寛永3年(1626)に開かれた加藤洲村の名も見えます。

時代は更に下り明治8年になると、千葉県・茨城県の境界を利根川とする原則が中流部で樹立されたのですが、この布告では、「下総国香取郡」は利根川北岸の一部を含んだまま、千葉県所属とされました。
これが是正されたのは、町村制施行後の明治32年(1899)で、千葉県茨城県境界変更法律 によって、利根川よりも北にあった千葉県下総国香取郡金江津村(現・河内町)・十余島村(東村を経て現・稲敷市)を茨城県常陸国稲敷郡に編入するなどの県境変更が行なわれます。
先に引用した[1639]にも、“現在の稲敷郡河内町と東町の利根川沿いの区域は1899年に当時の村ごと千葉県香取郡から茨城県稲敷郡に移管された地域です。”と記されています。

上記拡大国絵図の西半分から図外にかけて、横利根川より西側の村々がそれであり、法律条文からもわかるように、県境と共に常総国境も変更されました。

下総国絵図の全体図に戻ると、安食(印旛沼付近)より西側にも、下総国の6郡が利根川の北に広がっています。
この地域は、明治4年に印旛県、明治6年に千葉県になりましたが、明治8年の再編制[65806] で利根川の北にあった6郡(結城・豊田・岡田・猿島各郡と相馬・葛飾の一部)は茨城県に移管されました。こちらは国境の変更なし。

結局のところ、下総国で利根川以北であった地域は、一度は全部が千葉県になりましたが、安食までの中流部が明治8年、安食から横利根川までの間が明治32年に茨城県になり、横利根川より下流の与田浦付近(下新島)だけが千葉県に残ったわけです。
[65861] 2008年 7月 25日(金)19:33:47hmt さん
利根川と国境・県境との関係(3)新利根川・将監川・小貝川・鬼怒川
きっかけが埼玉・茨城・千葉県境だったので、タイトルには「国境・県境」を掲げていますが、このシリーズ、結局は利根川流路の変遷が主題になります。

ということで、「利根川百科事典」に掲載されていた 江戸時代初期と現在との川の流れを示す図pdf を最初に掲げておきます。

「利根川百科事典」は、3年ほど前まで利根川上流河川事務所のHPに掲載されていた資料なのですが、残念ながら現在は見ることができません。
たまたま埼玉県HPに引用されていた図があったので、リンクしました。江戸時代の改修工事の年代も入っています。

下流から見てゆくと、先ず新利根川関係の3件が目につきます。
この工事は、利根川の水位を下げて印旛沼・手賀沼の干拓を図るために、利根川の北に並行する「新利根川」を開削し、舟運はこちらに移そうという計画に基づくものでした。

寛文2年に起工した直線水路は寛文6年(1666)に完成しましたが、浅くて速い流れは舟運に適さず、利根川締切も、その水位を思うように下げることができなかったために、竣工僅か3年後(1669)には締切を撤去して元に戻しました。
# 近年の諫早湾締切問題と比べて、当局がミスを認めて撤回するのは迅速だったようです。

1676(延宝4)年将監川開削というのもあります。利根川の一部を印旛沼に分流させた水路ですが、水害は防げず、大正2年(1913)に分流口を堰き止めて沼になったようです。現在は釣人が集合。

最近(2008/7/14)東京高裁で再審開始決定が支持された布川事件。その現場である布川(茨城県利根町)と利根川対岸の布佐(我孫子市)と間の川幅は、僅かに280mしかありません。上流側の取手で1270m、下流側の佐原で540mという値に比べて、ここは台地の間の谷を抜ける著しい狭窄部になっています。

江戸時代初期の鬼怒川と小貝川とは合流して下総・常陸国境を流れ下り、布川の北から東に出ていました。
寛永6年(1629)この両河川を分離してそれぞれ独立の河川としました。
鬼怒川は、大木丘陵を南に開削した流路により、常陸川(現・利根川)の約30km上流側へ。
そして牛久沼の水を合わせた小貝川は、その翌年(1630)に布川・布佐狭窄部の上手で常陸川と合流することになります。

このような工事により、常陸川の水量は、かなり上まで豊富になりました。
利根川と常陸川とを結びつける赤堀川はまだ工事中でしたが、その前から下流側の水上交通路も次第に整備されてきたことがわかります。
[65862] 2008年 7月 25日(金)19:50:11【1】hmt さん
利根川と国境・県境との関係(4)関宿の江戸川流頭部
今回のシリーズ。かつて十六島(新島 しんしま)と呼ばれた利根川下流部・水郷地帯から始め[65806][65807]、鬼怒川・小貝川に関わる改修に及びました[65861]

しかし、境界線ともからみあう利根川流路変遷の主要舞台は、なんといっても関東平野の中央部です。
今回のきっかけとなった埼玉県北埼玉郡北川辺町・茨城県猿島郡五霞町[65690]は、渡良瀬川が合流する栗橋付近であり、また江戸川が分れる流頭部は、その五霞町と関宿(千葉県野田市)との境界です。

下流から遡上してきたので、この地域も 関宿の 江戸川流頭部 から始めましょう。自治体名の 関宿町は2003年に消滅
最近では、[65693] 桜通り十文字さん が 県境と(江戸川の)流路との食い違いを取り上げた場所です。

南東に流れるのが利根川、西側を南に流れるのが江戸川(航空写真)ですが、ここに関宿水門があります。
西側の細い水路は南北2つのロックゲートで区切られた閘門です。現在はほとんど利用されていませんが、水位の違う利根川と江戸川との間を航行する船舶のための設備です。

明治43年(1910)8月の大洪水を契機として改定された利根川改修計画では、洪水時の水量のかなりの部分を江戸川に分けることできるような対策を組み入れました。
流頭部の関宿水閘門を含む59kmの江戸川拡幅工事(840→2230m3毎秒)がすべて完成したのは昭和5年(1930)で、これにより利根川から江戸川に直接分流するという現在の姿が実現しました。
なお、江戸川の流末部では、行徳の東で海に流す3.2kmの江戸川放水路が、大正8年(1919)に完成しており、また昭和22年(1947)のカスリーン台風後に更なる工事が行なわれ、関宿-野田間は40m幅になりました。

1930年に現在の流路に切り替えられる前の河道が、地図 に描かれた千葉・茨城県境なのです。

こまかく調べれば、明治時代にもこの付近の河道は多少の変更があり、それに合わせて県境も変更されているのですが、概略の流路としては 天保国絵図に描かれている河道 も、現在の千葉・茨城県境とほぼ同じです。

この河道のポイントは、関宿城の西側から北へと通じ、東向きに利根川に合流する「逆川」です。

逆川のできた年代については、寛永18年(1641)と記されている資料が多いようです。例えば前回の記事でもリンクしておいた 利根川百科事典の図pdf 。これは、関宿-金杉間の新水路(江戸川)開削(寛永12-18年)の完成年です。

しかし、寛文5年(1665)に関宿城主板倉重常の御手伝普請により、関宿から赤堀川に通じる新川・逆川が改修された(下総国旧事考)という記録があります。
寛永年間に行なわれた関宿以南の江戸川開削時に逆川の原型は開削されていたとしても、その流路はまだ不完全な状態であり、利根川を遡ってきた船が江戸へと直接下る幹川水路としての逆川が完全な機能を発揮したのは、24年後の1665年であったのではないかと思われます。

【追記】
利根川東遷と江戸川の開削(江戸川河川事務所)には、逆川開削を1665年とする記載がありました。
(工事)の後、寛文5年(1665)には、関宿に利根川と江戸川を結ぶ水路が開削されました。これにより、現在の江戸川の流れが完成したのです。
このページに掲載された図には、会の川締切・綾瀬川を元荒川から分離する備前堤・鬼怒川小貝川分離[65861]の3つの堤防と共に、逆川の位置にも堤防が記されています。
これに関する説明はありませんが、寛永年間の江戸川開削にあたり、一旦は堤防を築いて東へ流す赤堀川(利根川)と南へ流す江戸川とを完全に分離したのではないかと思われます。

下流からという原則に従って、時代的には前回記事と今回記事との間に位置する赤堀川開通に先立って関宿の話題を記したために、わかりにくくなったきらいがありますが、逆川以前の舟運は、利根川(赤堀川)を遡り栗橋から権現堂川経由へと迂回していました。
逆川により利根川と関宿との間をショートカットしたことで、関宿は最盛期には年間取引額150万両、日本随一の河港という交通の結節点になりました。

内水航路は明治にも盛んに利用され、明治10年(1877)には内国通運会社が江戸川を浚渫して、東京の深川から思川生井河岸(現・小山市)まで西洋式の蒸気船通運丸を就航させています。明治23年(1890)の利根運河通水により、関宿は銚子-東京航路から外れ、やがて内水航路自体も消滅します。

国絵図に戻ると、関宿城とその南側の城下町が見えます。城下町の一部は江戸川の西岸に及んでいます(向下河岸)。ここは粕壁方面などへの街道が分岐し、明治2年までは川関所が設けられていました。当時は文字通り川向いのこの町までが下総国の領域だったことが絵図の色分けからよくわかりますが、現在は地続きの埼玉県幸手市に属しています。
[65874] 2008年 7月 27日(日)17:30:27【1】hmt さん
利根川と国境・県境との関係(4.1)棒出し
[65870] 伊豆之国 さん
中之島ブルース

曲名は「中の島ブルース」。地名表記は、燃えて花咲くアカシアの札幌が「中の島」、泣いて別れた淀屋橋の大阪が「中之島」。
ところで、小雨そぼ降る石畳の長崎市内に「中の島」があるのかしら?

「千葉島」[20628]の北端、千葉県ならぬ茨城県に属する江戸川流頭が「中の島公園」になっていることは今回知りました。
通常の水量では低水路だけを流下。洪水時には洗堰を越えた高水路にも流れるので「中の島」が出現するようです。
おそらく関宿水閘門の建設よりも前、現在の高水路の下に消えた逆川が存在した時代を知っていると思われる公園内の「こぶし」の大木。開花情況のお知らせ があると思ったら、「中之島公園」と誤記していました。

それはさておき
リンクしていただいた五霞町HPによると、公園内には「棒出しの石」が保存されているとのこと。

「棒出し」とは、権現堂川から江戸川への流量を制限するために、流頭部(現在の関宿橋付近)に両岸から突き出す形で築かれた堤です。江戸川流域、特に江戸にとって重要な物資である塩の生産地・行徳を水害から守る役割がありました。
しかし、この堤により流水が逆川に押し上げられるので、権現堂川や赤堀川流域では水流が滞り水害が増しました。

棒出しが設けられたのは、文政5年(1822) または天保年間(1830-44)とされます。いずれにせよ、逆川開削よりもずっと後です。天保国絵図には、“川幅□□”と書いてあるようですが、読み取れません。
棒出しの間隔は明治初年に約30間で、天保年間の18間より狭めないという幕府の公約は守られていたが、その後の一時期江戸川縮小が進められ、明治31年にはわずか9間にまで狭められたとか(文献pdf)。

1910年の大洪水を契機に改められた利根川改修計画により、拡大する江戸川への分流量の調節は、新設の関宿水閘門により行なうことになり、棒出しは1929年に撤去されました。

【追記】
明治10年代の迅速測図に基づく 歴史的農業環境閲覧システム [65097]をリンクしておきます。
図の左下、権現堂川から江戸川に入る地点(継ぎ目の下)に棒出しがあります。
図の中央を流れる逆川(地川? )と当時の千葉・茨城県境とは一致していました。しかし、その後でもう少し南を流すようになったことは、明治28年法律24号 の次の記載からうかがうことができます。
千葉県東葛飾郡関宿町の内(中略)権現堂川以北は茨城県西葛飾郡五霞村に編入
この時に逆川(法律には権現堂川とある)流路に合わせて変更された県境が、すなわち現在の県境です。
[65909] 2008年 7月 31日(木)18:45:09hmt さん
利根川と国境・県境との関係(5)利根川東遷の主役? 赤堀川
国境・県境との関係に着目し、流路の変遷を追いながら利根川を遡るこのシリーズ。
これまでに記した話題は、1000年前の香取海[65806]。それが陸地になった水郷地帯[65807]。下流域の変遷[65861]
そして東京湾に分流する江戸川流頭。写真 を見ると、利根川と左側の江戸川との間に水位差があることがよくわかります。関宿水閘門[65862]を含む工事が1930年に完成する前の逆川があった位置は、写真の手前・関宿城博物館付近で、左側枠外になるかつての江戸川流頭には 棒出し[65874]がありました。

この関宿の上流側、茨城県猿島郡五霞町の北側を流れ 埼玉県北葛飾郡栗橋町に至る区間の 利根川(現在の河川敷幅約700m)は、かつて赤堀川と呼ばれた川です。

[13516] KMKZさん の記事に、関宿城博物館・利根川東遷のページから引用があります。
次いで元和7年(1621)から承応3年にかけて、関東郡代伊奈氏のもとで三度にわたって行われた赤堀川(備前堀)の開削により、利根川本流が常陸川を経て銚子河口に至るようになりました。

これを文字通りに受け取れば、東京湾に流れていた利根川が、赤堀川の開削によって承応3年(1654)から現在の本流に変った、つまり東遷したと思いたくなるのですが、事はそれほど単純なものではないようです。

引用にもあるように、赤堀川開削は元和7年(1621)にスタートしたと伝えられます。そして通水が33年後の1654年。これだけでも東遷工事は時間がかかり過ぎています。

この時代の瀬替え(流路変更)工事は、網の目のように乱流していた自然河川の中から適切な川筋を選んで手を加え・導水するというケースが多いのですが、赤堀川の場合は、純然たる新規流路を切り開く工事です。
このあたりは関東造盆地運動の中心地で、長期的な地盤降下が起きているために、標高は13m程度とごく低いのですが、関東ローム層(赤土)に覆われた洪積台地で、利根川・渡良瀬川水系と常陸川・鬼怒川水系とを分ける分水嶺の末端です。その赤土を掘ったから赤堀川。

そのような条件であったにしても、利根川東遷という大計画が最初からあったとしたら、通水まで33年は遅すぎます。鬼怒川や江戸川の工事でも台地を切り開いているのですから、技術力がなかったわけではありません。
たぶん60年前・徳川家康の時代の「会の川締切」に始まる「利根川東遷大計画」など、最初はなかったのでしょう。
着工時の赤堀川は7間幅。これが寛永12年に10間幅としたが通水せず、承応3年(1654)に川床を3間堀下げて深さを増し、ようやく通水に成功したとあります。

10間(18m)幅というと、700mある現在の利根川に比べると小川ですが、33年かけてこれを掘った目的は何でしょうか。
洪水時に利根川の本流を東に流し、江戸を水害から守るという放水路の役割としては10間幅では頼りない。
赤堀川の目的は、舟運であったと思われます。奥州からの船が銚子から入り、霞ヶ浦・鬼怒川流域からも通じる常陸川。これを栗橋で利根川・渡良瀬川水系とつなげれば、江戸を含む広範囲な水運ネットワークができます。
運河としての役割だけでなく、利根川・渡良瀬川の豊富な水量を導く赤堀川は、常陸川の航行確保にも役立ちます。
[65910] 2008年 7月 31日(木)18:49:20hmt さん
利根川と国境・県境との関係(6)再び逆川、そして赤堀川の位置付け
舟運、特に大消費地である江戸へのルートを考えると、一つの疑問が浮かびます。

常陸川を遡行してきた船は、関宿から逆川を経て江戸川へ入る。これが寛文5年(1665)から明治23年(1890、利根運河通水)までの間の内陸幹川航路です。
それ以前には、赤堀川を栗橋まで遡って、権現堂川経由江戸川に入っていました[57264]。これでも房総半島を迂回する海路に比べればだいぶ近道かつ安全な航路ですが、なぜ関宿から直接 江戸川(既に寛永18年=1641に開通)に入らなかったのでしょうか?

その理由は、常陸川の航行に必要な水量にあったのではないでしょうか。
既に1629年大木丘陵開削により鬼怒川合流点を移す[65861]などの常陸川水量確保の措置も講じられていますが、(長井戸沼など 境町・関宿周辺の沼沢群からの水だけでは、この付近までの航行に必要な水量には不足していました。赤堀川の水でこれを補給しようとしたが、まだ不足。

赤堀川通水以前、逆川の原型となる川の存在は不明ですが、ヘタをするとせっかくの赤堀川の水がここを逆流して(だから逆川?)江戸川に流出してしまうおそれもあります。
江戸川河川事務所HP掲載の図 で赤堀川の右に見える締切堤防は、この逆流を防ぐためのものではないかと推察されます。
ここを締め切ってしまえば、もちろん関宿から直接 江戸川には入れません。

では、寛文5年(1665)にこの締切を撤去して逆川を開削(復活?)することができた理由は何か?
それは、赤堀川の幅と水深を更に大きくして、給水能力を増強する対策を取ったためと思われます。

土木学会企画展pdf によると、元禄11年(1698)赤堀川は、川幅27間(49m)、深さ2丈9尺(9m)に拡張されているようです。しかし、それよりも少し前に、既にある程度の水量増加が実現している可能性があります。そうであるならば、一旦閉じた逆川を開いても舟運に必要な水量を確保できることになります。
これが寛文5年(1665)の逆川開削による銚子-江戸航路ショートカットを可能にした背景であろうと推測します。

舟運ルートの詮索から戻り、利根川水系における赤堀川の位置付けを考えます。

承応3年(1654)の通水により、赤堀川は「利根川の本流」になったでしょうか? そうではないようです。

「1654年赤堀川通水」により、利根川の水の「一部」は確かに赤堀川→常陸川へと流れました。
しかし、赤堀川の幅は狭く、いわば船の航行に必要な最小限の分水だったと思われます。
栗橋で渡良瀬川と合流した利根川の主流は、依然として権現堂川→江戸川を流れたと思われます。
そして、1665年の逆川開削より後の時代になると、利根川主流である権現堂川からの流れは、江戸川と逆川経由常陸川との二手に分かれることになります。

元禄15年(1702)下総国絵図 を見ると、渡良瀬川合流点の下流に「利根川 幅弐町四拾七間(167間)」とあり、そこから東に「赤堀川・川幅三拾弐間」が分れています。
10間幅→27間幅(1698)より更に拡張されていますが、それでも利根川の5分の1の川幅です。

権現堂川筋の川幅は関宿の江戸川流頭で65間(壱町五間)、分れる江戸川が43間、逆川が赤堀川と合流した後の関宿・境町間が161間と、渡良瀬川合流後の川幅とほぼ同じ値になっています。
この数値から判断すると、栗橋で2手に分れた流れのうち、権現堂川→逆川を経由して元の常陸川筋への流れが「利根川本流」になっており、赤堀川はバイパスであったと思われます。

つまり、寛文5年(1665)の逆川開削[65862]によって東へ向かう太い流路が確保されたわけで、拡幅された赤堀川と合わせて、この時期に「銚子口への利根川東遷」が一応は完成したと見てよさそうです。

利根川が、権現堂川と赤堀川との二本立てで東へ流れる体制は、長く続きました。
文化6年(1809)、明治4年(1871)、明治45~大正6年(1912-1917)など何度もの赤堀川拡幅工事を経て、遂に権現堂川は大正14年(1925)に流頭が、昭和2年(1927)に流末が締め切らました。
現在のように赤堀川が利根川の唯一の本流になったのは、このようにずっと後のことでした。
戦後のカスリーン台風(1947)を経て赤堀川が更に拡幅され、現在は700mほどになっていることは既に記しました。[65909]

利根川東遷 は、徳川家康時代からの大計画などではなく、試行錯誤を繰り返しながら到達した結果のように思われます。


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