[78789]に続いて、行政区域変遷図
[76001]の情報提供です。
秦野市>秦野市の紹介>プロフィールから「成立」を選ぶと、
秦野市の成立年表 として変遷図があります。
これだけではあまりに素っ気ないので、秦野のことを少し書きます。
秦野に行ったのは60年も前ですが、完全に伏流して、川原石だけの姿をさらす、文字通りの「水無川」には驚きました。
現在は、家庭や工場からの排水が処理され、安定した流量を維持しているようですね。
昭和合併で秦野市が成立する前は、この川が秦野町と南秦野町との境界であったと思われます。従って、1927年4月に小田急が開通して、水無川の南岸に小田急の「大秦野駅」ができた当時の所在地は 南秦野村と思われます。
字名は知りませんが、「大秦野」という地名があったわけではないようす。
秦野盆地は 葉たばこの産地で、「刻みたばこ」原料としての生産が盛んでした。
秦野の「たばこ」を東海道線の二宮まで輸送することを主目的として 明治末期に開業した湘南馬車鉄道は、やがて蒸気動力の湘南軽便鉄道(1918年から 湘南軌道)になり、旅客輸送もしていました。
この
湘南軌道 のルートは、おおまかに言えば二宮から県道 71号を北上し、秦野市街地の東側で水無川を越えます。
1923年の関東大震災では、かなりの被害を受けたものの復旧し、専売局工場まで市内を延長しました。
2代目「秦野駅」の記念碑は、イオン入口の信号付近にあるというので、専売局跡地がスーパーになっているのでしょう。
そこに開通したのが、鬼怒川水力電気の利光鶴松が、全線複線の高速電車によって 東京と小田原との間を直結した 小田原急行鉄道
[34571]です。
こちらは 762mm単線の「軌道」ではなく、堂々たる「鉄道」ですが、駅名ということになると、後発だけに 既存の駅に使われている地名も多く、気を使うことになります。
小田原線開業時の主要駅だけ見ても、下北沢(京王電気軌道に北沢>現在は上北沢)、稲田多摩川
[13284](南武鉄道の登戸にひと足遅れ)、新原町田
[4684][4804](横浜線に原町田)、相模厚木
[12553](神中鉄道に厚木)、新松田(御殿場線に松田)と 軒並みです。相模大野は「駅」でなかったから大野信号所。
「大秦野駅」も、この仲間であることは確かですが、どうもすっきりしません。なぜ 南秦野駅(又は 新秦野駅、相模秦野駅)でなかったのでしょう。
1932年の「大東京」実現
[74867]より 5年前ですが、言葉としては、周辺地域を含めて「大○○」と呼ぶことが流行し始めていたのかもしれません。
鉄道としての実力から言えば、勝負にならない湘南軌道は、1933年に 旅客営業を休止。貨物もこれに続きました。
こうして、同名回避の必要は なくなったのですが、「大秦野駅」の名は 1987年まで 60年間も使われ続けました。
1944年には 相模厚木駅を本厚木駅に改称しているのですから、遅くともこの時までには、大秦野駅を秦野駅に改めても よさそうに思われます。
地元には、周辺地域を含めた「大秦野」構想があり、この言葉が「気に入られる名前」だったのでしょうか。
鉄道と全く無関係の分野でも、1950年に 神奈川県立秦野高等女学校が、神奈川県立大秦野高等学校と改称しています。
こうなると、鉄道駅の同名回避問題を離れて、「大秦野」が独立の地名になったのか? という印象を受けます。