都道府県市区町村
落書き帳

����z�R�ɌW�鎩�R�Ɛl

… スポンサーリンク …



[67407] 2008年 11月 26日(水)13:24:59【1】hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (1) 火山活動がもたらした鉱物資源
[67381] オーナー グリグリさん
小坂鉱山事務所は私には康楽館以上にもっと素晴らしかったです。
明治にこのような素晴らしい建物が小坂の地にあったんですね。鉱山町の繁栄ぶりが伺えます。

みちのくの山の中に鉱山町の繁栄をもたらしたものは、自然の恵みである鉱物資源と、それを利用可能にした人の力でした。
悠久の大地がもたらしたこの地方の金属鉱床の由来から始めて、「小坂」をルーツとして日本の産業を切り開いてきた人々の足跡を辿ってみようと思います。
例によりワイドビューなので、時には「小坂」から逸脱します。この点はご容赦を。

最初に、小坂のある秋田県北東部の鉱物資源のこと。
秋田県北東部は、元々は羽後国北秋田郡(明治11年以前は秋田郡)と陸中国鹿角郡(明治元年12月以前は陸奥国)で、「北鹿(ほくろく)地域」と呼ばれているようです。
小坂(小坂町)の他にも、尾去沢(鹿角市)、花岡(大館市)、阿仁(北秋田市)などに著名な非鉄金属鉱山がありました。もっとも 花輪鉱山 の場合、秋田県側の地名を名乗っていましたが主鉱は岩手県側でした。

秋田大学には、昔から全国でも珍しい「鉱山学部」(1998年から工学資源学部)がありました。そこの先生による 秋田から地球を観察する 黒鉱が語るものpdf 3/5頁の秋田県内の金属鉱山分布図を見ると、尾去沢鉱山・阿仁鉱山など鉱脈型銅鉱床が 65、小坂鉱山・花岡鉱山など黒鉱鉱床が 35 も記されています。

日本が大陸から分離した新第三紀の中新世(約2300~500万年前)。日本海の拡大に伴なって大量の火山岩が噴出しました。緑色凝灰岩(グリーンタフ)地域の火山活動と呼ばれていますが、上記の鉱床は、この火山活動に関連してできたと考えられています。なお日本海側では、石油や天然ガスの鉱床もできています。

鉱脈型鉱床は、鉱物が溶け込んだ熱水が岩盤の割れ目にしみ込み、地表近くで固化したもので、その代表は尾去沢鉱山です。東大寺の大仏や中尊寺の金色堂に使用されたという古い歴史を伝える尾去沢の 金 は涸渇しましたが、元禄時代になると 金鉱に代って銅鉱が発見されました。
北鹿地域の尾去沢銅山(盛岡藩→三菱)と阿仁銅山(久保田藩→古河)とは、伊予の別子銅山(住友家)と共に江戸時代以来の日本の主力銅山でした。

もう一つのタイプの鉱床、小坂鉱山を代表例とする黒鉱鉱床は、海底火山活動に伴う噴気堆積鉱床です。これは 亜鉛・鉛・銅などの硫化物を主とした複雑な岩であり、その他多数の成分も含んでいます。
黒鉱を生成したような噴気は、現在の深海底においても観測され、ブラックスモーカーとかチムニーと呼ばれており、その付近で発見される嫌気性の生命体も注目されています。

黒鉱と同じようなタイプの鉱床は 世界各地に存在し、世界にさきがけてその利用技術が実用化された小坂のある北鹿地域における呼び名から 「KUROKO」が専門分野で通用しています。

名前だけではありません。北鹿地域の黒鉱鉱山は 1994年までに相次いで閉山しましたが、小坂などで長年培われた黒鉱(塊状硫化鉱床)の知識と産業技術(探査・採鉱・精錬など)は、1991年に小坂町に設立された 「金属鉱業研修技術センター」 に引き継がれています。ここでは、多くの留学生を通じて、世界中の発展途上国に鉱業技術を伝えています。
[67425] 2008年 11月 27日(木)16:16:27【1】hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (2) 冶金技術者・大島高任とクルト・ネットー
伝説では和銅(文献では慶長)に遡る尾去沢に比べると、小坂鉱山の歴史は新しいものです。
1829年の 杉原鉛山(誤認) はさておき、幕末(1861年頃)に銀山として発見され、地元民が院内銀山の灰吹き法技術を導入して精錬事業を開始したものの、盛岡藩に召し上げられてしまいました。

小坂で最初に利用された鉱石は、最初に紹介した「黒鉱」[67407]ではなく、それよりも浅い所から採掘される「土鉱」と呼ばれる銀鉱石でした。
慶応2年(1866)盛岡藩勘定奉行加役の大島高任は小阪の鉱床を調査して“希有の良山”と評価し、藩営事業計画を立てたものの、戊辰戦争の混乱で中絶しました。

大島高任 は、これより前の1855年に水戸の烈公(徳川斉昭)に招かれて大砲鋳造用の反射炉を築造しています。ここで鉄鉱石による銑鉄の必要性を知り、鉄鉱石を求めて盛岡藩に戻り、釜石近くの陸中国閉伊郡大橋鉄山に西洋式の高炉を建設しました。安政4年12月1日(1858年1月15日)にわが国最初の出銑に成功しています。
12月1日は「鉄の記念日」になっており、「近代製鉄発祥150周年記念」切手 が、近々発行されます。

それはさておき
明治維新の結果、小坂鉱山は盛岡藩の手から新政府の工部省による官営に移りました(明治3年)。大島高任は、今度は鉱山正権として熔鉱炉や英国式分銀炉を設けて洋式製錬を導入し、翌年岩倉使節団の随員としてドイツの鉱山を視察。大島帰国後の明治6年に、小坂では、ドイツ人技師 クルト・アドルフ・ネットー によりわが国最初の湿式精錬が実現。
クルト・ネットー関係の資料は、小坂鉱山事務所[67381]に展示されていました。

「お雇い外国人教師」のネットーが明治10年に東京大学に転じた後、元藩主の南部氏が小坂の設備を政府から借り受けましたが、その経営を巡って長州系政商の「鉱業会社」と盛岡藩出身の大島高任とが対立。
大島が去ると南部氏の経営は悪化し、明治13年に小坂鉱山を返上。
第2次官営になると大島も戻り、ドイツで習得した溶鉱炉を使わないオーガスチン収銀法を実施しました。
このように、小坂では土鉱からの銀を主とする時代から、当時最新鋭の冶金技術が実施されてきました。
小坂町郷土館[67381] で開催中の特別展では、大島高任関係史料の展示もありました。

当初官営事業による近代化を推進した明治政府は、この頃になると官業の民間払い下げに方針を転換。55万円もの資金を投じた小坂鉱山も払い下げられることになりました。
幕末に小坂銀山の開発を最初に手がけたものの、盛岡藩主に取り上げられ、そのまま明治政府に移されていた地元の小坂村では、この機会に銀山を取り戻そうと払い下げを陳情したが、却下されてしまいました。資金力に劣るのもさることながら、何よりも政府高官への有力なコネがある競願者には太刀打ちできなかったのでした。

その競願者こそ誰あろう、大阪の御用商人・藤田組でした。
藤田組の中心人物は、長州・萩出身の藤田伝三郎です。
この男、高杉晋作の奇兵隊員だった経歴から、井上馨などの政府高官とのコネができ、大阪で陸軍に革靴を納めるなど、政商として活動していました。当時偏見のあった皮革を扱う仕事という着眼点もユニークでした。
明治12年に起きた贋札事件も冤罪となり釈放された後ですが、小坂鉱山払下申請人は共同経営者で実兄の久原庄三郎名義になっています。
藤田組は、首尾よく 20万円・25ヶ年賦という極めて有利な条件で小坂鉱山を手に入れました。明治17年9月18日のことで、藤田組から同和鉱業、DOWAホールディングスと改名した会社は、この日を創立記念日としています。
[67436] 2008年 11月 28日(金)19:08:29【1】hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (3) 藤田伝三郎
小坂鉱山を経営することになった元奇兵隊員・藤田伝三郎[67425]のことを続けます。
政府高官とのコネを利用して金儲けをし、ねたみを買った御用商人の藤田は、長州閥追い落としの標的にされ、贋札使いの疑いで逮捕されるピンチを招きました。
しかし、彼は明治17年頃から、日本の産業の根幹に係る二大事業に専念して汚名をそそぐことになります。
その二大事業とは、小坂を始めとする鉱山事業と、児島湾干拓事業です。

脇道に入りますが、ここで藤田組による児島湾干拓事業について触れておきます。
児島湾の大規模な干拓事業は、17世紀末に池田光政の家臣・津田永忠 によって実現し、幕末には興除新田 [62064] が造成されました。
明治になると、失業した士族が結社を作り、大規模な干拓を政府に働きかけました。明治14年に内務省のお雇い土木技師の ローウェンホルスト・ムルデル が児島湾干拓の基本設計書を作成しましたが、資金難の政府は、干拓事業を実施することができませんでした。

事業主を求めた士族結社が行き着いた先が藤田組でした。藤田としても採算の見通しは持てなかったと思いますが、大きな決断して明治17年出願。小坂払い下げの年です。
明治22年の認可後も防災対策・漁業補償などのハードルを越す必要があり、着工できたのは明治32年(1899)でした。なお、ムルデルは利根運河通水直前の1890年に既に帰国しています。

藤田伝三郎も第2区の完成を見る直前の明治45年(1912)にこの世を去りました。
しかし、この地域に新設された岡山県児島郡 藤田村 [53951]には、広大な藤田農場が生まれました。

第1区から第5区(計画図参照)までは藤田組単独事業で、1905年から1950年にかけて完成。戦後の農地改革と共に第6区、第7区は農林省の国営事業として引き継がれ、1963年(着工から65年目)に総計55km2(5500町歩)の干拓事業が完成しました。
児島湾の一部は堤防で海から仕切られ、淡水化した「児島湖」になりました[37037]

児島湾干拓事業の初期には、本山彦一pdf が藤田組に在籍して尽力しています。後に毎日新聞を代表的な全国紙に育てた人物です。

児島湾干拓はこのくらいにして鉱山業に戻ります。
「小坂鉱山」を手に入れた藤田組ですが、やがて鉱石の「土鉱」の埋蔵量が涸渇して、銀の生産量は明治25年頃から下降線をたどります。追いかけて明治30年に「金本位制」が採用され、銀の価格は暴落します。藤田組は赤字に転落。

それを救ったのが、新たに豊富な資源「黒鉱」の精錬を可能にした技術開発でした。製品としては、銀から銅への転換ということになります。これについては次回(久原房之助)で改めて記します。

大正4年(1915年)には北鹿地区内で同じく「黒鉱」を産出する花岡鉱山(大館市)を買収。その翌年には岡山県の柵原鉱山を買収しています。後者は硫酸原料の硫化鉄鉱を産出し、片上鉄道[57376]による鉱石輸送が行なわれていました。

昭和になり戦時色が強まると、非鉄金属は統制下に置かれ、遂に1943年藤田組の事業は国策会社の帝国鉱業開発に強制的に吸収されました。

戦後、復帰した藤田組は「同和鉱業」と社名変更し、「藤田」の名が消えました。“和衷協同"という言葉に由来。

戦後の発足ながら「藤田」を名乗る会社は「藤田観光」です。東京・目白の「椿山荘」は山縣有朋の私邸でしたが、名園を保存したいという意向を受けて藤田平太郎(伝三郎の息子)が購入したものです。
山縣有朋は明治陸軍の大ボスですが、市制・町村制制定の明治21年当時の内務大臣でもあり、落書き帳の記事にも登場します。藤田との昔の関係では奇兵隊の軍監でした。

藤田伝三郎は、明治期に数々の事業を手がけただけでなく、調停者としての能力もありました。関西財界の重鎮(大阪商法会議所会頭)になり、民間人として初の「男爵」の位を得ました。
[67466] 2008年 12月 1日(月)16:45:29hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (4) 小坂に繁栄を招いた 久原房之助と武田恭作
先週に第5回落書き帳オフ会が行なわれた奥羽国境・湯瀬温泉の北25kmにある小坂町。
ここには、鉱山町のかつての繁栄を窺わせる素晴らしい文化遺産がありました[67381]
この地をルーツとして、日本の各地に花開いた産業に思いを寄せながら、このシリーズ を綴っています。

政界とのコネを利用して明治17年に「小坂鉱山」を手に入れた藤田組ですが、数年間採掘を続けている間に、「土鉱」の埋蔵量が次第に涸渇してきました。銀の生産量は明治25年頃から下降線をたどります。

この頃、久原房之助という青年がいました。藤田伝三郎の実兄・久原庄三郎[67425]の息子です。慶應義塾を出た後、陶磁器などを輸出する森村組(ノリタケカンパニーリミテドの前身)に入社。ニューヨーク勤務の機会をつかんだと思ったら、突然、井上馨に呼び出されました。
“藤田3兄弟の跡取りが外国などとんでもない。小坂に行け。”…鶴の一声には逆らえず、明治24年 藤田組入社。

日清戦争で景気は上向き、水力を利用した自家発電によって電化した鉱山は、ある程度操業合理化が進みましたが、根本的な問題である資源の涸渇は解決していません。
追いかけて明治30年に「金本位制」が採用されました。銀価格の暴落に見舞われ、小坂は赤字に転落してしまいました。

この頃、所長心得として采配をふるっていた久原青年が考えた小坂の起死回生策は、「銀から銅へ」の大転換でした。
原料も涸渇した「土鉱」に代えて、豊富な「黒鉱」を使う。もちろん不純物の多い複雑硫化鉱である「黒鉱」の精錬は困難で、これを利用するためには、技術革新が必要です。

実は 1896年にタスマニア島のライエル鉱山で pyritic smelting という技術が生まれていました。これは、鉱石中の硫黄分・鉄分の酸化熱を利用して溶融させる製錬法であり、久原はこの情報を早くも入手したものと思われます。

日本では生鉱吹、自溶炉とも呼ばれるこの新技術を小阪の「黒鉱」で実用化するための体制作りとして、久原は技師長も変えました。佐渡金山の技師だった仙石亮から大森銅山の武田恭作にしたのです。
武田恭作の経歴は、旧小坂鉱山事務所の誕生 の一番下をご覧ください。

# 鉱山技術者・仙石亮という名から、私は 鉄道技術者・仙石貢 を連想しました。彼らが兄弟か否かは知りません。

# 武田の前任地・大森鉱山は、藤田組が明治19年に手に入れ、銅を主とする再開発を試みた山です。
考えてみれば、長州萩出身の藤田伝三郎にとって、戦国時代に 尼子・大内・毛利の争奪対象だった石見大森の鉱山に対しては、特別の思い入れがあったのかもしれません。
この落書き帳では、世界遺産になる前から、石見銀山 の名が、市名候補で話題になっていました。

冶金については門外漢ですが、推測を交えながら技術開発の大筋を記してみます。
基本的には硫化物鉱石の酸化に伴なう発熱によって溶融状態とし、還元剤として加えた炭素により銅に結合した酸素を除く。
酸化鉄などは、珪酸分と結合したスラグ(からみ)にして浮かせ、取り除く。
小坂町郷土館で得た情報によると、「黒鉱」だけでなく「黄鉱」つまり黄鉄鉱の添加も一つのポイントでした。発熱量を確保し、炭材を節約するためでしょう。
炭材投入位置についても、「羽口炭の投入」という独自の技術改良を加えています。
低品位の金鉱石・銀鉱石も、自熔精錬に必要な珪酸分として役立つので、金・銀・銅の合併精錬に適合しています。
そのほか、武田の経歴に記されているような溶鉱炉の開発も行なわれ、資源として豊富な「黒鉱」を使うため、採算性のよい回収率の設定が可能など、小坂に適合した技術が生まれました。

およそこんな筋書きで、明治33年(1900)には、「黒鉱」を処理する技術の開発に成功しました。
小坂における銅の生産量は、明治26年に 90トンであったものが、明治35年に自熔精錬法による本格設備が稼動した後は 4800トンを記録し、その後の日露戦争による銅価格の上昇もあり、小坂は宝の山になったのでした。

国の重要文化財に指定されている「小坂鉱山事務所」[67381] が建築されたのは、まさに小坂が繁栄期に到達した時代、明治38年(1905)7月のことでした。この事務所は1997年まで使用され、2001年 現在地に復元 されました。
[67480] 2008年 12月 2日(火)21:37:07hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (5) 日立鉱山に転じた久原房之助と 日立製作所を創業した小平浪平
銀山としてはジリ貧状態になり、藤田組としては閉山も考えた小坂鉱山。
硫化金属鉱物を酸化熱により溶融状態にして精錬する方法の存在を知った久原房之助は、小坂付近に豊富に埋蔵されている「黒鉱」[67407] から銅を生産することに挑みました。そして、武田恭作と共に「自熔精錬法」の開発に見事成功。小坂を生き返らせました。

さて、小坂の基礎を築いた久原房之助は、その後でさっさと藤田組を退社し、独立しました。
1905年に細々と稼動していた赤沢銅山[2364] を買収しましたが、この山を選んだ理由は、“山相に惚れ込んだから”とか。
当時の茨城県多賀郡日立村の名にちなんで「日立鉱山」と改称し[2369]、設備を近代化して能率を向上させ、新たな山を開いて、日立を日本有数の銅山に仕立て上げました。

久原は、1906年に小坂鉱山で電気技師だった 小平(おだいら)浪平 をこの日立鉱山に招きました。
日立における小平の最初の仕事は、久原が小坂の近代化にも取り入れた、自家水力発電所の建設でした。実は小平の小坂での初仕事も発電所で、その後、東京電燈で駒橋発電所[43001]にも関わっていました。
このように、日立の工作部門を率いる小平の活躍の場は、鉱山機械の動力として取り入れられた重電機と深く関るものでした。

小平浪平は、精錬所のあった日立村大雄院の鉱山機械修理工場で、1910年に5馬力誘導電動機を製作し、好成績を得ました。
これに自信を得た小平は久原に電気機械製造事業への進出を申し出て許可され、 芝内に新工場が建設されました(現・山手工場)。
日立マークもこの時に作られ、1910年が日立製作所の実質的な創業とみなされています。復元された「創業小屋」には、最初に製作された電動機が動態展示されているそうです。

第一次大戦により外国製品の輸入が途絶し、国産品の注文は増加。工場火災などのトラブルにも遭いましたが、1920年には株式会社日立製作所となって、久原鉱業所から完全に独立しました。

少し前の日立鉱山に戻ります。藤田伝三郎がこの世を去り、明治天皇も崩御して大正元年となった1912年、日立鉱山を経営する久原鉱業所は、近代経営の会社組織に改めました。
この久原鉱業株式会社は、間もなく始まった第一次大戦による経済繁栄の機会をとらえて、非鉄金属鉱山だけでなく、石油・石炭の資源開発にも積極姿勢を示しました。秋田県雄物川油田の探鉱にも着手。日本産業になった昭和に入ってからですが、この油田で大噴油も見ました。 写真

第一次大戦中の久原は、日米合弁の製鉄事業や下松の工業都市建設も計画したようです。
このような 行け行けモード は、第一次大戦の動向次第では危ないことになります。
久原自身も そのことはよく心得ていて、パリに赴任する腹心に大戦終結の兆しを察知したら暗号電報で知らせるよう指示していたそうです。
ところが手違いで、パリからの暗号電報が久原の手元に届かず、彼は方向転換の機会を逃してしまったとか。

結果的には、久原の事業は大戦終結後の不景気の直撃を受けました。
1928年、久原鉱業の経営を(最初の)妻の兄である鮎川義介に譲り、実業界を引退。
政界入りした久原は 政友会に属し、初当選ながら逓信大臣に就任。
余談ながら、翌1929年には民政党内閣に変り、そこで逓信大臣になったのが小泉純一郎の祖父・小泉又次郎でした。

産業界から政界入りした久原房之助という人物の名は昔から聞いていましたが、それは年老いた政治家、 「昭和の怪物」 と呼ばれた姿でした。
今回の小坂訪問を機会に、技術開発に力を注いだ青年時代の久原房之助の姿を知り、思わず詳しすぎる紹介文を書いてしまった結果が、前回[67466]と今回の記事でした。
[67501] 2008年 12月 4日(木)22:18:10hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (6) 久原房之助の事業は、鮎川義介の日産に引き継がれた
小坂鉱山のオーナー・藤田伝三郎[67425][67436]は、重要な決定はするが、事業の実務は信頼する部下に任せるタイプでした。従って、小坂を事業の中心に据えた彼ですが、現地に赴くことは少なかったと思われます。

小坂の現場で、この鉱山を再生させた久原房之助と武田恭作の二人[67466]も、小坂鉱山事務所ができて間もなく小坂を去り、それぞれが日立鉱山と椿鉱山(秋田県山本郡八森村>>八峰町)の経営者として独立しました。
彼らの下で働いた小平浪平も、電力会社を経験した後に日立で仕事をすることになり、日立製作所を創業しました。

ここまでは、タイトルの“小坂鉱山に係る”人たちであることに間違いないわけですが、話の都合で、小坂で働いたことのない人物を一人登場させます。

それは、破綻に瀕した久原鉱業の経営を引き受けた鮎川義介です。
鮎川義介は久原房之助の義兄で、藤田や久原と同じく長州人。井上馨の縁者です。
鮎川は、久原鉱業の組織を持株会社に改めて「日本産業株式会社」と改称し、その株式公開により得た新たな資本により、新たな事業を展開しました。
日立鉱山は、「日産」傘下の事業会社「日本鉱業」になりました。現在の事業は、日鉱金属と石油を主体とするジャパンエナジーに受け継がれています。後者はJOMOのサービスマークでおなじみ。
今日の ニュース で、両社の持株会社・新日鉱ホールディングスと新日本石油との統合が報じられています。

「日産」コンツェルンに属する会社群には、日本鉱業及び日立製作所のほかに、日産化学・日本油脂・日本冷蔵などもありましたが、「日産」のブランドを最も有名にした会社は、言うまでもなく日産自動車です。この会社は、鮎川義介が1933年にダットサンの製造のために自動車製造株式会社として設立。

オフ会のついでに立ち寄った小坂ですが、調べてみると、日本の産業のいろいろなところに、小坂をルーツとする藤田・久原に縁のある産業人が関係していました。
縁をたどれば、日立製作所や日産自動車のような現代日本を代表する企業グループも、小坂とのつながりがあり、地理的な話題も、秋田県内や日立・石見大森の鉱山地帯だけでなく、干拓事業の児島湾に筆が及びました。
[67512] 2008年 12月 5日(金)16:11:42hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (7) その後の小坂
[67503] いっちゃん さん
「小坂をもっと知って欲しい会」会長

「三本松を全国的に有名にする会」会長 以来の伝統を誇る落書き帳内任意団体会長の登場ですね。

これまでに、一升瓶友の会会長[59481]、落書き帳パズル愛好会会長[65820]なんてのもありました。
ニックネームとして、ズバリ「NTJ会長」さんを名乗る方もあります。この方は、再調査予定の島を勝手に確認し隊[34591]、湖水の島探し隊[36028]、湖水の島ファンクラブ[37096] など いろいるな任意団体を立ち上げています。

それはさておき
小坂に戻り、「黒鉱」以後の動きをまとめておきます。
明治35年(1902)6月に黒鉱自溶製錬が本格操業した後、明治38年(1905)に小坂鉱山事務所建築。
明治41年(1908)9月に皇太子殿下(後の大正天皇)行啓。10月には黒鉱露天掘り開始(~1920)。
明治42年(1909)には小坂鉄道が開業。貨物だけでなく、旅客運輸も開始されました。
明治43年(1904)に康楽館が完成。

この後、時代は飛んで、第二次大戦が近づくと政府は戦略物資の非鉄金属の統制にかかります。そして戦時中の昭和18年(1943)の年末には、小坂の経営は、国策会社の帝国鉱業開発株式会社に移りました。
戦争が終って復帰した藤田組は、昭和20年(1945)の12月に同和鉱業と社名変更。

長い操業の間に、さしもの黒鉱も涸渇してきました。幸い、1959年に「内の岱」で大鉱床が発見され、1962年から採掘開始しましたが、1990年に閉鉱。小坂町内のすべての鉱山が閉山したのは1994年でした。

銀鉱山から銅鉱山へと転進し、その歴史も終えた小坂ですが、現在はその技術を生かし、ガリウム(1973)、インジウム(1976)などのレアメタル関連・環境リサイクル事業・金属表面処理など独自の分野に活路を見出しています。
かつて大気汚染物質の硫黄酸化物を排出した金属鉱山は、大量の副生硫酸を鉄道で搬出する時代を経て、電化製品スクラップからの金属資源リサイクル(都市鉱山)など硫黄と無縁な方向へと変りました。DOWAグループ
小坂鉄道の硫酸輸送終了は、本年3月。

先日の小坂訪問の折には遠望しただけでしたが、水蒸気が湧き上がり、現役で稼動している産業施設であることが窺えました。
小坂鉱山事務所の移築復元 も、電解工場増設の支障になったことがきっかけとか。
[67520] 2008年 12月 6日(土)21:47:54hmt さん
小坂鉱山に係る自然と人 (8) 秋田県第2の都会?
古い新聞(日経の前身)に、明治45年の鉱山めぐりの記事がありました。その中の小阪【小坂】鉱山。

中外商業新報明治45年
某月某日、奥羽線大舘駅の一旗亭を発し小阪鉄道に乗換して急行すること十四哩半、海抜五百八十尺の高処に達す、下車すれば眼前に一大市街の開展するを見る、旅館あり、商店あり、郵便電信局あり、銀行あり、学校あり、人口三万と註せらる、即ち是れ鉱山の所在地にして小阪町なりと云う。本邦第一の称、実に余輩を欺かずと思えり。

記事の末尾には、“小阪鉱山今後の盛衰は実に探鉱の成績如何に繋れり、記して他日を俟つ。”と記され、既に黒鉱も無尽蔵ではなくなったことが認識されています。

それはさておき、“人口三万”は、「白桃都市人口研究所」所長から一言ありそうな数字です。

秋田県鹿角郡小坂村の人口は、銀山時代には、明治31年日本帝国人口統計の現住人口 5,187人という程度でした。
これが黒鉱を原料とする銅の生産が始まった明治36年には 7,860人、日露戦争を経た明治41年には 14,975人、大正2年には 19,229人と急増して、土崎港町を追い越して秋田県第3位の人口を擁するに至りました。そして翌年には 小坂町 になり、第一次大戦を迎えます。

この第一次大戦中が小坂の最盛期で、公式人口の最高を記録した大正6年には21,696人で、秋田県第2の都市だったと思われます。大正7年日本帝国人口静態統計 による小坂町の現住人口は 20,217人で、能代港町に僅かに及びません。

それにしても“人口三万”にはなりませんが、明治末期の「小坂村事務報告」に「無届ケ住民ハ少ナクトモ5千ヲ下ラザルベシ」とあるように、人口調査が及ばない人口がかなりあったようです。飯場の浮動人口も加え、秋田市の3万5千人に次ぐ人口3万人も夢物語ではないようだと 郷土館のひとくちメモ は伝えています。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示