都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[6747]2002年12月21日
いな
[10227]2003年3月2日
白桃
[10516]2003年3月6日
ぷりぷり
[51793]2006年6月17日
88
[54582]2006年10月25日
白桃

[6747] 2002年 12月 21日(土)00:33:35いな さん
駅のホームのうどんやさん
私が美味しいと思った駅のホームのうどんやさん(順位はつけていません)

◎盛岡駅
 ・在来線のホームで買って、青森行き特急のなかで食べた、発泡スチロールのどんぶりにはいった細めのうどん
 ・・・おなかが空いていたからだったかもしれない

◎新横浜駅
 ・在来線ホームの菊名寄り階段を降りたところにあるにある「おそば」
 ・・・関東らしくない薄味の出汁。麺も駅そばらしくない粘りのある弾力感。そばは、長野駅や塩尻駅よりも、
  ここの味がいちばん好きですね。

◎京都駅
 ・在来線(東海道線)ホームの「肉うどん」
 ・・・白いエプロンを着たおばちゃんが4~5人いて、手際よく作ってくれる。やさしく微笑みかけてくれるから
 うまさが倍増 <年増好みの私

◎宇高連絡船(駅ホームでは無いが、特例として船の中)
 ・連絡船の船内での「讃岐うどん」 <もうないんですよね
 ・・・なにしろみんなが食べるもんだから、ついついつられて往復とも食べてしまう。船内ならではの空腹感
 だったのかも?味はあんまり覚えていない

@下関駅
 ・山陽線ホームの「かやくうどん」
 ・・・透明な出汁だがしっかりとした味、なまえが火薬で爆発しそうだが、ちくわ・あげ天・かまぼこ・鳴門巻が
 小さく刻まれてはいっている。丸い細い麺が優しい味で、うどんというのはこういう味なんだと実感
 (同時に、愛知県のうどんは何だったのかと落胆)
[10227] 2003年 3月 2日(日)18:18:22【1】白桃 さん
直島のはげ山
[10215]太白さん
銅?の精錬所のために、島から緑が無くなったと聞いたことがありますが、今でもハゲ山なんでしょうか?
白桃も、橋ができてから傍を通らないので最近のことはわかりません。昔は、連絡船やフェリーで通過するたびに異様な景観が不思議だったのですが。銅精錬と関係あるのでしょうけど、あのあたりははげ山になりやすい地質(花崗岩質?)のせいもあるのでしょうか。宇野から(宇野線を)少し乗ったところにも、山(丘)の頂上近くがはげていて、大きな石(岩)が植生も乏しい山肌にごろごろしているのです。
「橋ができてから」って書きましたが、最近は高松に行くのも飛行機ですので旅情がなくなりました。
連絡船のうどんは安くて結構おいしかった。正月や夏休みなど岡山から帰るとき連絡船のうどんを食べるのが楽しみだった。それから、旧高松駅の高徳線のホームの立ち食いうどんも人気がありました。
すみません。はげ山からうどんになってしまいました。昔話ついでに地理学の本で「ハゲ山の研究」(千葉徳爾)というのがありました。読むと頭が禿げそうな気がして結局よみませんでしたが…
[10516] 2003年 3月 6日(木)03:42:59ぷりぷり さん
れすなどです
 東金市の二重飛び地,私も見てみました。変ですねぇ。こんなの知りませんでした。ここ(落書き帳)へ通っててよかった。

 ナビゲーションシステムなどで使われる地図データを作るとき,通常の飛び地やドーナツ(自地域内に他市町村の飛び地を含む側)自治体は面倒です。どうやって別々の面を同じ自治体と認識させるか。どうやって一つの面の中に別の面があることを認識させるか。
方法は,運用する地理情報システム(種類はゴマンとあります)のそれぞれの仕様で異なりますが
 ・「結ぶ」という意味の線分で別々の面を繋ぐ
 ・幅0(零)の面で繋いで同一面とみなす
 ・それぞれの面の持つ情報データでリンクさせる  等々
です。しかし,この二重飛び地の処理例は聞いたことないので作り方に少々興味を覚える私です。国土地理院の「2500分1空間データ」は刊行されているのかしらん。されているとしたら地理院のこと,ちからわざで処理しているような気がします。(関係者の方,深い意味はないですよ)

と,前置きはいいとして
[10123]uttさん
 飯豊山の福島県境は気になりますよね。ひものようなものがひょろひょろと。地図で見る限りの推測ですが飯豊山をご神体とする会津の神社が登山道を確保している,てな感じですか。登山道のみの県境だとしたら,福島県域の幅はいかほどのものか。興味がわきます。詳しいか他がいらっしゃったらご教示ください。
 まあこれも県境だから目立つのであって,市町村境界や大字境界ならたくさん例はあるのでしょう。きっと。

[10450]桃象@頑迷親父さん
 情報ありがとうございます。でも逼迫した つくば行なので学園都市内での行脚を試みております。
 つくばへ始めていったのは博覧会のあったとき。ですが,科学万博内郵便局(期間限定)で満足して帰京してしまいました。見物客を当て込んだコンテナ宿泊施設が印象に残っています。
 2回目は近辺のゆうちゃん及び筑波鉄道廃止記念で行きました。学園都市はとっても無機質でした。そして[8853]でNSKさんも書き込まれていましたように「人がいない」。建物には洗濯物やらあって住んでいる人がいるようなのですが...ウルトラセブンの「地底人」話を思い出してました。学園都市から少しでも外へ出ると茨城然とした風景が広がるだけにその無機質さは際だって印象に残っています。
 3回目以降は仕事で時々行くのですが,泊まりは東京だったり土浦だったり阿見だったり。今回初めての つくばの夜です。まさか地底人が居酒屋に集っているとは思えませんが必要以上にわくわくしていたりして。

[10456]uttさん
 先生の反応はまぁーったくありませんでした。国文卒の若い先生でしたので取り扱いに困ったのか。
 その後エスカレートし,5万分1地形図上で対馬の厳原-比田勝に架空の鉄道を建設して架空鉄道紀行文を文化祭で発表するに至りました。時刻表も作成しましたが,スイッチバックやループをそこかしこに配置したため,たった数十キロを6時間半もかけた(時間,眺望ともに)雄大でてつらー垂涎の線区に仕上がりました。しかしこれまた全校生徒の反応はまぁーったく 無 でした(先生受けだけはよかった)。

[10198][10227]白桃さん
 岡山県南の人口解析,興味深く見させていただきました。こうやってみると産業種の盛衰とともに人口が変動する様がよくわかります。玉野市が増加1位のことがあったのですね。今では想像もできませんが。産業構造不況のうえ四国の玄関でもなくなり,テーマパーク構想は中止になるわ・・・。ぜひとも岡山県の海の玄関口として魅力ある街になっていもらいたいです。ところで宇高連絡船のうどんはおいしかったですね。うどんそのものはたいした代物ではなかったのですが,デッキの開放感とと潮風の添加でしょうか。おなかすいてなくても食べなければいけないと思っていました。今もあるフェリーではカップラーメンなら食べられたと思いますが全く別物ですね。あの感じがなつかしい。買ったばかりのうどんをデッキからどんぶりごと海へ落としたことも思い出。
 また直島のはげ山で印象深いのは,(近年はやっているのか不確かですが)はげ山の頂上から打ち上げる花火大会があるのですね。玉野側から見るのですが,上から「花火」-「はげ山」-「夜の海に映る花火」となります。花火の艶やかさとはげ山の荒廃でシュールな風景です(でした)。

[その他]
 ・山梨県のコモアしおつ関連で「千と千尋・・・」の舞台モデルとありました。私は岐阜県のどこかだと思っていました。初めのほうで「国道21号」が出てきたので。

 ・近頃中間世代という単語がよく出てきますが,私や雑魚さんの世代はなんと呼称すればよいのでしょう(雑魚さんは私のひとつ上と推察しております)。ヒヒ世代?

以上もうすぐ茨城県人のぷりぷりでした。
[51793] 2006年 6月 17日(土)00:29:05【1】88 さん
宇高連絡船 貨車・客車航送について
[51789]EMM さん
宇高連絡船はどうでしたっけ?

[51790]hmt さん
宇高連絡船の客車航送は、大阪-八幡浜・須崎間

[51787]で参照した1952年12月の時刻表に掲載された「主要旅客列車編成」を見たら、大阪21:15発の準急307列車呉線経由広島行(7両)の後に四国行が6両連結されており、これが宇野発2:20(宇高連絡船3便)3:30高松桟橋着の航路で運ばれていたようです。
私は時刻表は復刻版しか所有していないので(しかも他所においており、手元に無い)、助かりました。
国鉄(JR)の宇高連絡船では、客車航送をしておりました。残念ながら、hmtさんご紹介のとおり東京直行ではないようですね。


宇高連絡船の客車航送の記録です。
参考文献:「宇高連絡船78年のあゆみ」萩原幹生著 成山堂書店、H12(2000)年発行
※:萩原幹生氏は、宇高連絡線廃止時の土佐丸船長で、切絵の作者としても著名

M36(1903).3.18山陽鉄道株式会社(現JR山陽本線)が山陽汽船株式会社と共同運航で岡山(京橋)-高松桟橋間で営業開始
(岡山駅-京橋、高松桟橋-高松駅間は人力車継送)
M39(1906).12.1山陽鉄道株式会社の鉄道・各航路、国有化
M43(1910).6.12宇野線営業開始
岡山-高松航路を宇野-高松航路とする(宇高航路78年の歴史の始まり)
T10(1921).10.10渡艀を曳航して貨車航送開始
S11(1935)客載車両渡船建造計画はあったが、その後戦争のため中断
S21頃S20、S21の旅客輸送人員増を受け、根本的に輸送力を改革する計画が再び取り上げられる
将来の輸送要請量に対処するためにも客載車両渡船の製造は必然的なものであり、
財政上の困難を排除して建造、同時に水陸連絡施設も工事開始
S22(1947).7.6客載車両渡船第一船紫雲丸就航
S23(1948).2.26客載車両渡船第二船眉山丸就航
S23(1948).6.25客載車両渡船第三船鷲羽丸就航
S25(1950).5.12客車航送試運転実施
S25(1950).6.21客車航送試運転実施
S25(1950).10.1客車航送開始
S30(1955).5.11紫雲丸事故
S53(1978).10.10瀬戸大橋着工
S63(1988).4.9宇高連絡船廃止
S63(1988).4.10瀬戸大橋開通

この客車航送ですが、上記文献から引用すると、
"海を行く客車"のポスターで華々しく宣伝された直通夜行大阪発507便は168名の旅客を載せたまま連絡船に積み込まれ、初めて海を渡った。・・・・客車航送能力は1航海6両で一日上・下便合わせて2航海行い、航送定員は上・下とも432名であったが実数は定員を相当上回っていた。・・・・しかし、長距離旅客からはこのように歓迎された"海を行く客車"も、紫雲丸事故によって安全上の見地から昭和30年5月11日限り、好成績を残しながらわずか4年余りで中止となるのである。
とあります。
紫雲丸事故のとき、紫雲丸には、旅客781名、貨車15両、手荷物及び郵便車4両を積載していました(客車航送便ではありません)。犠牲者は、旅客166名(一般旅客58名、修学旅行関係者108名)、船員2名です。
(注:旅客の一般・修学旅行関係者の内訳は、『宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか』萩原幹生著、成山堂書店、H12(2000)年発行)による)

また、客車航送便輸送人員は、このように掲載されています。
下り上り合計1日平均記事
S25.1012,58514,29526,8808673便 20便
S25.1111,63612,65324,2898103便 20便
S25.1214,64814,11728,7659283便 20便
S26. 114,83617,87132,7071,0553便 20便
S26. 214,28015,75630,0461,0733便 20便
S26. 318,36619,09837,4641,2093便 20便
S26197,848200,951398,7991,0923便 2便
S27215,237212,883428,1201,1733便 2便
S28224,417219,205443,6221,2153便 2便
S29231,370216,391447,7611,2273便 2便
S30. 421,17121,43542,6061,4203便 2便
S30. 56,8406,26313,1031,1913便 2便
S25.10.1からS30.5.11まで、一日平均1,158人でした。

修学旅行生と思しき生徒が客車に乗ったまま積み込まれる写真が、同書にも掲載されています。私も幼少の頃他の文献でこの写真を見たことがあり、よく使われる写真でしょう。

紫雲丸事故を受け、明治以来あった本四架橋案が具体化し、瀬戸大橋につながって行きました。

なお、貨車航送は、瀬戸大橋開通前まで行われていました。桟橋から貨車が積み込まれていく情景は、私にとって連絡船甲板のうどんとともに既になつかしいものとなりました。

[51790]hmtさんの訂正([51800]hmtさん参照)により、引用部分を訂正
[54582] 2006年 10月 25日(水)00:10:28白桃 さん
ショート・ショート
市川市に合併の相手先として1番人気で指名された浦安市。この前、市長選挙がありましたが、合併の話を持ち出した候補者はいなかったようです。そんなことしたら落選確実でしょうね。

さるヤンゴトナキお方から、「連絡船のうどん」をいただきました。久しぶりに美味しいと感じましたが、デッキで潮風にあたりながら食べるともっと美味しいでしょうね。

栃木、埼玉、神奈川、長野、愛知、大阪、山口、福岡
この共通点は?
ハイそうです。2005国勢調査確定人口が未だに公表されていないベスト8?です。
なんか、一癖もフタ久世もある府県が並んでいます。
でも、公表されるのは時間の問題。あぁ、十番勝負と重なりそう。コマッタ、コマッタ。


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