都道府県市区町村
落書き帳

���s������v���Y���l���ړn��

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[7175]2002年12月31日
ニジェガロージェッツ
[7186]2002年12月31日
TN
[7225]2003年1月1日
ニジェガロージェッツ
[29495]2004年6月20日
YSK
[60942]2007年8月31日
inakanomozart
[61016]2007年9月3日
ニジェガロージェッツ
[64671]2008年4月13日
TN
[64704]2008年4月14日
ニジェガロージェッツ
[64773]2008年4月17日
ニジェガロージェッツ

[7175] 2002年 12月 31日(火)01:16:32【1】ニジェガロージェッツ さん
大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺
住居表示に関するテーマが今月中頃に話題となっていましたが、私からも遅れレスになりましたが書き込みさせて頂きます。

現在市街地では1962年5月10日施行の「住居表示に関する法律」に基づく「新住居表示法」により「町丁目名」「街区符号」「住居番号」により表示する所が多くなっています。
仮に「大泊船見町五丁目19番9号」という地名があったとします(実際には存在しません、念のため)。
このうち「大泊船見町五丁目」は町丁目名であり地名で、「19番」は街区符号、「9号」が住居番号を表すことは、既出につき改めてご説明するまでもないことと存じます。そのため「丁目」は地名の一部であって番号符号の類ではないので漢数字で表記し、また地名愛好家の立場から「丁目」を略すべきではないと思いますが、それらを略して街区符号と住居番号とつづけて「大泊船見5-19-9」書こうが、要は判ればいいことだと思います。
面白いのは「住居番号」で、それぞれの街区の角地を起点とし、そこから右回りで10メートルおきに番号をとり、10メートルおきのピッチ(フロンテージ)のどこに住居の入り口があるかによって決められていることです。ですから、上記の住所を頼りに現地に行き、「19-3」という番号を見たとすると、そこから右回りに9-3=6、つまり60メートル行けが「19-9」に行き当たるということです。

と、言うことで全国津々浦々でこの「新住居表示法」に基づいて住居表示の変更が実施されました。が、道路や線路などの「恒久的な施設」によって町域を設定し直すのに伴い、歴史的な地名の「大量粛清」が行われたのは大変残念なことです。

しかし、大阪市の都心に面白い珍例があります。
かつて、「大阪市東区渡辺町」という由緒ある町名がありました。
「坐摩(いかすり)神社」のあるところで、中世には「摂津渡辺」と呼ばれた地で(そういえば高校の社会科で見た副読本の歴史地図に「大阪」のことを「渡辺」と書いてあった)、源頼光の四天王と呼ばれた渡辺綱を始祖とする渡辺党という武士団にいきあたり、全国の渡辺姓のルーツとも言える町名でした。
ところが1989年2月13日、大阪市東区と南区を合区して新たに中央区とするのに際し、この区域にも「新住居表示」により町域を統廃合することとなり、北久太郎町、北久宝寺町や横堤に囲まれたこの狭い渡辺町は新たに設けられる「久太郎町四丁目」の一部に組み込まれ、廃止されることとなりました。
が、渡辺町廃止の計画は地域住民のみならず全国の「渡辺さん」の大反対になり、そこで大阪市は知恵を絞りに絞り、数字で表される「街区符号」の一つとして「渡辺」を残すというユニークな解答を出しました。
ここに「大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺」という街区が誕生することとなりました。
因みに、前出の坐摩神社の住居表示は「久太郎町四丁目渡辺3号」となり、
大阪府神社庁の住所は「久太郎町四丁目渡辺6号」となっています。
[7186] 2002年 12月 31日(火)11:33:06【1】TN さん
Re:大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺
[7175]ニジェガロージェッツ さん
>しかし、大阪市の都心に面白い珍例があります。
>数字で表される「街区符号」の一つとして「渡辺」を残すというユニークな解答を出しました。
>ここに「大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺」という街区が誕生することとなりました。
>因みに、前出の坐摩神社の住居表示は「久太郎町四丁目渡辺3号」となり、
大阪府神社庁の住所は「久太郎町四丁目渡辺6号」となっています。

いやぁ、私はこのようなお話は大好きです。
私がなぜ、このように珍ネタマニアになったのか不明ですが、名古屋都心のギザギザもそうなのですが、ほんとに興味をそそられます。
貴重なお話、どうも有り難う御座いました。

追記:どうしても表示板を見たくなり、探したらありました。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/8354/fuukei/watanabe.html
[7225] 2003年 1月 1日(水)01:07:47ニジェガロージェッツ さん
С Новым Годом !
С Новым Годом ! = 新年あけましておめでとう御座います。

2002年は最後まで余りにも色々あり過ぎましたが(寧ろ震災の時のほうが平穏だったとさえ思える)、この「落書き帳」に出会ったのがひとつの幸運だったのでしょうか。
2003年の年頭にあたり、皆様の益々のご発展をお祈り申し上げます。
私はといえば、正月は返上でアルバイトの毎日が続いています。今日も今、帰って参りました。

[7186][7198] TNさん
レスありがとう御座います。
「大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺」の画像、面白く拝見させて頂きました。
実際に現地へ行ったことは無かったのですが、渡辺町廃止の当時に関西方面のテレビ各局のニュースで何度か見たことがあり、記憶にあったのを纏めてレスしたのですが、このような画像があったとは驚きです。
それと中央区道頓堀一丁目の件、上町の件は存じませんでした。勉強になりました。重ねて御礼申し上げます。
で、「名古屋都心のギザギザ」とは何ですか?

[7217]YSK さん
>今年も、ガンガン地域を歩いて、たくさんの地域についての情報を発信していけたらと思います。
是非、神戸にもおいでになって下さい。神戸はこの17日で震災8年を迎えます。当時、長田区、須磨区の焼け野原を避難所からカメラ片手に散策したのを思い出します。これを機に時間があれば同じ道をまたカメラ片手に歩いてみたく思っています。何らかの形で一つレスを送ろうかと考えています。
[29495] 2004年 6月 20日(日)22:06:59YSK[両毛人] さん
住居表示アーカイブ
丁目と字名に関するアーカイブに引き続き、住居表示制度の概要に着目したアーカイブを編集してみました。

住居表示と地番とは違うものなの?
http://uub.jp/arc/arc459.html

住居表示制度に関しては、「落書き帳」でも何度もご紹介している、今尾恵介さんの著書『住所と地名の大研究』新潮選書 が本当に分かりやすいですね。

[14042]ゆうさん
ほとんどの地域が街区方式。道路方式の例は山形県東根市の神町駅東側付近のみ

今尾氏も、上記の著書の中で、道路方式を採用しているのは東根市の当該地域しか確認できていない、としていますね。その他、過去にこちらでも話題になった、大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺や、同上町Aもしっかりと紹介されていました。

中には、こんな事例も。

日野市神明町一丁目12番1(日野市役所)

一見して住居表示がされている地区のように見えるこの住所、実は「12番1」は地番(枝番付き)でして、街区符号と住居番号ではないのですね(最後が単に「1」になっています。「1号」でないのがポイント)。住居表示が実施されたのではなく、地番が整理された結果のもののようです。私の持っている地図で日野市役所付近を見ましたら、さも住居表示実施区域であるかのように描かれています。まあ、住居表示の実施・未実施に関わらず、この場合は「神明町一丁目」が町名なわけですから、地図上で両者の明確な区分をする必要はないとは思いますね。
[60942] 2007年 8月 31日(金)20:30:39【1】inakanomozart さん
背割りの住居表示
[60910] 2007 年 8 月 30 日 (木) 02:01:09 ニジェガロージェッツさん
東横堀川の東(糸屋町、内本町、両替町など)では2筋ごとの丁目割で2丁目まで、東横堀川の西(道修町、平野町など)では1,3,4,5丁目は2筋ごとに、2丁目のみ3筋で丁目割が為されていました。なお、東横堀川は中央大通り(町名で言えば「船場中央」、但し昭和13年の地図では中央大通り開通前で「船場中央」という町名は存在せず)以南では1筋分東にずれており、唐物町より南の各町では1丁目が3筋分の長さになっています。

東横堀川を挟んだ地域の丁目割の現状と過去のそれとの対比について的確な情報ありがとうございます。
なかなか興味深いものがあります。
実は、この地域の住居表示実施状況は、一般の住居表示地区とは大きく異なる点があり、以前からこの地域について興味の目を向けていました。
というのは、町の境界が道路・鉄道・河川・水路などの恒久的施設等によって区切られているのではなく、昔ながら背割り式の町割りのまま住居表示されているからです。
もちろん、背割りの部分(例えば道修町と平野町の間)には、かつては「背割溝」があったであろうし、現在もそれが残っていたり、あるいはその名残のようなものがあるため、比較的町の境界を設定するのに困難がなかったせいなのかもしれません。
しかし、そのような状況下にあっても、大阪市以外の場合は、例外的に町境にしている例が散見される程度で、この地域のように全面的に採用されているのは、大変特異な例だと思われます。
そのほか街区符号の“渡辺”(久太郎町四丁目)とか“A・B・C”(上町)など、原則に必ずしもとらわれない大阪市の住居表示制度に対する柔軟な対応には、感心させられます。
[61016] 2007年 9月 3日(月)02:30:56ニジェガロージェッツ さん
まとめレスにて恐縮
数ヶ月前の記事へのレスもありますが、いつもながらの亀レス、まとめレスにて恐縮です。

[58258] 2007 年 5 月 3 日 (木) 00:11:22【2】 いっちゃん さん
中でもこれは感動モノです。70~80年代にそれなりの年齢だった関西人(関西系?)には堪りません
小生の名まで挙げていただいておきながら、反応出来ずにおりました。
自称「浪速のモーツァルト」ことキダ・タロー氏作曲のメドレーですが、キダ氏は今でも関西のメディアでは露出度が高く、ときどき曲を聞かされるので、特に「懐かしい」というよりは、「また相変わらず・・」というのが率直な感想でした。
70~80年代に関西に住み、その後関西を離れた方々には、確かに懐かしさがこみ上げてくるメドレーだとは思います。


[59382] 2007 年 6 月 23 日 (土) 22:26:22 雪の字 さん
ありました!「志の田うどん」が。それとは別に「きつねうどん」もありました。
(中略) 「きつね」と「しのだ」は、別物のようです。
[54256]むっくんさんのお話から、名古屋では「しのだ」はお揚げを短冊状に切って具にした饂飩、「きつね」はお揚げが一枚ものの状態で具にした饂飩のようですね。
ただ、
「このあたりは東西の中間という感じだから、店によっても差が激しいよ。二、三件のお店を見て、わかったような事を書いちゃダメだよ」
というご忠告からすると、これもお店によりけりでしょうか。(笑)
出汁の濃い淡いを含めて、名古屋では当たり外れが多いと覚悟しておかなければなりませんね。


[59578] 2007 年 7 月 1 日 (日) 22:49:53 小松原ラガー さん
北側を呼ぶ時には・・・恐らく「大池」、「唐櫃」、「花山」など、もっと細かい地名を使っているケースが多く、意外と「裏六甲」という言葉は使っていない状況です。
学生時代は六甲山系のハイキングを趣味としていて、いちいち距離を計算して付けていたのですが、二度の六甲全山縦走大会への参加を含めて4年間(昭和56~60年)の合計で1100kmほど六甲山系を歩きました。そういう経験から「裏六甲」という言葉についてですが、神戸電鉄沿線の住宅地には用いられていないと感じております。ですが、もちろん「死語」になっているとも思いません。
拙稿[42057]にも書きましたが、あくまで六甲山域(登山道関係や自動車道など)に限る、「六甲山脈の北斜面」としての意味合いのみです。
もちろん「表六甲」も同じで、山域のみの範囲で「六甲山脈の南斜面」との意味で、神戸旧市街地を表す言葉ではありません。
小生らは六甲山域を3分割して、「表六甲」「六甲山上」「裏六甲」と区分していました。あまり六甲登山に縁のない他人に説明する際には、「表六甲の油コブシ山」」とか「六甲山上の三国池」とか「裏六甲の地獄谷」といった具合に話をしていました。


[60913] 2007 年 8 月 30 日 (木) 10:06:43 稚拙 さん
ああ、「あのころの未来」っていうのは、そういうことなんだな、とわかりました。
「あのころの未来」ですか。確かに、あのころ(小生が中学生だった当時)から見た未来ですね。
しかし、そういうロマンチックな言葉は思い浮かびませんでした。稚拙さんのセンスに一本取られた感じです。


[58685] 2007 年 5 月 26 日 (土) 23:45:19 白桃 さん
[59385] 2007 年 6 月 23 日 (土) 23:55:08【1】 hmt さん
古い拙稿を思い出していただき感激しております。有難うございました。
今の小生は「書くことすべて書き尽くし」賞味期限の切れた状態を自覚しておりますが、当時はいろいろ変わったことを書いておりました。お恥ずかしい限りです。


[60942] 2007 年 8 月 31 日 (金) 20:30:39【1】 inakanomozart さん
そのほか街区符号の“渡辺”(久太郎町四丁目)とか“A・B・C”(上町)など、原則に必ずしもとらわれない大阪市の住居表示制度に対する柔軟な対応には、感心させられます。
確かに「渡辺」はユニークな回答と思います。
ですが、[7379]てへへさんの記事にもあり、まがみさんにはオフで地図を見せて教えてもらったのですが、同じ大阪市の鶴見区の焼野1丁目焼野2丁目浜5丁目諸口5丁目の街区番号の付け方は柔軟というより、奇怪です。
大阪市はどちらかと言えば、新住居表示実施に際して従来の町名を無視し、バッサリと纏めてしまったという印象があります。
神戸市は東灘区では随分派手にやりましたが(拙稿[15018]に関連記事)、旧市街地の他の区では、旧町名を出来るだけ尊重した形で柔軟に新住居表示を実施しています。


[60856] 2007 年 8 月 28 日 (火) 02:11:04 ペーロケ さん
最近は「過去ログにあることを書き込んではいけない」等、いい意味でも悪い意味でも敷居が高くなったような気がして
それは少し違うと思います。
過去ログにあることでも、別の視点からの書き込みであれば、大いに書いても良いのではないでしょうか。古い記事の投稿時点と今ではメンバーも違っていますから、全く新しい視点や別の解釈からの議論の展開も望めるかも知れません。
ただし、同じ話題であれば、過去にどのような記事のやり取りがあったかは「記事検索」で調べた上で、記事番号のリンクは最低限のマナーだと思います。その点、hmtさんなどの記事には過去ログへのタイトルまでつけてリンクしておられ、いつも感心させられます。

何につけても、書き込む場合には6万記事に及ぶ過去ログの中に「既に述べられている」と考えた方が良いと思います。最低限、キーワードとなる語句ぐらいは記事検索すべきと考えます。
記事検索には時々エラーが出る場合がありますが、うまくいくまで何度も繰り返せば良いだけのことで、記事の書き込みを急ぐ必要などはどこにも無いと思います。


[61001] 2007 年 9 月 2 日 (日) 19:12:00 グリグリ さん
第二回神戸開催でも地元のニジェガロージェッツさんに献身的な準備作業を行っていただきました。
いや、こればかりは、小生だけのことではありません。ご参加いただいた皆様のお力添えのお蔭です。第四回オフ会の成功を祈ります。


横レスになりますが、一言だけ。
[60971] 2007 年 9 月 2 日 (日) 01:17:21【1】 ペーロケ さん
そう、台湾を忘れていたんですよね。。。
台湾を忘れられると、「蛍の光」の4番が、歌えない。
[64671] 2008年 4月 13日(日)04:10:52TN さん
2例目の地名街区(鴻巣)
高崎線鴻巣駅前再開発地区内の街区公園に「宮本町」「本一町」という江戸期から1965年まで続いた地名を復活させる、という記事が掲載されていました。(埼玉新聞4/10)
現在の鴻巣市本町一丁目3番の一部が、本町一丁目宮本町あるいは本一町になるのですが、大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺とも無縁ではなさそうです。
http://www.saitama-np.co.jp/news04/10/03l.html
[64704] 2008年 4月 14日(月)01:39:32【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:2例目の地名街区(鴻巣)
[64671] TN さん
鴻巣での旧町名復活の面白いお話有難うございます。
リンクしていただいたWeb埼玉の「40年ぶりに町名復活」記事には、先例となった大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺街区の誕生を「十年前」としていますが、これは間違いです。拙稿[7175]の繰り返しになりますが、実際に誕生したのは平成元(1989)年2月13日に行われた行政区再編による中央区の誕生(東区と南区の合区)に合わせて実施された住居表示変更によるものですから、もう19年も前のことです。

今回の鴻巣の場合は、再開発で整備された駅前の公園とのことで旧町名の復活が容易だったことが挙げられていますが、それにしても市の粋な計らいには拍手を送りたいところです。
加えて、旧大阪市東区渡辺町の町名由来となっていた嵯峨源氏の渡辺綱が鴻巣出身ですか。何かお話が出来すぎているような。千年の時を経て町名復活劇の話題としてその名が取り沙汰されるとは、平安時代の武将も想像だにしなかったことでしょう。

なお、大阪市内の地名街区として渡辺の他には鶴見区に諸口五丁目浜6~浜14街区があります。
現在の鶴見区浜(1~5丁目)、諸口(1~6丁目)の領域には、住居表示変更前には茨田浜町と茨田諸口町がありましたが、「諸口五丁目」となった区画には旧茨田浜町の一部が含まれており、その部分の街区に「浜」を冠して番号を付けたと推測できます。
[64773] 2008年 4月 17日(木)02:22:31【1】ニジェガロージェッツ さん
鶴見区諸口五丁目浜
[64732] TN さん
早速の鴻巣実地踏査お疲れ様でした。実際に本町一丁目宮本町、本町一丁目本一町の存在を現地入りしてご確認されるとは、いつもながらの探究心、敬服いたしております。
確かにWeb埼玉の記事にある現地の写真と、地図で見た駅前再開発地区のイメージが一致しませんでした。TNさんの調査で再開発のメイン地区A1とは道一つ隔てた細い三角地が件の公園とはちょっと意外でした。面白い情報ありがとうございました。

さて、今回の町名復活劇の先達となった大阪の「東区渡辺町」を「中央区久太郎町四丁目渡辺」として保存した例には、「鶴見区諸口五丁目浜」にその伏線があったのかなと感じています。
私事ですが「久太郎町四丁目渡辺」を拙稿[7175]にてご紹介した際には「鶴見区諸口五丁目浜」の事例を知らず、これを認識したのは[7379]てへへさんの記事にありますが、後にまがみさんとお会いした際に地図で教えていただいてからのことでした。([61016] に関連)
拙稿[64704]にご紹介したように、新住居表示実施による現在の浜(1~5丁目)、諸口(1~6丁目)が起立する前の町名は茨田浜町(マッタハマチョウ)と茨田諸口町(マッタモロクチチョウ)でした。手元に昭和56年と昭和60年の大阪市の区分地図があるのですが、56年版は茨田浜町と茨田諸口町、60年版では既に浜1~5丁目、諸口1~6丁目、緑地公園に分かれていますから、ここではこの間に新住居表示が実施されたようです。一方で東区渡辺町は両地図ともに健在です。
旧茨田浜町南端と茨田諸口町の境界は府道23号大阪生駒線よりやや南の市街地に食い込んでいましたが、新住居表示に際しては大阪生駒線を境界とし、同線より南にはみ出した茨田浜町南端部分は諸口五丁目に組み込まれました。「諸口五丁目浜6~浜14」との街区符号が打たれた部分はその一部分です。しかしながら、そこまでしてここに旧茨田浜町の一角である名残を残す必要があったのならば、大阪生駒線の南の街区を「浜六丁目」として「諸口五丁目」から分離した町割りが出来なかったのかが疑問です。「浜6~浜14」とは何か変則的と言うか、姑息と言うか。
その数年後に大阪の都心では久太郎町の新設による渡辺町廃止の問題が持ち上がるわけですが、「諸口五丁目浜」の実績から「久太郎町四丁目渡辺」につながったのではないかと想像しております。
もしも「浜六丁目」を作る英断をしていれば、「久太郎町四丁目渡辺」という発想は出ずに終わり、鴻巣の「本町一丁目宮本町、本町一丁目本一町」誕生もなかったのかも知れません。
傍目には姑息な手段とも映る大阪市の地名街区符号の苦心が生んだ怪我の巧妙でしょうか。

なお、茨田は大阪湾岸から遠く離れた内陸の旧河内国に属していますが、そこに茨田浜町という「浜」が付く地名があるのは、古代の「難波の入江」が大阪平野の奥深くまで達していた頃の名残といわれています。

【1】地名街区符合を地名街区符号に訂正
#この原稿を書き始めた頃、久しぶりに「悪夢の揺れ」がありました。ここ長田区では震度3とか。規模はあの時と比べられないぐらい小さなものでしたが、揺れる方向は同じようなものに感じられたので気味が悪かったです。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示