都道府県市区町村
落書き帳

�y���\�l��\�ԏ��� ��\�F���L���z

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[72830]2009年11月12日
hmt

[72830] 2009年 11月 12日(木)18:45:27【1】hmt さん
転勤大名の悲哀 松平大和守
[72803] 油天神山 さん
【十番勝負問十で】例えば川越市を答えると地雷を踏むことになります。文久三年といえば大政奉還の5年前、もう幕末と言っても良い時期ですが、その5年間の変動に引っかからずに済んだのはラッキーでした。

リンクしていただいた 文久3年石高ランキング の 24位には、武蔵川越 17万石 松平直克 と記されています。
実は、準地元住民の hmt としては、川越藩 17万石という数字に、少し意外という印象を受けたのでした。

「川越の殿様」は幕府の要職を務める 10万石前後の譜代大名。
これは、川越藩主8家の大部分にあてはまる「常識」であると思っていたですが、例外的と考えていた 15~17万石の御家門である松平大和守家の時代は、年数を数えてみれば、江戸時代後期の 100年(1767~1867)もの期間を占めていたので、上記の「常識」は、必ずしも正しい認識ではなかったのでした。

譜代大名時代よりも一回り大きな石高を有したこの時代は、川越藩にとって栄光の時代だったのでしょうか?

とんでもない。家系だけは御家門筆頭の越前松平家出身なのですが、江戸時代の前期・中期には度重なる国替え。
家臣を引き連れての引越しは費用がかさみ、その借財に苦しみました。
そしてようやく落ち着いたと思った前橋では、利根川の浸食で城を放棄せざるを得なくなりました。
幕府にお願いして、空き城になった川越に借家住まいをさせてもらったものの、肩身の狭い境遇でしょう。

300諸侯の中でも、比類のない転勤歴だと思われるので、松平大和守家の国替えの歴史をたどってみます。
初代の松平直基は、越前松平家の始祖秀康(家康の次男)の五男で、結城家の5千石を相続した11年後、1624年越前勝山の3万石で大名になりました。その後、越前大野5万石、山形15万石、姫路15万石と移りましたが、直基の時代は、石高が増加し、重要地を任せられる栄転に伴なう国替えでした。

不運は2代の松平直矩から始まります。父の死去で5歳で相続したものの、要地の姫路は任せられぬと越後村上に国替。
長じて姫路に戻れたものの、越後騒動に連座して日田7万石に左遷。
その後山形 10万石を経て白河で 15万石を回復したが1代で5回も引越し、借財を負うことになりました。

4代の松平明矩の時に、3度目の姫路に戻れましたが、彼の急死で5代を継いだ朝矩は、またも若年の 11歳。
同じ頃、同じ 15万石ながら豊かと考えられた姫路への転封を図った譜代大名の前橋藩・酒井雅楽頭家の画策もあり、両者の領地替えということになりました(1749)。
領地替えの結果、姫路に移った酒井家の方も思惑通りの財政改善には結びつかなかったようですが、松平大和守家にとって 11番目の任地となった前橋は、更に悲惨な状況でした。
利根川の浸食により前橋城本丸は崩壊しはじめ、放棄せざるを得ないことになったのです。

1767年になると、田沼意次の独裁に反発して対立した老中・秋元涼朝が山形に左遷され、川越が空き城になりました。
松平朝矩は、そこで幕府に頼み込んで、川越に入れてもらったのでしょう。

松平大和守家としては、借家生活から戻りたいが、前橋城の復旧をする資金などありません。
そこで、8代の松平斉典が目をつけたのが、実質20万石とも噂された豊かな出羽庄内への転封計画です。
すなわち、庄内の酒井氏を長岡へ、長岡の牧野氏を川越へと移し、松平氏が川越から庄内に移るという三方領地替えを画策し、天保11年(1840)に幕府の命令を出すことに成功しました。
しかし、庄内の百姓の反対運動や将軍家斉の死去があり、この転封計画は中止されました。藤沢周平作品の題材
庄内移転は実現しなかったものの、川越藩は2万石を加増してもらい、17万石になりました。

転勤大名の松平大和守も、緊急避難という形で入城した川越で7代を重ね、11代の松平直克になりました。
そして、文久3年(1863)に幕府の許可を得て前橋城の再建を開始しました。
時代は幕末。この年に、松平直克は第2代で最後の政事総裁になっています。(初代政事総裁は本家福井の松平慶永。)
親藩になってからは、川越藩主も幕府要職と無縁でしたが、久しぶりの復活です。

前橋城は、慶応3年(1867)に完成して、松平大和守家は、100年ぶりに前橋に戻ることができました。
でも、この年にはもう大政奉還ですね。
最後の最後まで運の悪かった大名家は、明治2年(1869)に版籍を奉還することになり、明治政府の前橋知藩事になりました。
転勤を重ねた松平大和守御家中は、13番目の任地である前橋で終焉を迎えました。

版籍奉還より2年前の慶応3年に、 17万石の松平大和守家は前橋帰還を果たしたので、十番勝負問十では、前橋市[72668]が該当することになりました。
入れ違いに川越城に入ったのは、外国奉行などを勤め、欧州出張も経験した後に老中になった松平康英です。三河以来の譜代家臣で、松井松平家と呼ばれます。
現在の東松山市など比企地方は前橋藩領になり、今度の川越藩領は8万石。
だから、[72803]油天神山さん ご指摘のように、文久3年のデータで川越市と答えたら不正解。

【追記】
冒頭で引用した文久3年石高ランキングを見直したら、56位にも“武蔵川越 8万4千石 松平康英”がありました。
本文に記したように、これは幕末の川越藩ですから、文久3年のデータとしては間違いです。
松平康英は、41位に“陸奥棚倉 10万石”で記されています。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示