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[74354] 2010年 3月 14日(日)23:09:05【2】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (3)旧・市制 第60条による 3種類の「区」
始めに記号の説明。今回、「市制の下での区」に説明上の記号B1~B3を付すにあたり、「市の前身である区」にもAで始まる記号を付けることにしました。

[74334]では 郡区町村編制法により設けられた「第一世代の区」(A1)について、そして[74335]では、明治21年の法律(旧・市制)が施行された時代になってからも 三大都市に居座っていた“従来の区”について記しました。後者は、本質的にはA1の遺物ですが、別の特例法で残されているので、A2と呼ぶことにします。

(旧)市制に基づく 本来の「区」は、第60条第1項に規定されています。【明治33年改正後[63761][72207]
凡市ハ 庶務便宜ノ為メ 市参事会ノ意見ヲ以テ 之ヲ数区ニ分チ 毎区区長及其代理者各一名ヲ置クコトヲ得
区長及其代理者ハ名誉職トス
但東京京都大阪【及人口二十万以上ノ市】ニ於テハ区長ヲ有給吏員ト為スコトヲ得

便宜上3文に分けて記しましたが、これによって3種類の「区」を区別することができます。
B1 三大都市(東京京都大阪)の区【第60条第1項第3文】
B2 人口二十万以上ノ市の区【1900年改正後の第60条第1項第3文】
B3 一般の市【第60条第1項第1文“凡(およそ)”で、市一般に適用、第2文により区長は名誉職】

三大都市については、1889年以来の9年半は、三市特例法で残された“従来の区”(A2)が続いていました。
特例法廃止に伴なう 1898年改正の市制第3条にも まだ“従来の区”という言葉が残っていますが[74320]、3条後段、72条など他の規定も設けられ、区が市域内に移行するにあたり 郡部から一部の町村も編入されるなど、区の中身は様変わりしています[74335]

要するに、三市特例法廃止の 1898.10.1に至り、“凡そ市は(中略)之を数区に分ち 毎区区長…を置くことを得”という第60条第1項の規定通りに、「三大都市の中に区が設置された」(B1)ものと認められます。

この見方は、この時に出された 東京市、京都市、大阪市の区についての勅令 にも矛盾するものでないと思います。

人口二十万以上ノ市の区(B2)に関しては、2003年に [10991] Issie さんの記事がありました。
1900年に「市制」が改正されて人口20万以上の「市」には,市域を分割して「区」を設置し,市の職員(吏員)である「区長」を置くことができるようになりました。

2008年になって、今度は 勅令第98号として話題に登場しました。
[63657] むっくん さん
区制の項目に東京市京都市大阪市を除く外人口二十万以上の市の区に関する件(M33.3.31勅令第98号)第2条を付け加えた方がさらに充実すると私は考えます。

これに対するレス[63761] 88 さんで、勅令を発した元の 明治33年の市制60条改正も再発掘され、この一連の法律・勅令により区が設置された「二十万市」(B2)は、名古屋市の4区設置(1908)が 最初で最後であったことも示されました。
2年前のこの記事によると、ちょうど区制 100周年 ということで、さまざまな記念行事があったようです。
その後、[72201][72207]にも 88さんのレビューがあります。

一般の市の区(B3)というものが、制度上存在する可能性がある段階に留まらず、現実に存在していたことは、[72214] むっくん さんによる金沢市や仙台市の実例で知り、驚きました。

この他にも一般市の区(B3)の存在可能性はありますが、その実態は不明。変遷情報でも無視されています。
金沢市街統計表(M27.8.11)の吏員の欄に記載された「区長 7人」[72215]は、“区長…ハ名誉職トス”という法律と矛盾しないのか?

ついでに、(旧)町村制第64条 にも類似の規定がありました。
「町村の区」が存在していた可能性もあります。
[74736] 2010年 4月 6日(火)16:49:55hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (5)明治44年「市制」による区
だいぶ間が開いてしまいましたが、区制度の変遷 を続けます。

市の変遷 の出発点は明治22年。
これより前から存在していた「区」は、明治11年郡区町村編制法にもとづく 37「区」(A1)でした。

明治22年以降に府県に施行された市制町村制の下では、4種類の「区」がありました。
A2 三府の 21区は 最初は特例法により“従来の区”として三市域内に移行し[74335]、1898年まで存続
B1 1898年の三市特例法廃止により、上記のA2は東京・京都・大阪市の中に設置された区になる[74354]
B2 1900年の市制改正を受けて、1908年には「二十万市」の名古屋に4区を設置[74354]
B3 金沢・仙台など一般市の区 区長は名誉職 多数の存在可能性はあるものの、その実態は不明

市制町村制が施行されなかった北海道と沖縄県では、同じ時代に別の制度を根拠とする3種類の「区」がありました。
A1 北海道では、1879年に郡区町村編制法で設置された 札幌区・函館区 が 1899年まで存続
C1 1896年の沖縄県区制[74376] 市よりも制限されているが、自治体への前段階 那覇・首里の2区
C2 1897年公布、1899年施行の 北海道区制[74376]も同様 札幌・函館はA1からC2へ 他に小樽など合計6区設置

区の制度においても大きな変化のあった明治30年頃は、従来からの行政区画「郡」に自治体的な役割も兼ねさせる「郡制」を施行するための準備として、郡の再編が行なわれるなど、地方制度に動きがあった時代です。
府県制と郡制とは、共に 明治23年の旧法 から 明治32年の改正法 に更新されました。施行日一覧 [62662] 88 さん

この法改正に裏付けされた「府県の性格」の変化。首長はまだ官選でしたが、国の出先機関の行政機構から脱皮して、直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具え、「自治体」の性格が強くなりました。
このような地方自治の進展は、自治体としては先輩格の「市町村」にも影響を与えたはずです。

府県制・郡制の改正よりも遅れますが、明治21年の法律「市制町村制」は 全面改正されて、明治44年「市制」と明治44年「町村制」と2つの法律になりました。

明治44年「市制」(法律第68号) で設けられた 3種類の「区」 D1~D3を挙げておきます。

D1 勅令指定都市の区
勅令指定都市とは、“市制第6条の市の区”のことです。市制第6条には次のとおり記されており、その後段は 三市特例法廃止後の(旧)市制改正【明治31年法律第20号[74320]】により追加された 第3条第2項の後段と同じです。
勅令を以て指定する市の区は之を法人とす 其の財産及営造物に関する事務其他法令に依り区に属する事務を処理す

具体的に 東京市・京都市・大阪市 を指定した 明治44年勅令第239号 は、[72201] 88 さん にリンクされています。

この明治44年「市制」によって、三大都市の区は名実共に“従来の区”という言葉【上記改正旧法第3条第2項の前段】から開放されました。
実質的には後段により 市に所属する限定的な機関 になっていた B1[74354] を引き継いだものと言えます。

D2 省令指定都市の区
省令指定都市とは、市制第82条第3項 の規定により、内務大臣が指定することができる“区長を有給吏員と為すべき市”のことであり、勅令指定都市の区の規定が準用されます。具体的には 旧・市制の時代に既に人口二十万以上ノ市として4区(B2)を設置していた名古屋が、明治44年内務省令第14号 で指定され、その後昭和2年内務省令第32号による横浜市、昭和6年内務省令第14号による神戸市と続いています。[56763][72201]

D3 一般の市の区 
市制第82条第1項、第2項は、旧・市制第60条(第1項1~2文[74354])とほぼ同様に、“処務便宜の為”区を画し“名誉職”の区長及其の代理者を置くとしています。
つまり、[72214] むっくん さんにより金沢市や仙台市の実例が紹介された旧制度の一般の市の区(B3)に対応。

今のところ市についての実例を調べていませんが、たまたま手近にあった資料には 村の「区」 があり、一般の市町村における 同様な区の存在を示す資料 はいくらでもありそうです。
参考:町村制
第68条 町村は処務便宜の為区を画し区長及其の代理者1人を置くことを得
   区長及其の代理者は名誉職とす…
第78条 町村長は郡長の許可を得て其の事務の一部を助役又は区長に分掌せしむることを得…

明治44年5月8日 埼玉県入間郡大井村会議事録(大井町史 資料編III-1, 248頁)
本村に区を設置するの件  本件は異議なく設置することに決議す
そして、大井・苗間・亀久保・鶴ヶ岡の4大字が4区になりました。

隣接する福岡村でも、大正7年3月4日「役場移転に関する区長会議」がありました。上福岡市史資料編3巻453
[74956] 2010年 4月 16日(金)15:41:08hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (8)金沢市の「連区」
日本国憲法・地方自治法の時代(1947/5/3~)に入る前に、旧制度、つまり「市制」時代の「区」につき、少し補足しておきます。

明治21年法律第1号「市制」の第60条第1項には次の規定がありました。[74354]ではB3という記号を付けました。
凡市ハ 庶務便宜ノ為メ 市参事会ノ意見ヲ以テ 之ヲ数区ニ分チ 毎区区長及其代理者各一名ヲ置クコトヲ得

この条文に基づけば、“どんな市でも、原則として「区」を設けることができたのですね。これは知らなかった。”[72205] と書いたところ、[72214] むっくんさん により 金沢市と仙台市の例 を示していただきました。
金沢市は、旧・市制施行直後の明治22年に13区、明治26~27年に7区が存在したとのこと。

ところで、金沢に「校下」という言葉があることは、この落書き帳の記事[39941][40038][65596]で知ったのですが、校下と町会 という論文に、金沢市の「連区」に関係する次の記載がありました。少し長いですが pdf資料の6コマ から引用しておきます。
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校下という言葉は 1925(大正14)年ごろから使われているという。この前年から近接町村第一次合併(野村、弓取村を合併)があったため、それまで使用されていた連区制が廃止されている。明治以降、金沢の行政単位として採用されていた連区制では、1区あたり平均 80町、人口2~3万人からなる 7区(通称7連区)がつくられており、この連区は、行政が行うべき道路整備、衛生、消防、土木工事といった活動を行うとともに、地域内住民の相互扶助、連帯の基盤となり、1918年の米騒動のときには民衆組織の中核的集団としての役割を果たすなど、明治、大正期における金沢市民の日常生活に欠かせない組織であった。
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文献として、橋本哲哉:近代石川県地域の研究【金沢大学経済学部研究叢書 1986】p.172が引用されています。

この文献では「連区」という言葉が使われていますが、金沢の7連区は、明らかに [72214]で紹介された旧・市制第60条第1項の区(B3)に由来し、明治44年市制第82条第1項の区(D3)へと引き継がれたものであると判断されます。

上記論文の 7コマには金沢市7連区の人口と町数(1919)が示されています。大正8年金沢市統計書 の現住戸口表には“旧第一連区”などと記されているので、連区はそれ以前に廃止されたのかもしれません。

いずれにせよ、旧制度の時代の金沢市には、B3やD3に分類される区が 大正時代まで存在し、学区としてだけでなく、広範囲な市民生活に関与する組織として機能していたようです。

市域の拡大に伴って公式には廃止され、「校下」に移行したとされる金沢市7連区。現在の使用例 もありました。

本題の「市制」時代の「区」から外れますが、「連区」という言葉が出てきた機会に、現代の「連区」を調べてみました。

現在、「連区」が一番使われているのは愛知県のようであり[65607] [65621]、一宮市HP内を検索したら、多数ヒットしました。
市長が 地域組織のあらまし を説明しています(広報一宮2005年7月pdf)。

旧一宮市は、16の連区に分かれ、525の町内会から連区長を選出。16連区のうち6つは市の中心部で、葉栗以下の10連区は1940年以降に合併した町村。旧尾西市は6地区、旧木曽川町は10区となっています。
呼び名は違いますが、それぞれほぼ小学校区をカバーする地域組織があったようです。

現在は 木曽川地域の議事録に、連区の各組織と市との関係 があり、旧木曽川町の区域も連区になっていると思われます。


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