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[75457] 2010年 7月 8日(木)18:20:01hmt さん
1868年頃の「府」 (1)「政体書」に基き、三大都市と四港とが「府」になる
hmtマガジン では、「都道府県」をそのトップテーマに挙げました。
その「都道府県」の3番手である「府」について記します。
個性的な「東京都」・「北海道」と、圧倒的多数を誇る「43県」とに挟まれ、京都府と大阪府の2つだけで、いささか肩身の狭そうな存在です。
でも、「都道府県」でなく、「府藩県」という形で「府」が出現した慶応四年には、たくさんの仲間がいました。

この時代の「府」については、落書き帳の初期に、[3779] 蘭丸 さん や[7739] Issie さん の記事があるものの、あまり話題になっていません。
慶応四年(明治元年)の出来事を日付順に記録した 法令全書第3冊 【以下、数字はこの資料のコマ番号】を繙きながら、1868年頃の「府」の事情に考えを巡らせてみました。

最初に「慶応四年」という表記についてのお断りです。
再発を予測されながら、幸いにもまだ発生していない東海地震ですが、これが前回起った 1854/12/13は、当時の暦では嘉永七年十一月四日でした。
ところが、歴史上では「安政元年」と記録されており、「安政東海地震」と呼ばれています。災害の翌月の師走に、安らかな政治を願って改めた年号・安政が、年初に遡って使われているのです。
人々が望んだにもかかわらず、改元により 天災や世の乱れが終息する ことはなかったのでしたが。参照[57891]

このような明治以前の改元において、改元の効果が 年初に遡る のが正式とされる根拠は「改元の詔書」にあります。
明治改元の詔書【195コマ】には、「慶応四年を改めて明治元年と為す」とあります。
しかし、今回の記事では 便宜的に 当時使っていた日付を そのまま使い、九月八日以後を明治元年、それまでを慶応四年と記します。
この記事ではまた、当時行われていた天保暦法による日付(いわゆる旧暦)を、九月八日のように漢数字で記してみました。

なお、大正改元の際には「明治45年7月30日以後を改めて大正元年と爲す」と区切りの日付が示されました。
昭和改元も同様です。
元号法が制定された後の平成改元では、「元号を改める政令」が昭和64年1月7日に公布され、その「翌日」から施行されました。

それはさておき
「○○国府」など、律令制の時代にも使われた地方官庁の「府」ですが、近代日本の地方行政を担当する官庁として現れたのは、慶応四年閏四月二十一日(1868年6月11日)の政体書です。法令全書の第3冊にも収録されていますが、Issieさんのページ の方が読みやすいでしょう。
一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス【120コマ】
一 官職 (議政官以下の7官に続き)地方官を分けて三官と為す ○府…○藩…○県…【122-123】

藩が新政府の直接支配下になり、実質的に「府藩県三治制」になるのは、諸侯が翌年に版籍奉還してからになりますが、建前としては、この時に府藩県が揃っています。なお、「藩」という言葉自体は、慶応三年十月大政奉還直後に早々上京あるべきことを求めた「諸藩へ」の沙汰でも使われています。【6コマ=これが法令全書の最初の文書です】

具体的な「府」の第1号が示されているのは、政体書発布の3日後、閏四月二十四日【125】で、清水谷侍従をして
箱館府知事被 仰付候事(箱館裁判所を箱館府と改称するの令他に見る所なし姑く之を存す)
とあります。組織の改称記録がなく、知事の任命をもって記録としています。以後の他府県についても同様です。

翌二十五日には、同じ要領で長谷宰相を京都府知事とする発令。以下、五月二日 大阪府知事、五月四日 長崎府知事、五月十二日 江戸府判事【131】、同月二十九日 越後府、六月十七日 神奈川府と続き、これで三大都市と開港場を含めて7府が出揃いました。

このように記すと、当時の日本の拠点であった三府五港を「府」とする方針があったようですが、それを否定する材料もあります。
五港の一つとしてこの 1868年太陽暦1月1日に開港していた 兵庫[54322]が 五月二十三日に兵庫県になっているのが、それです。
9年前の最初の開港地が「神奈川府」になったのは 兵庫県よりも更に後のことになるし、新潟開港に先行した「越後府」も、奇妙な存在です。

なお、この 第1次兵庫県の県域 を見ると、当時の「府県」が、現在の府県とは全く異質の存在であったことを、改めて認識することができます。
[75459] 2010年 7月 8日(木)18:41:05【1】hmt さん
1868年頃の「府」 (2)慶応四年に9府、翌明治二年二月には一時的に10府になったが、七月には3府だけ
前回[75457]法令全書第3冊【149コマ】 慶応四年六月十七日 神奈川府までを記しました。
これに続いて七月に誕生した度会(わたらい)府は、伊勢神宮の神領と政府直轄地とから成り、これまでの7府とは性格の異なる 内向きの「府」 です。

そして、七月十七日には“自今江戸を称して東京とせん”という詔書【162コマ】が出され、江戸府は「東京府」と改称されました。
「東京」を漢音で「とうけい」と読むか、呉音で「とうきょう」と読むかを定めた文書はなく、現実に両方の読み方が行われたようです。

東京都公文書館の 明治東京異聞 に掲載された築地居留地地券の写真を見ると、明治4年発行のものには「TOKEI」と記され、明治20年発行は「TOKIO」になっています。同じ資料によると、旧幕時代をしのぶ人は「トウケイ」派が多かったが、いつしか「トウキョウ」が正式の読み方に位置付けられたとあります。明治30年代の国定教科書の振り仮名「トーキョー」が、この傾向を決定的にしたと思われます。

ついでに、東京都公文書館のロビー展 東京府の開庁 に掲載されている「東京府印」の「京」には、ナベブタと小の間が「口」でなく「日」になっている「亰」が使われており、漢字表記にもブレがあります。小木新造著「東亰時代」(NHKブックス)という本もあります。

「府」についての本論から少し外れましたが、慶応四年七月の奈良県改称により 奈良府 が登場した後、九月八日の改元を経て、明治元年九月二十一日には、神奈川府 から 神奈川県 へと、初の「府→県改称」があり、「府」の数は9から8に減少。五港と府との関係はまた薄くなりました。同日に 越後府 は 新潟府 と改称(延べ11)。

十月二十八日に3県を統合した 甲斐府 ができた後、翌明治二年二月に 越後府が再置されました。
法令全書第4冊 《174コマ》 には 分割とも分立とも書いてありませんが、新潟府も存続しているので、これにより最大数の 10府を記録しました。
新潟府に改名する前の(旧)越後府と区別するために、新潟が除外された再置越後府を「越後府2」と記しておきます。
また、江戸府・神奈川府・(旧)越後府があるので、「府」の数は延べ13になりました。

しかし、僅か半月後には五港の一つを管轄する新潟府が新潟県に変ります。度会府・奈良府・甲斐府・越後府2など内向きの府が増え、一方では開港場の神奈川・新潟が県になったことは、府の性格の変化を示しているようです。

前回、新潟開港に先行した「越後府」を奇妙な存在と書きましたが、この時期の越後は北越戦争の最中であり、越後府が最初に設置された地も、新潟ではなく高田だったようです。
慶応四年五月二十九日【139コマ】という越後府の設置日は、新政府軍が 武装中立を主張する長岡藩家老・河井継之助との小千谷談判を決裂させ、五月十九日に長岡を占領した直後という非常時ですから、この「府」は 普通の行政組織ではあり得ません。
この後、七月には列藩同盟軍が長岡奪回、すぐに新政府軍が再占領、そして新潟も占領と続き、八月には戦いの帰趨が決しました。

既に記したように、「越後府」は、明治改元後の九月二十一日に「新潟府」と改称。明治元年十一月九日(1869/1/1)、延期していた新潟開港。
この頃には会津戦争も終結し、「鎮将府」が廃止されています【215】。
いきなり、聞き慣れない「府」が登場しましたが、これは江戸を東京と改めた七月に、東国(駿河甲斐以東13国)平定のために設けられた臨時の組織で、普通の「府」とは違うようなので、ノーカウントにしておきます。

翌明治二年二月八日に「新潟府」から分離した「越後府2」により、「府」の数が最大の10になったことは、既に記しました。
越後府2は 水原に設けられ、こちらが下越の行政中心地になり、同月内には柏崎県も合併して中越・上越を含む越後のほとんどを管下にしました。
既報のように、開港場の新潟府は新潟県に改められ、兵庫・神奈川に続き、3開港場が「府」でなくなりましたが、更に六月になると長崎府が長崎県になり《第4冊152コマ》、七月には箱館府も廃止《176コマ》されて、府は五港と無縁になりました。

そして、七月十七日には「府」の呼称を京都府・東京府・大坂府に限定する 太政官布告 が出されました。京都府が東京府よりも上位にあることに注目。

実は、この明治二年という年は、日本の首都が事実上京都から東京へ移った時期なのです。
前年の七月に江戸が東京になったことは既に記しました。ここで一応は東西二京という形ができましたが、事実上の都はまだ京都で、明治改元後に行われた明治天皇の東京行幸も、世間からは一時的なものと受け止められていました。

明治二年になると、再度の東京行幸が行われます。今回は天子様の「顔見せ」出張ではなく、仕事をするための単身赴任でした。
法令全書第4冊 《86コマ》には次のように記されています。
東京 ご滞輦中太政官彼表へ御移に相成候に付諸願伺等来る四月朔日より東京へ可差出…

天皇の行幸中は太政官も東京に移り、京都には留守官を置く臨時の首都移転体制。京都の人々に対しては、戻ってくるから心配するなという告諭を京都府から出させたようです。
明治二年七月十七日時点では、都は京都という建前ですから、京都府・東京府・大坂府という順序は当然なのでした。
でも、十月には皇后も東京に呼び寄せ、天子様は東京に居着いてしまいました。

[7717] ken さん
「大阪、京都を一介の県にするなんて、とても考えられない」という「特別感」が気持ちの上でも、実態としてもあったと思いますね。
という記事のように、東西二京、それに既に消えていますが大坂を都にする大久保案もあった大坂を加えた三大都市は、まさに特別な存在なのでした。

明治二年七月の内に、奈良府・度会府・甲斐府は 奈良県・度会県・甲斐県に改称。
そして複雑な経過をたどった越後府2は、新潟県と統合して水原県へと変りました(この時に佐渡県を分離、翌月中越・上越5郡を柏崎県2として再分離)。

このようにして、京都府・東京府・大阪府の三府だけが残ったのでした。


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