都道府県市区町村
落書き帳

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[75457] 2010年 7月 8日(木)18:20:01hmt さん
1868年頃の「府」 (1)「政体書」に基き、三大都市と四港とが「府」になる
hmtマガジン では、「都道府県」をそのトップテーマに挙げました。
その「都道府県」の3番手である「府」について記します。
個性的な「東京都」・「北海道」と、圧倒的多数を誇る「43県」とに挟まれ、京都府と大阪府の2つだけで、いささか肩身の狭そうな存在です。
でも、「都道府県」でなく、「府藩県」という形で「府」が出現した慶応四年には、たくさんの仲間がいました。

この時代の「府」については、落書き帳の初期に、[3779] 蘭丸 さん や[7739] Issie さん の記事があるものの、あまり話題になっていません。
慶応四年(明治元年)の出来事を日付順に記録した 法令全書第3冊 【以下、数字はこの資料のコマ番号】を繙きながら、1868年頃の「府」の事情に考えを巡らせてみました。

最初に「慶応四年」という表記についてのお断りです。
再発を予測されながら、幸いにもまだ発生していない東海地震ですが、これが前回起った 1854/12/13は、当時の暦では嘉永七年十一月四日でした。
ところが、歴史上では「安政元年」と記録されており、「安政東海地震」と呼ばれています。災害の翌月の師走に、安らかな政治を願って改めた年号・安政が、年初に遡って使われているのです。
人々が望んだにもかかわらず、改元により 天災や世の乱れが終息する ことはなかったのでしたが。参照[57891]

このような明治以前の改元において、改元の効果が 年初に遡る のが正式とされる根拠は「改元の詔書」にあります。
明治改元の詔書【195コマ】には、「慶応四年を改めて明治元年と為す」とあります。
しかし、今回の記事では 便宜的に 当時使っていた日付を そのまま使い、九月八日以後を明治元年、それまでを慶応四年と記します。
この記事ではまた、当時行われていた天保暦法による日付(いわゆる旧暦)を、九月八日のように漢数字で記してみました。

なお、大正改元の際には「明治45年7月30日以後を改めて大正元年と爲す」と区切りの日付が示されました。
昭和改元も同様です。
元号法が制定された後の平成改元では、「元号を改める政令」が昭和64年1月7日に公布され、その「翌日」から施行されました。

それはさておき
「○○国府」など、律令制の時代にも使われた地方官庁の「府」ですが、近代日本の地方行政を担当する官庁として現れたのは、慶応四年閏四月二十一日(1868年6月11日)の政体書です。法令全書の第3冊にも収録されていますが、Issieさんのページ の方が読みやすいでしょう。
一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス【120コマ】
一 官職 (議政官以下の7官に続き)地方官を分けて三官と為す ○府…○藩…○県…【122-123】

藩が新政府の直接支配下になり、実質的に「府藩県三治制」になるのは、諸侯が翌年に版籍奉還してからになりますが、建前としては、この時に府藩県が揃っています。なお、「藩」という言葉自体は、慶応三年十月大政奉還直後に早々上京あるべきことを求めた「諸藩へ」の沙汰でも使われています。【6コマ=これが法令全書の最初の文書です】

具体的な「府」の第1号が示されているのは、政体書発布の3日後、閏四月二十四日【125】で、清水谷侍従をして
箱館府知事被 仰付候事(箱館裁判所を箱館府と改称するの令他に見る所なし姑く之を存す)
とあります。組織の改称記録がなく、知事の任命をもって記録としています。以後の他府県についても同様です。

翌二十五日には、同じ要領で長谷宰相を京都府知事とする発令。以下、五月二日 大阪府知事、五月四日 長崎府知事、五月十二日 江戸府判事【131】、同月二十九日 越後府、六月十七日 神奈川府と続き、これで三大都市と開港場を含めて7府が出揃いました。

このように記すと、当時の日本の拠点であった三府五港を「府」とする方針があったようですが、それを否定する材料もあります。
五港の一つとしてこの 1868年太陽暦1月1日に開港していた 兵庫[54322]が 五月二十三日に兵庫県になっているのが、それです。
9年前の最初の開港地が「神奈川府」になったのは 兵庫県よりも更に後のことになるし、新潟開港に先行した「越後府」も、奇妙な存在です。

なお、この 第1次兵庫県の県域 を見ると、当時の「府県」が、現在の府県とは全く異質の存在であったことを、改めて認識することができます。
[75459] 2010年 7月 8日(木)18:41:05【1】hmt さん
1868年頃の「府」 (2)慶応四年に9府、翌明治二年二月には一時的に10府になったが、七月には3府だけ
前回[75457]法令全書第3冊【149コマ】 慶応四年六月十七日 神奈川府までを記しました。
これに続いて七月に誕生した度会(わたらい)府は、伊勢神宮の神領と政府直轄地とから成り、これまでの7府とは性格の異なる 内向きの「府」 です。

そして、七月十七日には“自今江戸を称して東京とせん”という詔書【162コマ】が出され、江戸府は「東京府」と改称されました。
「東京」を漢音で「とうけい」と読むか、呉音で「とうきょう」と読むかを定めた文書はなく、現実に両方の読み方が行われたようです。

東京都公文書館の 明治東京異聞 に掲載された築地居留地地券の写真を見ると、明治4年発行のものには「TOKEI」と記され、明治20年発行は「TOKIO」になっています。同じ資料によると、旧幕時代をしのぶ人は「トウケイ」派が多かったが、いつしか「トウキョウ」が正式の読み方に位置付けられたとあります。明治30年代の国定教科書の振り仮名「トーキョー」が、この傾向を決定的にしたと思われます。

ついでに、東京都公文書館のロビー展 東京府の開庁 に掲載されている「東京府印」の「京」には、ナベブタと小の間が「口」でなく「日」になっている「亰」が使われており、漢字表記にもブレがあります。小木新造著「東亰時代」(NHKブックス)という本もあります。

「府」についての本論から少し外れましたが、慶応四年七月の奈良県改称により 奈良府 が登場した後、九月八日の改元を経て、明治元年九月二十一日には、神奈川府 から 神奈川県 へと、初の「府→県改称」があり、「府」の数は9から8に減少。五港と府との関係はまた薄くなりました。同日に 越後府 は 新潟府 と改称(延べ11)。

十月二十八日に3県を統合した 甲斐府 ができた後、翌明治二年二月に 越後府が再置されました。
法令全書第4冊 《174コマ》 には 分割とも分立とも書いてありませんが、新潟府も存続しているので、これにより最大数の 10府を記録しました。
新潟府に改名する前の(旧)越後府と区別するために、新潟が除外された再置越後府を「越後府2」と記しておきます。
また、江戸府・神奈川府・(旧)越後府があるので、「府」の数は延べ13になりました。

しかし、僅か半月後には五港の一つを管轄する新潟府が新潟県に変ります。度会府・奈良府・甲斐府・越後府2など内向きの府が増え、一方では開港場の神奈川・新潟が県になったことは、府の性格の変化を示しているようです。

前回、新潟開港に先行した「越後府」を奇妙な存在と書きましたが、この時期の越後は北越戦争の最中であり、越後府が最初に設置された地も、新潟ではなく高田だったようです。
慶応四年五月二十九日【139コマ】という越後府の設置日は、新政府軍が 武装中立を主張する長岡藩家老・河井継之助との小千谷談判を決裂させ、五月十九日に長岡を占領した直後という非常時ですから、この「府」は 普通の行政組織ではあり得ません。
この後、七月には列藩同盟軍が長岡奪回、すぐに新政府軍が再占領、そして新潟も占領と続き、八月には戦いの帰趨が決しました。

既に記したように、「越後府」は、明治改元後の九月二十一日に「新潟府」と改称。明治元年十一月九日(1869/1/1)、延期していた新潟開港。
この頃には会津戦争も終結し、「鎮将府」が廃止されています【215】。
いきなり、聞き慣れない「府」が登場しましたが、これは江戸を東京と改めた七月に、東国(駿河甲斐以東13国)平定のために設けられた臨時の組織で、普通の「府」とは違うようなので、ノーカウントにしておきます。

翌明治二年二月八日に「新潟府」から分離した「越後府2」により、「府」の数が最大の10になったことは、既に記しました。
越後府2は 水原に設けられ、こちらが下越の行政中心地になり、同月内には柏崎県も合併して中越・上越を含む越後のほとんどを管下にしました。
既報のように、開港場の新潟府は新潟県に改められ、兵庫・神奈川に続き、3開港場が「府」でなくなりましたが、更に六月になると長崎府が長崎県になり《第4冊152コマ》、七月には箱館府も廃止《176コマ》されて、府は五港と無縁になりました。

そして、七月十七日には「府」の呼称を京都府・東京府・大坂府に限定する 太政官布告 が出されました。京都府が東京府よりも上位にあることに注目。

実は、この明治二年という年は、日本の首都が事実上京都から東京へ移った時期なのです。
前年の七月に江戸が東京になったことは既に記しました。ここで一応は東西二京という形ができましたが、事実上の都はまだ京都で、明治改元後に行われた明治天皇の東京行幸も、世間からは一時的なものと受け止められていました。

明治二年になると、再度の東京行幸が行われます。今回は天子様の「顔見せ」出張ではなく、仕事をするための単身赴任でした。
法令全書第4冊 《86コマ》には次のように記されています。
東京 ご滞輦中太政官彼表へ御移に相成候に付諸願伺等来る四月朔日より東京へ可差出…

天皇の行幸中は太政官も東京に移り、京都には留守官を置く臨時の首都移転体制。京都の人々に対しては、戻ってくるから心配するなという告諭を京都府から出させたようです。
明治二年七月十七日時点では、都は京都という建前ですから、京都府・東京府・大坂府という順序は当然なのでした。
でも、十月には皇后も東京に呼び寄せ、天子様は東京に居着いてしまいました。

[7717] ken さん
「大阪、京都を一介の県にするなんて、とても考えられない」という「特別感」が気持ちの上でも、実態としてもあったと思いますね。
という記事のように、東西二京、それに既に消えていますが大坂を都にする大久保案もあった大坂を加えた三大都市は、まさに特別な存在なのでした。

明治二年七月の内に、奈良府・度会府・甲斐府は 奈良県・度会県・甲斐県に改称。
そして複雑な経過をたどった越後府2は、新潟県と統合して水原県へと変りました(この時に佐渡県を分離、翌月中越・上越5郡を柏崎県2として再分離)。

このようにして、京都府・東京府・大阪府の三府だけが残ったのでした。
[75494] 2010年 7月 17日(土)23:06:23【1】hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (1)新政府直接支配地には「府県」を、諸侯支配地には「藩」を置く
1868年頃の「府」 に引き続き、明治新政府が「府県」を設けた頃を振り返ります。hmtマガジン のトップテーマに挙げた「都道府県」関連です。

形の上では、現在の「都道府県」のルーツとも言えるのですが、当時の「府県」は、バラバラの政府直轄地を寄せ集めた支配機構にすぎず、行政区画としての体裁さえもなしていないものでした。
もちろん「地方自治体」ではなく、たとえ同名であっても、その実体は現在の都道府県と大幅に異なるものであったことを、最初にお断りしておきます。

さて、近代日本の地方制度として「府県」が最初に現れたのは、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)の 政体書 です。一部抜粋
一(第2条) 天下の権力総てこれを太政官に帰す…太政官の権力を分って立法行法司法の三権とす…
一(第5条) 各府各藩各県皆貢士を出し議員とす…
一(第11条) 各府各藩各県其政令を施す…唯其一方の制法を以て他方を概する勿れ…
一(第12条) 官職 太政官分為七官…(中略)…
【122コマ】地方官分為三官
○ 府 知府事一人… 判府事二人
○ 藩 諸侯
○ 県 知県事一人… 判県事【以下(13~15条)略】

# 今回は、明治5年以前の和暦の日付も使いやすいアラビア数字にします。
太陽暦でないことは年号で区別できるので、前回のように漢数字で区別する必要はないと判断しました。
年号については、明治元年9月8日改元より前の日付は、当時使われていた慶応4年のまま表記すること、前回と同じ方針です。

慶応4年のこの条文が、何故に「府」と「県」との間に「藩」を挟んだ順序にしたのか? その理由がわかりません。
当時の日本は、主として徳川将軍家の土地だった政府直轄地と、約 300の諸侯が支配する地とに分かれていました。
従って地方支配体制も、政府直轄地には「府県」を置き、諸侯を介しての間接支配になる地域には「藩」を設けたわけです。
だから、「府県・藩」と併称するのが筋だと思われるのですが、条文の順番のせいで「府藩県」と呼ばれます。

# もっとも、「府藩県三治制」という用語は、普通には版籍奉還して政府支配地になった時代の「藩」について使われており、この場合の「藩」は名前が違うだけで、殆んど「県」と同じものになっています。元の殿様も「諸侯」ではなく、政府から任命された「知藩事」になっています。

先走って言及した版籍奉還よりも前の時代、直接統治の「府県」と間接統治の「藩」とに分かれることになった いきさつ とは何か?
それを説明するために、前年 慶応3年10月14日に行われた「大政奉還」に遡ります。

日本史図録でお馴染みの 壁画「大政奉還」 は、神宮外苑絵画館で見ることができます。そこに描かれているシーンは、朝廷における上奏そのものではなく、二条城に戻った徳川慶喜による、諸侯を集めての事後報告です。

この「大政」とは何か? 日本という統一国家を統治する権原なのでしょうね。
天正18年(1590)に豊臣秀吉により統一された この国の統治権は、秀吉死後、政権内で 多少の争いがあったものの、徳川家康に引き継がれました。

ところが、17世紀初頭に整備された統治機構は 19世紀後半には制度疲労を起しており、黒船に代表される世界の動きにうまく対応できません。
幕府の政策に反対する国内勢力を抑え込む 安政の大獄や、和宮に象徴される 公武合体政策も 問題解決には至らず。

江戸幕府最後のエース・徳川慶喜[43497] は、既に文久2年(1862)から 将軍後見職 として幕政を担当していましたが、第二次長州征伐失敗後、ようやく 15代将軍に就任。
「鯨海酔侯」を自称した 酔っぱらい ながら、幕末の四賢侯とも評価されていた 前土佐藩主・山内容堂が、老中経由で この将軍に対して建白した策が 「大政奉還」でした。

坂本龍馬や 後藤象二郎の案に基くと言われますが、徳川慶喜の観るところ、「大政」を奉還する先の主権者(朝廷)には、統治能力などない。新しい統治機構を作るにしても、従来の官僚組織を抱えた 徳川家の実力 を無視することは できない筈である。そう考えて、15代将軍は 「大政奉還」に同意したのでしょう。
[75495] 2010年 7月 17日(土)23:25:53hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (2)欠席裁判で徳川家から召し上げた領地が「府県」になった
制度疲労から脱却するために徳川慶喜が打った手は「大政奉還」。

形式上は この「大政奉還」が「政権交代」の第一歩になりました。それ故にこそ 大政の受け取り手である朝廷から「諸藩へ」の御沙汰が、法令全書の通番第1号記事 になっています[75457]。日付は大政奉還の翌日、慶応3年10月15日。

しかし、慶喜が読んだように、形式的な大政奉還だけで 政局の風向きが変るものではありません。
そこで、あくまでも武力倒幕を図る勢力は、徳川勢力の一掃を狙い、“摂関幕府を廃し仮に三職を置く”という「王政復古の大号令」を発し、三職による「小御所会議」を招集しました。これが慶応3年12月9日。太陽暦では既に新しい年 1868年1月3日になっていました。

小御所会議では 議定(三職の1つ)の山内容堂ら 慶喜擁護派の主張を抑えて、参与の岩倉具視や大久保利通によるクーデターが成功し、徳川慶喜の 辞官納地 が決定されました。
結果的には無視されましたが、この小御所会議において山内容堂が投げかけた疑問は、もっともな内容です。
薩摩・土佐・尾州・芸州【いずれも議定】が その領地を保有しながら、徳川宗家に対してだけは なぜ納地を迫るのか?

裏の仕組みはとにかく、“大政奉還の功労者”徳川慶喜は、議定に選ばれていないので、小御所会議では欠席裁判。
建前上は徳川家【ここでは尾張家などは含まず、将軍を出している徳川宗家のこと】の私有地であり、幕府の財政を支えていた 全国の天領・直参知行地は、すべて召し上げられました。
これらの土地が、翌慶応4年の政体書で「府県」が置かれることになる 政府直轄地[75494] になったのでした。

この政権交代を 外国に告げる文書 は、ちょうど時期が重なった 兵庫開港 に際して 6ヶ国公使に伝えられています。
日本国天皇告各国帝王…将軍徳川慶喜請帰政権制允之内外政事親裁之乃曰従前条約用大君名称自今而後当換以 天皇称…
慶応4年戊辰正月十日 御名印 
(正月15日に兵庫に於て仏英伊孛荷米6国公使に付し5月29日箱館に於て魯国領事に付す)

国名がわかりますか? 「孛」は孛漏生(プロイセン)王国の略ですが、「普仏戦争」のように「普」を使うのが一般的です。
「荷」はオランダ王国でしょう。これも多くの場合「蘭」を使います。

その兵庫は、開港直後に幕府の兵庫奉行が江戸に引き揚げてしまったので、早くから新政府の管理するところとなり、慶応4年正月22日の 兵庫鎮台、2月2日に改称して 兵庫裁判所と、名称こそ まだ「府県」ではありませんが、新政府地方官庁の中では 最も早く設置された仲間になりました[54430]。兵庫県になったのは政体書発布の翌月です。初代兵庫県知事に記録されている 伊藤五位 とは 伊藤博文のことです。満年齢だとまだ26歳か。

神戸・大阪のように早々と 新体制が整えられた地域 もありますが、倒幕派による王政復古クーデターの結果が 全国に及ぶまでには、戊辰戦争によって 抵抗勢力を排除するプロセス がありました。
旧勢力の本拠地については、3月の勝・西郷会談を経て4月4日に 江戸城明渡し

最初に記した 慶応4年閏4月21日の「政体書」は、このようにして、まだ北越・会津など 平定すべき地方は残されているものの、日本の主要部を支配下に収めた 新政府 が発表した、新たな統治機構だったのでした。
前年師走の「王政復古の大号令」では、摂関幕府という 令外の官 は廃止されたが、さりとて 律令体制への「復古」でもない 三職という「仮」の体制でした。
今度は、太政官の七官・地方官の三官(府藩県)が正式に決められたので、(律令廃止とはどこにも書いてないようですが)実質的に律令体制から決別することになったのでしょう。
[75497] 2010年 7月 18日(日)13:46:42hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (3)慶応4年閏4月24~25日に最初の2府5県が誕生
大政奉還(慶応3年10月)→王政復古クーデター(12月)→戊辰戦争(慶応4年正月~)という経過をたどって、慶応4年4月には 江戸も新政府の手中に入り、その翌月(閏4月)には、新政府の統治機構が「政体書」という形で発表されました。

# 太陰太陽暦では、太陰を基準とした 朔(新月) = 1日【ついたち・月立ち】です。月を季節と合わせるためには、太陽の動きを黄経30度ごとに区切った 雨水・春分・穀雨・小満・夏至…を中気と称し、各中気を含む月を 正月・2月・3月…とします。従って、小満を含む月が4月、夏至を含む月が5月ですが、慶応4年4月の翌月は 中気を含まない「閏月」 でした。「閏4月」とは、4月の次の閏月という意味です。

さて、安政条約第3条では 1863年初からとなっていた兵庫開港。5年間延期した結果 1868年1月1日に開港。
ところが、開港した翌月・慶応4年正月に鳥羽伏見の戦い。兵庫奉行などの幕府関係者は、敗れた将軍慶喜の後を追って江戸に引き揚げ。
このような経過で、兵庫は 新政府の地方組織が 否応なく実働する場になりました。
外国掛兵庫事務所>兵庫鎮台>兵庫裁判所

[229] Issie さん
このときの「裁判所」は“三権分立”のシステムができあがったあとの司法機関としてのそれとはちがって,行政機能も持つものです(というより,この段階では行政と司法は分離していなかった)。
[59167] むっくん さん
府藩県三治の制(M元.閏4.21)の前に旧幕府直轄地を明治政府が治めた裁判所が抜けていると思うのですがいかがでしょうか。
ただ、○○裁判所というのはおそらく江戸時代から明治時代へ変わる際の過渡期の制度であったのでしょうから…

実例は 慶応4年正月27日 大阪鎮台を改め 大阪裁判所 を嚆矢とし、2/2 兵庫・長崎、2/19 京都、3/7 大津、3/19 横浜、4/12 箱館、4/15 笠松、4/19 新潟・但馬府中、4/2 4佐渡 の各裁判所が設置されています。
その多くは短期間で 同名の府県に改称 しました。横浜裁判所だけは、神奈川裁判所を経て神奈川府に改名しています。これは開港地が「建前上は神奈川」であったのが理由でしょう[20917]

「府県」以前の「○○裁判所」はこのくらいにして、法令全書明治元年 では、通番345の京都府知事以下、大津知県事・笠松知県事・日田知県事・富岡知県事・富高知県事と続きます。その前 通番342 として記された 箱館府知事が 閏4月24日 と最初の日付で、[75457]でもこれを具体的な「府」の第1号としました。

もっとも、Issieさんが [55181]で指摘しているように、「法令全書」に収録されている布告が“唯一絶対”というわけでは決してありません。明治元年法令全書の書物自体は 明治20年出版で、慶応4年当時の記録が残されていないものもあります。当時の日付が正確に伝えられていない可能性もあります。
越後府(第1次)の設置日が 法令全書の 5月29日説 の他に 公文録の 5月23日説 とがあることが記されていますが、地方沿革略譜 を見たら、こちらでは 6月3日 となっていました。こうなると、どれを信用してよいものやら。

「府」の第1号について言うと、法令全書の京都府知事は箱館府知事の翌日でしたが、地方沿革略譜(14コマ)は 箱館府と同日(24日)でした。
なお、地方沿革略譜は、内務省の編集で、慶応3年10月から明治14年5月までを府県別にまとめています。

次に、「県」の第1号に移ります。
既にリンクしたように、京都府知事と同じ慶応4年閏4月25日付で大津知県事・笠松知県事・日田知県事・富岡知県事・富高知県事が発令されています。
大津・笠松・日田は、産業や交通の要衝である天領と心得ていましたが、天草の富岡や日向の富高が天領であったことは知りませんでした。

第1号の「県」5つのうち、意外にも3つもあった九州を除外すると、大津県と笠松県。
なんとなくこれで検索してみたら、三重県HPの中に、明治2年に行われた大津県・笠松県から 度会県への 北勢地域の管轄地引渡史料 という文書がありました。
現在の地図で見ると、大津にしても笠松にしても 伊勢国最北部(いなべ市)とは 無関係なように思われますが、こんな場所に飛び地があったのですね。しかも引渡し先が安濃津県でなく度会県だというのも意外でした。

常識的には 三重県北部が安濃津県で、度会県と呼ばれた地域は 三重県南部。
しかし よく考えて見れば、これは明治9年第二次府県統合前の、明治4年11月第一次府県統合時代の度会県でした。
今回の記事で取り扱う時代(明治元年~2年)の「度会県」は、県庁所在地である 度会郡山田(伊勢外宮所在地)付近 は共通でも、その他に 伊勢北部の旧幕府領 を管轄するなど、区域が異なるのでした。

伊勢北部の旧幕府領と言えば、重要な港町の四日市があります。ここは一時大和郡山領になった後、19世紀には信楽代官多羅尾氏の支配する地になっていました。近江国信楽の管理下という歴史が影響して、四日市は大津県の管轄となっていたのでした。

こんな具合に、最初の「府県」が置かれた時代の政府直轄地というのは、現代の地理的感覚からはなかなか理解しにくいところがあるようです。

【付言】
地方沿革略譜の「摂津県」 には、元年正月二十日という置県日が記されているのですが、18コマ大坂府に記された“二年正月二十日割河内摂津二国属於河内摂津二県”から“二年”の誤記と判断できるので、第1号の「県」に関しては無視しておきます。
[75516] 2010年 7月 22日(木)21:50:38hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (4)版籍奉還前の府県
江戸城が平和裡に開け渡され、新政府の勢力が日本の主要部に及ぶことが確定した 慶応4年初夏に発布され政体書。
これにより、中央政府には 太政官七官が設けられ、地方は「府県と藩」の三官に分けて統治されることになりました。

徳川家から召し上げた政府直轄地[75495]のうち、幕府奉行所などがあった要地に設けられた「府」は、一時的に 10府を数えましたが、明治2年7月には京都・東京・大阪の三府に限定され、それ以外はすべて「県」になりました[75459]

「県」の第1号は、慶応4年閏4月25日 大津県・笠松県など5県であり、「府」の第1号とほぼ同時登場でした[75497]

日付順に列挙してゆくのも 能がないやり方ですが、「版籍奉還前の府県」が設けられのは、やはり主要な政府直轄地であると考え、少し続けます。

慶応4年閏4月中に第1号の2府5県に続いて設けられたのは丹後国 久美浜県 でした。翌明治2年8月10日 生野県分離 とあるように、一時は 旧生野代官支配地を統治する(但馬)府中裁判所[75497] を統合し、丹後・丹波・但馬・播磨・美作の旧天領・旗本領を管轄していたようです。

5月の大阪府・長崎府・江戸府は既出[75457]
江戸府ができた直後の5月15日に、彰義隊が決起しましたが、長州の大村益次郎が指揮する政府軍は、本郷台地からの上野砲撃により、10時間で「抵抗勢力」を討伐しました。西郷隆盛は、この戦争の激戦地黒門口で、薩摩軍を指揮しました。上野公園の有名な銅像からは、本来の職業軍人として、この上野の地で活躍した姿を想像することができませんが…

この後、5月中に 倉敷県・奈良県・なぜか兵庫府でなかった兵庫県[75457]・飛騨県 と「県」の設置が続きます。
北越戦争の混乱中[75459]に(あえて?)設置された越後府の日付が 資料により異なることは、[75497]で触れました。
6月には 飛騨県が早くも高山県に改称されました。富岡県も 天草県となっている資料があり、改称された可能性があります。
三河裁判所([75497]では書き落し 4/29設置)や横浜裁判所>神奈川裁判所も、6月に三河県・神奈川府に改称。
上野国の岩鼻県、和泉国の堺県も6月設置。

伊勢国四日市の 大津県所管 は 既に[75497]で触れましたが、讃岐国塩飽諸島の 倉敷県所管など、当時の管轄は、現代の府県を越えたものがあります。

また、現在の常識からすると、○○県の存在を前提に「○○県知事」があるのですが、当時は「知県事」という官職が任命されても、その管轄する「○○県」という名は、必ずしも設けられたわけでなかったようです。
地方沿革略譜 には、慶応4年8月に 下総知県事 に任命された佐々木貞之丞が(明治元年) 12月に罷める時には まだ県名が設けられておらず、後に【明治2年正月13日】葛飾県と称した とあります。つまり、「下総県」は存在しなかったようです。

こんなことを書いたのは、慶応4年には 「武蔵知県事」が 3人も同時に存在したからです。
江戸には 江戸府(7月17日 東京府[75459])が設けられましたが、その近郊の武蔵国にある 天領・御家人知行地も 新政府に召し上げられました。新政府は、ここを統治するために、3人の旧幕府代官を 武蔵知県事 に任命しました。
それぞれが 10万石余を担当した 3人の知県事の役所(元の代官所)は、翌明治2年になると それぞれ大宮県・品川県・小菅県と呼ばれるようになりますが、慶応4年6~7月の段階では、下総と同様に 知県事あれども県名なし の状態でした。
類例は、常陸知県事(M2若森県)、上総安房知県事(M2宮谷県)があります。真岡知県事の役所は 明治2年に移転改称して 日光県になりました。

あと、江戸近郊の天領というと、伊豆韮山の 江川太郎左衛門代官所[59110]支配地も 政府直轄地になりました。法令全書では、江川英武(幕末の海防に尽力した江川英龍の五男)が正式に知事になった 明治2年 に記録されていますが、地方沿革略譜では 慶応4年6月 韮山県設置 となっています。

北越戦争も収束しつつある越後では、柏崎県が越後府から7月に分離。
8月には 信濃に 伊奈県設置。この県は、北信濃の中野までを管轄するだけでなく、明治2年6月には三河県を併合し、南北に驚くほど離れた領域を管轄しました。
記念すべき「県の第1号」5県のうち、富高県は日田県に、富岡県>天草県は長崎府にそれぞれ8月に編入されて消滅。
9月初めには、佐渡県設置の後、甲斐国で府中・市川・石和の3県設置。改元後の10月には統合して甲斐府。

9月8日に改元の詔書が出て、一世一元制になりました。法令全書通番726
“慶応4年を改め明治元年と為す”を文字通りに適用すれば 年初に遡る のですが、改元前の日付は あえて慶応4年で記しています[75457]

上からは 明治だ などというけれど、「おさまるめい」と下からは読む

明治元年になってからの、越後府>新潟府、神奈川府>神奈川県、甲斐府、いずれも既出。
明治2年の葛飾県・小菅県・新潟府から分離の越後府2・若森県・品川県・大宮県・宮谷県・日光県・新潟府>新潟県なども既出。
新たな県では、隠岐県が置かれた後、移転改称で大森県へ。更に翌年浜田県へ。
大阪府から分離の摂津県は、豊崎県と改称後兵庫県に編入。同じく大阪府から分離の河内県は、堺県に編入。

さて、ここで これまでの府県が設置されてきた 徳川家の旧領 とは異なる性格の地が登場します。
明治2年3月28日、陸前国に設置された「涌谷県」と「栗原県」です。
涌谷(わくや)は伊達騒動に登場する伊達安芸の本拠であった地であり、現在も宮城県遠田郡涌谷町があります。
戊辰戦争で敗れた仙台藩は大幅に領地を削減され、この地は土浦藩取締地の政府直轄地を経て、涌谷県が設置されました。
涌谷県や栗原県の存在は、宮城県の行政区画の変遷 によって確認することができるのですが、これまで このシリーズで引用してきた 法令全書と地方沿革略譜 のいずれにも、なぜか掲載されていません。

明治2年5月4日には若松県が置かれました。これも同じ性格の旧会津藩領です。法令全書は不掲載ですが、地方沿革略譜 には掲載。

明治2年には、地方統治に関して、これらよりも更に重要な動きがありました。
「大政」は奉還したものの、中央政府から任された状態になっていた諸侯支配地の「版籍奉還」がそれです。
[75521] 2010年 7月 23日(金)23:26:23hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (5)版籍奉還
[75516]では、慶応4年閏4月の政体書から、明治2年6月実施の版籍奉還前までに設けられた府県をほぼ年代順に列挙しました。
この1年余の期間の日本は、このシリーズ のタイトルである「政府直轄地」と、ほぼ江戸時代のままの「諸侯」の領地(藩)との二本立の統治体制でした。
この体制のままで近代化は可能か? 連邦国家像を描くにしても、300近い藩に細分化された状況のままではやはり無理であり、藩の再編成を避けることはできない。これは、誰しも考えたことでしょう。

「雄藩」の藩主たちの思惑がどのようなものであったのかはともかく、明治2年正月23日に「長薩肥土四藩上表」なるものが提出されました。

法令全書明治2年通番75 には、毛利宰相中将、島津少将、鍋島少将、山内少将4侯に宛てた沙汰書が掲載されています。
これは、4藩主の上表に対する受取書であり、再度東京に行幸した際に会議を開き、公論を集約した上で、沙汰する という内容です。

参照として示されている上表文の ポイントと思われるくだり。
抑臣等居る所は即ち天子の土 臣等牧する所は即ち天子の民なり 安んそ私に有すへけんや 今謹みて其版籍を収めて之を上る 願くは朝廷其宜に処し 其与ふ可きは之を与へ 其奪ふべきはこれを奪ひ 凡列藩の封土 更に宜しく詔命を下し これを改め定むへし

土地・人民は日本の主権者たる天子に帰するものだから、列藩が徳川家から預かっていた「版籍」(= 版図 + 戸籍)を 一旦 天子にお返しする。
朝廷は宜しく、つまり 列藩に対する 封土の与奪権 を行使して、列藩の封土を改定してほしい。

4藩主の申し出は、日本の近代化にとり必要な 封土再編成を朝廷にまかせる というものですが、彼等が期待しているものは「藩の再編成」であり、「廃藩」ではないように思われます。

もっとも、府藩県三治の制度は作られたが、藩は家法・職制等まちまちだから、藩を改めて府県と同じにしようと、より明確に「廃藩」を打ち出した提案も既にありました。
「姫路藩の版籍奉還建白」(明治元年11月、「史談速記録」収載)を挙げておきます。

明治2年正月の御沙汰書でも触れていた東京行幸は 3月に行われ[75459]、6月17日に 版籍奉還願の通り という許可の御沙汰がありました。
薩長土肥という有力4藩が願い出た 版籍奉還 は、藩の再編成を求める潮流となり、4藩に続く 同様の申し出が、列藩から続々と出されていました。法令全書通番543 の宛先は「版籍奉還願出候面々」と、4藩と追随者とを含めた 版籍奉還組の諸藩一括 となっています。
なお、通番544の宛先は「版籍奉還不願出候面々」で、こちらには“其藩も封土版籍返上被仰付候事”という一文が加えられています。

上記2件の御沙汰の後に、参照として 274藩の「藩知事表」が 147コマから 151コマまで 列挙されています。
通番542にあるように、この日に「諸侯」の称号は廃止され、新たに「華族」ということになりました。
藩知事表に続いて、一橋家以下の「地所廩米の家」4家と「廩米の家」8家とが記されています。

6月25日には「知藩事」に対する 明治2年576 行政官達 が出され、支配地総高・費用・職制職員・藩士兵卒員数等の報告を求めています。既出一覧表は「藩知事」でしたが、今回は「知藩事」と、知県事と同様な名になっています。

要するに、明治2年6月に出された決定は、正月の上表時に 多くの藩主たちが期待したであろう 「封土の再交付」ではなかったのでした。
藩主たちにとり、今回の変革は、将軍の代替わりにおける 本領安堵を少し修正した程度 では済まないものであることを 実感させる結果でした。
このような結果をもたらした経緯につき 詳しくは知りませんが、正月24日の御沙汰で“会議を経公論を被為”と予告されていたことから、公議所での議事対象になったものと思われます。
五ヶ条の御誓文 の第1条に掲げられた“広く会議を興し萬機公論に決すべし”を具体化した公議所では、政府各官や藩の代表が公議人となっていましたが、藩主たちとは違った視点で、近代への一歩を進めたものでしょう。

藩の職制については、明治元年902 で、執政・参政・公議人の他、“大凡府県簡易の制に準じ”という程度の指針が示されていましたが、版籍奉還によって藩主が政府から任命された知藩事になって以後、「藩」も 府県と同列の行政区画 としての位置付けがなされてゆきました。

明治3年579 藩制 を見ると、藩高の 10% は知事家禄に充当。藩高の 9% が海陸軍費で、残る 81% が士卒の禄を含む行政費 という割当です。
県と同列の行政区画と言いましたが、大勢の武士を抱え、藩ごとに陸軍を持つ点、府県と違う藩の独自性を持つことになります。

軍事費の半分は海軍費として官に納め、半分は陸軍費するというのですが、これでは どれだけ装備の充実ができることやら。
尤精々節減し有余を以て軍用に可蓄置様可心掛事
という状況であるのも、うなづけます。

明治3年藩制 の最後のあたり、9月決算明細書を差し出すべき事の後に、藩債支消や藩札引換の計画についても言及しています。これも府県と違う藩独自の問題でした。

# 版籍奉還して政府支配地になってからの「藩」も、まだ「府県」との異質性がかなりあり、とても“名前が違うだけで、殆んど「県」と同じもの[75494]”とは言えないようです。やはり「府藩県三治制」ではなく、「府県・藩三治制」と呼ぶべきか。


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