都道府県市区町村
落書き帳

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[75494] 2010年 7月 17日(土)23:06:23【1】hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (1)新政府直接支配地には「府県」を、諸侯支配地には「藩」を置く
1868年頃の「府」 に引き続き、明治新政府が「府県」を設けた頃を振り返ります。hmtマガジン のトップテーマに挙げた「都道府県」関連です。

形の上では、現在の「都道府県」のルーツとも言えるのですが、当時の「府県」は、バラバラの政府直轄地を寄せ集めた支配機構にすぎず、行政区画としての体裁さえもなしていないものでした。
もちろん「地方自治体」ではなく、たとえ同名であっても、その実体は現在の都道府県と大幅に異なるものであったことを、最初にお断りしておきます。

さて、近代日本の地方制度として「府県」が最初に現れたのは、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)の 政体書 です。一部抜粋
一(第2条) 天下の権力総てこれを太政官に帰す…太政官の権力を分って立法行法司法の三権とす…
一(第5条) 各府各藩各県皆貢士を出し議員とす…
一(第11条) 各府各藩各県其政令を施す…唯其一方の制法を以て他方を概する勿れ…
一(第12条) 官職 太政官分為七官…(中略)…
【122コマ】地方官分為三官
○ 府 知府事一人… 判府事二人
○ 藩 諸侯
○ 県 知県事一人… 判県事【以下(13~15条)略】

# 今回は、明治5年以前の和暦の日付も使いやすいアラビア数字にします。
太陽暦でないことは年号で区別できるので、前回のように漢数字で区別する必要はないと判断しました。
年号については、明治元年9月8日改元より前の日付は、当時使われていた慶応4年のまま表記すること、前回と同じ方針です。

慶応4年のこの条文が、何故に「府」と「県」との間に「藩」を挟んだ順序にしたのか? その理由がわかりません。
当時の日本は、主として徳川将軍家の土地だった政府直轄地と、約 300の諸侯が支配する地とに分かれていました。
従って地方支配体制も、政府直轄地には「府県」を置き、諸侯を介しての間接支配になる地域には「藩」を設けたわけです。
だから、「府県・藩」と併称するのが筋だと思われるのですが、条文の順番のせいで「府藩県」と呼ばれます。

# もっとも、「府藩県三治制」という用語は、普通には版籍奉還して政府支配地になった時代の「藩」について使われており、この場合の「藩」は名前が違うだけで、殆んど「県」と同じものになっています。元の殿様も「諸侯」ではなく、政府から任命された「知藩事」になっています。

先走って言及した版籍奉還よりも前の時代、直接統治の「府県」と間接統治の「藩」とに分かれることになった いきさつ とは何か?
それを説明するために、前年 慶応3年10月14日に行われた「大政奉還」に遡ります。

日本史図録でお馴染みの 壁画「大政奉還」 は、神宮外苑絵画館で見ることができます。そこに描かれているシーンは、朝廷における上奏そのものではなく、二条城に戻った徳川慶喜による、諸侯を集めての事後報告です。

この「大政」とは何か? 日本という統一国家を統治する権原なのでしょうね。
天正18年(1590)に豊臣秀吉により統一された この国の統治権は、秀吉死後、政権内で 多少の争いがあったものの、徳川家康に引き継がれました。

ところが、17世紀初頭に整備された統治機構は 19世紀後半には制度疲労を起しており、黒船に代表される世界の動きにうまく対応できません。
幕府の政策に反対する国内勢力を抑え込む 安政の大獄や、和宮に象徴される 公武合体政策も 問題解決には至らず。

江戸幕府最後のエース・徳川慶喜[43497] は、既に文久2年(1862)から 将軍後見職 として幕政を担当していましたが、第二次長州征伐失敗後、ようやく 15代将軍に就任。
「鯨海酔侯」を自称した 酔っぱらい ながら、幕末の四賢侯とも評価されていた 前土佐藩主・山内容堂が、老中経由で この将軍に対して建白した策が 「大政奉還」でした。

坂本龍馬や 後藤象二郎の案に基くと言われますが、徳川慶喜の観るところ、「大政」を奉還する先の主権者(朝廷)には、統治能力などない。新しい統治機構を作るにしても、従来の官僚組織を抱えた 徳川家の実力 を無視することは できない筈である。そう考えて、15代将軍は 「大政奉還」に同意したのでしょう。
[75495] 2010年 7月 17日(土)23:25:53hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (2)欠席裁判で徳川家から召し上げた領地が「府県」になった
制度疲労から脱却するために徳川慶喜が打った手は「大政奉還」。

形式上は この「大政奉還」が「政権交代」の第一歩になりました。それ故にこそ 大政の受け取り手である朝廷から「諸藩へ」の御沙汰が、法令全書の通番第1号記事 になっています[75457]。日付は大政奉還の翌日、慶応3年10月15日。

しかし、慶喜が読んだように、形式的な大政奉還だけで 政局の風向きが変るものではありません。
そこで、あくまでも武力倒幕を図る勢力は、徳川勢力の一掃を狙い、“摂関幕府を廃し仮に三職を置く”という「王政復古の大号令」を発し、三職による「小御所会議」を招集しました。これが慶応3年12月9日。太陽暦では既に新しい年 1868年1月3日になっていました。

小御所会議では 議定(三職の1つ)の山内容堂ら 慶喜擁護派の主張を抑えて、参与の岩倉具視や大久保利通によるクーデターが成功し、徳川慶喜の 辞官納地 が決定されました。
結果的には無視されましたが、この小御所会議において山内容堂が投げかけた疑問は、もっともな内容です。
薩摩・土佐・尾州・芸州【いずれも議定】が その領地を保有しながら、徳川宗家に対してだけは なぜ納地を迫るのか?

裏の仕組みはとにかく、“大政奉還の功労者”徳川慶喜は、議定に選ばれていないので、小御所会議では欠席裁判。
建前上は徳川家【ここでは尾張家などは含まず、将軍を出している徳川宗家のこと】の私有地であり、幕府の財政を支えていた 全国の天領・直参知行地は、すべて召し上げられました。
これらの土地が、翌慶応4年の政体書で「府県」が置かれることになる 政府直轄地[75494] になったのでした。

この政権交代を 外国に告げる文書 は、ちょうど時期が重なった 兵庫開港 に際して 6ヶ国公使に伝えられています。
日本国天皇告各国帝王…将軍徳川慶喜請帰政権制允之内外政事親裁之乃曰従前条約用大君名称自今而後当換以 天皇称…
慶応4年戊辰正月十日 御名印 
(正月15日に兵庫に於て仏英伊孛荷米6国公使に付し5月29日箱館に於て魯国領事に付す)

国名がわかりますか? 「孛」は孛漏生(プロイセン)王国の略ですが、「普仏戦争」のように「普」を使うのが一般的です。
「荷」はオランダ王国でしょう。これも多くの場合「蘭」を使います。

その兵庫は、開港直後に幕府の兵庫奉行が江戸に引き揚げてしまったので、早くから新政府の管理するところとなり、慶応4年正月22日の 兵庫鎮台、2月2日に改称して 兵庫裁判所と、名称こそ まだ「府県」ではありませんが、新政府地方官庁の中では 最も早く設置された仲間になりました[54430]。兵庫県になったのは政体書発布の翌月です。初代兵庫県知事に記録されている 伊藤五位 とは 伊藤博文のことです。満年齢だとまだ26歳か。

神戸・大阪のように早々と 新体制が整えられた地域 もありますが、倒幕派による王政復古クーデターの結果が 全国に及ぶまでには、戊辰戦争によって 抵抗勢力を排除するプロセス がありました。
旧勢力の本拠地については、3月の勝・西郷会談を経て4月4日に 江戸城明渡し

最初に記した 慶応4年閏4月21日の「政体書」は、このようにして、まだ北越・会津など 平定すべき地方は残されているものの、日本の主要部を支配下に収めた 新政府 が発表した、新たな統治機構だったのでした。
前年師走の「王政復古の大号令」では、摂関幕府という 令外の官 は廃止されたが、さりとて 律令体制への「復古」でもない 三職という「仮」の体制でした。
今度は、太政官の七官・地方官の三官(府藩県)が正式に決められたので、(律令廃止とはどこにも書いてないようですが)実質的に律令体制から決別することになったのでしょう。
[75497] 2010年 7月 18日(日)13:46:42hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (3)慶応4年閏4月24~25日に最初の2府5県が誕生
大政奉還(慶応3年10月)→王政復古クーデター(12月)→戊辰戦争(慶応4年正月~)という経過をたどって、慶応4年4月には 江戸も新政府の手中に入り、その翌月(閏4月)には、新政府の統治機構が「政体書」という形で発表されました。

# 太陰太陽暦では、太陰を基準とした 朔(新月) = 1日【ついたち・月立ち】です。月を季節と合わせるためには、太陽の動きを黄経30度ごとに区切った 雨水・春分・穀雨・小満・夏至…を中気と称し、各中気を含む月を 正月・2月・3月…とします。従って、小満を含む月が4月、夏至を含む月が5月ですが、慶応4年4月の翌月は 中気を含まない「閏月」 でした。「閏4月」とは、4月の次の閏月という意味です。

さて、安政条約第3条では 1863年初からとなっていた兵庫開港。5年間延期した結果 1868年1月1日に開港。
ところが、開港した翌月・慶応4年正月に鳥羽伏見の戦い。兵庫奉行などの幕府関係者は、敗れた将軍慶喜の後を追って江戸に引き揚げ。
このような経過で、兵庫は 新政府の地方組織が 否応なく実働する場になりました。
外国掛兵庫事務所>兵庫鎮台>兵庫裁判所

[229] Issie さん
このときの「裁判所」は“三権分立”のシステムができあがったあとの司法機関としてのそれとはちがって,行政機能も持つものです(というより,この段階では行政と司法は分離していなかった)。
[59167] むっくん さん
府藩県三治の制(M元.閏4.21)の前に旧幕府直轄地を明治政府が治めた裁判所が抜けていると思うのですがいかがでしょうか。
ただ、○○裁判所というのはおそらく江戸時代から明治時代へ変わる際の過渡期の制度であったのでしょうから…

実例は 慶応4年正月27日 大阪鎮台を改め 大阪裁判所 を嚆矢とし、2/2 兵庫・長崎、2/19 京都、3/7 大津、3/19 横浜、4/12 箱館、4/15 笠松、4/19 新潟・但馬府中、4/2 4佐渡 の各裁判所が設置されています。
その多くは短期間で 同名の府県に改称 しました。横浜裁判所だけは、神奈川裁判所を経て神奈川府に改名しています。これは開港地が「建前上は神奈川」であったのが理由でしょう[20917]

「府県」以前の「○○裁判所」はこのくらいにして、法令全書明治元年 では、通番345の京都府知事以下、大津知県事・笠松知県事・日田知県事・富岡知県事・富高知県事と続きます。その前 通番342 として記された 箱館府知事が 閏4月24日 と最初の日付で、[75457]でもこれを具体的な「府」の第1号としました。

もっとも、Issieさんが [55181]で指摘しているように、「法令全書」に収録されている布告が“唯一絶対”というわけでは決してありません。明治元年法令全書の書物自体は 明治20年出版で、慶応4年当時の記録が残されていないものもあります。当時の日付が正確に伝えられていない可能性もあります。
越後府(第1次)の設置日が 法令全書の 5月29日説 の他に 公文録の 5月23日説 とがあることが記されていますが、地方沿革略譜 を見たら、こちらでは 6月3日 となっていました。こうなると、どれを信用してよいものやら。

「府」の第1号について言うと、法令全書の京都府知事は箱館府知事の翌日でしたが、地方沿革略譜(14コマ)は 箱館府と同日(24日)でした。
なお、地方沿革略譜は、内務省の編集で、慶応3年10月から明治14年5月までを府県別にまとめています。

次に、「県」の第1号に移ります。
既にリンクしたように、京都府知事と同じ慶応4年閏4月25日付で大津知県事・笠松知県事・日田知県事・富岡知県事・富高知県事が発令されています。
大津・笠松・日田は、産業や交通の要衝である天領と心得ていましたが、天草の富岡や日向の富高が天領であったことは知りませんでした。

第1号の「県」5つのうち、意外にも3つもあった九州を除外すると、大津県と笠松県。
なんとなくこれで検索してみたら、三重県HPの中に、明治2年に行われた大津県・笠松県から 度会県への 北勢地域の管轄地引渡史料 という文書がありました。
現在の地図で見ると、大津にしても笠松にしても 伊勢国最北部(いなべ市)とは 無関係なように思われますが、こんな場所に飛び地があったのですね。しかも引渡し先が安濃津県でなく度会県だというのも意外でした。

常識的には 三重県北部が安濃津県で、度会県と呼ばれた地域は 三重県南部。
しかし よく考えて見れば、これは明治9年第二次府県統合前の、明治4年11月第一次府県統合時代の度会県でした。
今回の記事で取り扱う時代(明治元年~2年)の「度会県」は、県庁所在地である 度会郡山田(伊勢外宮所在地)付近 は共通でも、その他に 伊勢北部の旧幕府領 を管轄するなど、区域が異なるのでした。

伊勢北部の旧幕府領と言えば、重要な港町の四日市があります。ここは一時大和郡山領になった後、19世紀には信楽代官多羅尾氏の支配する地になっていました。近江国信楽の管理下という歴史が影響して、四日市は大津県の管轄となっていたのでした。

こんな具合に、最初の「府県」が置かれた時代の政府直轄地というのは、現代の地理的感覚からはなかなか理解しにくいところがあるようです。

【付言】
地方沿革略譜の「摂津県」 には、元年正月二十日という置県日が記されているのですが、18コマ大坂府に記された“二年正月二十日割河内摂津二国属於河内摂津二県”から“二年”の誤記と判断できるので、第1号の「県」に関しては無視しておきます。
[75516] 2010年 7月 22日(木)21:50:38hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (4)版籍奉還前の府県
江戸城が平和裡に開け渡され、新政府の勢力が日本の主要部に及ぶことが確定した 慶応4年初夏に発布され政体書。
これにより、中央政府には 太政官七官が設けられ、地方は「府県と藩」の三官に分けて統治されることになりました。

徳川家から召し上げた政府直轄地[75495]のうち、幕府奉行所などがあった要地に設けられた「府」は、一時的に 10府を数えましたが、明治2年7月には京都・東京・大阪の三府に限定され、それ以外はすべて「県」になりました[75459]

「県」の第1号は、慶応4年閏4月25日 大津県・笠松県など5県であり、「府」の第1号とほぼ同時登場でした[75497]

日付順に列挙してゆくのも 能がないやり方ですが、「版籍奉還前の府県」が設けられのは、やはり主要な政府直轄地であると考え、少し続けます。

慶応4年閏4月中に第1号の2府5県に続いて設けられたのは丹後国 久美浜県 でした。翌明治2年8月10日 生野県分離 とあるように、一時は 旧生野代官支配地を統治する(但馬)府中裁判所[75497] を統合し、丹後・丹波・但馬・播磨・美作の旧天領・旗本領を管轄していたようです。

5月の大阪府・長崎府・江戸府は既出[75457]
江戸府ができた直後の5月15日に、彰義隊が決起しましたが、長州の大村益次郎が指揮する政府軍は、本郷台地からの上野砲撃により、10時間で「抵抗勢力」を討伐しました。西郷隆盛は、この戦争の激戦地黒門口で、薩摩軍を指揮しました。上野公園の有名な銅像からは、本来の職業軍人として、この上野の地で活躍した姿を想像することができませんが…

この後、5月中に 倉敷県・奈良県・なぜか兵庫府でなかった兵庫県[75457]・飛騨県 と「県」の設置が続きます。
北越戦争の混乱中[75459]に(あえて?)設置された越後府の日付が 資料により異なることは、[75497]で触れました。
6月には 飛騨県が早くも高山県に改称されました。富岡県も 天草県となっている資料があり、改称された可能性があります。
三河裁判所([75497]では書き落し 4/29設置)や横浜裁判所>神奈川裁判所も、6月に三河県・神奈川府に改称。
上野国の岩鼻県、和泉国の堺県も6月設置。

伊勢国四日市の 大津県所管 は 既に[75497]で触れましたが、讃岐国塩飽諸島の 倉敷県所管など、当時の管轄は、現代の府県を越えたものがあります。

また、現在の常識からすると、○○県の存在を前提に「○○県知事」があるのですが、当時は「知県事」という官職が任命されても、その管轄する「○○県」という名は、必ずしも設けられたわけでなかったようです。
地方沿革略譜 には、慶応4年8月に 下総知県事 に任命された佐々木貞之丞が(明治元年) 12月に罷める時には まだ県名が設けられておらず、後に【明治2年正月13日】葛飾県と称した とあります。つまり、「下総県」は存在しなかったようです。

こんなことを書いたのは、慶応4年には 「武蔵知県事」が 3人も同時に存在したからです。
江戸には 江戸府(7月17日 東京府[75459])が設けられましたが、その近郊の武蔵国にある 天領・御家人知行地も 新政府に召し上げられました。新政府は、ここを統治するために、3人の旧幕府代官を 武蔵知県事 に任命しました。
それぞれが 10万石余を担当した 3人の知県事の役所(元の代官所)は、翌明治2年になると それぞれ大宮県・品川県・小菅県と呼ばれるようになりますが、慶応4年6~7月の段階では、下総と同様に 知県事あれども県名なし の状態でした。
類例は、常陸知県事(M2若森県)、上総安房知県事(M2宮谷県)があります。真岡知県事の役所は 明治2年に移転改称して 日光県になりました。

あと、江戸近郊の天領というと、伊豆韮山の 江川太郎左衛門代官所[59110]支配地も 政府直轄地になりました。法令全書では、江川英武(幕末の海防に尽力した江川英龍の五男)が正式に知事になった 明治2年 に記録されていますが、地方沿革略譜では 慶応4年6月 韮山県設置 となっています。

北越戦争も収束しつつある越後では、柏崎県が越後府から7月に分離。
8月には 信濃に 伊奈県設置。この県は、北信濃の中野までを管轄するだけでなく、明治2年6月には三河県を併合し、南北に驚くほど離れた領域を管轄しました。
記念すべき「県の第1号」5県のうち、富高県は日田県に、富岡県>天草県は長崎府にそれぞれ8月に編入されて消滅。
9月初めには、佐渡県設置の後、甲斐国で府中・市川・石和の3県設置。改元後の10月には統合して甲斐府。

9月8日に改元の詔書が出て、一世一元制になりました。法令全書通番726
“慶応4年を改め明治元年と為す”を文字通りに適用すれば 年初に遡る のですが、改元前の日付は あえて慶応4年で記しています[75457]

上からは 明治だ などというけれど、「おさまるめい」と下からは読む

明治元年になってからの、越後府>新潟府、神奈川府>神奈川県、甲斐府、いずれも既出。
明治2年の葛飾県・小菅県・新潟府から分離の越後府2・若森県・品川県・大宮県・宮谷県・日光県・新潟府>新潟県なども既出。
新たな県では、隠岐県が置かれた後、移転改称で大森県へ。更に翌年浜田県へ。
大阪府から分離の摂津県は、豊崎県と改称後兵庫県に編入。同じく大阪府から分離の河内県は、堺県に編入。

さて、ここで これまでの府県が設置されてきた 徳川家の旧領 とは異なる性格の地が登場します。
明治2年3月28日、陸前国に設置された「涌谷県」と「栗原県」です。
涌谷(わくや)は伊達騒動に登場する伊達安芸の本拠であった地であり、現在も宮城県遠田郡涌谷町があります。
戊辰戦争で敗れた仙台藩は大幅に領地を削減され、この地は土浦藩取締地の政府直轄地を経て、涌谷県が設置されました。
涌谷県や栗原県の存在は、宮城県の行政区画の変遷 によって確認することができるのですが、これまで このシリーズで引用してきた 法令全書と地方沿革略譜 のいずれにも、なぜか掲載されていません。

明治2年5月4日には若松県が置かれました。これも同じ性格の旧会津藩領です。法令全書は不掲載ですが、地方沿革略譜 には掲載。

明治2年には、地方統治に関して、これらよりも更に重要な動きがありました。
「大政」は奉還したものの、中央政府から任された状態になっていた諸侯支配地の「版籍奉還」がそれです。


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