[76253] 白桃 さん
市制施行前に館山北条町を名乗っており、しかも当時は旧北条町の人口が多かったのに、どうして館山市と言う名前になったの?
[76264] Issie さん
たぶん,「北条」よりも「館山」の方が知られた地名だったのではないか,と考えます。
「館山」は海軍航空隊の基地として知られていました。時代が時代ですから,こちらの要素の方が大きかったかもしれません。
[76265] 白桃 さん
三田(対:三輪)、三次(対:十日市)、岩国(対:麻里布)なんかも館山に似たような経緯があったのではないかと思います。
この後の皆さんの反応を含めて、興味深く拝見しています。
話題になった各自治体の名称は、主として20世紀中頃に行われた合併の際に選定されたものですが、町村制施行に先立つ 1888年の 山縣内務大臣訓令
[37482]による原則は、この時代になっても考慮されたものと思われます。
第6条 合併の町村には新に其名称を選定すべし
旧町村の名称は大字として之を存することを得
尤も大町村に小町村を合併するときは其大町村の名称を以て新町村の名称となし或は互に優劣なき数小町村を合併するときは各町村の旧名称を参互折衷する等適宜斟酌し勉めて民情に背かさることを要す
但町村の大小に拘はらす歴史上著名の名称は可成保存の注意を為すへし
この条文は、折衷(合成)自治体名の根拠にもなっているのですが、それは 優劣ない町村を合併する際に、やむを得ず選ぶ手段であり、第一原則は「大小」です。
そして、「歴史上著名の名称は可成保存の注意を為すへし」という但し書きが付けられています。
今回の事例について言うと、町村の大小を判定する基準が「人口」なのかどうかはさておき、いずれも「歴史上著名の名称」が保存された事例であるように思われます。
館山北条町 1933(S8)年4月18日新設、
館山市 1939(S14)年11月3日新設/市制
一旦は連称地名を採用したものの、市になった機会に長い名前に決別したのですね。先輩の「宇治山田市」が 伊勢市に改称するよりも前でした。しかし、その後も懲りずに、大湊田名部市や 山陽小野田市という連称市名が誕生しています。
岩国市 1940(S15)年4月1日新設/市制
[76270] にまん さん
あの辺りの中心は一貫して岩国です。というか、麻里布は基本的に文化期以後の開拓地で、明治から大正にかけて、岩国駅の設置と工場建設により急激に発展をとげたところです。
[76272] Issie さん
「麻里布市」が選ばれることは,…まず選択肢にはなかったでしょう。要は人口(稼ぎ)だけで物事が決まるのではなく…
他の3ケースは、川を隔てていても 市街地が隣接した双子の町ですが、麻里布は 岩国の城下町から少し離れており、別々の町であったと思います。岩国駅から西岩国駅まででも4km。錦帯橋や吉香公園はもっと先です。
自治体としては岩国とは別の「麻里布」でしたが、産業施設としては 岩国の一部として機能していました。
[76272] Issie さん による 鉄道 もその一例ですが、瀬戸内海の良港である 岩国港も 麻里布にあり、臨海部に出現した 帝国人造絹糸(1925)・山陽パルプ(1939)などの工業地帯も、岩国と認識されていました。
興亜石油(現JX日鉱日石エネルギー)麻里布製油所のように「麻里布」を名乗る施設もありますが、岩国市発足後の 1943年で、所在地は和木村(町)ですから、自治体名の麻里布町を使ったわけではありません。
短絡線は1934年に徳山まで全通し,こちらが 山陽本線,従来の海岸経由が 柳井線 と改称されました。
それなのに,山陽線の特急・急行列車は山越えを嫌ってせっかくの短絡線(山陽本線)を通過せず,従来のまま海岸(柳井線)経由で運転され,「岩国駅」には停車せず(通らないのだから),「麻里布駅」にばかり停車していました。
岩国・徳山間の山陽本線短絡線は、欽明路トンネルで山を克服したので、急行列車に嫌われることはありません。開通したのは、丹那トンネル開通と同日の 1934年12月1日でした。当時、日本全国で3本しかなかった特急の「富士」と「桜」は、この両トンネルによってスピードアップしました【注】。「岩国駅」は通過ですが、「桜」は「麻里布駅」に停車しました。
岩国の駅名は 岩国市街最寄の短絡線に譲っても、鉄道の基幹駅はやはり麻里布でした。
岩徳線が 幹線の地位を維持できなかったのは、勾配ではなく、複線化(と電化)に対応していなかったためです。
【注・追記】
1934年12月ダイヤ改正時には、岩国・徳山間だけでなく、全国的な改良が行われました。東海道本線・山陽本線以外にも、長崎本線が有明海沿いの新線になりました。7両+水槽車で御殿場を越えていた特急「燕」も、10両での8時間運転(神戸行ですが大阪までの所要時間)を実現しました。
三次市 1954(S29)年3月31日新設/市制
三次町は 1889年の町村制当初から、十日市町の町制は 1917年です。かつて郡名や藩名にも使われた「三次」が、差をつけていました。
しかし、1915年に 現在の西三次駅まで開通した 芸備鉄道により、巴橋の南側にある 十日市地区は、北側に比べて 発展が約束されました。
昭和大合併では、名が売れていた方の 「三次市」になり、「備後十日市駅」
[72157]から 三次駅に改称された 芸備線が貫通する 十日市町が、三次の中心になっています。巴橋北側の 旧三次町地区に 鉄道が伸びたのは 1955年で(三江南線)、江津からの三江北線とつながったのは、ずっと後の 1975年でした。
三田町 1956(S31)年9月30日新設(1958年市制)
[76269] ぺとぺと さん
旧三輪村域に造られた駅の名は「三輪」ではなく、武庫川を隔てた町の名である「三田」。(中略)郡役所が廃止された後も、駅名や旧制中学校の存在などにより、「三田」の名のほうがメジャーであり続けたのではないでしょうか。
こちらも、明らかな知名度の違いがあったようですね。
九鬼氏の三田陣屋が、明治になってから 三田県庁>有馬郡役所を経て、現在の法務局出張所に続いているのでしょうか。