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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[7783]2003年1月16日
白桃
[7786]2003年1月17日
Issie
[7922]2003年1月19日
Issie
[7962]2003年1月20日
Issie

[7783] 2003年 1月 16日(木)23:39:24白桃 さん
旧神奈川県の「駅」と「宿」
[7772]Issieさん
 市制、町村制施行以前に関する白桃の質問に、詳細なご説明をいただき本当に有難うございます。
 本日は、今年初めてアルコールがはいっておりませんが、調子に乗って更に質問をさせていただきます。旧神奈川県には、市でも町でも村でもない自治体がありました。
 すなわち、日野宿、箱根駅、與瀬駅、吉野駅、府中駅です。
 白桃はこれらを「町」に準じた扱いにしておりますが、それは適切なことでしょうか?また、「宿」と「駅」の違いはあるのでしょうか?
 また、大分以前に質問をしたのですが、明治時代の鹿児島県には鹿児島市以外に町として加治木があるのみで、鹿屋をはじめ他は全部村でした。それも、人口の多い村が数多く存在しておりました。このあたりについて、何らかのご見解をおもちでしょうか。町が1つであったというのは、西南の役と関係しているのかナと白桃は想像しているのですが……(何かIssieさんを百科事典がわりにしているようで大変心苦しいのですが)よろしくお願い申し上げます。
[7786] 2003年 1月 17日(金)00:29:49Issie さん
Re:旧神奈川県の「駅」と「宿」
[7783] 白桃 さん
>すなわち、日野宿、箱根駅、與瀬駅、吉野駅、府中駅です

これは当時の神奈川県に限らず,全国の宿場町に広くあった呼称ですね。もちろん,逆に「○○村」という呼称の宿場町も多数あったはずです。
簡単に言えば,江戸時代以来の従来の呼称がそのまま使用されていただけのことです。
「郡区町村編制法」の以下の条文(第2条)を根拠にしているのですね。

郡町村ノ区域名称ハ総(すべ)テ旧ニ依ル

だから,漁村の中には「○○浦」というものも多数あったし,「××新田」という呼称の行政区画も一般的ですね。「××新田村」というのも少なくないのですが。新田集落に関して,新潟県の蒲原平野では「△△興野(こうや)」という形式の呼称も多数見られます。
このようにさまざまな呼称が行われていたものが,1889年の「町村制」施行とそのための“明治の大合併”を通じて「町」か「村」に統一されたのです。

>「町」に準じた扱いにしておりますが

便宜上,「町」か「村」かで統一しようとする場合,そのようにしていることが多いようですね。一方で「新田」などは「村」扱いとする。
けれども,1889年の町村制施行の際には「村」となった「駅」や「宿」も多数あるようですね。また,在郷の市場集落で「○○町」と呼ばれていたものが周辺の集落と合併して「○○町村」という,つまりは「村」になる,ということも珍しくなかったようです。

(念のために付け加えておくと,1889年の「市制」施行までは「市」という行政単位は日本には存在しませんでした。郡区町村編制法下の「区」が,市制下の「市」とイコールなのですね。そして,1878年の郡区町村編制法以前には「区」という行政単位もまた存在しませんでした。江戸時代,時代劇に出てくるような「江戸市中引き回し」なんていう表現が見られたりしますが,当時,「江戸市」などという行政区画はもちろん存在しません。そもそも英語の City に対応するものとしての「市」なる呼称,どこから湧き出したものなんだろう。)

>明治時代の鹿児島県には鹿児島市以外に町として加治木があるのみで、
>鹿屋をはじめ他は全部村でした。

これは,どの段階でしょう。
市制・町村制施行以前の郡区町村編制法によるものなのか。「明治の大合併」を経た町村制の下でのことなのか。どちらかによって,話は相当違ってくる気がしますが。
いずれにせよ,このあたりの事情について私はよく知りません。
ただ,「西南戦争云々」というのには一応距離をとっておきたく思います。府県名を定めるに当たって,戊辰戦争で「朝敵」となった地域の呼称が「懲罰として」奪われた,という“伝説”を大変疑問に思うのと同様に。
[7922] 2003年 1月 19日(日)20:27:20【1】Issie さん
宿・駅
[7820] 白桃 さん
日野、箱根、與瀬、吉野、府中は、1889年の市制町村制施行以降も、「町」でも「村」でもなく、依然として「駅」あるいは「宿」というようになっていたという点、それが旧神奈川県に集中していたのはどうしてなんだろう、ということだったのです。

あっ,そうでしたか。これはこちらも早とちりですねぇ。
とすると,私もよくわかりません。
1つ考えたのは,従来の行政単位(宿・駅)がそのまま町村制に移行したので,名称もそのまま継承されたんじゃないか,ということ。
ところが,それは北多摩郡の「府中駅」だけですねえ。足柄下郡の「箱根駅」も単独で町村制に移行しているのですが,それ以前の郡区町村編制法下では「箱根村」という名称であったようです。
南多摩郡の「日野宿」は,従来の「日野宿」に隣接する粟須村・西長沼村の一部を合併したもの。津久井郡の「与瀬駅」は「与瀬村」と「吉野村」の一部,「吉野駅」は「吉野村」の大部分に「与瀬村」「小淵村」「沢井村」のそれぞれ一部が合併したもの。
となると,ますますよくわからない。
1つだけはっきりしているのは,「府中駅」「日野宿」がそれぞれ「町」になったのがともに1893(明治26)年6月19日で,これは“三多摩”が東京府に編入された同年4月1日直後,ということ。神奈川県から東京府へ移管されたことが大きな契機だったんでしょうねえ。
「箱根駅」は1892(明治25)年10月31日,甲州街道沿いの「与瀬駅」「吉野駅」はそれぞれ1913(大正2)年4月1日に「町」に移行しています。

ところで離島の場合は,“完全な自治体として”町村制を施行するには至らないとして「村」になるのが遅れた地域があります。
たとえば東京府(東京都)の伊豆諸島。大島と八丈島の各村が「町村制」(島嶼町村制)下の「村」となったのは1908(明治41)年4月1日,利島・新島(式根島を含む)・神津島・三宅島・御蔵島は1923(大正12)年10月1日,青ヶ島および小笠原の父島・母島・硫黄島はようやく1940(昭和15)年4月1日。逆に言えば,ほかの島には「町村制」は施行されなかった。
同じく,得撫(ウルップ)島以北の中・北千島にも結局「町村制」は施行されていません。南樺太でさえ自治体としての町村が編成されているのですけどね。
(細かく言うと,沖縄県・離島・北海道・南樺太で施行された地方制度は,それぞれ本土の制度とは若干違っていて,根拠法令も違います。)
[7962] 2003年 1月 20日(月)20:32:16Issie さん
甲州街道小原宿
[7958]Firo さん
与瀬宿と吉野宿の間か、吉野宿の先(たぶん、こっちだったと思うんですが、)
に小原宿というのもあったみたいですね。

八王子から小仏峠を越えて相模川の谷間に出てきたところが「小原(おばら)宿」,その隣に「与瀬宿」,そこからダム湖(相模湖)の底に降りて今は水没している「勝瀬(かっせ)」集落(宿場ではない)を経て再び段丘上に登って「吉野宿」,現在の小淵小学校の手前の「関野宿」を過ぎて国境を越え,甲州に入って「上野原宿」と続きます。
 小仏峠→小原宿・与瀬宿→吉野宿→関野宿→上野原宿→…
という順番。

このうち「小原宿」と「与瀬宿」はお互いに隣接してつながっているのですが,ここは両宿で“1つの宿場”を構成していました。一方が「江戸から甲州方面用」,もう一方が「甲州から江戸方面用」,つまりそれぞれ「上り」「下り」用に役割を分担していました。
ただし本陣があったのは「小原宿」の方で,こちらが与瀬よりは上位に置かれていたようです。
(なお,甲州街道には「小原・与瀬」のように2宿セットで上下の役割分担をしていた宿場がいくつかあります。たとえば,「下高井戸・上高井戸」「国領・下布田」「駒木野・小仏」「下鳥沢・上鳥沢」などのように。)

それから、吉野にしても、沢井にしても、青梅市の山間部に、同じ地名がありますね。

青梅周辺との関連はわかりませんが,相模湖町のHPには,小原(←大原)・与瀬(←八瀬)・千木良(←千本松原)・嵐山のように,この周辺の地名は京都の地名と関連がある。山深い地域の常としてここにも落人伝説があって,それらの地名も都からの移住者が持ち込んだ,なんて趣旨の説明がされています。
本当のところはどんなものだか。


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