都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[7783]2003年1月16日
白桃
[7786]2003年1月17日
Issie
[7820]2003年1月17日
白桃
[7922]2003年1月19日
Issie
[63737]2008年2月14日
播磨坂
[63862]2008年2月29日
88
[63912]2008年3月3日
oki

[7783] 2003年 1月 16日(木)23:39:24白桃 さん
旧神奈川県の「駅」と「宿」
[7772]Issieさん
 市制、町村制施行以前に関する白桃の質問に、詳細なご説明をいただき本当に有難うございます。
 本日は、今年初めてアルコールがはいっておりませんが、調子に乗って更に質問をさせていただきます。旧神奈川県には、市でも町でも村でもない自治体がありました。
 すなわち、日野宿、箱根駅、與瀬駅、吉野駅、府中駅です。
 白桃はこれらを「町」に準じた扱いにしておりますが、それは適切なことでしょうか?また、「宿」と「駅」の違いはあるのでしょうか?
 また、大分以前に質問をしたのですが、明治時代の鹿児島県には鹿児島市以外に町として加治木があるのみで、鹿屋をはじめ他は全部村でした。それも、人口の多い村が数多く存在しておりました。このあたりについて、何らかのご見解をおもちでしょうか。町が1つであったというのは、西南の役と関係しているのかナと白桃は想像しているのですが……(何かIssieさんを百科事典がわりにしているようで大変心苦しいのですが)よろしくお願い申し上げます。
[7786] 2003年 1月 17日(金)00:29:49Issie さん
Re:旧神奈川県の「駅」と「宿」
[7783] 白桃 さん
>すなわち、日野宿、箱根駅、與瀬駅、吉野駅、府中駅です

これは当時の神奈川県に限らず,全国の宿場町に広くあった呼称ですね。もちろん,逆に「○○村」という呼称の宿場町も多数あったはずです。
簡単に言えば,江戸時代以来の従来の呼称がそのまま使用されていただけのことです。
「郡区町村編制法」の以下の条文(第2条)を根拠にしているのですね。

郡町村ノ区域名称ハ総(すべ)テ旧ニ依ル

だから,漁村の中には「○○浦」というものも多数あったし,「××新田」という呼称の行政区画も一般的ですね。「××新田村」というのも少なくないのですが。新田集落に関して,新潟県の蒲原平野では「△△興野(こうや)」という形式の呼称も多数見られます。
このようにさまざまな呼称が行われていたものが,1889年の「町村制」施行とそのための“明治の大合併”を通じて「町」か「村」に統一されたのです。

>「町」に準じた扱いにしておりますが

便宜上,「町」か「村」かで統一しようとする場合,そのようにしていることが多いようですね。一方で「新田」などは「村」扱いとする。
けれども,1889年の町村制施行の際には「村」となった「駅」や「宿」も多数あるようですね。また,在郷の市場集落で「○○町」と呼ばれていたものが周辺の集落と合併して「○○町村」という,つまりは「村」になる,ということも珍しくなかったようです。

(念のために付け加えておくと,1889年の「市制」施行までは「市」という行政単位は日本には存在しませんでした。郡区町村編制法下の「区」が,市制下の「市」とイコールなのですね。そして,1878年の郡区町村編制法以前には「区」という行政単位もまた存在しませんでした。江戸時代,時代劇に出てくるような「江戸市中引き回し」なんていう表現が見られたりしますが,当時,「江戸市」などという行政区画はもちろん存在しません。そもそも英語の City に対応するものとしての「市」なる呼称,どこから湧き出したものなんだろう。)

>明治時代の鹿児島県には鹿児島市以外に町として加治木があるのみで、
>鹿屋をはじめ他は全部村でした。

これは,どの段階でしょう。
市制・町村制施行以前の郡区町村編制法によるものなのか。「明治の大合併」を経た町村制の下でのことなのか。どちらかによって,話は相当違ってくる気がしますが。
いずれにせよ,このあたりの事情について私はよく知りません。
ただ,「西南戦争云々」というのには一応距離をとっておきたく思います。府県名を定めるに当たって,戊辰戦争で「朝敵」となった地域の呼称が「懲罰として」奪われた,という“伝説”を大変疑問に思うのと同様に。
[7820] 2003年 1月 17日(金)15:46:37白桃 さん
午後3時のレス
[7786]Issieさん
 ぶしつけな質問にもかかわらず、2度までも速やかなレスを頂き恐縮しております。
 「宿」「駅」の件ですが、白桃の質問の仕方がまずくて申し訳ありませんでした。
 質問の主旨は
 日野、箱根、與瀬、吉野、府中は、1889年の市制町村制施行以降も、「町」でも「村」でもなく、依然として「駅」あるいは「宿」というようになっていたという点、それが旧神奈川県に集中していたのはどうしてなんだろう、ということだったのです。
 もう一つの質問、鹿児島に関しては、明治の終わりまで結局、市が一つ、町が一つであったことが納得いかなかったのです。

[7792]雑魚さん
 白桃選抜の出場校は、「高校野球の原点に戻れ」という考えで、過去の実績、最近の成績、学業との両立等を総合的に判断し、厳正なる審査のもとに決定いたしました。決して私情は入っておりません。
なにか、お喜びのようですが、関係する学校がありましたでしょうか?(笑)

[7796]uttさん
 uttさんの母校は、毎年、甲子園に出場しているのですね(羨)。プラカードはサービス過剰のヒントでしたね。
[7922] 2003年 1月 19日(日)20:27:20【1】Issie さん
宿・駅
[7820] 白桃 さん
日野、箱根、與瀬、吉野、府中は、1889年の市制町村制施行以降も、「町」でも「村」でもなく、依然として「駅」あるいは「宿」というようになっていたという点、それが旧神奈川県に集中していたのはどうしてなんだろう、ということだったのです。

あっ,そうでしたか。これはこちらも早とちりですねぇ。
とすると,私もよくわかりません。
1つ考えたのは,従来の行政単位(宿・駅)がそのまま町村制に移行したので,名称もそのまま継承されたんじゃないか,ということ。
ところが,それは北多摩郡の「府中駅」だけですねえ。足柄下郡の「箱根駅」も単独で町村制に移行しているのですが,それ以前の郡区町村編制法下では「箱根村」という名称であったようです。
南多摩郡の「日野宿」は,従来の「日野宿」に隣接する粟須村・西長沼村の一部を合併したもの。津久井郡の「与瀬駅」は「与瀬村」と「吉野村」の一部,「吉野駅」は「吉野村」の大部分に「与瀬村」「小淵村」「沢井村」のそれぞれ一部が合併したもの。
となると,ますますよくわからない。
1つだけはっきりしているのは,「府中駅」「日野宿」がそれぞれ「町」になったのがともに1893(明治26)年6月19日で,これは“三多摩”が東京府に編入された同年4月1日直後,ということ。神奈川県から東京府へ移管されたことが大きな契機だったんでしょうねえ。
「箱根駅」は1892(明治25)年10月31日,甲州街道沿いの「与瀬駅」「吉野駅」はそれぞれ1913(大正2)年4月1日に「町」に移行しています。

ところで離島の場合は,“完全な自治体として”町村制を施行するには至らないとして「村」になるのが遅れた地域があります。
たとえば東京府(東京都)の伊豆諸島。大島と八丈島の各村が「町村制」(島嶼町村制)下の「村」となったのは1908(明治41)年4月1日,利島・新島(式根島を含む)・神津島・三宅島・御蔵島は1923(大正12)年10月1日,青ヶ島および小笠原の父島・母島・硫黄島はようやく1940(昭和15)年4月1日。逆に言えば,ほかの島には「町村制」は施行されなかった。
同じく,得撫(ウルップ)島以北の中・北千島にも結局「町村制」は施行されていません。南樺太でさえ自治体としての町村が編成されているのですけどね。
(細かく言うと,沖縄県・離島・北海道・南樺太で施行された地方制度は,それぞれ本土の制度とは若干違っていて,根拠法令も違います。)
[63737] 2008年 2月 14日(木)23:30:52播磨坂[伊那谷] さん
戦前の地方自治体についての質問
はじめまして。地理好きの端くれの学生です。
市町村の成り立ちを調べている内にいくつか疑問点が出てきたのですが、どうにも解決出来なかったので質問させてください。

おそらく郡区町村編成法で成立したと思われるのですが、「○○村」、「○○町」ではなく「○○鉄山」というものがありました。これは一体何なのでしょうか?ちなみに、後の町村制施工時には合併によって消滅しています。

郡区町村編成法、町村制、それぞれの当時の町、村の違いは何なのでしょうか?大方は人口で説明出来そうなのですが一部そうも言えない所があると思うのですが・・・。やはり、市街地の規模や地域での中核性を有するか否かなどで判断していたのでしょうか?

よろしくお願いします。
[63862] 2008年 2月 29日(金)22:03:4388 さん
市区町村変遷情報 小レス
市制町村制下の告示等の日と施行日の関係について
[63807] むっくん さん
事例を挙げての丁寧な説明ありがとうございました。じっくりと拝見しました。おっしゃるとおり、「施行日を規定しているのが本来の姿」であり、「施行日がなければ告示日付けの施行」と解釈するのが自然だと思います。「施行日について特段の記載がないにも関わらず告示日とは異なる」ことは不自然ですから、まずないでしょう。

やはり、市区町村変遷情報の整理・編集作業にあたっては、一次的には文献を参照とするのは作業効率上やむを得ないとしても、真実を追究しようとすると、文献にはどうしても誤字やそもそもの誤りもありますので「本当の『根拠』」を追究していくしかないのでしょう。

これまでの編集作業で直面した例をいくつかご紹介します。
■(1)岐阜県の1897/4/1付けの郡再編・岐阜県版明治の大合併に際する郡名の誤りについて
[63716] でご指摘いただいたものです。これは、私が当初に入力の資料とした「総覧」(文献の正式名称は[55681]拙稿参照)が、岐阜県下郡廃置及郡界変更法律
裁可日M29(1896).4.18
公布日M29(1896).4.20
施行日M30(1897).4.1
であるにも関わらず裁可日を施行日と誤り、また、郡廃置がM29に行われているという前提で、M30の合併は当然に再編後の郡名であると認識したと思われ、そのまま私が踏襲してしまったものです。(合併の根拠は、むっくんさんにご紹介いただいたM30.3.31付け岐阜県告示第59号のとおりです。また、この時期の郡廃置の施行日は、各府県・各文献とも誤りが多いです。市区町村変遷情報では各郡廃置法律の施行日を確認し修正しています。)
これらも「原典」である法律をあたれば、着実に施行日の「正しいもの」にたどり着く好例です。
■(2)宮崎県宮崎郡佐土原村の町制施行について
当初入力では文献(「総覧」を見ての入力だが「幕末以降総覧」「便覧」も)に従い、M29(1896).4.1付けとしていたのですが、M22(1889).3.29付け宮崎県令第17号の上段欄外にあるように、M34(1901).7.12付け宮崎県告示第140号による施行と判断しました。(「辞典」では、「M34.7.12(29.4.1)」と両論併記ながらも告示日を記載しています。)つまり、冒頭の考えどおりとするとM34(1901).7.12付け施行が正当と思われ、そのように修正しました。
■(3)告示の正誤表や追加告示が後で行われる例について
[61072]拙稿でご紹介した天竜市の改称(→市制施行)の例では、総理府告示の正誤表が後になって出ました(この例は「改称」なので、根拠は正式には旧二俣町の条例ですが)。また、[58561]拙稿で紹介した和歌山県日高郡中津村の新設合併の例のでは、後になって施行日が変更となる総理府告示が行われました。よって、文献と異なる内容を選択する場合には、それなりの根拠(=告示や法律そのもの)を確認しておかないと不安です。しかし、編集者冥利に尽きるところでもあります。

私は[62863]でむっくんさんが整理された、各府県の市制町村制の県令の一覧表を愛用させていただいております。[62863]の記事をBookmarkしており、そこから近代デジタルライブラリー(国立国会図書館)の各府県令のページを見ております。
このご紹介していただいた以外の府県のものや、[62593] 拙稿でもぼやきましたが大正・昭和(戦前)の告示等が近代デジタルライブラリー(国立国会図書館)での対象外であるためため、エアーポケットのように資料不足になっています。先日、北海道の大正時代の一級・二級町村制施行の内務省令([63738]hmt さんにご紹介いただいたものの続き)を求めて県立図書館へ行って書庫の法令全書(もちろん紙ベース)を閲覧したのですが、この時代はひょっとすると制度が変更になっていたのか、内務省令には求めるものが見つかりませんでした。それにしても北海道や沖縄、島嶼の編集作業は、制度史はもちろんですが、地域の歴史を十分に理解しないと調査・検証も困難であることを実感しています。[62851]拙稿
・・・資料による記載の相違に頭を悩ませることとなりそうです。相違点がある場合は告示や府県令など、「ほんとうの『根拠』」となる原点に返るべし、との観点をもとに、再確認作業が必要となりそうです。
[63807] むっくん さん
おそらく今後市区町村変遷情報の精度を挙げるために府県の告示にあたる必要が数多く出てくることでしょう。
ますます、深みにはまって悲鳴をあげております(嬉泣)。

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[63809] 揖斐の山 さん
市区町村変遷情報更新について
[56275] 拙稿でも書きましたが、私の入力分は更新履歴に残さず、内容だけ更新するようにしています(作業手順上、そういう選択が可能です)。現在進行形の合併情報やほんの少し前の平成の大合併は、市町村の組み合わせ(「変更対象自治体名」に相当)は明白で紛れがなく、「旬の情報」を求めるニーズに応えるためにも更新履歴は有用だと思います。しかし私の担当の履歴情報は、自治体の組み合わせや自治体名に確認困難ものが多く、更新履歴に残すと修正前のものが後々まで検索に引っかかってしまうため適切ではないと考えています。グリグリさんからは「更新履歴も要望により個別に修正しますよ」と言って頂いてはいるのですが、数と手間を考えて、今後も同様にしたいと思います(私の入力誤りも多いので恥ずかしいのがホンネ)。もっとも、私も時々は作業手順を誤り、更新履歴に残してしまうことがありますが。
よって、これはグリグリさんのプログラムの不具合でもなく、でるでるさんの入力作業に伴うものでもありません。ちなみに2/25付けでの更新内容は、私が1889/5/1付けでの宮崎県の町村制施行に伴う100件の入力を行ったものがほとんどです。

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[63737] 伊那谷 さん
レスが遅くなりましたが、市制町村制の時期の諸制度に興味があるものの一人として、知っている限りことを述べます。
「○○村」、「○○町」ではなく「○○鉄山」というものがありました。これは一体何なのでしょうか?
「○○鉄山」ではなく「○○山」と考える方がよいのだとは思いますが、いくつかあったと私も記憶しております。「○○新田」「○○駅」「○○宿」などと同様で、末尾に「町」や「村」がつかなくとも、実質的には地域の集合体である、自治体であり行政区画であったのでしょう。
郡区町村編成法、町村制、それぞれの当時の町、村の違いは何なのでしょうか?大方は人口で説明出来そうなのですが一部そうも言えない所があると思うのですが・・・。やはり、市街地の規模や地域での中核性を有するか否かなどで判断していたのでしょうか?
M21(1888).4.25法律第1号町村制M44(1911).4.7法律第69号町村制をご覧になったかと思いますが、これらの法律では、読む限りでは町と村の違いについては定義されていません。また、参考までに、「地方自治百年史 第一巻」(1992年3月、地方自治百年史編集委員会:編集 財団法人地方財務協会)のp.326に、M21公布の(旧)町村制については、元老院における審議において、
内閣の原案では、特定の事項について、町村を人口段階によって区別して、取扱いを別にしていたが、これに反対する意見が多く、この区別を撤廃した。
と、町村の別ではありませんが、人口による区分を検討したようですが、いずれにせよ、結果としても(法律である)(旧)町村制では町と村の別は人口では区別していなかったようです。法律M44施行の(新)町村制でも同様に規定は見つかりません。内務省令や内務省告示などに何らかの規定があるのだとは推測しますが詳細は不明です。というわけで、どなたかご存知の方がいらっしゃれれば、ご教示いただければ幸いです。
ちなみに、蛇足とは思いますが、現在の地方自治法では第8条第2項により、
第8条 (略)
2 町となるべき普通地方公共団体は、当該都道府県の条例で定める町としての要件を具えていなければならない。
とあり、各都道府県の条例を見なければなりません。例えば、北海道の場合は昭和23年3月17日条例第10号「町としての要件に関する条例」にあります。
[63912] 2008年 3月 3日(月)02:04:30oki さん
町と村 その他
[63737] 伊那谷 さん
[63862] 88 さん

いずれにせよ、結果としても(法律である)(旧)町村制では町と村の別は人口では区別していなかったようです。法律M44施行の(新)町村制でも同様に規定は見つかりません。内務省令や内務省告示などに何らかの規定があるのだとは推測しますが詳細は不明です。

ご存じだと思いますが、M21(1888)法律第1号市制町村制には、「市制町村制理由」という付属文書があり、その中に町村(および市)に対する明治政府の認識を示した部分があります。町と村の関係について、もっとも肝要な部分を示すと次のようになります(新漢字に直し、濁点、句読点を補ってあります)。

「元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同ジクセザルモノアリテ、細カニ之ヲ論ズレバ均一ノ準率ニ依リ難キモノナキニ非ズト雖モ、本邦現今ノ状況ヲ察シ旧来ノ慣習ニ依リテ之ヲ考フルニ、都会輻輳ノ地ヲ除クノ外、宿駅ト称シ町ト称スルモノ施政ノ大体ニ於テ村落ト異同アルコトナシ。故ニ今之ヲ同一制度ノ下ニ立タシメントス。」

持って回ったくだくだしい表現ですが、要するに、町と村は「人民生計ノ情態」を異にするものの、「都会輻輳ノ地」と対比した場合町村間の相違は小さく、「施政ノ大体」では異同が認められないので、町村制という同一の制度を適用する(一方、都会輻輳ノ地である市には市制という別の制度を適用する)、ということです。
当時の政府は、市と町村とは別の存在と認識していたが、取り立てて町と村を区別する必要性を認めていなかったようです。
ただ町と村は「人民生計ノ情態」が異なるわけで、具体的にはどう違うのでしょう。「現行地理例規」所載の「地所名称区別細目(明治9年5月18日内務省議定)」という文書によると、町と村は次のように定義されています。

一 郡ト称スルモノハ国中ノ区分ニシテ村町ヲ轄スルモノナリ
一 村ト称スルモノハ郡中ノ区分ニシテ字ヲ轄シ農民ノ部落ヲナスモノナリ
一 町ト称スルモノハ郡中ノ区分ニシテ商民ノ市街ヲナスモノナリ。字ヲ轄スルコト村ニ同ジ
一 字ト称スルモノハ村町中ノ区分ニシテ数十百筆ノ地ヲ轄スルモノナリ

町は人家の密集した市街地で商業活動の盛んなところ、対して村は農村地域、というのが「人民生計ノ情態」の具体的な有様ということで、ごく常識的な考え方でしょう。
一方、町村制はその第3条で、「凡町村ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セズ」と規定しています。従来の区域を存する以上、名称もそのままにするのが当然でしょうから、結局のところ、町村制施行時までに「商民ノ市街ヲナ」して町であったところはそのまま町であり、村であった自治体は村の名称を継続した、ということになります。
実際には「区域ヲ存」せずに合併した町村の方が多いですし、従来町であったところが町村制の適用後に村になった場合もありますが、農村の数に比べて町は非常に少なかったのが実態ですから(おおむね、村が約60000に対し旧城下町内を除いた町は600くらい)、旧来の町の多くがその名称を保存したでしょう。
この場合、町と村の別を人口で区別するという発想は基本的になかった、と考えられます。

以上ではあまりに当たり前すぎて詰まらないので、町村制施行直後の町と村の人口を示すデータをご呈示しておきます。府県毎の町と村の平均人口と、人口が最小の町と人口最大の村との一覧です。資料出所は以前ご紹介した明治24年の徴発物件一覧表で、明治22年の町村制施行から2年後ですが、大きくは変わってないはずです(資料の制約から九州北部の4県分が欠損しています。鹿児島県も少しおかしいようですが、そのままにしてあります。北海道と沖縄は含んでいません)。

町平均人口町数村平均人口村数人口最小町同人口人口最大村同人口町-村の差
青森縣922552856165三戸郡三戸町4045上北郡野邊地村7001-2956
岩手縣4364202597205氣仙郡盛町1728膽澤郡金ヶ崎村5177-3449
宮城縣6551302808325岩瀬郡鏡石町2758桃生郡深谷村9379-6621
秋田縣6511142665213雄勝郡岩崎町1536北秋田郡阿仁銅山村8641-7105
山形縣8056112906210飽海郡松嶺町2711西村山郡谷地村8843-6132
福島縣6070112560145磐城郡四倉町2776行方郡小高村4391-1615
茨城縣4355442574351那珂郡大宮町1614西葛飾郡五霞村7019-5405
栃木縣7572233623128安蘇郡堀米町2447足利郡北郷村8781-6334
群馬縣5312373165168西群馬郡伊香保町1051山田郡韮川村9374-8323
埼玉縣4823362696324北埼玉郡騎西町2325榛澤郡藤澤村5056-2731
千葉縣5502453054295香取郡滑川町2106海上郡高神村6781-4675
東京府76519283796南葛飾郡新宿町1324荏原郡大森村9767-8443
神奈川縣7320183079205鎌倉郡藤澤大富町1742久良岐郡戸太村10519-8777
新潟縣5285471896736刈羽郡椎谷町1069北蒲原郡新發田本村7327-6258
富山縣5482302128237砺波郡福岡町1772砺波郡平村5466-3694
石川縣5489142275259珠洲郡飯田町2139江沼郡大聖寺村9692-7553
福井縣832793034157今立郡鯖江町2958今立郡上池田村8035-5077
山梨縣2248142南巨摩郡増保村10206
長野縣8824152762369小縣郡長久保新町1060諏訪郡上諏訪村9034-7974
岐阜縣4687242383151可児郡兼山町1291大野郡大名田村8002-6711
静岡縣6128272998272引佐郡金指町1086有渡郡長田村10353-9267
愛知縣6222231943576知多郡高横須賀町1321碧海郡北大濱村5767-4446
三重縣7963182456309度會郡大湊町2118答志郡磯部村5407-3289
滋賀縣1291563210189神崎郡八日市町3823有渡郡豐田村6913-3090
京都府5496152008264船井郡園部町2219宇治郡山科村7052-4833
大阪府5311112542297茨田郡守口町1370西成郡難波村26405-25035
兵庫縣6818292818506有馬郡湯山町1824多可郡中村6796-4972
奈良縣6468123038137宇陀郡松山町1936吉野郡十津川村10419-8483
和歌山縣882022469227西牟婁郡田邊町7199有田郡湯淺村11455-4256
鳥取縣165929邑美郡富桑村3513
島根縣4304111926319周吉郡西郷東町664迩摩郡明治村4967-4303
岡山縣702932260446東南條郡津山東町3617小田郡笠岡村8591-4974
広島縣6371142984357豐田郡御手洗町1590安藝郡仁保島村15060-13470
山口縣1143643952192玖珂郡柳井津町4139都濃郡徳山村12113-7974
徳島縣1285424402137美馬郡脇町7177勝浦郡小松島村12617-5440
香川縣1093853325176多度郡多度津町6699豐田郡大野原村8958-2259
愛媛縣5159122947284温泉郡道後湯之町1267西宇和郡伊方村6735-5468
高知縣285322793194長岡郡後免町835香美郡槙山村6859-6024
熊本縣3855252842300阿蘇郡高森町1722葦北郡水俣村12725-11003
宮崎縣55605410895南那珂郡油津町2514西諸縣郡小林村10796-8282
鹿児島縣974027谿山郡谷山村25060
全国計6001668266910214周吉郡西郷東町664西成郡難波村26405-25741

ご覧のように、平均人口で比べれば村より町の方がよほど大きくなっていますが、個々の町村で見ると、すべての府県で、人口最小の町より人口最大の村の方が多数の人口を抱えています。人口最小町については、それなりの歴史と拠点性を有し、人口はさほど多くないにしても、この時点で町であっておかしくないところが多いと思います。この状況では、単純に人口基準で町村を区分することができなかったのも無理はないでしょう。

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なお、ついでなので、「市制町村制理由」に則って、町村と明確に区別された市についての明治政府の考え方を、次にご紹介しておきます。
・「都会輻輳の地」は、町村と「人情風俗を異にし、経済上自ずから差別がある」ために別に市制を適用する。
・市は基本的に区を継承するものであるが、市制によって明確に郡から分離するとともに、従来区内の町(旧城下内の町)が独立した自治体であったのを改めて、市を最下級の自治体とする(これによって、旧城下内の町が市の内部的な区分=字に戻った、と言えます)。
・市制の施行対象は、3府のほか、人口25,000人以上の市街地とする(従来の区以外も市制の対象にするということです)。
・「区」を改めて「市」とするのは、3府では区が存続するため、これとの混同を避けるためである。

どのような基準で市制の適用対象が決定されたかが窺えてなかなか面白い記述だと思います。実際、明治24年時点の市のうち人口最小の姫路市で24,608人ですから、人口規定はかなり厳密に適用されたようです。

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もう一つ、以下の件について。
「○○村」、「○○町」ではなく「○○鉄山」というものがありました。これは一体何なのでしょうか?
これが一体何なのかは、[63862] 88さんの説明でお分かりかと思います。明治政府は、従来区々としていた自治体の区域名称を町、村に統一しようとし、新田、宿、浦、分、組、郷、島、浜、山、寺、谷、刈、等々を名乗っていたところの多くがそれに従いましたが、郡区町村編制法の時点では旧来の名称に留まったものも少なくなかったようです。
明治24年の段階でも、新潟縣岩船郡粟島浦、神奈川県北多摩郡府中駅、同南多摩郡日野宿が、町村に名称変更していません。明治30年までには変えたようですが。


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