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[78644] 2011年 6月 26日(日)16:23:21【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (1)今日は日本に戻って 43周年
6月19日からパリで開かれている UNESCO世界遺産委員会は、24日に 小笠原群島を世界自然遺産リストに登録する と決定したと伝えられています。日本の世界自然遺産は、屋久島(1993)、白神山地(1993)、知床(2005)に続いて4番目です。

一般には「小笠原諸島」の名で報道されているのに、「小笠原群島」という表記を用いた点に違和感のある方も多いと思います。
そこで、あえて表記を変えた地理的こだわりを、最初に説明しておきます。

UNESCO によると Ogasawara Islands は、30以上の島々で3グループ、面積7393haとあります。
これは、現在全域が東京都小笠原村になっている「小笠原諸島」の面積 10441haよりも小さく、地理的には 「小笠原群島」(北から聟島列島・父島列島・母島列島の総称)を意味していると解釈されます。両者の差は、硫黄列島などです[29851]

通常は、小笠原群島に「Bonin Islands」、小笠原諸島に「Ogasawara Islands」が使われている例が多いと思っていたのですが、様子が違います。

文化庁資料 には、平成22年(2010)1月 「小笠原諸島」として ユネスコへ推薦書を提出(3/18コマ) とあります。
これから判断すると、文化庁(文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会)が担当している 世界遺産関係の国内手続では、小笠原群島 Bonin Islands と呼ばれる 地理的慣習に従わず、3列島を「小笠原諸島」 Ogasawara Islands という名で推薦し、UNESCOでも そのまま認められたようです。

念のため、「日本国政府」(国土地理院と海上保安庁)による地名集日本2007 の 60/97を見たら、「Ogasawara Gunto」と「Ogasawara Shoto」でした。
地図や海図の担当部局と、文化財の担当部局との 認識の不一致が招いた 呼び名との「ずれ」であると思われます。

登録地域は、地理的な「小笠原諸島」の全域でないとしても、その主要部なのですから、あえて異を唱えるほどでもないのですが、地名に こだわりを持つ皆さんのフォーラムなので、あえて小理屈をこねてみました。
ここから先は単に「小笠原」と書きます。

貴重な固有生物種の存在などから 「東洋のガラパゴス」と呼ばれる 小笠原。
「インド洋のガラパゴス」と呼ばれる ソコトラ諸島 も、2008年に世界自然遺産に登録されています。

世界遺産への登録により 観光熱も高まると思いますが、生態系への悪影響もあります。
本家筋の ガラパゴス諸島 も一度は「危機遺産」に指定されました(2010年解除)。そのような問題を起こさぬことを祈ります。

今日6月26日は、小笠原返還から 43周年です。
落書き帳過去記事 と共に、この島を振り返ってみます。

変遷情報 には “1968(S43)年6月26日 東京都小笠原村 村制” とありますが、一番下の行に “1979/4/22 村議会議員選挙及び村長選挙投票日、名実共に小笠原村発足” と書いてあります。詳しい経緯は[53248][53386]を御覧ください。

このようになった背景は、もちろん第二次大戦で、1945年の敗戦により 小笠原を含む 「外周領域」 が日本から政治的行政的に分離されたためです。
大戦中には 父島・母島も空襲と艦砲射撃を受けましたが、一般島民は本土への引揚げを強制されており、沖縄のような民間人を巻き込む悲劇は回避されました[56162]

戦前に遡ると 1940年4月1日に 小笠原に町村制が施行され、 5村が設置 されています。
二見港のある父島北部が大村で、兄島などの離島も管轄していたと思います。父島南部は扇村袋澤村【併称地名でしょうが、村という字を2つ残しているのは珍しい】。
母島は 沖港がある南部が 沖村で、北部が北村。硫黄島には もちろん 硫黄島村[56162]です。

町村制よりも前の行政機構は、明治13年(1980)から東京府小笠原出張所の直接統治で、1886年に小笠原島庁、1926年に小笠原支庁に改称されています [71888]
[78654] 2011年 6月 28日(火)14:47:45【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (2)1830年の移民団から 1876年に国際的に認められた領有まで
小笠原は 明治13年10月8日太政官布告第44号 で東京府の管轄になり、現在も東京都に属しています。

何を今更?と思われるかもしれませんが、小笠原に最も近いのは静岡県で、県庁所在都市にしても、静岡や横浜の方が東京よりも近くにあります。
実現の可能性は小さかったでしょうが、[76048]の末尾に記したように、小笠原が琉球所属となる可能性さえありました。

それなのになぜ東京府? その答えは [339]Issieさんの記事にあります。
伊豆諸島や小笠原が「東京都」なのは,一言で言ってしまえば「どこも面倒を見てくれなかった」からです。
伊豆諸島は【足柄県を経て】“伊豆の一部”として「静岡県」に編入されました。けれども静岡県はこの離島を管轄することを嫌がって,結局,当時の「東京府」にお鉢が回ってきたわけです。
当時の東京府は,(中略)「府」の権限が弱く,政府の影響力が強かったせいもあったのか,伊豆七島や小笠原を管轄するハメにもなったのかもしれません。

南の島がなぜ「東京」なのか という副題の記事[71887] でも、とりあえず内務省直轄にした小笠原を 「本国化」するために 引き取らせる府県を 選んだ事情に触れました。
内務省直轄以前を更に遡った経緯は、前回リンクした 記事集 のトップ[26683]に記してあります。

明治13年(1880)東京府移管前 50年間の「さかのぼり小笠原史」

明治9年(1876) 小笠原諸島規則を制定し各国にも通達 日本の小笠原領有が国際的に確立
明治8年(1875) 明治丸による小笠原「再回収」
文久3年(1863) 生麦事件(1862)賠償問題による緊張の影響で、日本は小笠原から撤退
文久元年(1861) 小笠原回収の方針を決め、駐日各国公使に通告[10121]→咸臨丸を派遣[26683]
嘉永6年(1853) ペリー、次いでプチャーチンの日本来航[77717] いずれも小笠原経由
天保元年(1830) 欧米人とオアフ島民からなる移民団が定住 無国籍の「南海の楽園?」時代

最終的には日本領になることが確定した幕末~明治初期ですが、最初に定住したのは日本人ではありませんでした。
1830年に 25人の移民団がハワイ王国のホノルルで結成された背後には、英国領事が関係していました。
しかし英国の支援は、英国の領有宣言(1827 ビーチー)を裏付けるには不十分な状態でした。
入植者は自力で自給自足のコミュニティーを創り上げ、米英露仏の捕鯨船などに飲料水・食料を供給しながら暮しました。

捕鯨船という言葉が出てきましたが、当時の夜間照明の主流は鯨油ランプでした。
ドレークが石油の機械堀りに成功したのは 1859年で、原油を精製した灯油の普及はそれ以後のことです。
鯨の漁場は、大西洋の資源が枯渇した後 太平洋に移り、沿岸から太平洋全域へと拡大。
ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』も、この時代のものでした(1851)。

小笠原に人が定住するようになった背景は、このようにクジラ抜きでは語ることができませんが、ここは 税金のない「南海の楽園」だったのでしょうか? 
そうありたいところですが、警察力の及ばない島では来航する船乗りの勝手気ままな行動を取り締まることもできません。例えば 1850年に米国軍艦が父島を訪れた直前に 婦女拉致事件が起きており、島民たちは海賊的な船乗りからの保護を求めていました。

この時に来た米国軍艦は 14年ぶりでしたが、3年後に琉球から江戸に向う途中のペリーが、英国人がピール島 Peel Island と名づけていた 父島のロイド湾に寄港しました。彼は、ハワイ・小笠原・琉球・台湾等を結ぶ 海上ルートの設営を目指しており、小笠原には その拠点として石炭補給所を設け、この基地の 安全保障も提供する という構想を抱いていました。

ペリーは、短い小笠原滞在中に 島の指導者セボリー Nathaniel Savory([26683]ではセボレー)と会談し、石炭置場用地を 50ドルで購入。島民自治組織ルール作成にも協力。牛4頭など家畜も提供。

[26683]で“領有宣言”と書きましたが、エルドリッヂ著 『硫黄島と小笠原をめぐる日米関係』 37頁の記述は 少し違っていました。すなわち、ペリーは日本訪問後に部下を派遣して 母島諸島(ベイリー島)を調査させ、「合衆国の名の下に正式にボニン諸島を占領し」と記された銅板を掲げたとのことです。
当面は小笠原を占領する姿勢だったペリーですが、後には日本の潜在主権を認める発言をしています(同書p.38)。

小笠原をハワイのような太平洋海運の基地にする構想を持ったのは米国のペリーです。
1854年の条約で下田と箱館、1858年の条約で神奈川・兵庫・長崎・新潟・箱館の五港が約束された 日本の開港、ペリーの死去(1858)、米国の南北戦争(1861~65)と時代が進むと、ペリー構想自体は立ち消えましたが、彼の『日本遠征記』は小笠原を放置していた幕府に その価値を教える結果になりました。

「決定せず・行動せず」の幕府が、文久元年(1861)に ようやく決めた 小笠原回収[26683]
…我が南海属島 小笠原島渡航中絶の所 今般外国奉行水野筑後守 目付服部帰一等差遣はし 追々開拓の挙に及ばんとす
一時的には撤退、再回収という経過はありましたが、幕府老中安藤信正による 1861年の決定が、潜在主権に留まっていた小笠原を、国際的に認められた 正式の日本の領土[10121] にした 第一歩だったのでした。
[78665] 2011年 6月 30日(木)16:32:25hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (3)19世紀の再発見・英国の領有宣言から 18世紀の「無人島之図」に遡る
[78644][78654]に続き、更に小笠原の歴史をさかのぼった年表。

1827年(文政10年) 英国軍艦ブロッサム号が来航して領有宣言 この時、島には長期滞在者が居た
1824年(文政7年) 英国捕鯨船の船長(米人)コッフィンが 小笠原再発見(母島列島)
1785年(天明5年) 林子平の『三国通覧図説』(無人島之図)が 1817年と 1826年に 西洋の学者に伝わる
1727年(享保12年) ケンペルの『日本誌』がロンドンで刊行 日本人の小笠原発見が西洋に伝わる
1727年(享保12年) 小笠原貞頼の文禄2年(1593)発見説登場 『巽無人島記』→小笠原島の名の起源
1675年(延宝3年) 島谷市左衛門が「富国寿丸で」調査し、「此島大日本之内也」と記す立札
1670年(寛文10年) 紀州の蜜柑船が小笠原母島に漂着後、父島も探検 下田奉行所に報告
1639年(寛永16年) タスマンらのオランダ船が小笠原群島を発見したが上陸せず

既に18世紀には、オランダ東インド会社の医師ケンペル[72964]の『日本誌』により、日本で発見された「無人島(むにんしま)」の情報がヨーロッパに伝えられ、19世紀になると、林子平が『三国通覧図説』に付けた 無人島之図 が、パリの東洋学者レミューザの論文(1817)や そのライバルのクラプロート(1826)による翻訳で伝わり、小笠原は 「Bonin Islands」の名で呼ばれるようになりました。

このような情報の存在と、盛んになった太平洋の捕鯨とを背景として、広大な太平洋の孤島・小笠原にも、立ち寄る船が急増する時代が到来したのが19世紀です。

1824年に英国の捕鯨船トランシット号が、東洋からの文献で伝えられていた「Bonin Islands」を 久しぶりに「再発見」しました。
到着したのは母島列島でしたが、船長の コッフィンは、ブリストルにある会社の名にちなみ、1番大きな島に Fisher's Island、湾には彼自身(米国人)の名前Coffin's Bayなどと命名しています。

その3年後の 1827年には、太平洋・北極地域を調査中の英国軍艦ブロッサム号が やってきました。
前回ちょっと出した ピール島(父島)や ベイリー島(母島列島)は、この時に艦長のビーチーが付けた名です。
驚いたことに、ここには前年に難破した 英国船の乗組員2人が 長期滞在していました。

ビーチーは、日本が発見した「無人島 Bonin Islands 」のことを文献で知っていましたが、それが この島であることは信じないで、英国王の名で この島々の領有を宣言する銅板を、父島洲崎の樹木に打ち付けました。
この銅板は、現在 オーストラリア国立図書館 に現存しています。

翌年に来たロシア軍艦は、まだ滞在していた難破船員2人から 英国の領有宣言に遅れたことを聞かされ、がっかり。
2人は ロシアの学者の調査に協力した後で 島を離れ、島は 1828年に無人島に戻りました。

しかし、ハワイからの移民がやって来て、小笠原最初の定住民になる 1830年は、すぐ先のことでした。

捕鯨船による小笠原再発見の 19世紀から 18世紀に遡ると、『三国通覧図説』などの著作を通じて 外周地帯に注目し、我が国の海防を説く人物が現れました。
しかし、鎖国体制化の日本では、小笠原の基地化はもちろんのこと、現地調査さえも実現しません。
なお、林子平の『三国』とは、朝鮮国・琉球国・蝦夷国のことですが、無人島は「おまけ」に付いています。

北海道大学北方関係資料の 無人島大小八十余山之図 を見ると、「無人嶋」の横に“本名小笠原嶋ト云”とあります。
父島は“北の嶋ト云…又本嶋トモ云”、母島は“南の嶋ト云”、兄島瀬戸付近に“此嶋ヲ和蘭ノ書ニ ウーストエーランド と云”とあり、特徴的な家族関係の島名は 使われていません。

なお、「無人島」の読み方は、東條信耕(琴台)の小冊子『伊豆七島全図 附無人島八十嶼図』(嘉永元年出板)の
無人島 ムニンシマ. 一名 小笠原島 ヲカサワラシマ. 八丈島辰巳方位タツミノカタ 一百八十里二アリ
という書き出しから、「むにんしま」又は「むにんじま」であり、「ぶにんじま」ではないとされます。文献
[78669] 2011年 7月 1日(金)12:35:33【2】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (4)1675年の島谷探検隊
小笠原村の父島では、水不足が深刻化 しているようです。
落書き帳において、水不足の話題で最も多く登場したのは四国でしょうが、沖縄本島[58819]、更にはより懐が小さくて雲を生み出す高山もない離島は、水問題で苦しめられることが多いのだと思われます。

昔は、天気予報でよく聞いた「小笠原高気圧」という言葉。最近は聞く機会が少ないと感じたので、気象庁HP を見たら、予報用語から外され、△印の解説用語になっていました。
備考 小笠原高気圧を、特に強調する必要がある場合に用いるが、通常は太平洋高気圧とする。

それはさておき、[78644][78654][78665]に続く さかのぼり小笠原史。
前回の年表(約 200年間)の後半に至り、いよいよ「日本国幕府」による 最初の調査団 が登場します。
それは、幕末の 小笠原回収(文久元年 1861)から 186年も前のことでした。

きっかけは、紀州宮崎村(有田市)から江戸に向う蜜柑船が、寛文10年(1670)に母島に漂着したことでした。
この漂着事件は、同じ紀州、宮崎村に近い 広村の 濱口儀兵衛(初代)[57891]が 銚子に渡って、醤油作りを始めた正保2年(1645)の25年後。湯浅出身の紀伊国屋文左衛門が 江戸で名を馳せることになる 20年ほど前と思われます。
江戸は、紀州生まれの食材を 大量に消費する都市になっていました。

それはさておき、生き残った船員は、島を探検して 食料や資材を確保しながら、ともかくも船を修理して 帆を上げ、父島、聟島、八丈島を経て下田に帰り着き、奉行所に漂流の顛末を報告しました。

この時代は、河村瑞賢により東廻り航路・西廻り航路の開設された頃で、幕府の外洋航海用大船建造禁止方針が ゆるんでいた頃です。
島谷市左衛門は、泉州堺出身の人ですが、朱印船貿易に携わった父の影響で、航海術を受け継いでいたようです。幕府は、彼を使って長崎で唐船をまねた 500石積みの外洋航海船「富国寿丸」を完成させていました。

延宝2年、幕府はこの船を使って 蜜柑船が漂着したという、南海の肥沃な島を 探検させることにしました。
伊豆代官・伊奈忠易も乗船した 島谷市左衛門の「富国寿丸」は、2度の失敗を経て、翌 延宝3年(1675)春に 下田から伊豆諸島に沿い南下し、閏4月29日に小笠原に到着しました。

島の緯度【注】や地形を調べて 地図を作成し、動植物・鉱物などの標本も採集。
【注】西洋では木星の衛星食観測を利用した経度測定法(カッシーニ[45211])が開発された時代ですが、日本の技術では緯度しか測れなかったでしょう。

島谷探検隊の船は 6月5日に出帆して、無事に江戸に帰着。調査報告書を 幕閣に提出したとのことです。

ところで、小笠原の島々というと、家族の名が付いた特徴的な島名が気になります。

国土地理院の 島面積 と 地図とを用いて、主な島とその面積(km2)を拾ってみました。北から
聟島列島が、聟島(ケーター島)2.57、媒島(なこうどじま)1.37、嫁島<1
父島列島が、弟島5.20、兄島7.87、父島23.80
母島列島が、母島20.21、向島(むこうじま)1.38、姉島1.43、(東へ)妹島1.22、姪島<1

向島を唯一の例外として、見事に列島ごとに「家族の名」になっています。位置的にも、媒島は、聟島と嫁島の間。

これらの島名は、「大村」「奥村」などの地名と共に、島谷探検隊の命名と言われています。

日本人が住んでいなかった小笠原の地名には、統治者による「官製地名」が多く存在します。
そして、幕末の文久年間に行なわれた 小笠原回収の際に、「古名」とされたものがあり、延宝年間に命名された名が 現代に復活している と理解されているようです。

しかし、小笠原学ことはじめ 第4章によると、兄島は「島谷氏無人島之図」に記載されていなかったようです。
嶋谷市左衛門は無人島の地図を作り、幾つかの地名を付けた。今日、「島谷氏無人島之図」(木村)等何枚かの小地図が伝えられている。しかし、兄島については(中略)島名は付けていない。今日の親族名による島名の命名を嶋谷とする説(田畑1993)は根拠がない。

明治7年に外務省で編纂された 『小笠原島紀事』巻之二 には、島谷探検隊の事績が記録されています。
この記述中には父島・母島(17コマ)の他にも弟島(16コマ)・姉島・妹島(18コマ)も見出すことができます。
しかし、居住者のいない多くの島の存在と位置を確定し、現在の「家族の名」が完成したのは、後の文久巡視(水野)から明治の海図整備事業までかかったのかもしれません。

なお、天明5年(1785)の「無人島之図」[78665]には、父島・母島の名さえも記されていませんでした。
[78720] 2011年 7月 6日(水)18:06:21hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (5)文禄2年 小笠原貞頼発見?
世界自然遺産になる小笠原の島々につき、先週は 1675年の島谷(しまや)探検隊まで歴史を遡り、父島・母島等個々の島の名に及びました[78669]。今回はこれに続いて、これらの島々を総称する「小笠原島」という名について記します。

島谷市左衛門をして延宝3年(1675)の探検を行なわせ、伊豆代官管轄地とした後も、幕府はこれらの島々の開拓は行なわず、「無人島(むにんじま)」の名で処理していたようです。
しかし、普通名詞かと疑われる「無人島」という名は、正式の「地名」としては、いかにも奇妙です。

「正式名を付けない」ことは、「当面は 幕府領としての開拓を行わない」という、内向きの意思表示だったのかもしれません。

ところが 110年後、“天明5年(1785)秋 東都 須原屋市兵衛梓 仙台 林子平図”の『無人島大小八十余山之図』には、“本名小笠原嶋ト云”と記されています[78665]

更に 76年後の「小笠原回収」[26683]に際して、「伊豆国附島々備向取調且小笠原島開拓」と公称しています。
これは、列強諸国に対して「国内問題」であることを主張したい幕府の都合でしょうが、今度は“伊豆国附島”や“小笠原島”という言葉を使い、186年前の 内向きの処理を一変させました。

外国公使たちへの通告文
書簡を以て申し入れ候。我が南海属島 小笠原島 渡航中絶の所、今般外国奉行水野筑後守、目付服部帰一等差遣わし、追々開拓の挙に及ばんとす。然るに 真偽は計り難く候え共、近来 貴国人移住のもの これ有由 伝聞に及び候間、念の為 申し入れ置き候。拝具謹言

民間の出版物である林子平の地図はさておき、幕府の公式の呼び方が17世紀の「無人島」から、19世紀の「小笠原島」へと変化したのは、この間に何が起きた為か?

もちろん、これらの島々には、「原」コレクションに収録できるような地形「小笠原」が存在するわけではありません。
「小笠原島」という名が付いた発端は、享保12年(1727)にありました。さかのぼり年表[78665]参照

この年、宮内貞任と名乗る浪人が江戸に現れ、自分の先祖に 信濃深志城主 小笠原長時の曽孫である小笠原貞頼という人物がおり、文禄2年(1593)に南海の島を発見して「小笠原島」と命名していると主張しました。
発見の根拠とされたのが、『巽無人島記』 という本です。

残されている抄録を見ても あまり要領を得ないのですが、家康配下だった小笠原貞頼は、文禄の役の後に“南海へ出帆、伊豆八丈の南 三つの島国を見立巡見、地広く人家なし”(5コマ)という記述があります。

宮内貞任 は、“小笠原島は(祖先の)所賜の領地にて、以て永く島名と為すべしとの台命ありしより 小笠原島の名ある事は 天下衆庶の所也”と主張し、このような 祖先の偉業を継ぐために 島に渡る許可を幕府に申請しました。
その結果 一度は許されて、甥が出航したものの消息不明。
そのうちに家系疑惑(20コマ)が出て、小笠原の本家から出自を否定され、偽りの由緒書と系図を根拠とした貞任は、大岡越前守忠相により重追放処分を受けるに至りました(36コマ)。

このように、16世紀末に小笠原貞頼がこの島を発見したという説が極めて「怪しい話」であることは、この説が現れた 18世紀前半から既に明らかにされていました。
しかし、スキャンダルが大きなニュースになったことは、かえって「小笠原島」の名を世の中に知らせることになりました。

これだけならば、「小笠原」が現代社会の正式名になることはなかったかもしれません。
しかし、実はもう一つの事情があり、そのために この伝説は意図的に利用されたのではないかと思われます。
[78725] 2011年 7月 7日(木)22:27:15【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (6)オランダ人は 最初に小笠原群島を見つけたが…
1856年に出版されたペリーの『日本遠征記』は、(ハワイからの移民の存在を知りながら) 「無人島」として放置していた幕府に 小笠原の価値を教える結果になりました。

幕府老中安藤信正は、文久元年(1861)に外国公使たちに対し「小笠原回収」を通告[78720]
我が南海属島 小笠原島(中略)追々開拓の挙に及ばんとす。然るに 真偽は計り難く候え共、近来 貴国人移住のもの これ有由 伝聞に及び候間、念の為 申し入れ置き候。

安藤が意識した“貴国人”とは 米国出身でハワイから来た移民のことで、この件については、米国公使ハリスから事前の了承を得ていたと思われます。ハワイ王国と日本との国交はなかったはず。

この 1861年というのは、アメリカで南北戦争が始まった年であり、既に開国の要求を受け入れた日本との間で、太平洋の小島の領有を争う気が起こらない、今から思うと絶妙のタイミングでした。

米国が争わない以上、やるべきことは 咸臨丸で現地に渡った 外国奉行水野越後守忠徳が、住民の代表セボリーに会って、日本統治の根拠を説得することです。
水野は、米国公使館書記官ポートマンからのセボリー宛書簡も持参し、日本に対する米国の好意的態度も証明しています。

この時に、通訳として同行したのが中浜万次郎。井伏鱒二の『ジョン萬次郎漂流記』で知られる彼は、少年時代に土佐国中浜村から漁に出て、鳥島に漂着。救助された米国捕鯨船の船長に可愛がられ、米国で学んだ後に捕鯨に携わったが、やがて自力で小舟を購入して 琉球経由で帰国した という経歴を持ちます。

31年前の セボリーたちの入植と、更にその3年前の 英国領有宣言に対しては、186年前に 日本がこの島を発見・調査した[78669]という事実を伝え、今後は 日本人の移民も 島に送ることにするが、先に入っている住民の 既得権は保護することを説明しました。

この時に、水野が ついでに 持ち出したのが、文禄2年の小笠原貞頼伝説[78720]です。
こんな 詐欺まがいの話を わざわざ持ち出したのは、『三国通覧図説』などを通じて 欧米にも知られていた話 であることと共に、幕府が 最大の拠り所とする 1675年の探検よりも 早い時期の発見 に対抗する手段として 活用する目的があったのではないかと思われます。

南蛮人が 日本近海に現れた記録として 有名なのは、ポルトガル人による 天文12年(1543)の種子島 鉄砲伝来ですが、同じ年に フィリピンから北に進んだ スペイン船サン・ホアン号のトーレ船長が、日本の近海域 北緯25度あたりで 火山島を発見したとされます。硫黄島と思われるこの島は、探検されませんでしたが、広い意味では 「小笠原諸島」の最初の発見です。

スペイン船は、フィリピンとメキシコとを結ぶ海域をよく通っていたはずです。
しかし、結果的には火山列島(硫黄列島)を発見しただけ。スペインは小笠原群島発見の機会に 恵まれませんでした。

南蛮人に次いで現れたのが紅毛人です。ユトレヒト同盟から 1581年に独立宣言したオランダ。驚異的な勢いで海外進出し、1602年に設立された オランダ東インド会社 VOC は ジャカルタを本拠地としました。日本との出会い 第1号は リーフデ号の漂着(1600)[77689]

1639年7月21日、オランダ東インド会社の クワストとタスマンによる 北太平洋探検船は、新しい島を発見し、2人がそれぞれ指揮した船の名から、エンゲル島とグラフト島と 名付けました。
船を停泊させる場所を見つけられず上陸しなかった とのことですが、これが母島と父島であったと伝えられます。

よく探せば、良港(父島の二見港)があったのに、詰めが甘く、オランダは小笠原を確保することができませんでした。

もっとも、このタスマンという探検家。1642年に発見した島により、その名が知られていますが、タスマニアも後にイギリス領。
更に東に航海して発見した ニュージーランドも、2つの大きな島であることを認識できず。
オーストラリア大陸で 最も豊かな南東部も 見逃したままで、イギリスのキャプテン・クック[45308] の手柄になりました。
オランダとイギリスの 国力の違いもあるのでしょうが、どうも詰めが甘く、結果的には イギリスに してやられた という印象です。

小笠原回収の時代に戻ると、上陸・探検こそしていませんが、オランダ人による小笠原発見(1639)は、1675年の幕府探検よりも明らかに前です。
オランダ人の話を持ち出された場合、これに対抗するのは、文禄2年(1593)の小笠原貞頼伝説しかない。
こう考えて予防線を張ったのが、水野の真意だったのではないでしょうか。
[78750] 2011年 7月 10日(日)17:02:18hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (7)甲斐国巨摩郡小笠原
世界自然遺産「小笠原」の地名の由来になった小笠原貞頼発見説[78720]
これを持ち出した宮内貞任は、出自詐称などで処罰されましたが、伝説そのものは生き残りました。

小笠原村HP歴史 冒頭の記載は次の通りです。
小笠原諸島は1593(文禄2)年、信州深志城主の曾孫、小笠原貞頼により発見されたと伝えられています。

小笠原村教育委員会の 発掘された小笠原の歴史 6~7/32コマは、発見史の後に“架空の話なのですが”として、地名の由来に関わるこの伝説を紹介しています。
貞任の主張では、父島は26里×90里、母島は10里×27里あるというのですが、実際には最大でも2里強(父島)、3里強(母島)しかありません。つまり架空の話なのですが(中略)
幕末になって、幕府が小笠原回収に向った時にも、「故事」として引き合いに出されています(→小笠原新治碑)。

3コマの小さい写真では文面がわかりませんが、水野巡検隊[78725]は、住民への説明に利用しただけでなく、本土から持ち込んで建てた「小笠原新治碑」にも、文禄2年の小笠原貞頼発見説を刻み込んでいたようです。

明治政府が編纂した『小笠原島紀事』[78669]も、小笠原貞頼発見伝説を正面から否定するわけではなく、日本の領有権を裏付ける根拠の1つとして、意図的に利用する姿勢だったのではないかと思われます。

もちろん、これらの島々には、「原」コレクションに収録できるような地形「小笠原」が存在するわけではありません。
[78720]で書きましたが、小笠原貞頼伝説によって 地名→人名→地名 を遡ると、小笠原氏のルーツである甲斐国の地名「小笠原」に行き着きます。

[1628] Issie さん
武田氏は甲州に移って大発展して今度は地元甲州の地名から小笠原とか南部とかいった分流を生み出すことになる。

甲斐国巨摩郡「小笠原」にあたる現代の地名は、北巨摩郡明野村→北杜市と、中巨摩郡櫛形町→南アルプス市の2ヶ所があり、明野を「山小笠原」、櫛形を「原小笠原」と呼んで区別されたようです。

明野の「小笠原」は、古代の官制御牧があった山腹で、まさに見通しのよい地形名「原」だったでしょう。
長清寺には小笠原氏の始祖長清の墓と伝えられる五輪塔があり、こちらが小笠原氏発祥の地とされています。
約15km南の「原小笠原」。こちらは甲府盆地の西端で釜無川の西にあった荘園でした。現在は南アルプス市の中心市街地になっています。

小笠原氏は、鎌倉時代に信濃に本拠を移し、室町幕府体制下では信濃守護になりました。
武田信玄により信濃を追われたものの、1583年松本城に復帰。
小笠原貞頼による南海の無人島発見が伝えられる 1593年当時の 小笠原秀政は 古河に移封されていました。
この本家は、松本復帰後、明石を経て 小倉15万石の譜代大名として 幕末まで継続。
宮内貞任と小笠原家との関係を否定したのは、小倉藩の時代です。
小笠原家は、室町時代以降、武家社会で有職故実に詳しい家柄として重きをなしていました。
歴史的にも、弓術、馬術、茶道などいろいろな「小笠原流」がありますが、最も知られているのは「小笠原流礼法」でしょう。現代のサイト


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