小笠原村の父島では、
水不足が深刻化 しているようです。
落書き帳において、水不足の話題で最も多く登場したのは四国でしょうが、沖縄本島
[58819]、更にはより懐が小さくて雲を生み出す高山もない離島は、水問題で苦しめられることが多いのだと思われます。
昔は、天気予報でよく聞いた「小笠原高気圧」という言葉。最近は聞く機会が少ないと感じたので、
気象庁HP を見たら、予報用語から外され、△印の解説用語になっていました。
備考 小笠原高気圧を、特に強調する必要がある場合に用いるが、通常は太平洋高気圧とする。
それはさておき、
[78644][78654][78665]に続く さかのぼり小笠原史。
前回の年表(約 200年間)の後半に至り、いよいよ「日本国幕府」による 最初の調査団 が登場します。
それは、幕末の 小笠原回収(文久元年 1861)から 186年も前のことでした。
きっかけは、紀州宮崎村(有田市)から江戸に向う蜜柑船が、寛文10年(1670)に母島に漂着したことでした。
この漂着事件は、同じ紀州、宮崎村に近い 広村の 濱口儀兵衛(初代)
[57891]が 銚子に渡って、醤油作りを始めた正保2年(1645)の25年後。湯浅出身の紀伊国屋文左衛門が 江戸で名を馳せることになる 20年ほど前と思われます。
江戸は、紀州生まれの食材を 大量に消費する都市になっていました。
それはさておき、生き残った船員は、島を探検して 食料や資材を確保しながら、ともかくも船を修理して 帆を上げ、父島、聟島、八丈島を経て下田に帰り着き、奉行所に漂流の顛末を報告しました。
この時代は、河村瑞賢により東廻り航路・西廻り航路の開設された頃で、幕府の外洋航海用大船建造禁止方針が ゆるんでいた頃です。
島谷市左衛門は、泉州堺出身の人ですが、朱印船貿易に携わった父の影響で、航海術を受け継いでいたようです。幕府は、彼を使って長崎で唐船をまねた 500石積みの外洋航海船「富国寿丸」を完成させていました。
延宝2年、幕府はこの船を使って 蜜柑船が漂着したという、南海の肥沃な島を 探検させることにしました。
伊豆代官・伊奈忠易も乗船した 島谷市左衛門の「富国寿丸」は、2度の失敗を経て、翌 延宝3年(1675)春に 下田から伊豆諸島に沿い南下し、閏4月29日に小笠原に到着しました。
島の緯度【注】や地形を調べて 地図を作成し、動植物・鉱物などの標本も採集。
【注】西洋では木星の衛星食観測を利用した経度測定法(カッシーニ
[45211])が開発された時代ですが、日本の技術では緯度しか測れなかったでしょう。
島谷探検隊の船は 6月5日に出帆して、無事に江戸に帰着。調査報告書を 幕閣に提出したとのことです。
ところで、小笠原の島々というと、家族の名が付いた特徴的な島名が気になります。
国土地理院の
島面積 と 地図とを用いて、主な島とその面積(km2)を拾ってみました。北から
聟島列島が、聟島(ケーター島)2.57、媒島(なこうどじま)1.37、嫁島<1
父島列島が、弟島5.20、兄島7.87、父島23.80
母島列島が、母島20.21、向島(むこうじま)1.38、姉島1.43、(東へ)妹島1.22、姪島<1
向島を唯一の例外として、見事に列島ごとに「家族の名」になっています。位置的にも、媒島は、聟島と嫁島の間。
これらの島名は、「大村」「奥村」などの地名と共に、島谷探検隊の命名と言われています。
日本人が住んでいなかった小笠原の地名には、統治者による「官製地名」が多く存在します。
そして、幕末の文久年間に行なわれた 小笠原回収の際に、「古名」とされたものがあり、延宝年間に命名された名が 現代に復活している と理解されているようです。
しかし、
小笠原学ことはじめ 第4章によると、兄島は「島谷氏無人島之図」に記載されていなかったようです。
嶋谷市左衛門は無人島の地図を作り、幾つかの地名を付けた。今日、「島谷氏無人島之図」(木村)等何枚かの小地図が伝えられている。しかし、兄島については(中略)島名は付けていない。今日の親族名による島名の命名を嶋谷とする説(田畑1993)は根拠がない。
明治7年に外務省で編纂された
『小笠原島紀事』巻之二 には、島谷探検隊の事績が記録されています。
この記述中には父島・母島(17コマ)の他にも弟島(16コマ)・姉島・妹島(18コマ)も見出すことができます。
しかし、居住者のいない多くの島の存在と位置を確定し、現在の「家族の名」が完成したのは、後の文久巡視(水野)から明治の海図整備事業までかかったのかもしれません。
なお、天明5年(1785)の「無人島之図」
[78665]には、父島・母島の名さえも記されていませんでした。