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[80512] 2012年 4月 8日(日)12:10:30hmt さん
荒川の両岸・データに見る自治体の変遷 (1)荒川西岸6市1町
4月3日には 春の低気圧による暴風が 全国を吹き荒れました。
私の住む 「ふじみ野」でも、関東ローム層から舞い上がった 細かい土埃が アルミサッシの隙間から 屋内に侵入。
でも、この家に住み始めた 1970年代に 度々経験した被害に比べたら、強風にしては 予想外に軽微でした。
これは、午後からの雨のせいもあるのですが、都市化によって 裸地が少なくなった影響が あるものと思われます。

その関東ローム層に覆われた武蔵野台地。北東を流れる 荒川沿いの低地を隔てて、東岸にも同じような大宮台地が拡がっています。[49898]

最近の記事で 自治体データベースについて触れ、国勢調査資料の利用[80487]や、いくつかの基準時点を設定した自治体変遷の概観[80498]についての考え方を披露しました。

全国的なデータベース整備は、それを得意分野とされる方にお任せするとして、私としては、限られた地域と時代ではあるものの、自治体名称・人口・面積のデータを手掛りとした 事例研究を試みることにしました。

その事例として取り上げるのが、上記の大宮台地・武蔵野台地の一部を含む 荒川の両岸地域です。
現在の自治体名で言うと、2001年 荒川東岸に「さいたま市」はが出現し、2003年には 政令指定都市になりました。

同じ時期に 荒川西岸にあった6市2町については、住民発議により 旧新座郡4市流産したふじみ野市 との 2組の法定協議会が生れたものの、いずれも 最終的には住民投票で否認されました。
上福岡市と入間郡大井町だけは、その後 再度の合併協議で 現在の ふじみ野市が成立

今回は、6市1町となった上記荒川西岸の自治体に限り、戦前唯一の「全国市町村別面積調」が整備された昭和10年【1935】から、最新の国勢調査【2010】までの期間につき、[80498]で設定した各基準時点の面積(km2)・人口データを上下2段で表示しました。
1935年当時の3町11村と並び、半数になった現在の6市1町に相当する合計値も記載して、対比させました。

【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
福岡村6.79 福岡村 福岡村5.38 上福岡市6.81
3192 6883 16652 58761
大井村8.14 大井村 大井村8.04 大井町7.86
3355 4388 4949 39213
2村計14.93 2村計 2村計13.42 2市町計14.67 ふじみ野市14.67
6547 11271 21601 97974 105695
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
鶴瀬村7.23鶴瀬村
29594199
南畑村7.85南畑村
31223702
水谷村4.58
2193
3村計19.66富士見村19.98富士見市19.70富士見市19.70
8274 12030 94864 106736
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
三芳村15.42三芳村三芳村15.56三芳町15.30三芳町15.30
3684427343293506738706
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
宗岡村5.74
2308
志木町3.08
4368
2町村計8.82志紀町足立町8.96志木市9.06志木市9.06
6676【注】14882122596349169611
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
内間木村8.14
2601
朝霞町10.80朝霞町
520211313
2町村計19.94朝霞町17.78朝霞市18.38朝霞市18.38
780324182103617129691
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
大和田町13.88大和田町
46456700
片山村8.98片山村
29894091
2町村計22.862町村計新座町22.89新座市22.80新座市22.80
76341079114401138919158777
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
新倉村4.15
1663
白子村6.80
3177
2村計10.95大和町大和町11.57和光市11.04和光市11.04
484010563172425689080745
【1935】km2/人----【1947】----【1960】km2/人----【1990】km2/人----【2010】km2/人
3町11村111.584町6村4町4村110.166市2町110.956市1町110.95
4545851780106044590822689961

【注】志紀町 は、志木町、宗岡村、水谷村、内間木村の戦時合併による。1948年分割。[37842]
[80514] 2012年 4月 9日(月)17:01:34hmt さん
荒川の両岸・データに見る自治体の変遷 (2)荒川西岸6市1町 考察
全国の市町村数は、戦前の 1935年に 11,545でした。2010年、平成大合併後には 1727 になりましたから、75年間に 15%に激減したことになります。
もちろん 荒川西岸の自治体数も減りました。しかし、それは [80512]のデータが示すように、同じ75年間に 14町村から 7市町へと、半減したに留まりました。

この間にあった最大の合併は 4町村が戦時合併した志紀町でしたが、戦時枠組の耐用年数は 僅かに 4年間でした。
これに次ぐ唯一の3村合併は 昭和大合併時に実現した 富士見村[55364]でした。
この時に、ギリギリまで持ち越されて、土壇場で不調に終ったのが三芳村との合併でした。

三富新田の一つである 三芳村上富地区は 所沢への志向が強く、荒川西岸の鶴瀬村との合併を模索した地区との間で 分村の危機もありました。
しかし、結局は 明治の大合併で誕生した 三芳村の枠組み を維持する 独立路線を選ぶことになりました[55377]

このようにして 昭和大合併の嵐を乗り越えた三芳村は、その後の高度成長環境に恵まれ、国勢調査人口は 1965年の 5911人が 1970年には 14475人になり、昭和合併が目標にした「人口8000人規模」を、合併することなく軽く実現してしまいました。

1970年に三芳町になった後も順調で、1993年からの連続 18年間、財政力指数 が 1を超え、普通交付税を支給されずにすむ豊かな自治体でした。

残念ながら 最近は少し陰りが見えていると伝えられますが、明治22年の町村制施行以来、本年度で 123年目になった独立路線は、全国でも稀な存在と言えるでしょう。
落書き帳アーカイブズ 純血主義を守る市町村 参照。この仲間であったが、平成大合併の影響を受けてしまったところも多数。

三芳町のことはこのくらいにして、荒川西岸 14町村の関係した合併事例は、概ね荒川からやや離れた自治体と、荒川に近い自治体とのペアと言えそうです。ここには、「野方の村と里方の村」との合併というよりも、東上線の駅から離れた村が 交通路の拠点を持つ町と合併した という姿が見えるような気がします。

上福岡・鶴瀬・志木・膝折の各駅は、1914年の東上鉄道開業時に4km間隔で設置された駅です。膝折駅は 1918年に朝霞駅と改称。朝霞駅と東京の末端である成増駅との間も4km離れていましたが、東京市街地の拡大を示すように 1934年に中間駅の新倉が開業しました(1951大和町→1970和光市と改称)。
これで、今回のスタート時点 1935年には、現在の6市に対応する5駅がすべて開業していたことに成増。

志木駅の現在の所在地は、よく知られているように新座市ですが、もともと開設された駅舎は北端の志木町にありました。現在の呼び名は、南口に対する北口でなく「東口」になっているのですね。知りませんでした。
志木街道の踏切を渡れば、すぐに大和田町(後の新座市)ですから、両方の玄関口として機能していました。
南口が開設されたのは、1960年立教高校移転時だそうです。
「新座市にある志木駅」になったのは、池袋寄りの橋上駅になった 1970年で、更に10年後です。

三芳町の最寄り駅は「みずほ台駅」です。この駅は 1977年開業と、だいぶ後です。駅所在地は富士見市ですが、西口正面から約500m先は三芳町で、駅前には三芳町のモニュメントもあります。

東京への通勤圏内ですから、当然のことながら、顕著な人口増加を見ることができます。
現在の自治体に相当する区域について、戦前人口【1935】に対する倍率を計算すると、
【1947】は ふじみ野1.7倍、三芳1.2倍、新座1.4倍、和光2.2倍(富士見、志木、朝霞は計算できず)ですが、
【1960】には、ふじみ野3.3倍、富士見1.5倍、三芳1.2倍、志木1.8倍、朝霞3.1倍、新座1.9倍、和光3.6倍となっています。

東京から最も遠い(現在の)ふじみ野市に相当する区域が、戦前の3.3倍もの人口になっているのは、この時代に住宅公団の大規模団地が上福岡に作られ[46258]、通勤圏に組み入れられたためと思われます。
この傾向には、その後一層の拍車がかけられ、【1990】の統計では、ふじみ野15.0倍、富士見11.5倍、三芳9.5倍、志木9.5倍、朝霞13.3倍、新座18.2倍、和光11.8倍と急増しています。

【2010】になると、ふじみ野16.1倍、富士見12.9倍、三芳10.5倍、志木10.4倍、朝霞16.6倍、新座20.8倍、和光16.7倍と上げ止まり。
バブル崩壊もあるのでしょうが、6市の 2010年人口密度は 5400~7700人/km2に達しており、飽和状態に近づいているようでもあります。
[80528] 2012年 4月 14日(土)18:16:21hmt さん
荒川の両岸・データに見る自治体の変遷 (3)荒川東岸 さいたま市
私の住んでいる 荒川西岸6市1町の面積・人口データを、1935~2010年の 75年間から選んだ5つの時点について表示し、若干の考察を加えました[80512][80514]

次は荒川東岸ということになります。
東京の近郊、そして自然条件が荒川低地と その背後の台地とよりなるという点では、東岸も西岸と共通するところがあります。
明治4年(1871)に 埼玉県庁の所在地になりましたが[20917]、それにより大都市への歩みが始まったわけではなく、浦和市が誕生したのは 62年以上後の 1934年2月、47道府県庁所在地の最後でした。

浦和市誕生の2年前、1932年は 「大東京市」 が実現した年ですが、東京の都市圏拡大は、近隣のこの地にも 影響を及ぼしていました。
一例として「省線」と呼ばれていた 国有鉄道の整備拡充 を挙げると、田端-赤羽間が電化されて 1914年開通の京浜間電車[39140] が 東北線まで延長運転されるようになったのは 1928年2月でした。
1932年9月になると 大宮から南は 旅客・貨物の複々線になり、旅客線の電車運転区間は 大宮-桜木町間に拡大しました。

浦和は、これにより “汽車の止まらない県庁所在地”(門田勲『日本拝見』)[41770]になったわけですが、この頃から浦和・大宮の吸引力は増し、1932年4月からの10年間に合計9町村を編入し、浦和(1934)・大宮(1940)と2つの市が誕生します。

検索期間を全期間に拡大し、浦和・大宮以外に与野・岩槻も加えた 変遷情報検索結果
明治(No.1-5)・昭和(No.13-16)・平成(No.19-20)の3大合併期と並んで、昭和前期の浦和・大宮拡大期(No.7-12)が存在することが示されています。

1935年以降の 75年間に、荒川西岸では 14の自治体が半減するに留まった[80514] のに対して、荒川東岸では 28自治体(1市3町24村)が 単一の「さいたま市」を形成するに至りました。
# 参考までに、荒川西岸7自治体の平均面積は 15.85km2で、小さかった昔の自治体規模を反映しています。
さいたま市の面積は 217.49km2です。偶然ですが 2010年の全国 1727市町村の平均面積 218.85km2と近い値でした。
埼玉県の中では第2位ですが、全国的には「並みの広さ」なのですね。

さて、さいたま市。2003年から 政令指定都市ですから 行政区があります。区別人口・面積
荒川西岸では上流(北)からの順でデータを表示しましたが、今回は複雑な地理的分布に対応して、コード順 [80472] を使います。
北西端の西区が11101で、北区、大宮区、見沼区と旧大宮市を東に進み、旧与野市の中央区が11105。
続いて桜区、浦和区、南区、緑区と旧浦和市も西から東へ。最後が2003年の編入で加わった岩槻区11110。
西から東へを加味していますが、北から南へという順序は荒川西岸と同じであり、違和感がないのでこれを採用。
例えば岩槻区には旧7町村がありますが、その配列も基本的には同じ考えを踏襲します。

旧28市町村の人口・面積データを 現在の10区と対応させようと思うのですが、範囲の不一致など問題があります。
中央区と与野市との場合は さいたま新都心地域設定のためで、面積の違いも僅かなので気にしないことにします。
もっと本格的な範囲の不一致は、例えば昔の村と現在の区との割付の違いによって生じます。
例1:【1935】データのある大砂土村(1940年に大宮市に編入)
町村制施行前の7村 のうち、芝川より東にあった4村(大和田,堀崎,島,砂)の地域は見沼区に、西の3村(今羽, 西本郷, 土呂)は北区になりました。
例2:さいたま新都心に近い木崎村
これは、1932年に分割編入されたので【1935】データには現れませんが、昭和十年面積調の浦和市(18.63km2)には 次のように注記されています。
昭和7年4月1日北足立郡大宮町へ編入されたる旧北足立郡木崎村大字北袋の区域を含む
地形図が未修正のためと思われますが、範囲不一致への対処法を示しています。

国土地理院と言えば、改測による面積の違いもあります。2010年さいたま市面積は217.49km2ですが、昭和十年面積調による1市3町24村合計面積(ほぼ同じ範囲だが、内間木村からの編入分 を含まず)は225.64km2で、一致しません。

このようなわけで、細かいことを気にすると何もできません。
75年前の市町村人口・面積から、最新国勢調査による さいたま市10区 に至る対比は、細かい食い違いを気にせずに、ざっくりと進めることにします。
[80529] 2012年 4月 15日(日)22:48:35hmt さん
荒川の両岸・データに見る自治体の変遷 (4)荒川東岸 さいたま市 データ編
前回に記したように、西から東へを加味した北から南への順で、現在 さいたま市 になっている市町村を表示します。
戦前唯一の「全国市町村別面積調」が整備された昭和10年【1935】から、国勢調査【2010】までの期間
[80498]で設定した各基準時点の面積(km2)・人口データを表示

【1935】【1947】【1960】【1990】【2010】
0市町村面積人口人口面積人口面積人口面積人口面積比較
1馬宮村8.5831284135
2植水村5.2628533535
3指扇村10.2743025464
43村計24.11102835464西区29.14840295.03
5日進村7.435975
6宮原村7.003094
72村計14.439069北区16.911386302.48
8三橋村6.024938
9大宮町6.9133852
102町村計12.9314007大宮区12.75108488-0.18
11(大宮市)91378
12大砂土村10.604157
13春岡村6.7426673245
14七里村7.0827923567
15片柳村10.8740294894
164村計35.291364511706見沼区30.63157143-4.66
17大宮合計86.764700411621888.8716999689.38403776大宮合計89.434882902.67
21與野町8.301040826518
22与野市8.30408408.2879060中央区8.39960550.09
31大久保村10.5035133963
32土合村10.3640835403
332村計20.8675969366桜区18.696911-2.26
34浦和市18.6344328106176浦和区11.51144786-7.12
35浦和市58.96168757
36六辻村5.516230
37美谷本村7.3726405467
38【西浦和】12.888870南区13.891749881.01
39三室村6.862266
40尾間木村6.592843
41野田村6.6626472988
42大門村7.3628053579
43美園村19.539306
444村計27.47105616567緑区26.51110118-0.96
45浦和合計79.847135512757678.4917806370.67418271浦和合計70.51526803-9.33
51河合村6.5725213138
52慈恩寺村9.3038855002
53岩槻町6.06832912610
54柏崎村6.1726193382
55和土村7.2527643335
56川通村7.0525213124
57新和村8.3429693637
58岩槻合計50.74256083422849.763516949.2106462岩槻区49.16111286-1.58
611市3町24村225.64154375304540225.42424068217.531007569さいたま市217.491222434-8.15

注釈と考察は次回とします。
[80530] 2012年 4月 16日(月)23:26:38【1】hmt さん
荒川の両岸・データに見る自治体の変遷 (5)荒川東岸 さいたま市 注釈と考察
[80529]の表を、冒頭の西区を例にとり説明します。
1~3行に、ほぼ現在の西区の地域に存在した3村の面積人口を示し、4行ではその合計値を示すと共に、それを現在の西区の面積人口と対比しています。最終列「面積比較」は【2010】と【1935】の差です。

その結果、現在の西区の面積は3村の合計よりも約5km2も大きいことがわかりました(4行)。
さいたま市統計書 で 町丁字別面積を調べると、西区に 三橋5~6丁目合計 2.22km2があります。ここは 現在では大宮区になっている三橋1~4丁目と共に 三橋村(町村制施行時は並木村)の一部であったと考えられます。

桜区との境界についても、塚本町など 旧大久保村→桜区にならずに 西区になった地域がありそうです。
このように、村単位の集計面積と 現在の区の面積との間で 顕著な差が見られるものについては、その原因を探る考察を通じて、何らかの知見が得られそうです。

北区の面積が日進・宮原2村合計より大きい原因が、土呂など大砂土村西部の帰属に起因することは、[80528]で既報。
大宮区の面積には、プラス要因(旧木崎村北袋)とマイナス要因(旧三橋村)の両方が影響するでしょう。

11行の大宮市は、市になった1940年で大幅な変化があったので、9行の大宮町時代と区別しました。
21行與野町と22行与野市とは同区域ですが、市になったので別の行にしてあります。
浦和は、34行「戦前の浦和市」と35行「昭和合併後の拡大した浦和市」とを分けて記してあります。

浦和の変遷は、浦和市統計図表 の4/18コマにある「市域の変遷図」に示されていす。
中央部にある旧浦和市S9/2/11が、現在の浦和区と南区の一部とに相当します。
その東に、旧三室村と旧尾間木村S15/4/17、更に東に旧美園村(遡れば野田村と大門村)S37/5/1が描かれていますが、これが現在の緑区。

南浦和駅から武蔵浦和駅にかけての旧六辻村S17/4/1と、その西側、西浦和駅の南に描かれている「旧戸田町の一部S34/4/1」(下記美谷本村由来の【西浦和】地区)との2つの区域は、旧浦和市の南部と共に、現在の南区になっています。
西浦和駅から北の区域は、旧土合村と旧大久保村S30/1/1で、現在は桜区です。

浦和区は34行(戦前の浦和市)と同じ行に記した関係で、-7km2と大きなマイナスですが、これは旧浦和市の南部地域が南区になっているから、当然の結果です。

37行の美谷本村を巡る状況は少し複雑で、細部に立ち入り過ぎる説明になりますが、一応記しておきます。
合成地名コレクション には、さいたま市になった村が8村もエントリーしていますが【その他に土合村が合成数地名の11】、この村もその仲間であり、町村制施行前の美女木村・内谷村・曲本村・松本新田でした。

変遷情報 に記録されたように、美谷本村は美笹村を経て戸田町に編入され、境界変更で一部が浦和市に移ったのですが、詳細欄に示されているように 浦和市に移った地域は 美谷本村由来の3集落(内谷・曲本・松本)と荒川西岸の内間木村由来の堤外でした。つまり、元の美谷本村は戸田に残った最大集落の美女木と、浦和に移った北部とに分村したわけです。

38行の【西浦和】という注記は 美谷本村の説明で、浦和市統計書の丁目大字別面積にある「西浦和地区421.5ha」から取りました。河川敷192.6haを除けば、同書の「市域の変遷」に記された昭和34年境界変更 2.40km2と ほぼ一致します。
同じ38行に記して南区と対比した面積人口データは、六辻村と美谷本村との合計値とですが、区域の食い違いがあります。

緑区の地域は、戦時合併2村(三室村, 尾間木村)と、1962年編入の美園村。
後者は分村編入で、浦和市になったのは 美園村 のうち 昭和大合併前には 野田村・大門村であった地域で、旧戸塚村は 川口市に編入されました。

変遷情報には、いずれも“美園村の一部”としか記されていませんが、少なくともこのような「村単位の移動」は 優先的に記録しておくのが好ましいと思われます。
もっとも、旧大門村のうち差間だけは川口市編入ですから 厳密には「村単位の移動」ではなく、変遷情報は ざっくり単純化した[80529]と違い、もっときめ細かい記録が必要なことは承知しています。

表では区別していませんが、岩槻区になった7町村は 「南埼玉郡」です。
旧埼玉郡の外にできた「さいたま市」という名の是非については、落書き帳初期の記事 で話題になりましたが、岩槻編入でようやく旧埼玉郡内の地域も入りました。


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