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落書き帳

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[925] 2002年 2月 18日(月)22:05:57Issie さん
白馬
> 新潟県三島も、郡が音読み、町が訓読み

越後(新潟県)の「三島郡」は古代と近代とでは区域が違っていたようで,直接連続するものではありません。
古代の「三島郡」は「みしま」と読んだようですが,現在の「三島(さんとう)郡」の直接の前身にあたるのは中世から近世にかけて「山東(さんとう)郡」と呼ばれていた郡です。長岡から見た“西山丘陵”の東側,という意味ですね(ちょっと,ややこしいのですが)。これが古代の「三島郡」(確か,現在の刈羽郡の一部だったような)と混同されて,「さんとう」という読みに「三島」という表記が当てられ,これが明治になって固定化したものです。
「三島(みしま)町」は1955年に脇野町と大津村の一部が合体して発足したのですが,このときに“お約束”に従って新町名を郡名からとったのだけど,読み方は“より素直な”「みしま」の方を選んだのでしょうね。なぜなのか,私にはわかりませんが。

#余談ですが,もう20年ほど前ですね,三波春夫がNHKの紅白に出演したとき,テロップで出身地が表示されたのですが(彼の出身地は三島郡越路町),しっかり「みしま郡」と“誤った”ふりがながふってありました。まあ,よくある間違いです。

> 白馬岳と白馬村

これは,「正しかろうが間違っていようが,地名ってどんどん変わっていくもんなんだよ」ってお話の見本みたいなものですね。
まず,山の名前は本来「しろうま岳」が正解です。
なぜなら,この名前の由来は春先の雪解けの季節に,山の斜面に「馬」の形をした“雪形”(残雪による模様)が現れることにあるからです。
麓の農民は,山にこの馬の形が現れるのを田んぼの“代掻き”を始めるサインにしていました。
だから,この山を「しろうま岳」と呼んだのです。漢字で表記すれば「代馬岳」。
でも,「しろうま」と聞いて自然に連想する表記は「白馬」なので,やがて「白馬岳」という表記が定着しました。実は山の斜面に現れるのは「黒い馬」なのですが。本当は「白馬岳」という表記がすでに間違いなのです。
ともかく,山登りをする人の間ではもちろん「しろうま岳」という読み方が定着するのですが,スキーなどによって観光地化してあまり山に詳しくない人たちがやってくるようになると,やや難度の高い「しろうま」よりは「はくば」と読まれることが多くなってきました。
決定打になったのは,1956年に麓の神城(かみしろ)村と北城(ほくじょう)村とが合併したときに,新自治体名として「白馬(はくば)村」を名乗ったことです。
なぜなんでしょうねぇ。
今では「はくば」の方が「しろうま」よりもずっとポピュラーですが,地元の人々の一部(特に地理関係者)の間ではいまだに「はくば村」という名前は不評です。
[26306] 2004年 3月 17日(水)17:02:54みやこ♂[みやこ] さん
真相はいずこに!? シロウマとハクバ(みやこ書き込み50回達成記念←オイオイ)
私はかつて[24212]で,
そして我が国の地名は,その多くが「音が先」であろうとも思います。(中略)そしてその瞬間から,表記に縛られることになるのでしょう。(中略)「白馬村」然り,です。
と何の疑念もなく書きました。そしてその後,[24939]の「日本300名山リスト」では,
白馬岳  長野・富山  しろうま  ハクバでもいいらしい
と書いています。つまり前の引用文では「シロウマであるべきところがハクバとなった」といい,後者では「ハクバ」を受容している。すなわち宗旨替えしているのですね。
では,この短期間における心境の変化はなにゆえか,と申しますと実は,[25893]でふれた,平凡社:遠藤甲太著「登山史の森へ」という本の記述によるものなのです。
遠藤氏はこう書きだします。
大糸線の駅名白馬は,もうどうしようもなくハクバでしょうが,白馬岳をハクバ岳と呼んでこう説教されたひとはいませんか。白馬岳は雪形の代馬が転じたもので,ゆえにシロウマと訓まねばならぬ,と。私もずっとそう信じていましたが,三井嘉雄著「黎明の北アルプス」に,かくのごとくあった。
以下,三井氏の文章が続きます。
雪形から代馬岳といわれるようになったはずの白馬岳は,そういう解釈のできる文献には一つも出会うことがなく,反対に,それらを否定する材料ばかりがあつまってしまうのであった。
たまたま手元にその本があったので(オイオイ,持ってたんかい!)当たってみますと・・・フムフム,以下,その内容をかいつまんで時系列に沿って記すと,こうなります。

1 江戸時代から明治初期にかけて,現・白馬岳周辺のピークに一般的な固有名はなかった。
2 明治11年の県資料に,現・白馬岳を「乗鞍岳」や「祖父岳」として記載しているものがある。
3 明治13年の資料に,白馬に「ハクバ」とルビが振ってある。
4 明治27年に蓮華温泉から登ったウエストンは,「オーレンゲ(大蓮華の意)」と記した。
5 同じ年,白馬岳山頂に1等三角点が設置される。この点名は白馬岳で「シロムマダケ」とふりがながある。ここで白馬岳が一つのピークの名前となった。
6 明治37年の資料に,「朝日に映じては,残雪白駒の蒼穹を奔騰するが如し,故に信州の土民呼んで白馬と言い,夕陽を受けては紅蓮の空際に開けるに似たり,故に越人名付けて大蓮華と称す」とある。これの意味するところは,信州側では山全体をさして「白馬(読み不明)」と呼んでいたというもの。
7 明治44年の資料に,「之を呼ぶにハクバと音読し,若しくはシロウマと訓するは共に誤りなり,宜しく土地固有の正しき名を存してシロウマと称するを可とす。」とある。
8 大正2年のウエストンの手記に「越中ではオーレンゲと呼び,信州ではシロウマダケとかハクバサンとか呼んでいる」とある。
9 大正2年に1/5万地形図発行,その図面ではピークを白馬岳,山塊を大蓮華としている。
10 過去,「白馬」を「代馬(あるいは代掻き馬を意味するもの)」と記した文献は今のところ発見されていない。
11 「白馬」周辺に出る雪形は全部で4つ,しかもすべて黒駒である。

これらの資料や事実から三井氏は,以下のように結んでいます。
以上を整理してみると,雪形から白馬岳の名がついたと考えるのは,うがちすぎである。白馬岳には駒の雪形が四つ出てくるといわれるが,そのいずれも雪の中に岩が駒の形をして,黒く浮き出るのである。つまり黒馬なのである。黒馬から白馬の山名がつけられたというには少し無理があると思う。
そして,代馬岳が正しいとする説は,その黒馬では説明できないところを,代かき馬ということにして理を通したものであろう。ただ,代馬岳と記した文献は,まだ一つも見あたらない。
つまり,【少なくとも「白馬岳をハクバダケと呼ぶのは誤り」という説に根拠はない】ことになります。「白い馬が駆けているような山だ」ということから「白馬」と名付けられたのであって,代掻き馬に由来するという確たる証拠がない,ということですから。
「白馬岳」というピークの名前を有名にしたのは,やはり1/5万地形図の広まりによるものでしょう。当時,それ以外に地図はなかったのです。そこに記された地名は事実として歩き始め,そして当時の登山者の多くは学者だったり華族だったりの貴族的な有資産者階級だったので,もしかしたら「ハクバ」という音の浅薄なイメージを嫌って?「シロウマ」と訓じるのにこだわったのかもしれません。
遠藤氏も三井氏も,様々な著述活動から鑑みて,山岳史を語るにふさわしい,信用に足る人物です。ううむ,山岳名に限っても,地名の由来というものは,何ともよく分からないものなのですね。

白馬岳周辺の4つの黒い「代掻き馬」のうち,特に白馬岳山頂下の雪形が実に力強く,立派です。太い胴体が,いかにも農耕馬といった風情なんです・・・。
[43943] 2005年 8月 7日(日)19:07:56【1】hmt さん
「代馬岳」の資料がみつからないのは話言葉から生れたから?(白馬岳のこと)
地名の「訓読み→音読み」問題での大立者、「白馬」の登場です。
深田久弥「日本百名山」の引用から始めます。

この立派な山に、以前は信州側にはこれという名が無く、単に西山と呼ばれていた。それがいつ頃からか代馬(しろうま)岳と名づけられ、それが現在の白馬岳と変った。(中略)
代馬岳という名の起りは、山の一角に、残雪の消えた跡が馬の形になって現われるからであった。 田植にかかる前の苗代掻をする頃この馬の形が見え始めるので、苗代馬の意味で代馬と呼んだという。

「白馬岳」という文字は、江戸末期に、松本藩の山廻り役人が書き残した文書に突如として現れる(出典)とも言われ、また、[26306] みやこ♂さんによると、明治27年に陸地測量部が設置した1等三角点名が白馬岳で「シロムマダケ」と ふりがな があるとのことですから、比較的新しい公文書に登場したものと理解できます。

「代馬岳」と記した古い資料がみつかれば、「白馬岳」は 苗代掻きの季節に出現する雪形から生れた山名であり、「しろうまだけ」と読むべきである とする通説が裏付けられるのですが、[26306] みやこ♂さんによる 三井嘉雄著「黎明の北アルプス」の要約では、
10 過去,「白馬」を「代馬(あるいは代掻き馬を意味するもの)」と記した文献は今のところ発見されていない。
ということのようです。

三国の境界にあるこの山について、越後の「大蓮華山」、越中の「上駒ケ嶽」の名があるのに、信濃側には公式の呼び名がないまま近世に至ったのは、信濃の人にとって、この山への立ち入り・利用する権利や技術がなく、遠望するだけの存在だったからでしょう。
でも、遠望するだけの里人にとっても呼び名がなかった筈はありません。それが「しろうま」。
7 明治44年の資料に,「(前略)宜しく土地固有の正しき名を存してシロウマと称するを可とす。」とある。
でも、これは「話し言葉」であり、古い文献資料には残されていなかったのでしょう。

この「しろうま」が「代馬」なのか「白馬」なのか?
6 明治37年の資料に,「朝日に映じては,残雪白駒の蒼穹を奔騰するが如し,故に信州の土民呼んで白馬と言い,…」とある。
ように、残雪をポジの「白馬」と見立てるならば、「はくば」と読んでも「しろうま」と読んでも良いことになります
三井氏は、「代馬」説には疑問を投げかけていますが、「白馬」の読みについては何れとも断定していないように思えます。

一方、通説の「代馬」説。現実に観察される雪形は、雪が消えて黒い山肌が出たネガの雪形、つまり「黒馬」。
シロウトは、証拠写真が示されているだけに、なんとなく、「代馬」説を信じたくなります。

「日本百名山」の引用で(中略)と書いた部分に戻ります。

代馬よりは白馬の万が字面がよいから、この変化は当然かもしれないが、それによってハクバという発音が生じ、今では大半の人がハクバ山と誤って呼ぶようになっている。この誤称は防ぎ難い。すでに膝元からして白馬村と唱えるようになった。

地元の知らないうちに「白馬」と書かれてしまい、登山シーズンには消えてしまっている雪形など見たこともない登山家が「ハクバ」と発音するようになる。たしかに、書き言葉になると字面は大切であり、また、[24212] みやこ♂さんの言われるように、
(「音が先」の地名に)何らかの文字を当てはめる必要に迫られ,そしてその瞬間から,表記に縛られることになる
のです。
特に、登山に特化した人たちは、「岳」の字を省略して「白馬」にしてしまうので、口調の良い「ハクバ」に傾いたのだと思います。

現在のウオッちずでは、読みを確認することができず、[43908]では“(情報なし)”と記しました。地図に「白馬岳」の漢字はありましたが、読みの情報がなかったという意味です。正確には“(漢字のみ)”と記しておくべきでした<[43918]
しかし、三角点名に基づき、地図の元締めである陸地測量部→国土地理院は、「しろうまだけ」という訓読みで一貫していると思います。

下界では神城(かみしろ)村と北城(ほくじょう)村との昭和合併で白馬(はくば)村が誕生し(1956)、大糸線の信濃四ツ谷駅も白馬(はくば)駅と改称され(1968)、という具合に 訓読み→音読み が進行し、このことも 山の呼び名に 少なからぬ影響を与えたことと思います。
# 神城村は、1885年以前はかみじょう村と発音したようです。この場合は湯桶読み→訓読み。

下界のことはともかく、地図だけから判断すると、「白馬岳」の名は訓読みが正式と考えていたのですが、上記のように、登山家の中にも「ハクバ説」や「代馬否定説」があることは、みやこ♂さんの記事[26306]を見て、初めて知りました。

3 明治13年の資料に,白馬に「ハクバ」とルビが振ってある。

これが、現在の白馬岳を指すものかどうかわからず、また「白馬」の下に「岳」とか「山」とかいう字が続いていたのか否かもわかりりませんが、「ハクバ説」もかなり古くからあるのですね。

8  大正2年のウエストンの手記に「越中ではオーレンゲと呼び,信州ではシロウマダケとかハクバサンとか呼んでいる」とある。

白馬の下に付く言葉が訓読みの「岳」であるか音読みの「山」であるかも、「白馬」部分の読みに影響を与えているように思われます。
「しろうまだけ」も「ハクバサン」も両方とも正しい。けれども、重箱読みの「ハクバだけ」はいただけない。そんな気もします。

鉄道旅行案内(大正13年鉄道省)の本文と絵図では「白馬山」、日本北アルプス登路概念図では「白馬岳」と記していますが、いずれもルビはありませんでした。


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