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N-Hさんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[104888]2022年7月1日
N-H
[84274]2013年10月26日
N-H
[84271]2013年10月26日
N-H
[84263]2013年10月24日
N-H
[84257]2013年10月23日
N-H
[84111]2013年9月21日
N-H
[83006]2013年3月20日
N-H
[82969]2013年3月3日
N-H
[82794]2013年1月25日
N-H
[82782]2013年1月22日
N-H

[104888] 2022年 7月 1日(金)20:24:21N-H[旧N-H] さん
9年ぶりの書き込みです
皆様、覚えておいででしょうか。N-Hと申します。
すでに暗証コードはとうの昔に失念しておりまして、上記のような登場になっております。
前回落書き帳に書き込んでからすでに9年が経過しており、唖然としています。
その後横浜で2016年 7月 16日に行われた非公式オフ会は地元ということで参加したのですが、途中緊急連絡があり義父が亡くなるということになり、皆様が飲み食いしていた中華街のすぐ近くの病院にかけつけたのでした。そしてそれっきりになっておりました。
今回ふと思い立ち懐かしい落書き帳を実に久しぶりに拝見しました。そして遅まきながらhmtさんの訃報に接し悄然としている次第です。hmtさんの投稿はいつも確たる資料を基にした素晴らしい考察によるもので、いつも茶化した投稿しかしていない私などにとってはただただ感服していたものです。また何度かオフ会でご一緒し、ご高齢ながら旺盛な好奇心には感心させられました。私が2011年の秋に図書館から亡くなったばかりの立川談志のCDを借りて聴いているとうお話をしたときには、hmtさんと立川談志師匠は同い年であるとのことで、それから10年以上経った今、hmtさんがお元気でいられるか気にかかっていたところでした。
またhmtさんの現役時代のお仕事が私のここ10年以上仕事としている知的財産だったともお伺いし、仕事の先輩としても尊敬しておりました。今はただhmtさんのこれまでの業績を忍び、合掌するばかりです。
それにしてもこうしてこの落書き帳が今も変わらず運営され皆さん書き込まれていることに安堵を覚えました。今回ロータリー交差点(ラウンドアバウト)について少々調べたいことがあり、そういえばとここのことを思い出してアクセスした次第です。
これを機会に地理的に面白いことがあればまた書き込みをさせて頂きたいと思います。
[84274] 2013年 10月 26日(土)17:45:23N-H さん
横浜駅 vs 桜木町駅
[84272]k_ito さん
話題にお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
ちなみに私は2年半前から東横沿線住民で、その前は長らく相鉄沿線住民でした。

みなとみらいに行くときに、運賃が高いみなとみらい線に乗ることは少ない。
これは感覚として確かにわかります。50円の差ではありますが。ただし、東横沿線住民となった今ではそのままみなとみらい駅を使うことがほとんどです。

根岸線電車が桜木町駅に着くときはみなとみらいの景色(個人的には、特にコスモクロック)が見えるが、みなとみらい線からでは見えない。
こちらは、みなとみらいへ行く目的がたまの観光ということならわかります。私のようにさすがに横浜市民を25年以上やってるとこれについてはこだわりはありませんね。

横浜駅は確かに利用者数は多いですが、乗換ターミナルとしての利用がかなりを占めるんじゃないでしょうか。多数の鉄道事業者が乗り入れているので、それら相互間の乗り換えが逐一カウントされてしまいますから。それだけをもって横浜駅のほうが中心だ、とは言い難いのではないでしょうか。
休日の横浜駅周辺は今でも人があふれ、駅近くの飲食店はどこでもあるチェーン店ですら列になっています。ところが、駅を少し離れると、個性的な店に空席がいくつもあったりする。確かに駅の直近にいろいろなものが集まりすぎているきらいはありますが、それでも駅から降りて何がしか横浜駅近辺で用意をする人の数は桜木町駅での同様の人よりも圧倒的に多いものと思われます。

ということで、前にも書きましたけれども、長年の横浜住民のイメージとしては、現在トータルな中心としては横浜駅、ビジネスや官公庁の中心は関内駅、ショッピングやレジャーだと横浜駅、桜木町駅、石川町駅、みなとみらい駅、元町・中華街駅に分散しているといったところでしょうか。
[84271] 2013年 10月 26日(土)08:04:02N-H さん
みなとみらいと桜木町
[84268]デスクトップ鉄 さん
いいえ、桜木町駅です。[84255]
シウマイ市の「某駅」は、1872年に「市名と同じ駅」として開業した駅ではないでしょうか。
と書いた通りで
失礼しました。見落としてましたね。

たしかに、みなとみらい地区の集客力は高まっていますが、みなとみらい地区≠桜木町です。みなとみらい地区の66街区にある日産自動車の本社は、横浜駅東口のすぐ先にあり、桜木町駅よりもよほど近い。

元々みなとみらい地区というのは「桜木町と横浜駅の間の海側の造船所等の跡地」に相当しますので、桜木町はその一方の端ということになります。そもそも横浜市が開発を始めたみなとみらい21計画の最初に完成したビルはそごう横浜店のはいる「横浜新都市ビル」で、これが1985年の完成です。あそこもみなとみらい地区なのです。
私事になりますがこの年に私は就職して横浜市民になったので、よく覚えています。
ただ、一般の人の感覚だと、あそこは横浜駅東口駅前であって、みなとみらいの一部だとはあまり思われていないものと感じます。
そしてその次の一連の開発は、横浜博覧会を経た後の桜木町寄りのインターコンチからランドマークタワーに至る一帯で、これがビジュアル的にも目立つため「みなとみらいは桜木町から」的イメージとなったものと思われます。

ちなみに現在はみなとみらい線が開通しましたので、ますます「みなとみらい地区≠桜木町」からは遠ざかってきているものと感じます。

ところで、[84262]ペーロケさんが書かれている山崎まさよしの「「One more time,One more chance」の舞台について。
彼自身桜木町駅からほど近い場所に住んでいたわけで、いくつかの現実の風景の一部が歌詞に反映していると思われます。「向かいのホーム」というのは、当時の桜木町駅は東横線が島式ホーム、JRは折り返し線を真ん中に挟む3本ホームでしたから、根岸線ホームの下りと上り間か、JRホームと東横線ホームの間かということになりそうです。
一方「急行待ちの踏切あたり」という歌詞が出てきますが、これがちと現実から離れている。急行はJR線には走っていないので、東横線ということになるのですが、東横線の踏切はこの付近にはなく、横浜を過ぎて東白楽駅の先に行くまで存在しませんでした。
桜木町付近の踏切というと、根岸線に並行する貨物線に当時は2箇所ありました。ひとつは高島町駅に近い場所にあったかなり大きな踏切で、もう1箇所はいまも現役の小さな歩行者専用の踏切です。
でも、この2つの踏切はどうにもあの歌詞の踏切とはイメージが違うような気がしますので、ここは山崎さんの空想の産物なのかなと。このほか桜木町駅の海側に残っていた貨物線に踏切が残っていた可能性もありますが、これらは当時から現役ではなかったはずです。
[84263] 2013年 10月 24日(木)23:04:20N-H さん
横浜へようこそ
[84262]ペーロケ さん

あらためまして、横浜へようこそいらっしゃいました。
私もかれこれ横浜市の居住期間が人生の半分を超えて数年経ちました。

貿易、いえ、某駅とは、桜木町駅です。私が大好きな山口県出身の歌手、山崎まさよしの「One more time,One more chance」という歌で登場する地名ということで、いつか行って見たいと昔から憧れた街でもあります。
そう、桜木町、あの歌に出てきますね。しかし、白桃さんはもとよりデスクトップ鉄さんも、おそらく思い浮かべたのは桜木町のひとつ先、関内駅じゃなかったでしょうか。

桜木町駅はご存知日本で鉄道が最初に開通した初代横浜駅を引き継いだ由緒ある駅ですが、ここは実は当時からの横浜の中心市街の「入口」といったほうがよく、本当の中心は、商業は伊勢佐木町、ビジネスは関内だったものと思います。いずれにしても今の関内駅が最寄りということになります。これに商業地区としては元町、山下町(中華街)、野毛あたりが続きます。
しかし、長らく桜木町駅は行き止まりで、その先関内まで国鉄が開通したのは昭和30年代になってから。それまでは、長らく市電が横浜中心市街のメインの交通手段だったわけです。

そして桜木町から先の根岸線が開通した昭和30年代に横浜駅西口にデパートや駅ビルができて様相がだいぶ変わります。昭和の終わりごろには、横浜駅周辺にはデパートが3つのほか駅ビルや地下街が発達し、西口にはおびただしい飲食店街ができることになり、その頃には逆に伊勢佐木町の凋落がすすみ、横浜の商業の中心地区は横浜駅周辺に完全に移動したと言ってよいでしょう。

そして平成になるころから桜木町と横浜駅の間の海側の造船所等の跡地にみなとみらい地区が開発されることになります。しかし、バブルの崩壊に直面し、なかなかビルが埋まらず、今でも建設中の地区がいくつもありますが、それでも相当数の高層ビルが建つことになりました。そうなると、ようやく桜木町駅の海側が新たな横浜の中心地区のひとつの顔としての側面を見せ始めます。逆に横浜駅周辺は、老朽化した駅ビルの取り壊し再建モードにはいっており、これが現状ということになります。

とまあかなり複雑な経緯を経てはいますが、今の桜木町の立ち位置は微妙ですね。妹さんの「桜木町の方が栄えている」というのは、おそらくみなとみらい地区のことを念頭においているのだろうと思いますが、当の桜木町駅に最も近い古くからの繁華街である野毛の人たちは、東横線の桜木町駅の廃止とみなとみらい線の開通で、むしろ桜木町から山側は衰退モードになるのじゃないかと心配しているわけです。
個人的にはまだ横浜駅周辺のほうが日常的な集客力は桜木町駅周辺よりも高いのじゃないかと思いますが、みなとみらい地区のポテンシャルは日増しに上がっているのは確かです。
[84257] 2013年 10月 23日(水)22:35:13N-H さん
たまには書かないと
[84239]ペーロケ さん
その方はきっと、芝浦工大を受けようとして、間違って玉川大学へ行かれたのでしょうね。なんかヒントの方が難しい。。。

[84251]白桃 さん
この一行、どういう意味か理解できません。

これは定期券の表示区間で

○×⇔×○

となる組み合わせですね。いわゆる「回文定期券」。ペーロケさんが意図した区間でしたら、実際にこのような定期券を持っている人がいそうです。

さて、[84239]ペーロケさんの「某駅」に関連してですが、
市の広大な面積の割に、市中心部は意外とこじんまりとしており
これについては、拙稿[53875]あたりを実感していただけたということかな?

新幹線の駅が人口の割に小さい感じ
ここの駅は表口と裏口との落差が非常に激しい駅の1つで、裏口は2年ほど前にやっとタクシー乗り場ができたというほどの寂れようで、今でも少し歩くと畑がありますが、今から20年ぐらい前までは、表口のほうにも駅前のビルの谷間にキャベツ畑があったものです。
[84111] 2013年 9月 21日(土)06:22:39【1】N-H さん
22日東京発、24日出雲市発サンライズは運行します
皆様、大変ご無沙汰しています。
最近書き込みはおろか、投稿を読むのもたまにだったりして、話題に乗り遅れた感がおおありです。オフ会について、まだ「△」のままです。

さて、そのオフ会がらみですが、
[84097]スナフキん さん
オフ会日程が絡む11月22~24日に、品川駅の線路の切り替え工事を実施する関係で、首都圏から山陰へ向かう寝台特急「サンライズ出雲」やそれと併結して運行される「サンライズ瀬戸」がいずれも全区間で運休となるそうです。
これ、JR東海の報道発表が誤解を生む表現でよろしくないのですが、スナフキんさんがリンクをはって頂いたリリース文の下の「※詳細は別紙をご覧下さい。」のPDFファイルを見ると、下り東京発サンライズ出雲が運休になるのは始発日基準で23(土)、24(日)の2日間となり、オフ会開催には影響ありません。
逆の上りも然りで、運休は22(金)、23(土)です。

ちなみに、最近のサンライズ出雲、驚異の乗車率を誇っているそうです。私もオフ会参加するとしたら行きはサンライズがいいなと思っていたのですが(なにしろサンライズとの相性が過去から劣悪でして、[33353][37861][68862]などに書いたほか、その後出雲市まで乗車を試みるも岡山で下ろされやくもに乗り換えたこともあり)、さて、どうしたものか。
[83006] 2013年 3月 20日(水)23:02:14N-H さん
郡名の日常使用
[83004オーナー グリグリさん
郡名を生活の中で普通に皆さんは使っていましたか、使っていますか?

まず、今の私の生活ではそもそも町村が近くにほとんどないか、あっても葉山町、寒川町など、一郡一町みたいなところがほとんどなので、郡名はまず用いませんね。

ですが、私の育った環境では全く別でした。生まれ育ちこそずっと市でしたけれども、まわりをぐるりと同じ郡内の町村に囲まれた環境でしたので、「長生郡市」という言い方を良くしていましたし、その近隣の山武郡、夷隅郡もとてもよく使っていたし、その地域の特色もなんとなく郡の名前と結びついていました。当時から夷隅郡って、オーストラリアの形に似てるな、などと思ったものです。

これは私の周りの環境では決して地理好き少年の特殊な状況ではないと思います。町村では範囲が狭すぎ、県では広すぎる、県内各地区の事象や風物をあらわすのに、郡という単位は面積的に丁度よいというケースが結構当時はあったと思います。
今は市町村合併が進んだ結果、もはや郡は細切れ状態ですから、かつての上記のような役割は果たし得ないのではないでしょうか。これにかわって、多くの地域では市がその地位を占めているのかな。
[82969] 2013年 3月 3日(日)23:23:10N-H さん
中高一貫校
私の娘は丁度今のおがちゃんさんと同じ学年で同じ環境、すなわち中高一貫校に通う中学三年生です。

たまたまここの記事を読まないでいて、昨晩娘とふたりで歩いていて「これで義務教育が終わるんだよ。そのことは少しは意識しないとね」と私から話題をふったところでした。
娘は中学が終わって高校生になるという意識はあったものの、義務教育が終わるんだという意識は私に言われて初めて持ったような次第です。

で、いま落書き帳を見たらまさにそのような話題になっていて、ちょっとびっくりしています(笑)。
うちの場合、実際には私立小学校からの持ち上がりなので、更に意識は違うのかもしれませんが、それだけに逆に割合とちゃんと区切りを考えさせるような教育は親としてできているんじゃないかと思っています。
それにしてもおがちゃんさんほどのしっかりした考えはうちの娘はできていないなあとつくづく思います。おがちゃんさんとは一面識もないのに、何年にも渡るここへの書き込みを見るだけで、ものすごく子供の成長というものを感じさせるのです。文字だけによるコミュニケーションというのはもどかしいことがある反面、神様が人間だけに与えてくださった高度に知的な作業なんだなとつくづく思います。

娘は中学卒業を機に、今月後半10日あまりアメリカにホームステイに行くのですが、昨晩そのホームステイ先のホストに英語で電子メールを書くという彼女にしてみれば一大作業をしました。
さんざん苦心して書いて送信して今朝見てみると、ホストから心のこもった英語の返事のメールが来ていました。
それにしても便利な世の中になったものです。
皆さんには想像がつかないかもしれませんが、私が最初に電子メールを海外宛に書いた頃(今から25年ぐらい前です)には、会社に「海外電子メール利用願」という決裁文書を事前に出す必要がありました。一通海外電子メールを出すごとに、会社に当時の国際電気通信業務を独占的に提供していたKDD(今のKDDIの前身)から国際通信利用料の請求が来ていたのです。

ちょっと話が脱線してしまいましたね。すみません。
[82794] 2013年 1月 25日(金)20:44:44N-H さん
奥武島
[82784] EMMさん
南城市の奥武島

そういえば、ここ、行きました。もちろん沖縄本島から橋を歩いて渡って。
[48287]にちょこっと書いてありますが、私が沖縄本島で訪問した最初の郵便局が、地図にもあるここの簡易郵便局でした。
それには理由がありまして、当時この郵便局は、朝8時台から窓口が空いていて、しかもその時間に窓口で貯金ができるという大変珍しい簡易郵便局だったので、朝一番に那覇市内からバスでやってきたのでした。
[82782] 2013年 1月 22日(火)22:11:45【1】N-H さん
野島について
大変ご無沙汰しています。
私は結婚当初横浜市金沢区に住んでいたことがありまして、野島についてもかなり慣れ親しんだ土地でありました。
で、ちょっと気になる記述がありましたので一筆をば。

[82781]オーナー グリグリさん
公益財団法人横浜市緑の協会のHPによると、独立孤島が砂州で地続きになったのち、昭和20年(1945年)に運河開削によって島に戻ったとの記述がありました。

これを読んであれっと思いました。私が記憶している野島は、公園となっている南東側の水路は土砂が溜まり、横須賀市側と事実上陸続きになっていたからです。
でも、現在衛星写真を見ると確かに水路になって水をたたえているようにみえます。
そこで、少し調べてみると、Wikipediaの平潟湾の項に、
野島との間の野島水路も土砂が堆積して塞がり(1966年には閉鎖された)、代わりに野島の北側に野島運河が掘られた。残っていた湾の南側は1966年に埋め立てられて金沢区柳町となり、現在の細長い湾が残った。戦後は狭くなった湾内に周辺(宮川、侍従川、鷹取川等)の排水が流れ込み水質汚濁がひどかったが、野島水路が1994年に再び開通したことなどから持ち直している。

ここにある「野島水路」とは横須賀市との境の南東側水路のことです。なるほど、私が記憶していたのは1994年以前の景色で、一時地続きになっていた時代のことだったのですね。
実は今から数年前にも、この野島のバーベキュー場でバーベキューをしたことがあり、その時目の前の野島水路に水があったかどうか記憶が定かでないのでした。

というわけで整理すると、野島の歴史は年代的に追うと、
・古代:平潟湾に浮かぶ島。島の北西側、南東側それぞれが細い水路で陸地と隔てられていた
・近代(年代不詳):北西側から砂州が伸び、陸繋島となる
・1945年:北西側砂州が開削され野島運河ができ、再び独立島となる
・1966年:南東側野島水路に土砂が堆積し、再び陸繋島(?)となる
・1994年:野島水路が開削され、三たび独立島となる
という、きわめて複雑な経過をたどっていることになります。


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