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hmtさんの記事が10件見つかりました

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[92722] 2017年 2月 24日(金)13:18:27hmt さん
愛媛県以外の用例
[92720] ペーロケさん
今までの人生の中で、「媛」の字を愛媛以外の用法で見たことがありません。

落書き帳アーカイブズに 愛ヒメと書く訳 ―地名は当用漢字を超える―という記事集が作られています。

落書き帳では、その後も 地名に使われる漢字についての議論があります。
例えば [65937]宝塚市の「丶のある塚」 など。

[92721] Takashi さん
才媛という単語がこの字を用いております。

この落書き帳で、私が記憶する用例は「才媛」の他に「弟橘媛」がありました。
参考までに列挙しておきます。愛媛でない「媛」
[92702] 2017年 2月 12日(日)15:29:50【1】hmt さん
高千穂峰と高千穂町
[92700] 伊豆之国 さん
●2つの「高千穂」について
戦前、その「高千穂」はどこにあったか、と言うことを巡って「宮崎県と鹿児島県が裁判で争った」

その名が示すように 地上ではないらしい「高天原」(たかまがはら)は別として、天孫降臨神話を通じて 日本発祥の地と言われている「高千穂」。

私は、初等科国史により、宮崎県と鹿児島県との境界地帯にある霧島火山群の「高千穂峰」が、その地であると教え込まれていました。紀元二千六百年記念切手(四銭)の画像も 高千穂峰でした。

宮崎県の北端・五ケ瀬川上流の「西臼杵郡高千穂町」の存在を知ったのは ずっと後のことでした。
1889年の町村制で旧三田井村など3村の合併により成立した高千穂村の他に岩戸村も生まれており、この付近も神話に地であったことが知れます。大正9年に高千穂町になった後、昭和合併で岩戸村を含めて再発足しました。

延岡から五ケ瀬川沿いに遡る鉄道は、戦前に日ノ影線が開通。日ノ影-高千穂間は 戦後の 1972年に完成。高千穂線の深角 - 天岩戸間には水面から105mという高い鉄道橋がありました。
北にも「高千穂」が存在することを知ったのは、高千穂峡への交通が便利になったこの頃のことかもしれません。

その先、阿蘇・南郷谷の高森とを結ぶ九州横断ルートの鉄道も引き続き着工しましたが、1977年高森トンネル出水事故などもあり全線開通を断念。
1989年第三セクター・高千穂鉄道に転換後、2005年の台風で全線にわたり橋梁流失などの被害で運休となり、2008年に全線廃止。

高千穂町岩戸の奥にあった鉱山が「土呂久」です。銀山だった時代もありますが、戦前から戦後にかけて殺虫剤などに使用された亜ヒ酸の製造が行なわれ、公害病をもたらした苦い歴史があります。

天孫降臨に関連して2つの「高千穂」の間の本家争いが、大審院にまで持ち込まれていたことは初耳でした。
資料を見ると、日本書紀「襲の高千穂峯」、古事記「日向の高千穂の久士布流多氣」、日向國風土記逸文「臼杵の郡の内、知鋪の郷」など まちまち。二上の峯→「ちほの郷」。
また、北→南の移動説だけでなく、南→北の移動説もあるとか。
もともと、神話ですから現実の地名に当てはめることに無理があり、裁判で黒白を決すべき適切な対象ではないのでしょう。

高千穂大学が冠する「高千穂」は、やはり日本書紀に記された「高千穂峯」をイメージしているのだろうと思います。

自治体を異にする2つの「高千穂」ではあるが、「同一地域を表す地名が、都道府県境、市町村境、区境によって分断された地名」ではない。従って 『自治体越えの地名』コレクションの対象外。そのように理解します。

●紀元節の歌
「高千穂」という地名を聞いて、私が反射的に思い出すのは ♪雲に聳(そび)ゆる高千穂の… という句で始まる唱歌です。毎年2月11日に学校の紀元節式典で歌いました。
明治21年に発表された山田流箏曲の作品に基づく曲で、その後間もなく学校教育の唱歌に採用。解説

私が入学した 1940年(昭和15年)は 皇紀【神武天皇紀元】二千六百年にあたり、日本中に「神がかり」の宣伝が流れた 異常な時代を象徴する 国を挙げての記念行事が行なわれた年でした。
秋の記念式典で演奏されたと思われる儀式用の「紀元二千六百年頌歌」は記憶にありませんが、一般向けにラジオで流されていたのは、行進曲風の奉祝國民歌でした。

もっとも、人々は政府の宣伝に踊らされていただけでなく、タバコ値上げを皮肉った替え歌も作り、流行らせていました。

●当時の市町村の動き
市区町村変遷情報を見ても、昭和15年の2月11日には 洲本市[74036]、飾磨市、川内市と24町【新設合併2町を含む】が誕生するなど、お祝い気分を感じることができます。

合併期日は少し遅れていますが、戦時合併の一種としての「紀元二千六百年記念事業」と銘打った合併もありました[37842]

●4自治体の微妙な境界
[92700] 
微妙な4自治体接点の近く

大縮尺(#16)の地理院地図により、東の高千穂峰と西の御鉢の間にある1408m鞍部の西側境界線【グレーとジャンクションもどき】を示しておきます。境界線の北:宮崎県小林市、東:宮崎県高原町、南:宮崎県都城市、西:鹿児島県霧島市で、南北の自治体は隣接せず。

この高千穂峰から少し北西に位置する霧島山の最高峰・韓国岳1700.1mの地理院地図も示しておきます。
ここは現在では 北:宮崎県えびの市、東:宮崎県小林市、南:鹿児島県霧島市の3自治体接点です。
しかし、2005/1/7の霧島市新設合併前までは 西:鹿児島県牧園町、南:鹿児島県霧島町の境界でもあり、真のグレーとジャンクション【4自治体境界】であった可能性があります。[24021]ペーロケさん参照。

【重要でない追記】
●高千穂大学のある東京都杉並区和田堀
現在地に大学の前身である高等商業学校が開校したのは1914年です。日向の高千穂とは無関係と思いますが、11世紀創建の大宮八幡宮と隣接しています。祭神は当然のことながら応神天皇。
付近の善福寺川沿いは和田堀公園になっている東京近郊の景勝地で、子供の頃にも訪れたことがあります[35838]
東京府東多摩郡和田堀内(わだほりのうち)村は連称自治体名。

「土呂久」で話題にした亜ヒ酸
●1998年の和歌山カレー事件で使われた毒物です。
[92698] 2017年 2月 10日(金)19:10:02hmt さん
Re:岐阜市は三重県?
[92695] Takashiさん
岐阜市について紹介する歴史の本に、岐阜市が三重県内にあるなどの誤った記述や誤字が、少なくとも30か所見つかったとのこと。

引用された報道にも、『岐阜信長 歴史読本』の誤記について
岐阜市が三重県内にあるなどの誤った記述
と記されていました。

そのような「常識では考えられない」誤った記述が本当にあったのか? 

疑問に思って調べてみたら、岐阜新聞Webに 誤表記を指摘した「西部・南部エリア」という地図の画像がありました。
画像の説明
地図では岐阜市に「三重」、岐南町、笠松町に「愛知」と表記されている

画像の指の先に見える「三重」の文字が記されているのは、岐阜県庁【表示なし】の北東(岐阜駅方面)だから、県名「岐阜」の誤記であることは明らかと思われます。
この地図での「岐阜市」の表記は、更に北東に進んだ岐阜市役所【表示なし】の東方に見えます。

県名誤記は明らかですが、この地図から「岐阜市が三重県内にある」という「自治体の相互関係」を示しているとは思われません。

もちろん、地図に表示した「県名の誤記」を見逃した校正・出版のプロセスは許されるべきものではありません。
誤記を指摘したニュース報道自体は価値あるものと評価します。

しかし、誤記の対象を「県名」から「岐阜市の所属」にすり替えて報道したことに問題はないでしょうか?

「岐阜市は三重県?」に限れば、常識的には誰にも明らかな間違いです。
腹の立つ方もあるでしょうが、あまり実害はない「から騒ぎ」として受け止めてください。
プロの出版社としては、痛い教訓を今後に生かしてください。
でも、「都道府県市区町村」落書き帳の話題にするには格好のネタでしたね。
[92668] 2017年 1月 31日(火)18:22:26【1】hmt さん
名所地名を利用した自治体名 (2)十和田
十番勝負で賑わっていた正月の落書き帳。すっかり御無沙汰していた hmt です。

私は豊洲のニュースを聞きながら、東京臨海部の陸地化の近代・現代編を書かねばならないと思っていました。
その他にも、書きたいテーマをいろいろと抱えているのですが、気力が衰えて 筆を進めることができず、低迷状態でした。

ところが、月末になったら 別の事情に気がついて、少し慌てました。
それは、2017年1月の書き込み数がゼロということになると、2003年8月から 161ヶ月継続していた月間連続記録が中断するからです。

記録を意識して無理やり投稿する。それは褒められた行為ではありませんが、追い詰められたらやむを得ません。
最近のネタ帳を眺めたら、[91957] 名所地名を利用した自治体名(1)妙高 が目につきました。
とりあえず、青森県と秋田県とに跨る「十和田湖」に因む「十和田」のつく自治体を その続編として選ぶことに決め、これを 162ヶ月目の投稿に仕立てておきます。
本来の大仕事は先送り。このような姿勢では、何時になったら書けることやら
…と反省しながら、今日は「十和田」の記事を書きます。

最初に、変遷情報検索結果をご覧ください。

「十和田」を名乗る自治体が誕生したのは戦前の青森県上北郡で、1931/9/7のことでした【#1】。
そこは十和田湖から奥入瀬川が流れ出る子ノ口から始まる奥入瀬(おいらせ)渓流沿いの村です。明治22年町村制の時に 上流から奥瀬村【現在の地名:十和田市奥瀬】, 法量村, 沢田村の3村が合併した際には合成地名の「法奥沢村」を名乗っていたのですが、昭和戦前期になるとようやく「十和田村」に改称したのでした。この青森県十和田村が十和田町になったのは戦後の1955/4/1でした【#3】。

ところがこの昭和合併時代になると、静かに眠っていた十和田湖もようやく観光に目覚め始め、秋田県側を含めて動きが活発になります。

秋田県では青森県十和田町誕生の前日1955/3/31に花輪線の通る交通拠点(毛馬内町・錦木村)が合併して鹿角郡十和田町を名乗ります【#2】。
こちらは十和田湖に面していませんが、青森・秋田両県に、ほぼ同時に十和田町誕生というわけです。
秋田県十和田町は翌1956年大湯町との合併後も同じ名称を維持【#4】。

一方、1956年には青森県十和田町に隣接する三本木市が十和田市と改称し【#5】、「十和田」を名乗る自治体名は三つ巴になりました。
三つ巴状態が解消されたのは、1972年まで鹿角市になるまで 通算17年間存続した 秋田県十和田町の消滅です【#6】。

これで2つになった「十和田」自治体は、本家筋の青森県上北郡十和田町と、湖岸もない新参者の十和田市。
1975年には湖水に面した本家?が「十和田湖町」に改称し【#7】、2005年には平成合併【#8】で 「十和田」の名を共有することになり、ようやく一つになりました。

「十和田」自治体については、既に[11649]seahawk さん の記事がありました。
湖畔に存在し、戦前からの使用実績を持つ青森県上北郡の十和田町。
下記再録からも、この自治体が「十和田」の名に値する本家筋であると考えられるようです。
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青森県に十和田市と十和田湖町があるんですが、これも仲間だと思います。
十和田市は昭和30年2月に三本木町、大深内村、藤坂村が合併して三本木市として市制を施行しました。そして、十和田湖への入り口の町ということから昭和31年10月に十和田市に市名を変更します。
十和田湖町は明治16年に法量村、奥瀬村、沢田村が合併。頭文字をとって法奥沢村を名乗りました。昭和6年に十和田村に村名を改称して、昭和30年に町制を施行しました。そして、町制施行20周年の昭和50年に十和田湖町となったのです。
ですから、昭和31年から昭和50年まで「十和田」という名称の自治体が隣り合っていたということになるのです。今の北海道釧路市と釧路町みたいですね。十和田湖の湖畔にある十和田湖町は「十和田町」を名乗るのは当然のように思いますが、十和田市が「十和田」を名乗ってしまったことで、十和田湖町にとってはかなり迷惑だったかもしれません。
そして、秋田県にも十和田町(現・鹿角市)があったので、「十和田」の名称争いは激しかったのかもしれませんね。
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[92107] 2016年 12月 17日(土)17:35:10hmt さん
町村の所属郡表記は 原則として必要
[92105]白桃さん
正直申しまして私は、郡は「無用の長物」なので省略しても良いと考えており、

現在では出番が少なくなったからと言って、郡が「無用の長物」になったわけではありません。
21世紀になってからでも全国で5つもの郡が設置されています。

岡山県加賀郡 石川県鳳珠郡 福井県三方上中郡 北海道二海郡 北海道日高郡

ましてや、このサイト「都道府県市区町村」の取り扱う対象は 現在だけに限定されるものでありません。
群馬県勢多郡・吾妻郡・佐波郡などの「東村」を郡によって区別していた時代があったのは、記憶に新しいことです。

町村の所属郡表記は 「原則として必要なもの」であると考えます。

しかし、町村制施行以降だけを考えても、時代により「郡」の担う役割・意味も変りました。
「郡制」を含む制度の変遷については [83665]にも要点を記し、Issieさんが要領よく説明してくれた [9296]を含む アーカイブズも紹介してあります。
そのタイトルにも、「郡はなくしてもいいのではないか? -「郡」とは何なのだろうか-」とあります。

今更、郡記載の原則無用論に対する反論を書く気にもなりませんが、
特に消滅した町村が所属していた郡名は記載しない
を実行し「旧茨城県七会村は七つの村が合併したから七会となった。」と記した記事について、
(いずれも7村の合併ですが) 茨城県西茨城郡七会村(現・城里町)と 茨城県新治郡七会村(千代田村を経て、現・かすみがうら市)とがあり、「茨城県七会村」では特定不十分です。
と指摘したことがあります[65257]。ご参考まで。

なお、私が反対するのは 一律的な「郡記載の原則無用論」です。
私自身にしても、時に応じて所属郡の記載を省略することは、しばしばあります。

特に明治30年から郡役所に代る「支庁」が設置された北海道庁管内では、これが道内の広域行政区分として定着し、現在の総合振興局・振興局に引き継がれており、「郡の存在感」は希薄なように思われます。
「自治体としての郡」が存在した歴史がなく、「行政区画としての郡」も古くから機能していない北海道。しかし、そこに新しい郡が2つも生まれているのは皮肉な結果です。住所表示専用の郡?

都道府県市区町村サイトで提供される情報が、その目的に応じて、適宜省略記載が行なわれていることは、当然の前提として受け止めております。

長い読みという企画の内【8文字】No.48 の事例で説明すると、伝えるべき情報のうち、1890年の「香川県寒川郡鴨部下庄村」という「長い読みの市町村登場」が最も重要であり、それに次いで 1916年改称による「長い読み失格」が位置することは明らかです。
「鴨部下庄村」という市町村名は維持されているので、所属郡変更の情報【1899年大川郡】は省略されています。
失格時の名称【鴨庄村】は記されていますが、その所属郡名は省略されています。

白桃さんの個人的な感想としては、慣れ親しんだ「大川郡」の方を優先させたいという思いがあったのだと思います。
大川郡は、郡名としては平成まで残っていましたが、長い読みの鴨部下庄村が存在したのは、明治から大正にかけてのことでした。

この企画のポイントに立ち返ると、それは「長い読みの市町村名」、特にその誕生です。
明治~大正の17年間存在した「香川県大川郡鴨部下庄村」は、少しピント外れのように思われます。残念でした。
[92092] 2016年 12月 12日(月)17:45:57hmt さん
ローカルな地名漢字
[92077]グリグリさん
それにしてもこの稀少地名漢字リストというページは稀少漢字地名が網羅されていて素晴らしい情報サイトになっています。

過去記事を拾ってみると、pyriteさんご本人の投稿がありました。

だからどうした? という訳でもないのですが、僅か1件でも投稿記事があるのを発見し、なんとなく嬉しくなりました。

実は hmtが落書き帳に出会った2003年夏、武蔵野台地の「ハケ」という地名が話題になっていました。
スナフキんさんが、「土へんに赤」というタイトルで書いているように、関東ローム層の赤土が露出した「崖」で、珍しい「局所地域的作字」による漢字と記載されています。
一連の記事は、2012年に「垳(がけ)という地名」[80937]を話題にした際に まとめたものです。

こちら【ハケ】も地域限定ですが、「垳」よりも 広い範囲で使われています。
しかし、「土偏に赤」 という字については、前記の辞典にも、JIS第2水準にも収録されず、冷遇されています。
「大字」レベルの地名に使われていなかったことが、その原因でしょうか?
これに続いて、狭山市内のバス停写真が紹介されていますが、左側は違う漢字になっています。

稀少地名漢字リストを見直すと、ふじみ野市「はけ」の現地レポ(2013年)も掲載されていました。

稀少地名漢字リストJIS第4水準Unicode212FDに収載。

稀少地名漢字リストの埼玉県で「はけ」「ばけ」を検索すると、JIS第2水準の【岾】が所沢市南永井字大岾(おおはけ)など5+1地点、JIS第4水準の【𡋽】が川越市大字寺尾字𡋽(はけ)など4+1地点、JIS第4水準の【屼】が所沢市大字上安松字向屼(むこうはけ)など2+0地点、JIS外【坫】が川越市砂久保字小坫(こばけ)0+1地点。【はけ11+ばけ2 = 合計13地点】

せっかくの機会なので、地元の「はけ」地名につき、稀少地名漢字リストへの収録状況を確認しました。
[92091] 2016年 12月 12日(月)17:34:42hmt さん
同じ内容の記事
[92073] k-aceさん
おそらく記事検索されていないのでしょうが2010年3月に[74336]で全く同じ内容を書いております。

2010年1月から白石町役場新庁舎供用と2支所廃止のこと。おっしゃる通り、同じソースによる同じ内容の記事でした。

今回の[92071]は、平成合併終結6年後の現在の話題「支所の形でも残されていない旧自治体」がきっかけでした。
従って、平成合併末期の記事[74336]と「同じ内容だから書いてはいけないということではありません。念のため。」と言われる通りで、再度話題にすること自体は問題ないと思います。

しかし、私が記事検索をしなかった手抜のために、先行記事を無視した形になってしまいました。
これは、k-aceさんに対して失礼な結果でした。お詫びします。

お詫びだけでも…というわけで、過去記事に関連する別件「ローカルな地名漢字」は別記事で書きます。
[92090] 2016年 12月 12日(月)17:28:59hmt さん
香川県寒川郡鴨部下庄村
[92081] mizutohさん
香川県大川郡鴨部下庄(かべしものしょう)村…1890(M23)2.15村制

重箱隅ですが、長い読みの市区町村に追加された村。その所属は 寒川郡 でした。香川県町村制施行時
[92071] 2016年 12月 9日(金)12:40:31hmt さん
佐賀県白石町
平成合併で消滅した旧自治体で、支所的な組織 or 施設が残されていないものに関するもの。
白桃さんの質問[92049]に対し、既に[92066]菊人形さんから多数の事例を報告していただきました。

その一つですが、佐賀県白石町に関して 新庁舎が完成した頃の 佐賀新聞ニュースに、支所廃止が記されていました。変遷情報と共に その要点を補足します。

2005/1/1 佐賀県杵島郡 白石町, 福富町, 有明町の新設合併→白石町
合併時に旧白石町への新庁舎建設を決め、それまでの間は旧有明町役場を使用した。

新聞によると新庁舎の業務開始は2010年1月4日。これに伴い、福富と白石の2支所を廃止。その他組織変更。

佐賀県の地図 白石町役場の位置修正をお願いします。>グリグリさん
[92055] 2016年 12月 6日(火)21:39:11【1】hmt さん
北海道日本海側の漁港・雄冬
[92048]菊人形さん
そんな雄冬が増毛町と浜益村(当時)に跨っていたことを初めて知りました。
[92050]グリグリさん
これはかなり大物でしたね。

「大物」が何を指しているのか よく理解できなかったのですが、私が最も感動したこと。
それは30年前の「陸の孤島」時代に 酷い船酔いに苦しめられながらも訪れた高校生が 落書き帳メンバーとして活躍しており、しかも3年前にも国道231号で 再訪を果していることでした。

そこで、全く知らない土地なのですが、少し調べた結果を綴り、北の町への想いを寄せることにします。

手元にある昭和47年のJTB時刻表には載っていませんが、昭和58年頃の時刻表では航路で繋がった雄冬が載っていたように記憶もあるのですが…。

【以下追記修正あり】
[92043]k-aceさん引用の「こちら」【見落し、便宜的に 呉服屋 と呼ぶ】掲載の1978年時刻表地図にも雄冬はありませんでした。
ところが手元の『時刻表』1982年9月号には、増毛-雄冬間の 雄冬海運の定期船が掲載されていました。増毛発9:00, 雄冬発13:30の一往復。1時間15分、1000円の航路です。
呉服屋掲載の雄冬航路は、臨時便も掲載された北海道時刻表でした。

WEBを探してみたら、乗船体験の回想録がいくつかありました。
呉服屋の乗船時期は不明ですが 1980年代初頭と推測されます。菊人形さんの[91960]「30年以上前」と比較的近く、当時の雄冬の状況をよく伝えているものと考え、下記のように紹介しました。
 「石炭ストーブ」と「金たらい」が備えられた「黒光り四畳半」の船室。
 外海に出るとひどい揺れ方。これはすべての乗船記に共通。
 それでも当時の雄冬には 80戸、200人ほどが居て「雄冬小・中学校」も健在であった。
 「増毛町立雄冬へき地出張診療所」の写真。公共機関は概ね増毛町が設置したもののようです。

道路の整備により陸の孤島状態から抜け出したが雄冬の住民は激減。2013年時点で37戸、70人。小学校も2002年で閉校。増毛中心部から20分になった現在雄冬地区に小学生はいない。呉服屋はこのように伝えています。

その他の乗船記録で比較的詳しいのが 雑貨屋
これは札幌からのバスで訪れているので、1984/5/15の雄冬岬トンネル再開通の後、雄冬定期航路最終運行(1992/4/30)より前という条件から、1984-1991年の間の初秋と推定できます。
この期間の雄冬-増毛間は、定期船と増毛山道【冬季閉鎖があったが1992/10/22通年開通】の両方で通行可能でした。

1979年の雄冬
S55/3/21の乗船券 
更に前の時代 寄港地の多かった頃の雄冬航路
廃止前に毎年のように乗船

国道231号雄冬区間の概略史
浜益-増毛間は、難工事による莫大な工事費ゆえに「ダイヤモンド道路」といわれるそうです。参考までに「黄金道路」と呼ばれるのは、国道336号のえりも町~広尾町間。出典
【追記終】

地理院地図を見ると、神社・仏閣・郵便局なども増毛町。主要な産業施設である雄冬漁港も増毛町。
ところが、#15スケールで見ると、北端のオフユ川は増毛町、南端の雄冬岬は石狩市浜益区と分かれています。東方の雄冬山は境界線上。

増毛町の所属する留萌振興局と石狩市の所属する石狩振興局との境界線。
地理院地図で これを辿ると、雄冬の市街地を南端近くで分断し、「とど島」に及んでいます。
人口では圧倒的に増毛町雄冬が多数でしょうが、面積では 山地を考慮すると 石狩市浜益区雄冬の方が優位か。

[92048]菊人形さん
境界線は人間が決めたもので、何らか理由があって一部が浜益村になったのでしょうが、

とど島を通る境界線。この地の主要産業に関係する「漁業権」こそが、その理由を説明していたと思います。
雄冬漁港で水揚げされる魚は 新しい国道を通って札幌都市圏に供給されていると思います。
しかし、水揚げされた魚には「住所札」が付けられてはいないでしょう。

一方、住民の生活面は全面的に増毛町に依存していました。新聞・郵便物・米・野菜・雑貨などあらゆる物資が定期船で持ち込まれ、帰り船では魚を入れた木箱が増毛の市場に運ばれていました。
国道の開通により交通と物流の事情は大きく変りました。しかし、「遠い石狩よりも 近い増毛」への親近感は、そう簡単には変わらないでしょう。

ゴミ収集など、石狩市の行うべき住民サービスが気になりますが、増毛町に委託しているのではないかと推察。
名目上は市町村境どころか振興局境界を越える地名なのですが、行政実務上はもっと融通を利かせた扱いが行なわれ、効率化が図られているものと期待します。

道路がなかった「陸の孤島」時代の雄冬を物語る挿話。
電話回線は 雄冬を最後に北海道の自動化が完了していましたが(1878年)、敷設には海底ケーブルを使ったとか。


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