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[92722] 2017年 2月 24日(金)13:18:27hmt さん
愛媛県以外の用例
[92720] ペーロケさん
今までの人生の中で、「媛」の字を愛媛以外の用法で見たことがありません。

落書き帳アーカイブズに 愛ヒメと書く訳 ―地名は当用漢字を超える―という記事集が作られています。

落書き帳では、その後も 地名に使われる漢字についての議論があります。
例えば [65937]宝塚市の「丶のある塚」 など。

[92721] Takashi さん
才媛という単語がこの字を用いております。

この落書き帳で、私が記憶する用例は「才媛」の他に「弟橘媛」がありました。
参考までに列挙しておきます。愛媛でない「媛」
[92702] 2017年 2月 12日(日)15:29:50【1】hmt さん
高千穂峰と高千穂町
[92700] 伊豆之国 さん
●2つの「高千穂」について
戦前、その「高千穂」はどこにあったか、と言うことを巡って「宮崎県と鹿児島県が裁判で争った」

その名が示すように 地上ではないらしい「高天原」(たかまがはら)は別として、天孫降臨神話を通じて 日本発祥の地と言われている「高千穂」。

私は、初等科国史により、宮崎県と鹿児島県との境界地帯にある霧島火山群の「高千穂峰」が、その地であると教え込まれていました。紀元二千六百年記念切手(四銭)の画像も 高千穂峰でした。

宮崎県の北端・五ケ瀬川上流の「西臼杵郡高千穂町」の存在を知ったのは ずっと後のことでした。
1889年の町村制で旧三田井村など3村の合併により成立した高千穂村の他に岩戸村も生まれており、この付近も神話に地であったことが知れます。大正9年に高千穂町になった後、昭和合併で岩戸村を含めて再発足しました。

延岡から五ケ瀬川沿いに遡る鉄道は、戦前に日ノ影線が開通。日ノ影-高千穂間は 戦後の 1972年に完成。高千穂線の深角 - 天岩戸間には水面から105mという高い鉄道橋がありました。
北にも「高千穂」が存在することを知ったのは、高千穂峡への交通が便利になったこの頃のことかもしれません。

その先、阿蘇・南郷谷の高森とを結ぶ九州横断ルートの鉄道も引き続き着工しましたが、1977年高森トンネル出水事故などもあり全線開通を断念。
1989年第三セクター・高千穂鉄道に転換後、2005年の台風で全線にわたり橋梁流失などの被害で運休となり、2008年に全線廃止。

高千穂町岩戸の奥にあった鉱山が「土呂久」です。銀山だった時代もありますが、戦前から戦後にかけて殺虫剤などに使用された亜ヒ酸の製造が行なわれ、公害病をもたらした苦い歴史があります。

天孫降臨に関連して2つの「高千穂」の間の本家争いが、大審院にまで持ち込まれていたことは初耳でした。
資料を見ると、日本書紀「襲の高千穂峯」、古事記「日向の高千穂の久士布流多氣」、日向國風土記逸文「臼杵の郡の内、知鋪の郷」など まちまち。二上の峯→「ちほの郷」。
また、北→南の移動説だけでなく、南→北の移動説もあるとか。
もともと、神話ですから現実の地名に当てはめることに無理があり、裁判で黒白を決すべき適切な対象ではないのでしょう。

高千穂大学が冠する「高千穂」は、やはり日本書紀に記された「高千穂峯」をイメージしているのだろうと思います。

自治体を異にする2つの「高千穂」ではあるが、「同一地域を表す地名が、都道府県境、市町村境、区境によって分断された地名」ではない。従って 『自治体越えの地名』コレクションの対象外。そのように理解します。

●紀元節の歌
「高千穂」という地名を聞いて、私が反射的に思い出すのは ♪雲に聳(そび)ゆる高千穂の… という句で始まる唱歌です。毎年2月11日に学校の紀元節式典で歌いました。
明治21年に発表された山田流箏曲の作品に基づく曲で、その後間もなく学校教育の唱歌に採用。解説

私が入学した 1940年(昭和15年)は 皇紀【神武天皇紀元】二千六百年にあたり、日本中に「神がかり」の宣伝が流れた 異常な時代を象徴する 国を挙げての記念行事が行なわれた年でした。
秋の記念式典で演奏されたと思われる儀式用の「紀元二千六百年頌歌」は記憶にありませんが、一般向けにラジオで流されていたのは、行進曲風の奉祝國民歌でした。

もっとも、人々は政府の宣伝に踊らされていただけでなく、タバコ値上げを皮肉った替え歌も作り、流行らせていました。

●当時の市町村の動き
市区町村変遷情報を見ても、昭和15年の2月11日には 洲本市[74036]、飾磨市、川内市と24町【新設合併2町を含む】が誕生するなど、お祝い気分を感じることができます。

合併期日は少し遅れていますが、戦時合併の一種としての「紀元二千六百年記念事業」と銘打った合併もありました[37842]

●4自治体の微妙な境界
[92700] 
微妙な4自治体接点の近く

大縮尺(#16)の地理院地図により、東の高千穂峰と西の御鉢の間にある1408m鞍部の西側境界線【グレーとジャンクションもどき】を示しておきます。境界線の北:宮崎県小林市、東:宮崎県高原町、南:宮崎県都城市、西:鹿児島県霧島市で、南北の自治体は隣接せず。

この高千穂峰から少し北西に位置する霧島山の最高峰・韓国岳1700.1mの地理院地図も示しておきます。
ここは現在では 北:宮崎県えびの市、東:宮崎県小林市、南:鹿児島県霧島市の3自治体接点です。
しかし、2005/1/7の霧島市新設合併前までは 西:鹿児島県牧園町、南:鹿児島県霧島町の境界でもあり、真のグレーとジャンクション【4自治体境界】であった可能性があります。[24021]ペーロケさん参照。

【重要でない追記】
●高千穂大学のある東京都杉並区和田堀
現在地に大学の前身である高等商業学校が開校したのは1914年です。日向の高千穂とは無関係と思いますが、11世紀創建の大宮八幡宮と隣接しています。祭神は当然のことながら応神天皇。
付近の善福寺川沿いは和田堀公園になっている東京近郊の景勝地で、子供の頃にも訪れたことがあります[35838]
東京府東多摩郡和田堀内(わだほりのうち)村は連称自治体名。

「土呂久」で話題にした亜ヒ酸
●1998年の和歌山カレー事件で使われた毒物です。
[92698] 2017年 2月 10日(金)19:10:02hmt さん
Re:岐阜市は三重県?
[92695] Takashiさん
岐阜市について紹介する歴史の本に、岐阜市が三重県内にあるなどの誤った記述や誤字が、少なくとも30か所見つかったとのこと。

引用された報道にも、『岐阜信長 歴史読本』の誤記について
岐阜市が三重県内にあるなどの誤った記述
と記されていました。

そのような「常識では考えられない」誤った記述が本当にあったのか? 

疑問に思って調べてみたら、岐阜新聞Webに 誤表記を指摘した「西部・南部エリア」という地図の画像がありました。
画像の説明
地図では岐阜市に「三重」、岐南町、笠松町に「愛知」と表記されている

画像の指の先に見える「三重」の文字が記されているのは、岐阜県庁【表示なし】の北東(岐阜駅方面)だから、県名「岐阜」の誤記であることは明らかと思われます。
この地図での「岐阜市」の表記は、更に北東に進んだ岐阜市役所【表示なし】の東方に見えます。

県名誤記は明らかですが、この地図から「岐阜市が三重県内にある」という「自治体の相互関係」を示しているとは思われません。

もちろん、地図に表示した「県名の誤記」を見逃した校正・出版のプロセスは許されるべきものではありません。
誤記を指摘したニュース報道自体は価値あるものと評価します。

しかし、誤記の対象を「県名」から「岐阜市の所属」にすり替えて報道したことに問題はないでしょうか?

「岐阜市は三重県?」に限れば、常識的には誰にも明らかな間違いです。
腹の立つ方もあるでしょうが、あまり実害はない「から騒ぎ」として受け止めてください。
プロの出版社としては、痛い教訓を今後に生かしてください。
でも、「都道府県市区町村」落書き帳の話題にするには格好のネタでしたね。
[92668] 2017年 1月 31日(火)18:22:26【1】hmt さん
名所地名を利用した自治体名 (2)十和田
十番勝負で賑わっていた正月の落書き帳。すっかり御無沙汰していた hmt です。

私は豊洲のニュースを聞きながら、東京臨海部の陸地化の近代・現代編を書かねばならないと思っていました。
その他にも、書きたいテーマをいろいろと抱えているのですが、気力が衰えて 筆を進めることができず、低迷状態でした。

ところが、月末になったら 別の事情に気がついて、少し慌てました。
それは、2017年1月の書き込み数がゼロということになると、2003年8月から 161ヶ月継続していた月間連続記録が中断するからです。

記録を意識して無理やり投稿する。それは褒められた行為ではありませんが、追い詰められたらやむを得ません。
最近のネタ帳を眺めたら、[91957] 名所地名を利用した自治体名(1)妙高 が目につきました。
とりあえず、青森県と秋田県とに跨る「十和田湖」に因む「十和田」のつく自治体を その続編として選ぶことに決め、これを 162ヶ月目の投稿に仕立てておきます。
本来の大仕事は先送り。このような姿勢では、何時になったら書けることやら
…と反省しながら、今日は「十和田」の記事を書きます。

最初に、変遷情報検索結果をご覧ください。

「十和田」を名乗る自治体が誕生したのは戦前の青森県上北郡で、1931/9/7のことでした【#1】。
そこは十和田湖から奥入瀬川が流れ出る子ノ口から始まる奥入瀬(おいらせ)渓流沿いの村です。明治22年町村制の時に 上流から奥瀬村【現在の地名:十和田市奥瀬】, 法量村, 沢田村の3村が合併した際には合成地名の「法奥沢村」を名乗っていたのですが、昭和戦前期になるとようやく「十和田村」に改称したのでした。この青森県十和田村が十和田町になったのは戦後の1955/4/1でした【#3】。

ところがこの昭和合併時代になると、静かに眠っていた十和田湖もようやく観光に目覚め始め、秋田県側を含めて動きが活発になります。

秋田県では青森県十和田町誕生の前日1955/3/31に花輪線の通る交通拠点(毛馬内町・錦木村)が合併して鹿角郡十和田町を名乗ります【#2】。
こちらは十和田湖に面していませんが、青森・秋田両県に、ほぼ同時に十和田町誕生というわけです。
秋田県十和田町は翌1956年大湯町との合併後も同じ名称を維持【#4】。

一方、1956年には青森県十和田町に隣接する三本木市が十和田市と改称し【#5】、「十和田」を名乗る自治体名は三つ巴になりました。
三つ巴状態が解消されたのは、1972年まで鹿角市になるまで 通算17年間存続した 秋田県十和田町の消滅です【#6】。

これで2つになった「十和田」自治体は、本家筋の青森県上北郡十和田町と、湖岸もない新参者の十和田市。
1975年には湖水に面した本家?が「十和田湖町」に改称し【#7】、2005年には平成合併【#8】で 「十和田」の名を共有することになり、ようやく一つになりました。

「十和田」自治体については、既に[11649]seahawk さん の記事がありました。
湖畔に存在し、戦前からの使用実績を持つ青森県上北郡の十和田町。
下記再録からも、この自治体が「十和田」の名に値する本家筋であると考えられるようです。
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青森県に十和田市と十和田湖町があるんですが、これも仲間だと思います。
十和田市は昭和30年2月に三本木町、大深内村、藤坂村が合併して三本木市として市制を施行しました。そして、十和田湖への入り口の町ということから昭和31年10月に十和田市に市名を変更します。
十和田湖町は明治16年に法量村、奥瀬村、沢田村が合併。頭文字をとって法奥沢村を名乗りました。昭和6年に十和田村に村名を改称して、昭和30年に町制を施行しました。そして、町制施行20周年の昭和50年に十和田湖町となったのです。
ですから、昭和31年から昭和50年まで「十和田」という名称の自治体が隣り合っていたということになるのです。今の北海道釧路市と釧路町みたいですね。十和田湖の湖畔にある十和田湖町は「十和田町」を名乗るのは当然のように思いますが、十和田市が「十和田」を名乗ってしまったことで、十和田湖町にとってはかなり迷惑だったかもしれません。
そして、秋田県にも十和田町(現・鹿角市)があったので、「十和田」の名称争いは激しかったのかもしれませんね。
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[92107] 2016年 12月 17日(土)17:35:10hmt さん
町村の所属郡表記は 原則として必要
[92105]白桃さん
正直申しまして私は、郡は「無用の長物」なので省略しても良いと考えており、

現在では出番が少なくなったからと言って、郡が「無用の長物」になったわけではありません。
21世紀になってからでも全国で5つもの郡が設置されています。

岡山県加賀郡 石川県鳳珠郡 福井県三方上中郡 北海道二海郡 北海道日高郡

ましてや、このサイト「都道府県市区町村」の取り扱う対象は 現在だけに限定されるものでありません。
群馬県勢多郡・吾妻郡・佐波郡などの「東村」を郡によって区別していた時代があったのは、記憶に新しいことです。

町村の所属郡表記は 「原則として必要なもの」であると考えます。

しかし、町村制施行以降だけを考えても、時代により「郡」の担う役割・意味も変りました。
「郡制」を含む制度の変遷については [83665]にも要点を記し、Issieさんが要領よく説明してくれた [9296]を含む アーカイブズも紹介してあります。
そのタイトルにも、「郡はなくしてもいいのではないか? -「郡」とは何なのだろうか-」とあります。

今更、郡記載の原則無用論に対する反論を書く気にもなりませんが、
特に消滅した町村が所属していた郡名は記載しない
を実行し「旧茨城県七会村は七つの村が合併したから七会となった。」と記した記事について、
(いずれも7村の合併ですが) 茨城県西茨城郡七会村(現・城里町)と 茨城県新治郡七会村(千代田村を経て、現・かすみがうら市)とがあり、「茨城県七会村」では特定不十分です。
と指摘したことがあります[65257]。ご参考まで。

なお、私が反対するのは 一律的な「郡記載の原則無用論」です。
私自身にしても、時に応じて所属郡の記載を省略することは、しばしばあります。

特に明治30年から郡役所に代る「支庁」が設置された北海道庁管内では、これが道内の広域行政区分として定着し、現在の総合振興局・振興局に引き継がれており、「郡の存在感」は希薄なように思われます。
「自治体としての郡」が存在した歴史がなく、「行政区画としての郡」も古くから機能していない北海道。しかし、そこに新しい郡が2つも生まれているのは皮肉な結果です。住所表示専用の郡?

都道府県市区町村サイトで提供される情報が、その目的に応じて、適宜省略記載が行なわれていることは、当然の前提として受け止めております。

長い読みという企画の内【8文字】No.48 の事例で説明すると、伝えるべき情報のうち、1890年の「香川県寒川郡鴨部下庄村」という「長い読みの市町村登場」が最も重要であり、それに次いで 1916年改称による「長い読み失格」が位置することは明らかです。
「鴨部下庄村」という市町村名は維持されているので、所属郡変更の情報【1899年大川郡】は省略されています。
失格時の名称【鴨庄村】は記されていますが、その所属郡名は省略されています。

白桃さんの個人的な感想としては、慣れ親しんだ「大川郡」の方を優先させたいという思いがあったのだと思います。
大川郡は、郡名としては平成まで残っていましたが、長い読みの鴨部下庄村が存在したのは、明治から大正にかけてのことでした。

この企画のポイントに立ち返ると、それは「長い読みの市町村名」、特にその誕生です。
明治~大正の17年間存在した「香川県大川郡鴨部下庄村」は、少しピント外れのように思われます。残念でした。
[92092] 2016年 12月 12日(月)17:45:57hmt さん
ローカルな地名漢字
[92077]グリグリさん
それにしてもこの稀少地名漢字リストというページは稀少漢字地名が網羅されていて素晴らしい情報サイトになっています。

過去記事を拾ってみると、pyriteさんご本人の投稿がありました。

だからどうした? という訳でもないのですが、僅か1件でも投稿記事があるのを発見し、なんとなく嬉しくなりました。

実は hmtが落書き帳に出会った2003年夏、武蔵野台地の「ハケ」という地名が話題になっていました。
スナフキんさんが、「土へんに赤」というタイトルで書いているように、関東ローム層の赤土が露出した「崖」で、珍しい「局所地域的作字」による漢字と記載されています。
一連の記事は、2012年に「垳(がけ)という地名」[80937]を話題にした際に まとめたものです。

こちら【ハケ】も地域限定ですが、「垳」よりも 広い範囲で使われています。
しかし、「土偏に赤」 という字については、前記の辞典にも、JIS第2水準にも収録されず、冷遇されています。
「大字」レベルの地名に使われていなかったことが、その原因でしょうか?
これに続いて、狭山市内のバス停写真が紹介されていますが、左側は違う漢字になっています。

稀少地名漢字リストを見直すと、ふじみ野市「はけ」の現地レポ(2013年)も掲載されていました。

稀少地名漢字リストJIS第4水準Unicode212FDに収載。

稀少地名漢字リストの埼玉県で「はけ」「ばけ」を検索すると、JIS第2水準の【岾】が所沢市南永井字大岾(おおはけ)など5+1地点、JIS第4水準の【𡋽】が川越市大字寺尾字𡋽(はけ)など4+1地点、JIS第4水準の【屼】が所沢市大字上安松字向屼(むこうはけ)など2+0地点、JIS外【坫】が川越市砂久保字小坫(こばけ)0+1地点。【はけ11+ばけ2 = 合計13地点】

せっかくの機会なので、地元の「はけ」地名につき、稀少地名漢字リストへの収録状況を確認しました。
[92091] 2016年 12月 12日(月)17:34:42hmt さん
同じ内容の記事
[92073] k-aceさん
おそらく記事検索されていないのでしょうが2010年3月に[74336]で全く同じ内容を書いております。

2010年1月から白石町役場新庁舎供用と2支所廃止のこと。おっしゃる通り、同じソースによる同じ内容の記事でした。

今回の[92071]は、平成合併終結6年後の現在の話題「支所の形でも残されていない旧自治体」がきっかけでした。
従って、平成合併末期の記事[74336]と「同じ内容だから書いてはいけないということではありません。念のため。」と言われる通りで、再度話題にすること自体は問題ないと思います。

しかし、私が記事検索をしなかった手抜のために、先行記事を無視した形になってしまいました。
これは、k-aceさんに対して失礼な結果でした。お詫びします。

お詫びだけでも…というわけで、過去記事に関連する別件「ローカルな地名漢字」は別記事で書きます。
[92090] 2016年 12月 12日(月)17:28:59hmt さん
香川県寒川郡鴨部下庄村
[92081] mizutohさん
香川県大川郡鴨部下庄(かべしものしょう)村…1890(M23)2.15村制

重箱隅ですが、長い読みの市区町村に追加された村。その所属は 寒川郡 でした。香川県町村制施行時
[92071] 2016年 12月 9日(金)12:40:31hmt さん
佐賀県白石町
平成合併で消滅した旧自治体で、支所的な組織 or 施設が残されていないものに関するもの。
白桃さんの質問[92049]に対し、既に[92066]菊人形さんから多数の事例を報告していただきました。

その一つですが、佐賀県白石町に関して 新庁舎が完成した頃の 佐賀新聞ニュースに、支所廃止が記されていました。変遷情報と共に その要点を補足します。

2005/1/1 佐賀県杵島郡 白石町, 福富町, 有明町の新設合併→白石町
合併時に旧白石町への新庁舎建設を決め、それまでの間は旧有明町役場を使用した。

新聞によると新庁舎の業務開始は2010年1月4日。これに伴い、福富と白石の2支所を廃止。その他組織変更。

佐賀県の地図 白石町役場の位置修正をお願いします。>グリグリさん
[92055] 2016年 12月 6日(火)21:39:11【1】hmt さん
北海道日本海側の漁港・雄冬
[92048]菊人形さん
そんな雄冬が増毛町と浜益村(当時)に跨っていたことを初めて知りました。
[92050]グリグリさん
これはかなり大物でしたね。

「大物」が何を指しているのか よく理解できなかったのですが、私が最も感動したこと。
それは30年前の「陸の孤島」時代に 酷い船酔いに苦しめられながらも訪れた高校生が 落書き帳メンバーとして活躍しており、しかも3年前にも国道231号で 再訪を果していることでした。

そこで、全く知らない土地なのですが、少し調べた結果を綴り、北の町への想いを寄せることにします。

手元にある昭和47年のJTB時刻表には載っていませんが、昭和58年頃の時刻表では航路で繋がった雄冬が載っていたように記憶もあるのですが…。

【以下追記修正あり】
[92043]k-aceさん引用の「こちら」【見落し、便宜的に 呉服屋 と呼ぶ】掲載の1978年時刻表地図にも雄冬はありませんでした。
ところが手元の『時刻表』1982年9月号には、増毛-雄冬間の 雄冬海運の定期船が掲載されていました。増毛発9:00, 雄冬発13:30の一往復。1時間15分、1000円の航路です。
呉服屋掲載の雄冬航路は、臨時便も掲載された北海道時刻表でした。

WEBを探してみたら、乗船体験の回想録がいくつかありました。
呉服屋の乗船時期は不明ですが 1980年代初頭と推測されます。菊人形さんの[91960]「30年以上前」と比較的近く、当時の雄冬の状況をよく伝えているものと考え、下記のように紹介しました。
 「石炭ストーブ」と「金たらい」が備えられた「黒光り四畳半」の船室。
 外海に出るとひどい揺れ方。これはすべての乗船記に共通。
 それでも当時の雄冬には 80戸、200人ほどが居て「雄冬小・中学校」も健在であった。
 「増毛町立雄冬へき地出張診療所」の写真。公共機関は概ね増毛町が設置したもののようです。

道路の整備により陸の孤島状態から抜け出したが雄冬の住民は激減。2013年時点で37戸、70人。小学校も2002年で閉校。増毛中心部から20分になった現在雄冬地区に小学生はいない。呉服屋はこのように伝えています。

その他の乗船記録で比較的詳しいのが 雑貨屋
これは札幌からのバスで訪れているので、1984/5/15の雄冬岬トンネル再開通の後、雄冬定期航路最終運行(1992/4/30)より前という条件から、1984-1991年の間の初秋と推定できます。
この期間の雄冬-増毛間は、定期船と増毛山道【冬季閉鎖があったが1992/10/22通年開通】の両方で通行可能でした。

1979年の雄冬
S55/3/21の乗船券 
更に前の時代 寄港地の多かった頃の雄冬航路
廃止前に毎年のように乗船

国道231号雄冬区間の概略史
浜益-増毛間は、難工事による莫大な工事費ゆえに「ダイヤモンド道路」といわれるそうです。参考までに「黄金道路」と呼ばれるのは、国道336号のえりも町~広尾町間。出典
【追記終】

地理院地図を見ると、神社・仏閣・郵便局なども増毛町。主要な産業施設である雄冬漁港も増毛町。
ところが、#15スケールで見ると、北端のオフユ川は増毛町、南端の雄冬岬は石狩市浜益区と分かれています。東方の雄冬山は境界線上。

増毛町の所属する留萌振興局と石狩市の所属する石狩振興局との境界線。
地理院地図で これを辿ると、雄冬の市街地を南端近くで分断し、「とど島」に及んでいます。
人口では圧倒的に増毛町雄冬が多数でしょうが、面積では 山地を考慮すると 石狩市浜益区雄冬の方が優位か。

[92048]菊人形さん
境界線は人間が決めたもので、何らか理由があって一部が浜益村になったのでしょうが、

とど島を通る境界線。この地の主要産業に関係する「漁業権」こそが、その理由を説明していたと思います。
雄冬漁港で水揚げされる魚は 新しい国道を通って札幌都市圏に供給されていると思います。
しかし、水揚げされた魚には「住所札」が付けられてはいないでしょう。

一方、住民の生活面は全面的に増毛町に依存していました。新聞・郵便物・米・野菜・雑貨などあらゆる物資が定期船で持ち込まれ、帰り船では魚を入れた木箱が増毛の市場に運ばれていました。
国道の開通により交通と物流の事情は大きく変りました。しかし、「遠い石狩よりも 近い増毛」への親近感は、そう簡単には変わらないでしょう。

ゴミ収集など、石狩市の行うべき住民サービスが気になりますが、増毛町に委託しているのではないかと推察。
名目上は市町村境どころか振興局境界を越える地名なのですが、行政実務上はもっと融通を利かせた扱いが行なわれ、効率化が図られているものと期待します。

道路がなかった「陸の孤島」時代の雄冬を物語る挿話。
電話回線は 雄冬を最後に北海道の自動化が完了していましたが(1878年)、敷設には海底ケーブルを使ったとか。
[92026] 2016年 12月 3日(土)22:14:21【2】hmt さん
今夜は秩父夜祭
12月3日。今夜は秩父夜祭です。祇園祭・高山祭と共に日本三大祭に数えられることもしばしば。
最近はローカルな お祭り切手 も多数発行されていますが、1964年に出たシリーズ切手の「10円」という額面が、この3つが山車屋台祭の中で占めるステータスを物語っているようです。

約1ヶ月前にユネスコの評価機関による無形文化遺産登録勧告のニュースが伝えられ、秩父鉄道の記念乗車券などの準備も進められていました。

今年話題になった「ユネスコの無形文化遺産」との関係に触れると、京都祇園祭は 2009年に既に登録済みでした。【日立風流物と共にそれぞれ単独で登録】
ところが、高山祭と秩父祭とは2011年の審査でこの既登録祭との類似性を指摘され、登録が見送られました。
そこで日本政府は方針転換し、上記4件の祭りと共通の特徴を持つ他の祭り29件を包括し「1件として提案」。

2016年に「山・鉾・屋台行事」というタイトルで登録されることになった日本の祭は、このような経過を経てユネスコ評価機関に認められた「無形文化遺産」だったのでした。

既登録案件を国レベルに拡張し再提出。これは 評価機関による勧告内容で称賛されており、「個別登録でなく一纏めにする」方針が ユネスコの意向に沿った方針転換であることが窺えます。

文化庁サイトユネスコ無形文化遺産について(2016年11月現在)には
現在22件(世界全体では336件)
と記されています。

近日中に2016年12月現在に改訂されるでしょうが、上記のような事情により、22件プラス2016年登録1件を加えた結果は「現在 21件」になると思います。

「山・鉾・屋台行事」の一覧表
その数は全国で33もありますが、せっかくの機会なので開催地と行事名の一覧表を記録しておきます。
いずれも国の重要無形民俗文化財に指定されており、文化庁サイト国指定文化財等データベースで>重要無形民俗文化財>風俗慣習>祭礼(信仰)という分類に進むと情報を得ることができます。但し「知立の…」だけは>民俗芸能>渡来芸・舞台芸に分類されていました。

*印の2件は 2009年に単独登録されていた案件でしたが、これに替えて 2016年登録「山・鉾・屋台行事」の一覧表33件の一部になりました。

青森県八戸市八戸三社大祭の山車行事---岐阜県大垣市大垣祭のヤマ(車へんに山)行事
秋田県仙北市角館祭りのやま行事---愛知県津島市と愛西市尾張津島天王祭の車楽舟行事
秋田県秋田市土崎神明社祭の曳山行事---愛知県知立市知立の山車文楽とからくり
秋田県鹿角市花輪祭の屋台行事---愛知県犬山市犬山祭の車山行事
山形県新庄市新庄まつりの山車行事---愛知県半田市亀崎潮干祭の山車行事
茨城県日立市*日立風流物---愛知県蟹江町須成祭の車楽船行事と神葭流し
栃木県那須烏山市烏山の山あげ行事---三重県四日市市鳥出神社の鯨船行事
栃木県鹿沼市鹿沼今宮神社祭の屋台行事---三重県伊賀市上野天神祭のダンジリ行事
埼玉県秩父市秩父祭の屋台行事と神楽---三重県桑名市桑名石取祭の祭車行事
埼玉県川越市川越氷川祭の山車行事---滋賀県長浜市長浜曳山祭の曳山行事
千葉県香取市佐原の山車行事---京都府京都市*京都祇園祭の山鉾行事
富山県高岡市高岡御車山祭の御車山行事---福岡県福岡市博多祇園山笠行事
富山県魚津市魚津のタテモン行事---福岡県北九州市戸畑祇園大山笠行事
富山県南砺市城端神明宮祭の曳山行事---佐賀県唐津市唐津くんちの曳山行事
石川県七尾市青柏祭の曳山行事---熊本県八代市八代妙見祭の神幸行事
岐阜県高山市高山祭の屋台行事---大分県日田市日田祇園の曳山行事
岐阜県飛騨市古川祭の起し太鼓・屋台行事---
[92002] 2016年 11月 29日(火)16:57:50hmt さん
長~い新田地名:上土新田下足洗新田川合新田請新田
[91965] グリグリさん
短い読み・長い読みの市区町村の一番最後に「新田」と称する長い読みを参考データとして掲載しています。

引用部分冒頭の記載
以下のリストの「新田」は「村」と同じ意味でもあるので、参考データとして提示します。

「新田(しんでん)」という言葉は、昔からの耕地「本田(ほんでん)」に対して「新たに開発された耕地」を意味するのが第一義でしょう。しかし、それは「地名」や「集落名」にも転用されています。

古代から営々と行なわれた新田開発は、時代により 事業主体・規模なども様々に変化してきました。
しかし、記録で目にする「新田」地名・「新田」村名の多くは、近世由来のものが多いと思います。
なお、明治以降の開発事業には「新開」という言葉が多用されました。[48709]

「新田」は「村」と同じ意味に使われると共に、「新田村」単独 又は「○○新田村」という複合形で「村」と併用されることもありました。
変遷情報検索で「新田村」を検索すると 253件が抽出され、その大部分は背景赤色の旧村です。

町村制の「○○新田村」は10件【1889年と廃止年と2回抽出されるので、実質5件】で 1889年から昭和合併までの約66年間を存続したのは、長野県の「五郎兵衛新田村」[16828]と静岡県の池新田村【→池新田町】だけでした。

これに対して旧村を含まない条件で「新田」を検索すると30件です。明治合併のなかった岐阜県の事例が示すように新田数は抽出件数より多く、「○○新田村」という表現は例外的であり、村と同じ意味で使われるのが普通であったと思われます。

それはさておき、「長~い読みの新田地名」で、ぜひ紹介しておきたい事例があります。
それは 町村制施行前の 旧村名 なのですが、今尾恵介さんの著書『地名の社会学』(角川選書, 2008)p.58に掲載されていた「上土新田 下足洗新田 川合新田 請新田」という長い連称名です。
現在は静岡市葵区流通センター付近、巴川の左岸・諏訪神社方面からの支流が合流するあたりです。
昔は沼地だったが、これを 周辺にあった村人たちの力で 耕地に変えたものと推察します。Mapion

「あげつちしんでん しもあしあらいしんでん かわいしんでん うけしんでん」「読み」が 32かな文字、漢字で 16文字という大記録の旧村名は、明治合併後も千代田村の大字名として残り、静岡市編入後も 1977年の町名変更まで存続しました。

同類で現存する大字、静岡県藤枝市にある 久兵衛市右衛門請新田 は 16かな文字、10漢字です。

今尾さんは、この「上土新田 下足洗新田 川合新田 請新田」という地名を 次のように説明しています。
上土【あげつち】村が開発した上土新田、下足洗村が開発した下足洗新田、川合村が開発した川合新田の3つの新田村があり、これらが更に 新しい村請新田 を開発したところ、こんな寿限無ばりの長名となったのだろうが、さすがに日常的に呼ぶのに不便なので「三請新田」という通称があったという。(中略)これが昭和52年(1977)まで存続していたというのは なかなか驚異的だ。

変遷情報で確認すると、町村制施行の前月に行なわれた明治合併前の旧村です。
読みは32音で変わらないが、「上土…」が「上ヶ土…」となっていました。

市区町村の変遷 静岡県より抜粋
M22/3/1【明治合併】 静岡県安倍郡上ヶ土新田下足洗新田川合新田請新田が安倍郡上ヶ土新田, 川合新田, 川合村など7村、有渡郡下足洗村, 下足洗新田など5町村他と合併→安倍郡千代田村【旧村】
M22/4/1【町村制】 安倍郡千代田村【旧村】→安倍郡千代田村【明治合併前の12町村は大字となる】
S9/10/1【編入】 安倍郡千代田村など5村→静岡市に編入
【Wikipedia:静岡市の町名の変遷より抜粋】
S49/10/1 【分割・新設・住居表示】上土新田下足洗新田川合新田請新田の一部【支流東岸】→流通センター
S52/3/9 【分割・新設】上土新田下足洗新田川合新田請新田の各一部【支流西岸】→牛田、野丈

いろいろな「○請新田」
先に「事業主体も様々」と書きました。新田開発は 幕藩体制側 自らの開発計画に基づく「代官見立新田」や「藩営新田」もありました。落書き帳記事番号4桁の時代からお馴染みの 三富新田はその一例です。

民間で資金を出し合い事業を進める「百姓寄合新田」の代表的なものが「村請(むらうけ)新田」でしょう。
複数の村の共同事業となると連称になり、その一員が新田村の場合、孫会社のような地位になる新田は「○○新田 ☓☓新田 請【=請負】新田」という長い名前になります。

地元資本がその土地の有力者の場合は「土豪開発新田」。信州の「五郎兵衛新田村」は一人でしたが、駿河国の「久兵衛市右衛門請新田」は二人の連名。
都市で蓄財した投資家による「町人請負新田」、「寺社請新田」など外部資本による新田もあります。
[91969] 2016年 11月 20日(日)17:47:27【2】hmt さん
Re:市区町村名とは?
[91965]グリグリさん
椿郷東分村(「つばきごうひがしぶん」ではなく「つばきごうひがし」がより妥当なのでは?)

私はこの村名を「椿郷/東/分村」と解しました。形式的には「椿郷/東分/村」と解釈する余地もあったのかもしれませんが、分村の「分と村の間を分ける」のは不自然であると考えました。

そして、「分村」という部分も「町村名」を構成する必須要素ですから、これを省くわけにはゆきません。
残された道は、町村名が「椿郷東分村」であると考えるしかありません。

「まち」と「ちょう」で「かな表記」の字数が変ってしまいますが、「市町村名」は あくまでも「漢字かな混じりを基本とする日本語の正書法」によるべきであると思います。

「かな表記」はあくまでも便宜上のものであり、「かな表記の字数」に囚われるのは本末転倒です。
「短い読み・長い読みの市区町村」を考える場合、長短を決める基準を「かな」字数でなく、「日本語の音数」【促音・拗音は1、長音は2と数える】に改めてもよいわけです。

長野県北安曇郡にあった自治体「大町」について説明すると、「おおまち」と発音する自治体名の中に、既に町であることを示す部分が含まれているので、屋上屋を架す「大町町」とする必要がなかっただけです。

1954年の「新設合併」に際しては、当然のことながら「新しい自治体名」を定めることになりました。
この場合、慣れ親しんだ「大町」という「地名」を語幹に残し、しかも市になったことを示す語尾を加えた「大町市」を「自治体名」を選んだのは、ごく自然なことと思われます。

山梨県南都留郡谷村の場合。明治22年山梨県令第40号には 「本年7月1日より県下甲府に市制を其他の町村に町村制を施行す」と記されています。西山梨郡の甲府には郡区町村編制法時代からの「町」が多数存在したのですが、甲府以外の地域には町が存在せず、町村制施行地域は245村になりました。南都留郡谷村も当然のように 町村制の「谷村」になりました。その際の分合・改称はなく、従って 明治22年山梨県令第41号の記載事項もありません。

その後、北巨摩郡河原部村→韮崎町(M25)、東山梨郡勝沼村→勝沼町(M29)に続いて谷村も3番目の町になることになりました。
この場合、慣れ親しんだ「地名」の「谷村」を残し、更に町になったことを示す語尾を付した「谷村町」が「自治体名」として選ばれました。

参考までに、大町・谷村と同様に 語幹部が漢字1字である自治体名 に関して、「もとの地名」を論じた過去記事を示しておきます。

[34770] hmt
【神奈川県中井町は】中村と井ノ口村の合併により成立ですから、「井ノ口」に対応する「もとの地名」は「中村」でなく、「中」になるのでしょうか。
[34776] Issieさん
どのような基準にのっとって解釈するかはそれぞれ,だと思うのですが,私は「中村」で1つの地名とみなとしてよいと考えています。「六日町」を「六日」と「町」に,「荒川」を「荒」と「川」に分解できないことはないけれど,それでは地名としては意味がないのと同じように。(中略)
地名としては,「中+村」と分解することはできず,「中村」という一塊の名前なのだと考えます。
[91959] 2016年 11月 18日(金)19:18:20【2】hmt さん
市制町村制施行当時の自治体名称
[91958] 白桃さん
それはさておき、とりあえず基本的な質問をさせていただきたいのですが、

最初は 真面目に答えず、「2件のご質問にお答えすべき当事者の立場にない。」…と交わそうかと考えました。
Q1は 「わかりきったこと」であり、Q2は 私にとっては関心外で、基本的とは考えていない質問だからでした。
でも心を改め、私の知る限りを 真面目にお答えすることにしました(笑)。

Q1 明治の市制町村制度においては、ドコが当該地を市あるいは町村と決定したのか

白桃さんはご存知の上で質問されているのだと思いますが、[34434] Issieさんの記事にあるように「内務省」です。
1889年2月2日付の 明治22年内務省告示第1号で,最初に「市制」が施行される 36市が指定されました。
これに遅れて 佐賀・岐阜・甲府・鳥取の4市が指定されているので、この制度で「最初の市制施行地」と決められた地は 合計40 になります。
その結果、市制施行地を除く3府42県【北海道・沖縄県・島嶼など法律・市制町村制の対象外とされた地域を除外】は、自動的に「町村制施行地」になりました。

内務省の中で「どのように」決めたのか? 
ずっと後ですが、[86139]むっくんさん の記事に、S18.4.17 内務省発地第三六號「市制施行詮議内規」という資料が登場しています。
その前身というか これに類する内規は、おそらく明治時代から 存在したものと推察しますが、情報公開が不十分な時代ですから、調査するのは困難と思います。

Q2 さらに言えば、町と村の名称上の区別を下したのかドコなのか

マガジン 町と村の違いの冒頭に記したことの繰り返しになりますが、「町と村の違い」 はずっと不明確です。

「市制町村制理由」に記録されている当時の考え方の要点は、[63912] okiさんの記事に引用されています。
この記事は、町村制第3条の規定「凡町村ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セズ」の存在も指摘しています。
町と村とは、「従来の区域に応じて、その名称も継続された」と考えるのが自然なようです。

実際には「区域ヲ存」せずに合併した町村の方が多いですし、従来町であったところが町村制の適用後に村になった場合【注】もありますが、農村の数に比べて町は非常に少なかったのが実態ですから(おおむね、村が約60000に対し旧城下町内を除いた町は600くらい)、旧来の町の多くがその名称を保存したでしょう。
【注】
合併に伴う例ですが、近くの埼玉県入間郡大井町他3ヶ村→大井村[78812]を挙げておきます。

okiさんの記事に示されている 大阪府西成郡難波村 明治24年の人口 26405人。これは、姫路市の 24608人より多い。
「元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同ジクセザルモノアリテ、細カニ之ヲ論ズレバ均一ノ準率ニ依リ難キモノナキニ非ズト雖モ」という建前論や人口の多寡には目もくれていません。

「町村制」という同一制度の中なのだから、実体は町場化していた難波村についても、旧名称の継続で良いではないか。
このような安易な区別が使われた実例のように思われます。
[91957] 2016年 11月 16日(水)18:04:08hmt さん
名所地名を利用した自治体名 (1)妙高
[91948]に続き、過去に存在した長い読みの市町村から題材を得た記事です。
異彩を放っているのが、リストの中で3行を占めている「みょうこうこうげん」の「妙高」です。
1955/4/10 新潟県中頸城郡妙高々原村→1956/9/30 妙高々原町→1969/10/1 妙高高原町→2005/4/1 妙高市

言うまでもなく、長野から直江津に向かう車窓の左側に特異な山容を示す成層火山・妙高山に由来する自治体名です。
妙高山は 北信五岳の筆頭に挙げられていますが、信濃ではなく越後の山ですね。
赤倉・池の平などの温泉やスキーで知られた名所・行楽地です。

この「妙高」という名を利用した自治体名称が 町村制施行の1889年に 南の長野県境近くで誕生し、100年以上かけ、その範囲を北へと拡大してきた歴史をまとめてみます。

最初は、変遷情報検索により「妙高」を調べた結果です。

異なる漢字を使った「名香山(なかやま)村」を含めて7件の自治体名が抽出されました。
何れも新潟県・越後国中頸城郡の領域にありますが、2つの妙高村は時代も場所も異なるので、以下の文では便宜上 妙高村1と妙高村2に書き分けます。

年代を追ってみると、3期に分けると理解しやすいようです。

第1期は、町村制施行の1889年から 昭和合併の1955年までの 66年間です。
妙高を使った自治体は、妙高山のお膝元である長野県境付近【旧・妙高高原町】に限られていました。

検索結果の1番:妙高村1は 明治合併で旧5村の合併により成立。存続期間約12年半。
検索結果の2番:名香山村は 妙高村1の南側・関川村との合併により成立。存続期間約53年半。通算66年。
語源的には妙高山の古名である「越の中山」が、地名二字化[84087][37482]の影響で「名香山」と表記されるようになり、これが「みょうこう」と音読され、「妙高」の字を当てる現在の名になったと考えられます。
# 妙高から北に流れる頸城の関川は濁音ですが、同じ新潟県内の岩船郡に現存する関川村は清音です。

第2期は昭和合併の1955年から平成合併の2005年までの50年間です。
妙高を名乗る自治体の範囲は北に拡大し、「妙高高原町」と「妙高村2」との二本立てになりました。

戦後の経済復興を背景にした観光産業が盛んになり、田切川より北側の自治体もブランド力のある「妙高」を名乗るようになりました。時代も場所も違うので、妙高村2と表示して区別することにします。

検索結果の3番:妙高村2は 関山駅【信越本線がスイッチバック停車】のある関山村などの 昭和合併で成立。
平成合併までの50年間存続しました。
検索結果の4番:妙高々原村は 名香山村からの改称。こちらが 本家・妙高村を名乗りたかったのだと思いますが ブランド自治体名争い に遅れをとった結果でしょう。妙高々原村の存続期間は約1年半。
検索結果の5番:妙高々原町は 関川の上流・杉野沢村との合併を機会に町になった結果です。13年存続。
検索結果の6番:妙高高原町は踊り字「々」を廃して「高」を連ねた結果です。信越本線の駅名も「田口」から「妙高高原」に改められました。
「妙高高原町」は平成合併まで35年半存続したので、昭和合併と平成合併の間の通算50年が「みょうこうこうげん」時代ということになります。

そして第3期が 10年を越えた平成合併以後の期間です。山岳ブランド「妙高」を名乗る自治体の領域は、合併により高田平野の一角にまで拡大しました。

検索結果の7番:平成合併は妙高高原町・妙高村2を新井市に編入する形になりましたが、名前はブランド力のある「妙高」を使うことになり、全国的にも珍しい「編入/改称」となりました。

妙高山のお膝元の「妙高村1」から始まった「妙高名自治体」の領域は、116年の間に 上越市と境を接する平野部にまで拡大し、更に 10年後の北陸新幹線延伸(2015)では 自治体範囲を越えた「上越妙高駅」も実現しました。
[91956] 2016年 11月 16日(水)12:18:58hmt さん
Re:大町は村?
[91951] グリグリさん
Wikiのこちらのページに、長野県の大町に関して次のような記述があります。
>1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
>4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。
(中略)
この情報の根拠を確かめることはできないでしょうか。

長野県における公文書館機能を担っているのは 長野県立歴史館です。町村制施行時の県令等の原本は、ここに保管されているものと推測します。
収蔵資料検索から『本県令達目録(明治3年~大正15年)』などの存在を確認しましたが、明治22年4月10日 大町の町制施行 を裏付けることができそうな県令・告示などの原資料名を発見するには至りませんでした。

原資料の代用となる二次資料について。
[76874] むっくんさん の労作「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」に引用されているように、『長野県現行令達類聚』(明治26年)という本の 上巻741コマ以下に 明治22年長野県令第18号 町村区域名称が収録されています。
問題の北安曇郡大町は 760コマであり、中段の新町村名には「大町」と明記されています。

これで問題解決か?
…そう簡単には問屋が卸しません。『長野県現行令達類聚』の凡例をご覧ください。
此書は明治4年11月置県以来明治25年12月迄の発布に係る本県諸令達中現行のものを類聚…
此書専ら専ら簡約を主とす 故に…改正増補の文字に改め旧文を存せず 欄外に於て其沿革のみを記載す

この『長野県現行令達類聚』は、発行時の現行実務に供することを目的とするものであり、そこに収録された「明治22年県令18号」は発令当時の内容ではなく、明治25年12月迄の改正が盛り込まれているのでした。

例えば 町村制施行 約2年後に町になった 諏訪郡上諏訪町は、明治26年発行の『長野県現行令達類聚』では 当然のように 上諏訪町として掲載されています。

但し 凡例に記されていたように、上部の欄外に「24年告示第27号を以て上諏訪村を上諏訪町と改称」との記載があり、「後発の町」であることが注記されています。

そこで、もう一度 760コマの 北安曇郡大町に戻ります。こちらには、上諏訪町に記されていたような上部欄外の記載が見当たりません。

私の調べた上記の状況から判断した結論。【グリグリさんの問に対する直接の返事にはなっていません。】

現状では、「大町は 1889/4/1に村制を施行した」と信ずるに足る証拠が証拠が 具体的に示されていない。
従って、大町は 1889/4/1に町制を施行した生まれながらの町である」とする趣旨の変遷情報を 改める必要はない。

余談:村と町との区別について

上記の本文では、便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いました。
しかし、実はこれは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
上に引用したように、「上諏訪村を上諏訪町と改称」と記されており、「町制の施行」とは表現されていません。
現行の「町になる要件」などという区別は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。
町村制施行当初、呼び名としては 宿・駅・町・村・新田・浦などを適当に使い分けていました。
しかし これは「便宜的な呼び分け」に過ぎず、制度的な区別は 本来無意味なことであると思っています。
[91948] 2016年 11月 14日(月)18:46:58hmt さん
四日市次郎丸村 過去記事紹介
11月に入ってから休眠状態だった hmt ですが、落書き帳のトップに掲げられた新規メニュー 短い読み・長い読みの市区町村を拝見して、少し眠りから覚めたので書き始めました。

最初は ウォーミングアップとして、四日市次郎丸村の過去記事紹介から。

この村の名は、読みの長さもさることながら、連称自治体名として記憶に残っています。
大網白里市誕生が期待された5年前にシリーズ記事を書いたことがあり、そこから手繰ったところ[79392]に 更に3年以上前に むっくんさん と okiさん による先行記事を引用していました。

今回の「長い読み」と合わせた記事集に仕立てましたので、関心のある方はどうぞ。

記事集 四日市次郎丸村

記事集 連称自治体名

蛇足ですが、新規メニュー:長い読みの市区町村 の中に、「1989(M22)」という誤記が多数あるようです。修正をお願いします。>グリグリさん
[91887] 2016年 10月 30日(日)22:57:21hmt さん
了解:中土佐/四万十
[91885]白桃さん
[91886]グリグリさん
(異動人口は)今回の確定地で7人に訂正されたと言うことでよろしいと思います。

私は[91872]の最後の文章を正しく理解することができなかったために、余計な記事[91883]を書いてしまったようです。
シロウトにとっては「ひねった表現」でなく、[91886]のように ストレートに書いていただいた方が有り難いのでした。
[91883] 2016年 10月 30日(日)15:02:45hmt さん
四万十川上流の町での境界修正・境界変更 これに伴う人口異動の不思議
[91872] 白桃さん
[90443]hmtさんの次の記事があります。【記事番号を修正、引用部分を省略】
[90077]【人口異動を伴う境界変更データ2011/5/18】と確報値の組替人口差は14人。これが、hmtさんの記事と関係有るのか無いのか考えているうちに頭が痛くなってきました。(笑)

書いた当人もすっかり忘れていました。改めて過去記事により経過を再録してみると、高知県高岡郡中土佐町大野見野老野(ところの)と同郡四万十町上秋丸との境界に関する問題であり、地籍簿【明治初年?】の記載と、自治体・住民を含めた地元の認識との間にズレが存在したことに起因するようです。

[76944][76945]の伝えるYomiuri Online 2010/12/2を要約
【A】中土佐町は1990年と2008年とに町境を調査。測量や公図などを基にした本来の境界線は、一般の地図に示された境界線よりも、最大で約200m東側【西側の誤記と推察】(中土佐町側)だったことが判明。これに従うと、大野見野老野地区4世帯7人の住所は上秋丸地区となる。中土佐町は2010年5月、7人に対して四万十町への住民登録変更を勧めた。

[90443]の伝える東京新聞 2010/12/16を要約
【B】7人は長らく中土佐町民として暮らし、住民税も中土佐町に納めていたが、2010年5月までに全員が四万十町に住民登録をし直した。
【C】だが「これまでの地域生活を変えたくない」などと町側に要望。両町議会は以前考えられていた通り【4世帯の東側】に境界を変更する議案を9月に可決、県議会も12月下旬に可決する運びだ。来年夏には国が新しい境界とし認める見通し。→2011/5/18総務省告示により境界変更 下記【D】(1)

【D】 平成23年面積調 p.102, 103
39401中土佐町 -0.05境界修正(2), +0.02境界変更(1)
39412四万十町 +0.05境界修正(2), -0.02境界変更(1)
境界修正(2) H23.3.18 高岡郡中土佐町長と同郡四万十町長の申請
境界変更(1)(H23.5.18総務省告示188号)高岡郡四万十町の一部を同郡中土佐町に編入

境界変更(1)の対象である2haは、Yomiuri Onlineの伝える「最大で200m」という境界線のズレと矛盾しない面積と思います。そして両町長の申請に基いて行なわれた境界修正(2)の区域5haはマスコミ報道には全く登場していない無人地帯であろうと推察します。
マスコミ報道【A】【B】が一致して伝える「7人」が正しいとすると、2011/5/18の境界変更の結果四万十町から中土佐町に異動した人口は7人のはず。
ところが、既に[90077]グリグリさんにより紹介されているように異動人口21人。
更に白桃さんの14人説[91872]も登場。
7人の住民票が中土佐町→四万十町→中土佐町と動いている間に増殖する筈もないのに…謎ですね。
[91804] 2016年 10月 22日(土)15:01:55hmt さん
道路標識の謎
[91798] じゃごたろさん
[91800] グリグリさん

茅野市中河原交差点。国道20号から県道16号へと入った先に設置されている106系標識に記された3つの行先地名。
解説と関連画像を示していただき、ありがとうございます。

今回の問題により私が認識した最も重要な知識は、「交差点に設置されている108系標識」と「交差点を過ぎた先に設置されている106系標識」との役割分担でした。
[91800]のリンク画像を借りると、国道20号中河原交差点南側案内標識には、問題の地点への左折路が案内されており、「国道152号・高遠」と記されています。
この標識は古いままで、「県道16号・岡谷」という新しい表記に変更するのが遅れているようです。

左折した先には問題の答えとなる「大鹿・長谷・高遠」という106系標識が設置されています。
中河原交差点で108系標識に従い左折した「進路が誤っていないことを確認する標識」としては、まさに「高遠」という地名が記されていなければなりません。

「交差点の後の106系標識は、交差点(手前)の108系標識の進路を確認する従属的な存在である。」

このように理解すれば、交差点前後の行先地名が高遠方面で統一されているという現実に 納得することができます。

しかし、後者の画像を見ると、進路を示す矢印に示された路線番号だけは 岡谷に至る「県道16号」に改められています。
左側の矢印に示された県道路線番号16は岡谷方面を意味し、右側の3つの行先地名は国道152号 高遠方面を意味する。
全く別の情報を共存させた標識は、利用者を惑わせるものではないか? いささか疑問を感じました。

ところで、大鹿・長谷・高遠という3地名、何れも一覧表に掲載されていない地名、つまり「一般地」です。
長野県の南部で中央構造線破砕帯を通り、通行止め箇所のある国道152号
原則として用いる重要地・主要地を選ぼうととしても思うに任せない。
その事情はよくわかるのですが、道路標識のルール3に示された原則が、空虚に感じられてしまうのでした。


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