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hmtさんの記事が10件見つかりました

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[92811] 2017年 4月 29日(土)14:58:04hmt さん
栃木県下都賀郡桑絹村の 1960年村長選挙
[92809] 伊豆之国さん
[91787] 山野さん
立候補締め切りまでに届出を行なった人数267人、最終的な立候補者202人で、まともな得票を得たのは3人だけ。
190人は「0票」という村長選挙には驚きました。

部外者ながら、最初に気になったのが、現在の町村長選挙では 50万円となっている供託金です。
調べてみたら、1960年当時の制度では 供託金不要で、1962年に 2万円になったようです。
大量立候補という異常な行為の背景には、供託金没収がない当時の制度があったのでした。

それはさておき、昭和合併で桑村と絹村とから成立した「桑絹村」という自治体名には関心をそそられます。
現在の小山市の町名には「桑」も「絹」も存在しないが、「桑・絹地区」という呼び方は残っているようです。
小山西高校のページに掲載されたふるさとの地名

結城紬(ゆうきつむぎ)で知られる茨城県結城市と隣接したシルク産業で栄えた地域ですが、特に絹村は結城市の中心市街に近いことや結城市に問屋が密集している結城紬の生産地であることから、生活や産業において結城市との非常に強いつながりを持つ地域であったとされます。

昭和合併の際も、絹村としては結城市への越境編入を望んだが、栃木県に意向でとりあえず桑絹村を作り、その後で分村・越境合併という手筈を承諾。
ところが、栃木県が分村を認めなかったことから、対立→大量立候補事件へと進展したようです。

[91787]のリンク先 選挙ドットコムから事件の発端を引用します。
しかし、合併をしないと国や県からの補助金がなくなる事や栃木県がとりあえず桑村と合併し、その後に結城市合併派の地区だけで分村して新しい村を作り、この村が結城市と越境合併をするという形にすると発言したことで桑村との合併が決まり、1956年に両村は合併して桑絹村が誕生しました。しかし、栃木県が前言を撤回して分村を認めないとしたことで、結城市合併派地区は桑絹村との同化を拒否。村政と絶縁すると宣言し、村議が辞職したり、村の農協から脱退して預金を全額引き出したり、地区の消防団が他の地区の消火活動をしないと宣言したり、果ては納税拒否という事態にまで発展しました。

参考情報などを収録した寄稿者のブログも付けておきます。

「成立しなかった合併情報」の対象は2000年以降です。県境の事例は五霞町と幸手市などが収録されています。
今回の絹村と結城市との越境合併不成立事例は、昔のことであり、合併協議会レベルにもなっていないと思われるので、もちろん対象外です。

しかし、この事例は「県境の壁」を越えることの困難を示す貴重な事例の一つであるように思われます。
あえて落書き帳に記録しておきたいと思いました。
そう言えば、実現しなかった県境変更の事例は[79754]でも記載。1955年熱海市泉地区

参考までに、昭和合併時代に成立した越境合併は、廃置分合5件+境界変更3件=8件でした。県境の変更
[92790] 2017年 4月 14日(金)19:15:48【1】hmt さん
六郷の七辻
[92747] リトル さん 「七差路」72時間
[92789] Takashi さん

大田区のページに記されていた所在地は、次のようになっていました。
大田区南蒲田二丁目、東六郷一丁目、南六郷一丁目ほか

交差点なので町字名の境界になっているのはわかります。
しかし、「ほか」と書かれると、あと幾つの町名があるのか? と気になります。
mapionで確認した限りでは、省略されているのは東側の 萩中一丁目 だけのようでした。

気にし始めると、この七辻の由来や旧地名も気になります。
知の冒険・珍スポットにあった「七辻の由来」の説明板。
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大正六年から十年の歳月をかけて行なわれた耕地整理によって完成したもので、そのころは、荏原郡六郷村子之神と呼ばれ、【水田と果樹園が広がり】春には花見客でにぎわったという。
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なるほど、明治22年の町村制で成立した六郷村の耕地整理によって 七辻が作られ、昭和になると六郷町を経て1932年の 「大東京」合併[74867] で東京市に編入されて都市化が進行。戦後になると蒲田区から大田区へ。という概略の動きは理解できました。

上記ページに従って、便宜的に 東から来る比較的大きな道を1とし、左回りに7まで付番すると、2→5と4→7が一方通行です。現在の大田区町名は萩中一丁目(7-1-2)、南蒲田二丁目(2-3)、東六郷一丁目(3-4-5-6)、南六郷一丁目(6-7)。

少し広域を眺めると、七辻の南西側には京浜急行の雑色駅を中心として 南六郷・東六郷・仲六郷・西六郷という町名が現存しています。
【追記】
雑色(ぞうしき)という言葉は、公家官職一覧の中に、蔵人所(令外官)の中に記されています。本来は天皇家の家政における庶務を扱う役職のようですが、都を離れた関東の地名として使われているので、地方官に仕える職など、別の意味に転用された用法に由来するのでしょう。
この表には、もちろん サイトウさん[92775][92783]に関係する斎院司に属する官職も記されています。【追記終】

[35798]では、「六郷(ろくごう)村の由来には、合併した村域の八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色の六郷を総称したとする説もある」と記しましたが、明治合併で六郷村になったのは5村であり、西六郷の北に位置する旧・道塚村だけは矢口村になりました。

いずれにせよ、六郷の名は「六郷川」により現代にも伝えられており、戦後は西六郷小学校に赴任した鎌田典三郎教諭が設立した西六郷少年少女合唱団でも知られるようになりました。

七辻があるのは六郷神社の北東の方角で、説明板にあった「子【北】之神」と少し違います。

以上、七辻が話題になった機会に、東京の「六郷」について記しましたが、検索の結果、全国にある地名であることを知りました。
[92786] 2017年 4月 11日(火)19:45:52hmt さん
サウスジョージア島(2)フォークランド紛争 と シャクルトンの南極探検
[92785]に続く話題は、生物の楽園から離れて、この島で 人間の引き起こした騒ぎを少々記します。

一つは 35年前のフォークランド紛争。
フォークランド諸島の領有権を主張するアルゼンチンが、1982年に起こした戦争です。
侵攻は、放置されていたサウスジョージア島の捕鯨工場解体を名目にアルゼンチン人が入国手続を無視して上陸し、居座ったと3月から開始。
その後、アルゼンチン軍はフォークランド諸島に上陸し、一旦は圧倒的な兵力で その全域を手に入れました。

しかし、イギリスが本腰を入れて反撃を始めると これが成功し、6月にはイギリスの勝利で戦闘終結。
アルゼンチンのガルチェリ大統領は敗北の責任を問われ、大統領及び陸軍総司令官を辞任し失脚しました。
イギリス側にも損害はありましたが、「鉄の女」と言われた マーガレット・サッチャー首相の人気は急上昇。
両国は外交関係を回復していますが、領有権の主張では互いに譲っていません。

もう一つは、約100年前のシャクルトンの南極探検です。

同じイギリスのスコット探検隊は、犬ぞりを利用した アムンゼン隊に遅れながらも、1912年1月に「南極点到達」。
しかし、その帰路は 悲劇的な遭難で終りました。

「南極大陸横断」を目指したシャクルトン探検隊は、初期目的の「大陸横断」を果たせず、エンデュアランス号を失うなど 多くの危機にも見舞われましたが、それを乗り越えて生還しました。

このシャクルトン隊生還劇で重要な役目を果たしたのが、当時のサウスジョージア島にあった捕鯨基地でした。
[92785]冒頭2番目の地図が使われている Wikipedia「帝国南極横断探検隊」に詳しい記述があるので、関心のある方はそちらをどうぞ。

ポイントだけ記すと、南極のウェッデル海探検中、1915年にエンデュアランス号を失い、イギリスに戻るべく苦闘中のシャクルトン。救命艇・ジェイムズ・ケアード号に6人だけが乗り込み、捕鯨船に出会える可能性のあるサウスジョージア島を目指して「吠える 50度」の海を1500kmの航海に乗り出したのが1916年でした。風をかなり避けられる南岸のキング・ハーコン湾に接岸し、氷河に覆われた山脈を横断して サウスジョージア島 北岸の捕鯨基地・ストロムネスに到達。
その後、南極半島先端近くのエレファント島に残してきた隊員22名の救出にも成功しました。

「生還の保証なし」という”求人広告”[74153] で有名な シャクルトンは、1922年に サウスジョージア島を訪れた際に急死し、南極の入口とも言えるこの地に葬られました。
[92785] 2017年 4月 11日(火)19:21:18hmt さん
サウスジョージア島(1)生物の楽園
国立公園・国定公園のシリーズが一段落しました。
直接の関係はないのですが、ここで海外の地理に目を向け、鳥などの生き物にも関係した記事を記します。
その対象が、タイトルに記した「サウスジョージア島」です。

サウスジョージア島? どこだ? 
「ジョージア」だけならば、落書き帳全記事を検索すると何件もあります。
ソ連時代からの「グルジア」を英語式に変更したコーカサスの国名。
缶コーヒー。そしてアメリカ合衆国のジョージア州。
その中に埋もれていましたが、ありました。[10526] 太白さんの「海外領土」。
英国領 South Georgia and the South Sandwich Islands 南ジョージア・南サンドイッチ諸島
南緯 54度30分 西経 37度00分 南アメリカ

日本とは地球の反対側にあって馴染みのない場所ですが、南米大陸の先端・フェゴ島から東に進むと、フォークランド諸島、サウスジョージア島、その先のサウスサンドイッチ諸島で南に向きを変え、西のサウスオークニー諸島を経て南極半島の先端につながるという弧状列島の一員です。

地図で見るように、2005年の落書き帳で話題になった ブーベ島や トリスタン・ダ・クーニャ島と同様の 南大西洋の島々に属する島です。
もう一つの地図は、Wikipediaの「帝国南極横断探検隊」で使われている地図です。
上方【南大西洋】に伸びている青線の先Grytviken【スゥエーデン語の油壺】という捕鯨基地が設けられていた島がサウスジョージア島です。
シャクルトン南極探検隊のことは[74153]で触れましたが、この捕鯨基地があったおかげで生還することができたのでした。

サウスジョージア島の面積は 3756km2もあり、択捉島よりも大きな島です。1775年キャプテン・クックにより発見され、20世紀にはノルウェーの会社などによる捕鯨基地が建設されたが、1966年以降は研究者以外の定住者はないようです。

この島の自然に関するタネ本は 半年ほど前のNewton(2016-9)に掲載された記事で、「生物の楽園」と言われるように、数十万羽のキングペンギンを始めとする動物たちが海岸を埋め尽くす姿は壮観です。
島の動物たちや南極海のクジラを頂点とする生態系を支えているのは ナンキョクオキアミという小さな甲殻類。

この島がある南緯55度付近。そこは「大陸が存在しない緯度」です。見た目には、偏西風で西から東へと流れる海流が、大陸とぶつからずに南極大陸の周りを一周できそうです。正確には、同じ海水のまま一周しているわけではなく、大西洋などとの入れ替えがあるようですが…
世界で最も荒れる海として、航海者たちが「吠える50度、怒れる60度」という言葉で恐れた海域でした。

その中でも極め付きの海域。それは南米南端と南極半島との間のドレーク海峡を駆け抜けた海流が、前記 弧状に並ぶ島々や海嶺【スコシア弧】に衝突するスコシア海です。Google Earth

サウスジョージア島は、緯度こそフォークランド諸島とあまり変わらないものの、その付近の海は冷たい南極表層水(1~2度)で覆われ、北からくる大西洋の水の海水温(夏ならばフェゴ島周辺で6~7度)とは大きく異なります。

両者の間に形成されるのが「南極前線」。南極前線の北のフォークランド諸島では牧草地が広がりますが、サウスジョージア島は氷河で覆われ、時には南極大陸からの氷山も流れ着く場所です。

このように陸上の気候条件は厳しい地ですが、サウスジョージア島の海では 豊富な栄養を含む深層海水が湧昇流として水面近くにもたらされます。ここは ナンキョクオキアミが最も高密度に群れる海域となり、この豊富な餌により育てられた動物群が繁栄することになりました。

人が生活するには厳しい南極気候の地でありながら、意外にも「生物の楽園」が形成された「奇跡の島」。
それは、このような仕組みによるもののようです。

キングペンギンなど各種ペンギンやミズナギドリ、ウミツバメなどの鳥類、ミナミゾウアザラシ、カニクイアザラシ、ナンキョクオットセイ、掃除屋のオオフルマカモメ、そして大型のヒゲクジラ類。

それだけでなく、人間によって持ち込まれた外来動物も増えてしまいました。侵入者の代表はネズミでした。
捕鯨業者が食料として持ち込んだレインディア(カリブー)も数千頭に増殖し、問題になっていたが、2015年に駆除成功と伝えられます。
[92783] 2017年 4月 9日(日)15:02:43hmt さん
Re:サイトウさん
[92775] 伊豆之国 さん
「サイトウ」と言う苗字には、最も代表的な書き方で見ると、「斎藤」と「斉藤」(旧字体ではそれぞれ「齋藤」「齊藤」)の2つにまず大きく分けられます。「斎」と「斉」は本来別の字なのですが、混用されることが多く…

旧字体の頭を略記した新字体は ともかくとして、「斎」【サイ】とは別字である「斉」【セイ】を使いながら、読みとしては「サイトウさん」である方が多い新潟県など、注意を要する苗字ですね。

今回の話題に関連して ふと思い出した人物が、子供の頃に五月人形で見た「斎藤別当実盛」です。
馬上姿の人形でしたが、手にしていたのがダイコン。何か逸話があるはずと探しましたが、発見できませんでした。

探しているうちに見たのが、「ニッポン旅マガジン」に収録されている 斎藤さんのルーツを探せ!というページです。
斎藤姓はその藤原利仁の子、斎宮頭叙用(さいぐうのかみのぶもち=藤原叙用)が斎藤と称したことから始った。
つまり斎藤は、伊勢神宮の役職「斎宮頭」+藤原氏の「藤」=斎藤で、藤原北家利仁流の斎藤氏の誕生となる。

芥川龍之介小説『芋粥』は、外国貿易を支配した藤原利仁の敦賀館を舞台とした話のようですが(今昔物語)、この家は越前を本拠として北陸に勢力を広げたとのこと。
[92775]でも引用されている ページ に掲載された県別の塗り分け図を見ると、伊勢付近と共に北陸の青色【斎藤】が目立ちます。そして信越の赤色【斉藤】を飛び越えて関東・東北へと青色【斎藤】が広がっています。

旅マガジンに戻ると、「関東の斎藤さんは熊谷がルーツ」と書いてあり、越前から武蔵国長井庄【熊谷市妻沼】に移住した斎藤実盛が登場します。

斎藤実盛は 熊谷の偉人とされているのですね。800年以上前の平安時代末期、源氏や平家などの武士が勢力を伸ばしつつあった時代です。誰が勝者となるか先が読めません。
藤原姓の実盛は 最初 源氏の配下でしたが、結局は平家に仕えることになり、武蔵国北部の幡羅郡長井庄を支配。1179年妻沼聖天山を開いた頃が絶頂期でしょう。

清盛の死後、落ち目になった平家を支える役目になり、富士川の戦いを前に 東国武士の勇猛さを平家軍に伝えました。これが逆効果で、「水鳥の羽音に驚き全軍敗走」の遠因になったとの説もあるようです。

1183年、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲軍に大敗し、追撃された平家軍が迎えた篠原の戦い(加賀市片山津温泉付近)。『平家物語』は 総崩れとなった平家軍の中で戦死した実盛の奮戦を伝えています。
勝者の木曽義仲が 老武者の首を洗ったところ 白髪が現れ、幼児の駒王丸時代に木曽に逃してくれた恩人の実盛であったことを確認し、涙しました。
この敗戦により、平家は都落ちすることになりました。

約500年後の元禄2年(1689)、篠原の古戦場を訪れた旅人の詠んだ一句
むさんやな 甲(かぶと)の下のきりぎりす    芭蕉

熊谷市の年表によると、鎌倉時代になってからの1193年、源頼朝が妻沼聖天を訪れた際に、実盛の子は別当寺の建立を願い出て許され、1197年に歓喜院を創設。

[92780] 伊豆之国 さん 横浜市神奈川区斎藤分町六角橋 の近くなのですね。

[92781] N さん はまれぽ
要旨:『横浜の町名』(1982横浜市民局刊, 1996改訂)によると、斎藤兼実という武士が仏門に入り、善龍寺を開く。境内には、縁起が書かれた石碑(1987)が建てられている。石碑によると、真言宗の古寺を1253(建長5)年に浄土真宗に改宗した人物こそが斎藤兼実(=真量法師)。斎藤式部入道?

これだけでは数十年という時間と、地理的ギャップがあり、系図で裏付けないことには、斎藤実盛と斎藤兼実との関係は不明のままです。
しかし「実」という字と、同じ武蔵国内という共通点があります。
もしかしたら、約800年前の「斎藤さん」は、つながるのかもしれない。そんなことを妄想しています。
[92774] 2017年 4月 4日(火)18:43:47【2】hmt さん
近畿と北陸との間の関所 愛発(あらち)の関
[92773]で紹介された鉄道駅名改称の要望。
難読でもあり、知る人の少ない歴史地名「愛発」を 駅名として復活するには 困難があることでしょう。
それはさておき、この機会に伊豆之国さんの[87452]などを収録した記事集を紹介しておきます。

畿内から北陸へ
【1】URLの誤記を修正
【2】タイトル修正
マガジンで使った古代国家時代の用語「畿内」でなく、近江を含む「近畿」を使うことに改めました。
その理由は、[87493]で説明。
[92772] 2017年 4月 3日(月)19:32:59hmt さん
国立公園(8)ラムサール条約関連
2週間前の[92746]と同じような文章で始めますが、4月2日のテレビで 熊本 御輿来(おこしき)海岸が紹介されていました。

私はこの珍しい地名を知りませんでしたが、宇土半島北岸に位置し、有明海の大潮(干潮)と日の入りとが重なる時に現れる神秘的な砂紋が 絶景として知られているようです。
ミサゴや、絶滅危惧種に指定されているクロツラヘラサギなど鳥類も登場していました。

しかし、現在のところ 特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約【ラムサール条約】や、国立公園・国定公園については、未指定と思われます。
熊本県の 三角大矢野海辺県立自然公園には指定されており、日本の渚百選、日本の夕日百選の選定地でもあります。

有明海をずっと北に進むと、シギ・チドリ類の飛来地である広大な 荒尾干潟があり、東よか干潟(佐賀市東与賀町)と肥前鹿島干潟とを加えた3つの干潟がラムサール条約湿地になっています。国立公園・国定公園にはなっていません。

ラムサール条約は 1971年に締結され、その正式名称が示す対象は 「水鳥を主役とする生態系である湿地」です。
日本の加入は 1980年で、「釧路湿原」が第1号指定地でした。
その後の動きを見ると、湿原だけでなく、干潟・藻場・サンゴ礁・浅海域【慶良間諸島】・地下水系【秋吉台】・人工遊水地【渡良瀬遊水地】なども対象に含む「水辺の生態系」の保全という観点に拡大されているようです。

串本沿岸海域。これも 湿地ではなく 「海」そのもの ですが、サンゴ礁北限から かなり北に外れた海域でありながら 高密度のサンゴ群落を形成しており、2005年にラムサール湿地?として登録されています。

上記 串本のページは、「ラムサール条約登録湿地関係市町村会議」のものです。
TOPページは、登録年順リストと配置図になっており、リンクによって 解説文に進むことができます。

例えば みやこ♂ さんが 湿原コレクション の中で提供している 落書き帳記事集の対象である 06_別寒辺牛湿原」については、解説文に「保護の制度:国指定鳥獣保護区特別保護地区」と記されています。

前記・串本のページでは「保護の制度:国立公園海中公園地区・普通地域」となっており、両者の違いから国立公園指定の有無を判断できます。
コウノトリの野生復帰で知られる 39_円山川下流域・周辺水田には、「国立公園特別地域、河川区域」とあり、「山陰海岸」から少し内陸に入った所にも、国立公園区域があることがわかります。

番号とラムサール条約登録年との関係
 1980年:01  1985年:02  1989年:03  1991年:04  1993年:05-09  
 1996年:10  1999年:11  2002年:12-13  2005年:14-33  
 2008年:34-37  2012年:38-46  2015年:47-50

落書き帳を KW=ラムサール条約 で検索すると、驚くほど多数の記事があります。言うまでもなく 十番勝負に4回も登場したからですが、度重なる追加指定や廃置分合の結果として、同じ問題でも その都度該当する市が変化する という妙味が 出題者のお気に召した結果なのでしょう。[68312] 問八 「まさかまたラムサール?」

2005年には一挙に 20件もの指定がありました。
1986年 阿蘇くじゅうNPへの改称[92754]より前の 1978年に NHK「みんなの歌」で放送された『坊がつる讃歌』。
山岳地域に形成された中間湿原としては、国内最大級の面積を有し、我が国を代表する湿地のタイプ
と記された 21_くじゅう坊ガツル・タデ原湿原も、2005年にラムサール湿原として登録されました。
湿原の植生を維持するために、春の野焼きが行なわれており、これは 45_渡良瀬遊水地なども同様です。

地名コレクション。『湿原』では地図リンク有効。『希少地名(一般)』の「坊がつる」は地図が出ません。

今回の記事は国立公園(および国定公園)のシリーズなので、次のリストを作りました。

国立公園・国定公園指定地内のラムサール条約湿地

No.自然公園名Ram条約湿地名所在地備考
90利尻礼文サロベツNP29サロベツ原野北海道J豊富町/幌延町
89網走QP31濤沸湖北海道K網走市/小清水町
87阿寒NP14阿寒湖北海道M釧路市
86釧路湿原NP01釧路湿原北海道M釧路市+3
84暑寒別天売焼尻QP32雨竜沼湿原北海道A雨竜町
80大沼QP42大沼北海道F七飯町
69佐渡弥彦米山QP10佐潟新潟市西区
67尾瀬NP28尾瀬群馬県片品村など
66日光NP27奥日光の湿原日光市戦場ヶ原など
63上信越高原NP48芳ヶ平湿地群日光市
54中部山岳NP43立山弥陀ヶ原・大日平富山県立山町
51越前加賀海岸QP08片野鴨池加賀市
51越前加賀海岸QP41中池見湿地敦賀市
48愛知高原QP44東海丘陵湧水湿地群豊田市矢並湿地など
40吉野熊野NP22串本沿岸海域和歌山県串本町
37若狭湾QP23三方五湖福井県若狭町/美浜町
33琵琶湖QP09琵琶湖大津市など
32山陰海岸NP39円山川下流域・周辺水田豊岡市
30瀬戸内海NP40宮島廿日市市厳島の南西部
26秋吉台QP15秋吉台地下水系山口県秋芳町/美東町
14阿蘇くじゅうNP21くじゅう坊ガツル・タデ原湿原竹田市/大分県九重町
7屋久島NP33屋久島永田浜鹿児島県屋久島町
2慶良間諸島NP20慶良間諸島海域沖縄県渡嘉敷村/座間味村
1西表石垣NP24名蔵アンパル石垣市アンパル(網張)
[92767] 2017年 3月 31日(金)17:43:39hmt さん
国立公園(7)国立公園・国定公園一覧表 4 新潟県・東北6県・北海道
「NP・QP一覧表」は第三回までで 那須岳-燧ヶ岳-妙高山を結ぶ線のあたりまで来ました。およそ北緯37度線の近く、国立公園名【数字は行番号】で言うと  66.1日光NP那須地区-67尾瀬NP-62妙高戸隠連山NPです。
第四回は およそ北緯37度に沿った県境線【新潟県と福島県との南限線】より北にある NP=国立公園 QP=国定公園 に進みます。

陸中海岸NPから拡張・改称した「三陸復興NP」については、既にこのシリーズの第1回[92742]で記しました。

[92757]では ちょっとだけ湿原に触れました。今回の一覧表には「釧路湿原NP」を始めとして湿原関連の NP・QPがあるので、ラムサール条約についてのコメントも考えました。

しかし、現存する数で 34の国立公園と 56の国定公園 合計90に 過去の名称を加えた一覧表の完成を優先させます。

広い北海道については、14総合振興局・振興局一覧の順に A~Nの文字を使い、その位置を示すことも試みました。
【道央】 A:空知 B:石狩 C:後志 D:胆振 E:日高 
【道南】 F:渡島 G:檜山 
【道北】 H:上川 I:留萌 J:宗谷 
【道東】 K:オホーツク L:十勝 M:釧路 N:根室

北海道支庁設置条例(1948年の旧条例)では 石狩 渡島 檜山 後志 空知 上川 留萌 宗谷 網走 胆振 日高 十勝 釧路 根室 という順でしたが、条例と行政組織規則の規定を併せた 現在の名称と所管区域 は 上記のように改められています。[71706]

National Park・Quesi-national Park 一覧表 4 新潟県・東北6県・北海道

No.名称---変遷, 注釈など日付面積ha都道府県
68QPQP越後三山只見QP八海山などと奥只見1973/5/1586129新潟 福島
69QP佐渡弥彦米山QP【米山】拡張改称1981年29464新潟
69.1QP佐渡弥彦QP→1981拡張改称1950/7/27
70NPNP磐梯朝日NP1950/9/5186389山形/福島/新潟
71QPQP蔵王QP1963/8/839635山形 宮城
72QPQP鳥海QP1963/7/2428955秋田 山形
73QPQP栗駒QP1968/7/2277122岩手 宮城 秋田 山形
74NP三陸復興NP【南三陸金華山】QPを編入2015/3/3128537宮城/岩手/青森
74.1三陸復興NP【種差海岸など】編入/改称2013/5/24
74.2QP南三陸金華山QP→2015編入1979/3/30
74.3NP陸中海岸NP1955/5/2
75QPQP早池峰QP1982/6/105463岩手
76QPQP男鹿QP1973/5/158156秋田
77NP十和田八幡平NP【八幡平】拡張改称1956/7/1085534青森/秋田/岩手
77.1NP十和田NP1936/2/1
78QPQP津軽QP1975/3/3125966青森
79QPQP下北半島QP1968/7/2218641青森
80QPQP大沼QP1958/7/19083北海道F
81QPQP日高山脈襟裳QP1981/10/1103447北海道EL
82QPQPニセコ積丹小樽海岸QP1963/7/2419009北海道C
83NPNP支笏洞爺NP1949/5/1699473北海道BCD
84QPQP暑寒別天売焼尻QP1990/8/143559北海道BI
85NPNP大雪山NP1934/12/4226764北海道HL
86NPNP釧路湿原NP1987/7/3128788北海道M
87NPNP阿寒NP1934/12/490481北海道MKL
88NPNP知床NP1964/6/138636北海道KN
89QPQP網走QP1958/7/137261北海道KN
90NP利尻礼文サロベツNP【サロベツ】QPの拡張改称1974/9/2024166北海道J
90.1QP利尻礼文QP→1974拡張改称NP1965/7/10
[92766] 2017年 3月 29日(水)18:14:48hmt さん
国立公園(6)東海自然歩道と沿道の国定公園など
[92760] k_ito さん
東海自然歩道との関連が気になりました。
沿道にあたる国定公園の指定もちょうどその頃です。関連させた事業なのでしょうか。

国定公園の調査中に見た資料の中にも「東海自然歩道」という言葉は度々出て来ました。
両者の関連は私も気になっており、これを機会に立ち入ってみました。

東海自然歩道を始めとする長距離自然歩道も環境省の管轄です。従って、国定公園などの自然公園と 全く無関係ということはないと思います。

最初の資料は、東海自然歩道連絡協会の 東海自然歩道MAP

コース両端が同日(1967/12/11)に指定された国定公園であり、その後3年間で沿線に6国定公園が指定され、東海自然歩道の整備期間(1970-1974年度)へと続いたことは、ご指摘の通りです。

そこで、このMAPに示された東海自然歩道の厳選コースを見ると、高尾の次は相模湖付近となっていました。
hmtの出身地から少し離れていますが、落書き帳ではお馴染みの「津久井」の一部です。

東海自然歩道の神奈川県内コース。簡略図を見ると、南側に丹沢大山国定公園が記されていますが、両者の関係は不詳です。大きな図にも、自然公園の境界線が描かれていません。

そこで、神奈川県内の自然公園を見ます。相模湖は「県立陣馬相模湖自然公園」(1983/12/16指定)となっており、国定公園の指定地域外であることが確認できました。

このことにより、西日本においては 東海自然歩道の整備に合わせて その沿道で複数の国定公園が誕生したのは事実としても、東海自然歩道の事業は「その沿道のすべてを国定公園化する」というほど「直接に関連させた事業」ではない ことがわかりました。では 国定公園の予備軍的なもの迄含めて、沿道を自然公園化する事業なのか? そのあたりは不詳です。

[92760]で作成していただいた表は、国定公園の指定日順になっています。
地理的感覚からすると、ルート順がわかりやすいと思われるので、東海自然歩道沿道の 11国定公園に富士箱根伊豆国立公園を加えた12自然公園について、東から西への順番に並べ直してみました。

それぞれの自然公園について、1箇所ずつですが、QP or NP 地域内の地名と、東海自然歩道コースガイドのイラストをリンクしておきます。
丹沢大山QPの例で説明すると、丹沢山塊の最高峰・蛭ヶ岳の北にある袖平山付近を通過するルートを示します。
地形図 では少し西に東海自然歩道という注記が見え、少し東の 1433mは 東海自然歩道全コースの最高地点です。

東海自然歩道沿道の NP・QP【東から西へ】 と 公園内コースの一部

58 明治の森高尾QP 高尾山 
57 丹沢大山QP 袖平山
55 富士箱根伊豆NP 青木ヶ原樹海
49 天龍奥三河QP 鳳来寺山
48 愛知高原QP 猿投山
46 飛騨木曽川QP 犬山
45 揖斐関ヶ原養老QP 養老
44 鈴鹿QP 湯の山
42 室生赤目青山QP 室生寺【注】
36 大和青垣QP 三輪山
33 琵琶湖QP 比叡山
34 明治の森箕面QP 箕面

【注】有名観光地・室生寺の名を使いましたが、イラストでは室生口大野の駅が示されているものの、お寺の本体が見つかりません。キャンプ場の下あたりに隠れているようです。
[92757] 2017年 3月 27日(月)17:20:27hmt さん
国立公園(5)国立公園・国定公園一覧表 3 中部と関東
「NP・QP一覧表」第三回は 中部から関東の各都県に進みます。NP=国立公園 QP=国定公園。
表の中には NP NP と並ばずに、中間に変遷情報が記載されている国立公園がいくつかあります。
その中でも歴史ある観光地・「富士箱根」と「日光」の名を冠した2つのNPについて 最初に記します。

富士山というと国立公園の中でも「日本一の山」だと思ってしまいます。
しかし国立公園制度ができ、戦前に 12国立公園が作られた際、富士箱根は 3回に分けて指定された中で ラストグループ【1936年組】でした。

1936/2/1 内務省告示32号で指定された地域は富士山地域と箱根地域でしたが、戦後の1955年に伊豆半島に拡張されて 「富士箱根伊豆国立公園」と改称。
更に1964年に 東京都所管の伊豆七島QPを併合したが、名称は変わらず。
4区域からなる富士箱根伊豆NPの基礎情報

単純な拡張と それに伴う改称という「富士箱根伊豆」に比べて、日光・尾瀬地区の変遷はもっと複雑な事情があるようです。

日光NP 最初の指定である1934/12/4 内務省告示569号に記された区域分図縦覧役場を見ると 次のようになっており、日光地域だけでなく その北西にある尾瀬地域も指定されていることが分かります。
栃木県上都賀郡今市町/日光町/塩谷郡栗山村、群馬県利根郡片品村、福島県南会津郡檜枝岐村、新潟県北魚沼郡湯ノ谷村。正しくは湯之谷村のようですが、この程度の表記違いは しばしば告示の中に現れるので、気にしないことにします。

戦後になると1950/9/22 厚生省告示253号で 日光地区の北北東にある那須甲子・塩原・鬼怒川の温泉郷が追加指定されました。

このように拡大された「日光」国立公園についての議論は昔からあったようです。[29045]によると
昭和初期の日本山岳会の会報を見ると,当時は「奥日光の尾瀬」という言葉が当たり前のように使われていた

みやこ♂さんと違い この地域には詳しくありませんが、[29045][51625]などの尾瀬関係 落書き帳過去記事集から、自然風景地の保護とその利用という「二兎を追う」自然公園法が、尾瀬の扱いで転機にさしかかってきたことを感じます。
「二兎を追う」国立公園制度の中でバランスを取ろうとした政策が、保護に重点を置く「尾瀬NP」を 利用に重点を置く「日光NP」から分立させる という「かなりびっくり」[51584]の処置になったのではないか。
私は 2007年の「尾瀬国立公園」誕生を このように理解しました。

尾瀬分立後の国立公園変遷履歴を全国的に追うと、屋久島NPの分立(2012)、慶良間諸島NPの分立(2014)、妙高戸隠連山NPの分立(2015)と続いており、前2者は保護を重視する世界遺産がらみです。

尾瀬の大きな特色に湿原があります。そこで連想するのが 1987年に誕生した釧路湿原NPです。
最近も[92746]で ちょっとだけ言及しましたが、1980年に日本最初のラムサール条約登録湿地になったことが評価されたものと言われています。
尾瀬分立をもたらした国立公園行政の転機は、このあたりに端を発していたのかもしれません。

尾瀬NPに戻ると、その一部は新潟県に及んでいます。妙高戸隠連山NPも同様に、中部・関東に関係深いNPです。
この2NPは 当然のように今回集計の分に入れてあります。
しかし新潟県単独の「佐渡弥彦」や東北と関係するNP・QPは次回送りとしました。ご承知ください。

National Park・Quesi-national Park 一覧表 3 中部と関東

No.名称--変遷, 注釈など日付面積ha都道府県
45QPQP揖斐関ケ原養老QP1970/12/2820219岐阜
46QPQP飛騨木曽川QP1964/3/318074岐阜 愛知
47QPQP三河湾QP1958/4/109457愛知
48QPQP愛知高原QP1970/12/2821740愛知
49QPQP天龍奥三河QP1969/1/1025720長野 静岡 愛知
50NPNP南アルプスNP1964/6/135752山梨/長野/静岡
51QPQP越前加賀海岸QP1968/5/19794石川 福井
52NP白山NP←白山QP1962/11/1249900石川/岐阜/福井/富山
52.1QP白山QP→1962NP1955/7/1
53QPQP能登半島QP1968/5/19672石川 富山
54NPNP中部山岳NP1934/12/4174323富山/長野/岐阜/新潟
55NP富士箱根伊豆NP【伊豆七島】QPを編入1964/7/7121695静岡/山梨/東京/神奈川
55.1伊豆七島QP→1964NPに編入1955/4/1
55.2富士箱根伊豆NP【伊豆半島】拡張改称1955/3/15
55.3NP富士箱根NP1936/2/1
56NPNP小笠原NP1972/10/166629東京
57QPQP丹沢大山QP1965/3/2527572神奈川
58QPQP明治の森高尾QP1967/12/11777東京
59NP秩父多摩甲斐NP改称2000/8/10126259山梨/東京/埼玉/長野
59.1NP秩父多摩NP1950/7/10
60QPQP八ヶ岳中信高原QP1964/6/139857長野 山梨
61QPQP妙義荒船佐久高原QP1969/4/1013123群馬 長野
62NPNP妙高戸隠連山NP←上信越高原NPから分立2015/3/2739772新潟/長野
63NP上信越高原NP分立により妙高戸隠削除2015/3/27148194長野/群馬/新潟
63.1上信越高原NP【妙高戸隠】拡張1956/7/10
63.2NP上信越高原NP1949/9/7
64QPQP南房総QP1958/8/15690千葉
65QP水郷筑波QP【筑波山・加波山】追加1969/2/134956茨城 千葉
65.1QP水郷QP→1969水郷筑波QP1959/3/3
66NP日光NP←分立により尾瀬を削除2007/8/30114908栃木/福島/群馬
66.1日光NP【那須甲子 塩原 鬼怒川】1950/9/22
66.2NP日光NP【最初は尾瀬と日光】1934/12/4
67NPNP尾瀬NP←日光NPから分立2007/8/3037200群馬/福島/新潟/栃木


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