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ニジェガロージェッツさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[91495]2016年9月24日
ニジェガロージェッツ
[91491]2016年9月22日
ニジェガロージェッツ
[91482]2016年9月22日
ニジェガロージェッツ
[91428]2016年9月19日
ニジェガロージェッツ
[91427]2016年9月19日
ニジェガロージェッツ

[91495] 2016年 9月 24日(土)00:14:02ニジェガロージェッツ さん
楽しみなミニオフ会
[91429] JOUTOU さん
JOUTOUさん,オフ会を長年もご無沙汰を重ねてしまい,申し訳ございません。お写真を拝見しましたが,変わらずお元気そうで何よりです。小生はここ数年でかなり老けたような気がします。

大都市中心のミニオフ会も開催されると思うので、何れ二ジェさんとも再会できればうれしいです。
これは楽しみです。
先々月に横浜市で開催された番外編と同じシリーズでのオフ会の開催案があるのですか。
街歩きは大好きですから,是非参加させていただきます。
ただし,神戸から泊り掛けで出られそうにない生活を送っておりますので,大阪か和歌山,京都か奈良あたりでの開催があれば,万難を排して駆けつけます。

[91492] 白桃 さん
落書き帳史上、最多記録は何年何月何日か、お判りになったら教えてください。
2007年4月1日の174件では。記事番号[57501][57675]まで。57604は缺番
[91491] 2016年 9月 22日(木)23:56:40ニジェガロージェッツ さん
普通の街
[91473] ペーロケ さん
「普通の街」ってどんな街でしょうか。


これはね,ポプラ社の「BE-KOBE 震災から20年,できたこと,できなかったこと」という書籍の中の一章に,灘区を舞台に楽しい企画を次々と仕掛けておられる"naddist"の物語が書かれており,そのタイトル
「普通の町」灘区を「冒険」するために
が言い得て妙に感じられ,そのことが頭に残っていたので,そのように書いたのですが,ただ,原題の「町」を「街」としたのは,ここは地理の掲示板ですから,「町」だと「市町村」や「町丁目」のイメージが強く,市街地の意味での「街」に置き換えました。

また,拙稿[91427]では灘区については「普通の街である」とは言い切っておらず,「普通の街という言葉が馴染む」とぼかした表現をしています。
もちろん,「普通」という言葉は,人それぞれの感性において,その意味合いが変わってきます。
"BE-KOBE"のタイトルが腑に落ちた小生の感覚としては,神戸市のような古い政令指定都市においての「普通の街」とは,既成市街化地域内にあって,都心業務地区や中心繁華街ではなく,また,長田区のような特定の地場産業に特化したような場所でもなく,おおよそ大正期から昭和中期までに市街地化した比較的古い住宅地であり,ところどころの商業核を持った街並みをイメージしています。住宅地であっても,ニュータウンのような新興住宅地や,或いは芦屋市や東灘区の阪急御影駅周辺地区のような高級住宅街は「普通の街」とは違うと感じます。
もちろん,灘区にも長峰山麓の篠原伯母野山町や篠原台のような高級住宅街があり,一方で浜手は神戸製鋼所をはじめとした工業地帯であり,それらの企業城下町かと感じるところもありますが,小生の持つ灘区全体のイメージとしては,東の副都心六甲道駅周辺や水道筋界隈などの商業核を持つ,どことなく庶民的な雰囲気がありながらも,静かで良好な住宅地といったものです。

以上,ペーロケさんの「普通の街ってどんな街でしょうか」というご質問への,[91427]を投稿した本人からの回答に変えさせていただきます。

・・・と言ったところで済ませればよいのですが,

しかし,一方では,ペーロケさんが[91473]にておっしゃりたかったことは,このような単純なご質問ではないと強く感じます。すなわち,長田区に劣らないくらいの個性的な灘区に対して「普通の街」とはどういう見解かとの,疑問を感じておられるとも解釈されますので,お話を続けます。

まず,事実誤認かと感じられること2点申し上げます
その1
私にとっては、灘区は長田区に劣らないくらいの個性的な街と思いますが。六甲山の地下水をうまく利用した「酒造の街」です。灘五郷の、六甲山を背景に蔵が並ぶ雰囲気は東灘区から灘区あたりしか見られない、独特な風景なのではと思われます。
これは灘区というよりは,東灘区の阪神電鉄線より南側の既成市街地のうち,御影から魚崎あたりまでの光景です。もちろん,酒造りで有名な灘五郷とは,西から西郷(灘区),御影郷,魚崎郷(以上,東灘区),西宮郷,今津郷(以上,西宮市)ですから,灘区には西郷(にしごう)と呼ばれる酒造地が大石南町,新在家南町にあります。しかし,ペーロケさんも東灘区に言及されている通り,東灘区に跨るイメージであり,小生の感覚では灘区を代表する風景ではなく,広い灘区のうち,都賀川河口近辺の西郷地区の狭い地域のものでしかありません。拙[91427]で「普通の街という言葉が馴染む」と言ったのは,灘区についてのイメージであり,他区のことをひっつけて言及するのは,ずれているように感じます。

その2
「普通の街」というのは、無個性な街なのでしょうか。言ってみれば、土地勘がない人に対しても一言で他の街との違いを表せない街。
[91427]では「普通の街」を「無個性な街」とは一言も言っていませんし,改めて読み返してもそのように理解される表現は見つかりません。
敢えて挙げれば,文末に西宮北口について,「何の魅力も感じられません」と書いているのが引っかかりますが,これも個人的な感想を述べただけのことです。実際には,西宮北口は大きな魅力を備えた街であるからこそ,常に関西の住宅地の人気投票でトップの座を争う位置にあるのですから。

むしろ,「無個性な街」などではなく,
神戸市の場合,区が一つ違えば街の性質もガラリと変わるのが感じられるほど,それぞれの区に特徴があり,今では合区から36年も経つ中央区でさえ,都心型商業地域を形成する旧生田区と,工業地帯とその背後地にあたる旧葺合区では明らかに雰囲気が違っています。更には,海に面する各区内に於いては,海沿いと山麓とでも違いがあります。
と,各区に個性があることを強調しています。
言ってもいないことを類推するのはご自由ですが,やはり,論点がずれているように感じます。

拙稿[91427]は,神戸には馴染みのない,川崎市ご在住のTakashiさんに対するレスの形での投稿になっていますが,落書き帳を閲覧される人々には,神戸に土地鑑のない方々も多いはずです。
そもそも,冒頭に表現した
地図だけを見れば,神戸市の都心の東に灘区があり,西に長田区がある。土地鑑がなければ,どちらも普通の市街地であるように感じられるかも知れません。確かに,灘区については「普通の街」という言葉が馴染みますが,一方で長田区は明らかに異なっています。
この一節は,文面通り,例えば2万5千分の1「神戸首部」や,各出版社の神戸市の地図の中で,都心区の中央区や兵庫区はそれらしく描かれているものの,灘区と長田区の市街地の表現は,結構似たようなものになっていることを前提に,しかし,実際には長田区のかなりの部分は「長田村」と呼ばれる一種独特の地域になっていることを,それ以降,シューズ業界についての工程を述べながらも,延々と説明を続けた往時の長田区の新長田駅界隈の街並みの様子との対比にあり,主題は灘区についてではなく,「『長田村』はケミカルシューズの街だ」にあり,その結果としてのシューズ業界の不況と人口減少について述べています。
全体文を無視し,その一節の一部分の表現のみに反応し,類推を交えてのご質問は,正直いただけません。
[91482] 2016年 9月 22日(木)20:23:04【1】ニジェガロージェッツ さん
横浜と神戸など,雑感
[91392] [91402] Takashi さん
拙稿[91386]に対してのご感想,特に横浜市との比較によって神戸市の状況をご解説いただき,大変興味深く読ませていただきました。
神戸市に長く暮らす身として,関東の港湾都市の横浜市とは,昔から「似た者同士」と言われ,行ったことがないにもかかわらず,何か親近感のある大都市と感じていました。

昭和59年の昔話になりますが,小生は当時,大学の建築学科で都市計画を専攻しており,卒業前のゼミ旅行が福岡市と長崎市の視察旅行だったのですが,他の都市も見たくなって,解散した後,長崎駅から寝台特急「さくら」に乗って,東京へ向かいました。そのとき初めて横浜市へも立ち寄り,関内の市役所も訪問して,広報課で横浜市のお話をいろいろとお聴きしました。「神戸からでしたら,横浜の元町も良いところですから是非見て帰ってください」と言われ,その後,元町や中華街などを散策したのち,石川町から根岸線に乗り,磯子区,港南区,戸塚区方面へまで行った記憶があります。
子供の頃より「神戸と似ている」と散々聞かされていただけに,実際に訪れてみると,神戸のような海と山に挟まれた狭い土地にぎっしりと詰まった街並みを予想していたのに反して,横浜のゆったりとした街並みにびっくりしました。それと同時に,どこへ行っても郊外型の住宅地が広々と続く様からは,「巨大なベッドタウン」との印象を持ちました。神奈川区や鶴見区の方面に足を延ばしていれば,もっと違った横浜の姿も見れたのかも知れず,残念でした。

Takashiさんの[91402]での横浜市各区の
A:区に常住している通勤者の内東京23区を通勤地としている人の割合(%)
を改めて見ると,その様がはっきりとデータで裏付けられました。
神戸と横浜が「似ていた」のは,横浜が巨大化する前の横浜でいられた時代,「ブルー・ライト・ヨコハマ」の60年代までのような気がします。

お住いの川崎市についてのご説明もございましたが,小生のような部外者にとって,川崎市の工場地帯のイメージは川崎区のそれにありました。
工場の跡地が再開発でマンションや商業施設になり特に工場数の減少が顕著な中原区や高津区ではそれが人口の増加につながっていることがうかがえます。
たまたま,先日のテレビ番組で,中原区の武蔵小杉界隈の特集があり目にしたのですが,昔,その名もズバリ「工業都市」という東急東横線の駅があったのを知りました。
過去に落書き帳でも話題になっていてもおかしくないので,工業都市駅についての書き込みを「工業都市 東急」「工業都市 東横」などで検索をしてしましたが,特に引っかかりませんでした。

[91234] Takashi さん
垂水区は大阪市から離れていますが、人口はそれほど減少していません。
垂水区内では,大規模な新規開発地がありました。その影響で人口減少に一時的に歯止めがかかった格好になったのではと推測します。場所は,垂水区の北部にある多聞町の未開発地域で,ここには平成8年まで広大な「舞子ゴルフ場」があり,その跡地を中心に,平成18年1月に舞多聞西1-8丁目,舞多聞東1-3丁目が起立し,第二神明道路北線の北側にある小束台と合わせて新しい街並みが誕生しています。この開発がなければ,或いは,開発の終了した今後の展開としては,垂水区の人口は,やはり減少の傾向が続くことになると想像します。
[91428] 2016年 9月 19日(月)01:07:27ニジェガロージェッツ さん
オフ会盛況なによりです
オフ会場からの書き込みから,盛況の様子が目に浮かび,嬉しい限りです。
とはいっても,小生6年もご無沙汰してしまっているので,当時とは雰囲気が随分変わったかな?

まだまだ怪しい夜更かしが続き,3次会,4次会,そして朝の温泉へと続くものと推察いたしますが,更なる盛会と,皆様の帰路のご無事をお祈り申し上げます。
すっかりオフ会への参加が遠くなってしまった,長田区,兵庫区,須磨区の3区だけで生きているニジェでした。
[91427] 2016年 9月 19日(月)00:43:08ニジェガロージェッツ さん
「長田村」
[91393] Takashi さん
神戸市の人口減少についての拙稿へのご感想をお聞かせ下さり,有難うございました。
レスにつきましては,まだ後日にさせていただき,先に長田区についてのお話しを済ませておきます。

[91234] Takashi さん
兵庫区と長田区は1995年から2000年にかけては震災に遭われた方が戻ってきた結果かどうかわかりませんが人口が増えていますがそれ以後は減少し続けています。特に長田区の場合1995年の人口に戻りそうなくらい減少しています。このあたりについては詳しい方の解説をお願いしたいところです。

神戸市のうち,長田区の人口減少についての要因は,神戸市全体の状況と長田区独自の問題の双方によるものではと考えます。神戸市の場合,区が一つ違えば街の性質もガラリと変わるのが感じられるほど,それぞれの区に特徴があり,今では合区から36年も経つ中央区でさえ,都心型商業地域を形成する旧生田区と,工業地帯とその背後地にあたる旧葺合区では明らかに雰囲気が違っています。更には,海に面する各区内に於いては,海沿いと山麓とでも違いがあります。

地図だけを見れば,神戸市の都心の東に灘区があり,西に長田区がある。土地鑑がなければ,どちらも普通の市街地であるように感じられるかも知れません。確かに,灘区については「普通の街」という言葉が馴染みますが,一方で長田区は明らかに異なっています。よく「下町」と表現されますが,確かに,地形的に高取山の山麓にあっても,街並みはやはり下町です。
そして,ここが地場産業ケミカルシューズの街であることが,他の区との全く違った性格を際立たせています。地理的には,JR新長田駅の南北,神楽町と若松町を中心に東西約2キロ,大雑把には山陽電鉄-神戸高速鉄道線より南側がその区域に当たります。面積では長田区全体の半分から3分の1程度になりますが,区内平地の密集市街地のかなりの部分が該当します。
「ケミカルシューズ」を直訳すると「化学靴」となるのでしょうが,ここでは靴甲の材料に塩化ビニール製の合成皮革を用いた靴のことを言います。長田区役所の,西を流れる新湊川対岸にわが国ゴム工業勃興の地と刻まれた碑が建っています。もともと戦前よりゴム履物やゴム長靴の生産が盛んな地域でした。
一方,神戸は「履き倒れ」の街と言われ,京都の「着倒れ」,大阪の「食い倒れ」,とともに有名でしたが,中でも,明治時代に元町商店街の神戸屋製靴所(東京新宿の「シューフィット・神戸屋」さんの沿革より)に始まる高級紳士靴は,アメリカ仕込みのもので,その後婦人靴へと広まり,神戸産の靴は「神戸靴」と呼ばれ,好評を博しました。

話を長田区に戻すと,戦後の区内では,安価で水に強い塩化ビニールを用いたケミカルシューズの生産が,従前のゴム長靴の生産に取って変わりました。昔のゴム長靴に由来するものか,靴底にはゴムを用いるのでそう呼ばれるのか,地元では今でも製靴業者を「長田のゴム屋」と呼んでいます。
ケミカルシューズについては,ご興味があれば,日本ケミカルシューズ工業組合のサイトに詳しく説明がされていますので,ご参照いただくとして,ケミカル婦人靴だけでなく,革製紳士靴,各種スポーツシューズを含めて,広く靴づくりが盛んであった長田区の往時の街並みの雰囲気を記述するのには割けられないので,靴の製造過程を小生の知っている範囲内で記述して置きます。

ざっくり述べると,反物素材からの靴甲の裁断,裁断面の処理や貼り合わせの加工,縫製作業,靴甲の釣り込みから靴底つける成型に分かれます。それらを行うのが靴メーカーですが,自社内だけでなく,広く一般家庭を含めた外注先で行います。
製造過程に応じて「裁断場」「加工所」「ミシン場」「成型場」と分業しますが,事業としてそれぞれ経営している作業所もあれば,一般の家庭に靴甲加工用の皮漉機,縁折機を置き,あるいは工業用ミシンを置いてミシン加工をする程度のところもあります。靴底の材料となるゴム板を製造する文字通りのゴム工場,靴甲になる反物素材を卸売りする材料業者,靴の木型や金型の製作所,裁断用の抜型を作る鉄工所,靴のアクセサリー業者などを加えて,これらが靴の生産に直接携わっています。
更には,関連業種として,糊屋,薬品卸売店,製靴機械をメンテナンスする機械販売業,皮漉機や縫製機器を販売修理する工業用ミシン店,糸店,出来上がった靴を入れる紙器業,段ボール製造業者等など,要するに,家庭内職を含めて,まるで街全体の一軒一軒が何らかの形で靴製造に関わっている現場,といった様相を呈していました。30年ぐらい前の話ですが,皮漉機1台で主婦が漉き加工の内職で月20~30万円の稼ぎになり,(個人差あり,「腕」にもよるそうです)そこまでいかなくても,丼茶碗と刷毛さえあれば,家で糊引きの内職ができました。

表題のタイトル,鉤括弧付きで「長田村」としているのは,ここは地理の掲示板ですから,地名,集落としての長田村,すなわち,鎌倉期に既に村落として存在し,明治期に八部郡林田村,のち神戸市林田区の大字として地図に記載された長田村のことではなく,狭いケミカルシューズ業界のムラ社会をやや自嘲気味に「長田村」と呼ぶ地場のことを言っています。
古来の正しい村落名でいえば長田村の範囲からは南ないし南西へ外れ,西尻池村,野田村(共に,はじめ八部郡林田村,のち神戸市林田区,現在は長田区),駒ヶ林村(八部郡林田村,のち神戸市林田区,現在はJR線以南で長田区,JR線以北は須磨区),池田村(八部郡須磨村,のち神戸市林田区,現在は長田区),西代村(八部郡須磨村,のち神戸市須磨区,現在は長田区)が該当し,東では東尻池村(八部郡林田村,のち神戸市林田区,現在は長田区と兵庫区で折半)から,西では板宿村(八部郡須磨村,のち神戸市須磨区,現在に至る)の一部にまで及んでいます。
この区域の市街地の街路は約100m四方の碁盤の目状になっており,その街路を,加工場から各家庭の内職へ,ミシン場へ,靴メーカーへと,ひっきりなしに行き交うワゴン車の荷台には,靴甲や靴底が満載されている,といった雰囲気でした。また,街路から一歩路地に入れば,両側の家々から工業用ミシンの「ザーザー」という運転音が聞こえてくる,通称「地獄谷」と呼ばれる,独特の世界でした。
直接製靴産業に関わっていない,飲食業や小売業など,デパートや商店街の景気も,行き交う住民の多くが「長田村」の一員ですから,非常に活気がありました。国鉄新長田駅は昭和29年の開業ですが,昭和40年代には,神戸市の「西の副都心」と呼ばれるようになっていました。

長田区最盛期の人口214,717人を記録したのは昭和42年7月の推計人口ですが,当時は1ドル=360円の時代,業界では輸出も盛んでした。昭和46年のドルショック以降は輸出こそ低迷しますが,まだまだ内需に支えられており,昭和60年ごろまでは革製紳士靴やスポーツシューズを含めて,ケミカルシューズ業界は繁栄していました。
しかし,昭和60年以降は,海外から安価な靴の流入があり,生産拠点もはじめは韓国へ,次第に中国や東南アジア方面へ移ってしまい,「長田村」では不景気の風が吹き,活気が失われていきました。そのような流れの中で,平成7年の大震災が発生しました。
拙稿[87158] では
震災では長田区全体が焼け野原になったわけでも、全滅したわけでもありません。区の北部の丸山地区や中部の高取山周辺、東部の名倉、長田天神町界隈などは、震災が原因かと推測される空き地こそちらほら目にしますが、比較的震災前の街並みが残っているところです。
と書いていますが,この「長田村」とは,被災区域がほぼ完全に重なってしまいました。「長田大火」と呼ばれる区域もこの中に含まれ,ここでは全滅の様相がありました。
震災前より,業界では「見捨てられた産業」とか,「神戸市は『長田村』を潰したがっている」などと,噂されていましたが(実際にそうだとはわかりません),震災後の新長田地区の再開発では,シューズ業界の意嚮は無視した形で計画されてしまい,「長田村」ではある程度の復興は果たしましたが,震災を機に靴生産の流れは中国大陸へ一気にシフトしてしまい,後継者の不在と高齢化に伴い,メーカーだけではなく,加工所やミシン場などでは廃業が続きました。

震災のあった1995年から2000年にかけての長田区の人口増加は,Takashiさん[91234]でのご賢察の通り,市街地の復興によるものです。但し,新長田駅周辺での再開発ビルの完成とその入居による人口増については,本格的には2000年以降のことで,2000年10月の国勢調査時点では,まだまだ大規模な空き地もありました。一方,神戸市の進める再開発事業区域外では,整地の早かった町丁では,すでに市街地の再生は始まっていました。なお,ここでいう整地とは,旧来の幅の狭い路地でさえ,消防車が十分入れるぐらいの幅員を取り,大火の際にも隣接区画に延焼しないように土地区画を整理することであり,換地処分となります。また,防災のための小さな公園を各町丁に設けたりもするので,住民にとっては場所の移動を伴うだけでなく,従前の土地面積の確保が望めなくなることは避けられず,当然,住民同士の異論百出となり,そういったところでは整地が遅れ,復興の足かせとなりました。
換地が完了した現在でさえも,空き地のままとなっているところも多く,特に被災した町丁では元々がケミカルシューズなど靴産業に携わっていた所であり,旧住民もまた何らかの形でそれに従事していたことを併せると,極論すれば,シューズ業界に景気がない現在では,ここに住む理由もないと言ったところかと感じています。

1995年と2000年の国勢調査間に於ける推計人口では,住民票の移動では実態が掴めないため[12405],1998年10月に被災地人口実態調査が実施されました。それによる同月人口108,553人が,復興による区人口のピークに,統計上ではなっています。すなわち,少なくとも1998年10月以降は長田区の人口は減少傾向にあります。あまりにも早い人口減少といえるのですが,これも社会動態的には,長田区の地場産業である製靴業界の不況,および神戸市全体の景気低迷による要因が大きく,自然動態では,神戸市平均以上の高齢化によるものと推察します。
(2010年国勢調査による65歳以上人口および割合,神戸市354,218 / 1,544,200 = 22.93%,長田区 29,901 / 101,624 = 29.42%)

今では,「駅を降りればゴム臭い」ということもなくなりました。良くも悪くも,遠い昔話です。「地獄谷」など,どこを探してもありません。
しかしながら,今でも長田区に対しては従前のイメージが付き纏っているのも事実のようで,「普通の街」とは認識されていないように感じます。
昔から長田区で育った小生としては,住宅地の人気投票でトップの西宮北口のような街には何の魅力も感じられません。この下町の雰囲気と,なんでも揃う街,JRに乗れば7分で三宮へ,徒歩1時間圏内でハイキング(高取山,須磨アルプスなど)もでき,海水浴場(須磨海岸)もあり,都心の元町や神戸港へさえ行ける距離にある,この便利な街からは離れられそうにありません。

---追記---
先のニジェ[91386]には,訂正すべき字句がありました.
港湾部に隣接して造船,鉄鋼,ゴム等々,重工長大型産業の工場群がひしめき合い,
皆様お気付きのことと推察いたしますが,「重厚長大型産業」の間違いです。謹んで訂正いたします。


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