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[91508] 2016年 9月 26日(月)03:21:26【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸市についての書き込みを続けます
I. 長田区について

[91496] ペーロケ さん
その頃はちょうど新長田駅前の再開発ビルが建設中で、周囲も焼野原から復興に向けて加速していた頃と記憶しています。すべて元通りにはならないけど、街が発展する、いい方向へ向けて進んでいる、と、当時の私の目にはそう感じていました。しかし、見た目には綺麗な建物が建ち、街が発展しているように見える一方で、ケミカルシューズ業界がそれほどまでに元気がない状態のままとはショックです。


当時,でるでるさん,両毛人さんと共に,新長田駅前から大丸新長田店(平成25年1月閉店,同年9月,東急プラザ新長田開店)に入り,新長田一番街から大正筋商店街へ向った記憶があります。いずれも,当時神戸市が進めていた新長田駅南地区震災復興再開発事業のエリア内です。皆さんと一緒に歩いた平成15年9月当時では,新長田一番街では再開発着手前(平成19年頃完成),大正筋では再開発ビルが完成間近(平成15年11月頃完成)で,まだ復興途上の夢のあった時代でした。
神戸市の計画では,新長田駅から大正筋の南端までの7~800メートルほどの空間に,10棟以上の再開発ビルをつなげ,地下,地上,2階の三層構造での商店街の建設で,その通りのものが完成しました。しかし,そもそも人口の減少している長田区において,商店街においても人通りはまばらで,地上1階のメインストリートでさえ,各商店の経営難からシャッター街になろうとしているさまで,特に2階部分には人通りはなく,当初より分譲は埋まらず,今では非常に厳しい状況になっています。市では対策として,売れなかった店舗を格安の家賃での賃貸に切り替えたため,不動産価格の暴落が起こり,既に分譲で購入した商店にとっては,本来ならば最終手段として店舗を売却することも出来たものが,それも無理となって困窮している状況と言われています。これを,学者は「復興災害」と呼んでいます。

なお,ペーロケさんに新長田でお会いしたあの日に,皆さんには「長田村」と揶揄される,長田区のディープな部分をご案内していません。
この新長田駅南再開発事業区域からは,ケミカルシューズ業界は完全にシャットアウトされました。事業区域内の若松町3,4丁目一帯は,昔からケミカルシューズの卸売問屋が集積していた地域で,「長田村」[91427]のコアとなる部分を形成していましたが,震災では一様に焼け野原となり,再開発を機に神戸市はこれを潰した格好です。これも長田のシューズ業界凋落の大きな原因となったと言われています。

II. 灘区について

東灘区と灘区の違いを一言で表す、となるとなかなか難しいです
灘区と東灘区の違いを一言で表すと,インナーシティ(灘区)と,そうでない街(東灘区)です。
灘区の区域は,昭和4年に神戸市に編入されたのですが,その翌年の昭和5年国勢調査では区人口85,909人だったのが,神戸市が人口100万人を突破した昭和14年(後述します)には16万人になっています。つまり,街並みのベースとしては,戦前期に市街地化が完了した地域であり,数次にわたる神戸大空襲による市街の破壊を経た直後の,昭和20年11月1日の人口調査でさえも70,636人の人口が記録され,昭和45年国勢調査の170,730人が最盛期人口となりました。
その後は震災に至るまで人口は減り続け,その推移は,程度の差こそあれ,インナーシティ問題がより深刻であった長田区のそれ(拙稿[7736])に似ています。

一方,東灘区においては,昭和50年代に人口増加の停滞を経験したものの,大幅な減少はありません。平成になってからは六甲アイランド完成による人口増加がありますが,それを差し引いても,震災による減少以外では微増傾向が続いています。

このように,人口推移を見れば,両区の性質が全く異なっていることが窺えます。これは数値化されたその街の履歴ですから,その違いは街並みに表れます。灘区が東灘区よりも古い市街地であることから,今でも庶民的な雰囲気の残る街並みが感じられます。
また,神戸市全体の発展から見た場合,灘区は「中央5区」,すなわち,戦前の神戸市域を形成した,現在の須磨区,長田区,兵庫区,中央区,灘区の一つであり,神戸市街と一体となっての発展した経緯から,昔の葺合区(現在の中央区東部)の延長にある街の印象が濃いと感じます。実際,震災前は葺合区脇浜海岸通に川崎製鉄阪神製造所と神戸製鋼所脇浜工場が,その東隣の灘区日出町に神戸製鋼所岩屋工場と続き,西郷の酒造地を挟んで,東には神戸製鋼所神戸製鉄所がある,鉄鋼の街の印象があります。

東灘区は戦前期には神戸市外で,酒造業も栄えた裕福な土地柄で,特に住吉村は関西財界のお歴々が居を構える「お金持ちの村」として有名でした。神戸市編入は昭和25年のことですが,街並みのベースには戦前の裕福な時代ものがあり,今でも高級住宅街として認識されています。

ですから,小生には,ペーロケさんのように灘区と東灘区を同じようなイメージにはどうしても持てないでいます。確かに,海岸沿いには工業地帯で,共に酒造地がある。住宅地には南から阪神,JR,阪急が並行して走り,阪急線の北側には灘区に神戸大学を筆頭に学生街が,東灘区に甲南大学を筆頭に,などと,表面的には似ているのかもしれません。

震災後は,灘区は復興の過程でインナーシティ問題を克服しつつあると推測され,人口は復興後も増え続けており,今では昭和57年頃の人口にまで戻っています。最盛期の17万人まではさすがに無理でしょうが,場合によっては14万人を超えるところまで回復すると思料します。
以下,両区の人口データを提示します。比較の参考までに長田区の人口も添えておきます。
---------------------------------------
調査日灘区人口東灘区人口うち六甲Is.備考長田区人口
1930.10.185,90960,102昭和5年国勢調査181,015(林田区)
1935.10.1128,18670,240昭和10年国勢調査216,213(林田区)
1940.10.1155,49887,191昭和15年国勢調査229,356(林田区)
1945.11.170,63655,349人口調査112,992
1950.10.1114,40183,937昭和25年国勢調査167,109
1955.10.1138,214108,464昭和30年国勢調査189,806
1960.10.1155,694134,342昭和35年国勢調査202,266
1965.10.1168,973155,898昭和40年国勢調査214,325
1970.10.1170,730171,109昭和45年国勢調査210,066
1975.10.1157,892183,836昭和50年国勢調査185,971
1980.10.1142,312183,284昭和55年国勢調査163,949
1985.10.1133,746184,738昭和60年国勢調査148,590
1990.10.1129,578190,3545,136平成2年国勢調査136,884
1995.1.1124,538191,716震災95.1.17直前の推計人口129,978
1995.10.197,470157,59914,200平成7年国勢調査96,807
2000.10.1120,505191,30414,833平成12年国勢調査105,467
2005.10.1128,050206,03717,711平成17年国勢調査103,791
2010.10.1133,451210,40818,837平成22年国勢調査101,624
2015.10.1136,130213,727平成27年国勢調査速報値97,952
2016.9.1136,627214,190推計人口97,271
【註】東灘区人口は,1945年までのものは武庫郡御影町,住吉村,魚崎町,本山村,本庄村の,1950年のものは東灘区と武庫郡本山村,本庄村のそれぞれ合計値。六甲アイランド人口は町丁別人口より算出できるものは提示した。埋め立て途上の1985年の人口は不明だが世帯数1の記述あり。
また,灘区と東灘区(および兵庫区)との境界は,昭和47年6月1日の「六甲山移管」により,山域で灘区が拡大する形で変更があった。
戦前の長田区人口は林田区のもので代用した。ただし林田区と長田区ではその区域が大幅に異なる[75507]
---------------------------------------

ところで,余談ですが,震災後に新都心「HAT神戸」として生まれ変わった,製鉄所の跡地である中央区脇浜海岸通から灘区日出町にかけて,脇浜海岸通は町名をそのままに1,2丁目に分割したものの,日出町は摩耶海岸通と改称したうえで1,2丁目に分割されています。
なんで町名変更したんでしょう?「日出町」のほうが画数も圧倒的に少なく,悪い名前でもなかったろうに。

追記1:
「神戸市が人口100万人を突破したのは昭和14年?」

国勢調査では,神戸市人口が100万人を超えたのは,昭和35年調査で初めて達成したことですが,神戸市では,それを昭和14年であると言っています。(近代神戸略年表)
これは,神戸市の推計人口によるもので,昭和14年10月1日のものを下表に提示しておきます。
市区昭和14年10月推計人口昭和15年10月国調人口面積km2
神戸市【8区】1,006,100967,23483.06
林田区242,200229,35610.60
灘区160,000155,49819.48
兵庫区152,100149,3634.00
葺合区129,400123,8467.56
須磨区109,600113,21224.74
神戸区92,70079,8507.68
湊東区67,80062,3822.04
湊区52,80053,7276.96

現在の「中央5区」に相当する,狭い旧市域のみでの100万人です。しかも面積の4割ほどは山域です。
昭和15年国調人口では,100万人を割りましたが,その後,昭和16年4月に明石郡垂水町(昭和15年国調人口23,140人,面積31.99km2)を須磨区に編入し,同年の10月推計の神戸市人口は1,003,200人(面積115.05km2)となり,再び100万人を突破しました。しかし,昭和17,18年の推計人口は公表されず,昭和19年2月22日人口調査では,918,032人に減少しています[75507]

次に再び人口100万人の回復が記録されたのは,昭和31年10月1日の推計人口になります。昭和30年国調人口と合わせて,次に提示しておきます。
市区昭和30年10月国調人口昭和31年10月推計人口面積km2
神戸市【8区】981,3181,003,807492.42
兵庫区213,427217,985223.31
長田区189,806192,5088.60
灘区138,214141,00518.43
東灘区108,464112,15028.21
垂水区95,22597,341170.80
生田区81,54083,1098.20
須磨区80,08382,67025.38
葺合区74,55977,0399.49
【註】神戸市および兵庫区の昭和30年国調人口,面積には,昭和30年10月15日編入の有馬郡長尾村(同人口2,013人,面積13.07km2)を含む。現市域と比べると,北区淡河町は美嚢郡淡河村,上淡河村で市外である。


追記2:
ペーロケさんへ

お忙しい中,拙稿へのレス恐縮です。拙[91491]では,ペーロケさんのご質問の真意がわからず,特に後半ではきつい表現になってしまいました。
小生へのレスなど全く急ぎませんから,どうぞ,お時間のある折に,お考えが纏まってから,ご寄稿いただければ幸いでございます。
拙稿[91386][91427]にしても,投稿まで2週間以上の時間をかけて書いています。

記事訂正【1】昭和30年,昭和31年の神戸市各区人口表,および昭和16年以降の説明文を追加記載
[91495] 2016年 9月 24日(土)00:14:02ニジェガロージェッツ さん
楽しみなミニオフ会
[91429] JOUTOU さん
JOUTOUさん,オフ会を長年もご無沙汰を重ねてしまい,申し訳ございません。お写真を拝見しましたが,変わらずお元気そうで何よりです。小生はここ数年でかなり老けたような気がします。

大都市中心のミニオフ会も開催されると思うので、何れ二ジェさんとも再会できればうれしいです。
これは楽しみです。
先々月に横浜市で開催された番外編と同じシリーズでのオフ会の開催案があるのですか。
街歩きは大好きですから,是非参加させていただきます。
ただし,神戸から泊り掛けで出られそうにない生活を送っておりますので,大阪か和歌山,京都か奈良あたりでの開催があれば,万難を排して駆けつけます。

[91492] 白桃 さん
落書き帳史上、最多記録は何年何月何日か、お判りになったら教えてください。
2007年4月1日の174件では。記事番号[57501][57675]まで。57604は缺番
[91491] 2016年 9月 22日(木)23:56:40ニジェガロージェッツ さん
普通の街
[91473] ペーロケ さん
「普通の街」ってどんな街でしょうか。


これはね,ポプラ社の「BE-KOBE 震災から20年,できたこと,できなかったこと」という書籍の中の一章に,灘区を舞台に楽しい企画を次々と仕掛けておられる"naddist"の物語が書かれており,そのタイトル
「普通の町」灘区を「冒険」するために
が言い得て妙に感じられ,そのことが頭に残っていたので,そのように書いたのですが,ただ,原題の「町」を「街」としたのは,ここは地理の掲示板ですから,「町」だと「市町村」や「町丁目」のイメージが強く,市街地の意味での「街」に置き換えました。

また,拙稿[91427]では灘区については「普通の街である」とは言い切っておらず,「普通の街という言葉が馴染む」とぼかした表現をしています。
もちろん,「普通」という言葉は,人それぞれの感性において,その意味合いが変わってきます。
"BE-KOBE"のタイトルが腑に落ちた小生の感覚としては,神戸市のような古い政令指定都市においての「普通の街」とは,既成市街化地域内にあって,都心業務地区や中心繁華街ではなく,また,長田区のような特定の地場産業に特化したような場所でもなく,おおよそ大正期から昭和中期までに市街地化した比較的古い住宅地であり,ところどころの商業核を持った街並みをイメージしています。住宅地であっても,ニュータウンのような新興住宅地や,或いは芦屋市や東灘区の阪急御影駅周辺地区のような高級住宅街は「普通の街」とは違うと感じます。
もちろん,灘区にも長峰山麓の篠原伯母野山町や篠原台のような高級住宅街があり,一方で浜手は神戸製鋼所をはじめとした工業地帯であり,それらの企業城下町かと感じるところもありますが,小生の持つ灘区全体のイメージとしては,東の副都心六甲道駅周辺や水道筋界隈などの商業核を持つ,どことなく庶民的な雰囲気がありながらも,静かで良好な住宅地といったものです。

以上,ペーロケさんの「普通の街ってどんな街でしょうか」というご質問への,[91427]を投稿した本人からの回答に変えさせていただきます。

・・・と言ったところで済ませればよいのですが,

しかし,一方では,ペーロケさんが[91473]にておっしゃりたかったことは,このような単純なご質問ではないと強く感じます。すなわち,長田区に劣らないくらいの個性的な灘区に対して「普通の街」とはどういう見解かとの,疑問を感じておられるとも解釈されますので,お話を続けます。

まず,事実誤認かと感じられること2点申し上げます
その1
私にとっては、灘区は長田区に劣らないくらいの個性的な街と思いますが。六甲山の地下水をうまく利用した「酒造の街」です。灘五郷の、六甲山を背景に蔵が並ぶ雰囲気は東灘区から灘区あたりしか見られない、独特な風景なのではと思われます。
これは灘区というよりは,東灘区の阪神電鉄線より南側の既成市街地のうち,御影から魚崎あたりまでの光景です。もちろん,酒造りで有名な灘五郷とは,西から西郷(灘区),御影郷,魚崎郷(以上,東灘区),西宮郷,今津郷(以上,西宮市)ですから,灘区には西郷(にしごう)と呼ばれる酒造地が大石南町,新在家南町にあります。しかし,ペーロケさんも東灘区に言及されている通り,東灘区に跨るイメージであり,小生の感覚では灘区を代表する風景ではなく,広い灘区のうち,都賀川河口近辺の西郷地区の狭い地域のものでしかありません。拙[91427]で「普通の街という言葉が馴染む」と言ったのは,灘区についてのイメージであり,他区のことをひっつけて言及するのは,ずれているように感じます。

その2
「普通の街」というのは、無個性な街なのでしょうか。言ってみれば、土地勘がない人に対しても一言で他の街との違いを表せない街。
[91427]では「普通の街」を「無個性な街」とは一言も言っていませんし,改めて読み返してもそのように理解される表現は見つかりません。
敢えて挙げれば,文末に西宮北口について,「何の魅力も感じられません」と書いているのが引っかかりますが,これも個人的な感想を述べただけのことです。実際には,西宮北口は大きな魅力を備えた街であるからこそ,常に関西の住宅地の人気投票でトップの座を争う位置にあるのですから。

むしろ,「無個性な街」などではなく,
神戸市の場合,区が一つ違えば街の性質もガラリと変わるのが感じられるほど,それぞれの区に特徴があり,今では合区から36年も経つ中央区でさえ,都心型商業地域を形成する旧生田区と,工業地帯とその背後地にあたる旧葺合区では明らかに雰囲気が違っています。更には,海に面する各区内に於いては,海沿いと山麓とでも違いがあります。
と,各区に個性があることを強調しています。
言ってもいないことを類推するのはご自由ですが,やはり,論点がずれているように感じます。

拙稿[91427]は,神戸には馴染みのない,川崎市ご在住のTakashiさんに対するレスの形での投稿になっていますが,落書き帳を閲覧される人々には,神戸に土地鑑のない方々も多いはずです。
そもそも,冒頭に表現した
地図だけを見れば,神戸市の都心の東に灘区があり,西に長田区がある。土地鑑がなければ,どちらも普通の市街地であるように感じられるかも知れません。確かに,灘区については「普通の街」という言葉が馴染みますが,一方で長田区は明らかに異なっています。
この一節は,文面通り,例えば2万5千分の1「神戸首部」や,各出版社の神戸市の地図の中で,都心区の中央区や兵庫区はそれらしく描かれているものの,灘区と長田区の市街地の表現は,結構似たようなものになっていることを前提に,しかし,実際には長田区のかなりの部分は「長田村」と呼ばれる一種独特の地域になっていることを,それ以降,シューズ業界についての工程を述べながらも,延々と説明を続けた往時の長田区の新長田駅界隈の街並みの様子との対比にあり,主題は灘区についてではなく,「『長田村』はケミカルシューズの街だ」にあり,その結果としてのシューズ業界の不況と人口減少について述べています。
全体文を無視し,その一節の一部分の表現のみに反応し,類推を交えてのご質問は,正直いただけません。
[91482] 2016年 9月 22日(木)20:23:04【1】ニジェガロージェッツ さん
横浜と神戸など,雑感
[91392] [91402] Takashi さん
拙稿[91386]に対してのご感想,特に横浜市との比較によって神戸市の状況をご解説いただき,大変興味深く読ませていただきました。
神戸市に長く暮らす身として,関東の港湾都市の横浜市とは,昔から「似た者同士」と言われ,行ったことがないにもかかわらず,何か親近感のある大都市と感じていました。

昭和59年の昔話になりますが,小生は当時,大学の建築学科で都市計画を専攻しており,卒業前のゼミ旅行が福岡市と長崎市の視察旅行だったのですが,他の都市も見たくなって,解散した後,長崎駅から寝台特急「さくら」に乗って,東京へ向かいました。そのとき初めて横浜市へも立ち寄り,関内の市役所も訪問して,広報課で横浜市のお話をいろいろとお聴きしました。「神戸からでしたら,横浜の元町も良いところですから是非見て帰ってください」と言われ,その後,元町や中華街などを散策したのち,石川町から根岸線に乗り,磯子区,港南区,戸塚区方面へまで行った記憶があります。
子供の頃より「神戸と似ている」と散々聞かされていただけに,実際に訪れてみると,神戸のような海と山に挟まれた狭い土地にぎっしりと詰まった街並みを予想していたのに反して,横浜のゆったりとした街並みにびっくりしました。それと同時に,どこへ行っても郊外型の住宅地が広々と続く様からは,「巨大なベッドタウン」との印象を持ちました。神奈川区や鶴見区の方面に足を延ばしていれば,もっと違った横浜の姿も見れたのかも知れず,残念でした。

Takashiさんの[91402]での横浜市各区の
A:区に常住している通勤者の内東京23区を通勤地としている人の割合(%)
を改めて見ると,その様がはっきりとデータで裏付けられました。
神戸と横浜が「似ていた」のは,横浜が巨大化する前の横浜でいられた時代,「ブルー・ライト・ヨコハマ」の60年代までのような気がします。

お住いの川崎市についてのご説明もございましたが,小生のような部外者にとって,川崎市の工場地帯のイメージは川崎区のそれにありました。
工場の跡地が再開発でマンションや商業施設になり特に工場数の減少が顕著な中原区や高津区ではそれが人口の増加につながっていることがうかがえます。
たまたま,先日のテレビ番組で,中原区の武蔵小杉界隈の特集があり目にしたのですが,昔,その名もズバリ「工業都市」という東急東横線の駅があったのを知りました。
過去に落書き帳でも話題になっていてもおかしくないので,工業都市駅についての書き込みを「工業都市 東急」「工業都市 東横」などで検索をしてしましたが,特に引っかかりませんでした。

[91234] Takashi さん
垂水区は大阪市から離れていますが、人口はそれほど減少していません。
垂水区内では,大規模な新規開発地がありました。その影響で人口減少に一時的に歯止めがかかった格好になったのではと推測します。場所は,垂水区の北部にある多聞町の未開発地域で,ここには平成8年まで広大な「舞子ゴルフ場」があり,その跡地を中心に,平成18年1月に舞多聞西1-8丁目,舞多聞東1-3丁目が起立し,第二神明道路北線の北側にある小束台と合わせて新しい街並みが誕生しています。この開発がなければ,或いは,開発の終了した今後の展開としては,垂水区の人口は,やはり減少の傾向が続くことになると想像します。
[91428] 2016年 9月 19日(月)01:07:27ニジェガロージェッツ さん
オフ会盛況なによりです
オフ会場からの書き込みから,盛況の様子が目に浮かび,嬉しい限りです。
とはいっても,小生6年もご無沙汰してしまっているので,当時とは雰囲気が随分変わったかな?

まだまだ怪しい夜更かしが続き,3次会,4次会,そして朝の温泉へと続くものと推察いたしますが,更なる盛会と,皆様の帰路のご無事をお祈り申し上げます。
すっかりオフ会への参加が遠くなってしまった,長田区,兵庫区,須磨区の3区だけで生きているニジェでした。
[91427] 2016年 9月 19日(月)00:43:08ニジェガロージェッツ さん
「長田村」
[91393] Takashi さん
神戸市の人口減少についての拙稿へのご感想をお聞かせ下さり,有難うございました。
レスにつきましては,まだ後日にさせていただき,先に長田区についてのお話しを済ませておきます。

[91234] Takashi さん
兵庫区と長田区は1995年から2000年にかけては震災に遭われた方が戻ってきた結果かどうかわかりませんが人口が増えていますがそれ以後は減少し続けています。特に長田区の場合1995年の人口に戻りそうなくらい減少しています。このあたりについては詳しい方の解説をお願いしたいところです。

神戸市のうち,長田区の人口減少についての要因は,神戸市全体の状況と長田区独自の問題の双方によるものではと考えます。神戸市の場合,区が一つ違えば街の性質もガラリと変わるのが感じられるほど,それぞれの区に特徴があり,今では合区から36年も経つ中央区でさえ,都心型商業地域を形成する旧生田区と,工業地帯とその背後地にあたる旧葺合区では明らかに雰囲気が違っています。更には,海に面する各区内に於いては,海沿いと山麓とでも違いがあります。

地図だけを見れば,神戸市の都心の東に灘区があり,西に長田区がある。土地鑑がなければ,どちらも普通の市街地であるように感じられるかも知れません。確かに,灘区については「普通の街」という言葉が馴染みますが,一方で長田区は明らかに異なっています。よく「下町」と表現されますが,確かに,地形的に高取山の山麓にあっても,街並みはやはり下町です。
そして,ここが地場産業ケミカルシューズの街であることが,他の区との全く違った性格を際立たせています。地理的には,JR新長田駅の南北,神楽町と若松町を中心に東西約2キロ,大雑把には山陽電鉄-神戸高速鉄道線より南側がその区域に当たります。面積では長田区全体の半分から3分の1程度になりますが,区内平地の密集市街地のかなりの部分が該当します。
「ケミカルシューズ」を直訳すると「化学靴」となるのでしょうが,ここでは靴甲の材料に塩化ビニール製の合成皮革を用いた靴のことを言います。長田区役所の,西を流れる新湊川対岸にわが国ゴム工業勃興の地と刻まれた碑が建っています。もともと戦前よりゴム履物やゴム長靴の生産が盛んな地域でした。
一方,神戸は「履き倒れ」の街と言われ,京都の「着倒れ」,大阪の「食い倒れ」,とともに有名でしたが,中でも,明治時代に元町商店街の神戸屋製靴所(東京新宿の「シューフィット・神戸屋」さんの沿革より)に始まる高級紳士靴は,アメリカ仕込みのもので,その後婦人靴へと広まり,神戸産の靴は「神戸靴」と呼ばれ,好評を博しました。

話を長田区に戻すと,戦後の区内では,安価で水に強い塩化ビニールを用いたケミカルシューズの生産が,従前のゴム長靴の生産に取って変わりました。昔のゴム長靴に由来するものか,靴底にはゴムを用いるのでそう呼ばれるのか,地元では今でも製靴業者を「長田のゴム屋」と呼んでいます。
ケミカルシューズについては,ご興味があれば,日本ケミカルシューズ工業組合のサイトに詳しく説明がされていますので,ご参照いただくとして,ケミカル婦人靴だけでなく,革製紳士靴,各種スポーツシューズを含めて,広く靴づくりが盛んであった長田区の往時の街並みの雰囲気を記述するのには割けられないので,靴の製造過程を小生の知っている範囲内で記述して置きます。

ざっくり述べると,反物素材からの靴甲の裁断,裁断面の処理や貼り合わせの加工,縫製作業,靴甲の釣り込みから靴底つける成型に分かれます。それらを行うのが靴メーカーですが,自社内だけでなく,広く一般家庭を含めた外注先で行います。
製造過程に応じて「裁断場」「加工所」「ミシン場」「成型場」と分業しますが,事業としてそれぞれ経営している作業所もあれば,一般の家庭に靴甲加工用の皮漉機,縁折機を置き,あるいは工業用ミシンを置いてミシン加工をする程度のところもあります。靴底の材料となるゴム板を製造する文字通りのゴム工場,靴甲になる反物素材を卸売りする材料業者,靴の木型や金型の製作所,裁断用の抜型を作る鉄工所,靴のアクセサリー業者などを加えて,これらが靴の生産に直接携わっています。
更には,関連業種として,糊屋,薬品卸売店,製靴機械をメンテナンスする機械販売業,皮漉機や縫製機器を販売修理する工業用ミシン店,糸店,出来上がった靴を入れる紙器業,段ボール製造業者等など,要するに,家庭内職を含めて,まるで街全体の一軒一軒が何らかの形で靴製造に関わっている現場,といった様相を呈していました。30年ぐらい前の話ですが,皮漉機1台で主婦が漉き加工の内職で月20~30万円の稼ぎになり,(個人差あり,「腕」にもよるそうです)そこまでいかなくても,丼茶碗と刷毛さえあれば,家で糊引きの内職ができました。

表題のタイトル,鉤括弧付きで「長田村」としているのは,ここは地理の掲示板ですから,地名,集落としての長田村,すなわち,鎌倉期に既に村落として存在し,明治期に八部郡林田村,のち神戸市林田区の大字として地図に記載された長田村のことではなく,狭いケミカルシューズ業界のムラ社会をやや自嘲気味に「長田村」と呼ぶ地場のことを言っています。
古来の正しい村落名でいえば長田村の範囲からは南ないし南西へ外れ,西尻池村,野田村(共に,はじめ八部郡林田村,のち神戸市林田区,現在は長田区),駒ヶ林村(八部郡林田村,のち神戸市林田区,現在はJR線以南で長田区,JR線以北は須磨区),池田村(八部郡須磨村,のち神戸市林田区,現在は長田区),西代村(八部郡須磨村,のち神戸市須磨区,現在は長田区)が該当し,東では東尻池村(八部郡林田村,のち神戸市林田区,現在は長田区と兵庫区で折半)から,西では板宿村(八部郡須磨村,のち神戸市須磨区,現在に至る)の一部にまで及んでいます。
この区域の市街地の街路は約100m四方の碁盤の目状になっており,その街路を,加工場から各家庭の内職へ,ミシン場へ,靴メーカーへと,ひっきりなしに行き交うワゴン車の荷台には,靴甲や靴底が満載されている,といった雰囲気でした。また,街路から一歩路地に入れば,両側の家々から工業用ミシンの「ザーザー」という運転音が聞こえてくる,通称「地獄谷」と呼ばれる,独特の世界でした。
直接製靴産業に関わっていない,飲食業や小売業など,デパートや商店街の景気も,行き交う住民の多くが「長田村」の一員ですから,非常に活気がありました。国鉄新長田駅は昭和29年の開業ですが,昭和40年代には,神戸市の「西の副都心」と呼ばれるようになっていました。

長田区最盛期の人口214,717人を記録したのは昭和42年7月の推計人口ですが,当時は1ドル=360円の時代,業界では輸出も盛んでした。昭和46年のドルショック以降は輸出こそ低迷しますが,まだまだ内需に支えられており,昭和60年ごろまでは革製紳士靴やスポーツシューズを含めて,ケミカルシューズ業界は繁栄していました。
しかし,昭和60年以降は,海外から安価な靴の流入があり,生産拠点もはじめは韓国へ,次第に中国や東南アジア方面へ移ってしまい,「長田村」では不景気の風が吹き,活気が失われていきました。そのような流れの中で,平成7年の大震災が発生しました。
拙稿[87158] では
震災では長田区全体が焼け野原になったわけでも、全滅したわけでもありません。区の北部の丸山地区や中部の高取山周辺、東部の名倉、長田天神町界隈などは、震災が原因かと推測される空き地こそちらほら目にしますが、比較的震災前の街並みが残っているところです。
と書いていますが,この「長田村」とは,被災区域がほぼ完全に重なってしまいました。「長田大火」と呼ばれる区域もこの中に含まれ,ここでは全滅の様相がありました。
震災前より,業界では「見捨てられた産業」とか,「神戸市は『長田村』を潰したがっている」などと,噂されていましたが(実際にそうだとはわかりません),震災後の新長田地区の再開発では,シューズ業界の意嚮は無視した形で計画されてしまい,「長田村」ではある程度の復興は果たしましたが,震災を機に靴生産の流れは中国大陸へ一気にシフトしてしまい,後継者の不在と高齢化に伴い,メーカーだけではなく,加工所やミシン場などでは廃業が続きました。

震災のあった1995年から2000年にかけての長田区の人口増加は,Takashiさん[91234]でのご賢察の通り,市街地の復興によるものです。但し,新長田駅周辺での再開発ビルの完成とその入居による人口増については,本格的には2000年以降のことで,2000年10月の国勢調査時点では,まだまだ大規模な空き地もありました。一方,神戸市の進める再開発事業区域外では,整地の早かった町丁では,すでに市街地の再生は始まっていました。なお,ここでいう整地とは,旧来の幅の狭い路地でさえ,消防車が十分入れるぐらいの幅員を取り,大火の際にも隣接区画に延焼しないように土地区画を整理することであり,換地処分となります。また,防災のための小さな公園を各町丁に設けたりもするので,住民にとっては場所の移動を伴うだけでなく,従前の土地面積の確保が望めなくなることは避けられず,当然,住民同士の異論百出となり,そういったところでは整地が遅れ,復興の足かせとなりました。
換地が完了した現在でさえも,空き地のままとなっているところも多く,特に被災した町丁では元々がケミカルシューズなど靴産業に携わっていた所であり,旧住民もまた何らかの形でそれに従事していたことを併せると,極論すれば,シューズ業界に景気がない現在では,ここに住む理由もないと言ったところかと感じています。

1995年と2000年の国勢調査間に於ける推計人口では,住民票の移動では実態が掴めないため[12405],1998年10月に被災地人口実態調査が実施されました。それによる同月人口108,553人が,復興による区人口のピークに,統計上ではなっています。すなわち,少なくとも1998年10月以降は長田区の人口は減少傾向にあります。あまりにも早い人口減少といえるのですが,これも社会動態的には,長田区の地場産業である製靴業界の不況,および神戸市全体の景気低迷による要因が大きく,自然動態では,神戸市平均以上の高齢化によるものと推察します。
(2010年国勢調査による65歳以上人口および割合,神戸市354,218 / 1,544,200 = 22.93%,長田区 29,901 / 101,624 = 29.42%)

今では,「駅を降りればゴム臭い」ということもなくなりました。良くも悪くも,遠い昔話です。「地獄谷」など,どこを探してもありません。
しかしながら,今でも長田区に対しては従前のイメージが付き纏っているのも事実のようで,「普通の街」とは認識されていないように感じます。
昔から長田区で育った小生としては,住宅地の人気投票でトップの西宮北口のような街には何の魅力も感じられません。この下町の雰囲気と,なんでも揃う街,JRに乗れば7分で三宮へ,徒歩1時間圏内でハイキング(高取山,須磨アルプスなど)もでき,海水浴場(須磨海岸)もあり,都心の元町や神戸港へさえ行ける距離にある,この便利な街からは離れられそうにありません。

---追記---
先のニジェ[91386]には,訂正すべき字句がありました.
港湾部に隣接して造船,鉄鋼,ゴム等々,重工長大型産業の工場群がひしめき合い,
皆様お気付きのことと推察いたしますが,「重厚長大型産業」の間違いです。謹んで訂正いたします。
[91386] 2016年 9月 11日(日)23:57:45【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸市の人口減少について
ご無沙汰いたしております。実質的には1年7か月振りの投稿になります。
先月,神戸市の人口減少について話題になっておりましたが,地元長田区からお話しさせていただきます。小生は震災後の数年間こそ加古川市やニジニ・ノヴゴロド市で暮らしておりましたが,それ以外は長田区でございます。ふと気が付けば,いつの間にか在住歴50年を数えておりました。子供の頃の記憶になりますが,区人口21万人以上を数えた最盛期の昭和40年代の活況もはっきりと憶えております。

[91234] Takashi さん
神戸市の人口減について部外者からの考察

ご賢察,興味深く拝読いたしました。
神戸市の人口減少を語る場合,地元の報道や市民の会話などでは,市経済の不況を物語るニュースをよく耳にします。特に神戸市から企業や工場の移転,あるいは閉鎖といった情報に接することが頻繁にあり,何とも言えない寂しさを覚えます。
例えば工場が街から消えた場合,その工場の従業員とその家族が転出するだけでは済みません。その工場からの受注を基に運営される下請工場,孫請工場も移転あるいは廃業を余儀なくされ,それらの工場群に原材料,資材,機材を納入する業者,機器のメンテナンスを行うサービス業者など,あらゆる方面に影響が出ます。果ては駅前や工場までの道々にあった商店街からも人通りが絶え,商店や娯楽施設の廃業など,暗い話題のスパイラルに陥ります。
そして同様の話が市内各所で繰り返されるようだと,各種企業も神戸市内に事業拠点を置く必要性が問われます。神戸の場合は悪いことに大阪からも遠くなく,神戸支社,支店,営業所の大阪との整理統合という流れが当たり前のように出てくるという懸念がよぎります。

往時の神戸市は,大港湾神戸港を擁する一大工業都市でした。港湾部に隣接して造船,鉄鋼,ゴム等々,重工長大型産業の工場群がひしめき合い,国内最大,世界ではロッテルダム港に次いで2位と言われた神戸港の港勢も活況を呈し,貿易物流のハブ拠点として隆盛を極めていた感がありました。しかし,平成7年の震災で神戸港と工場群が軒並み被災し,モノの流れ変わってしまいました。神戸港は早期に復旧しましたが,今では世界50位にさえ入っておらず(pdfファイル 神戸港の質的変貌-日本銀行神戸支店より),一度変わってしまった物流を元に戻すのは非常に難しく,被災した工場も再建されることなく神戸から去っていったものも少なくありません。
震災後に新都心という看板で開発された「HAT神戸」も,元々は川崎製鉄阪神製造所,神戸製鋼所脇浜工場,岩屋工場などが並ぶ臨港工業地帯でした。

神戸市は大阪との近さから,特に市の東部3区(東灘区,灘区,中央区)は大阪から見れば阪神間の通勤圏に当たり,住宅地としてのイメージも良く,「建てれば売れる」状況にはあるのでしょう。数年前に大阪の女子アナウンサーが深夜のバラエティ番組で,関西で一番人気の住宅地は三宮だと紹介していたのを目にしましたが,長年神戸市民でいる身としては,そもそも市内一の繁華街三宮を住宅地として認識していませんでした。
確かに,工場等が転出した跡地にタワーマンションでも建てば,その町域では人の住まない工業用地や商業地が住宅地に変わったわけですから,一気に人口は増えるでしょうが,都市としての神戸全体を見た場合,果たしてそれで良いのかということになります。神戸市は,大阪の通勤圏にありながらも,昼夜間人口比が100を若干上回っていることから,総合的には独立都市です。当然市内の産業が低迷していれば人口は減る。大阪の衛星都市に成り下がっての人口増加など,神戸市では考えられません。
大阪の下町と神戸の下町を歩いて比べると感じるのですが,昔からの小さな商店街でも大阪の福島区や此花区ではまだ活気があるのに対し,神戸では人口が増えているはずの中央区に於いてでさえ,葺合の大日商店街などでは往時のアーケードがあることから,そこがかつては賑わっていた商店街であることは窺えるが,あまりにも寂しい現実がそこにはあります。
大阪から見て,通勤圏外と言われる兵庫区や長田区では,工場跡地の更地がそのままになっているところも目につきます。

もちろん,市も対策を打ってこなかったわけではなく,例えばポートアイランドに先端医療都市を創設したり,観光業に力を入れたりと,人口流出を食い止める政策を打ってきました。経営が厳しいことを承知でも,反対を押し切り神戸空港開港を断行したのも,震災後の低迷する神戸の復権に対する切ない事情があったことと推察します。県や市といった自治体の力では到底及ばない,日本の産業構造の変化もあり,震災からの復興の過程の中でも,失ったものが多すぎる。新産業の創設も大事なことで大いに派手にやってもらいたいところですが,行政には,現状の産業の保守と育成にも倍旧に力を入れてほしいところです。
最近では,兵庫区の神戸港の入り口に位置する,三菱重工業神戸造船所で商船建造を撤退するニュースがありました。造船部門では潜水艦建造に特化するとのことですが,神戸港を代表する三菱の造船所から商船の進水式が消えるのは寂しい限りです。

以上,愚痴ともつかない小生個人の雑感ではありますが,神戸市の人口データ 平成27年中の人口の動きによれば,年間推移として平成24年以降減少にあります。出生から死亡を引いた自然動態では,平成19年以降は連続9年の減少であり,転入から転出を引いた社会動態では平成24年と26年が減少,それ以外は増加を示しています。ここ数年の流れとしては,社会動態はプラスマイナスがほぼ均衡し,年によっては増加にも減少にもなるといったところで,連続して一定の自然動態が減少している分,市人口の減少になっていると見ます。
また,社会動態での相手地域別転入超過によれば,
相手地域平成26年平成27年備考
総計-1421,314
東京都-1,597-1,706
東日本-899-722東京都を除く関東,東北,北海道
愛知県-68-220
中部205216愛知県を除く
大阪府-685-701
阪神6市-967-630芦屋市,西宮市,宝塚市,川西市,伊丹市,尼崎市
兵庫県下1,1331,352阪神6市を除く
近畿276509兵庫県と大阪府を除く
西日本1.4771,592中国,四国,九州,沖縄
海外2,2372,828
その他-1,254-1,204職権による記載,帰化など
となっています。
データからは,神戸市が首都圏への人口供給源になっていることが伺えます。もっとも,東京には全国から人が集まって来ますから,その中での神戸出身者の割合などは,全く目立たないものでしょう。

悪口になってはいけませんから,記事番号のリンクは控えますが,国勢調査人口では2010年が最盛期となった神戸市人口の,2015年調査人口との比較にて,その人口減少の何よりの原因として,これまで人口増加地区であった主に北区と西区で人口が大幅に減少したのが原因だったとの考察を述べておられるのを拝読しましたが,小生は賛同致しかねます。
確かに,「オールドタウン」と揶揄される20年以上前に開発されたニュータウンなどの郊外にある新興住宅地において,入居当時は子供であったのが成人し,親御さんの許より離れて新生活を始める青年たちの転居が,人口減少に直結する訳ですが,第一,その青年たちが新生活を神戸に置くことを選べば,仮に親元の北区や西区や北須磨の人口は減ったとしても,他区に人口が移動するだけで,神戸市全体の人口は減りません。原因はそこにはない。
親元を離れる青年たちが,神戸市内では希望する職に就くのが難しい,魅力ある生活を見出せない,生計を立てるのが厳しい等など,それぞれの理由で神戸を離れていく,これこそが問題であると小生は考えます。
「震災がなかったならば」とよく言いますが,実のところ,この傾向は震災前からあったことです。ただ,当時はまだ神戸市が「公共ディベロッパー」として,須磨区の須磨ニュータウン,西区の学園都市,西神ニュータウン,北区の藤原台,鹿の子台など,各地に宅地造成を続けており,堅調に人口増加にあったために見えづらかっただけのことで,新規の大規模造成の余地がなくなったここ数年では,人口の流出がはっきりと表れたと推察します。

たまたま,今回の国勢調査で福岡市の人口との逆転を許した神戸市の,その人口問題についての報道が,2月ごろのテレビのニュース番組などで特集されており,その受け売りになってしまいますが,それによれば,市内では大学などの高等教育機関は充実しており,学生人口はむしろ増えているとのこと。しかし,卒業後に神戸を去ってしまうことが言われていました。

極論になりますが,これからの街の将来を築いていく期待のかかる青年層が神戸から出ていく傾向にある一方で,既に年金生活に入っておられる老人たちにとっては,神戸の景気動向は関係ありません。むしろ,工場がなくなることで環境が良くなると喜んでいるかもしれない。
都市の人口の高齢化は,当然人口の自然動態がマイナスに振れます。まさに今の神戸市の姿ではないでしょうか。

かなり悲壮な雑感ばかり書き綴りましたが,このような空気が流れている中でも,現実の神戸市人口は先に述べたように,今のところ社会動態は転出と転入が拮抗しています。海外からの転入も目につきますが,これも神戸市の持つ底力かと感じる次第です。
また,大阪から見て通勤圏外と言われる兵庫区や長田区へは,JR線に乗れば三宮から数分(新長田で7分)しかかかりません。しかし,どうも大阪からは全く別の都市圏に感じられるそうで,これも神戸の存在感がそう言わしめているのでしょうか。

長田区のお話もさせていただくところでしたが,長くなりましたので,近日のうちに別稿として改めます。
[90050] 2016年 3月 8日(火)01:18:45ニジェガロージェッツ さん
盛岡市玉山区
[90015] ピーくん さん
地域自治区・玉山区の終了のご連絡ありがとうございます。期日が来ましたら区コレクションに反映させていただきます。
[87289] 2015年 2月 14日(土)03:09:23【1】ニジェガロージェッツ さん
高取山
地元ネタ続きで恐縮です。
グリグリさんご編集の「自治体越えの地名」への情報提供に[87282]にて神戸市の区境を越える地名として「中一里山」を挙げましたが、もうひとつ小生の地元に「高取山」がありました。馴染みがありすぎて、空気みたいにすっかり気にせずにおりました。
長田区高取山町/須磨区妙法寺高取山
「高取山町」の読みは「たかとりさんちょう」ですが、「妙法寺(字)高取山」も「たかとりさん」でしょう。地元ではこの山を「たかとりやま」とは呼びません。

「高取山」については、実際に標高329mの高取山が存在していますが、念のための説明になりますが、[87282]で書いた「一里山」については、そのように呼ばれる山が実際にあるわけではありません。
ちょうど長田区に高取山町と一里山町とがあり、どちらにも山頂があるので、遠い将来に一里山町にある山を「一里山」と呼び、整備される可能性はあるかもしれませんが、現状では難しいでしょう。
高取山頂上一帯は高取神社の神域として市民に親しまれ、六甲全山縦走路が通るハイキングコースにもなっていますが、一里山町はかつて石切り場のあったところで、ハイキングコースもなく、鉄塔をつなぐ電線の巡視路の他にはいくつかの怪しい獣道のようなものがある程度です。ただ、治山事業は細々と続けられているようですが、山頂から南側は石切り場の崖になっており、ここを市民公園のように整備することはないでしょう。小生は北側から山頂に向かって藪を掻き分けアプローチしてみましたが、辿り着けませんでした。

ところで、口、中、奥の一里山について、「中一里山」は山田町下谷上の字に、「口一里山」は神戸港地方の字に現存し、昔は長田村や夢野村にも字があったことは[87282]に書きましたが、残る「奥一里山」についても、山田町にその名の字があるのか探してみました。ところが、神戸市の地番参考図の北区の索引に出ていないことから、現存していないかもしれません。
歴史的にも口、中、奥の名称は、あくまで神戸側の福原庄から見た呼び方であり、当時の山田庄の人々が自身の地に「奥一里」という地名は付けなかったのでないかと推測します。

[87269] グリグリさん
自治体名、町名、大字、小字のどのような組み合わせでも採用します。
全国各地の自治体の境界は、山頂や尾根筋を通ることが多く、共通の山の呼び名を冠した「字」レベルの細かな地名となると、探していけば全国至る所に境界の両側に散らばっているということはないでしょうか?
杞憂だとよいのですが。

[87285] ペーロケ さん
私は由来が異なるとは書きましたが、「関係がある」とは一言も書いていませんよ。
ならば、貴稿[87283]にて
どちらかといえば、大分市寒田のような扱い近いのかもしれませんね。
とお書きになられたのか。臼杵市野津町と豊後大野市犬飼町に跨る西寒田と、場所の離れた大分市寒田とについては、グリグリさんは[87265]
両者は無関係ではないのは間違い無さそうですが、同じ地域が分断されたのではなく、神社由来の関係のようであり
と関連性を述べておられ、過去にはokiさんが[76694]にて分かりやすく両者の関係を詳説しておられます。
もちろん、ペーロケさんもそれらをお読みになったことでしょう。
[87265]にてグリグリさんが示された基準を問題視されていますが、寒田の例は自治体越えの地名として収録するのには無理があるものの、無関係ではないから「微妙」とおっしゃられている、と小生は理解しています。「無関係だけどたまたま同じ名前になったという例」が混じるとは考えられません。
[87284] 2015年 2月 12日(木)22:08:22【1】ニジェガロージェッツ さん
ニジニ・レス No.653
↑何年ぶりだろう、このタイトル

[87161] グリグリさん
「神戸レンガプロジェクト」へのメッセージ付きレンガに参加しました。元町商店街などに敷き詰められましたとのことですが、自分の目では確認しませんでした。

神戸へのメッセージ、ありがとうございます。神戸の一市民として、ひとりの被災者として、神戸へ想いを馳せていただいたこと、感謝の言葉を述べさせてください。
震災の年、小生は加古川市へ避難し、長田区と加古川市との往復ばかりで、元町など都心に出掛けることが少なかったのですが、確かに元町通商店街のうち、三丁目にあたる「元町3番街」の街路の所どころにメッセージの書かれたレンガが敷き詰められていたのを記憶しています。初めて目にしたときは心に沁みるものがありました。

日曜日に須磨区の人口を調べに中央図書館へ行った際に元町へ足を延ばし、20年を経た今、レンガはどうなっているかを確かめてきました。西の六丁目から東の一丁目まで足元を注視しながら通り抜けましたが、三丁目に20メートルほどの間隔でメッセージ入りのレンガが敷かれていました。
ただし、元町3番街はこの商店街の中でも人通りの多いところで、20年の間に随分と擦れてしまっており、中にはもう字が読めないメッセージもありました。震災8年後の2003年4月には、メッセージレンガの全面改修工事が完了し、復元が成されましたが、それからもすでに12年が経ちました。


[87196] スカンデルベクの鷲 さん
[87199][87200] ピーくん さん
地域自治区の廃止のお知らせ、ありがとうございました。情報の「区コレクション」への反映はスカンデルベクの鷲さんとピーくんさんの書き込みに気づいてすぐに更新しましたが、御礼のご挨拶が遅くなってしまいました。


[87283] ペーロケ さん
早速、一里山への反応ありがとうございます。ただし、
ちょっと悩ましい例を見つけました。
ちっとも悩ましくありません。全く無関係です。

拙稿[87282]でご紹介した神戸の一里山の件は、まだ江戸時代が始まっているかさえ怪しげな時代の慶長9(1604)年の「中一里山論争」に遡る地名です。「一里」の起点になっているのは神戸側の海岸線であり、そこから北へ1里までにある山地を「口一里山」とし、次の1里までを「中一里山」、3里目を「奥一里山」として、神戸背山の領域を3分割して当時の福原庄と山田庄とが争ったものです。
この中一里山論争については、非常に詳しく書かれた研究論文慶長十年中一里山裁許絵図の一里塚についてがあります。

ペーロケさんは西宮の一里山の由来を、甲山を基点として4キロ(=1里)との説をお書きですが、これをしても神戸の一里山との関連は全くないと言わざるを得ません。
ペーロケさんご自身が
個人的にはコレクション対象外とするのが妥当と思います。
と、書いておられるとおりです。

西宮市と神戸市は「同じ地域ではない」、とは言い切れない(そもそも隣り合っています
同じ地域ではありません。慶長年間に遡る古い「字」の話に、第二次世界大戦後の神戸市域と西宮市域が隣接していることが、どうして『「同じ地域ではい」と言い切れない』となるのでしょうか?
グリグリさんが[87265]にて述べておられる掲載基準との整合性から述べておられるように解釈しますが、由来も違い、場所も無関係で、何も共通点がない以上、収集の趣旨からは外れるものと思料します。

完全否定する根拠を探すために西宮市の一里山町の由来を調べてみたところ、「にしのみやインターネットテレビ」のサイトに、町名の由来 一里山町と田近野町という動画がありました。
10分間の動画ですが、面白いので見入ってしまいました。一里山町については6分過ぎより始まっていますが、その由来については
一里山町
昭和27年に命名。旧字名ではない。
一里山は一里塚にちなむ場合が多い。この地に一里塚があったか不明だが、町は旧街道に面している。
と説明しています。「西国街道の一里塚があったかも?」といったもので、甲山基点4キロという話も出ていません。
[87282] 2015年 2月 12日(木)02:07:18【2】ニジェガロージェッツ さん
中一里山
いろいろとレスをしなければならないのですが、それらは後日に別稿を起こすことにして、今日は情報提供を先にさせていただきます。
自治体越え地名の話題が続いていますが、字まで見ていくと神戸にも複数の区にまたがるデカイのがあります。

神戸市北区山田町下谷上の字に「中一里山」というのがあるのですが、小字にもかかわらずその範囲が広大で、同じ神戸市の区で接していないのは東灘区と垂水区のみという、実に灘区六甲山町中一里山との境から、西区伊川谷町布施畑との境まで、直線距離で10キロに及ぶ東西に細長い領域を持ちます。
Googleの地図による領域の図示では、東は再度公園あたりで切れていますが、実際には灘区六甲山町中一里山との境である、通称「まむし谷」と呼ばれる沢に達しています。
(pdfファイル神戸市地番参考図を見ると中一里山だけではなく、シャクナゲも両区に跨っている)
東隣の灘区六甲山町中一里山も、元々は山田町下谷上中一里山の一部だったところを、昭和47年5月の六甲山町新設によって下谷上より切り離され、当時の兵庫区(北区は昭和48年8月設置)より灘区に移管された部分です。

この中一里山については、12年前の拙稿[15879]に「一里山論争」として書き込みした場所です。
江戸期より「一里山論争」という六甲山脈南の神戸(兵庫)側と、北の山田側に、両者の境界を巡っての紛争が起きています。
これは、神戸の背山である六甲山脈に属する一連の山域を、南から一里ごとに「口一里山」「中一里山」「奥一里山」と称して三つに分け、それぞれがどちら側の所領かを争ったものですが、結局「口」と「中」は旧兵庫と神戸側の村々が入会権を持ち、「奥」は山田村の所属になり、互いに他を侵せない取り決めになったようです。

[15879]を補足すると、入会権(共同で利用する権利)こそ兵庫と神戸側の村々に認められましたが、中一里山の領域は山田に属しており、それが現在の山田町下谷上中一里山に至っています。
長田区雲雀ヶ丘の大部分も元は山田町下谷上中一里山に属し、昭和40年の町の起立と同時に兵庫区より長田区に移管しています。同様に昭和55年に町の設定と同時に灘区に移管した摩耶山町も北区山田町下谷上でしたから、ここも中一里山だったのでしょう。もちろん、北区南部の町々、ひよどり台(昭和50年起立)、ひよどり北町(昭和53年起立)、ひよどり台南町(平成16年起立)、中里町(平成元年起立)は元々中一里山の一部でした。

一方、中一里山の南に連なる「口一里山」については、現在残っているものでは「中央区神戸港地方口一里山」があります。中央区で町の起立していない山間部のうち、旧生田区(旧神戸区)の部分が神戸港地方ですが、そのうち、堂徳山、市章山、碇山を結ぶ稜線の北側一帯の北区との境界までが(字)口一里山で、唯一大龍寺の敷地周辺のみ(字)再度山となっています。
また、長田区には「一里山町」が存在し、この町は昭和16年に林田区長田村(字)口一里山の一部に起立した町で、兵庫区の里山町もまた、昭和24年に兵庫区夢野村(字)口一里山に起立した町名です。

コレクション「自治体越えの地名」にこれらが該当するかの判断は、ご収集のグリグリさんにお任せするとして、「中一里山」と「口一里山」を、その歴史的な背景を踏まえて別々の地名と捉えた場合では、
北区山田町下谷上中一里山/灘区六甲山町中一里山
のみの該当になり、
「一里山」でひとつの地名として捉えた場合には、
北区山田町下谷上中一里山/中央区神戸港地方口一里山
北区山田町下谷上中一里山/長田区一里山町
も該当します。
また、中一里山と同じく、昭和47年5月の六甲山町新設により分割された兵庫区山田町上谷上(字)シャクナゲについては、
北区山田町上谷上シャクナゲ/灘区六甲山町シャクナゲ
が該当しますが、上谷上側のシャクナゲについては、pdfファイル神戸市地番参考図しか見つかりませんでした。

なお、12年前の拙稿[15879]には、訂正すべき部分がありました。
大正11年に「神戸都市計画区域」が設けられ、その区域に当時の神戸市全域(現在の中央、兵庫、長田、須磨区)に、武庫郡8カ町村(現在の灘、東灘区)と山田村(北区南部)のうち「奥一里山」と呼ばれる神戸の背山が加えられました。
このうち、「奥一里山」は「中一里山」の間違いです。

「神戸港地方 こうべこうじがた」ですが、(中略)神戸区の区域となった「口一里山」「中一里山」の部分に付けられたようです。
この文章より「中一里山」は削除し、「口一里山」のみ該当します。

間違いがあり、それに12年間も気がつかなかったこと、謹んでお詫び申し上げます。

【2】長田区雲雀ヶ丘、灘区摩耶山町の記述を追加
[87158] 2015年 1月 18日(日)02:15:10ニジェガロージェッツ さん
文化
日付が変わりましたが、小生の自宅を全壊させ、店と仕事場を全焼させたあの忌まわしい記憶から、早くも20年の1・17を迎えました。神戸市のサイトには、昨12月より阪神・淡路大震災「1.17の記憶」と題して、震災当時の写真画像をオープンデータとして公開しています。小生の住む長田区だけでも264件もの画像が出てくる膨大なものです。
それよりも目が釘付けになったのが、関連サイトとしてリンクの張ってある震災写真アーカイブマップです。このサイトでは、長田区の新長田駅の南北と、その西に隣接する鷹取東、野田北部の、震災前後の町並みと現在の街並みが閲覧できるもので、20年、あるいは20数年前の失われた新長田界隈が鮮明に蘇ってきます。
しかしながら、雑な言い方をしてしまえば、今も昔も新長田は新長田なもので、そこに暮らしている者としては、どちらも「我が街」に違いはなく、同じ空気が流れているようにさえ感じていました。もちろん、その変貌振りは事実として認識していても、改めて当時の街並みに接してみると、あまりもの違いに驚愕します。建物が違うのは当然ですが、まず道路が違う。同じ道路が昔はこんなにも道幅が狭かったのかと気づかされます。

さて、新長田界隈は大規模な再開発事業が展開されて街並みは一新されましたが、震災では長田区全体が焼け野原になったわけでも、全滅したわけでもありません。区の北部の丸山地区や中部の高取山周辺、東部の名倉、長田天神町界隈などは、震災が原因かと推測される空き地こそちらほら目にしますが、比較的震災前の街並みが残っているところです。
震災関連の報道ではあまり取り上げられませんが、長田区を隅々歩いていると、むしろこういった以前の街並みが残っている地域が、復興の影で衰退の一途を辿っているのではと強く感じます。

表題の「文化」という言葉、語頭にアクセントを置いて「ぶンカ」と読めば「カルチャー」の意味ですが、関西方言で「ブんカ」と読めば全く意味が違ってきます。これは「文化住宅」を意味しますが、[54539] Issieさんのおっしゃる関東など標準語でのモダンな文化住宅とも違って、当地では木造2階建てで4~10世帯程度が入居できるアパートのことを言い、その多くが昭和30年代から45年ぐらいまでの高度経済成長時代に建てられたものです。何が文化なのか良く分かりませんが、それまでの長屋などの集合住宅には浴室がなく、小さいながらも風呂場があるのが「文化的」だろうと言ったという説、などを聞きます。

その当時の神戸市では重工業が盛んな都市として人口は増加の一途を辿っており、一方で須磨区北部や現在の西区(当時は垂水区西神地区)のニュータウン群は開発前のことで、増加する神戸市人口の受け皿として、長田区では既存市街地の新長田界隈からは距離のある、高取山周辺の山麓部や丸山や名倉など北部の、坂道の多い丘陵地帯が所狭しと開発され、文化住宅も数多く建てられました。震災前にはこれらの文化住宅でも空き家となっているのは少なかったように記憶しています。
しかし、今では多くの文化住宅がまるで廃墟の如くになっています。神戸市を覆う不況もあるでしょうが、震災からの復興過程で新長田駅周辺などの便利なところに大規模な再開発があり、一方で郊外の西区などには広い一戸建て住宅の多いニュータウン群が出来、文化住宅の需要が急減したのでしょう。坂道の多さ、交通アクセスの見劣りなども不利に働いていることでしょう。とはいえ、解体するのも多額の経費かかり、更地にした後の土地利用などのことで、潰すに潰せないと放置しているのが現状でしょうか。
長田区の空き家率は18%を超え、市内9区の中では最も高くなっているようです。(神戸の住宅
特に文化住宅での空き家の問題、復興の影となった神戸特有の問題なのか、全国的な問題なのかは分かりません。
時代遅れの文化住宅など、確かに見劣りはするでしょうが、ライフスタイルに合わせれば、家賃も安く、魅力があるとも聞きます。これらの空き家を活用していくのか、それとも空き家のまま社会問題化してしまうのか、本格的に人口減少時代を迎えた神戸市、特に兵庫区以西の各区で非常に気になるところです。
[86682] 2014年 11月 17日(月)00:12:41【3】ニジェガロージェッツ さん
湊川隧道
地元ネタにて恐縮です。
土木の日(11月18日)を記念し、その直近の日曜日である昨日は、湊川隧道が10時から15時まで特別に一般公開され、ここを通り抜けることができ、去年につづいて今年も行ってきました。あまりにもローカルな話題にて、まず「湊川隧道とは何ぞや?」からご説明しなければならないでしょうか。詳しくは湊川隧道保存友の会のサイトや、兵庫県の関連ページをご覧ください、と言ってしまえば身も蓋もないので、ここでは明治30年代の神戸の街との湊川との関係を主に述べてみます。

湊川といえば、楠木正成が大往生を遂げた古戦場(湊川の合戦)としても有名で、兵庫の市街地を流れ、明治期にはその西側を湊西区、東側を湊東区として兵庫の市街地を二分していました。しかし、20世紀以降の神戸には「湊川」という河川はもはや存在せず、現在流れているのは「新湊川」と呼ばれています。
日清日露の両戦間期の神戸市に於いては、急速な市街地の発展が見られ、神戸区、湊東区はすでに発展の余地はなく、早々に狭い市内は飽和状態となることは明白でした。明治29(1896)年には西隣の湊村4か村全村(平野、石井、烏原、夢野)、林田村8か村全村(今和田新田、吉田新田、御崎、東尻池、西尻池、長田、駒ヶ林、野田)、須磨村10か村のうち1村(池田)を編入し、旧市内の4区会(葺合区、神戸区、湊東区、湊西区)に湊区、林田区を加えて6区会が設けられました。
この新市域を加えた神戸市では、湊西区出在家町の新川運河より林田区東尻池村の浜辺に至る兵庫運河の開削(明治32年完成)以外に、「3大土木工事」と呼ばれるプロジェクトが行われ、東から葺合区葺合町の山間部に五本松堰堤を築堤し布引貯水池の建設(明治33年完成)、湊区烏原村に立ヶ畑堰堤を築堤し烏原貯水池の建設(明治38年完成)、そして湊西区兵庫港地方から林田区長田村に至る湊川の付け替え工事(明治34年竣工)で、いずれも水利工事でした。

従来の湊川は湊区湊川町1丁目と湊西区東山町1丁目(湊川町、東山町ともに当時はなく大正期に起立した町名で、正しくは湊区石井村、湊西区兵庫港地方と書くべきですが、現況と照らしてわかりやすいので、ご容赦のほど)に架かる洗心橋より下流は、今の東山商店街、から新開地本通り,川崎本通りを流れ神戸港に注いでおり、当時の神戸市都心部を貫き、今ある湊川公園があたかも橋上公園に見える(下を通る道路は歴とした「湊川トンネル」)ことからも分かるように、天井川を形成し大雨の度に洪水を引き起こす暴れ川で、市街地への被害だけでなく、この土砂の流入による神戸港の埋没が問題視されていました。
多くの河川がそうであるように、上流より運ばれる土砂は河口沖合いへ堆積され、海岸線は沖へ突き出た形になります。湊川河口も兵庫津の沖合いへと成長し、江戸時代初期には「川崎町」の町名が付けられています。その後はさらに東に突き出し、河口右岸は兵庫津の出町となり、こちらは「東出町」「西出町」、左岸は「東川崎町」と名づけられました。いずれも江戸時代に出現した町名で、現在に至っています。
明治のはじめには河口の東出町や東川崎町にアメリカ人が製鉄所を建造したり、加賀藩が造船所を造ったりしたものの後に官営の兵庫造船所となり、それを薩摩出身の川崎正蔵氏が明治19年に払い下げを受けて開業したのが川崎造船所です。地名の湊川川崎と創業者の川崎姓が偶然の一致を見たものです。
新開地本通りに続く現在の国道2号線以南の旧湊川跡地は「川崎本通り」と呼ばれていますが、こちらは川崎重工業正門に向かう道であることから、東川崎町からの地名由来というよりも、企業名のにおいがプンプンします。
なお、河口の湊川川崎は明治時代の地図上では「湊岬」と表記されています。

さて、付け替えられることになった湊川は洗心橋からは西へ向かい、林田区長田村を流れる苅藻川に合流させるのですが、途中に標高85mの会下山が立ちはだかります。同じく明治4年に付け替えとなり、紀州人の加納宗七が請け負った新生田川の付け替え工事(旧生田川は現在の加納町)では、葺合村の開削工事でことが足りましたが、時を経ること30年の土木技術の進歩もあり、会下山にトンネルを打ち抜くことになりました。これが湊川隧道です。しかし、それでも人力掘りにレンガ積みですから、相当な難工事であったことは想像に難くありません。全長600mにおよぶ湊川隧道は、当時では河川トンネルとしては世界最大規模のものだったそうで、明治中期の土木技術を窺い知る、貴重な歴史土木遺産です。

一方、付け替えられて新たに市街地「新開地」と命名された旧湊川については、洗心橋から下流へは金比羅橋(現在の湊川公園辺り)、新橋(現在の新開地駅辺り)、湊橋(湊町1丁目辺り)、土橋(東出郵便局辺りか?)の4つの橋が架かり、総じて天井川で、湊橋の少し下流を通った山陽本線(現在のJR線)の線路も川底をトンネルで抜いて敷かれていました。
現在の新開地商店街を歩くと、神戸高速新開地駅を出て北側(新開地1・2丁目)は結構勾配のある坂道となり湊川公園に至ります。この勾配は、この坂道を境に、下流の土手は兵庫神戸の市街地と同じレベルにまで削剥し平坦にしたことを物語っています。

最後に話は湊川隧道に戻りますが、この隧道は永らく「会下山トンネル」または「会下山隧道」と呼ばれており、地図にもそのように表記されていました。角川書店昭和63年発刊の「兵庫県地名大辞典」にも「会下山トンネル」の項目で出ています。
しかし、平成7年の大震災に隧道が被災した際、その修復工事で構内より「湊川隧道」と書かれた建設当時の銘板が発見されたことにより、現在ではこれが正式名称として認められることとなりました。「会下山・・」としたのは、前出の湊川公園の下を走る道路を「湊川トンネル」と呼ぶことから、これとの混同を避けたのかと推測します。
平成12年12月には、北側に新たに倍の断面積をもつ「新湊川トンネル」が竣工、通水し、明治時代から100年に渡って流れた湊川隧道は河川トンネルとしての役目を終えることとなりました。

【2】川崎本通りに関する記述を追加
【3】訂正(誤)夢野村→(正)石井村 湊川町1丁目の明治時代の大字名
[86454] 2014年 10月 13日(月)14:11:32ニジェガロージェッツ さん
パナフィジン島
[85818] グリグリさん
地図の作成お疲れ様です。7月13日についに47都道府県が出揃ったこと、大変遅くなりましたが謹んでお祝い申し上げます。
小生もいつも楽しく拝見させていただいております。

さて、[85731] にてリリースのご案内のあった東京都の地図のうち、鳥島が小笠原村の所管になっています。確かに、小笠原村の母島列島の妹島に付随する小島で「鳥島」という島は存在しますが、地図に描かれている鳥島は、形状と大きさから、これはどの町村にも属していない東京都直轄で八丈支庁が管理する鳥島のことでしょう。この鳥島に合わせてベヨネース列岩、須美寿島、孀婦岩の四島については、hmtさん[22460]の「南方四島」問題にて
これら「南方四島」につき、青ヶ島を飛び越えたかたちで八丈町が領有権を主張し、青ヶ島村が強く反発した結果、わが国で唯一どこの市町村にも帰属しない地域として東京都八丈支庁が管理している。
と記述があります。また他の「鳥島」と区別するためか「八丈鳥島」とも「伊豆鳥島」とも呼ばれているらしいです。明治期には島のアホウドリ捕獲のため、移住者があったものの、1902(明治35)年8月の大噴火で住民125人全員死亡(気象庁)という、恐ろしい火山災害がありました。

#鳥島の件、地図のリリース直後から気になっていたのですが、すぐに誰か常連さんからのご指摘があるだろうと推察し、発言は控えていたのですが、記事検索したところ無さそうなので、時期を逸してしまいましたがご報告まで。既にご指摘があったのであればご容赦のほど。

ところで、何気なくソ連製の日本地図を眺めていると、パナフィジン島(остров Панафидина)と書かれていました。すぐ横にトリシマ(Торисима)と括弧書きで注釈がありましたから、件の八丈支庁鳥島のことです。
気になって調べてみても詳細なものはなく、ただロシア語版のウィキペディアでは「パナフィジン島」で出ていました。ロシア帝国の海軍士官で欧露部トヴェリ県出身のパナフィジン・ザーハル・イヴァノヴィチ(1786~1830)という人物が1819~20年にヴォロジノ号にて地球一周に出た際に、日本南方の太平洋上に島を発見し、これを「三丘島(остров Трех Холмов)」と名づけ、その後、クルーゼンシュテルン海軍大将により「パナフィジン島」と改称したようです。

日本領土で他国に日本名以外で呼ばれている地名、結構あるのかな?
[85092] 2014年 2月 12日(水)09:05:54ニジェガロージェッツ さん
США[スシャー]
久しぶりに落書き帳を閲覧しています。なんだか懐かしい気分です。
出勤前の取り急ぎ指摘のみにて失礼いたします。

[85076]hmtさん
アメリカ合衆国は、United States of America の翻訳で、S に相当する С の部に入っています。

この一文を見ると States の S かと誤解を与えるので、補足しておきます。
アメリカ合衆国はロシア語で
Соединённые Штаты Америки [サイヂニョーンヌィェ シタートゥイ アメーリキ]と言い、
一般には США と略されています。
つまり、S(ロシア語で С)に相当するのは United です。
なお、語順も英文そのままなのですが、ロシア語で Америка[アメーリカ]が、「アメーリキ」に変化しているのは、英文of 「~の」と同じで格変化(生格)しているからです。
[84150] 2013年 9月 28日(土)00:23:38ニジェガロージェッツ さん
早速の修復作業ありがとうございました
[84146] グリグリさん
『区』以外にも同様の不具合があったとのことで、膨大な作業であったと推測します。いつもながらのサイト管理作業へのご尽力、頭が下がります。
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
[84143] 2013年 9月 26日(木)20:26:55ニジェガロージェッツ さん
「区」が壊れている
[84108]グリグリ さん
Mapionの地図リンク変換作業お疲れ様です。拙『区』コレクションの地図リンクまで更新していただき、有難うございます。

ところで、この『区』コレクションですが、久しぶりに訪れてみると内容が壊れています。
いつから、何が原因でこうなった(掲載地名数206→31、都道府県名は出鱈目)のかは分かりませんが、小生『区』上奏から8年が経ち、当時のバックアップデータも手元になく、今では一から復旧作業する根気もございません。
誠に勝手で申し訳ありませんが、復旧が難しいようでしたら、コレクションごと削除していただければありがたいです。
[83134] 2013年 4月 18日(木)20:49:58ニジェガロージェッツ さん
壮大な独り言
北海道
樺太
[83131] 2013年 4月 18日(木)12:38:01ニジェガロージェッツ さん
独り言
舳倉島と竹島とでは,大して緯度が変わらないのを知った
[82423] 2013年 1月 3日(木)00:01:13ニジェガロージェッツ さん
初日の出
何とか2012年を乗り越えることができ、2013年を迎えました。皆様はいかが新年をお迎えでしょうか。
昨年はこちらには楽しい書き込みができず、ご迷惑をお掛けしました。

もうこの歳になると子供の頃ウキウキしていたお正月気分などはとうに昔の話。日銭稼ぎの自営業ですから、休みの間は無収入になる訳で、日々のやり繰りが苦しいだけです。1月といえばあの神戸の震災の記憶が蘇るので、「おめでとう」という気にもなれず、年賀状もすっかり書かなくなりました。

こんな小生ですが、ここ数年は初日の出を見に高取山頂(神戸市長田区と須磨区の最高地点)に登っています。私にとっては唯一の正月らしい恒例行事です。今年も朝6時前に起きて、6時10分に新長田の自宅を出て、普段は50分かかる道のりをセカセカと40分で登りきり、6時50分には標高329mの山頂に立っていました。日の出までまだ20分ほどありますが、もうこの時点で山頂付近は元旦を拝む人、ひと、ヒトでいっぱいでした。前日の天気予報では兵庫県南部や大阪府といった大阪湾周辺地域は良い天気とのことでした。
さて、この山頂から拝む初日の出は、ちょうど金剛山(奈良・大阪府県境)あたりに昇ってきます。天気の良い日には更に背後の奈良県の大峰山系が見えますから、実際には太陽は大峰山系に連なる山上ヶ岳(標高1719m)を越えて現れます。ところが、この大峰山系や大台ヶ原といった奈良県南東部は雨の多い地方で知られ、たとえ大阪湾周辺が快晴でも、そこだけは雲が発生している場合が多く、はっきりとした初日の出が拝めることは珍しいことです。
今年も神戸は快晴ながらも、大峰山系あたりは薄雲が出ており、ちょっぴりぼやけた日の出を7時13分に拝みました。これはこれで結構絵になる美しい景色ですが。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
[82407] 2012年 12月 31日(月)10:15:11ニジェガロージェッツ さん
蟠屈(わだかま)りなく淡然(さっぱり)と
[82406]グリグリさん
グリグリさんのご心情に接し、ただただ自分の不明を恥じております。
今日はこの1年半の蟠屈が完全に取れ、淡然といたしました。ありがとうございました。

[78693]における当該メール文はお送りいただく必要がございませんので、どうぞご容赦願います。お手数をお掛けして申し訳ございませんでした。
そして、今は閲覧不能となっている[82346]については、88さんにとっては非常に厳しい返信となっていましたが、この件についても88さんとの決別を意図したものではないとのお言葉を頂戴し、安心いたしました。

さて、88さんにおかれましては、11月以来警笛を鳴らし続けた著作権抵触についてのご懸念は、その後のメンバーからのフォローや数々の対処方法のご提示、そして何よりグリグリさんにそのご意志がないことが確認され、今では完全に解消されたのではないかと推測します。
今年起こったことは年内に、とまでは言いませんが、なるべく早く落書き帳にて挨拶なり書き込み頂ければと存じます。
#頭を冷やさないと巧く纏らないようでしたら、気分転換に六甲山にでもご案内いたしますので、いつでもご連絡ください。(小生の番号は石島の打ち合わせでお知らせした当時のままです)

[82389]JOUTOUさん
約8カ月ぶりに“ニジェの兄貴”が登場した
ありがとうございます。ネタ切れながらも、何か面白いことがあればちょくちょくと顔をださせて頂きます。次こそは地理ネタを投稿します。
#「兄貴」ってのは、ほとんど誤差の違いですよ。一足先に大台に乗りましたが。ううっ

それでは皆様、良いお年をお迎えください。
[82373] 2012年 12月 24日(月)10:45:19【1】ニジェガロージェッツ さん
Re^2:何のための確認だったのか
[82364]グリグリさん
表題の件について、率直なところをお話いただき、貴殿への不信が少し解消されました。有難うございました。
ただ、・・・

[82348]グリグリさん
ニジェさんの書き込みに助けられたとも言えます。
の部分と[82364]を合わせて読むと、ニジェ[82341]を受けて88さんと決別する決心[82346]がついたとも取れます。鷹揚に、出来るだけ好意的に捉えたとしても、衆人環視の「衆人」のうちの何割かは、そのように解釈することでしょう。
正直、そんなことを言われても困ります。

今更蒸し返すつもりは毛頭ないのですが、去年7月3日のグリグリさんの書き込み[78693]にて私は誹謗を受けました。おそらく、書いたご本人のグリグリさんはお気づきではないと推察します。
記事の当該部分は「わざわざ触れる必要のない部分」としていつの間にか消されています。誹謗とはいっても、その時点のニジェに対してではなく、更に遡ること8年以上前の2003年6月ごろまでの私の書き込みについてでした。しかしながら、それ以降は指摘される同様の書き込みは行なわないことを順守しており、なんでいつまでもそのような古い事象を「過去の悪例」として引き合いに出されなければならないのか。
また、元々の当該部分は問い合わせメールへの返信として書かれており、同様の問い合わせには、いちいちニジェの過去の悪例が紹介されていたのかと類推すると、もはや「落書き帳」に私の居場所はないと感じました。

[82341]は、そういった背景で、新たに発生した88さんとの確執をうけて、「石島探検を共に企画した」88さんに寄った見解で投稿しています。
今回の件、一見では著作権解釈による食い違いから発生したもののように見えますが、もっと別の深いところで、グリグリさんさえお気付きでないところで88さんとのコミュニケーションに行き違いがあったのではと思料しています。
昨日リリースされた岐阜オフ会の写真を拝見して、グリグリさんの傍で明るく微笑む88さんの「図ぅ」を見ていると悲しくなります。

この記事、書くべきか随分悩みました。既に当事者同士で解決するとのことで、横から口を挟むべきでないことは承知しております。また、メールでも良かったのではと思われるかもしれませんが、私は「落書き帳」で起こったことは「落書き帳」で議論するのを基本に心がけており、メールでコソコソするのは、ある意味卑怯であると考えています。

[82361]中島悟さん
オフ会の状況をお知らせいただき有難うございました。
中島さんが来られると知り、何としても参加したかったのですが、今回は叶いませんでした。またの機会を楽しみにしております。

訂正【1】中傷→誹謗(2箇所)
「中傷」とは、根も葉もない情報のために傷つけられることなので、当該事例は当たらない。
[82355] 2012年 12月 20日(木)09:54:25ニジェガロージェッツ さん
ひとつ言い忘れたこと
[82346]グリグリさん
何故皆さんが私を悪人扱いしようとするのか

この「皆さん」とは,誰のことを述べておられますか?
当事者の88さんはともかく,誰もグリグリさんのことを悪人扱いしてはおられないと推察しますが,人の真意はわかりませんので,ただ,自分の[82341]については明確に否定しておきます。
「悪人」などという,物騒な言葉はご使用にならないように願います。

約10年前に,私がグリグリさんから叱られた時の言葉ですが,そのままお返しするとして,ここに貼り付けておきます。
[8933]
書き込みによるコミュニケーションは、リアルのコミュニケーションと違ってどうしても理解できない部分も出てくるのはやむを得ないと思います。その分、鷹揚に構えていただけるといいなと。

かく言う今の私も,グリグリさんの2度に渡る確認に対して「見識を試されたみたいで、不愉快」と書いてしまっているくらいですから,とても「鷹揚に構えて」を実践できていません。ネットという衆目環視の中では,普通の地理ネタの記事にしても,88さんの[82329]にしても,貴職の[82346]にしても,見識は常に試されています。
[82354] 2012年 12月 20日(木)02:40:17【1】ニジェガロージェッツ さん
私なりの連想
[82349]JOUTOUさん、[82350]中島悟さんからのオフ会でのやり取りの書き込みから、当日の状況が何となく想像できました。
JOUTOUさんに於かれては、88さん、グリグリさんの取持ち役を夜明け前からしておられたようで、大変にお気遣いされたことと察します。小生もその場に居れば何か少しはお力添え出来たのではなかったかと悔やまれます。(過去のオフ会ではJOUTOUさんと行動を共にすることが多かったので)

過去のオフ会で直接お会いした印象では、グリグリさんは頭の回転が早く、社会的な地位もある方で、非常に弁が立つ御人です。一方の88さんは、どちらかと言えば寡黙な方で、粛々と実務をこなす「裏方の力持ち」のような御人のようにお見受けしました。もちろん、過去数回のオフ会でお会いした程度で人のことなど判る筈がありませんので、あくまでも私のいだいた第一印象でしかありませんが。
#因みに、仲の良いJOUTOUさんのニジェへの第一印象は「わぁ、本物のヤクザだ!」だったそうです。なんでかなあ???

さて、このお二人が会談を持った時、その連想できる「図ぅ」は、グリグリさんが多くを語り、88さんは聞き役に回るような場が頭に浮かびます。実際にJOUTOUさんの[82349]には
単なる建前で相槌を打っていたに過ぎないのでしょうか?
とあり、88さん自身も「大半を聞き流して」いたと述べておられます。
これでは、88さんにとって会談の成果はないばかりか、逆にグリグリさんを始め、その場に立ち会ったメンバーとしては、大した反論もなかったことから88さんもおおよそのグリグリさんの主張は了解したと解釈されても仕方ありません。
[82256]グリグリさん
オフ会翌日の今朝は、お風呂が開く5時半に大浴場に行き、88さんやJOUTOUさんと湯船の中でいろいろなお話をさせて頂きました。その後、ロビーに移り、白桃さん、スナフキんさん、Hiro_as_Fillerさん、中島悟さん、N-Hさんも加わり、都道府県市区町村の今後の進め方や、これまでの進め方に関していろいろご意見をいただき有意義な時間を持つことができました。
[82350]中島悟さん
11月24日の朝に、皆で忌憚無く話し合い、齟齬を取り払い、問題点を洗い出し、
これからの方向性や手法、分担などで共通した認識を持てたと思っていたのですが、
一体どうしちゃったんでしょうねえ?

ただ、宿泊2日目(最終日)の朝というものは、じっくりと双方が納得行くまで話ができるかといえば、朝食や帰宅時の慌ただしさが控えていて、案外難しいような気がします。やはり1日目の二次会あたりで話し合った方が望ましかったかも知れません。その場ではうまく伝えられなかった事柄も、寝床であれこれ思案しているうちに整理ができ、翌朝に改めて伝えられるといったこともあったでしょうから。

いずれにしましても、オフ会での会談が有意義に終えれた筈にもかかわらず、[82329]での88さんの発言は、グリグリさんのみならず、オフ会参加メンバーにとって理解し難いものであったことは想像に難くありません。グリグリさんが[82332]にて他のメンバーに確認をとられたのも、主にオフ会参加メンバーに対して発せられたものだったのでしょう。

しかし、JOUTOUさんが[82334]を書かれた以外は、オフ会参加メンバーからの「常識的な」フォローは得られず、しびれを切らして[82340]にて再確認を取られたと、今では私はそのように理解しています。

[82329]88さん、[82346]グリグリさん、サイト・掲示板のオーナーと、オーナーに協力して「市区町村変遷情報」の編集に多大な努力と功績を残した編集者が、今や互いに「犯罪者」呼ばわり。
そして岐阜のオフ会に参加してコトの経緯を知っていながらも、mixi辺りで「怖くてモノが言えない」と呟いて尻込みする中堅メンバーたち。
これが「10年以上に渡って培ってきた落書き帳のコミュニケーション」の実態としては悲しくなると言うか、歯痒い限りですが、その一方で、[82337]にまんさんや[82353]油天神山さんからの建設的なご意見もあります。まだまだ捨てたものではありません。
さすがは「落書き帳」だと見直されるように、二人とももう一度頭を冷やして、大人の対応を取られてはどうでしょうか。

グリグリさんに於かれても、貴台の[82332][82340]の公開質問には幾つもの回答が寄せられています。私に対しては[82348]で十分ですが、「的外れ」とか「常識的な反応でない」と切り捨ててしまわず、ひとつひとつの記事に「ふぉろ~」を付けるよう、努力を望みます。人にモノを尋ねておいて、無視はいただけません。

桜通り十文字さんの質問[82345]にも、ちゃんと答えたげなはれ。

ところで、88さんは「犯行声明」ちゅう単語を使ぅとうけど、何かの間違いとちゃう?
「犯行声明」は、犯行を行った後に、犯人から発せられるもんでっせ。

訂正【1】モノを訪ねて → モノを尋ねて
[82347] 2012年 12月 18日(火)22:16:07ニジェガロージェッツ さん
何のための確認だったのか
[82346]グリグリさん
まったくひどい話です

そこまではっきりと[82329]の書き込みをご自身への誹謗中傷であると断定されるおられるのであれば、[82346]と同様の内容をご説明をなされた上で、さっさと当該記事を削除すればよかったのではないでしょうか。

いったい何のために
[82332]グリグリさん
ぜひ多くの皆さんも意見を述べてください。
[82340]グリグリさん
再度皆さんに確認します。

などとしつこく、他の落書き帳メンバーへの確認作業が必要だったのか。
まるで見識を試されたみたいで、不愉快です。
[82341] 2012年 12月 18日(火)12:22:52【2】ニジェガロージェッツ さん
回答
[82340]グリグリ さん
再度皆さんに確認します。
「皆さん」の中に,小生のようなものが含まれているのか甚だ疑問ですが,問題の著作権等に関する法的知識は当方持ち合わせていないので,確認事項についてのみの回答とさせていただきます。

確認事項について,最後の3行の文末が「ですか。」で終わられているので,この3文が確認事項に該当すると推察しますが,3文目はみかちゅうさんに対して発せられたものですから,1文目と2文目に対してのみの回答と致します。

(1)
削除せずに残したこの書き込みを皆さんは容認されるのですか。

「容認」どころか,落書き帳への貴重なご意見です。
オフ会前日に88さんより[82230][82231][82232][82233]の問題提起が為されましたが,問題の[82329]はその延長にあります。オフ会前日にはグリグリさんも[82242]にて
88さんも書き込むには相当の勇気を持ってのことだと推察します。あれだけの内容をスルーせずに書いて頂いたことを真摯に受け止めなければいけないと思っています。
と評価されています。[82329]に対しても鷹揚に同様の評価ができないものでしょうか。

話の流れとしましては,([18384]たけもとさんの表現を借りれば)
[82230][82233]に,さらにオフ会での直接対話という流れの中でも一向に意見が伝わらない状況に加え,[82329]という言葉を88さんから言わせてしまった認識の甘さこそが問題です。

ここで私の述べる「認識の甘さ」とは,88さんがおっしゃる法への認識の甘さのことではありません。落書き帳のコミュニケーションの場において,[82242]で述べられた「真摯に受け止めなければいけないと思っています」の真摯さが88さんに伝わっていないこと,そして,その結果が落書き帳から88さんという得難い功労メンバーを失うという危機感に対する認識の甘さをいっています。88さんがいなくなって困るのはグリグリさんだけではありません。

(2)
10年以上に渡って培ってきた落書き帳のコミュニケーションの場において、許される書き込みだと考えておられるのですか。

許される書き込みだと考えます。
それは,[82329]の終わりの
あくまで、趣旨はグリグリさんを犯罪者に仕立てることではなく、犯罪を未然に防ぐことです。
が,文末の付け足ではなく,やはり88さんの趣旨だと感じるからです。確かに「犯罪者」とか「グリグリ帝国」とか,行き過ぎと感じられる表現もありますが,そこまで書かなければ伝わらないというもどかしさから出た表現かと推察します。
「10年以上に渡って培ってきた落書き帳のコミュニケーションの場」とおっしゃいますが,その歳月の中で,多くの常連さんが去っていきました。
もちろん,その多くは書き込みネタが尽きたといった程度のもので,今でも毎日のように落書き帳を読み,楽しんでおられる方々でしょう。常連として投稿を続けた過去の日々についても楽しい想い出となっているに違いありません。しかし,一方で,何らかの確執を抱えたまま去ってしまい,中には悪意のようなものを持ち,何かあれば「酷い目にあわせてやろう」と狙っている輩がいないとも限りません。
事が起こってから「まさか落書き帳メンバーにしてやられるとは想定外」は,まさしく想定不足でしかありません。もちろん,グリグリさんに於かれては十分想定しておられることでしょうけれども。

また,88さんの書き込み[82230][82233]の翌日にはオフ会がありました。私は今回のオフ会は缺席したので状況はわかりませんが,前日の書き込みでしたから,当然オフ会参加メンバーを交えての討論になったことと推察します。ここではグリグリさん,88さん以外の18名からの意見や取持ちもあったことでしょう。何ゆえ関係がここまで拗れたのか腑に落ちません。88さんに於かれてはオフ会の雰囲気を壊したくなかったのかもしれませんが,「大半を聞き流して」仕舞わず,しっかりと反論するのが望ましかったのではと愚考します。

訂正【1】88 を 88さん に訂正(1箇所)
訂正【2】「認識の甘さ」についての説明文を追加
[80539] 2012年 4月 19日(木)10:29:52【1】ニジェガロージェッツ さん
想定外は想定不足と言い換えるべき
[80527] グリグリ さん
石巻,南三陸町の写真拝見しました。
震災から一年を経て,瓦礫が除けられ(取り除かれ・・・ではない),震災前には市街地であったところが何もない更地のようになったままの現状について,連日報道されているので知ったつもりでおりましたが,改めて写真画像を見るとショックを受けました。

グリグリさんに於かれましては,被災地での支援活動に取組まれておられるようで,本当に頭が下がります。それに引き換え,私は17年前の震災で多くのご支援を受けながらも,東日本大震災には何の支援もお返しすることができず,全く無力で申し訳がない限りです。
南三陸町の仮設商店街の写真もありましたが,この店舗には神戸の震災直後の焼け跡に仮設商店街「パラール」を立ち上げた,新長田大正筋からのアイデアなどの支援があったと聞きます。同じ新長田に居ながらも,活動される人もおられることが地元として嬉しく,私に出来ることと言えば,この大正筋で買い物をすることくらいです。

さて,昨日東京都から想定する首都直下型地震についての被害予想状況が発表され,それによれば死者9700名に上り,その甚大な想定被害に「衝撃的な数字が並んだ」などと報道されています。
東京湾北部地震ではマグニチュード7.3,震源深さ10kmと,平成7年兵庫県南部地震(M7.3,深さ14km)に良く似た想定です。あの地震では6434名が亡くなり,うち神戸市9区では4571名を数えました。
しかし,今回の想定では,その最大の被害が予想されている人口69万人の大田区で24%焼失,死者1073人とされ,それを「最悪の場合」としています。
私の住んでいた神戸市長田区では,震災直前の人口が129,978(1995年1月1日推計)で,震災では921名の死者が出ました。単純計算で人口の0.7%が犠牲になった格好です。これを大田区69万人に当てはめると,5千人近くの被害になるのですが,何をもって「最悪の想定被害」としているのか,私には理解できません。
確かに,「近畿地方に大地震は来ない」という,訳の分からない迷信を鵜呑みにして日ごろの地震対策を怠ったという側面はありました。逆に言い換えれば,東京から見て神戸の被害は「防災意識の低い土地に起こった例外現象」に映るのでしょうか。
阪神・淡路大震災の発生は真冬の午前5時46分と,まだ街が動き出す前の時間帯です。壊滅的な建物被害を出した中心街の三宮周辺にも,まだ人は疎らな状況でした。新幹線線路も崩落していましたが,新幹線事故も発生していません。もちろん,あの時間に地震が発生したからこそ,命を失ったという人々が大勢おられる訳ですから,それをして「不幸中の幸い」などとのたまうつもりはありません。しかし,あと2時間遅く,7時46分にあの地震が襲ってきたなら,通勤でごった返す三宮ターミナル周辺の被害を連想しただけでぞっとします。

わずか17年程度前の神戸の震災の被害状況(実数)に学ぶことはこの程度なのかと,私にとっては逆の意味で衝撃的な数字が並んでいます。
[78633] 2011年 6月 26日(日)02:47:00【1】ニジェガロージェッツ さん
大阪2題
[78597] futsunoおじ さん
都道府県の山
選定本題にはコメントなしで,事実確認のみにて失礼します。
大阪府 金剛山 1125m
金剛山頂1125m周辺は奈良県御所市に属しています。
確かに大阪府最高地点(標高1053m)は金剛山にあるので,大阪で一番高い山には違いなく,登山アクセスも大阪府千早赤阪村側からの登山本道,金剛山ロープウエイが整備されているので,大阪の山として一般に認識されてはいるところです。
#ただこの話題,futsunoおじさんも[52918]にて,[52900]北の住人さんとの会話にありました。

余談ですが,麓の千早赤阪村では東日本大震災後に減少した外国人観光客呼び戻しの一策として,韓国人観光客招致の目玉として「憧れの金剛山に日本で登ろう」とPRしていく方針を決めた,とか。
韓国の人々に気に入ってもらえれば良いが,「クムガンサン」ではなく「コンゴウサン」だし,雄大な奇岩群がシンボルの景勝地クムガンサンとは山容が全く異なっているし,ガッカリさせないことを祈ります。

[78602] 2011 年 6 月 21 日 (火) 00:10:44【1】 白桃 さん
♪ようこそここへ、クッククック私の青い鳥
当然、このオヤジギャグは受けません。
小生はオヤジではありませんが,たまにはオヤジギャグに付き合いましょう。
桜田淳子さんが衝撃的だったのは,自身が大阪市の一部であると歌の冒頭で告白しています
まったく受けません!
[78531] 2011年 6月 11日(土)12:13:55ニジェガロージェッツ さん
打止めに
今回の騒動?
最初のきっかけとなったのは白桃さんの記事でしたが,それを騒動にまで発展させたのは小生です。特に今回の話題とは無関係な,所謂「白桃化」なる市名駄洒落を持ち出して問題を対比させた手法には行き過ぎがあり,申し訳ございませんでした。

先の拙稿[78518]では,単なる「親父ギャグ」をどう組み立てたって「地理」はおろか,「地理雑学」にはならんと言い切ってしまいましたが,これも考えようで,それを楽しんだ当時の,特に小学生や中学生にとっては,結構夢中になれる地理パズルのようなものだったのかなぁとも思い至りました。市名を探し当てて実際に地図を見て,その位置関係や地理背景の連想など「空想の旅」に思いを馳せていくと,それはもう立派な地理雑学になり得ます。その発想の豊かさは私には持ち合わせておりませんでした。ちょっと恥ずかしい限りです。
とはいえ,ここに出入りしているあの子たちに掛かれば,難問揃いの十番勝負でも臆することなくスラスラと解いてしまうのだから,それはもう,朝飯前いぜんのことだったかな。

[78522]般若堂そんぴん さん
単なる「親父ギャグ」
でもかまわない,と思います.
同感です。私は原理主義者ではないので,「親父ギャグ」のような見苦しいことはやめてほしい,とまでは言うつもりはありません。余興として,ちょっと合間に顔を出すぐらいは微笑ましいことです。

[78519]YASU さん
宴の席では楽しくお話しできるのに、文字にすると刺々しくなり残念に思う次第です。
残念な思いをさせて申し訳ございません。
ただ,宴の席でのことは,そこでのこと。「落書き帳」の書き込みでは傍目には角を突き合わせて緊迫した関係に見えても,実際に会ってみると意外なほど打ち解けて和気藹々と談笑できる,それがオフ会の良いところです。
(まだ参加されたこののない皆さんも一度「だまされた」と思ってでも参加してみてください。書き込みでの印象とは違った一面が見えます)
一方で,お互いがリアルに親しくなりすぎると,「これぐらいのことは言っても許されるだろう」と宴の席と同じノリでものを言う書き込みをしてしまう。今回の騒動も,こういったお互いの甘えが背景にあるのかなとも推測しています。

それとは別ですが,最近のニジェの記事は全般にぶっきらぼうな印象を持たれているのではないかとちょっと気になっています。
実は最近,自分の投稿記事にNGワードを2つ設定し,それを出来る限り実践しています。「思います」と「~ですね」です。
「思います」については,以前に申し上げたこともあり,ここでは繰り返しません。
「~ですね」は以前は私も多用しており,今でも実生活の会話ではついつい言ってしまいます。しかし,これを文章にして特に段落末の度に「~ですね」「~ですね」と繰り返した自分の記事には,読んでいて鬱陶しく,後味の悪さを感じていました。
[17876]雑魚さんの問答表の一文
37)「~ですね。」 という呼びかけの語尾を伴う書込みが最近増えた。
に接して,ああ,やっぱりみっともないなと感じました。

「思います」を用いた婉曲な表現も,「~ですね」という文末も,これらの言葉使いが掲示板という媒体に於ける円滑なコミュニケーションを促すツールのようなものだと理解し使い続けていましたが,わざわざ自分の好みではないこの2つの言葉をいやいやながら書くこともなかろうと割り切っています。「~ですよね」と確認を伴う呼びかけは,過去に比喩に用いた一度だけでした。
しかし,文章が断定的で硬くなってしまうのは否めないので,今後はあまりこだわらずに適当にします。

[78529]白桃 さん
落書き帳が「生活の一部分」どころか「生活の殆ど全部」になる予定です
ご同慶の至りです。
長年のお勤めの多大な労苦はあったのだろうけれども,こういう時ばかりは羨ましい。自営業の小生には,一生手に出来ない贅沢です。
[78518] 2011年 6月 8日(水)09:47:25【2】ニジェガロージェッツ さん
謙虚さを忘れるのは恥ずかしい
「白桃様」のつもりで書いてます
ほう。ならばその白桃様であれば,[57177][78510]のような書き込みが許されるのでしょうか。
他人の投稿への何の敬意もない,むしろ喧嘩を売るような比喩まで出して,反論が出れば「白桃様」だという。

[78516] 白桃様
「地理雑学の領域」にこだわりを持っています。
こだわりは誰もが持っていることであり,結構なことです。しかし,そのこだわりを押し付けるのはいただけません。
どうしてもというのであれば,御自身が地理雑学の掲示板を開設され,そちらで好きなように権力を振るうことをおすすめします。

首長の年齢や性別については、単なる「情報」であって、それらをどう組み立てたって「地理」はおろか、「地理雑学」にはならないと思います。
私も白桃様と同じ意見です。私の「地理雑学」の領域にも入りません。しかし,[78512]Issieさんや,[78517]JOUTOUさんのおっしゃるように,地理の好きな人には,人それぞれの「地理雑学の領域」があって然りです。
しつこく言いますが,私の「地理感」からすれば,言葉尻を市名に当てて漢字変換するのは,単なる「親父ギャグ」であって,それらをどう組み立てたって「地理」はおろか,「地理雑学」にはなりません。
だからと言って,「それをいっちゃあ,おしまいだよ!」

落書き帳三大聖地だの,十番勝負四天王だと言われ,毎日のように些細なことまで書き込みを続けていくほど,落書き帳が生活の一部分になってしまうと,つい自分がそこの主のように錯覚してしまうのではないか。その上での物言いでしょうか。性格のひねくれたニジェにはそのように見受けられます。
問題意識として議論されたいのであれば,最低限,他排的なものの言い方は控えてもらいたい。

やはり,謙虚さを忘れるのは恥ずかしい。
[78515] 2011年 6月 8日(水)01:43:33ニジェガロージェッツ さん
Re^2:それがどうしたの?
私も[78512]Issieさんとまったく同意見です。よくもこれほど的確に理路整然と「地理」について定義付けできたものだと感服します。さすがはプロの説得力。

正直なところ,小生も首長の年齢や性別といった情報には,興味を持っていません。
しかし,オーナー自らが進んでされていることでもあり,多くの反応が寄せられ,それぞれに多大な労力を重ねて検証されたデータであることは傍目にも容易に想像がつき,それを自分に関心のない,またはご自身の持つ「地理」の領域から逸脱しているからといって,「それがどうしたの?」と一言で切って捨てるかのような物言い[78510]は,何様のつもりでしょうか。

(今まで黙っていましたが)感じるトコロを率直に述べれば,言葉尻を市名に当てて漢字変換するようなものよりは,ずっと地理っぽい有用なデータです。近頃は幾分減ってきていますが,そういう親父ギャグが受けに受けて,子供たちまでもが「落書き帳」で得意顔で真似をするような状況こそ,私には「最近の書き込みはヒドイ」と感じていた頃がありました。
[78329] 2011年 5月 16日(月)16:29:20ニジェガロージェッツ さん
【第三十一回】震災復興祈念 全国の市十番勝負
問一:栗原市
[77805] 2011年 3月 17日(木)13:57:21【1】ニジェガロージェッツ さん
避難生活でのちょっとした工夫
神戸市のサイト内,東灘消防署のページに 震災時のサバイバルパッケージとして,実際の神戸での震災で役立った知恵を応募し,まとめたコーナーがあります。

そのうち,
救出 救援活動編
避難生活編
には,今すぐにでも役立ちそうな情報があると思われます。ご参考までに。
[77803] 2011年 3月 16日(水)23:56:52【1】ニジェガロージェッツ さん
大震災に際して
東日本大震災の発生から早くも金曜日で1週間になります。被災地では地獄図絵の中,私たちが16年前に味わった苦しみ以上の,想像を絶する苦しみと悲観が覆っていることと察します。言葉がありません。心よりお見舞い申し上げます。

[77769] オーナー グリグリ さん
この都道府県市区町村というサイトにおいても、何かの役に立つことができないかと思います。皆さんにも考えていただければ幸いです。

神戸の震災からの生活復旧に際して,被災者の視点で役立った事や物や考え方などがうまく纏められていたサイトがあれば良いのですが,探しておくように心掛けておきます。ご存じの方は,紹介してあげて下さい。
ただ,今はまだ救助の段階であり,生活復旧の段階ではなく,こういった情報が生かされてくるのはもう少し先のことであろうような気がします。
私が経験した神戸の震災とは規模も状況も性質も異なっているので,東日本各地で置かれている状況とは比べるべくもありません。ですから,以下のことは書き込むべきかどうか,的外れではないかと悩みます。神戸の一被災者の戯言として聞き流していただいた方が良いかもしれませんが,ちょっと書いておきます。

確かに,現地では物資が極端に不足しているようで,非常に苦しい状況にあると報道されています。しかし,震災後の20日や30日くらいの不便や苦労は,そんなものは,・・・そんなものは,震災後20年や30年は続くであろう復興と再建の苦に比べれば,「あの時の思い出」にしかならないでしょう。
被災地外からは,次々と個人宅に飲料水などの生活物資が「ゆうパック」などで大量に送られています。私の身内が神戸の郵便局で荷捌きの仕事をしており,これは(震災を理解している筈の神戸市民からでさえ)現実です。
これを受け取った被災者にとっては,大変有り難く,勇気付けられる善意に違いありません。しかし,この善意を享受できるのは,住所どおりの所に家があり,受取人が無事である家族,つまり,被災度の軽微な人に限られます。それを配達する人々も現地の被災者である可能性が高く,交通不便の中,届ける当てはなく,荷物は捨てるわけにもいかずと,それに費やされる労力を考えただけでも,迷惑な行為です。
一方で,震災後の20日や30日間でさえ,負傷,疾病や苦労の中で体力の限界に陥り,避難所などで失われていく命も出るでしょう。そういった人々に,一刻も早く公的支援が届くように,物流を必要以上に混乱させるようなことはしないでほしい。そう願います。

さて,被災者にとっても,いつまでも避難所に居れるものではありません。
冒頭に申し上げたように,今はまだその段階ではありませんが,2~3ヶ月もすれば,生活再建に立ち上がる住民も出てくるでしょう。
阪神大震災後の西宮市では,震災後2ヶ月で甲子園で選抜高校野球が行われました。全国の人が野球観戦に訪れるこの契機に,飲食業など地元の商店は復興を託して立ち上がりました。しかし,被災地外から来る人々は,まさか被災地でモノが手に入るとは想像もせず,弁当など身の回りのものは現地で買わずにあらかじめ被災地外で調達して西宮に入り,観戦が終わるとゴミだけを西宮に捨てて帰っていったと聞きます。もちろん悪気はないのでしょうが,結果的には西宮の人がいちばん嫌がることをしました。

なんだか,纏まりのない,ただのぼやきのようになってしまい,うまく言えないのがもどかしいのですが,想うところを述べました。
[77647] 2011年 2月 13日(日)14:09:15【1】ニジェガロージェッツ さん
日本との国境形成 (ロシアの地理教科書から)
ご無沙汰しております。[77620]JOUTOUさんに続いて,小生も今年の初書き込みです。

[77643]グリグリさん
「樺太地図解説」 ※独自のページに作り直しました
文字数だけが多い駄文を,とっても綺麗なページに仕上げていただき感激しております。
写真まで添えていただき,オフ二次会での異様な光景が蘇ってきます。ありがとうございました。

と,これだけで今年の初書き込みを済ませてしまうのも味気ないので,この地図にも関連し,ちょうど2月7日の北方領土の日もあって,時期的な話題として少し。

文章中に「千島列島と北方四島」と表現しましたが,もちろん,ロシアの地図にはこのように得撫島以北の千島列島と,択捉島以南の北方四島といった区別はなく, 両者ともに「クリル諸島」と一括りしています。 歯舞諸島と色丹島も「小クリル列島」と呼び,クリル諸島に含めています。
なお,日本で言う「北方領土問題」は,ロシア語で Проблема северных территорий (カナ転字:プロブレマ セヴェルヌィフ テリトリー ,原音[プラブリェーマ セーヴェルヌィフ チリトーリー])と言い,直訳すると「北方の領土の問題」ですから,日本での呼称に倣っています。

昨年,ロシア人の知人からロシア土産として地理の教科書を頂きました。9学年用の教科書で,日本の中学3年生用に相当します。288ページもある堅表紙の分厚い教科書で,その3分の1はロシア全体の地理事項(農業,生態,植生,産業,交通など)を扱い,残り3分の2で国土を9つの地域に区分して,地域ごとの詳細が述べられています。多くの写真と図葉を添えて,見やすく構成されており,読んでいて面白そうな美しい教科書です。

そして,この教科書の「極東地域」の冒頭には日本との国境の形成の推移について,その概説が書かれているので全文(教科書ではページの半分,15行で記述)を紹介します。
「全クリル諸島はロシア固有の領土」だと紋切り型の自説を述べていると思いきや,日本とは無関係であるクリミア戦争への言及など,ちょっとおかしなところがあるものの,概ね淡々と事実関係のみの記述にとどめています。

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露日国境の形成には長い歴史がある。1855年,初めての露日条約《通商と国境について》(調印された時期はロシアにとってクリミア戦争によって不成功)において,サハリン島は《ロシアと日本で分割せず》と承認し,クリル諸島南部は日本領と承認した。1875年,条約《領土の交換について》では,ロシアは全クリル諸島を日本に与え,その代わりに日本はサハリン島への請求権を,完全にロシア固有のものとして公式に放棄した。1905年のポーツマス講和条約では,ロシアにとっては露日戦争と始まったロシア革命の諸事情によって不成功だったが,サハリン南部(北緯50度まで)を日本に割譲した。最後に,1945年の終戦後にサハリン南部および,今回は全クリル諸島がソ連に移った。しかし,クリル諸島南部がソ連,現在ではロシアに属することを日本が争っているために,日本との間では平和条約が調印されていない。
============

クリミア戦争(1853~56,主に英仏土 VS 露)は,日本は無関係で,特に千島列島とは無関係でした。それが当該地域の問題としてロシアに与えた影響としては,当時のロシアの南下政策で,樺太(サハリン)の実効支配の確立を目指して,1853年より陸戦隊を上陸させて樺太各地に軍哨所を建設し始めたものの,ロシア軍基地ということで交戦国の特に英国にこれを攻撃されて占拠されてしまうと,まだロシア領として確定していない樺太やアムール河口部が英国の支配下に置かれてしまうことへの懸念から,相次いで樺太から撤兵したことでしょうか。

訂正【1】 誤字訂正:通称→通商
[76924] 2010年 11月 28日(日)23:40:37【1】ニジェガロージェッツ さん
Re^2: 筑波山登山
[76923]スナフキん さん
紅葉の時期と重なったオフ当日朝に筑波山を目指すには渋滞の泥沼ハマリのリスク、決して低くなかった点はご理解いただきたく。
なるほど。筑波山登山そのものの難度よりも,登山口までの交通の渋滞のご懸念から慎重に行動計画を立てられてのことでしたか。それには気がつかずに失礼しました。
確かに,オフ当日に私が乗った路線バスは筑波山口までは快調に進み,筑波山口から登山口である筑波山神社入口まではちょっと渋滞気味でした。バスは更に標高500mのつつじヶ丘まであるのですが,次の便(?)に乗られた小松原ラガーさんの記事[76836]にはここが渋滞していた様子が書かれています。

ただ,スナフキんさんがメーリングリストに送信された一連の筑波山登山に関する行動計画が,小生を筑波山に登る気にさせたことには,率直に感謝しています。実際に登ってみると,その景色の雄大なことと,険しくもなく緩くもない程よい登山で気持ちが良く,下山後の青木屋では温泉を更に深く味わえました。
直前までは福島県に行こうとか,美味しい蕎麦の話を聞くとそちらへ行こうとしたり,要するに何も考えていませんでした。本当に筑波山に登って良かったと実感しています。

摩耶山や六甲山など、深刻な道路渋滞に登山計画が翻弄されるといったことはあるのでしょうか?
ありません。
一般に六甲山上と言えば標高880mほどの凌雲台地区ですが,そこでさえニジェ[68456]に書いたように
JRの六甲道駅より鶴甲―油コブシ登山道を経て凌雲台まで,休憩なしで歩き続けてちょうど2時間,歩数で12070歩でした。
神戸西部の須磨アルプスや,神戸背山などはもっと手軽です。今日の夕方も[76915]を投稿したあとで高取山登山をして夕食前には帰宅しています。
今日は高取山頂から小豆島の島影がはっきりと見え,更にその向こう側にはかすかに香川県の白鳥あたりの山並みが見えましたが,視界の良いときには向こうからも神戸の山が見えているのだろうか。

P.S オフ会で誰かに似ていると話題にした近畿南部某県の知事が今日の知事選で再選を果たした。
[76915] 2010年 11月 28日(日)15:40:43ニジェガロージェッツ さん
筑波山登山
もうオフ閉会から一週間,早いものです。
オフ閉会当日に投稿したニジェ[76842]の筑波山登山のデータに,恥ずかし過ぎる算数の間違いがありました。
筑波山登山のタイム計算において,
ガイドにある所要時間
225分(2時間45分)
自己所要時間
158分(1時間38分)
いずれもひと目で判る計算間違いです。
正しくは,225分(3時間45分)と,158分(2時間38分)です。謹んでお詫び申し上げます。

ところで,オフ会参加者で何人の人が筑波山に登頂されたのでしょうか?
私が知っている限りですが,
小松原ラガーさんとEMMさんがケーブルカーとロープウエイで往復の登頂,下山([76836]小松原ラガーさん)
futsunoおじさんがケーブルカーで登頂,徒歩で下山。
スナフキんさんがつつじヶ丘から徒歩で登頂,ケーブルカーで下山。
小生の徒歩登下山を含めて5名だけだった??

[76911] スナフキん さん
前泊して余裕の筑波登頂を目指していたにもかかわらず宿側の都合でドタキャン
(中略)
メーリングリストでは前日~当日の行程を二転三転させる
私は関東についての土地勘はなく,筑波山についても全く知らなかったので,一連のメーリングリストでの貴記事からは,前泊しないと徒歩での登頂は難しいほどの山かと理解しました。
ですが,筑波山の観光を扱っているサイトの情報から判断すると,所要4時間とみれば十分自力での登頂は出来ると踏み,13時までに筑波山神社前に着いていれば良しとして,自力登山に臨みました。
もちろん,山をなめて掛かるのは危険ですが,実際に登ってみると神戸の摩耶山程度の山で(むしろ摩耶のほうがきついかも),スナフキんさんと比べて年齢でも体重でもハンディのある私でさえ,3時間で登下山ができたのですから,ちょいと大騒ぎし過ぎではないかい。
[76898] 2010年 11月 27日(土)02:42:24【2】ニジェガロージェッツ さん
2枚の樺太地図
第7回オフ会において,一次会クイズの景品として2004年に再版のあったサハリン州地図を提供しました。もちろんロシア語のみの表記にて,ロシア語の読めない人には訳の解からない「怪しい紙切れ」に過ぎません。それでも地図です。文字が読めなくとも,オフ会に集まってくるような御人の中には,物好きな人が居るかもしれません。

この地図はロシアの「測地および地図作成連邦局」によって作製された,ロシアの州や共和国,地方などの連邦構成体ごとに出版されているもので,サハリン州地図は樺太を50万分の1で,千島列島と北方四島が100万分の1の縮尺で描かれています。

また,景品としては提供しませんでしたが,今秋に同シリーズの2008年版を入手していたのでこれも持ち込んでいたところ,二次会で2枚の地図を広げて比較してみましょうということになりました。

オフ会では2004年版と2008年版の地図として説明しましたが,地図に書かれている出版情報は

【1】景品として提供した地図
「サハリン州 50万分の1」
1995年にロシア測地および地図作成連邦総局(ロスカルトグラフィア)より出版用として製作,極東航空測地社より2004年再版

【2】景品ではない持ち込み地図
「サハリン州 50万分の1」 2008年
2001年に極東航空測地社より出版用として製作,2007年校正

と書かれています。
2枚の地図の変化としては
・2004年に行われたサハリンの行政組織の変更(28都市が村へ改組,後述)
・2009年より樺太南部亜庭湾北岸のコルサコフ(大泊)の東にあるプリゴロドノエ(女麗)に液化天然ガス(LNG)プラントが稼動しており,これを地図【2】では[生産工学コンプレックス]との記載。なお,地図【1】ではプリゴロドノエ[無人]と書かれている。
・地図【1】では行政区画(地区,日本の郡に相当)の境界線が表記されているが,【2】では書かれていない。
・地図【1】では採用されていた山岳地形の陰影ぼかし表記が,【2】ではなくなっている。
・所どころ道路が伸びている箇所が発見できる。
・1990年代中ごろには廃線となった南部横断線(豊真線[3199][3245])が両図とも記載されたままである。
・その一方で新場―留多加間[3322],落合―栄浜間[3218]の鉄道線が【1】では記載されていたが,【2】では消されている。

ところで,グリグリさんがオフ会記録ページを作成する際のデータとしてこの2葉の地図の出版データを上記【1】【2】のように提供したところ,樺太地図は「1995年と2007年の地図比較」が正しいのでは? との疑問がメーリングリストで問われることとなりました。
そこで,ちょっと丁寧に地図を見てみました。

まず,新しい方の地図【2】は表紙に2008と明記(宣伝)されているので,2008年のものとして捉えてよいでしょう。

問題はもう一方の景品として提供した地図【1】です。
表紙には年を明記していないものの,2004年に再版されたものであることから「2004年版」といえるのですが,実際の内容はそれよりは数年古いものです。

サハリン州では,2004年に樺太の3市25町が村に降格され(参考:拙ページ),北海道の一部を含む州全体の都市数が48(18市30町)から20(15市5町)に激減しています。
しかし,地図の内容は2004年のこれらの降格前のものです。このことから「2004年版」とすると,3市25町の村への降格を反映したものかと誤解を与えるかもしれません。
なお,ロシアにおいて都市とは「市」と「町」のことを言い,その要件は,就業構成として総人口の85%以上が労働者・勤労者(非農業従事者)とその家族であること,人口規模としては「市」が1万2千人以上,「町」が3千人以上とされています。また,「町」にも「労働町」や「保養町」などの種類があり,保養町の場合は2千人以上と言われています。ただし,あまり厳密なものではないようで,ロシア全土には人口5千人に満たない市や数百人の町も数多く存在しています。就業構成や人口規模以外にも行政上の意義,産業や文化,生活施設網の発展度も考慮されるようですが,その州や共和国によってまちまちです。
サハリン州で2004年に降格された3市25町の場合,2002年10月9日国勢調査結果によれば人口最大のものは旧内幌町のゴルノザヴォーツク市6,051人,最小のものがオハ地区コレンド町38人でした。
#「降格」と言う表現はあまり好ましいものではありませんが,分かりやすいのでここではこの表現をします。

そして地図の年代を絞る手段として,地図に都市名の書かれ方と人口データを見比べる方法があります。町の場合は都市名の文字を人口2000人以上のものと,以下のものとで大きさに差をつけています。この線上に掛かりそうなのが,
都市1989国調2000推計2002国調2004推計地図【1】の文字
ヤブロチヌイ町(蘭泊)2,7132,5002,1912,100
オジョルスキー町(長浜)2,5082,2001,7851,700
ウグレザヴォーツク町(東内淵)2,2711,7001,7111,700
ヴォストーチヌイ町/オハ地区2,1171,500994900

2004年版【1】の地図では,2002年10月の国勢調査人口が反映されておらず,人口減少により実際には2002年国調時点で2000人を割り込んでいた町が,2000人以上の町として書かれています。一方,1995年の人口データまで遡ると,その頃はサハリン州では人口70万人を上回った最盛期(1989~93年頃)に近く,当時は人口2000人を超えていたと推測される町が地図では2000人以下の表記となっています。
町の人口データで言えば,2000年1月推計人口[9178]に整合しており,また地図の別表にある行政区画の一覧が2001年7月のものと明記されていることから,地図は2001年のものと捉えてよいでしょう。

これにより,オフ会記録ページとしては「2001年と2008年の地図比較」との説明が採られています。

#ニジェ[9178]において,ウグレザヴォーツクの日本名を「落合町川北」と書いているが,「東内淵」がより正確である。
[76842] 2010年 11月 21日(日)22:14:27ニジェガロージェッツ さん
オフ会と筑波山登山
オフ会参加の皆様お疲れ様でした。
相変わらずの馬鹿騒ぎに終始したニジェです。

家計の制約上,遠出の出来ない小生ですが,茨城県へは2003年に両毛の旅[20929]で渡良瀬遊水地の県境巡りで古河市域を両毛人(当時)さんの車でかすめただけの実質「未経県」だったことや,神戸空港から茨城への便があることから,ちょっと無理して参加しました。
同じく完全に未経県な福島県に足を延ばすことも考えましたが,結構時間の制約があり,これは断念しました。その分,早目に筑波入りをして,筑波山登山をすることにしました。

ほぼ毎週六甲山や神戸背山の山歩きをしているので,結局のところ普段の休日と同じ事をしたことになりますが,ひとつ贅沢なことは山歩きのあとで,オフ会場のホテルの温泉にのんびりと浸れること。まあ神戸にも,山の疲れを癒してくれるおねえちゃんたちがいる福原という温泉街が,ん?こらこら。金もないくせに。

こうして,昨日は同じ飛行機で茨城入りをした小松原ラガーさんとつくばセンターまでご一緒し,ここで豪華な正餐[76836]を予定していた氏とは別行動をとり,筑波山神社の青木屋へ直行。当然,まだ誰もオフ会メンバーは居ません。
観光案内所では筑波山ハイキングのお勧めルートとして,筑波山神社・標高約280mから白雲橋コースで一気に女体山頂・標高877mへ登り(所要110分),筑波山上を御幸ヶ原へ(所要15分)を経て,男体山頂・標高871mへ移動(更に15分)した後,ふたたび御幸ヶ原へ(所要15分)へ戻りケーブルカーにそった御幸ヶ原コースを筑波山神社へ下る(所要70分)ルートを教えてもらい,昼食を済ませて早速登ることにしました。
ガイドにある上記所要時間を合計すると225分(2時間45分)となり,山上でちょっと時間をとっても十分明るいうちに戻ってこれる計算です。

実際にこのコースで登ってみると,
筑波山神社(12時48分)→女体山頂(13時56分)→男体山頂(14時18分)→御幸ヶ原で休憩(14時30分~35分)→筑波山神社(15時26分),合計所要時間158分(1時間38分)でした。因みにこの間の歩数は13,327歩。
御幸ヶ原ではケーブルカーで先に到着していた小松原ラガーさん,EMMさんと遭遇[76836]
登山道の状況は六甲の登山道によく似ており,MasAkaさんの解説によると,筑波も六甲も花崗岩の山だから似ているだろうとのこと。私には特に摩耶山(神戸市灘区,標高702m)の青谷道登山コースに非常に良く似ていると感じました。あまりにいつもと同じ光景なので,道中で振り返えればポートアイランドが見えそうな錯覚さえも。

さて,15時30分に青木屋へ入ると,すでに白桃さんやグリグリさんの一行が到着済み。
記録すべきは,今回のオフ会で通算のオフ回参加経験者の合計は60名の大台に。
第1回参加28名+第2回新規参加14名+第3回新規参加3名+第4回新規参加6名+第5回新規参加3名+第6回新規参加4名+第7回新規参加2名=合計60名
(60名で書き込みから受ける印象と実際にオフで会った印象との一致ランキングと,ギャップランキングの投票でもしたらおもろいかも)
それと,もう一つ。落書き帳誕生日11月21日に初めて掛かった目出度いオフ会となりました。

オフ会会場での顛末については,他の参加者からの書き込みにお任せするとして,(というより,私からはとてもとても・・・)開催に尽力された幹事のいっちゃんさんのお骨折りと,オーナー・グリグリさんを中心とした暖かい輪に感謝感謝!
朝風呂で入った屋上の露天風呂から眺める景色は,まさに「雲上の湯」。絶景でした。

帰りの飛行機から見た富士山の絶景に見とれながらも,早くも次のオフ会に思いを馳せて。
[76793] 2010年 11月 15日(月)19:11:27ニジェガロージェッツ さん
渡辺は番地にあらず
[76789]EMM さん
全国の渡辺さんが起こした運動により大阪市中央区久太郎町4丁目の「番地」として残っています。

「 」付きで「番地」などという,なんとでも解釈できるいい加減な表記はやめましょう。
一般に番地というと,地番を連想します。
細かい指摘で恐縮ですが,大阪市中央区久太郎町四丁目の「渡辺」は,新住居表示における街区符号です。
[76277] 2010年 10月 1日(金)10:31:25【3】ニジェガロージェッツ さん
近江俊郎 伊藤久男
[76267] 白桃 さん
逃亡先国の人口データにつきましては、(中略)コチラをご参照されることをお勧めいたします。(笑)
どこかと思えばうちですか(汗)。いつもご愛顧ありがとうございます。
最近はまともな運営を滞らせており,白桃さんのご宣伝通りのサイトには程遠い状態で申し訳ございません。
2009年1月1日も2010年1月1日の人口データも入手しておりながら,データの更新作業をサボっています。ということで,この場をお借りしてフォローさせていただきます。

[76266] 淡水魚 さん
この州は(中略)人口は約143万人
2010年1月1日現在の州(地方/クライ)の人口は1,400,426人です。丁度奈良県人口と同じくらいです。面積は日本国の約2倍強ありますが。

この州は17郡と7都市で構成
郡(地区/ラヨン)と都市(市/ゴーラト)の数としてのデータとしては間違いありませんが,行政区画構成を述べるのであれば誤解を招く表現です。
正しくは17郡と6都市です。7市のうちの1市は郡に属しています。

人口は578,000人だそうです。ガイドさんの説明では、物騒な名前の市より多いとのこと。
確かに,物騒な名前の軍港都市の人口をわずかに上回っていますが,これはここ2年前あたりからのことです。両市はこの地域(日本面積の16倍)の双璧をなす二大都市で,歴史的にも人口争いを続けています。今月行われる国勢調査の結果では逆転しているかも知れません。その程度の微妙な差です。そう言えば区の数も共に5区です。
以下,両市(便宜上,淡水魚さんの逃亡先を「大河市」,もう一方を「軍港市」と記す)の人口推移です。
日付大河市人口軍港市人口備考
1897年2月9日14,97128,933国勢調査
1939年1月17日207,347206,432国勢調査
1959年1月15日322,744290,608国勢調査
1970年1月15日435,962440,889国勢調査
1979年1月17日552,848554,789国勢調査
1989年1月12日597,678631,015国勢調査(常住人口)
2002年10月9日583,072594,701国勢調査
2005年1月1日579,047586,829国家統計局発表
2006年1月1日578,060583,673国家統計局発表
2007年1月1日577,409580,821国家統計局発表
2008年1月1日577,345578,800国家統計局発表
2009年1月1日579,168578,619国家統計局発表
2010年1月1日580,665578,213国家統計局発表
以上,市単独での人口です。
日本の市町村制度とは違うので分かりにくいですが,大河市は市と市域が一致している一方,軍港市の場合は市域が市外の農村人口26,613人(2010年1月1日)を含み,市行政区域全体の人口は604,826人(同)です。なお市行政区域の面積は大河市386km2,軍港市562km2です。

また,1939年1月17日の国勢調査結果については全国的に水増しの可能性が指摘されています。実はその2年前の1937年1月6日にも国勢調査がありましたが,「人口が予想外に少ない」と鋼鉄の男の逆鱗に触れ,関係者が処刑されたと聞きます。その「やり直し」調査が1939年の国調ですが,最近では幻となった1937年調査こそが実態に近いのではないかと言われています。国の体制が違えば国勢調査も命がけです。(平成22年国勢調査当日の書き込みに因み)

ところで,もうそろそろきちんとした都市名を挙げてみてはどうでしょうか。
こういう推測を好む人も多いことは間違いありませんが,読み難いことで好まない人もおられるでしょう。私はどちらかと言えば後者です。


追伸:
メンバー紹介のニジェ名義の変更有難うございました。なんだか照れくさいですが,メンバー紹介文にたがわぬように引き締めなければなりません。早速の更新作業に感謝申し上げます。
大変お手数をお掛けいたしました。
[76255] 2010年 9月 27日(月)21:57:46【1】ニジェガロージェッツ さん
世界史的な大事件の日など
[76254]Issie さん
私が首都に滞在したちょうど1年後(同じ日付)に,世界史的な大事件が発生しました。
私の場合は,その事件発生の当日に淡水魚さんの逃亡先に居て,その日の便で新潟空港に着きました。空港に着くと報道陣に囲まれてしまいましたが,私たちの乗った飛行機が事件から一番早いあの国からの便だったとか。
しかし,事件そのものは遠い首都や保養地半島でのお話で,離陸時はまだ今回の淡水魚さんの逃亡先の都市では何も起こっていませんでしたから,私たちは新潟に着いてから事件の勃発を知りました。新潟駅前で新潟日報の号外を入手して,今でも記念に持っています。

[76251]淡水魚 さん
この国の東海岸と首都を結ぶとても長い鉄道
この鉄道,以前[76254]Issieさんが行かれた頃とは違うルートで走っており,近年はうちの街を通っています。
[76249] 2010年 9月 26日(日)20:21:27【1】ニジェガロージェッツ さん
自分色変更
[76245]グリグリ さん
自分色変更についての勝手なお願いでお手数をお掛けしました。

今まで慣れ親しんだ自分色を変えるのはちょっと抵抗もあったのですが,旧自分色の登録[3052]から既に8年が経過し,あの時はまだパソコンを購入した直後のことで,まだまだ(今でもそうですが)PCを使いこなしておらず,色鉛筆でニジニ・ノヴゴロド市のクレムリ城壁や森や市街地をイメージしてメモ用紙に彩色し,それをネットで適当に見つけた色見本のRGB値をつけてお願いしたものでした。で,お願いした自分色が「落書き帳」に現れるや「あ~!やってしまった!!」と叫びたくなるぐらい,空気を読めていない弩派手な色彩に自分自身が引いてしまいました。因みに当時の落書き帳は「限りなく黒に近い濃紺」の背景に,書き込み文字は白でした。なお,まだ事前に確認画面で色を確認する機能はなかったように記憶しています。
[21240]グリグリさん
ニジェさん色登場の際は結構衝撃的だったんですが。(笑

ようやくまともに見れるようになったのが現在の背景色に変更になってからのことで,
[7515]グリグリ さん
明るい背景だと、いわさんや ニジェガロージェッツさん、Firoさんなどのちょっと明るめ濃いめの色がよく映えますね。

とはいえ,やはり自分色が拙かったというのは今に至るまで感じていたことで,同じニジニ・ノヴゴロドをテーマにしたにしても,もっと大人しい配色に変えるとか,雪に覆われた冬のニジニをイメージしてみようとか,あれこれ思案していたところです。
メンバー登録ページには
必要性の低い変更や頻繁な変更申請は回避していただければ幸いです。
と注意書きがあり,何度か変更を考える度にこの一文に引っ掛かり思いとどまっていましたが,今回はもう8年も我慢(自業自得ですが)したんだからいいだろうと,甘えさせていただきました。

[76245]グリグリ さん
これまでのオフ会記録ページの自分色は当時の色のままとします。
有難うございます。旧自分色については今でも結構愛着を持っているので,オフ会記録ページで形跡が残っているのは助かります。というより,過去に自分色変更をされたメンバーがオフ会ページに古い自分色で出ているのを確認したので,今回の自分色変更をお願いしたところです。
それで,新しい自分色については,こじつけて見れば冬の夜のニジニに見えなくもないですが,いつまでもニジニ・ノヴゴロドもないだろうということで,本当のところはこういった地理とは何の関係もありません。ミクシィかどこかで知っている方にはそれと分かるかもしれませんが,猫使いさんと同じ系統の配色です。

新自分色は地理と無関係ですので,以前にまがみさんが書いて下さったメンバー紹介文の自分色に言及しておられる部分が整合性が取れなくなってしまいました。メンバー紹介文を編集しておられるご担当の方にはお手数をお掛けすることになってしまいますが,おついでの時で結構ですので変更していただければありがたく存じます。もちろん,当該箇所のみの削除でまがみさんの紹介文そのままでも構いません。

それでは皆様,今後ともどうぞ宜しく御願い申し上げます。
[76228] 2010年 9月 23日(木)09:41:04ニジェガロージェッツ さん
なんと心強い
[76222]グリグリ さん,[76223]JOUTOU さん
お車のお申し出,ありがとうございます。本当に心強い限りです。安心して飛行機の手配ができました。[76224]小松原ラガーさんと同じく,皆様の帰路(または翌朝の余韻)の邪魔にならない程度で,筑波山口のバス停まででも結構ですので,お送り頂ければ大いに助かります。

翻って5年前の神戸オフ会の際に,神戸在住のものとして,遠くから参加された皆様に何のフォローも出来ずにいたことが恥ずかしく感じるところです。

[76224]小松原ラガー さん
安い切符がどんどんなくなっているようで
情報ありがとうございます。昨晩私も手配しましたが「安い切符=通常料金でない切符」にもいくつかのランクがあるようで,そのうち最安値のものは既に売り切れだそうで,行きは次点のものが2席,帰りはこれも売り切れになっていました。

#私はネットで切符を手配するのが未だに抵抗があって,旅行社で購入して少々高くついても「安心料」だと割り切る時代遅れな人間ですが,実際はどんなものだろうか。旅行社で手配すると損をするのでしょうか。

[76222]グリグリ さん
皆さんの目に触れるようにして参加者を増やす施策の一つ
オフ会の情報交換は,現地情報などそれだけでも結構な地理ネタになり,仮にオフ会そのものに参加ができなくても,同じ方面へ出かける際には有用な情報が多いと推測します。どんどん書き込みしましょう。
まだ2ヶ月先ですが,オフ会関連の書き込みが多くなってくると触発されるメンバーもいるのでは。
#茨城県か。あの弩臭い委員長はどうしているだろうか。

[76226]グリグリ さん
都道府県の面積イメージ
小生の地元では,兵庫県がものすごく広い県だとの認識が共有されていて,うちの父などは「北海道の次に広い」という変な思い込みがあります。実際にはそんな訳はなく,東北6県のうち宮城県の除く各5県より狭く,同じ瀬戸内にあっても広島県よりも狭いのですが,それを言っても「そんなばかな」と信じてくれません。
千葉県の面積については,小学校の壁に貼ってあった北方領土のポスターに「千葉県の面積とほぼ同じ」と書かれていたのが頭に刷り込まれており,5000平方キロ程度だと数値が浮かびます。
[76220] 2010年 9月 22日(水)00:00:12ニジェガロージェッツ さん
わかりにくい
オフ会参加への情報交換について,本来ならばメーリングリストに書く内容ですが,[76198]グリグリさんからの「書き込みで情報交換しませんか」に甘えてここに書き込んでいます。
オフ会参加をお考えでない閲覧者には目障りかもしれませんがご容赦の程。

[76218] 小松原ラガー さん
ホテルから筑波山口までバスで行って、そこで乗り換えて、という方法で8:30のバスに乗れる

土地勘のない地方の状況は分かり難いのですが,この文面からはつくばセンター8:30のバスが筑波山口に寄るのかと解釈し,この1時間ほどいろいろと調べ回ったのですが,結局そのような路線ない。
では,8:30分に間に合うようにつくばセンターへ出るのだろうと調べたところ,「つくバス」の北部シャトル7便の筑波山口発7:35→つくばセンター着8:10に乗らないとだめなようです。
いや,その筑波山口へ出るのが,[76219]油天神山さんのご注進により,ホテル最寄の筑波山神社入口→筑波山口の登山バスで間に合う便が休日ダイヤには無いとのこと。油天神山さん,地元からのフォローありがとうございます。

人数さえ揃えばホテルに筑波山口バス停までの送迎を頼めるかもしれませんが,う~ん,やはり帰りの神戸行き飛行機は難しいか。
[76207] 2010年 9月 19日(日)21:42:24ニジェガロージェッツ さん
Re:オフ会
[76206] 小松原ラガー さん
スカイマーク&茨城空港体験談を現地生中継できるかと思います。
私は現地生中継するつもりはありませんが,同じく神戸―茨城のスカイマークを利用しようと計画しています。
オフ会毎に各々の経県値が話題になっていますが,私の場合,過去の参加オフ会に関しては経県値の上昇に寄与しませんでしたが,今回の茨城県へは両毛人(当時)さん運転のお車で古河市域をかすめた通過のみで,実質無経県です。北に隣接する福島県へはかすりもしていません。参加が叶えば,それだけで3点増,福島県まで足を延ばせば更に3点増が期待できます。

スカイマークの神戸―茨城便の11月時刻は,神戸発8時25分→茨城着9時40分ですから,ちょっと無理すれば福島県いわき市への寄り道は出来そうです。しかし・・・

ただ、帰りがどうやっても日曜日の神戸行きのスカイはムーリーなので、
帰りの便は茨城発10時40分→神戸着12時05分ですから,この10時40分に搭乗するのが無理だということでしょうか?
[76146] 2010年 9月 4日(土)13:21:21ニジェガロージェッツ さん
ペーロケさんへ
[76134]
「区」コレクションの条件は満たしませんが、番外編としていかがでしょうか?
折角のご提案ですが,謹んでお断り申し上げます。

この件については,[76137]まかいのさん,[76138]右左府さん,[76141]グリグリさんが「自治会の区」として,類例を挙げてくださったように,全国的に決して珍しいものではないと断じます。フォロー有難うございます。

このことは,区コレクションを立ち上げた当初より,EMM編集長より[51003]
実際の住所以外で「区」が使われる例として、自治会組織名があります。
(中略)
このような「正式な住所ではない“区”」はほかにも色々事例があると思います。
ひっくり返せばキリがないと言う事でもあります。
とアドバイスくださり,重ねて[51185]にて
やはり自治会組織名としての「区」は対象としては扱いにくそうですから、郵便番号が付与されている事例とかでなければ対象としない方が良さそうです。
と述べておられるように,郵便番号簿への記載の有無を採用基準とすることで結論としています。そこから更に発展させるつもりはありません。
もちろん,「そこまでやってやろう」という漢が現れれば,喜んで編集をバトンタッチさせていただきます。

hmtさんが[75709]の記事で解説されている上越市旧市域に設定された「地域自治区」でさえ,住所に用いられず,郵便番号簿に記載がないので採用を見送っていますが,上越市の新市域の13ある「地域自治区」は住所になっているので,この対比が面白いところです。

なお,神戸においては,東灘区住吉に「だんじりの区」が存在しています。
神戸・住吉/茶屋区だんじりのページには,それらの区は神戸市編入(1950年)以前の旧住吉村の行政単位として設置されたものを継承したことが書かれています。


別件で(スルーするつもりでいましたが),ついでが出来たのでもう一件。
[75952]
ニジェさんが「北方領土は決して行けない所ではない」とおっしゃっていますが
そのように理解されるのは仕方がないかもしれませんが,直接的にそう書いてはいません。
ニジェ[75941]
千島といえども冷戦時代のように決して行けない所ではない
が直接該当する表現ですが,「北方領土」と「千島」の違いは留意願います。
確かに,広義の「北方領土」には北方四島,千島列島に南樺太まで含まれますが,一般に用いられる「北方領土」とは北方四島に限定されるはず。
[75941]にある千島とは,北方領土への渡航に関する制限の範囲外にある中千島,北千島を含んで書いています。具体的にはカムチャツカからヘリコプターで北千島の幌筵島へ渡ることを想定しています。
[75987] 2010年 8月 14日(土)16:23:10ニジェガロージェッツ さん
経県値(旧国版,政令市版)
経県値の旧国版および政令指定都市版についてやってみました。

旧国版については[44780]にて投稿済みでしたが,山城国での宿泊が記憶になく,一方で伊勢国には小学校の修学旅行で宿泊していました。訂正も兼ねて再投稿させてください。
その後のオフ会参加などで宿泊国が増加しているが,06年の金沢オフで始発電車まで同志と夜明かししたのも宿泊にカウントしています。フォーマットは[75922]伊豆之国さんのものを一部改変して使用させて頂きます。

【畿内】
山城● 大和● 摂津◎ 河内○ 和泉●
【東海道】
伊賀● 伊勢○ 志摩○ 尾張● 三河○ 遠江▲ 駿河▲ 伊豆▲ 甲斐× 相模▲ 武蔵○ 下総○ 上総× 安房× 常陸×
【東山道】
近江● 美濃○ 飛騨△ 信濃○ 上野○ 下野● 磐城× 岩代× 陸前● 陸中● 陸奥○ 羽前○ 羽後○
【北陸道】
若狭○ 越前● 加賀○ 能登○ 越中○ 越後● 佐渡×
【山陰道】
丹波● 丹後● 但馬○ 因幡○ 伯耆○ 出雲○ 石見○ 隠岐×
【山陽道】
播磨◎ 備前○ 備中● 美作○ 備後○ 安芸● 周防● 長門○
【南海道】
紀伊○ 淡路○ 阿波● 讃岐○ 伊予○ 土佐○
【西海道】
筑前○ 筑後● 豊前● 豊後○ 肥前○ 壱岐× 対馬× 肥後○ 日向○ 薩摩× 大隅×
【北海道】
渡島× 後志● 石狩○ 胆振● 日高× 天塩● 北見○ 十勝× 釧路× 根室× 千島×
【国が設置されなかった地域】
琉球× 小笠原× 樺太○

居住◎5点-2,宿泊○4点-38,訪問●3点-22,接地△2点-1,通過▲1点-4,未踏×0点-20,計233点

政令指定都市についても神戸市の順位を上げる目的でやっておきましょう。
【制度創設時1956年に指定】
大阪市○ 名古屋市● 横浜市● 京都市● 神戸市◎
【1960~70年代に指定】
北九州市● 札幌市○ 川崎市▲ 福岡市○
【1980~90年代に指定】
広島市● 仙台市● 千葉市○
【2000年以降に指定】
さいたま市× 静岡市▲(×) 堺市○(▲) 新潟市●(×) 浜松市▲(×) 岡山市○ 相模原市×
【未指定=計算外】
熊本市●

居住◎5点-1,宿泊○4点-6,訪問●3点-7,接地△2点-0,通過▲1点-3,未踏×0点-2,計53点
( )で書いたものは政令市指定以降の訪問歴による。 それによると8減点で合計は,計45点
[75960] 2010年 8月 12日(木)14:41:48【1】ニジェガロージェッツ さん
千島
[75947] 実那川蒼 さん
千島の件に関するお詫び

了解です。
こちらもちょっときつい書き込みになってしまい,お恥ずかしい限りです。
[75940,75942]については,正直なところ頭にきていました。しかし,極力感情を抑えてレスしたつもりで,ましてや実那川蒼さんとは昔のあんどれさん頃に何度かレスを交わしたこともあり,ある意味安心して議論できると踏んでいました。それだけに,当該2稿が全文削除されてしまったのは残念です。

落書き帳の皆さんにご迷惑をおかけすることになってしまいました。
削除2稿には名指しこそ無かったものの,明らかに私に対してだけに向けられたものでしたから,「落書き帳の皆さん」と大風呂敷を広げる必要は無いでしょう。確かに拙稿を含めて見苦しいといえばそうかもしれませんが,傍目には結構おもしろく読んでいたかもよ。

さて,話を千島に戻して
単なるお遊びが国際問題にも発展しかねません。だから、私は千島国を除くのが適当であると考えます。
日本政府からの「国民各位の理解と協力を要請」に反して,千島国経県値を稼ぐためにロシア経由で北方領土へ渡航するというのは,ロシア語を習得したり,サハリン現地での手続き等に掛かる労力や手間を考慮しても割りに合わない「お遊び」です(お前ならやり兼ねんな・・というのは無しよ)。そこまでのケースを想定して懸念なされるのであれば,私からは別のケースを提示します。
日本の旧国を舞台にした遊びですが,別に「経県値」を計算して楽しむのは日本国民だけに許されるものではありません。ビザなし交流の受入事業に沿って日本各地を訪問する北方領土在住のロシア人が楽しんでも良いでしょう。

更に,戦前の千島でそこを故郷として育った旧島民の方々もいらっしゃいます。また,千島列島で軍務についた旧陸軍第91師団(北千島),第89師団(南千島),独立混成第129旅団(得撫島),独立混成第41連隊(松輪島)に属しておられた方もおられます。
ゆえに,私は千島国を含めるのが妥当と考えます。

誤解して欲しくないのは,千島国について意見を求められた場合に「含めるのが妥当」と考えているだけであって,千島について何も書かれていないものに「千島国を含めるべきだ主張」するものでも,「千島を除くのはけしからん」と噛み付くものでもないことは留意願います。

むしろ私は「書き足した部分」が「千島国を加えるべき」という説の補強に見えて
[75930]にて書き足した部分は,中段の「ところで,先のリンクした・・」で始まる部分以降ですが,今何度読み返しても千島と北方4島の人口データしか書かれていません。この数字の羅列がどうして「千島国を加えるべきという説の補強」になり,政治的に悪い印象を与えてしまったのか理解に苦しみます。というより,先入観が入って読まれると,どのように受け取られてしまうかの怖さをまざまざと見せつけられた気がします。
私が地理ネタとして千島のロシア側の人口経年データで提供したかったのは,

1)国後島の人口増加
ロシア,特に極東部では人口減少が顕著で(例外としてヤクーツク市域のように2002年人口246,279→2009年284,115と激増しているところも),サハリン州の人口減少も酷いものがあります。その中で,国後島の古釜布(ユジノ=クリリスク)の堅実な人口増加が目立つ
2)択捉島の人口減少
3)北千島での人口減少と,得撫島以北ではセヴェロ=クリリスク以外は無人
4)人口2千人程度のクリリスクと,セヴェロ=クリリスクに「市」の称号が与えられているが,6千人を超えるユジノ=クリリスクは「町」である。

といった程度で,「千島国を加えるべき」の主張はどこにも盛り込んだつもりはありません。

以上,千島の話はおしまい。

ところで,旧国版経県値で「難しい」と感じるのは,旧国の国境(くにざかい)がどこであったか。これが時代時代で結構動いているような気がします。昨年のオフ会で石島に行きましたが,あのあたり一帯の島々は小豆島も含めて元々は備前国でした。東京の葛飾区だって元は下総国だったのでは。墨田区にある「両国橋」ってそういう意味だっけ→[75315]hmtさん
これは千島国にセヴェロ=クリリスクを含めるかどうかにも通じる議論ですが,いや,いかん,また千島の話に戻っとる。
どの時代の国境で判断するのかはそれぞれの参加者が独自の主観に基づいて判定すれば良い事と割り切る他はないのかも。

話題転換。
「経県値」で用いる「県」の字。日頃何気なく使っているが,この字は切断した生首を吊るした象形文字では。「首」の字を逆さにして糸で吊るして血が垂れている。旧字「縣」も同じ。
「民」の字は「目」に鋭い針を突き刺して眼球を潰したもの。つまり県民とは・・・。


[75953] オーナー グリグリ さん
居住経験のあるところから。既出だったら申し訳ありませんが,神戸市のサイトに市域変遷図があります。
加古川市のサイト内を検索するとpdfファイルで年表と地図が見られます。

【1】訂正1箇所 江東区(誤)→墨田区(正),ほか格助詞の訂正,記事リンク追加
[75945] 2010年 8月 11日(水)10:39:10ニジェガロージェッツ さん
Re: 令制国版経県値
[75942]
いちいちほじくり出して目くじらを立てる
誰が?

整合性がとれていなくても結構。あくまでお遊びですから。「旧国」とは令制国のことだけれども,私も含めてそのように表現していません。「旧国」と書いています。整合性がないことも,現在は令制国は存在していないことも承知の上で楽しんでいる。
むしろ,[75940]小笠原のことや,[75942]令制国時代に訪問している人は皆無などと,予想外の方向に論議を展開して目くじらを立てているのは実那川蒼さんでは。そのような印象を私は持ちます。

令制国版経県値に千島国を含めるべきだという主張
そのように主張するつもりはありません。そのことは[75930]の冒頭に,「千島国の存在に気付かず表を作成されたのならば,大して気にもならない」と書いています。
わざわざ (千島を除く) と除外されているので,なんで除外したのか聞いているだけです。
単純に それだけ の書き込みで終わらせれば,ただのいんねんにも聞こえますから,千島国の沿革と,現状として千島は訪問に制限がかけられているものの,決して訪問不可能な土地ではないことの説明を加えて投稿しました。
それでも,やはり「千島を除くのはけしからん!」とだけのレスにも見えるので,訂正機能を使ってロシア側の人口資料や現状などを書き足した「地理ネタ」としてバランスを取ったつもりです。
結果として更に千島国を含めるべきと躍起になっている印象を与えてしまったとすれば,[75941]に「書き方が悪いからだろうから,不徳の致すところ」と自分の非を認めています。

[75922]にて伊豆之国さんが千島を除かれたことについては,大体見当はつきます。「北海道は11箇国に分割されているのは史実。しかしそのうちの千島国は全域が事実上ロシア領となっており行けない」といったところでしょう。
しかし,それは当方の邪推でしかありませんから,他に考えがあってのことかもしれないので「なんで」と確認したかっただけです。
もちろん,回答していただかなくとも結構です。そこまでは求めません。
[75941] 2010年 8月 11日(水)02:30:00ニジェガロージェッツ さん
旧国
[75940]
憤慨
誰が?
千島についてあれこれ書いたのは[75930]だから,私のことを言っているのだろうけれども,違いますな。
まあ,そのように受け取られるのは書き方が悪いからだろうから,不徳の致すところではあるが,わざわざ千島を除いたことについて「なんで」と疑問に感じたから書き込んだまでのこと。私の知人(ロシアとは何の関連もない港湾技術者)に,仕事で国後島へ行った人もいます。

旧国に「行った/行ったことが無い」という話題については,その領域について「経県」とやらを判定するものであるから,「国」が設置された当時と今とでは状況が違うので,現在の日本国の統治範囲は基本的に無関係。逆に言えば,現在では日本国外となってしまった北千島については旧国の一つ「千島国」に入っていたのだから,例えばセヴェロ=クリリスクに行ったことがあれば「千島国の経県」として可でしょう。

その一方で残念なところですが,小笠原諸島については旧国が設置されたり,どこかの旧国に編入されたこともなく,ゆえに考察の範囲外になり,目が行かないのは当たり前です。
そういう意味では,本来ならば琉球も含めるべきではなく,しかしながら現在沖縄県として1県を成しているので,お遊びと割り切って「琉球国」と見なして付け加えるのも,これまた妥当なところでしょう。

私に言わせれば,旧国を現在の日本国の統治の及ぶ範囲に合せて「小笠原はどうだ」とか,それに漏れるからといって現実に存在したものを除外したりするほうが,それこそ単なる「お遊び」に政治的問題を持ち込んでいると感じます。
先に[75930]にしつこく書いたように,千島といえども冷戦時代のように決して行けない所ではないのだから。
[75930] 2010年 8月 8日(日)22:57:46【2】ニジェガロージェッツ さん
千島国
[75922] 伊豆之国 さん
北海道10ヶ国(千島を除く)
千島国の存在に気付かず表を作成されたのならば,大して気にもならないのですが,はっきりと千島国の存在を知った上で除かれています。なんで千島を除かれたのでしょうか。ロシアに占拠されているとはいえ,日本の領土です。

ここで千島国の範囲について確認しておきます。といっても,既に[67072][67073]のhmtさんの記事に詳細が書かれています。
千島国の沿革について要約すると,1869(明治2)年の設置当初は国後島と択捉島をその範囲とし,1875(明治8)年の千島樺太交換条約で得た得撫島から占守島までを1876(明治9)年に編入,1886(明治19)年には根室国花咲郡に属していた色丹島を千島国色丹郡として編入しています。これにより,千島国の範囲は,色丹島を含めた「千島31島」になりました。

「行った-行ったことがない」という話題の範囲を日本国内に限定するのであれば,千島樺太交換条約で得た得撫島から占守島までは,サンフランシスコ平和条約で放棄しているので対象外ですから,この場合は千島国の範囲は択捉,国後,色丹の3島ということになります。

この地域に行かれたことがないのであれば,単純に 千島× とすれば良いだけのことです。
ロシアに占拠されている現実から,千島国への入域は絶望的ですが,四島交流や墓参,自由訪問の枠組みが存在し,不可能という訳ではありません。
敢えて想像を働かせて穿った見方をすれば,本当は行ったことがあるのだが,望ましい訪問の仕方ではなく,我が国国民の北方領土への訪問について(平成11年9月10日閣議了解)にある,「国民各位の理解と協力を要請する」に反した方法で入域した。具体的にはロシア国内で入域ヴィザを得て訪問した,とはさすがに想像に過ぎるでしょう。

千島31島全体を千島国として見ても良いのであれば,北千島や中千島は「我が国国民の北方領土への訪問について」の範囲外ですから,ロシアのヴィザを取得すれば堂々と入域できます。といっても確かに交通手段の有無など入域の難しい地域ですが,カムチャツカのペトロパヴロフスク=カムチャツキーからヘリコプターで北千島へ渡ることは可能で,以前にはカムチャツカ観光とセットにしたツアーもありました。中千島については無人島ばかりで交通手段は皆無ですから,何かの取材に同行するか,学術調査団に加わるかでもない限り,入域は非常に困難でしょう。

ところで,先のリンクした「我が国国民の北方領土への訪問について」のページは,独立行政法人北方領土問題対策協会のサイト四島のかけはしにあるものですが,同サイトには2004年と2005年の1月1日現在の各島人口(ロシアの統計より)が載っています。それによれば,
2004年2005年
択捉島6,9566,904
国後島6,6226,697
色丹島3,2223,195
歯舞群島00
私の手元にもロシアの人口統計書で2005年から2009年までの各年1月1日付けの市,町および各地区のデータがあるのですが,それによれば
地区2005年2006年2007年2008年2009年
北クリル地区(北千島および中千島のうち計吐夷島以北)2,5222,4702,4222,4222,389
クリル地区(択捉島および中千島のうち得撫島から新知島まで)6,9046,7396,6026,3876,152
南クリル地区(国後島,色丹島,歯舞群島)9,8929,97010,01110,16810,189
とあり,2005年1月1日の人口データは合致しています。
因みに都市人口は
都市2005年2006年2007年2008年2009年
北クリル地区セヴェロ=クリリスク市(占守郡幌筵島柏原)2,5222,4702,4222,4222,389
クリル地区クリリスク市(紗那郡紗那村紗那)2,0772,0051,9111,7951,719
南クリル地区ユジノ=クリリスク町(国後郡泊村古釜布)5,9736,0816,1666,3316,465
セヴェロ=クリリスク市の市域(5km2とのデータもあり)が当方掴めておらず,占守島の一部を含んでいる可能性もありますが,統計上,北千島ではセヴェロ=クリリスク(柏原)以外は無人,中千島は(2005年時点で)完全無人と読めます。
[75507] 2010年 7月 20日(火)00:08:34ニジェガロージェッツ さん
1945年5月の神戸市区再編について
[75506]グリグリ さん
神戸市兵庫区および長田区の設置日についてのご回答ありがとうございました。

現在は、変遷情報の兵庫県のページの「改称する」という記述を尊重しています。
確かに神戸市史においても,1945(昭和20)年5月1日に行われた8区を6区に再編成した件について神戸区と林田区については,それぞれ有名地名である生田区,長田区に改称したとの記述があります。どちらも生田神社,長田神社と,神社の名称という共通点があります。

ただ,1933(昭和8)年1月1日に湊西区を兵庫区に改称したときは,区域の変更を伴わない単純な改称でしたが,生田・長田両区の改称については,いずれも神戸・林田両区から管轄区域に変更があり,関連する旧区で言えば神戸区,湊東区,林田区が廃止されて,新たに生田区と長田区を設置したと述べた方が適切だと考察するところです。
同時に湊区も廃止されましたが,こちらは全区域が兵庫区に吸収されていることから合区による消滅と言えます。

さて,その変遷情報の兵庫県のページに,件の区再編成については,
区設置神戸市林田区を長田区に改称する
区設置神戸市湊区, 湊東区の一部を兵庫区に編入する
区設置神戸市湊東区の一部を神戸区に編入し、神戸区を生田区に改称する
とあるだけで,詳細欄にも同じことしか書かれていません。

もちろん,編集された88さんに於かれても,事情は十分承知の上で上記のように書かれたとは推測し,小生もそれを尊重します。ただ,この文面だけでは,
1)林田区から長田区へは,過去例の湊西区→兵庫区と同じ単純な改称
2)湊東区の一部が兵庫区に編入されたことは述べられているが,実際にはその3倍近くの面積を兵庫区に提供した林田区については完全に欠落している。

そこで,もし,私に同じ事を書かせていただければ,
区設置神戸市林田区より一部を兵庫,須磨区に移管し,須磨区の一部を林田区に編入し,林田区を長田区に改称する
区設置神戸市湊区全域,林田区の一部,湊東区の一部を兵庫区に編入する
区設置神戸市湊東区の一部を神戸区に編入し,神戸区を生田区に改称する
となります。

参考のため,区再編成の前後の面積・人口データを提供します。
1944(昭和19)年2月22日人口調査
面積km2人口
神戸市115.05918,032
灘区19.48152,713
葺合区7.56107,610
神戸区7.6867,731
湊東区2.0455,106
湊区6.9650,303
兵庫区4.00132,765
林田区10.60209,446
須磨区(本区)24.74108,846
須磨区(垂水)31.9933,512

1945(昭和20)年11月1日人口調査
面積km2人口
神戸市115.05378,592
灘区19.4870,636
葺合区7.5617,914
生田区8.9327,411
兵庫区13.9470,664
長田区10.05112,992
須磨区(本区)23.1044,873
須磨区(垂水)31.9934,102

人口については,空襲による市街の破壊の影響などで昭和20年11月データでは激減していますが,こちらは無視していただいて,面積について見ていくと,区再編成の様子が読めてきます。
面積のやり取りは以下のようになります。
但し,林田・長田区と須磨区の境界については双方でやり取りがあったので,林田区から須磨区に移管された面積についてはMapionの「キョリ側β」を利用して測ってみました

灘区→灘区19.48
葺合区→葺合区7.56
神戸区→生田区7.68
湊東区→生田区1.25
湊東区→兵庫区0.79
兵庫区→兵庫区4.00
湊区→兵庫区6.96
林田区→兵庫区2.19
林田区→長田区8.25
林田区→須磨区0.16
須磨区→長田区1.80
須磨区→須磨区22.94
垂水→垂水31.99
合計115.05
[75449] 2010年 7月 7日(水)11:09:05【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:濁音で始まり濁音で終わる市人口決定戦
[75448] 白桃 さん

決勝
御殿場10:9 行田(延長10回)

その後日談では,国際大会に出た御殿場が,いきなり
御殿場 1:10 ヴォルゴグラード
で,初戦敗退だったとか。

バグダッドが強そうだが。
[75443] 2010年 7月 5日(月)22:43:50【4】ニジェガロージェッツ さん
大阪市の区を越える地名
[75442]の東尻池村のお話だけでは何の役にも立っていないので,グリグリさんが収集されている「政令指定都市の区を超える地名」を大阪市より。

7年前にまがみさんが[10425] にて紹介されていた地名より,
中央区日本橋1,2丁目/浪速区日本橋3-5丁目,浪速区には日本橋東1-3丁目,日本橋西1-3丁目もあり。
浪速区下寺1-3丁目/天王寺区下寺町1,2丁目
阿倍野区万代1丁目/住吉区万代2-6丁目,住吉区には万代東1-3丁目もあり。
住吉区東粉浜1-3丁目/住之江区粉浜1-3丁目,粉浜西1-3丁目
淀川区西中島1-7丁目/東淀川区東中島1-6丁目

[10425]には出ていませんが,他には
天王寺区上本町1-9丁目/中央区上本町西1-5丁目
おっと,諸々見落とした。【2】【3】追加
中央区難波1-5丁目,難波千日前/浪速区難波中1-3丁目
中央区本町1-4丁目,南本町1-4丁目/西区西本町1-3丁目,靭本町1-3丁目
中央区森ノ宮中央1,2丁目/城東区森之宮1,2丁目[53270]逆太郎さんなどにも記述あり。頂点隣接。
中央区玉造1,2丁目/天王寺区玉造本町,玉造元町
天王寺区勝山1-4丁目/生野区勝山北1-5丁目,勝山南1-4丁目
生野区新今里1-7丁目/東成区大今里1-4丁目,大今里西1-3丁目,大今里南1-6丁目
があります。

まがみさんが[10425]に述べておられるように,
大阪市の例は、もともと一つの市の中にあった町名を、行政運営上の都合で別々の行政区に分割しただけですから

市街地図を見ていつも思うことですが,大阪や神戸の区の境界線は直線的なものが多く,東京や横浜の地図を見てその入り組んだ区界に戸惑いを(いや,嬉しさを)感じます。
大阪市の場合は昭和18年の全市的増区(15区→22区)をやった時に,入り組んでいた区の境界線を道路に沿ったものに変えた経緯があり,地図を見てもスパッとした区割りになっています。
これは昭和20年に行政区再編成(8区→6区)をした神戸市街地にも言える事で,横浜や東京の区の境界線のように入り組んでいません。他にも地形的な条件も重なるのかも。
(街中に東尻池村のような例外“飛び地”もあるけれど)


ところで,今のところコレクションのタイトル「自治体越えの地名」に対して,そのパーツ「政令指定都市の区を超える地名」では,「越え」「超え」と異なっています。どちらでも良いのか?
いや,境界線を「越える」のであって,限度や物量を「超える」のではないのだから「越える」が正しいのでは。

ついでに,[75437] ペーロケ さん
相手が各上
これはいただけません。
[75442] 2010年 7月 5日(月)21:51:04【2】ニジェガロージェッツ さん
東尻池村を記載している地図
毎度ながら,地元の細かな話題にて失礼します。

ニジェ[75415]
兵庫区東尻池村については[45136]に記したとおり,ネット地図上での確認は難しいところです。

神戸市のサイト内に,固定資産(土地)地番参考図が公開されており,その兵庫区には東尻池村の字が三つ出ており,それぞれの位置を図示した参考図がPDFファイルで閲覧できます。
ところが,それらいずれもが長田区内のJR神戸線(山陽本線)の高架沿いに連なる,兵庫区の飛び地になっています。
Mapionにはもちろん出ていませんが,場所を提示すると次のようになります。
兵庫区東尻池村字井領田
兵庫区東尻池村字ツワヤ
兵庫区東尻池村字堂免

東尻池村の位置がそうだとすると,なぜ長田区ではなく兵庫区に属しているのかが疑問として出てきます。
あくまで私の推測ですが,林田区の南部を兵庫区と長田区に分割した昭和20年当時,町通が起立せずに残った東尻池村残存部としては,山陽本線と和田岬線の国鉄用地に多く存在し,それを一括して兵庫区に編入した。その後,兵庫区の区域になった和田岬線部分の東尻池村は隣接町通に編入されて消滅したため,長田区の山陽本線沿いの飛び地部分のみ現存することとなったのでは,と考えます。

ただし,[45136] に兵庫区の「幽霊地名」として挙げたもののうち,御崎村,吉田新田,川崎町が固定資産(土地)地番参考図に出ていません。縮尺1000分の1の図にさえ場所の提示が困難であったとも考えられず,同図はあくまで参考図としての情報だとすれば,兵庫区内部にもまだ「東尻池村」がどこかに(御崎村や川崎町も)存在している可能性は案外高いのでは?

なお,この固定資産(土地)地番参考図だけでは境界線と地番しか書かれていないので場所が分かりにくいものの,同じ図葉を用いた固定資産(土地)路線価図と見比べれば,道路が書かれているので場所が分かりやすい。因みに灘区のJR六甲道駅敷地の町名,字名は凄いことになっています。一方,東灘区では深江字繁昌通4丁目とか深江字札場通4丁目,深江字栄通4丁目,5丁目など,消滅したと思われた地名が阪神電鉄本線敷地に保存されていたり,嬉しくなります。
[75415] 2010年 6月 28日(月)01:36:17【1】ニジェガロージェッツ さん
まとめレスにて恐縮
[74466] Issie さん
“港”を意味する гавань は havan (通常の転字法では gavan' だけど)。デンマーク語の havn (コペンハーゲン=ケーベンハウン Koebenhavn の havn),ドイツ語の Hafen,そして英語の harbor に通じるのでしょうね。
コペンハーゲンの「ハーゲン」にはそういう意味でしたか! 室谷信雄氏もびっくり?
といっても,関東人のIssieさんに分かるわけないか・・・。
かつての玉葱の産地,泉佐野出身で泉州弁の「わ~れ~」で親しまれた吉本新喜劇の元祖ハゲキャラ。
関西人にとって「コペンハーゲン」で連想するのは室谷信雄,その室谷信雄氏がハゲたのはタマネギの祟り。


[75356] mul-sa さん
三重県伊賀市にある「上野市駅」は、市町村合併に伴って伊賀市になった今も、駅名がそのまま
ロシアや韓国の事例との対比で引き合いに出されたと推察しますが,以前にも[60988]にてドラえもん(当時)さんが話題にされておりました。それに対して,[61010]にて今川焼さんが
昔の市町村名で出ている駅名
として一覧にされていました。ところで,この一覧にある
小野町駅 1954.12.01 小野町→小野市
注釈に「駅名が必ずしも旧市町村名に由来するとは限りません」と書かれているように,これについては,小野町駅(おのまちえき)は合併による小野市誕生(昭和29年)以前の加東郡来住村(きしむら)の地にあり,小野町(おのちょう?,おのまち?)ではありませんから,何だろう。
駅前の大住橋を渡れば神戸電鉄小野駅周辺の旧小野藩の陣屋町だった「小野町」に通じているところから付けられた名か。この「小野町」は昭和43年に本町,本町一丁目,上本町,東本町,西本町に分解され,現在の小野市には存在しない町名です。


[75360] YASU さん
まだ駅名が変わっていなかったのですね。
書店に並んでいる地球の歩き方「A32 シベリア&シベリア鉄道とサハリン 09年~10年版」の発行は2008年11月のことで,ゴーリキー・モスコフスキー駅,スヴェルドロフスク駅については市名は変わったが駅名は古いままであるとする説明がありましたが,今となっては古い情報です。さて,次の改訂で変わっているかどうか。

郊外のウラル山脈中にヨーロッパとアジアの境界のオベリスクがあり、シベリア鉄道乗車時に目を凝らして探しました。山脈という割にはなだらかな丘で、少し残念でした。
地図を見てもウラル山脈でもシベリア鉄道の通るペルミ=エカテリンブルク間は「中ウラル」と呼ばれ,特に急峻な山脈ではなく,丘状の台地になっています。チェリャビンスク辺りの「南ウラル」に至っては現地はまるで平原のようかも。シベリア鉄道のモスクワから1777km地点にあるオベリスク《ヨーロッパ―アジア》の画像を見ても山中という感じがしませんね。大陸はスケールが違います。

なお,ニジェ[75354]
今回は駅名の変更だけで,支局名オクチャブリ(十月),ゴーリキー,スヴェルドロフスクには変更が及んでいない模様。
これはロシア鉄道の支局名であり,地名ではないので,連邦法《地理的対象の名称について》の対象外でしょう。地名ではないので会社が何と呼ぼうが勝手といったところか。


[75411] グリグリ さん
地名コレクション「自治体越えの地名」の編集ご苦労さまです。
小生の地元神戸では,昭和20年5月1日の行政区再編成で湊東区の分割による町名の分断がありました。8年前[2536]に書き込んだ所です。
兵庫区に引き継がれたところは「西」をつけています。下記の5町が分割されましたが,昭和49~55年にかけて新住居表示の実施による町の統合があり,区界を挟んでどちらも現存しているのは2例のみです。

分割前・湊東区分割後・生田区(中央区)/兵庫区の順。▲は現存しない町名を示す
古湊通1-4丁目古湊通1,2丁目/▲西古湊通1,2丁目
中町通1-6丁目中町通1-4丁目(現存2-4丁目)/▲中町西通1,2丁目
多聞通1-8丁目多聞通1-6丁目(現存1-5丁目)西多聞通1,2丁目
橘通1-6丁目橘通1-4丁目西橘通1,2丁目
上橘通1-4丁目▲上橘通1,2丁目/西上橘通1,2丁目

他にも,林田区の廃止によって林田区東尻池村と林田区東尻池町1-10丁目が,兵庫区東尻池村と長田区東尻池町1-10丁目に分かれました。どちらも現存していますが,兵庫区東尻池村については[45136]に記したとおり,ネット地図上での確認は難しいところです。

ところで,この昭和20年の行政区再編成と関連することで,「市区町村プロフィール」にある兵庫区と長田区の「施行日」の間違いについて,5年前の[42913]にて,それとなく
現在ある兵庫区と長田区の基となる行政組織は、1931年9月1日にそれぞれ湊西区と林田区という形で存在したとご理解なされた上で、両区の「施行日」欄に1931.9.1と打ったのだと
書きましたが,実際のグリグリさんの見解はどうでしょうか。


[75412] k-ace さん
北海道総務部行政資料室が1971年に編集した「樺太基本年表」によれば,豊原市誕生5年を迎えた1942(昭和17)年7月1日に豊原にて「第37回奥羽6県,道樺市長会議」が開催されています。何だか面白そうな「市長会議」ですが,北海道市長会の前身のようです。その沿革には
昭和16年10月には樺太豊原市の加入により奥羽六県北海道樺太市長会と改称された。続いて昭和 17年7月に北見市が加入した。
昭和18年に地方行政協議会令の公布により、地方行政協議会が東北と北海道に設置された。このため、同年に開催された第38回奥羽六県北海道樺太市長会で、市長会も奥羽と北海道に分離するよう提案され了承された。
と記されています。

豊原郡と豊原市の消滅年月日はよく分からなかったので“?”を付けたのですが。
よく分からないにもかかわらず,年月を具体的に 1942/11/--? とか,1945/8/--? と書かれたのでは,年月は特定出来たものの日にちだけが分からないと読み取ってしまいます。
私の場合は樺太にはちょっとした「思い入れ」があるので敏感に反応しただけかもしれませんが,ソ連軍による占領が始った1945年8月24日以降の豊原市役所にて,軍政下の困難のもとで業務を続けられた市職員や関係者のことを想えば,とてもではありませんが,軽々に1945/8に豊原市消滅とは言えないです。

因みに,最後の樺太庁長官,大津敏男氏の任期は1943年7月1日から1947年11月17日ですが,1945年12月30日にソ連軍により逮捕され,翌1月25日にハバロフスク刑務所に移送されています。ソ連からの帰国は1950年のことで,何をもって1947年11月17日までを任期としているのか気になるところです。
[75398] 2010年 6月 24日(木)22:23:54ニジェガロージェッツ さん
極東地方の分割
[75395]にて,k-aceさんの書かれた豊原市関連の日付の間違い指摘をしておきながら,私自身の過去記事にも間違った日付を書いていたことに最近気付きました。この場を借りて訂正させていただきます。

ニジェ[9178]にあるサハリン州のデータについてですが,その創設を
1932年9月20日
としてしましたが,正しくは1932年10月20日です。
[9178]を書いた当時,参考にしていたロシアのサイトМой Городサハリン州には1932年9月20日と書かれており,これを鵜呑みにした格好ですが,ロシア側の各種資料を多く当たっていると,どれも10月20日になっており,また同日付で極東地方(当時)の内部にはサハリン州を含めて4州設置されています。

なお,このサハリン州については,もちろん日本領土であった南樺太を含まない,北樺太だけの州です。このサハリン州が,日本から強奪し新設した「南サハリン州」を編入した経緯は前稿[75395]に記しました。ただ,前稿にちょっと触れている,今では別の行政体であるハバロフスク地方との絡みが分かり難いかもしれないので補足しておきます。

小生も永らく疑問に感じていたのが戦前の極東ソ連領の「州」についてであり,今ある「ハバロフスク地方」や「アムール州」などとは全く違っている州割りとなっていました。古い戦前の満州国周辺の地図に,「ウスリー州」とか「ゼーヤ州」など,今の地図では見られない州が多数存在しており,どのような変遷でこれらが今の行政区画になったのかが分かりませんでした。最近になっていろいろな資料を当たっているうちに,ようやくその疑問が以下のように解けてきました。

1929年当時,現在のロシア極東連邦管区の範囲にあったのは,1922年4月27日創設でヤクーツク市を首都とする「ヤクート自治共和国」(参考[9740])と,1926年4月1日創設でハバロフスク市を首都とする「極東地方(ダリネヴォストーチヌイ・クライ)」の2つでした。
今ではオホーツク海に面したハバロフスク地方およびマガダン州と,北極海に面したサハ共和国の境界は,両海の分水嶺よりもかなり北に入り込んでいますが,当時のヤクート自治共和国と極東地方は分水嶺を境界にしていました。また,極東地方には一時極東共和国の首都でもあったチタ市周辺までをも含んでいましたが,1930年7月30日にイルクーツク市を首都とする「東シベリア地方」の新設があり,チタ周辺はそちらに移管されました。

そして1930年12月10日,極東地方に含まれる形で,その北東部に次の3つの民族管区が新設されました。
「オホーツク=エヴェン民族管区」・・首都:ナガエヴォ → オホーツク
「コリャーク民族管区」(参考[9299]
「チュコト民族管区」(参考[9493]

「オホーツク=エヴェン民族管区」は,当初ナガエヴォ村(現在のマガダン市の港湾部分)を首都としていましたが,翌年オホーツク村(現在のハバロフスク地方オホーツク町)に移っています。この時,極東地方とヤクート自治共和国の境界は,現在のハバロフスク地方とサハ共和国の境界の線まで移動しています。

続いて1932年10月20日,極東地方内部に4つの州の設置がありました。
「アムール州」(参考[9125]
「サハリン州」(参考[9178])・・州都アレクサンドロフスク=サハリンスキー市
「カムチャツカ州」(参考[9299])・・既存のコリャーク,チュコト両民族管区が従属
「沿海州」・・州都ウラジオストク市

更に1934年5月7日,極東地方に含まれる形で「ユダヤ自治州」(参考[8825])が設置され,その46日後の1934年6月22日,極東地方内部に4つの州の設置がありました。
「ゼーヤ州」・・州都ルフロヴォ市(現在のアムール州スコヴォロジノ市)
「ハバロフスク州」・・州都ハバロフスク市
「ニジネアムール州」・・州都ニコラエフスク=ナ=アムーレ市
「ウスリー州」・・州都ニコリスク=ウスリースキー市(現在の沿海地方ウスリースク市)

以上,これでもって極東地方の内部は「8州,1自治州,3民族管区」に区分されました。

しかし,それも束の間,「オホーツク=エヴェン民族管区」が1934年9月15日に廃止され,その西部はニジネアムール州に,東部の現在のマガダン州に相当する領域は極東地方直轄地になりました。これには「死のコリマ街道」とも呼ばれた,マガダンに本部を置く「ダリストロイ」と呼ばれる金鉱山開発組織との関連が指摘されています。

その後,1937年9月26日に東シベリアにチタ州[11606]の設置があり,同日,極東地方のゼーヤ州はチタ州に併合され消滅しました。
そして,1938年10月20日に極東地方そのものが廃止となり,北の「ハバロフスク地方」(参考[8720])と,南の「沿海地方」(参考[8619])に2分割されました。
沿海地方には「沿海」と「ウスリー」の2州が含まれ,それ以外の5州,1自治州,2民族管区はハバロフスク地方に引き継がれました。

その後,これらの「小さな州」が相次いで廃止されたり,一方でハバロフスク地方から分離されていきます。
沿海地方では
・1939年6月5日,「沿海州」を廃止
・1943年9月18日,「ウスリー州」を廃止
・1948年,ソヴィエツカヤ・ガヴァニ周辺をハバロフスク地方に移管

ハバロフスク地方では
・1939年5月,「ハバロフスク州」を廃止
・1946年2月2日,日本からの占領地に「南サハリン州」設置[75395]
・1947年1月2日,「サハリン州」に「南サハリン州」を併せ,ハバロフスク地方より分離独立
・1948年,ソヴィエツカヤ・ガヴァニ周辺を沿海地方より編入
・1948年2月,「アムール州」にチタ州内の旧「ゼーヤ州」の領域を併せ,ハバロフスク地方より分離独立
・1953年12月3日,北部直轄地に「マガダン州」[9430]を設置し,カムチャツカ州に属していたチュコト民族管区をマガダン州に移管し,ハバロフスク地方より分離独立
・1956年1月23日,「カムチャツカ州」は「コリャーク民族管区」を併せたまま,ハバロフスク地方より分離独立
・1956年1月23日,「ニジネアムール州」を廃止

大体上記のような経緯で,ソ連末年までの行政区画が完成した訳ですが,一連の流れの中で,州界などの一部には更に細かな変更もあったことを含み置きください。異論,訂正があればお聞かせいただければ幸いです。
なお,当初の「民族管区」という呼称は,1980年に「自治管区」と改称されています。

ソ連解体に前後して以降では,
・1991年,「ユダヤ自治州」がハバロフスク地方より分離独立
・1992年4月27日,「サハ共和国」が共和国宣言
・1992年6月17日,「チュコト自治管区」がマガダン州から分離独立
・2007年7月1日,「カムチャツカ州」と「コリャーク自治管区」が合併し,「カムチャツカ地方」が成立
現在に至っています。
[75395] 2010年 6月 24日(木)00:17:25ニジェガロージェッツ さん
豊原市の誕生と消滅
[75363] 2010 年 6 月 17 日 (木) 00:17:52 k-ace さん
一覧表に樺太・豊原を加えておられるのが嬉しくてたまりません。ただし,誤記はいただけません。
#だれか詳しい人が間違いを指摘してくれるものと期待していましたが,どなたも放置のようですから,のこのこ出てきました。
表形式のまま引用したかったのですが,要点のみ分かりやすくするため表を崩しています。あしからず。

豊原郡 (郡消滅年月日)1942/11/--?
まず,豊原郡の消滅については,当方これを精査する詳しい資料を持ち合わせておらず,断言できません。
豊原郡豊原町が豊原市になった1937年7月1日,同時に(豊原町を失った)豊原郡が北に隣接する栄浜郡と統合して豊栄郡となったとする説明もしばしば散見されますが,同日付の昭和12年樺太庁告示第144号(雪の字さんのサイト「樺太日和」より)には
豊原郡の区域を左の如く改む
とあり,豊原市設置以降も豊原郡が存在していたことを示しています。
この日に「豊原→豊栄」と変更になったのは支庁名であり,前出の昭和12年樺太庁告示第144号の冒頭に
「豊原支庁」を「豊栄支庁」に改む
とあります。
その後1942年11月1日に樺太庁の8支庁が4支庁に再編成され,豊栄支庁は南の大泊支庁と合流し新たに豊原支庁となっています。k-aceさんが豊原郡消滅年月日を 1942/11/--? としておられるのは,この日に合わせてのことでしょうか。

豊原市 (市誕生日)1937/4/1 (市消滅日)1945/8/--?
豊原市の設置(豊原町を廃止し,7月1日から豊原市をおく=1937年6月29日付,昭和12年樺太庁告示第138号)は前述の通り 1937/7/1 の間違いです。落書き帳には今年に入って紅葉橋律乃介さん作成の一覧[74352]にも提示されており,私も以前[4059]に書いていました。

一方,豊原市の消滅が1945年の8月中というのは,少し早すぎます。
ウィキペディアの豊原市のページには,その廃止日を1949年6月1日とし,廃止理由として国家行政組織法の施行のため(領有権の放棄)としていますが,小生は法律に疎いのでここでは置いておきます。

1945年8月以降の現地の状況を追っていくと,豊原にソ連軍の魔の手が及んだのは,樺太各地からの避難民でごった返していた豊原駅前を8月22日15時30分から16時20分にかけて,降伏を示す白旗が各戸に翻っているのを無視して,ソ連軍機Tu-2型6機,Yak-9型3機で非情にも空爆したのに始まります。既に停戦後のことでもあり,翌23日23時にソ連軍の先遣部隊500名が列車で豊原入りし進駐を開始し,24日早朝には鉄道の踏切などに警戒の兵を展開しています。国道を南下した戦車隊が市内に入ったのはこの後のことで,NHK豊原放送局や新聞社,金融機関が接収され,ソ連軍の軍政が始まったのは8月27日のことでした。
(樺太一九四五年夏 金子俊男著 1972年講談社)

では,その時点で豊原が(ソ連側から見ても)ソ連領になっているのかと言えば,それは違います。当然,豊原市も存在しています。
北海道総務部行政資料室が1971年に編集した「樺太基本年表」によれば,「12月6日,南樺太衛戍司令官アリモフ少将,樺太庁,豊原支庁,豊原市役所視察」とあり,そして「1946年2月20日,ソ連,樺太・千島の領有宣言」と書かれています。

一方,ユジノ=サハリンスク市の公式ウエブサイトにИстория города(街の歴史)のページがあり,ここにロシア側の行政の移り変わりが述べられています。
それによれば,
=====
・1946年1月,2月,日本の行政県(ニジェ注:樺太庁のこと),市町村行政機関を廃止
・1946年2月2日,ソ連最高会議幹部会令により南サハリンおよび千島列島の領域にハバロフスク地方に属する南サハリン州を設置し,その州都をトヨハラ市とする
・1946年6月4日,トヨハラ市をユジノ=サハリンスク市に改称する
・1947年1月2日,ソ連最高会議幹部会令により南サハリン州をサハリン州(州都・アレクサンドロフスク=サハリンスキー市)に統合し,サハリン州をハバロフスク地方より除外
・1947年4月18日,サハリン州州都をユジノ=サハリンスク市に移転
=====
と書かれています。
このことから,ロシア側の情報から樺太の現地では,豊原市の廃止は1946年2月ごろ,より具体的には2月2日の南サハリン州の設置に合わせてのことと推察します。

繰り返しますが1945年8月のことではありません。
[75354] 2010年 6月 15日(火)00:51:35ニジェガロージェッツ さん
改称(露鉄の駅名)
わが国のお話ではなく恐縮ですが,自分の投稿した過去記事の内容が,その後変更になっていることでメンテナンスさせていただきます。

ニジェ[73479]
確かにゴーリキー州ゴーリキー市は改称されましたが,鉄道ターミナル駅はゴーリキー・モスコフスキー駅のまま
2009年の大晦日に書いたものですが,その3ヶ月後の2010年3月30日付けで件の駅名は「ニジニノヴゴロド・モスコフスキー駅」に改称されていました。
ロシア連邦政府決定第196号によるものです。
市名の改称から20年近くも経って,何を今更という気がしますが,それがあの国らしいところです。
上記リンク先はロシア連邦政府のサイト内にあるもので,全文ロシア語ですが,鉄道駅名の付与と改称についてのことで,鉄分豊富な諸兄の中には興味を持たれる御仁もおられるかもしれないので,参考まで微力ですが下記に逐語訳しておきます。
(因みに小生は「鉄」ではありません)

-----------------
2010年3月30日付 決定第196号
カレリア共和国における地理的対象への名称付与,およびニジニ・ノヴゴロド,スヴェルドロフスク両州における地理的対象の改称について

連邦法《地理的対象の名称について》に応じて,ロシア連邦政府は以下のように決定する:

公開株式会社《ロシア鉄道》の申し出により,国家登記、台帳および地図作成連邦局の提出に基づき:
a)カレリア共和国領内の公開株式会社《ロシア鉄道》支局,オクチャブリ鉄道のコチコマ=レドモゼロ-2線の14,39,62,83,102および121km地点に開設された鉄道駅に,《チョールヌイ・ポロク》,《クチョゼロ》,《ペトロゼロ》,《ルゴゼロ》,《チクシャ》および《レドモゼロ-2》の各名称を付与する

b)改称:
ニジニ・ノヴゴロド市内に存在する公開株式会社《ロシア鉄道》支局,ゴーリキー鉄道の鉄道駅,ゴーリキー=アフトザヴォードをニジニ・ノヴゴロド=アフトザヴォードに,ゴーリキー=モスコフスキーをニジニ・ノヴゴロド=モスコフスキーに,ゴーリキー=ソルチローヴォチヌイをニジニ・ノヴゴロド=ソルチローヴォチヌイにそれぞれ改称する。
エカテリンブルク市内に存在する公開株式会社《ロシア鉄道》支局,スヴェルドロフスク鉄道の鉄道駅,スヴェルドロフスク=トヴァールヌイをエカテリンブルク=トヴァールヌイに,スヴェルドロフスク=パッサジールスキーをエカテリンブルク=パッサジールスキーに,スヴェルドロフスク=ソルチローヴォチヌイをエカテリンブルク=ソルチローヴォチヌイに改称する

ロシア連邦首相 V・プーチン

#ニジェ注:
アフトザヴォードは自動車工場を表す名詞。また上記の場合,本来は形容詞だがソルチローヴォチヌイは操車場を,トヴァールヌイは貨物駅を,パッサジールスキーは旅客駅を名詞的に表す。

今回は駅名の変更だけで,支局名オクチャブリ(十月),ゴーリキー,スヴェルドロフスクには変更が及んでいない模様。
なんだか・・・
[75190] 2010年 5月 26日(水)01:26:00ニジェガロージェッツ さん
大阪都区割り遊び,練馬の標高
現在進行形の他都市の事案を,おもしろ半分に遊ぶのも不謹慎で気が引けるのですが,ついついやってしまいます。
実はこのテーマ,ご当地“大阪都区部”の大学に在学中の25年以上前に,大阪を東京並みの特別区に再編したら,などなど,学友たちと仮想地図に線を引き,人口計算などいろいろやっていた「休み時間」のお遊びでした。

実際にやってみると,それぞれの市や区との結びつきなどいろいろ思い巡らせたり,結構地理の勉強になったりもします。

[75188] 小松原ラガー さん
私もこの辺りが大変気になっています。守口、門真は一つの区割りにしてもよいのではと思っています。
両市を合体させて「松下区」なんかも有りだったりして。まあ,特定の企業に因む名もどうだろうかと,鶴見区をひっ付けて大阪花博に因んで「緑区」としてみました。
そして,同じやるなら,大阪にもともとあった市よりも古い法人格の東,西,南,北の4区も復活させましょう。
以下,お遊びニジェ案です。市の合併もありでやりましたから,1区減って19区になっています。

区割り人口面積人口密度テキトーにつけた区名
(大阪市)北区,都島区,旭区302,56022.6813340.39北区
(大阪市)福島区,此花区,西区,港区293,61234.148600.23西区
(大阪市)西淀川区,淀川区268,57826.879995.46西淀川区
豊中市388,54436.3810680.15豊中区
吹田市355,08336.119833.37吹田区
(大阪市)東淀川区,摂津市261,31628.139289.58東淀川区
(大阪市)鶴見区,守口市,門真市386,00633.1711637.20緑区
(大阪市)中央区,東成区,城東区320,50121.8514668.24東区
大東市,(東大阪市)旧枚岡市251,594石切区
(東大阪市)旧布施市,旧河内市379,339布施区
(大阪市)平野区,東住吉区333,71225.0513321.84東住吉区
八尾市271,49041.716508.99八尾区
松原市,(堺市)美原区163,89729.905481.51松原区
(堺市)北区,東区240,66026.069234.84大泉区
(堺市)中区,南区277,04558.384745.55泉北区
(堺市)堺区,西区280,84852.315368.92堺区
(大阪市)住之江区,住吉区284,24030.119440.05住吉区
(大阪市)大正区,西成区,浪速区259,57821.1512273.19南区
(大阪市)天王寺区,阿倍野区,生野区310,26819.1716185.08天王寺区
大阪19特別区合計5,628,871623.259031.48
1特別区あたりの平均296,25632.80
人口データは[75187]に同じ。東大阪市の旧枚岡市については,東大阪市サイトの人口の動き(PDF)のA,B地域の合計値,面積は不明(古い旧市のデータを探したものの見つからず)

大阪市中央区は一応「東区」に入れていますが,旧東区,旧南区に分割し,それぞれ「東区」「南区」に入れるとより理想的です。


[75142] N-H さん
小生の至らなかった点,フォロー有難うございます。過去記事もあったとは,検索不足でした。
練馬区のサイト内にある,“練馬が一番!!”の中に,練馬区の標高 というPDFファイルを見つけました。ここには石神井高校敷地内に設置されている水準基標に基づく実数で海抜54mとしていますが,N-Hさんの仰る標高58m地点についても記述があります。
[75187] 2010年 5月 25日(火)20:45:53【1】ニジェガロージェッツ さん
大阪都20区の区割り構想
今日の産経新聞朝刊に,“大阪維新の会の「大阪都」構想”と題して,20区の区割り案の地図が出ていました。大阪市24区を8特別区に,堺市7区を3特別区に,周辺9市を9特別区に再編して20特別区を設置する構想ですが,以下に紹介させていただきます。区割りだけでは面白味がないので,かなり適当ですが区名も勝手に考えてみました。

区割り人口面積人口密度テキトーにつけた区名
(大阪市)中央区,北区,都島区,旭区378,67331.5611998.51上方区
(大阪市)福島区,此花区,西区,港区293,61234.148600.23西区
(大阪市)西淀川区,淀川区,東淀川区446,18340.1211121.21淀川区
豊中市388,54436.3810680.15豊中区
吹田市355,08336.119833.37吹田区
摂津市83,71114.885625.74摂津区
守口市146,63212.7311518.62守口区
門真市128,32812.2810450.16門真区
(大阪市)東成区,城東区,鶴見区355,43421.1316821.30東成区
大東市125,51818.276870.17大東区
東大阪市505,415 61.818176.91東大阪区
(大阪市)平野区,生野区334,80423.6814138.68平野区
八尾市271,49041.716508.99八尾区
松原市124,59716.667478.81松原区
(堺市)北区,東区,美原区279,96039.307123.66大泉区
(堺市)中区,南区277,04558.384745.55泉北区
(堺市)堺区,西区280,84852.315368.92堺区
(大阪市)住吉区,東住吉区289,83519.0915182.56住吉区
(大阪市)住之江区,大正区,浪速区257,62434.577452.24浪花区
(大阪市)西成区,天王寺区,阿倍野区305,53518.1416843.16天王寺区
大阪20特別区合計5,628,871623.259031.48
1特別区あたりの平均281,44431.16
(人口,面積ともに2009年10月1日のもので,今日現在の市区町村一覧(大阪府)に掲載のデータを用いています)

実際に地図で見ると,どうも大阪市内の区割り案が難儀な様子が伺え,特に浪速区,大正区,住之江区の合区は歪に感じます。この区は大阪市域8特別区では最低人口で,何となくですが,どこにも引っ付け難かったのをまとめてしまったような印象さえ受けます。このように大阪市内都心部では無理をして合区しているのに対し,一方で周辺9市はそのままの形で特別区に移行させているので,北東部に人口規模の小さな区(摂津,守口,門真,大東)がかたまっているのが特徴です。

こうなると,パズル感覚で合区の組み合わせ案を別に考えてみたくなりました。また稿を改めます。
[75138] 2010年 5月 19日(水)12:19:42【1】ニジェガロージェッツ さん
標高など
[75137] futsunoおじ さん
市の最高点
神戸市 六甲山 931m 東灘区,北区

もちろん,行ったことがあります。六甲最高峰の震災前の標高が931.13m,震災後には931.25mと,地震による隆起で12センチ標高が高くなりました。
以前は一般人の立ち入ることが出来ないところでしたが[69053],今では自由に行けるようになりました。

ちなみに,住んでいる長田区の最高点は高取山山頂で328.8m,三日前の朝にも登りました。

東京都区部 愛宕山 26m 港区愛宕1
新宿方面に標高40mを超える山があったと記憶していたので,新宿区のサイトを調べると,区内最高地点として都立戸山公園内箱根山の標高44.6mと記されています。新宿区のあらまし
小生は関東には土地勘がないので,この地点が区部の最高点かどうか判断できませんが,詳しい方はフォロー下さい。


さて,「思います」について,[75128] JOUTOU さん,フォロー有難うございました。

商談後の“考えさせてもらいます”という表現は、日本人の感覚で大概は「上司と相談のため保留」という意味になると推測します
関西で「考えさせてもらいま」と言えば,おおよそ断り文句です。(人にもよるでしょうが)
そうとも知らず「あの件,考えてもらいましたか?」と聞けば,もう断って済んだ話なので「何のことや?」と怪訝な顔をされます。
「断る!」とキッパリと言い切ってしまえば角が立つので,これからの付き合いも含めて取引関係を円滑に進める商文化とでも言いましょうか。こういう文化のない地域の人からみると,ただの嘘つきに思えて不可解かもしれません。

いつも一言多い御仁に「一言多いぞ」と苦言を呈するときに,自らも軽い笑いのニュアンスで一言多く言い,それによって,相手の一言多いことをやんわりと許す,これも関西風ですが,こういう文化のない地域の人の反応は,じゃこたろさんの言葉を借りれば
他者に対して「一言多い」といいながら、ご自身が一言多い書き込みをする。しかもそれボケつっこみという形にしてうやむやにする。しかしそれも関西流とういうものと解釈してふれないこととしました。
となります。誤解を与えないためにも,関西人同士の会話に限定したほうが良いのかも。

「思います」については,これも日本の文化でしょうか。Issieさんの言葉を借りれば,
自分の感覚と違うものが横行して,もどかしく感じることもあるのですが
テレビを見ていても「~したいと思います」の連発で,それが婉曲表現であっても,意思の表明であっても,あまりに続くとこれが耳障りで,ついテレビに向かって「思います言うな!」とか「思うだけでやめとけ!」と叫んでしまうのですが,テレビという機械に向かって文句をいうのは老化現象のひとつらしいので,傍に居る人にはこれこそ耳障りですね。

【1】40mを越える を 40mを超える に訂正など。いつも訂正が多くて恥ずかしい・・・
[75126] 2010年 5月 17日(月)10:38:55【3】ニジェガロージェッツ さん
思う
[75125] MasAka さん,レス有難うございます。

日本語の「思う」には多種多様な用法があり,使う場合には非常に使いやすい言葉です。
「思う」にはいろいろな意味があるからこそ便利に使えてしまうので、私も話し言葉ではかなり多用してしまいます
確かにその通りですが,私の場合はだからこそ,その使用を極力控えています。
使うのは使いやすいのだけれども,聴き手,読み手にとっては,いちいち「思います」の用法を判定しなければならず,「参加したいと思います」のように,その判断が難しい場合もあります。話し手,書き手には便利でも聴き手,読み手の側に負担をかける言葉であり,最近の私の場合は,「推測します」「感じます」のような言葉に出来る限り意識して置き換えています。

子供(「子ども」ではない)の頃はあまり経験しないでしょうが,社会に出ると上司や顧客から「『思う』では困るんだよ」と突っ込まれた経験は誰にでもあることと思います(←推測)。
もちろん,言っている当方はあやふやな憶測で「思います」と言っているのではなく,考察の根拠ある結論としての「思う」だったり,ある場合には確固たる意思の表明の「思う」,また丁寧な言葉使いで「思います」と付け足したりしているのですが,相手はそこまで汲み取って解釈してくれるかといえばそうではなく,逆に「思う」という言葉に不安を感じて懸念を表明されているということでしょう。

「頑張りたいと思います」「感謝したいと思います」「謝罪したいと思います」は決意・決心の意味にとらえるべきで、推測や願望という意味でとらえるのは誤りだということになります。
引用した部分の前半には同意できますが,後半は同意できません。
確かに,インタビューで高校球児やゴルフの石川さんが「これからも頑張りたいと思います」と言えば,それは決意や決心を表明していると解釈できます。そのように捉えるべきです。
しかし,私のような中途半端な人間が「頑張りたいと思います」と言っても,取り敢えず(その場では)そう言っておこうという,逃げ口上が見え隠れします。その場合,願望という意味で捉えるのは誤りだとまでは言い切れません。

感謝や謝罪の場合については,素直に「感謝(謝罪)します」と言い切ったほうが相手に伝わります。意思の表明で「思います」を付けたにしても,それが余計で,折角の意思表明が薄れてしまいます。
場合によっては「個人的には謝罪したいのだけれども,本当に謝罪してしまうといろいろ関係者がうるさいんだよ。だから今の時点では謝罪はしないぞ」という意味で「謝罪したいと思います」と言っているのかもしれません。

では,「参加したいと思います」はどうでしょうか。
決意や決心を表明して「参加するぞ」と言っているようにも,「参加したいのだけれども,まだ日程などの調整もあり思案中です」と言っているようにも,どちらにも聞こえます。
これを聞かされた幹事さんは,「はて,この人は来るのだろうか?」と人数のカウントに困ってしまいます。
決意の表明で「参加したいと思います」と言っている人に,「まだ思案中ですよね? 早く出欠を決めてください」と言えば,相手はむかつくでしょう。しかし,幹事としては尋ねないわけにはいかず,気まずい雰囲気になってしまいます。

読者は文章を瞬間的に全部読むわけではなく
ほとんど瞬間的に全部読めてしまう場合にも使われています。
「それでは解答したいと思います。 ○○市」

ただ,いずれにしましても,「思います」の多用が,文法的に間違っているわけではないので,人それぞれ,自由に使えばよいことです。
誤解してもらいたくないのは,ここで他人が「思います」と書くことを非難しているのではなく,「ニジェはこう考えている」と表明しているに過ぎません。書くのも自由,冒頭に「思います」で始めている記事を読み飛ばすのも,これまた自由です。
[75122] 2010年 5月 16日(日)20:01:48【2】ニジェガロージェッツ さん
奇妙な日本語
地理には無関係の話題にて申し訳ございません。
この掲示板でもしばしば(というより頻繁に)見受けられる表現で,以前より違和感ありありで気になって仕方が無かったのですが,ほとんどの人は気にもしていないようで,問題提起というほどのものではありませんが,書かせていただきます。もちろん,特定の個人を非難する意図は持ち合わせていません。

その1
(書き込みの冒頭に)
書きたいと思います
発表したいと思います

もうすでに書き終えて,プレビューで確認して,書き込みボタンをクリックするんでしょう。
どうして「したいと思います」なのでしょうか。

世の中にはこの表現が氾濫していて,どこもかしこも「~したいと思います」のオンパレードです。
確かに,「○○を×日に始めたいと思います」など,「×日に始めたいのだけれども,皆さんよろしいでしょうか」という意味合いで用いられるのであれば,確認の意味合いを含んでいる表現で納得できます。
しかし,自分のことで,「頑張りたいと思います」「感謝したいと思います」「謝罪したいと思います」は,なぜスッキリと「頑張ります」「感謝します」「謝罪します」と言わないのか。
スポーツで活躍した選手(特に若手)が「頑張りたいと思います」と言っているのを毎日のように耳にしますが,十分に頑張った結果良い成績に結びついているのですから,「思います」が余分に感じます。将来頑張れないような状況の発生に保険を掛けているのでしょうか。
選挙で当選して,選挙事務所でバンザイしながら「支援者の皆様に感謝したいと思います」とは,その大勢の支援者を正に目の前にして「思っているだけかい」と突っ込みたくなります。
「謝罪したいと思います」と言われても,もし私が被害者ならば謝っていただいた気分になりません。「したい」という願望を「思います」と推測されたところで,「それならさっさと謝罪を済ませてくれ」と言いたくなります。

その2
子ども

5年前に[42057]で書いたことがありますが,「子供」という表記は子が大人のお供のような印象を与えるので差別語だと捕らえる人々がいるようで,「子ども」と書くのが好ましいのだとか。
しかし,「子供」は「大人」と同じく,漢字二文字で書かれるもので,その一方をかなで書くのは好ましくないのでは。少なくとも「大人」は一字をかなで書かない(書けない)ものです。「子供」または「こども」が本来の表記では。

また「子ども」と書くと「ども」が複数形に見えてしまう。
「私ども」とか「我々男どもは~」など,自分のサイドを謙譲しての表現ならば,複数形語尾「ども」に問題はないが,他人に対して言う場合は「虫けらども」とか「貧乏人ども」とか多分に侮蔑的に使われる。ならば「子ども」は子を見下して「ガキども」と言う複数形で,これこそ差別語である。


「思います」にしろ,「子ども」にしろ,何気なく使っている表現だとは承知しています。見たところ特に攻撃的な表現ではなく,むしろ柔らかい表現に感じられそうです。
どのように表現しようと個人の自由で,私にはどうのこうのという権限はありません。ただ,何気なく使われている表現だからこそ,敢えてこのような見方もあるのだぞと,書き込みさせていただきました。
[74463] 2010年 3月 27日(土)23:37:42【1】ニジェガロージェッツ さん
ソフガワニ港
[74459] Issie さん
「浦塩」は日本限定。「ウラジオ」と言っても,恐らくロシア語では何の意味もなさないでしょう。

逆にロシア語の略称と日本での略称が一致しているものに,間宮海峡に面する港湾都市「ソフガワニ」があります。
正式名称はソヴィエツカヤ・ガヴァニ(ソビエツカヤ ガワニ とも)で,ロシア語では Советская Гавань
(英転字でSovetskaya Gavan')
ロシア語での略称は Сов. Гавань(英字でSov. Gavan') ,形容詞「ソビエトの」を冠する地名はソ連各地にあり,これを一般には Сов. と略していましたが,おそらく日本語での略称もこれをカナに置き換えて「ソフ」としたものと推察します。
#実際のロシア語での発音では Sov の後が G なので[ソヴ] と濁るのだが,Sov を単独の単語のように語末で濁らない[ソフ]となっている細かなブレはこの際置いといて。

なお,ソヴィエツカヤ・ガヴァニの「ガヴァニ」は港湾を意味し,「ソビエト」が付いているから如何にもソ連時代に開発された港のように感じられ,実際にその通りなのだけれども,帝政ロシア時代の名称は「インペラートルスカヤ・ガヴァニ」。その当時は本格的な築港はまだだったろうから「皇帝の港」というより,「皇帝の入江」といったところだろうか。
[74441] 2010年 3月 26日(金)00:09:23ニジェガロージェッツ さん
(あまり気乗りはしませんが)関西での略称
[74439] 小松原ラガー さん
モトコー(本当は「モト」の部分は漢字かな?)は別にしても、関西の場合は、「むさこ」、「のくち」、「もとはち」などのような略称はあまり市民権を得ていないような・・・。気のせいかな?

小生の子供の頃に「天六ガス爆発事故」などありましたが,大阪には「天六」(天神橋筋六丁目)や「上六」(上本町六丁目),「谷四」(谷町四丁目)など一般に広く使われている略称は多くあります。
翻って,私たちの住む神戸でも,「モトコー」(元町高架下)以外に,「ポーアイ」(ポートアイランド)とか,「西鈴」(西鈴蘭台),「北鈴」(北鈴蘭台)などは使いませんか?
[74381] 2010年 3月 20日(土)14:30:36ニジェガロージェッツ さん
神戸市16区
タイトルのふざけた本題に入る前にレスを一つ。

[74360] 油天神山 さん
要はMapionの改訂を待っているうちにズルズルと更新が滞ってしまったのですね。
やはりそうでしたか。私も[74332]で地図をリンクするのに油天神山さんのコレクションに合わせてMapionで探したのですが,地図情報が古いままになっていたので,Yahooの地図で代用しました。それでコレクションへの登録を見送っておられるのかなと薄々感じていました。
ただ,それを明確に記しておられた[72948]は見逃してしまっており,大変失礼致しました。


さて,ここから本題。
最近神戸の街情報を当たっているうちに,神戸市の区が次のように16もあるページを複数目にしました。
神戸市 (灘区 葺合区 神戸区 湊東区 湊区 湊西区 林田区 須磨区 兵庫区 生田区 長田区 垂水区 東灘区 北区 中央区 西区)
(例えば,こことか,こことか,こことか)

これはねぇ,地元では絶対にやらない間違いですから,どこかの一覧のようなものを張り付けての結果だと推測するのですが,もしかしたら,昔に廃止された区を現存するかのようにズラズラ並べて悦に浸っているニジェのような変態が居るのかもしれません。
ただ,本当にこんな区割りをしたらどうなるのか,いろいろ連想していると面白くなり,つい遊んでしまいました。

16の区から成るパラレルワールドの神戸市は,現行世界と同じように周辺の町村を編入していきましたが,区政だけが狂っています。次のような変遷を辿りました。

昭和6年9月1日 神戸市に区設置。灘区,葺合区,神戸区,湊東区,湊区,湊西区,林田区,須磨区の8区
そして早くもその翌月,湊西区の衛生組合から兵庫区への改称の陳情が寄せられる。ここまでは現行世界でも同じ。並行世界ではこの対応から狂いが生じる。

昭和8年1月1日 湊西区より旧兵庫津地区を兵庫区として分区。9区制に。

昭和16年4月1日の明石郡垂水町の須磨区への編入を皮切りに,昭和33年2月1日の美嚢郡淡河町の編入まで神戸市域は西,北,東の3方向に拡張するがそれも同じ,但し北神各町村の編入先は兵庫区ではなく湊区へ。

昭和20年5月1日 神戸区より旧生田宮村,北野村,中宮村,花熊村,宇治野村の範囲を生田区として分区し,林田区のうち旧長田村,池田村,須磨区のうち旧西代村の範囲に長田区を新設する。11区制に。

昭和21年11月1日 須磨区より垂水区を分区。12区制に。
昭和25年4月1日 東部新市域に東灘区を新設。13区制に。
昭和47年5月1日 埋立て中のポートアイランドを港島として神戸区に編入
昭和47年6月1日 湊区,灘区,東灘区にまたがる六甲山上を六甲山町とし,灘区に移管。
昭和48年8月1日 湊区より北神地域を北区として分区。14区制に。
昭和52年6月1日 垂水区名谷団地を須磨区に移管
昭和55年5月1日 北区に摩耶山町を新設し,灘区に移管
昭和55年12月1日 ポートアイランドを中央区として神戸区より分区。15区制に。
昭和58年8月1日 垂水区より西神地域を西区として分区。16区制に。
昭和60年2月1日 垂水区より総合運動公園,流通業務団地を須磨区に移管
平成4年5月20日 西区,垂水区,須磨区間の境界変更

こうして,現行の変遷に出来る限り合わせながらも,分区を連発すると16区の頭数は揃う。
そうなると,その人口規模が気になってくるので,平成17年国勢調査の町丁別人口をもとに各区の人口を計算してみた。

神戸市1,525,393
16区
東灘区206,037
灘区128,050
葺合区59,503
中央区14,423
神戸区4,802
生田区29,210
湊東区23,016
兵庫区14,399
湊西区35,872
湊区30,571
北区225,945
長田区73,707
林田区43,455
須磨区170,037
垂水区222,729
西区243,637

あ~あ,あり得ん!
[74332] 2010年 3月 13日(土)18:05:09ニジェガロージェッツ さん
外来語由来町名の新設
油天神山 さんへ
2007年10月に岐阜県各務原市で起立し,外来語由来町名に登録されているテクノプラザ1~2丁目ですが,今月3~4丁目が追加となっているのが財団法人国土地理協会の地名変更情報に掲載されています。

また,コレクションに登録されている町名で一番新しいものが2008年10月に起立した滋賀県湖南市サイドタウン1~4丁目でしたので,その後の新設町がないか過去の変更情報を見たところ,3件ありましたのでお知らせします。

2009年3月起立
富山県高岡市グリーンパーク 地図
#近くにあるオフィスパークは既に登録済み

2009年5月起立
宮城県黒川郡大和町テクノヒルズ 地図

2009年8月起立
広島県三原市須波ハイツ1~4丁目 地図


個人的には北海道に「オホーツク」を名乗る町名でもあれば,ロシア語なので間違いなく外来語由来なのですが,今のところなさそうです。
[73515] 2010年 1月 1日(金)15:43:41ニジェガロージェッツ さん
初日の出
平成二十二年 明けましておめでとうございます

今朝,夜明け前の薄暗い山道を登り,神戸市長田区の高取山頂(標高328.8m)にある高取神社に参拝してきました。西空は分厚い雲に覆われていたものの,幸い日の出の南東方向は雲が切れておりましたが,西風が強く,雲が流れて来ました。
気温マイナス3度の山頂で待つこと半時間,日の出の時刻に遅れること15分で雲の上に出たご来光を拝むことが出来ました。
長田区の人口は減少続きですが,山頂は初日の出を拝む人々でごった返していました。神戸っ子の1年はこうして始まります。

さて,今日の朝刊には厚生労働省が昨日公表した平成21年人口動態統計の年間推計についての記事が出ており,それによると日本在住の日本人人口は7万5千人の自然減だとか。小生のような子孫を残さない(残せない)不埒者が増えれば人口増加は望めませんが,これも時代の流れでしょう。

一方,1993年ごろをピークに人口減少を向かえた“先進国”ロシアでは,ここ数年のうちに減少幅が大幅に縮小してきました。
ロシア連邦の人口減少数の推移(含,外国人)
年間人口増減(人)うち,自然増減社会増減
2003年-795,445-888,526+93,081
2004年-693,986-792,925+98,939
2005年-720,668-846,558+125,890
2006年-532,583-687,066+154,483
2007年-212,130-470,323+258,193
2008年-104,859-362,008+257,149
この調子で行けば,もしかしたら昨2009年の1年間は人口増に転じていたかもと思えるほどです。2007年,2008年の社会増はロシアの好況によるところが大きいと推測できますが,昨年は世界同時不況の影響がどうであったか。
翻って昨日厚労省発表の日本のデータは出生と死亡による自然減のみのもので,社会増減や外国人人口は扱われていないので,日本国の全人口ではそれほどの減少はなかったかもしれませんが,人口減少幅が縮小したロシア連邦との対比は今後の日本の人口推移を占う上でも面白いかも知れません。

[73506] 白桃 さん
南砺(ママ)言っても
国勢調査の年であります。
こちらも,2002年以来8年振りの国勢調査が楽しみです。
[73484] 2009年 12月 31日(木)14:42:27【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:見やすい表示
[73481] inakanomozart さん
神戸市や茨木市の住居表示の街区表示板(街区符号を記載した縦型のもの)が街区の建物の壁や塀ではなく、電柱や外灯などの柱につけてあるものが多いのが目に付きました。

こちらも思いつきの反応にて失礼いたします。
住居表示の街区表示板については私も興味のあるところですが,その設置場所についてはあまり気に留めていませんでした。
面白い視点のご紹介ありがとうございます。
ただ,神戸のどの辺りでお見かけになったのか分かりませんが,震災の影響があるかも知れません。
建物そのものがなくなっている(なくなっていた)とか,復興過程で仮設などを頻繁に建て替えたとかの事情を抱えた街区が非常に多く,その場合は電柱くらいしか恒久的な設置場所がないように推察します。
いずれにせよ,私の考察ではなく,被災と復興過程の実感からくる単なる思いつきですが。

またウォーキングのときには設置場所を注視して歩くようにします。
[73479] 2009年 12月 31日(木)13:28:08【3】ニジェガロージェッツ さん
大晦日の落書き
いよいよ今年も残すところ半日を切りました。石島・岡山オフ会をはじめ,今年も落書き帳の皆様には大変お世話になりました。
有難うございます。

昨年の平成二十年はウォーキングと山歩きで18kgの減量を記録しましたが,今年はそれほどではなく,一方で落書き帳の書き込みにも貢献できず,自分のホームページさえも稀に更新する程度と,何とも無気力な一年でした。
ウォーキングでは,今年の4月30日から札幌ウォーキングに参加しています。最初は札幌市内を巡り,次に北海道1周を終えて,米大陸に飛ばされました。246日目の今日現在はソルトレイクシティー辺りをうろついています。
メタボが気になる皆様,チャレンジされてはいかがですか?結構楽しめますよ。

とはいえ,無理な山歩きや早朝のジョギングが祟り,年末になって足首を痛めてしまい,昨年4月8日から続いた連続1万歩越えの記録が629日で途絶えてしまいました。札幌ウォーキングの月間ランキングでは20位以内につけていましたが,一気に50位ぐらいまで落ちています。来年は一から仕切り直しです。

さて,レスを少々。

[73321] hmt さん
ニジェガロージェッツさん ゆかりの ニジニノヴゴロド[8116] 生まれの作家 マクシム・ゴーリキーも ペンネームで、1932年から1990年までの間、ゴーリキー市が存在しました。

懐かしの第二の故郷へのご言及,ついつい反応させていただきます。
現地ニジニ・ノヴゴロドでの「ゴーリキー」名称は結構残っています。確かにゴーリキー州ゴーリキー市は改称されましたが,鉄道ターミナル駅はゴーリキー・モスコフスキー駅のままで,市のシンボル企業“GAZ”ことゴーリキー自動車工場ゴーリキー鉄道などなど。もちろん,市内にはマクシム・ゴーリキー通りマクシム・ゴーリキー広場も健在です。

なお,ロシアにおける現存するペンネーム由来の都市名としては,
キーロフ州キーロフ市(セルゲイ・ミロノヴィチ・キーロフ=本名コストリコフ/政治家,革命家),人口464,069人
ヴォルゴグラード州セラフィモヴィチ市(アレクサンドル・セラフィモヴィチ・セラフィモヴィチ=本名ポポフ/小説家),人口9,471人
があります。
(名前は名・父称・姓の順。本名は姓のみを記した。人口は2009年1月1日現在)

[73367] ペーロケ さん
せっかくなんで児島湖締め切り堤防周辺にニジェさんを案内したいと思い、岡南飛行場経由で向かいました。
その折はお世話になりました。
途中通過した岡山市浦安の地図上の印象が,千葉県の浦安と似ていたので,地名由来で何か共通点でもあるのかと話題になりましたね。
それにしても,岡山市内の交差点の地名標識が小さくて分かりにくかったですね。「地元の人間だけに分かれば良い」と言わんばかりで,(岡山の人には悪いけど)まだまだ一地方都市だなと感じました。

余談ですが,標識としては91年に新潟市内でよく見かけた新潟の「潟」の字を「さんずいに写」で書かれたものが多く新鮮に感じました。「潟」の字は書き難いですからね。地元では自然と略してしまうのでしょうか。
ただし,中国語での「さんずいに写」は全く別の字「瀉」を表し,その意味するところが決して好印象を与えないので,中国との関わりが深くなった今日では「さんずいに写」を書かないようにしていると聞きます。
[73393] 2009年 12月 25日(金)01:11:13ニジェガロージェッツ さん
JR最多画数駅?
[73391] 大龍エクスプレス さん
問題:jrの駅名で、一番総画数が多い駅はどこでしょう?

うちの近所にも一駅。
須磨海浜公園(山陽本線・JR神戸線)64画

他に
上越国際スキー場前(上越線)も64画か。さて,JR最多画数駅はどこに?
[73356] 2009年 12月 20日(日)00:30:36【1】ニジェガロージェッツ さん
第六回公式オフ会への御礼
第六回公式オフ会閉幕から早くもひと月が経とうとしていますが,未だにその余韻に浸っています。困ったものです。
時系列で言えば石島(井島)探検を終えた[72971]に続く形となりますが,第六回公式オフ会についての御礼かたがた,オフ本会を振り返えらせて頂きます。

当日の昼,石島を後にして宇野港に到着後,ペーロケさんのお車に同乗させていただきオフ会会場の苫田温泉「乃利武」へ向かいました。後続にはあっちゃんさんを乗せたfutsunoおじさん車が続き,途中,児島湖締切堤防経由で岡南飛行場を見学しました。隣県とはいえ,私には行く機会のなかった所だけに貴重な経験でした。ペーロケさんには深く感謝申し上げます。

飛行場で時間を取った分,乃利武へは少し遅れての到着です。グリグリさん,いっちゃんさんが受付で向かえてくれましたが,グリグリさんによれば当初は誰だか分からなかったとのこと。余程過去のオフ会でのニジェの印象が薄かったのかと思いきや,JOUTOUさんのお言葉を借りれば「もっとも変貌を遂げた男」
同室には最年長のhmtさん,第四回福岡オフ会幹事かぱぷうさん,石島探検隊長88さん,そして初参加のソーナンスさんと錚々たる面々。残る室長は皆勤の方とのことで誰だろう?と思いきや,何とグリグリ御大。見事な部屋割りにはただただ脱帽です。([73154] いっちゃんさん)

配られたのが今川焼さんの「クイズ ここはどこ?」。高砂などひと目で分かる市もいくつかあったがこれには大苦戦。参考に手持ちのソ連製世界地図帳の日本のページを見るものの分かる訳なし。

一次会を前に大浴場へ。これがまた迷路の連続。斜行エレベータで7階から3階へ「上がった」り,訳の分からない構造。とはいえ,浴場で石島の雨で冷えた汗を流し気分爽快に。さすがは温泉です。大変良いお湯でした。
一風呂浴びて体重を量ると68kg,2年前の福岡オフ当時とでは23kgの減。(500ml飲料に換算して46本分か。大袈裟な表現)
大浴場をあとにして,参加者が一同に会した一次会場「ニュー桃太郎」では石島ツアー行状記の発表の大役がありましたが,探検隊一同のご協力のもと良い報告が出来,これでひとまず「お役御免」。88隊長をはじめ,石島(井島)探検隊のメンバーの皆様には改めて感謝。
お題変って一次会「クイズ ここはどこ?」の答えあわせでは結局6問の正解。景品「地図中心 北極特集」をゲット。

二次会は喫煙可能な309号室,通称「不良部屋」にて全員集合。らるふさんの「日本のバルト海」を筆頭に秀作「ヘンテコ地図」の謎解きに夢中に。
続いて談笑の中で始まった岡山十番勝負では景品にイタリアの地図をゲット。今回のオフ会も地図三昧になりました。

ところで今回の幹事役のいっちゃんさんは裏方の準備に徹しておられたようで,酒類の飲めない小生に何度もコーラを持ってきて頂くなど,本当に畏れ多いことでした。そのときは雑談に夢中で,今にして何か手伝えることがあったのではと,後悔しております。次回こそいっちゃんさんにも楽しみの輪の中に入っていただくよう,気を配らなければなりません。

夜中1時30分ごろ散会,そして就寝。翌朝6時過ぎには目覚め,朝の大浴場から朝食会場へ。朝食の後はスナフキんさんの部屋でデジタル地図の実データ展示にお邪魔し,地図製作のご苦労の極々一端を垣間見たようで,いつも見て楽しむばかりの地図の裏側には,製作者の苦心が一杯詰まっている現実を知り勉強になりました。とはいえ,私などは「見てるだけ」の門外漢ですから,一枚の地図を見て製作者の「手抜き」や完成図の「粗」などは一生かかっても見抜けないことだと認識しました。

さて,いよいよ散会となり,次回での再会を誓いつつ旅館を後にして行きと同じくペーロケさんのお車で岡山駅へ。
ふと万歩計を見ると既に1843歩も歩いている。あの旅館,一体どういう構造しているんだと一同爆笑。

ああ,楽しかったオフ会も過ぎ去ること1ヶ月。今回のオフ会開催に尽力されたグリグリさん,いっちゃんさんをはじめ,ご参加された皆様,そして無念の参加断念にもかかわらずヨーグルトの差し入れを下さった中島悟さんにはこの場を借りて深く感謝を申し上げます。
次回も参加できるといいなあと願いつつ,次に皆さんにお会いする時に福岡オフ会に現れた過去の「ニジェガロージェッツ」が再登場するようでは,私としては健康の破綻を意味しています。どちらのニジェが現れるか,楽しみにしておいて下さい。
[73241] 2009年 12月 9日(水)00:22:07ニジェガロージェッツ さん
オフ会関連レス
[73211] 88 さん
石島(井島)訪問 事前準備手配編
隊長を差し置いて石島/井島探検記を記し恐縮しておりましたが,読み応えのある事前準備手配編を有難うございました。
石島/井島探検メンバーの中には,ペーロケさんのようにケータイGPSを持ち込んでいたり,それぞれの楽しみもあって,様々な印象があったことと存じます。
それもこれも,88さんの綿密な準備があってのことでした。改めて感謝しております。

[73218][73229] グリグリ さん
岡山十番勝負@オフ会二次会
どなたがどれを正解したかよく覚えていないんですよね。
問三を正解したのは小生でした。これは即効で解かりました。
実は瞬時に浮かんだのは2都市で,広島市以外の“それ(共通項)”は昭和18年に設置され,現在でも鐘路区と龍山区の間に存在していますが,当時は「市」ではなく,2年後には外国領土になりましたから,こちらではなかろうと,残り解の広島市を回答しました。

[72966] グリグリ さん
岡山オフ会、私の周辺での話題はもっぱら十番勝負でしたが、それにしても、ちょっと入れ込み過ぎで大丈夫かなぁと思われる方が何人もいて
入れ込み過ぎなのは結構ですが,その中の一人が
「十番勝負の話をしてるんだから,関係のない話をするやつは出て行け!」
と,明らかにこちらを向いて怒鳴りました。
泥酔した上での発言かと察しますが,同じ部屋とはいえ,こちらも決して真隣りで騒いでいた訳でもなく,全く別の話題の輪を形成していましたので,正直なところ一瞬カチンときました。
親しき仲にも礼儀ありですよ,酔っぱらいさん!(覚えてないかも知らんけど)

[73137] 白桃 さん
カタカナの「ニ」ではなく漢数字の「二」
そう返してきますか(笑)
それはさておき
秀秋死後に生まれた「羽柴秀行」という側室の子がおり、叔父の木下勝俊(備中足守藩主)に預けられたとのこと
やはり何らかの形で秀秋の子孫は続いていた可能性があったのですね。ご教示有難うございました。
じゃごたろさんの書き込み[73067]もあり,どこまでが創作かを確認したかったので,不躾とは思いましたが質問させていただきました。
[73118] 2009年 11月 30日(月)09:50:44【1】ニジェガロージェッツ さん
なりすましにご注意を(笑)
雪だるま式メタボに丸刈と髭がトレードマークのニジェガロージェッツ(別名チャーリー・チャップマン)です。
第六回岡山オフ会は盛況のうちに終えたようで,ご同慶の至りです。
小生は極貧生活が続き,昨年に続き,今回も参加を見送りました。ところが,岡山には隠密の偽ニジェ[72972]が現れて一騒動起こしたらしく,わたくしのもとに抗議メールが寄せられて困っています。
石島? どこにあるんですか,そんな島。

[73112] MasAka さん
ニジェさんの顔だけは2年前の福岡オフの時と全然違っていて最初戸惑いました(大変失礼ですが)。
一次会場で貴殿の隣りに陣取っていたhennaおっさんは私ではありませんので,どうぞ御気になさらないよう。

[72972] 白桃 さん
小松帯刀 小松原ラガー 祖父は小早川秀秋
小早川秀秋は二十歳そこそこの若くして亡くなっていましたが,孫がいたんですか!
まあ,子さえ作っておけば後の時代に孫が出来てもおかしくないのですが,本当ですか?

[72956] かすみ さん
ニジェさんの嘘にはだまされません。
はて? 何のことでしょう?
[72974] 2009年 11月 28日(土)07:36:15ニジェガロージェッツ さん
上空からの写真
[72973] 笠津前浜 さん
あれは大槌島だったのか…。ハテどれが石島だったのだろう…。

ウィキペディアの直島諸島のページにある空撮写真が分かりやすく,臨場感があります。
岡山県側の石島と,香川県側の井島との植生状況の違いもくっきり。
[72971] 2009年 11月 28日(土)00:09:30【1】ニジェガロージェッツ さん
石島探検(後編) 県境到達
我々探検隊9名を乗せた「アルバトロス」は高速で海上をぶっ飛ばし直島諸島の合い間を抜け,石島港へ到着した![72921]
(気分はもう,完全に川口浩です)

石島集落はひっそりと時代に取り残されたような佇まいで,今にも雨が降り出しそうな曇天の中,寂しく私たちを迎え入れてくれました。
さて,感傷に浸っている間はなく,石島滞在に与えられた時間は正味2時間。
予定通り,まずは集落を西へ抜け,南西方向に伸びる「旧送電線管理道」を進みます。事前に地図を(何度も)作成したことから,島の地形と送電線の位置関係はしっかりと頭に入力済みです。そして実際に島に入ると,事前に地図上で変更が確認された送電線が,旧送電線と新送電線の両方が存在していました。新旧の鉄塔の位置もだいたい予想通りです。
いつの間にか,私は列の先頭を歩き,突撃役「捨て駒のニジェ」になり,88隊長は全体を纏める役に回っていました。仮に道が途絶えていても,9人も居るのだから,道を造りながら進めば良いなどと大きな気分です。
集落から後背地に伸びる徒歩道も幾つか発見しましたが,「おかやま全県統合型GIS」地図上に描かれている徒歩道を選び,忠実に辿ります。懸念されていた池は,沢筋に沿って開かれた田畑が耕作放棄地となっており,そこに水溜め場のような状態で幾つか存在していました。徒歩道はその脇を通っており,歩行の支障はありません。勾配は緩く道筋もしっかりしており,楽々と南へ進みます。
集落から歩くこと20分足らずで早くもに出ました。今まで歩いた「岡山県石島」は豊かな森に覆われた地でしたが,峠から南に見える光景は岩肌が所どころ露出した荒れた「香川県井島」の画でした。ついに県境到達を確信しました。([72923]EMMさん)
四国4県には経県のないでるでるさんにとってはここが初めて訪れる「四国」となりました。

県境到達を確認した後,「県境尾根」を西へ向かいました。次に目指すは県境上を西へ開けた「展望岩」からの瀬戸内の絶景ポイント[72627]hmtさん)です。そして約5分ほどでその場所に到達しました。
切り立った岩肌が露出したスリル満点の尾根の先端にあり,瀬戸内の島々が見渡せる絶景がそこにはありました。
歓声が沸きました。大の大人が大はしゃぎです。
「こんなとこで滑り落ちたらアカンで,(両県警の)管轄でもめるで」
「そっちの心配かい!」

88探検隊長が「岡山県」「香川県」と印字されたプラカートと,県境具現用にビニール紐を用意しており,いよいよ全員で県境を跨いで記念撮影です。

この頃には,そろそろ雨がポツリポツリと降り始めていたので,絶景を満喫しながらしばし食事休憩。小生とfutsunoおじさんはそこから少し西へと探索しましたが,あとは下り道が続くばかりとなり引き返し,20分ほどで「展望岩」を退散,全員で次の目的地,井島の最高峰「石島山」標高156mを目指し,県境縦走路を東へ進みました。
この道はあまり整備されたものではなく,人の通った形跡も稀なのか,先頭を行く突撃役の小生は蜘蛛の巣との戦いでした。尾根筋の急な露岩を登るようなところもあり,山歩きに慣れていないメンバーにはちょっと抵抗があったかも知れません。島の頂上に到達すると東の豊島方面の景色が確認できましたが,不気味な巨大な獣糞もあり,小雨とはいえ雨も降ってきました。そのまま島の東側へ縦走するのも良いのですが,先には尾根がまだ長々と続き,ここは安全策を取り,引き返すことにしました。
滑る岩肌を下るのは要注意ですが,ひとりの転倒もなく無事に通過。「送電線管理道」に戻り,そのまま石島集落へと戻りました。
休憩時間も入れて合計1時間半の行程で,歩数は10000歩を数えていました。

以上が石島(井島)探検の顛末です。
探検は大成功に終わりました。

今回の石島(井島)ツアーを企画から手配まで一手に引き受けてくださった88さんをはじめ,参加メンバーの皆様,本当に楽しい探検でした。そして,当日は石島行きが叶わなかったにもかかわらず,様々な情報ご提供やご支援をくださったメーリングリストおよび「落書き帳」の皆様,有難うございました。
最近の小生は毎週日曜日に神戸背山の山歩きをしているので,「突撃役」として少しでも先の状況を把握するために気忙しくハイペースで歩いていましたが,それにも合わせてついて来てもらう格好になってしまい,申し訳なくも感じております。
天候さえ良ければもっと凄い快感が味わえたのかとも思いますが,今回の行程でも十分素晴らしい体験になりました。

島を後にする時,集落の飼い犬がなついてきました。
「また来るからね~」とワンちゃんに別れを告げ,「アルバトロス」に乗船。

「ホンマにまた来るンかい!」
[72970] 2009年 11月 27日(金)21:51:39【1】ニジェガロージェッツ さん
石島探検(前編) 事前調査
探検隊長の88さんからもご報告があるかと察しますが,石島への誘い[72840]を書き込んだ小生からも石島(井島)探検の始末記を綴らせていただきます。

岡山オフ会に際して,有志により石島(井島)ツアーを敢行することとなり,ここ「落書き帳」にも石島関連の記事で賑わいました。
それにつれて参加表明メンバーも増え,当初3名の参加で練り始めた企画がいつしか6名に,当日には9名に膨れ上がり,石島の全人口の1割にも及ぶ「大探検隊」となりました。
石島に渡るには定期便がなく,決してお安くない海上タクシー([70899]星野彼方さん)を宇野港からチャーターすることになるのですが,人数で割ると随分と「お手頃価格」となり,大きな難関がひとつ消えました。

石島(井島)の最大の魅力はそこに岡山香川県境が存在することであり,この島に渡る限り,島の北部にある東西に伸びる尾根上に引かれた県境に到達するのが,探検隊に課せられた最低限のノルマとなります。
[70899]星野彼方さん
島には県境を跨げるような所はないそうです。行ける範囲はすべて岡山県で、香川県側に通じる道はない。
88さんも電話での事前調査にて島民から
県境は子供のころに山に登ったが、何十年も前で、よく覚えていない。
地元民はわざわざは登らない。
途中までは道はあるが、その先は道はなかったと思うし、
ため池(らしきもの)は砂防ダムで、そこからは上がるのは無理だろう。
西側へ回って行けばよいのでないか。
と聞かれていました。
確かに,国土地理院のウォッちず2万5千分の1地形図を見ても県境に通じる徒歩道の存在は記されていません。しかし,この地図には石島(井島)を南北に貫く送電線が島の南北尾根に沿って描かれています。これがあると言うことは,送電線や鉄塔などの設置物を保守,点検するための管理道の存在が推測できます。
また,私は石島の載っている古い昭和55年発行の2万5千分の1地形図「豊島」を所有しており,これには送電線とそれに並行して伸びる管理道らしき徒歩道が図示されていました。但し,送電線の位置が今とは違っており,南北の尾根よりは西寄りの,海岸線に近いところを通っていました。
そこで,今あるウォッちずの地形図を標高に沿って色を塗って島の雰囲気を出し,送電線鉄塔の場所を推測し,さらに昭和55年の旧送電線の位置と,その管理道と思しき旧道の位置を書き加えた地図を作成し,オフ会のメーリングリストに流しました。(11月16日)
当日の探検のポイントとして
1) 旧道を辿ることが可能か?
2) 旧道の痕跡がない場合,現在の送電線の管理道は存在するか?
3) 島民の話として88さんが聞かれた「西側へ回われ」とは,送電線の管理道のことか?

グリグリさんをはじめ今川焼さんや,地図のご専門のスナフキんさんからも地図を読図していただきましたが,皆さんの考察をお聞きしているうちに,旧道上に出現した池さえ越えられれば,何とか県境へと辿り着けそうだと楽観視するようになって来ました。こういう情報や交換意見を広く共有できるメーリングリストの「威力」と,メンバーのキャラクターの「魅力」には改めて感服です。

また,らるふさんからは玉野市のサイト内の胸上小学校石島分校のページにリンクのある「おかやま全県統合型GIS」の石島の詳しい地図が提示され,これにははっきりと県境へ通じる徒歩道の存在が「件の旧送電線管理道」と同じ沢筋に描かれています。この地図も探検用に加工してメーリングリストに流しました。([72898]グリグリさん)

さて,前日には88探検隊長との連絡で,上陸後は沢筋を緩やかに登る旧送電線管理道を辿ることを確認し,石島探検当日の朝を迎えました。
岡山方面へ向かう乗り換え駅の兵庫県相生駅で星野彼方さん,でるでるさんと,宇野への乗り換え駅の茶屋町駅であっちゃんさんと合流し,宇野駅ではそれぞれの車などで先に到着していた88探検隊長,futsunoおじさん,YASUさん,EMMさん,ペーロケさんと合流し,海上タクシー「アルバトロス」に乗船し,正午を過ぎていよいよ石島へと出港です。
[72840] 2009年 11月 14日(土)10:41:12ニジェガロージェッツ さん
石島,そして井島へ
いよいよ,第六回公式オフ会まであと1週間を残すばかりとなりました。
さて,[72627]hmtさんよりアナウンスがあったように,オフ会の当日に“0次会”とも言うべき,石島ツアーを敢行することとなりました。

実際,個人的に行くとなれば,[70899]星野彼方さんが丁寧に調べてくださったように,非常に困難な所です。
今回は「半地元」の88さんの企画のもと,現在のところ小生を含めて6名の参加が見込まれています。
[70899]星野彼方さんの記事にあるように,アクセスは10人乗りの水上タクシーをチャーターしますから,あと4人の空席がございます。
島の北端にある岡山県石島集落に上陸した後,県境を目指し南下,徒歩で県境を越えて香川県井島へ入りますが,今のところ道が地図上で確認できず,「探検」の要素も加わります。
本州,四国,九州以外の島で県境を越えるというのが地理好きの関心をそそりますが,写真[72627]hmtさん)のような瀬戸内の絶景を満喫できるのも大きな魅力です。

現時点での企画では,鉄道経由では10:53岡山駅発「マリンライナー23号」で茶屋町駅乗換えで宇野駅に11:35分に到着し,車での参加予定者と合流する案が有力です。集合時間がお昼前と結構遅めで,これなら(特に関西や広島など近県の人には)気軽に参加できるのではないかと察します。
石島(井島)島内には,約2時間半ほどの滞在が予定され,15時ごろには宇野を後にして,公式オフ本会へと向かいます。

まだオフ会参加をご検討の方は是非,石島へと足を伸ばしてみませんか?
泊り掛けのオフ会への参加は無理でも,日帰りの石島だけなら行けそうだという方のご参加も歓迎です。
オフ会のメーリングリストに登録をお待ちしております。
[72130] 2009年 10月 3日(土)19:04:14ニジェガロージェッツ さん
改善を望む
[72129]
爆弾投下
記事の内容については私も常々感じていたことであり,「よくぞ言って下さった!」と感謝申し上げたいところですが,「爆弾投下」というタイトルは,「手の届かないところから」または「衆人より高い位置から」ものを言っている印象を強く受け,極めて不快です。
[72076] 2009年 9月 27日(日)08:49:09【1】ニジェガロージェッツ さん
総人口と総石高のバランス
[72075]を投稿したあと,よくよく考えてみれば,1石=1人分の1年間の消費量([39982]中島悟さん)ですから,人口と石高が大体同じ様な数であれば,バランスが取れているということでした。

[72071] hmt さん
入間県(現在の埼玉県の西半分)は、人口41万人、石高約40万石でした。当時は1人が1年に1石を食べていたとすると、この県ではほぼバランスがとれていたことになります。

幕末期の人口と石高は[67156]YTさんの記事によれば,人口26,907,625人に対して石高30,435,170石でした。
返還前の沖縄を含む昭和45(1970)年の国勢調査によると104,665,171人に対して[72075]では93,427,000石(米だけの石高)ですから,こちらも釣り合いが取れています。
日本人の食生活が変わったとはいえ,2008年人口127,931,339人(都道府県の基本データ)に対して58,093,000石では,「まかない率」45.4%でちょっと怖い数字です。ニュースなどでは米の自給率は100%と言われていますが・・・。
[72075] 2009年 9月 27日(日)00:26:25【1】ニジェガロージェッツ さん
最盛期石高
[72066] oki さん
[72071] hmt さん
個人的な思いつきによる,お遊びにお付き合いいただき,恐縮です。
[72052]については,それを書きながらも,あまりにもふざけた記事になり,okiさんをはじめ過去記事を引用させていただいた諸兄にも失礼な気がして,少しばかり恥ずかしく感じておりました。
単純に米の生産高を150で割ると言う,極めて低レベルのデータ処理ですが,やってみたところ結構面白い結果が出てきたので投稿させていただいたのですが,[72066]okiさんには幕末の石高を現在の都道府県の区画にあわせて算定の上(かなりの手間であったと推測します),分析していただきました。
また[72071]hmtさんからもご考察とフォローを加えていただきました。
深く感謝申し上げます。

1石 = 150kg という換算式が,精白工程の歩合の考慮を含め,どこまで正しいものかは,残念ですが,私には証明の術を持たないので,ここは本当に「お遊び」と割り切って信用するしかありません。ですが,たまにはこういうデータ遊びも楽しいもので,息抜きには持って来いです。
和歌山県の07年米石高が24万9千石とは,紀州徳川藩56万石に比べて少ない気がしたのですが,紀伊国が今の三重県南部(東紀州地域)を含むばかりか,紀州徳川藩は更に北の伊勢国南部まで領有していたので納得。[72066]okiさんのデータには和歌山県の幕末石高は40万8千石とあり,和歌山県といえば稲作以外にも柑橘類や梅が名産で知られ,水産まで含めば捕鯨さえも無視できない数値かとも推測します。

[72060] JOUTOU さん
引越しお疲れ様です。我が家も震災以降,避難生活から再建だ,再開発の立ち退きだ,仮設だ,・・の近所での細かな引越しを毎年のようにやらされました。「細かな引越し」とは言え,家財の持ち運びに程度の差は無く,まあ,身の回りの整理にはなりましたが
人口1200万人余も有しながら小大名にも及ばない“旗本”東京都民ですが・・・(笑)
[39973]kenさんの「1万石=1000人」説から逆算すると,東京1億2千万石?

[72066] oki さん
ところで皆さんは、普段どの地域の米を食べられてますか。
私は元々北海道の「キララ397」が好みですが,最近はスーパーで安く売られている播但淡3国に摂丹2国の一部,備作の極々々一部を加えた地域で収穫された米が結構おいしく,日々味わっております。(ストレートに「兵庫米」とか「兵庫129万石」と表記しようものなら,播州,特に姫路周辺の住民から激烈なる敵意を買いそう)

幕末(1870年頃)から2007年までおよそ140年の間に、全国の石高は7割増加
「米食離れ」とか「減反政策」とか,大体の察しはついていたのですが,水稲の生産量のピークは40年以上前の過去にあります。具体的には昭和42年の1426万トンです。農林水産基本データ集
小生が中学校の社会科の授業で使っていた当時の帝国書院地図帳の巻末に,ピーク時に近い昭和44(1969)年の都道府県別水陸稲の生産量が載っていました。[72052]と同様に石高を計算し,平成19(2007)年の米の石高と比較してみます。分かっているとはいえ,結構ショッキングなデータです。
都道府県収穫高(t)69年石高(万石)07年石高(万石)石高増減増減率%
全国14,014,0009342.75809.3-3533.4-37.82
北海道933,800622.5402.1-220.4-35.40
青森489,400326.3199.4-126.9-38.88
岩手468,300312.2206.3-105.9-33.91
宮城605,400403.6272.0-131.6-32.61
秋田638,700425.8366.3-59.5-13.97
山形574,300382.9279.7-103.2-26.95
福島546,000364.0296.8-67.2-18.46
茨城501,900334.6269.3-65.3-19.51
栃木453,600302.4240.5-61.9-20.48
群馬173,200115.560.0-55.5-48.04
埼玉288,600192.4116.8-75.6-39.29
千葉396,900264.6219.1-45.5-17.21
東京11,6007.70.5-7.2-93.27
神奈川47,90031.910.7-21.2-66.39
新潟868,000578.7433.7-144.9-25.05
富山353,300235.5141.0-94.5-40.14
石川241,600161.191.3-69.7-43.29
福井222,300148.293.9-54.3-36.66
山梨56,50037.719.9-17.8-47.26
長野381,500254.3149.6-104.7-41.18
岐阜242,200161.579.8-81.7-50.58
静岡190,300126.962.1-64.8-51.08
愛知296,600197.7106.7-91.0-46.02
三重269,700179.8104.2-75.6-42.05
滋賀290,500193.7117.1-76.6-39.55
京都133,30088.954.5-34.3-38.63
大阪70,00046.720.5-26.2-56.14
兵庫342,700228.5129.3-99.1-43.39
奈良98,30065.533.1-32.5-49.54
和歌山82,70055.124.9-30.2-54.78
鳥取137,80091.944.7-47.2-51.38
島根219,800146.564.2-82.3-56.19
岡山333,400222.3116.1-106.2-47.78
広島301,800201.292.4-108.8-54.08
山口273,500182.377.5-104.9-57.51
徳島111,70074.544.3-30.1-40.47
香川154,500103.049.4-53.6-52.04
愛媛173,300115.552.5-63.1-54.59
高知131,80087.941.4-46.5-52.88
福岡447,900298.6129.3-169.3-56.69
佐賀277,600185.194.4-90.7-48.99
長崎124,20082.845.9-36.9-44.52
熊本380,600253.7140.2-113.5-44.75
大分232,500155.085.1-69.9-45.08
宮崎194,400129.652.1-77.5-59.83
鹿児島238,100158.777.1-81.6-51.41
沖縄10,9007.31.9-5.3-73.58

何これ?と言うような,恐ろしい数字が並んでいます。関が原で敗れた西軍諸大名家も愕然とするほどの大減俸です。幕末の日本一国分が吹っ飛んでいます。あまり米を食べなくなった日本人が最大の原因でしょうが,ちょっと考えさせられる数字です。ねぇ,G民党さん。

訂正【1】
全国の1969年収穫高(t)は上記表の47都道府県を合計すると14,012,900tになりますが,データの出所である帝国書院「中学校社会科地図」-昭和48年発行- には全国計14,014千tと記されていましたので訂正しました。石高以右の全国値も同様に修正しておきました。
[72052] 2009年 9月 23日(水)22:27:56ニジェガロージェッツ さん
石高
「石高」
良く聞く言葉です。
時代劇,特に「戦国もの」を見ていると必ずと言ってよいほど出てきます。
一方,ここ「落書き帳」では,YTさん[67156]幕末の国別の石高に対する興味深いデータが提示されるなど,江戸期の藩政期のものが論議の主体でしょうか。
石高と言えば「米の収穫量」とのイメージがありますが,米だけではなく,畑作や水産業,宅地までも米の生産量に換算して算定された,その地の「経済力」を総合的に表したものだとの説明がありました。

[58062] oki さん
石高の基礎となるのは水田、畑地、宅地の面積で、この面積に石盛と呼ばれる単位当たり収量(1反当たり1石など)を乗じ、これらを総計して石高が決定されます。
(中略)
重要なのは宅地も石高に組み入れられることで、結果として農耕収穫のない漁村、港町、宿場町などにも村高が付されます

そして,幕末から明治初期にかけての日本全国の総石高は約3000万石強だったと教えて頂きました。
[67156]YTさん
30,435,170
[58109]okiさん
31017135 府県概表(東京・有隣堂)

では,具体的に1石とはどの程度の量か。この解説には
[39982] 中島悟 さん
米1石は茶碗1000杯にして1人分の1年間の消費量。
と解説いただき,また都市人口との関係も指摘されていました。
[10633]ken さん
幕末の都市人口は石高と強い比例関係があります。
[39973]ken さん
1万石=1000人、というあたり、証明できると面白いのですが。
との仮説もありました。

何だか他人の記事をつなぎ合わせたものになってしまいましたが,つまり私は門外漢で,石高に関しての知識も無ければ,特別のデータも持ち合わせていない訳で・・・。
ただ,「戦国もの」のテレビドラマなどを見て,手持ちの日本史の資料を調べると,当時の越後が39万石,佐渡が2万石(太閤検地)で,一方で巷では今の米どころ新潟県の石高は600万石だと聞くと,毎日ご飯を食べながら今の日本の石高はどのぐらいかと常々気になっていました。

「石高とは米の収穫量だけではない」と分かりつつも,今の時代の米の収穫量を石高に換算すると,どの程度になるのか,実際に計算してみました。
政府統計の総合窓口には平成19年産作物統計の一覧があり,水陸稲計の都道府県別の収穫量を知ることができます。
それによると,平成19年の米の収穫量は871万4千トンで,1石=150kg相当で換算すると,5809万石になりました。
お遊びで都道府県別の「米だけの石高」も算出してみました。時代劇で「蝦夷400万石」と言えば大問題ですが,今の状況は時代劇とはまったく違います。個人的には北海道の「キララ397」が気に入っています。
都道府県米の収穫量(t)米だけの石高(万石)
全国8,714,0005,809.3
北海道603,200402.1
青森299,100199.4
岩手309,500206.3
宮城408,000272.0
秋田549,500366.3
山形419,500279.7
福島445,200296.8
茨城404,000269.3
栃木360,700240.5
群馬90,00060.0
埼玉175,200116.8
千葉328,600219.1
東京7810.5
神奈川16,10010.7
新潟650,600433.7
富山211,500141.0
石川137,00091.3
福井140,80093.9
山梨29,80019.9
長野224,400149.6
岐阜119,70079.8
静岡93,10062.1
愛知160,100106.7
三重156,300104.2
滋賀175,600117.1
京都81,80054.5
大阪30,70020.5
兵庫194,000129.3
奈良49,60033.1
和歌山37,40024.9
鳥取67,00044.7
島根96,30064.2
岡山174,100116.1
広島138,60092.4
山口116,20077.5
徳島66,50044.3
香川74,10049.4
愛媛78,70052.5
高知62,10041.4
福岡194,000129.3
佐賀141,60094.4
長崎68,90045.9
熊本210,300140.2
大分127,70085.1
宮崎78,10052.1
鹿児島115,70077.1
沖縄2,8801.9

繰り返しになりますが,1石=150kg で計算しました。
参考サイト「山代慶長一揆」,石高とは より
[71999] 2009年 9月 19日(土)22:34:37ニジェガロージェッツ さん
震災により上層階撤去
[71994] Issie さん
「…68年の十勝沖地震で3階部分が倒壊し、2階建てとして使用されたきた」
さらっと書いているけれど,すごい話ですね。

震災を経験している身としては・・・神戸っ子なら誰でも知っている(?)ことで,特にすごくもない感じますが,どこでもありそうな「天晴れ」な例というところでしょうか。

拙稿[54365]にも書きましたが,8階建だった神戸市役所2号館は6階部分が倒壊し,5階建てとして使用されています。写真
[71967] 2009年 9月 16日(水)00:14:22【1】ニジェガロージェッツ さん
オフ会とニックネーム関連
いよいよ岡山オフ会に向けてメーリングリストの開設など,雰囲気が出てきました。昨年は涙を飲んでの不参加でしたので,今年は楽しみにしています。
ところで,今回の岡山開催決定は岡山市の政令指定都市移行記念([69188]グリグリさん)でした。だとすれば,開催地の苫田温泉は「岡山県岡山市北区」と表記するようにご留意下さい(笑)

さて,実に5年ぶり(38833記事ぶり)に登場になった[71954]えっすさん,1年ぶりの登場で大学生宣言の[71952]あっちゃんさん,
おかえりなさい!

そういえば,ご両人ともかつてはオフ会を楽しみにしておられたと記憶しています。
(当時は大阪在住だった)えっすさん[19397],(現在は京都在住の)あっちゃんさん[10129][11668],今年は岡山です。いかがですが。若いご両名のご参加の実現を期待しております。あっちゃんさんはまだ未成年かと推察しますが,「酒が飲めないからダメだ」などは無関係で気にする必要はありません。おっさんでも小生は酒が一滴も飲めません。

そういえば,[70808]油天神山さんの記事に
関西プチオフ会をぜひやりましょう!
とありました。こちらも「関西ご帰還記念」など機会があれば是非。
最近はめっきり書き込みに貢献できていない小生まで名を挙げていただき恐縮しております >油天神山さん

[71938] おがちゃん さん
ニックネームご変更,私は積極的に支持します。
また,今まで「日本人」と言う,重いニックネームを背負い,その名に恥じずよく頑張ってこられたことは多くの方々が敬服していることと推察します。
2年前の拙稿[61343]を変更の理由の背景に挙げられていますが,あれは単なる数字遊びですから,お気になさらないで下さい。ただ,その後に続いた[61426]は底意地悪く感じられたかも知れません。
しかしながら,「日本人」と言う重いニックネームであったが故に,「落書き帳」デビュー以来のおがちゃんさんの驚異的なご成長もあったのかなと,肯定的に捕らえることも出来ましょう。これからは,肩の荷を降ろしてご活躍いただければと願います。

ニックネームご変更については私自身も考えたことがあります。
小生のデビュー当時はロシアのニジニ・ノヴゴロドという,神戸と同じ位の規模の街より帰国してまだ数年,その気分も抜けておらず,また女房(当時)がニジェガロートカ(露:нижегородка 「ニジニノヴゴロドっ子」の女性単数形)だったこともあり,ニジェガロージェッツ(露:нижегородец 「ニジニノヴゴロドっ子」の男性単数形)と名乗ったのですが,その後は状況が一変し,今ではニジニは縁のない遠い存在になってしまいました。
しかし「落書き帳」ではいつの頃からか親しみをこめて(??)「ニジェさん」と呼んで下さる方もおられ,オフ会では皆さんそのように呼んで下さっています。(実際には“нижегородец”の発音が難しいだけかもしれませんが)
「ニックネームのニックネーム」を頂戴したことで,幸せ者だと感謝しています。
私としては,変更願いこそ出してはいませんが,ニックネームは新しく「ニジェ」に変更した気分でいます。本当に変更すると,小生のメインである過去記事のタイトルバーが
ニジェ[ニジェガロージェッツ] さん
となり,非常に長ったらしくなります。これは避けたいところです。
因みにニジェ(ниже)とは,ロシア語で「低い」(низкий)の比較級で,「より低い」転じて「より低級,下劣」などの意味も含まれ,個人的にあまりにも的を射た表現で大層気に入っています。
正式な変更願いこそ出しませんが,これからも「ニジェ」でお願い致します。

【1】記事リンク訂正
[71128] 2009年 7月 28日(火)09:59:33ニジェガロージェッツ さん
Re: 真意
ご無沙汰しています。オフ会関連など,いろいろレスしなければならないところですが,最近は無気力でいけません。

「落書き帳」とも付き合いが長くなってくると,気に入らない表現や憤慨したくなる書き込みに出会うケースの一度や二度は,誰にでもあることと察します。かといって,いちいち噛み付くことはなくやり過ごすというのが大人の対応でしょう。
私事ですが,このような場合は,すぐには書き込みをせず,背山登山に出かけて,ひと山登って汗をかき,頭を冷やすことにしています。自分の好きな物しか置いていない自室にこもって書き込みをしていると,どうしても視野が狭くなりがちで,思い込みや偏見から相手に対して詰問調の書き込みになってしまっては恥ずかしい限りです。行き交うハイカーと「おはようございます!」と挨拶を交わして爽快な山の空気と自然に触れると,書き込みかけた反論レスなどがいちいち馬鹿らしくなり,相手にする必要なしと無視を決め込むことができます。

そんな小生ですが(今日も朝から一汗かいたところですが),これはいかがなものかと書き込みさせていただきます。

[71110][71123] 熊虎 さん
あの文脈での「ここは日本だぞ!」では、中国風の地名を付けることへの反感と取れます
私には,そのように感じられませんでした。
単純に「蘇陽峡」という地名が漢語風であることを強調している表現に感じました。
第一,チャッピーさんが中華人民共和国に対して抵抗なり悪感情なりを持っているというのも熊虎さんの推測でしかありません。「誤解を招きかねない表現」だと一方的に指摘したうえで,勝手に感情を邪推するのはいただけません。
仮に「誤解を招きかねない表現」であったとしても,オーナーのグリグリさんからも[69131]にあるように,
記事を読む場合は「懐の深さ」を最大限発揮して柔らかく受け止めてください。
と,常日頃から再三にわたって同様の趣旨の発言を重ねておられます。

港に人工島を築き「ポートアイランド」という地名を与えたのに対し,他から「ここは日本だぞ!」とつっ込まれても,確かに好い気はしないだろうが,いちいち額面通りに捉えてカリカリ来る神戸市民は少ないのではと推測します。まあ「それもそうだね」と笑ってやり過ごすぐらいのことでしょう。

[71110]だけなら「毎度のこと」とスルーしていました。大目にみて「誤解を招きかねない表現への警笛を鳴らした書き込み」と善意に解釈することもできましたが,真意を問う[71123]まで書かれると,行き過ぎの対応に感じます。
[70421] 2009年 6月 7日(日)20:14:34ニジェガロージェッツ さん
パラムシル島
お久しぶりです。気象通報の話題が出てくると,黙っているわけには参りません。

[70401] Issie さん
聴いてて「おやっ?」と思ったのが,「セベロクリリスク」。
自分のページ で確認したら,旧日本名は“幌筵島”の「柏原」。私が毎晩聴いていた30年ほど前は「パラムシル島」の名で“定例通報地点”の「マツワ島」に対する代替地点とされていたように記憶しています。

確かに,2001年12月3日までのNHKラジオ気象通報では,マツワ島の代替地点としてパラムシル島がありました。
同じ千島列島ではウルップ島の代替地点としてシムシル島がありましたが,いずれの地点も1997年頃を最後に「入電ナシ」が続き,定例地点と代替地点のどちらも入電の無い場合には両地点を続けて「入電ナシ」と読み上げていたので,「ウルップ島,シムシル島,マツワ島,パラムシル島からは入電なし」を1日3回,2001年12月3日の地点改訂まで5年間連続となると,5000回ほど毎回同じことを放送していたという珍記録になります。

2001年12月の地点改訂では,拙稿[28888]にもあるとおり,永らく入電の途絶えた上記の千島4地点(代替地点を含む)を削除して,新たに定例地点をパラムシル島北部の都市「セベロクリリスク」とし,その代替地点をカムチャツカ半島の南端に近い「オゼルナヤ」に変更し,結果1地点の減少となるため,新たに「南鳥島」の追加となりました。

つまり,旧来の「パラムシル島」と,現在の「セベロクリリスク」は全くの別地点であり,国際式通報式 "synop" の地点番号で言えば「パラムシル島」は32217番でパラムシル島南部の千倉岳付近の温祢古丹海峡沿岸部に,「セベロクリリスク」は32215番でパラムシル島北部の柏原で幌筵海峡沿岸に位置しています。

ところで,(ものすごくマニアックですが)ラジオ短波の気象通報(日本時間09時のデータで12時20分から15分間の放送。船舶の報告と漁業気象との間にコマーシャルが入る)がかつて存在していたことをご存知ですか。
ここでは「パラムシル島」は定例地点の一つでしたが,「ホロムシロ」と読まれていました。


追記:
[70399] hmt さん
[70310] hmt さん 「伊能図」について
書いた本人が忘れているような,過去記事のフォローまで有難うございます。
常に多くの過去記事にさり気無くスポットを当ててくださり,詳細に論理を展開されていくお姿には本当に頭が下がります。
[69277] 2009年 4月 18日(土)11:29:23ニジェガロージェッツ さん
"Ш" или "С"? (「シャー」それとも「エス」?)
[69233] Issie さん
はじめから シャー だったのでは。

否定するわけではありませんが,俄かに賛同もできません。
この理屈だと,北海道にあるアイヌ語起源の知名でさえ,ロシア語で表記する場合は日本語名を気にすることはなく,たとえば積丹は Шакотан, 知床は Ширетоко との表記に なってしまうかも知れません。公式(測地および地図作成連邦局など)の表記では,日本語発音に沿って積丹は Сякотан, 知床は Сиретоко と書かれています。
アイヌの土地であったのを(他国の領土を経ず)直接ロシア帝国領に組み入れた北・中千島とはちがい,北海道色丹島の場合は1945年まではロシア(ソ連)の支配が及んだことはありません。(彼の国では占領後,都合のよい歴史を捻出して,色丹も「ロシア固有の領土」だなどと宣っているのは置いといて)

もっとも外国の地名など,自国の言語表記では正確には表せないのは当たり前のことで,巷では実際には積丹や知床でも Ш で書かれているものも散見されるのは致しかたありません。Ш(シャー)にしろ С(エス)にしろ,どちらを使うかはその人の感性でもあり,少なくとも間違いではありませんので。

ところで,ロシア語の地名位置検索サイトВсе города Российской Федерации(見る場合は文字化けするので,エンコードを「キリル言語-windows」に設定)には, Сахалин(サハリン)の Ш を引くと,Шакотан(シャコタン)も Ширетоко(シレトコ)も出てきます。北海道ではなく樺太の地名です。現行のロシア地名だけでなく日本時代の地名が出てくるのは面白い所です。

[69271] Issie さん
1889年に明治政府が「千島国」を設置した
数字の打ち間違いと推察しますが,これでは1875年のサンクトペテルブルク条約(千島樺太交換条約)の後になってしまいますから,1869年の間違いでしょう。[67072]hmtさんの記事にも明治2(1869)年の文書がリンクされています。

[69269] 紅葉橋律乃介 さん
「瑤」という名前を付けた方に伺ってください(笑)。
ご存知のとおり,「伺う」は自分の動作に対する謙譲語です。“「瑤」という名前を付けた方”を立てている表現とすればおかしくないかもしれませんが,他人(興田小さん)に対して「伺ってください(笑)」とは,瞬間的に違和感を覚えます。

私も勢いでポカをやらかすことがしばしばですから,過去ログを見れば大概の間違いが見つかるでしょう。特に敬語については二重敬語などを頻繁にやらかしています。実生活でも「各位様」など恥ずかしくなることの連続です。元々「ものを書く」ということに縁の薄かった小生ですが,ここ「落書き帳」に出会ってからは,かなり勉強になりました。
[69234] 2009年 4月 15日(水)00:41:17ニジェガロージェッツ さん
念のため
[69233] Issie さん
(一応,私もロシア語の知識はあるので念のため。)
存じ上げております。
ロシア製の同じ地図帳もお持ちだったとも記憶しておりますが,出先の携帯からの書き込みでは,地図の確認が出来なかったことと推測します。
ただ, たとえIssieさんへのレスの形をとっているとしても,掲示板に書く以上はロシア語の知識のない閲覧者にも分かるように説明するのを心掛けております。貴殿にはちょっとしつこいレスになって恐縮ですが,一応,こちらも念のため。
[69232] 2009年 4月 14日(火)23:04:33ニジェガロージェッツ さん
遅きに失した纏めレス
子供の頃から変なニジェは,小学校の国語の授業で初めて「温故知新」という四字熟語に接した瞬間,中千島の地図が脳裏に浮かんで離れませんでした。(オッサンになった今でも温祢古丹島と新知島を連想します)
そんな小生には,一般の北方領土の認知度の低さが信じられません。

横レスながら,ひとつだけ。
[69221] Issie さん
シコタン島 はロシア語でも「シコタン」(ローマ字に転写すると Sikotan )。
色丹島はロシア語では остров Шикотан ですから,これをローマ字に転字すると ostrov Shikotan です。
Sikotan だと Сикотан でなければなりません。
ロシア語アルファベットのローマ字翻字は,使用する機関や通信する相手国言語により数種ありますが,ロシア文字の「С:エス」は「S」に,「Ш:シャー」は「Sh」に対応するのが一般です。
日本語の「し」をロシア語で表す場合は「ши(=shi)」ではなく「си(=si)」と書きます。このことから,あくまでも推測ですが,1945年まではロシア(ソ連)でも Сикотан と表記していたのを,占領を機に Шикотан に改称したのかも知れません。

さて,タイトルの通りの遅きに失した纏めレスにて恐縮ですが,諸々。

[68464] ペーロケ さん
「大きな街区番号」について
岩国市南岩国町2丁目も欠番があるものの、江別市美晴台と同じく、112番まであります。
情報ありがとうございます。南岩国町2丁目には欠番(42,43,44,45,66)がある分,江別市美晴台の次点の感はありますが,取り敢えずの暫定最高街区番号です。
また,同じ岩国市内の牛野谷町3丁目、平田3丁目、室の木町4丁目などリンクしていただいた地図からは,画一的な市街地ではなく,複雑な地形状況のもとで,ある所は自然な市街地拡大,またある所は虫食い開発のような所も含めて,旧来の地名と境界を尊重して一つの丁目にまとめて住居表示したような感じを受けました。

[68478] inakanomozart さん
「十」の読み方について
関東経済産業局でいっとじゅっけんという月刊広報誌を発行しています。
情報ありがとうございます。リンクしていただいた広報誌のタイトル,「十県」は「じっけん」だとする文部科学省の国語審議会も閉口では?
もっとも、国の機関は他の省庁のいうことなどあまり関心を示さず、常用漢字音訓表など眼中にないのかもしれませんが・・・(笑)
案外,そんなところかと納得できる話です。

[69190] 白桃 さん
拙HPについてさりげないコメント,恐れ入ります。まだまだ工夫不足にもかかわらず,ページ数だけが結構多くなってしまい,今更なにかしようという根気が失せつつあります。ところで拙稿[69159]にて自分のホームページ運営を「遊び半分でやっている」と書いてしまいましたが,これは大きな間違いで,実際は「混じりっけなしの純粋100%遊び」です。
そんなこんなで,これからは「白桃市町村人口研究所」に期待です。

[69204] YT さん
今のスピードでは、おそらく完成に1年間かかります。
それだけのデータを1年で纏める見積もりとは,かなりのハイペースではと察しております。仮に作業をされるとして,時間をかけても無理のなきように。実際,1年などあっと言う間です。

[69188] グリグリ さん
「第六回公式オフ会」について「岡山案」「首都圏案」の二案どちらでも万難を排して駆けつける所存です。今から楽しみにしております。
[69165] 2009年 4月 9日(木)00:39:53ニジェガロージェッツ さん
デザイン変更など
[69139] オーナー グリグリ さん
サイトデザインの変更構想ご苦労様です。(案外,結構楽しんでおられるのでは?)
当初は背景色を明るくする変更を念頭に構想されていたものが,最終的には背景色はそのままでフォントサイズとページ幅の変更に落ち着きそうで,現在のデザインが概ね好評であることを考慮されてのご決断かと推察します。
グリグリさんのご本心ではもっとドラスチックに変更して,あっ!と驚かせるようなデザインにしたかったのかもと邪推しているところです。前回2003年のリニューアルの時の変更にはびっくりしました。
なお,2003年正月のリニューアル直前の落書き帳がInternet Archiveに保存されています。
http:// の後に www.glin.org/prefect/pforum/ を入れて検索すると,「Aug 19, 2002」「Nov 18, 2002」「Dec 31, 2002」が出てきます。 但し,背景色はもっと黒っぽい単色に近かったように記憶しています。
#保存された「落書き帳」へ直接リンクしたかったのですが,アドレスに http:// が2つ重なるためか,うまくいきません

ところで,拙[68908]にて,当時のオーナーのニックネームを「管理人グリグリ」さんと間違えて表記してしまいましたが,正しくは「グリグリ(管理人)」さんでした。オーナーのニックネームを間違えるとは記憶も曖昧なもので,申し訳ございませんでした。
#ニックネームを間違えるな,と拙[68947]にて偉そうなことを言っておきながらドツボでございます。

さて,ご提示くださった
サイトの背景色とフォントサイズについて(最終案)
「サンプル800小」に一票を投じます。
最初は「サンプル可変小」が理想的と感じましたが,表形式の簡易入力機能との関連では表示幅固定は捨てられないと考えます。可変の場合,モニターの表示幅を小さくして見る場合には表が崩れてしまう懸念があります。今後のことだけなら兎も角,過去ログも変更対象ですから切実です。また,[69157]futsunoおじさんは逆に,大きな表示幅を前提にした表作成へのご懸念も書かれていましたが,これも確かに言えることです。また,futsunoおじさんの検証によると
(800pixでは現状より約1文字減る。)
とのことであれば,ちょっと半端ですが820~830pixelぐらいが結構妥当なところかも知れません。
900pixelだと,うちのPCのように全体の1024pixel幅から「お気に入り」表示で左端が削られると,確実にオーバーしてしまいます。
以上,勝手なことばかり書き綴り,申し訳ございません。古いPCを使っている者の一意見としてお流し下さい。


[69131] グリグリ さん
書込訂正機能と書込みスタイルの件
[68873]つきましては,出すぎた真似にて恐縮です。
既に治まった件につき,[68873]を投稿するに至った個々の経緯については差し控えますが,書込訂正機能の利用法については,それほどの懸念は持っていませんでした。(本件とは別の話ですが)むしろ以前より問題に感じているのは記事削除の方です。

記事を書く場合は「相手への配慮」を最大限に発揮してください。
との願いですが・・・
相手に対して苦言のつもりで“きつい書き込み”をして,(相手が目にしたと思われる)数時間後にそれを削除する行為を見かけることがあります。書き込みの内容そのものについては概ね正論を述べている場合がほとんどですが,相手への配慮を感じさせる文言は不足していると感じることがしばしばです。
相手に対して「キズ」を残さない記事削除こそが配慮であるとの考えもあるかもしれませんが,掲示板上での文字は削除されても相手の心にはしっかりと「キズ」が残り,多くの閲覧者の記憶にも残ります。むしろ傍目には,言いたいことを言ってそれを削除するなど,無責任な行為に思えてなりません。これでは,せっかく(勇気を出して)述べられた“正論”も台無しになってしまいます。
もっとも,読む側も
「懐の深さ」を最大限発揮して柔らかく受け止めてください。
と鷹揚にならなければなりませんが,このあたりの「苦言」と「配慮」のバランスは実に難しいものです。
[69159] 2009年 4月 8日(水)01:41:30【1】ニジェガロージェッツ さん
データ系書き込み (自戒も込めて・・その2)
[69144] YT さん
日頃よりYTさんの妥協を許さない正確な人口データを楽しく拝見しておりました。あまり目にすることの無い江戸期や明治期などの過去のデータを発掘し収集するだけでなく,合計値などで数値の整合性を検証する作業,一筋縄ではいかない大変な作業であることが容易に想像できました。また,当時とは「行政区画」の定義そのものも変わっており,データひとつひとつに地理的な検証や考察も要求され,ここまで来ると個人の趣味というよりは,完成の暁には国家的な価値さえあるのではと感じておりました。

個々のデータ書き込みについては,拝見するだけでコメントは控えておりましたが,グリグリさんからの[69135]
皆さんのご意見をお願いします
を受けて,常日頃YTさんの「データ系書き込み」に接して感じたことをお伝えしたく(今更ながらですが,興味深いデータへの御礼も兼ねて)はじめてのレスを書かせていただきます。

率直な感想としては,先に述べたように国家的な価値さえありそうな貴重なデータを,たとえ人気サイトとはいえ,他人(グリグリさん一個人)の掲示板の過去ログに埋もれさせてしまって,何と「もったいない」ことを・・・という点がひとつ。
それに加えて,データの膨大さから,その発表の場として掲示板に投稿を重ねるのでは,やはり場違いであると感じておりました。

私は,折角の貴重なデータには,それに応じた「土俵」を用意してこそ,価値が出てくると確信しています。
それには,ご自身でサイトを立ち上げるのが一番ではないだろうかと考えます。
Wikipediaの編集方法はどうなっているのか小生は部外者なので存じ上げませんが,それなりのルールがあるものと推察します。一方で自分自身がサイトを運営する場合は,自分の好きなように,最もデータが効果的に提示できると思われる方法で,いかようにも自由に工夫が出来ます。
今では各プロバイダーが用意している無料で運営できるホームページの容量も結構大きく,特に写真画像などを多用しなければ十分活用できるかと推測します。もし,積極的にデータを集めて,それを公表しようとお考えでしたら,是非チャレンジしてみてはいかがでしょうか。

実は,(ここに出入りされているほとんどの方は知っていることですが)これは小生自身がアドバイスを受けたことでもあります。
今から思い出しても恥ずかしい話ですが,6年前の2003年春まで小生は日本に近いロシアの極東地域とシベリア地域限定で,地理状況と都市の人口データを手探りで集めて「落書き帳」に発表していたことがありました。それが完了したときに頂いたアドバイスで,今でも忘れられないのが
[16077] 2003 年 5 月 28 日 (水) 21:31:09【1】 ken さん
ニジェガロージェッツさんお疲れ様でした
と,[17815] 2003 年 7 月 5 日 (土) 06:10:59 グリグリ さん
ふぉろ~ ふぉろ~ XVII
でした。結果,今では自分でロシアの人口データサイトを立ち上げて6年近く経ちました。
もちろん,YTさんが探求分析されているデータと,小生が遊び半分でやっていることでは,その性質が違うことは理解しているつもりです。ですが,kenさんとグリグリさんより6年前に頂戴したメッセージが,YTさんにも何かの一助になるのではと察します。

あまり自分のページへリンクするのは気が引けるのですが,過去の「落書き帳」拙稿(恥ずかしい悪例)との比較の例として提示しておきます(内容的にはほとんど変わりません)。ご参考まで。
[9178] サハリン州
拙HPより サハリン州

これからもYTさんのご活躍を期待しております。
[69053] 2009年 3月 29日(日)23:11:37ニジェガロージェッツ さん
六甲の米軍基地
今日の神戸は晴天に冷たい風が心地よく,絶好の山登り日和でした。いつもは神戸の背山を歩くのですが,JRで灘駅まで行き,今日はちょっと東へ遠出して六甲山へ。
摩耶山の南東に突き出す山寺尾根は「摩耶最強」と言われる急峻な登り道で,神戸市発行の六甲全山マップにも記載が無く,どおりでハイカーの少ない登山道でした。麓の長峰堰堤から山上の掬星台まで55分と,休むことなく快調に登りましたが,ただ一人,ジャック・バウアー似の西洋人が体力任せにもの凄い勢いで通り抜けて行きました。何か見てはいけないものを見たような。(笑)
摩耶山掬星台からは六甲全山縦走コースを東へ進み,凌雲台を経由し六甲最高峰へ行き,南へ下山し,住吉川上流に沿った「住吉道」を下り,JRの住吉駅まで歩き通しました。

凌雲台へは拙稿[68456]以来2か月ぶりの訪問です。2か月前には
「回る十国展望台」の跡地は工事中のハゲ山で立入禁止
でしたが,今では跡地の整備工事は完了しており,展望広場として開放されていました。ですがここからも神戸方面の見晴らしは「六甲ガーデンテラス」のカフェの建物が邪魔でした。

六甲最高峰(標高931m)には1985年以来24年ぶりの訪問となりました。学生時代には趣味の六甲登山で頻繁に足を運んだ六甲最高峰でしたが,最高峰山頂は米軍に占領されており,両耳形の「ミッキーマウス」と呼んでいた巨大な米軍基地のパラボラアンテナが特徴的でした。我々が言う「最高峰」とは,基地外に設置された最高峰を示す石碑の立つ「仮の頂上」です。今日もそこを目指しました。
ところが,最高峰に近づくにつれ見慣れた威圧するかのようなミッキーマウスの形が違っていることに気が付きました。しかし,まあ見る角度によって違っているのだろうと軽く考えていたところ,最高峰に到着してみると,あまりの変化にただただ「唖然」。

米軍基地が・・・・無い!!!

神戸市の標高最高地点でありながらも,決して立つことの許されなかった六甲最高峰頂上。そこに,あまりにも呆気なく立っている。頂上でハイカーや最高峰近くの茶屋で米軍基地について尋ねると,「とうの昔の震災前」には撤去されたとのこと。今ある頂上よりちょっと下に建っているアンテナは震災後に設置された自衛隊の通信施設だそうな。

帰宅後,ネットで検索すると米軍基地は1992年に撤去され,六甲最高峰頂上は神戸市に返還されたようです。
「六甲山 米軍」で検索すると結構面白いページが多くヒットします。
「神戸市に返還」といっても,山頂が米軍に占拠されたのは終戦直後で,当時あそこは神戸市域ではなかったですがね。まあ,細かいことはさて置き,初めての最高峰登頂に感動しつつ,時代の流れと自分の無知をしみじみと思い知り・・(笑)
[68947] 2009年 3月 21日(土)10:01:06【2】ニジェガロージェッツ さん
地理
[68938] 高崎ダルマ さん
はじめまして。
「地理」とはどのようなテーマかちょっと分かりづらいのですが,人それぞれによって,その捉え方は様々で,これほど掴みどころのないテーマは少ないのではと感じています。
小生は「地理」という学問を専攻したことはなく,学科として「地理」を学んだのは高校1年生での授業が最後でした。私自身,サブタイトルに「地理雑学」などと称したサイトを立ち上げて運営していますが,あんなものが地理と呼べるのかどうか正直に言って自信はありません。
ここ「落書き帳」でも地名さえ書かれていればそれが「地理ネタ」と言えるのか,とか,いろいろ感じることはあります。
ですが,学問としての「地理」はせておき,私のような,この分野では門外漢にもかかわらず単に「地理好き」と称するものにとっては,地理とは極論すれば「この地球上何でもあり」のように解釈しています。
地理の本筋から若干ずれていても,鉄道を含む交通,おもしろ地名,こんなところへ行って来たという話題,市町村合併などの行政,各地の歴史,気候,建築学科で勉強する都市計画学さえも,広く捉えれば「地理」と関連性はないでしょうか。

大半が鉄道の話題。そのほかも地理とは関係ない内容が多い
確かに。ただこれは,たまたま直近にブルートレインの引退や阪神なんば線の開業など,世間のニュースで鉄道絡みの出来事が続き,それがここでも話題として取り上げられて盛り上がったという側面もあります。ただ,そんな中で「駅名に連続する地名」の話題が続いてしまったことは,タイミング的に鉄道に興味のない方にはまずかったような気もします。
とはいえ,ここは掲示板です。そのようなことは気にせず,ご自身の関心のある地理の話題をどんどん書き込みしていけば良いのです。きっと反応されるかたがいらっしゃることでしょう。

[68943] オーナー グリグリ さん
はじめてご訪問される方のお名前を間違えてはいけません。貴兄の時代に流通していた五十円じゃないんだから。
[68908] 2009年 3月 20日(金)21:29:23【1】ニジェガロージェッツ さん
背景色
若干,過去を振り返りつつ・・・

[68895] オーナー グリグリ さん
現在の状態にリニューアルされたのは2003年1月(予告[6844],開始[7285][7296],完了[7910])のことでしたか。早いものでもう丸6年経ちましたが,現在の背景色については
[7303] 松戸 さん(当時)
掲示板もなんだか爽やかな感じで良いです☆
[7337] 蘭丸 さん
それにしても、この明るく清涼感溢れる色使い、グリグリさんのセンスには敬服いたします。
などなど,好評でした。それまでは背景色は限りなく黒に近い濃紺,文字は白であったように記憶しています。以前はページの幅もちょっと狭めであったような気がします。
私も今の落ち着いた色合いが大層気に入っており,「都道府県市区町村」にアクセスしてこの背景色を見ると,我が家に帰ってきたような気分になります。
さて,当時のリニューアルのきっかけにも,
[7285] 管理人グリグリ さん(当時)
(1) より見易くするため(最近年のせいか画面の文字が見辛くなってきました)
がありました。
かくいう小生も,当時のグリグリさんの歳に近くなり,今のところ生活に不都合はありませんが徐々に老眼を意識するようになりました。これが6~7年後となると,はっきりと「老眼です」といってしまうようになるかも知れません。その時には今の背景色がどう見えるのかは想像できないのですが,現時点の小生の目には変更の必要性を感じません。

変更の[68895]にて提示していただいたサンプルから,小生の個人的好みを述べさせていただければ,30%から50%くらいの明るさUPが見やすくて良いのではと感じます。
あまり背景を白っぽくしてしまうと,逆に目がチカチカして,読んでいて疲れそうな気がします。背景を白く,フォントを大きくというのも考えられますが,フォントを大きくするとレイアウト(特に表形式の書き込み)が崩れてしまい,不細工な気がします。
明るさのUPより,例えば背景色そのものを変える手もあるでしょうが,それも今以上のものとなると,ちょっと想像がつきません。

以上,「意見」というより,個人的な好みばかりですが,どうでしょうか。
[68873] 2009年 3月 19日(木)00:48:13ニジェガロージェッツ さん
スタイルの問題か?
ここ数日,自分の運営するサイトの人口データ更新作業に没頭しています。
それに伴って,2008年1月1日までの1年間にロシア全土で行われた市町村行政単位の変更状況も合わせて整理しているのですが,これが奇妙。2005~06年に各地で行われた町の村への格下げなどの多くを撤回し,また元に戻しています。
何でも05~06年の変更は法令に沿ったものであったのだが,ロシア語の略称で“ОКАТО”と呼ばれる,直訳すると「全ロシア行政区画分類」への変更が受理されていなかったとかいう,訳の分からないものでした。
その中で,2005年に町から村へ格下げとなったサハ共和国アルダン地区の2町(ボリショイ・ニムヌィル町,ウィルルィマフ町:拙稿[9741]に記述あり)が復活しています。ですが,両町の2008年1月1日現在の人口はともに0人。無人です。
まったく,ロシア人のやることは分からん!


さて,こちらにはデータにうるさい御仁達が控えておられるので,小生の出る幕はなかろうと見守っておりましたが,お気付きでないのか,スルーされているのか・・・
勘違いか読み違いの類かと推測しますが,いずれにしろ,33年と76年を間違えてはいけません。
[68850] 山野 さん
大分県で県人口が76年振りに120万人割れ
リンクを出されておられる大分合同新聞の記事によれば,1976年以来33年振りに120万人割れです。
何気なく落書き帳を読んでいて,[68850]を見て「へえ~」と思ったものの,76年前と言えば昭和8年。まだ日本人の人口そのものが現在とは比較にならないほど少なく,朝鮮などの外地にも多くの日本人が移住していた時代です。大分県はそんな時代の人口にまで減少しているのかと素朴に疑問に感じ,リンクされている記事を読み,山野さんの間違いに気づいた次第です。1976年ならば昭和51年。これなら納得です。


話は変わって,[68848] 紅葉橋律乃介さんの指摘が物議を醸していますが,その後の流れの「書き込みスタイル」云々は,論点がずれているように感じます。確かに[68848]の最後の2行の書き方は,熊虎さんへの礼を失したもの言いにも感じられなくもないですが,加筆訂正機能の利用については厳しいことを書かれているようには思えません。
整理するため二つの文を提示します。

A文
誤字や勘違いの訂正・削除を、30時間以内に限り、本人に例外的に認めているもので、大幅な加筆修正を認めているものではありません。

B文 #実際にガイドライン(8)に書かれている文章ですが,『 』はニジェの挿入です
誤字や勘違い『など』の訂正・削除を、30時間以内に限り、本人に例外的に認めているもので、『混乱を招くような大幅な』加筆修正を認めているものではありません。

このA文とB文の違いをどのように受け取られるでしょうか。
私には両文の意味するところは,ほとんど同じものだと考えます。本来はA文で良いところを,これでは味気なく,B文の『』で括った部分は掲示板の運営上若干の幅を持たせたものと推測します。グリグリさんの懐の深さのようなものを感じます。

ところが,中にはB文で『』で括った部分を都合の良いように解釈して,日常的に加筆訂正機能の利用を前提に書き込みをされる方がいる。それが時間的な競争のようなものに使われるとしたら,やはりそれは行き過ぎでしょう。私にはこれを「スタイル」の問題だとは感じられず,
結局のところ、多様なスタイルを許さない方も少なくはないように思えます。
と結論づけされてしまうと,それは違うのではないかと,むしろ掲示板のモラルなりエチケットのような問題ではないかと考える次第です。
たまたま[68859]小松原ラガーさんの記事に
いろんなスタイルがあってもよいのではないでしょうか
と書かれていますが,ここでの「スタイル」とは,[68856]熊虎さんの「ニュースサイトだけにした方がいいんじゃないでしょうか」という極論に対してのものであり,加筆訂正機能の利用法までのことを仰っているようには感じられません。

[68856] 熊虎 さん
合併情報以外に書き込む話題が少ない私にとって、これは深刻な問題です。
私にとっては人口関連や地元神戸関連の話題しかありませんが,人口については白桃さんを筆頭に諸先生方がおられ,その上,神戸は落書き帳常連の密集地域の一つです。ゆえに小生の出番はほとんどありません。ですが自分にとっては,他人が書き込んでくれることを「手間が省ける」と喜んでおり,また40年以上住んでいる神戸について自分と違った見解が述べられたりすると新鮮な喜びを感じています。
[68456] 2009年 1月 25日(日)22:25:16ニジェガロージェッツ さん
回る十国展望台 など
[68432][68440] Issie さん
「十丁目」の読みについて,古代の日本語まで遡った詳細な解説ありがとうございます。

表記と現実の発音,そして個々人の「思い込み」が一致しないことは幾らでもあることです。
あるいは,「標準語」では「正しい」はずの読み方と地元での理解とがズレていることも。

確かに。小生も(40年近くも前のことだけど)小学校では十個は「じっこ」と読むように習ったかもしれません。ですが全く記憶になく,また十丁目については,生活圏内に「十丁目」のある町が数多あり,いずれも「じゅっちょうめ」と発音されているので,完全に何の疑問もなくそのように「思い込んで」いました。
とはいえ,そうと知った限りは「区コレクション」の「十区」については放置できず,「じゅっく」ではなく「じっく」である論拠についてはIssieさんのように理路整然とは説明できないまでも,訂正を急ぎました。
早速に理論的な裏づけをしていただき,深謝いたします。

[68434] 敷守ほむら さん
まだ検討中のようですが、「十区」を「じゅっく」と読んでも正しくなる日は近いようです。
現在審議中の「新常用漢字表」に関する試案に「十」の読み方に「ジュッ」を加えるとのことですが,正に言葉は刻々と変化しているなと感じました。それにしても,拙稿[68427]の前日のニュースとは,何ともタイムリーな。

[68438] inakanomozart さん
現在では「じゅっ・・」と発音することも容認されているようで、現在はそういう読み方をするアナの方が主流となっているようです。
何か変な楽しみ方ですが,次の衆議院選挙が待ち遠しい限りです。

[68441] 小松原ラガー さん
今は六甲ガーデンテラスとなっているこの場所、昔は「十国展望台」なるものがありました
正確には「回る十国展望台(まわるじっこくてんぼうだい)」でしたね。床が回る構造になっていて,腰を下ろしたまま360度の展望を楽しめる施設でした。ですが,小松原ラガーさんの記事を見るまでそれが廃止になっていたとは露とも知りませんでした。神戸の名所がだんだんと少なくなっていくようで寂しい限りです。80年代には「六甲全山縦走大会」だけでなく,毎週のように六甲登山をしていましたから,回る十国展望台のあった六甲山上の凌雲台地区は馴染みのある懐かしい場所です。
小生は昨夏以来,日曜日には「神戸背山」登山が習慣になっていますが,敢えて「六甲登山」とは言っていないのは,同じ六甲山系には違いがないですが,歩くエリアが六甲山上からは西に偏っているためで,そのニュアンスの違いは地元の方には理解できることと察します。
ですが,今日は凌雲台が懐かしくなり,回る十国展望台の跡地なども見てみたかったので,六甲登山をしてまいりました。
JRの六甲道駅より鶴甲―油コブシ登山道を経て凌雲台まで,休憩なしで歩き続けてちょうど2時間,歩数で12070歩でした。
途中の油コブシについては,6年前にも[11426]に書いたように,東から神戸市街を見おろす展望が良く,あの時は夜景についてのレスにて暗くなってから上るのは脇道も多く遭難の危険もあるかのような記事にしていましたが,明るいうちでは登山道も整備がされており,一般向けの上りやすいお勧めのハイキングコースです。油コブシを過ぎたあたりからは,昨日今日の寒波の影響で雪道と化していました。雪道を歩いていると,初めて雪道を歩き続けたモスクワが懐かしい。

さて,凌雲台に着くと余りの変貌振りに唖然でした。「凌雲荘」というこの地区のシンボル的な宿泊施設があったのですが,それが跡影もなく,「凌雲荘」の跡地は「六甲ガーデンテラス」に代わっていました。「回る十国展望台」の跡地は工事中のハゲ山で立入禁止に。以前からあったジンギスカンパレスやビューパレスが健在なのと,近くの無線中継所の施設が,かつてここが「凌雲台遊園地」と呼ばれた所だと物語っていましたが,いやいや残念。
この一帯からの展望は,阪神間や大阪方面に開けており,神戸方面は「六甲ガーデンテラス」の諸施設に隠れて展望が良くありません。「六甲ガーデンテラス」の中ほどに「見晴らしの塔」という,高さ11mの展望塔が建っています。確かに塔上からは神戸や明石海峡・淡路方面が見えますが,それでも,「六甲ガーデンテラス」のカフェの建物が邪魔。
一番の展望ポイントは,そのカフェの内部のテラスからの眺めで,ここからだと神戸方面も抜群の展望でしたが,カフェに入らないと駄目で,商魂逞しいと言うか,まあ,ラズベリーココアは美味しかったですけど。笑)
ところで,「回る十国展望台」の「十国」の中身は何だろうかと検索してみると,「山城、大和、摂津、河内、和泉、紀伊、丹波、播磨、淡路、阿波」だとのこと。
しかし,いくら視界が良い日にでも阿波国は淡路島の諭鶴羽山地に隠れて見えづらいのでは。逆に播磨灘の向こうに小豆島が見えるはずで,小豆島なら讃岐(古くは備前―[2474]たけもとさん)に取って替えるべきかと。
2002年11月に廃止となった「回る十国展望台」については,当時の神戸新聞の記事が残っていました。

凌雲台からの帰路は,住吉方面に下りるハイキングコース「石切道」を通り,ここも雪道が続いていましたが,滑る危険は下山時のほうが大きく,このような所では登山靴を履くなど,しっかりした足ごしらえが必要です。
東灘区の市街に下りた後は,[68402]小松原ラガーさんの記事にあった昨年11月に新住居表示で町名が付いた御影郡家,御影を歩いてきました。

御影町御影、御影町郡家、御影町石屋とありますが、地図では表示されていない御影町西平野と合わせて昨年11月に町名変更をしております。
新調された住居表示板が新鮮でした。東灘区では,住吉川以西のJR線と阪急線に挟まれた区域が新住居表示未実施地域として残され,住吉部分では昭和60年に「住吉本町」が起立し,最後まで残された部分が今回の「御影郡家」「御影」の起立で決算されました。
郡家は残り,石屋についても石屋川の名や,「御影石町」の名に名残が残りました。
ですが西平野は消滅しました。元々西平野は御影町には属さず,西隣の六甲村の一部でした。1929年に六甲村が神戸市に編入された際,西平野は六甲から分かれて御影町に編入されました。そんなところが既存の「御影山手」に加え,新たに起立した町名「御影」に完全に吸収となりました。
東灘区の徹底した地名整理については,拙稿[15018] にも書きましたが,もう少し柔軟な町名の付け方がなかったものかと感じます。今回は「郡家」が残っただけまだマシな方ですか。
西平野の灘区との境界に「ケジメ」という字がありました。近藤マッチが「♪け~じ~め~」と歌っていたのを聞いたとき,石屋川に沿った街並を連想したのは,もう昔話になってしまいました。
[68427] 2009年 1月 22日(木)22:42:49【1】ニジェガロージェッツ さん
2題(大きな街区符号,「十丁目」を何と読む)
今更になって,今年の初書き込みになってしまいました。
小雪がちらほらと舞う神戸・高取山頂より初日の出を拝んでから(とはいえ,当日は日の昇る紀伊半島上に厚い雲があり,初日の出そのものは見えず)もう22日も経ったとは・・・。
いつもながらの亀レスにて,大変恐縮です。

[67811] 油天神山 さん
「町名の○○台」の編集作業中に見つけました。江別市見晴台は大台を突破して、112番街区まであります。
さあ、最大値は果たしてどこに?
ついに「桁外れ」の登場ですね。北海道の雄大さというか何と言うか・・・
大きな街区番号が出現するのは,東京の滝野川や神戸の荒田町のような,下町で路地の多い所をイメージしていたのですが,江別市見晴台は整然としているようでも近くに市役所もあり,市街地としては結構古いのかも知れません。本来ならば幾つかの丁目に分割するのでしょうが,この辺りで新住居表示されている各町は丁目を設けていないところも特徴的です。南隣の新栄台も95番まであり,規格外れの規模に感じます。
見晴台112番を超えるのはさすがに探すのは難しいでしょう。


話は変わって,今朝のテレビで漢字の読み方が話題になっていて,ほとんどの人が間違う例として「十個」が挙げられていました。「じゅっこ」ではなく,正しくは「じっこ」とのこと。
十個が「じっこ」ならば,十匹は「じっぴき」,十階は「じっかい」・・・
では十丁目は「じっちょうめ」か? ・・んなアホな・・と思っていたら,どうやら本当に「じっちょうめ」が正しい読みのようです。
手持ちの広辞苑(ちょっと古い昭和58年版だが)で「じゅっ」の項目を見ても「十」で始まる単語は収録されておらず,一方「じっ」の項目では,十戒,十界,十干・・・(以下,列挙していくとキリがないので省略)と続きます。
もちろん,数量として「じっちょう」「じっく」「じっし」と言おうが,「じゅっちょう」「じゅっく」「じゅっし」と言おうが,要は「十町」「十区」「十市」と分かれば良い事であって,一方が正しく,他方が間違いだと言い切る性質のものではないのでしょう。
しかし,固有名詞として箱根の十国峠に「JUKKOKU TOGE」の立て札があるような所は,「じゅっこくとうげ」と読むべきでしょうか。
「十丁目」の場合は,街区符号のような番号ではなく,「○○十丁目」で一つの地名であるとすれば,固有名詞の一部と考えられます。固有名詞である以上,仮に長田区若松町十丁目は「じっちょうめ」で,南隣の長田区大橋町十丁目では「じゅっちょうめ」という変則例も有り得るかも知れません。実際にはそのようなことはなく,またそのようなことに拘る人もいないでしょう。
とはいえ,日本語として「正しい読み方」の基準がそうなっているのであれば,たとえ固有名詞でもことわりのない場合は「十丁目」は「じっちょうめ」,「十区」は「じっく」が,より正しい読み方と推測します。
とりあえず,小生が編集した「区」コレクションの項目にある「十区」の読みは「じっく」に統一し,修正しておきました。
[67799] 2008年 12月 31日(水)19:46:51【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:大きな街区符号
[67793] inakanomozart さん
早速,静岡の街区情報ありがとうございます。

全国的にはもっと大きな街区符号があるのでしょうか?
ちょっと東京の地図を見たところ,荒川区や北区では各丁目が凄過ぎる一帯があります。70番街区など当たり前のように存在しています。
特に北区滝野川一丁目には,93番街区が存在しています。他にも三丁目88番,六丁目86番街区と,滝野川恐るべしです。

【1】「号」を「番」に訂正


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