I. 長田区について
[91496] ペーロケ さん
その頃はちょうど新長田駅前の再開発ビルが建設中で、周囲も焼野原から復興に向けて加速していた頃と記憶しています。すべて元通りにはならないけど、街が発展する、いい方向へ向けて進んでいる、と、当時の私の目にはそう感じていました。しかし、見た目には綺麗な建物が建ち、街が発展しているように見える一方で、ケミカルシューズ業界がそれほどまでに元気がない状態のままとはショックです。
当時,でるでるさん,両毛人さんと共に,新長田駅前から大丸新長田店(平成25年1月閉店,同年9月,東急プラザ新長田開店)に入り,新長田一番街から大正筋商店街へ向った記憶があります。いずれも,当時神戸市が進めていた
新長田駅南地区震災復興再開発事業のエリア内です。皆さんと一緒に歩いた平成15年9月当時では,新長田一番街では再開発着手前(平成19年頃完成),大正筋では再開発ビルが完成間近(平成15年11月頃完成)で,まだ復興途上の夢のあった時代でした。
神戸市の計画では,新長田駅から大正筋の南端までの7~800メートルほどの空間に,10棟以上の再開発ビルをつなげ,地下,地上,2階の三層構造での商店街の建設で,その通りのものが完成しました。しかし,そもそも人口の減少している長田区において,商店街においても人通りはまばらで,地上1階のメインストリートでさえ,各商店の経営難からシャッター街になろうとしているさまで,特に2階部分には人通りはなく,当初より分譲は埋まらず,今では非常に厳しい状況になっています。市では対策として,売れなかった店舗を格安の家賃での賃貸に切り替えたため,不動産価格の暴落が起こり,既に分譲で購入した商店にとっては,本来ならば最終手段として店舗を売却することも出来たものが,それも無理となって困窮している状況と言われています。これを,学者は「復興災害」と呼んでいます。
なお,ペーロケさんに新長田でお会いしたあの日に,皆さんには「長田村」と揶揄される,長田区のディープな部分をご案内していません。
この新長田駅南再開発事業区域からは,ケミカルシューズ業界は完全にシャットアウトされました。事業区域内の若松町3,4丁目一帯は,昔からケミカルシューズの卸売問屋が集積していた地域で,「長田村」
[91427]のコアとなる部分を形成していましたが,震災では一様に焼け野原となり,再開発を機に神戸市はこれを潰した格好です。これも長田のシューズ業界凋落の大きな原因となったと言われています。
II. 灘区について
東灘区と灘区の違いを一言で表す、となるとなかなか難しいです
灘区と東灘区の違いを一言で表すと,インナーシティ(灘区)と,そうでない街(東灘区)です。
灘区の区域は,昭和4年に神戸市に編入されたのですが,その翌年の昭和5年国勢調査では区人口85,909人だったのが,神戸市が人口100万人を突破した昭和14年(後述します)には16万人になっています。つまり,街並みのベースとしては,戦前期に市街地化が完了した地域であり,数次にわたる神戸大空襲による市街の破壊を経た直後の,昭和20年11月1日の人口調査でさえも70,636人の人口が記録され,昭和45年国勢調査の170,730人が最盛期人口となりました。
その後は震災に至るまで人口は減り続け,その推移は,程度の差こそあれ,インナーシティ問題がより深刻であった長田区のそれ(拙稿
[7736])に似ています。
一方,東灘区においては,昭和50年代に人口増加の停滞を経験したものの,大幅な減少はありません。平成になってからは六甲アイランド完成による人口増加がありますが,それを差し引いても,震災による減少以外では微増傾向が続いています。
このように,人口推移を見れば,両区の性質が全く異なっていることが窺えます。これは数値化されたその街の履歴ですから,その違いは街並みに表れます。灘区が東灘区よりも古い市街地であることから,今でも庶民的な雰囲気の残る街並みが感じられます。
また,神戸市全体の発展から見た場合,灘区は「中央5区」,すなわち,戦前の神戸市域を形成した,現在の須磨区,長田区,兵庫区,中央区,灘区の一つであり,神戸市街と一体となっての発展した経緯から,昔の葺合区(現在の中央区東部)の延長にある街の印象が濃いと感じます。実際,震災前は葺合区脇浜海岸通に川崎製鉄阪神製造所と神戸製鋼所脇浜工場が,その東隣の灘区日出町に神戸製鋼所岩屋工場と続き,西郷の酒造地を挟んで,東には神戸製鋼所神戸製鉄所がある,鉄鋼の街の印象があります。
東灘区は戦前期には神戸市外で,酒造業も栄えた裕福な土地柄で,特に住吉村は関西財界のお歴々が居を構える「お金持ちの村」として有名でした。神戸市編入は昭和25年のことですが,街並みのベースには戦前の裕福な時代ものがあり,今でも高級住宅街として認識されています。
ですから,小生には,ペーロケさんのように灘区と東灘区を同じようなイメージにはどうしても持てないでいます。確かに,海岸沿いには工業地帯で,共に酒造地がある。住宅地には南から阪神,JR,阪急が並行して走り,阪急線の北側には灘区に神戸大学を筆頭に学生街が,東灘区に甲南大学を筆頭に,などと,表面的には似ているのかもしれません。
震災後は,灘区は復興の過程でインナーシティ問題を克服しつつあると推測され,人口は復興後も増え続けており,今では昭和57年頃の人口にまで戻っています。最盛期の17万人まではさすがに無理でしょうが,場合によっては14万人を超えるところまで回復すると思料します。
以下,両区の人口データを提示します。比較の参考までに長田区の人口も添えておきます。
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調査日 | 灘区人口 | 東灘区人口 | うち六甲Is. | 備考 | 長田区人口 |
1930.10.1 | 85,909 | 60,102 | | 昭和5年国勢調査 | 181,015 | (林田区) |
1935.10.1 | 128,186 | 70,240 | | 昭和10年国勢調査 | 216,213 | (林田区) |
1940.10.1 | 155,498 | 87,191 | | 昭和15年国勢調査 | 229,356 | (林田区) |
1945.11.1 | 70,636 | 55,349 | | 人口調査 | 112,992 |
1950.10.1 | 114,401 | 83,937 | | 昭和25年国勢調査 | 167,109 |
1955.10.1 | 138,214 | 108,464 | | 昭和30年国勢調査 | 189,806 |
1960.10.1 | 155,694 | 134,342 | | 昭和35年国勢調査 | 202,266 |
1965.10.1 | 168,973 | 155,898 | | 昭和40年国勢調査 | 214,325 |
1970.10.1 | 170,730 | 171,109 | | 昭和45年国勢調査 | 210,066 |
1975.10.1 | 157,892 | 183,836 | | 昭和50年国勢調査 | 185,971 |
1980.10.1 | 142,312 | 183,284 | | 昭和55年国勢調査 | 163,949 |
1985.10.1 | 133,746 | 184,738 | | 昭和60年国勢調査 | 148,590 |
1990.10.1 | 129,578 | 190,354 | 5,136 | 平成2年国勢調査 | 136,884 |
1995.1.1 | 124,538 | 191,716 | | 震災95.1.17直前の推計人口 | 129,978 |
1995.10.1 | 97,470 | 157,599 | 14,200 | 平成7年国勢調査 | 96,807 |
2000.10.1 | 120,505 | 191,304 | 14,833 | 平成12年国勢調査 | 105,467 |
2005.10.1 | 128,050 | 206,037 | 17,711 | 平成17年国勢調査 | 103,791 |
2010.10.1 | 133,451 | 210,408 | 18,837 | 平成22年国勢調査 | 101,624 |
2015.10.1 | 136,130 | 213,727 | | 平成27年国勢調査速報値 | 97,952 |
2016.9.1 | 136,627 | 214,190 | | 推計人口 | 97,271 |
【註】東灘区人口は,1945年までのものは武庫郡御影町,住吉村,魚崎町,本山村,本庄村の,1950年のものは東灘区と武庫郡本山村,本庄村のそれぞれ合計値。六甲アイランド人口は町丁別人口より算出できるものは提示した。埋め立て途上の1985年の人口は不明だが世帯数1の記述あり。
また,灘区と東灘区(および兵庫区)との境界は,昭和47年6月1日の「六甲山移管」により,山域で灘区が拡大する形で変更があった。
戦前の長田区人口は林田区のもので代用した。ただし林田区と長田区ではその区域が大幅に異なる
[75507]。
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ところで,余談ですが,震災後に新都心「HAT神戸」として生まれ変わった,製鉄所の跡地である中央区脇浜海岸通から灘区日出町にかけて,脇浜海岸通は町名をそのままに1,2丁目に分割したものの,日出町は摩耶海岸通と改称したうえで1,2丁目に分割されています。
なんで町名変更したんでしょう?「日出町」のほうが画数も圧倒的に少なく,悪い名前でもなかったろうに。
追記1:
「神戸市が人口100万人を突破したのは昭和14年?」
国勢調査では,神戸市人口が100万人を超えたのは,昭和35年調査で初めて達成したことですが,神戸市では,それを昭和14年であると言っています。
(近代神戸略年表)
これは,神戸市の推計人口によるもので,昭和14年10月1日のものを下表に提示しておきます。
市区 | 昭和14年10月推計人口 | 昭和15年10月国調人口 | 面積km2 |
神戸市【8区】 | 1,006,100 | 967,234 | 83.06 |
林田区 | 242,200 | 229,356 | 10.60 |
灘区 | 160,000 | 155,498 | 19.48 |
兵庫区 | 152,100 | 149,363 | 4.00 |
葺合区 | 129,400 | 123,846 | 7.56 |
須磨区 | 109,600 | 113,212 | 24.74 |
神戸区 | 92,700 | 79,850 | 7.68 |
湊東区 | 67,800 | 62,382 | 2.04 |
湊区 | 52,800 | 53,727 | 6.96 |
現在の「中央5区」に相当する,狭い旧市域のみでの100万人です。しかも面積の4割ほどは山域です。
昭和15年国調人口では,100万人を割りましたが,その後,昭和16年4月に明石郡垂水町(昭和15年国調人口23,140人,面積31.99km2)を須磨区に編入し,同年の10月推計の神戸市人口は1,003,200人(面積115.05km2)となり,再び100万人を突破しました。しかし,昭和17,18年の推計人口は公表されず,昭和19年2月22日人口調査では,918,032人に減少しています
[75507]。
次に再び人口100万人の回復が記録されたのは,昭和31年10月1日の推計人口になります。昭和30年国調人口と合わせて,次に提示しておきます。
市区 | 昭和30年10月国調人口 | 昭和31年10月推計人口 | 面積km2 |
神戸市【8区】 | 981,318 | 1,003,807 | 492.42 |
兵庫区 | 213,427 | 217,985 | 223.31 |
長田区 | 189,806 | 192,508 | 8.60 |
灘区 | 138,214 | 141,005 | 18.43 |
東灘区 | 108,464 | 112,150 | 28.21 |
垂水区 | 95,225 | 97,341 | 170.80 |
生田区 | 81,540 | 83,109 | 8.20 |
須磨区 | 80,083 | 82,670 | 25.38 |
葺合区 | 74,559 | 77,039 | 9.49 |
【註】神戸市および兵庫区の昭和30年国調人口,面積には,昭和30年10月15日編入の有馬郡長尾村(同人口2,013人,面積13.07km2)を含む。現市域と比べると,北区淡河町は美嚢郡淡河村,上淡河村で市外である。
追記2:
ペーロケさんへ
お忙しい中,拙稿へのレス恐縮です。拙
[91491]では,ペーロケさんのご質問の真意がわからず,特に後半ではきつい表現になってしまいました。
小生へのレスなど全く急ぎませんから,どうぞ,お時間のある折に,お考えが纏まってから,ご寄稿いただければ幸いでございます。
拙稿
[91386][91427]にしても,投稿まで2週間以上の時間をかけて書いています。
記事訂正【1】昭和30年,昭和31年の神戸市各区人口表,および昭和16年以降の説明文を追加記載