前月末、筑紫野市が進めている「筑紫駅西口土地区画整理事業」にあたって発掘調査が行われている『前畑遺跡(筑紫野市大字筑紫・大字若江)』から、古代大宰府を防衛する意図をもったものとみられる7世紀に造られたと推定される土塁が発見されました。
先週末に現地説明会が開催されまして、時間を作って足を運んできました。
現地での調査員の説明で、地名(大字)の境界について興味深い話が聞けましたので紹介したいと思います。
…まずは前置きを。
そもそも前畑遺跡で発見された土塁には、どのような意義があるのでしょうか?
(日本史の記述です。長文ですので、興味が湧かない方は読み飛ばしてください。)
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ご存じの方も多いと思いますが、663年に朝鮮半島で倭国・百済連合軍と、唐・新羅連合軍との戦乱がありました。白村江の戦いです。
この戦いに倭国は敗退、唐や新羅が攻め込んでくることを想定しなければならない事態となりました。侵攻されれば最前線になるであろう北部九州に、古代大宰府の都を防御すべく大野城と基肄(キイ)城を築造。
そして、大宰府北方の地峡帯に二つの山城を結ぶかたちで土塁を築きました。太宰府市・大野城市・春日市にまたがり今も残る、国の特別史跡『水城』です。
以下は前畑遺跡の調査員の方のお話です。
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「土塁は大宰府北方(博多湾側)だけでなく、大宰府南方(有明海側)にも存在したのではないか」いう説を唱える考古学者もいます。さらには「中国を中心とした東アジア一帯にみられる『羅城』の形態が大宰府周辺に存在したのではないか」という意見を持った学者も。
※[羅城(ラジョウ):繋がっている山並みや河川といった自然地形を取り込みつつ、平野部や地峡帯に土塁を築き、街を取り囲むかたちで防御するもの。日本国内では発見されていない]
南方に土塁が存在したという説は、証拠となるものが発見されていなかったので、近年までは少数意見でした。ましてや羅城なんて何をいわんやという空気が大半を占めていたようです。
ところが、1999年に大野城跡の南東に位置する筑紫野市の宮地岳山麓にて阿志岐(アシキ)山城跡が発見されたのを期に潮目が変わります。
阿志岐山城の立地や機能については謎が多いのですが、大宰府の防御関連施設である可能性が高く、「南方に土塁等の施設があったことを示唆しているのでは」と考える人を全否定できなくなってきました。
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そこに、今回の発見です。
大宰府南方から土塁遺構とみられる築造物が出土した初のケースとなりました。
大宰府周辺で羅城の遺構が確認できた…とまでするのはまだ早計でしょうが、これまでの史実が覆ったのは間違いがない、希有の大発見です。
【参考】
・毎日新聞11/28付
大宰府南方に長大な土塁を発見 防衛施設か
・九州歴史資料館
発掘情報/大宰府史跡紹介
(水城跡・阿志岐山城跡を含む大宰府関連の史跡全般を紹介)
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前置きがすっかり長くなってしまいました(^_^;)
前畑遺跡は、筑紫野市大字筑紫と大字若江の二つの地名にまたがった地点にあります。“前畑”とは小字の名称で、今は用いられることはほとんどありません。
1899(明治22)年の市制町村制施行でこの辺りは近隣10村が合併して御笠郡筑紫村となりましたが、それ以前は大字筑紫は御笠郡 (旧)筑紫村 、大字若江は御笠郡若江村でした。
筑紫・若江を含む旧村名は筑紫村の大字に引き継がれ、1955(昭和30)年に合併で筑紫野町となり、1972(昭和47)年に市制施行を経た現在も、宅地開発等で住居表示がなされた地区が一部存在するものの旧10村の名称が全て大字地名として残っています。
調査員の方の話では、今回見つかった土塁の築かれた延長線は、大字筑紫と大字若江の境界線とピッタリ一致するというのです。つまり、(旧)筑紫村と若江村の村界ですね。
そして、この境界線部分はこの辺りの住民が里道(サトミチ/リドウ:舗装されて車は通れるような道ではない畦道のような土の道だけれども、歩行者が行き交うことができる)として、区画整理事業が始まる直前まで西鉄筑紫駅への近道として日常的に利用していたという情報ももたらされました。
土塁というのは、ただ高い堤を築いて敵から街を防御する役割だけではなく、防衛の際の兵士の通行路、物資や兵器、食糧の運搬路としての性格を持っていた、だから築堤の上は切り立った急峻な仕上げではなく道として利用できるよう平らに整えられていたという訳です。
実は私、この辺りの大字筑紫と大字若江の境界線が、尾根筋でも河川でもないところを緩やかな曲線を描くように引かれているのをずっと疑問に思っていたのですが、やっとすっきりしました。
見学した感想ですが、興奮し感動しました。これに尽きます。
土塁が羅城の遺構とする説が正しいとするならば、大字筑紫は(広域に見た)大宰府の内側、大字若江は外側ということになるんですね。わが家から程近い身近な所で湧いてきた壮大な話。
新聞報道などで遺跡の概要は掴んでいたつもりでしたが、実際に目の当たりにして、話を聞くと「なんて大変なものを見つけてくれたんだ…」と身震いしました。
さほど詳しい訳でもない、ただ単に考古学が好きなだけのオッサンですらこんな調子です。“歴史で飯を食ってる方々”は今どんな気持ちでいるか、私には想像できません。
北部九州古代史上、いや、東アジア古代史上において大きな意味を持つ今回の発見。
保存について教育委員会係員に聞いてみると、土地の使い道が決まっていて、区画整理終了後の地権もほぼ決まっているので何とも言えないとのこと。
なんとかして後世に遺したいと思いますが、道程は険しそうです。