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落書き帳

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[76808] 2010年 11月 18日(木)18:07:07hmt さん
hmtマガジンに 「特集:両白山地の三県境と大野」 を収録
最近の記事に関連して、hmtマガジンに 「特集:両白山地の三県境と大野」 を収録しました。
[76807] 2010年 11月 18日(木)16:51:47hmt さん
大野市にある 福井県最高峰の 「越前三ノ峰」は 三県境・三国境から 少し外れている
hmtマガジンでは、筑波山オフ会2010の翌日訪問予定の 渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域 を特集しました。
この付近には、平地(M11)と渡良瀬川水面(M09)と江戸川水面(M10)との3つの三県境がありますが、全国に44ある三県境の大部分は山岳地帯です。

全三県境については、2004年に作成された futsunoおじ さん のリストが、その後の市町村の変化に対応して[第7回オフ会記念版][76741][76742]として改訂され、「県境の交通路」コレクション の末尾にも収録されています。
前記の三県境番号は、これに従っています。

三県境と関連深いアイテムとして三国境があり、また 県の最高地点も、三県境と一致する場合があります。
三国境については、みやこ♂さんの 「三国」コレクション があり、私も 国の隣接関係 というシリーズで触れたこともあります。
futsunoおじ さん は、三国境点と三県境点の比較[72232]もまとめており、自治体の最高点コレクションも作成済みです。

これらをふまえて、最近の話題。

[76804] k-ace さん
さて福井県最高峰の「疑義」とは何ぞや?ということで調べてみました。
[76805] futsunoおじ さん
最高峰の「峰」とは何を持って峰とするのか難しい場合があります。斜面にある小さなコブは峰とは言わないのか?

「自治体の最高点」コレクション福井県 にリンクされている ウオッちず を見ると、2095mの「コブ」は、三ノ峰の南にある福井・岐阜・石川の三県境点から少し外れていることがわかります。
このコブが福井県の最高点であることは疑いないが、これを福井県最高峰と呼んで良いかどうかという問いかけですね。

k-ace さんのリンク記事によると、大野親岳会が命名した「越前三ノ峰」は、2007年4月に大野市役所・福井県山岳連盟の承認を得ているようですから、いずれは国土地理院の地形図にも正式採用されること、ほぼ確実と思われます。
ごく最近「昇格」というのは、このことでしょう。

ところで、県境の交通路コレクション福井県岐阜県 の始点(石川県との3県境点) M22 としてリンクされている mapionでは、拡大してみると、このコブの位置が 三県境点になっています。おそらく 「少し外れている」 ウオッちずが正しいのでしょうが。
futsunoおじさんは、mapionを使用しながらも、ウオッちずの三県境点である登山道上を 矢印で指示していることがわかります。

この「越前三ノ峰」から少し北の加賀・飛騨国境には白山があり、南から西に連なる越前・美濃国境をたどれば能郷白山に至ります。「両白山地」という自然地名は、この2つの「白山」に由来するのですね。
[68513] 2009年 1月 30日(金)22:21:52むっくん さん
越前と美濃の大野郡
[68491]hmtさん
越前国大野郡と美濃国大野郡との境界線も、能郷白山(両白山地の名の由来)に連なる大分水嶺です。
こちらは古代はいさ知らず、少なくとも近世になると直結する交通路が開けていました。現在は国道157号。
越前国大野郡と美濃国大野郡との間で一番古くから開けていた峠道は、現在の国道157号の峠でもある温見峠(地図)を経由するもので、遅くても鎌倉時代には開けていました。鎌倉時代当時、「いざ鎌倉」というときは、越前国の府中があった武生(現:越前市)からはこの温見峠を越えて、鎌倉に馳せ参じたと言われています。(参考:鎌倉街道
また、温見峠は越前国の平泉寺(加賀の一向宗門徒によって1574年に滅亡させられた)から美濃への布教への通路でもあり、多くの僧侶たちがこの峠を越しました。平泉寺の主唱した白山禅定道を登拝する白山講の時には美濃の信徒が大勢この峠を越しました。(参考:温見峠

さてこのように利用されてきた「温見峠」ですが、この峠を通る道の近代化は昭和になるまで待たなければなりませんでした。昭和に入り幾度かの改修はされましたが、峠まで改修されたのは昭和49(1974)年になってからでした。その後昭和52(1977)年の国道昇格により、車で福井県まで抜けることができるような道となりました。
とは言え、温見峠へ行く途中の道は現在でもまだまだ未整備です。沿道には落ちたら死ぬ!!というそのままずばりの標識もあり、過去記事にもあるように、とある筋では酷道として知られているようです。

ところで話は変わりますが、越前国大野郡と美濃国大野郡との往来に際し、最も利用された峠道は常に温見峠(地図)かというとそうではありません。
天保5(1838)年より大垣藩が黒津・這法師峠の新道を建設し、その峠道が完成した天保13(1846)年には、越前国大野郡と美濃国大野郡を結ぶ越前街道の本道の地位を這法師峠(地図)に譲り渡していたりもしています。
この這法師峠は、尊皇攘夷派の水戸浪士・武田耕雲斉らが冬の這法師峠越えをしたことで一瞬だけ歴史の表舞台?に現れます。(参考:蝿帽子峠
国土交通省岐阜国道事務所HPの「温見峠」(現在はリンク切れ)では
4.2 這法師峠と水戸浪士
 這法師峠で、歴史上最も有名なのは、幕末期、尊皇攘夷派の水戸浪士、武田耕雲斉ら約1000人の通過である。開国により国内が混乱が進む中、尊皇攘夷を訴えるこれらの人々は、京都に赴き、一橋慶喜にその志を訴えようと、この峠を通過したのである。元治元(1864)年12月のことである。
 一行は、幕軍が合渡(岐阜市)と呂久(巣南町)の2か所に、彦根・大垣藩が、揖斐川を前に砲列を敷いて、水戸浪士の通過に備えていたため、厳しい冬の這法師峠越えを選んだ。
 根尾村の人にとっては、1000人もの浪士の通過に恐れおののいて、雨戸を閉め、息を潜める家が多くあった。しかし、野営をする浪士に対して、蒔を持ち寄り、心尽くしの炊き出しをしたので、この素朴で親切な根尾人の接待に心から喜んだという。
 4日から雪が降り出し、這法師峠手前の大河原を出る5日には、1mを越えていた。雪は更に降り続き、這法師峠を越える時には、雪は2mは越えていた。この大雪をかき分け、よじ登りながら峠越えをした。積雪は道を埋め、滑りやすく、谷底に転落し、再び立つことができない人もいたという。途中には、大野藩の兵が、大木を倒して道を遮断し、行軍を防ごうとしており、行軍の厳しさは例えようがないものであった。
 ようやく峠を越え、大野郡黒戸村にたどり着いた時には、民家はことごとく大野藩によって焼き払われており、泊まるべき家が一戸もなく、全軍、橋の下などに野営をした。
 すでに、一行は心身とも疲れ果て、加賀藩に降伏し、敦賀市松原で処刑をされた。
と説明されていました。
[68491] 2009年 1月 28日(水)19:43:14hmt さん
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (1)高い両白山地に隔てられた3つの大野郡
山地を流れてきた揖斐川が「大きな野原」に出た付近にある岐阜県揖斐郡大野町。Google地形。もとは 大野郡 でした。

そこから50km以上も北。分水嶺を越えた九頭竜川沿いにも同じ地名を名乗る福井県の大野市。
濃尾平野に比べれば小柄とは言え、越前の大野盆地も 両白山地の中では目立って「大きな野」です。

更に東に約70km。高山盆地も、山国の飛騨では希少な存在である「大きな野」です。

こんなことを考えたのは、
[68442] 88 さん
岐阜県大野郡には美濃国大野郡と飛騨国大野郡があります。
という記事から、ずっと前の記事を思い出したからです。

[732] Issie さん
越前国(福井県)の北東部に「大野郡」があります。九頭竜川と足羽川上流の山間部ですね。
実はこの郡と国境(県境)をはさんだ美濃国(岐阜県)側にも「大野郡」がありました。こちらは揖斐川上流の山間部となります。
(中略)ついでに,すぐ近くの飛騨国(岐阜県)にも「大野郡」がありますね。

ここにも記されているように、豊後大野を含めて4つの「大野郡」は、“山間部”にありました。
山地の中に ぽっかりと開いた平らな空間が「大野」と呼ばれ、それが郡名になったようです。越前の 大野盆地 の地形を例示。
飛騨と越前の山間部で、盆地を表す地名の「大野」が独立に発生し、それが郡名に採用された結果、範囲が拡大し、隣接するようになったものではないでしょうか。

明治30年(1897)まで存在した美濃国の「大野郡」も全体としては“山間部”になりますが、事情が異なります。
最初に触れた大野町は、広大な平野の中で「大野」を名乗っています。「大野」は山間部だけでなく、平野部の地名でもあります。
# 落書き帳の中で度々登場している「相模大野」も、かつては台地上の「大きな野原」でした。

大野町郡家(ぐげ)は、「美濃国大野郡」の郡衙があった地のようです。古代からの歴史に裏付けられた平野部の「大野」が、郡名になって拡大した結果、大部分は山間部にりました。

# 山間部と平野部といえば、揖斐の山さん 改め 山野さん。大野町の対岸で、同じような地形とお見受けしました。

上の引用の(中略)部分。
この2つの郡はもちろんお互いに別々の国の別々の郡ですが,お互いに似たような地形でお互いに隣接しているという点で,偶然「オホノ」というコホリ名が一致したのか,それとも意識的なものなのか,興味深いものがあります。

私の意見は、上に書いたように「独立発生説」です。
しかし、平凡社の日本歴史地名大系21巻73頁(美濃国大野郡)に「総称説」があったので、一応反論しておきます。
越美山地を挟む形で、飛騨国・越前国にも大野郡があり、当地方一帯をさす総称であったと考えられる(日本地理志料・濃飛両国通史)。

古代には越前・飛騨は無論のこと、越前・美濃の国境を越えるハードルも高かったはずです。
地図上では隣接する3つの地域ですが、同一の総称「大野郡」で呼ばれるほどの一体性ある地域であったとは、到底思われません。
その総称が「山」に関係した地名ならともかく、特に平地を意味する「野」のつく地名ですからね。

現在の地図を見ると、大野市(もと越前国大野郡)と高山市(もと飛騨国大野郡)の境界線は僅かに2kmほどの長さで、しかも2000m近い高峰が連なっています。1958年の石徹白村越県合併[68397]以前の境界線は、もう少し長かったのですが、それにしても越前と飛騨の大野郡は、交通路のない高峰に隔てられていたことに違いありません。
# 現在でも、大野市と高山市を結ぶ交通路は、国道158号で油坂峠([68410]ぼたんさん)を越え、郡上市の白鳥を経由します。つまり2つの大野郡の隣接部は通らず、もと郡上郡の区域を経由するルートです。

越前国大野郡と美濃国大野郡との境界線も、能郷白山(両白山地の名の由来)に連なる大分水嶺です。
こちらは古代はいさ知らず、少なくとも近世になると直結する交通路が開けていました。現在は国道157号。
でも、1000m級の峠道に隔てられた両側の大野郡に一体性はなかったでしょう。
[53457] 2006年 8月 17日(木)22:31:06【2】北の住人 さん
盆地の名
[53448] huzisan さん
奈良市の奈良と考えます。次の文を読んでしまったからですが。
「地名の標準化についてPDF」([53057]hmt さん)の5ページ目(本文では52ページ)、「第3図 主要自然地域名称図」宗谷岬の上方に次の文があります。
*地域を示す固有的な部分の称呼は、次の基準にしたがう。
1 長年にわたり、全国的な規模において習慣的に使用され、それが広く通念となっているものについては、その名称にしたがう。(例 奥羽山脈 関東平野)。
2 山地にあってはその主峰の名をとる(例 真昼山地 両白山地)。
3 平地にあってはその主邑の名をとる(例 大阪平野 山形盆地)。
4 以上の基準による名称が適切であると認めがたい場合にかぎり、国名・郡名、またはそれらの複合名、その他の地域名をもって示すものとする(例 石見高原 魚沼丘陵 筑肥山地 九十九里平野)。
文字が潰れているので、カッコ内の(例)は私の推測によって書きました。第1項に該当しない場合、第3項によると盆地は主邑の名なので、奈良盆地は奈良市の奈良となるわけです。(上の文には「県名」がありませんが「その他の地域名」に入るんでしょうか。)
[17787] 2003年 7月 4日(金)22:16:46琉球の風[てつ(沖縄の)] さん
新市町村名案・パート5
休業状態だった新市町村名案の新版です。[17789]あっちゃんさんの「募集」にも急答してみました。バックナンバー→パート1[14651]/パート2[15645]/パート3[16025]/パート4[16299]

《新潟県》五泉市+村松町=花咲(はなさき)市
【理由:五泉市のぼたん園・チューリップ畑、村松町の桜などの花づくしなので】
《石川県》松任市+石川郡2町5村=海峰(うなみね/かいほう)市
【理由:日本海の海と、両白山地の峰、海と山に挟まれた地勢を表現】
《静岡県》菊川町+小笠町=牧之原市/茶原(さわら)市
【理由:牧之原はそのままですね。茶原も「お茶の原」ですね】
《三重県》熊野市+御浜町+紀宝町+紀和町=雨宮(あまみや)市
【理由:雨の多い土地ということと、熊野三社の本宮のことを表現】
もう少しあるのですが、今日は訳あり。この辺で終了します。
[16316] 2003年 6月 4日(水)12:58:08【1】深海魚[雑魚] さん
漫画の話
単行本が発売されて間も無いので、書名や物語の詳細な言及は控えますが、「日本沈没・後日談編」 とでも称すべき設定の漫画を先日購入しました。富士山大噴火を伴う東海大地震を発端とするあたりはいかにも、という感じですが、それに続く畿内から北陸にかけた大地震で、琵琶湖を挟み大阪湾から富山湾に走る大断層を境に、日本列島が物理的に分断されてしまう展開 (という事は、両白山地が大崩壊?) には物凄いものを感じました。この大断層が実際に基いた考証の産物だとすると、琵琶湖の成因と何らかの関係があるのでしょうかね。

琵琶湖と言えば、以前にも言及しましたが、学研 ジュニア・チャンピオン・コース 「もしもの世界」 では、琵琶湖、淀川を介し大阪湾から敦賀湾まで巨大運河が通じる 「未来予想」 が紹介されていました。もし実際に通すとなると、余りにも多くの障害が存在しますが、その中でも特に、瀬田川の山峡や滋賀・福井県境の分水界の克服は難儀でしょうねぇ。(笑) そもそも、琵琶湖の湖水面の海抜はどれ程でしたっけ?

上記書巻頭では、主人公の テッド少年が月面旅行の際に、イースター島の モアイ像そっくりの彫像群を発見する劇画が収録されています。傍らにあった記録 メディアの解析から古代の地球に技術を伝えた異星人の存在を確認し、指定星域への交信を試みるも、電波の到達自体に数年を要する程の物凄い遠隔地で、返信が届いた頃には、テッドもすっかり大人。で、届いた映像を見て 「げぇぇ」 と絶叫する彼。そこには モアイ像そっくりの面構えの異星人が 「親愛なる地球の皆さん。」 と、にこやかに微笑んでいたのでした。(笑)


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