都道府県市区町村
落書き帳

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[62274] 2007年 10月 28日(日)08:18:25【7】おがちゃん[日本人] さん
レス ○万コレクションリニューアル作戦 推定経県値 十番勝負
[62254] 2007 年 10 月 27 日 (土) 11:26:52 おかやまりゅうせい さん
[62264] 2007 年 10 月 27 日 (土) 22:45:52 とむ さん
[62266] 2007 年 10 月 27 日 (土) 23:37:18 桜トンネル さん
[62271] 2007 年 10 月 28 日 (日) 01:34:58 hiroroじゃけぇ さん
僕も旧御津郡地区は分区した方が良いと思います。人口は2万人くらいだと思います。
人口は3万7千人ほどです。…って怒ってるわけではありませんが。
でも、行政区としての人口がこんなに少ないのには訳があると思います。
でも、さすがに旧御津町と旧建部町の2町だけで“行政区”を設置するのは難しいでしょう。
もし、北部で分区するならば、吉備線沿線と空港周辺部も含めた形に収めるのが有効な手であるわけです。
別のところに住んでいて、事情がほぼ理解できていない日本人ですが、さすがにこれは横から口を出します。[62266] 桜トンネル さん と[62271] hiroroじゃけぇ さん の意見と全く同じでさすがに難しいと思います。また、
でも、浜松の天竜区は同じく2万人くらいで成り立ってるくらいですから
およそ37700人ですよ。少々厳しい言葉ですが、平均と比べるのはいいのですが、最低と比べたってなにもいいことはないと思います。また、面積においても、合わせて120平方キロメートルしかありません。やはり何か工夫するべきだと思います。

○万コレクションリニューアル作戦
[62266] 2007 年 10 月 27 日 (土) 23:37:18 桜トンネル さん
「出来た日」、「更新日」は「○万コレクション」の中のどこに表記されているのでしょうか?ただ単にそれを僕が見つけられなかっただけなら、すみません。
ご感想ありがとうございました。ちょっと見えなすぎたようです。と言うことで切り離してちょっとは見やすくなるようにしました。ご確認ください。
色を変えましたが、仮の色です。自分の左上のタイトルバーにしようと思っていますがタイトルバーのFFGGBB値がさっぱりわかりません。誰か教えてください。お願いします。また、大リニューアル作戦が終わったら、編集することはほとんどやったと見ていいので、家族これをしたいですがどうでしょうか?

経県値シリーズ第3弾で、経県値を考えようということでやってみたら2008年の経県値になると思われます。
2007年の経県値こんな感じになると思われます。
来年の夏の経県値は、今までの夏史上最高の経県値になる予定です。2008年夏の経県値
であり、ただ単に、新潟に宿泊するかしないかの違いですがねぇ。

[62223] 2007 年 10 月 25 日 (木) 19:26:29 JOUTOU さん
[62224] 2007 年 10 月 25 日 (木) 19:30:35 JOUTOU さん
毎度毎度おもしろいデータを見ておりますが、このたび僕も作ることにしました。
超難問ランキング誤答数編1
ランキング第○回問○誤答数
第十二回問十41
第十二回問八34
第十七回問十24
第十一回問一23
第十三回問六22
第十四回問一21
第十一回問二17
第十一回問六17
第十一回問七17
10第八回問七16
10第十六回問九16
やはり最も注目すべき回は第十一回と第十二回ですね。これから十番勝負が終わってから更新をしたいと思います。

#こうしてるうちに桜トンネルさんと2回絡みました。
#平均書き込み数がようやく300文字突破しました。
#過去ログ9000読破。
#今日は群馬県民の日です。なので記事検索してみました。群馬県民の日の記事集どうやら第一次群馬県ができた日なのでそうなったらしいです。
[55178] 2006年 11月 15日(水)21:56:29hmt さん
日付が1日違う「県民の日」
[55149] eiji_t さん
昨日11月13日は茨城県民の日でした。今日(11月14日)は埼玉県民の日ですね。

[4864] 日和[松戸] さん
茨城県民の日も終わり・・・ 驚いたことに、明日は埼玉県民の日らしいです。一日違いだったんですね。

茨城県のプレスリリース2005/11/2 には、県民の日の由来につき次のように記されています。
1871年(明治4年)7月に廃藩置県,同年11月13日に県の統廃合が行なわれ,新治県,印旛県,茨城県の三県が置かれました。
このとき,初めて「茨城県」という県名が用いられたことにちなみ,1968年(昭和43年)に「県民の日を定める条例」 により11月13日が茨城県民の日と定められました。

埼玉県HP による由来は次の通りです。
明治4年11月14日(旧暦)、太政官布告によって、「埼玉県」の名称が生まれた。
それからちょうど100年目に当たる昭和46年に、これを記念して、11月14日を「県民の日」とした。

そのまま読めば、「茨城県」と「埼玉県」(いずれも現在の県域の一部)が生まれたのは1日違いということになります。
しかし、両県の発足は実は同日ではないかと思われ、1日違いとなった原因が気になります。

なお、明治4年11月13日にせよ14日にせよ、当時の日本で行なわれていた天保暦法(いわゆる旧暦)による日付です。1年余り後の明治6年から採用された現行太陽暦(グレゴリオ暦法)による日付に換算すると1871年12月24日と25日になります。[21976]参照

「茨城県」や「埼玉県」が発足した日は、現実には(今で言う)年末寒波の季節でした。
しかし、人々をイベントに誘い出す「県民の日」としては、気候の良い日付を選ぶことが必要です。どっちみち、現在の県域とは違うのですから、「県」が発足した日と言ってもこじつけにすぎません。だから、あえて旧暦の日付をそのまま用いたことは納得できます。

以下、旧暦の日付で話を進めます。
明治4年7月にとりあえず藩を県に置き換えた後、主として明治4年11月に第1次府県統合が全国的に実施されました。
このうち関東伊豆ブロックでは、先行した群馬県以外の1府10県すべてが同じ日付の11月14日に設けられたと心得ていたので、茨城県と埼玉県の「県民の日」が1日違うことに疑問を感じたのです。

“関東伊豆ブロック”という言葉に釣られて脱線しますが、伊豆出身の北条氏による鎌倉政権以来、この明治初年までの長い間(♪歴史は長し七百年)、関八州と伊豆とは同じ地域ブロックを形成していました。江戸時代には伊豆韮山の江川代官所の支配する天領が関東にあり、明治初期には「韮山県」になりました。現在でも観光地としての「伊豆箱根」や、東京電力管内であることに見られるように、伊豆は関東との深い関係が続いています。
しかし、明治9年(1876)に足柄県が分割され、伊豆は行政的には関東から切り離されて静岡県に属することになりました。
[24127] Issie さん
伊豆にとっては,これが「運命の分かれ道」だったかもしれません。
道州制の区割り案を見ていると、甲州は関東ブロックに復帰しそうですが、伊豆が関東に戻る可能性は小さいようです。

本題の明治4年、「茨城県」や「埼玉県」が発足した日付に戻ります。
Isssieさんの頁(第1次府県統合にかかわる太政官布告) も、「埼玉県の生まれた頃(1)―今般関八州(中略)府県被置候事」[36047]で参照した「目でみる埼玉百年」(埼玉県1971)掲載の太政官布告も、いずれも「十一月十四日」と記されています。

ところが、「茨城県民の日」をきっかけにして、11月13日とする説が存在することを知りました。
そこで改めて Isssieさんの府県の変遷 を見たら、こちらの表では、茨城県も埼玉県も11月13日となっています。
出所はよくわかりませんが、「11月13日」と記された文書もどこかにあるのでしょうね。
オヤ? 群馬県も11月13日になっています。

135年も前の「日付が1日違う」ことを詮索しても、あまり実益はないと思いますが、ちょっと気になったので…

と書いたら、TDL date-navi の “できれば避けたい混雑する特定日一覧”の中に、6/15(千葉県民の日)、6/15(栃木県民の日)、10/1(都民の日)、10/28(群馬県民の日)、11/13(茨城県民の日)、11/14(埼玉県民の日)、11/20(山梨県民の日)が並んでいました。いずれも公立校が休み&入園料割引。

茨城県民の日と埼玉県民の日の「日付が1日違う」ことは、思わぬところで混雑分散効果を及ぼしていることを知りました。

ここに列挙された「県民の日」の日付を見ると、千葉県民の日([28604]猫使いさん)は、明治6年(1873)6月15日に印旛県と木更津県との統合によって「千葉県」の名ができた日付です[1644]
栃木県民の日も同じ日付に由来します。こちらは「杤木県」が宇都宮県を統合した日です[36081]。現在の県域プラス東毛3郡。
群馬県[54618] [54919]と山梨県は、茨城県・埼玉県と同様に明治4年の第1次統合により、それぞれの県名が生まれた日にちなんでいます。

「都民の日」[33692]だけは、「三市特例法廃止」によって「東京市」が自治を獲得し[53890]、新発足した明治31年(1898年)10月1日を記念しています。東京市時代は自治記念日と呼んでいたようです。

参考までに、多くの県が採用したように「東京都」という名の生まれた時を求めると、それは1943年7月1日です。しかし、これは大戦中の国家統制が強まった時であり、「都民の日」にふさわしいものではありませんでした。参考までに、初代の「東京都長官」大達茂雄の前職は、昭南特別市(シンガポール)市長でした。

神奈川県だけは「県民の日」が制定されていないようです [28601] N-H さん。
TDL date-naviには、6/1~6/12“神奈川県民週間”とありましたが、これは公式の存在なのでしょうか? それともTDL独自の割引期間?
[54919] 2006年 11月 2日(木)17:50:00hmt さん
“現在の県の直接の母体”第1号となった群馬県(2)最初はなかった「鶴の首」
明治4年(1871)10月28日(1985年制定の群馬県民の日の由来)に登場した「群馬県」、[54888]の続編です。

Issieさんのページ には、群馬県設置の布告文に続き、新旧各県宛の達が収録されています。
         群馬県
今般上野国小幡伊勢崎前橋岩鼻高崎沼田安中七日市ノ八県ヲ廃シ更ニ其県ヲ被置

     各通  小幡県 伊勢崎県 前橋県 岩鼻県 沼田県 安中県 高崎県 七日市県
今般其県被廃候ニ付テ管轄地並当未歳物成等群馬県ヘ可引渡事
 但元県ノ官員追テ 御沙汰候迄従前県庁ニ於テ事務可取扱事
  但高崎県ハ元県ノ官員追テ御沙汰迄従前ノ通可相心得事ニ作ル

上野国には、旧幕府領から明治政府の手に渡った岩鼻県の他に、旧藩領から転換した8県がありました。合せて9県のうち、明治4年には館林県(東毛3郡)だけが栃木県に入り、残る8県が群馬県として統合されたわけです。

[54618] YSKさんの「群馬県民の日」に関する記事中の次の箇所も、このことを指しています。
このときの群馬県はいわゆる「第一次群馬県」でして、現在の桐生市やみどり市、太田市、館林市、邑楽郡の区域は含まれていませんでしたが

「鶴舞う形の群馬県」 ですが、この時代にはまだ「鶴の首」がなかったわけです。
…と書いたら、「鶴の首」のない地図が現存していました。
[54483] みやこ♂ さん
「東京12チャンネル」の天気予報の地図(関東地方)に,群馬県の「鶴首」がないのがあるんですよ

それはさておき
「第1次府県統合」は現在の県の母体を作ったとはいえ、3府72県という数からも明らかなように、県域が現在の県よりも狭い場合が多数ありました。
1971年は「第1次府県統合」の100周年でしたが、この年に「県民の日」が制定されたお隣の埼玉県を、その例として挙げます。
すなわち、明治4年の第1次埼玉県には、荒川の西、川越から秩父までが含まれておらず、面積的には現在の約3分の1に過ぎません。現在の県域との相違は、群馬県よりもはるかに顕著でした。

[54618] YSKさん
イベント等を実施するには気候もよいなどの理由からこの日を群馬県民の日としたとのことです。明治4年当時は太陰暦を使っていたので現在の暦とは違うようですが、そのあたりは厳密には考えないことにしたそうです。

「県民の日」を太陽暦換算の年末とせずに、旧暦の日付を用いることにより、気候のよい秋に持ってきた点も、群馬県・埼玉県[21976]に共通しています。
横浜開港記念日 は、外国関連なので太陽暦日付が適しているように思われるのですが、何故か太陽暦による7月1日から、わざわざ旧暦による6月2日に変更されたのですね[54351]

“現在の県の直接の母体”第1号として誕生した群馬県ですが、入間県と合併していた「熊谷県」時代の3年間は、一時的にその名が消えます[36081]
この明治6年の合併は、現代流に言えば「新設合併」です。
入間県・群馬県
其県被廃熊谷県被置候条地所物成等同県ヘ引渡可申事

東毛3郡(新田、山田、邑楽)を加えて上野国全域に及ぶ第2次「群馬県」として復活したのは明治9年(1876)でした。
明治9年の布告文から、この時には「熊谷県」が管轄区域と県庁所在地を変更して「群馬県」と改称したものであることがわかります。[36111]
熊谷県管轄武蔵国ノ内ヲ埼玉県ヘ合シ橡木県管轄上野国山田新田邑楽ノ三郡ヲ熊谷県ヘ合シ熊谷県庁ヲ上野国高崎ニ移シ群馬県ト改称
[54888] 2006年 11月 1日(水)23:30:12hmt さん
“現在の県の直接の母体”第1号となった群馬県(1)「群馬」の名と県庁所在地
[54618] YSK さん
群馬県民の日(中略)明治4年10月28日にはじめて「群馬県」が登場したことにちなむものです。

明治4年旧暦11月(1871年ですが、最後の11月22日は太陽暦では1872年)に行なわれたいわゆる「第1次府県統合」のうちで、10月に実施された唯一のケースが群馬県ですね。
他に先んじて第1号に選ばれたのは、たまたまなのか?それなりの理由があったのか? よくわかりません。

振り返ると、慶応4年(1868)、府藩県三治体制ということで新政府の直轄地に府県が設置され、更に明治4年7月には、全国の藩を廃して県が置かれました。
しかし、これらの302県は、江戸時代に形成された支配地の集合に過ぎませんでした。 [54430]で「飛び地の集合」状態と表現したモザイク模様の 第1次兵庫県 がその実例です。

廃藩置県から4ヶ月後の明治4年11月には、この混乱状態が3府72県に整理統合され、現在の県域の一部( 実例として第2次兵庫県 )又は全部の領域を備えた県が続々と誕生しますが、このような“現在の県の直接の母体”第1号が「群馬県」でした。

Issieさんのページ には、太政官の布告文が収録されています。
今般上野国諸藩被廃更ニ群馬県被置候事
おやおや、7月に廃藩置県は済んでいる筈なのに、“今般上野国諸藩被廃”と書いてあります。

上野国の主要な郡としては、古くは国府のあった甘楽郡が首位であったようですが、東山道が整備され、国府も群馬郡に移って、こちらが上野国の中心になったようです。
「群馬」の名は、古い時代の「車」郡が、“凡諸国部内郡里等、並用二字、必取嘉名”(延喜式)に従って二文字の表記に改められたもので、近世でも「くるま」と「ぐんま」とが両方用いられていたようです。
表記と言えば、[36047]で引用した明治4年11月の太政官布告文でも「群馬県」の「群」という字に、音符の「君」が「羊」の左に置かれた常用漢字の字体(もともと俗字)でなく、「君」が「羊」の上に置かれた本来の漢字が使われていました[36083]

但高崎ニ県庁ヲ被置候事
徴兵令布告に先立ち、高崎城には鎮台分営が置かれる方針が出され、県庁は高崎を追われて前橋に移りました(明治5年6月)。
更に明治6年6月には知事が兼務した入間県と合併したので熊谷に県庁が移り[36081]、「群馬県」の名も一旦消えました(熊谷県)。
明治9年8月の第2次府県統合で「群馬県」が復活した際にも、再び高崎に県庁が置かれましたが、その際も満足な庁舎が得られず、生糸貿易による経済力に勝っていた前橋の仮県庁誘致が成功しました。
明治14年(1881)には正式に群馬県庁所在地が前橋ということになり、現在に至っています。
県庁と言っても現在のように大所帯ではなく、定員50人程度だった埼玉県庁[36047]と同規模の役所でしょう。従って引越しも身軽にできた時代ですが、転々と移動した履歴をもっています。
[54618] 2006年 10月 28日(土)09:00:15YSK さん
群馬県民の日
本日は群馬県民の日です。今年は土曜日になりましたのであまり関係ないですが、学校は休みになります。明治4年10月28日にはじめて「群馬県」が登場したことにちなむものです。なお、このときの群馬県はいわゆる「第一次群馬県」でして、現在の桐生市やみどり市、太田市、館林市、邑楽郡の区域は含まれていませんでしたが、イベント等を実施するには気候もよいなどの理由からこの日を群馬県民の日としたとのことです。さらに行ってしまうと明治4年当時は太陰暦を使っていたので現在の暦とは違うようですが、そのあたりは厳密には考えないことにしたそうです。

札幌対名古屋のお話で盛り上がっているようですね。春先のWBCにしろ、今回の日本シリーズにしろ、チームを引っ張るカリスマがいて、チームに一体感が生まれると強いなあと感じましたね。それに地域ぐるみの応援のすごさも目立ちました。類似点についてのお話は、両市とも地域ブロック単位の拠点都市ですから、似ている点が多いのは一定の必然性があるようにも感じます。逆に「海に面している/いない」、「市名と同じ郡があった/なかった」、「市域は平地が卓越する/山間部をも広く含む」、「城下町起源である/ではない」など、相違点もまた多いということを念頭に置いていただきますと、いっそう地域への理解が深められるのではないかと思いますね。


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