都道府県市区町村
落書き帳

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[74984] 2010年 4月 18日(日)14:25:09伊豆之国 さん
第二十七回十番勝負を振り返って(前編)~花になるなら薬師の桜~
いつもの通り、今回も十番勝負の感想文を書かせていただきます。

問五:尾花沢市
最初にわかったのがこの問です。お題に並んでいるのは漢字3文字の市ばかり。そして、これらの市を読み上げて行くと、いずれも読み仮名が5文字。そこで「読みが5文字」の市をデータベース検索の「詳細検索」から「文字数の定義→読み(本体のみ)」で調べ上げ、その中から「漢字で3文字」の市を拾って行くと、ちょうど想定解数に一致。その中から、これまでの1回解答県から、銀山温泉の「能登屋」([73203][67775])に宿泊経験がある尾花沢市を。
ところで、その銀山温泉ですが、[73203]で書き込んでいた
少し前まで盛んにTVのCMに出ていたF旅館の「青い目の女将さん」が「夜逃げ」した、という噂を聞いたことがあるのですが、どうなったのでしょうか
そのF旅館が、このほど「倒産」(民事再生法を適用)した、という記事がありました。件の女将さんは「夜逃げ」したまま戻ってこないとのことですが、「女将」としては「まだ現役」という扱いになっていたそうです。

問二:高松市
お題の市、既出の市をじっと見つめて行くうちに、「二文字目に『木へん』の付く漢字が並んでいる」ということに気付き、共通項が掴めたものです。NGとされた南相馬市は、「相」の字が「木へん」ではなくて「目」の部に属する字です。ここで漢字の講釈をするつもりはありませんが、「相」の字は「人相」「形相」「様相」などの語からわかるように、「顔や様子を見る」ことに関係する字で、「木」とは直接関係がないので、意味の上から「目」の部に入っているわけです(一部の辞書では「木」の部に入れているものもあるようです)。ここも1回解答県から、ご当地の「猛者」が多く選びにくい香川県の県都を。

問四:浜松市
答えが進んでゆくうちに「どこかで見たような‥」問題だということに薄々気付いてきました。「2県以上に隣接する県」。ちょうど1年前の、第22回の問一。お題の栃木と加須は、つい先日の合併で仲間入り。日光、「無人島隣接」の高松、三好、大町、観音寺、前回私が答えた四国中央‥白桃さんの観音寺、らるふさんの高島に至っては、解答者まで全く同じ!そして「見落としの指摘」が出てきたのも‥。共通項に気付いたのは早かったのですが、「こんな短期間に全く同じ問題が出るとは」と「今市」不安、結局2回目の採点が出てからということになりました。「鈴木さん」の話題([74402])を書き込んでいた浜松市を。

問五:さいたま市
こちらは、[74652]おがちゃんさんの
あっち系の問題が無い
から、ひょっとして「十八番」の「鉄」系ではないか、というヒントが出てきたものです。 お題の市を見ると、いずれも「駅」がやたらに多い。そして和歌山のNGから、「JRの駅に限定」ではないか。相模原市にあるJR駅は、全部で13駅。まずこれが目安ではないか、と。大洲のNGと合わせて「分岐」系も考えましたが、まつもとしろくまさんの木更津がNGになったことから「JR駅の数」だと確信。「浦和」の付く駅だけで7駅あり、「大宮」などと合わせると優に条件を満たすさいたま市を取りました。
ところで、1駅足りずにNGになった和歌山市ですが、[74691]
和歌山市が意味深
と書いたその和歌山市。和歌山市駅は時刻表では紀勢本線(の支線)の駅として出ていますが、実は「JR和歌山市駅」と言ったら、厳密には誤りだそうです。和歌山市駅は南海電鉄の管轄にあり、駅の構内は南海の所有になっているようです。このことについては、項を改めて書き込みたいと思います。

問一:町田市
お題にあった弘前市には相馬村、佐渡市には相川町。「相」の字が付く何かがあるようだ、と気付くことに。「学校」も考えましたが該当しないところが多く、「定番」の「郵便局」だろうと見当を。そこで「郵便局 相」で探し、該当する局の所在地を拾い上げて行くと、ちょうど想定解数に一致。相原町・相原駅がある地元の町田市に「町田相原郵便局」があり、迷わず指名。町田市を解答したのは第21回・問六([68126])以来、2度目です。ちなみに都内で「相」のつく郵便局はここだけです([74972]花笠カセ鳥さん)。直前の油天神山さん([74747])の
よもやこういう共通項が42市で収まるとは思いませなんだ
という「呟き」も、共通項を導くちょっとしたヒントになりました‥。そして、南相馬市に「相」の付く郵便局がない、というのも、市名の誕生からまだ日が浅いとはいえ、
寝台特急「さくら」が消え、旧「さくら銀行」もなかった長崎に、「桜」の郵便局はあったのでした
[69914])以来の驚きでした‥。

♯今回のタイトルの副題は、「町田音頭」([68731])の一節からです‥
[72189] 2009年 10月 15日(木)14:19:07【1】hmt さん
国の隣接関係 (8)南海道
現在の和歌山県と三重県とにまたがる広大な牟婁郡。「熊野」の名でも知られるこの地域は、古くからの聖地であり、修験道など独自の文化が育まれた地域でしたが、人口の少ない辺境であったために、中央政府から独立の国として認定されることなく、紀伊国の一部として扱われました。

「南海道」6ヶ国とは、その熊野を含む紀伊国、その名も阿波国への道すがらである淡路国、そして四国4ヶ国。
都道府県や8地方区分に慣れた現代人にとっては、奇妙に感じられる古代の地域区分です。
南海道は6ヶ国しかないのに、合計7県もの地域に及び、しかも8地方区分では、中部1県・近畿2県・四国4県に分散。

最初に、関係する三国境を列挙します。…と言っても、紀伊関係が3地点で、四国は2地点しかありません。
三国境でない三重奈良和歌山3県境が、北山川の瀞峡に5地点(KK53~KK57)あり、これも併せて記します。

整理番号国名#三国3県境地名
KK51河内和泉紀伊#28和泉山脈三国山
KK52河内大和紀伊M35行者杉峠
KK53大和紀伊M32瀞峡【旧紀和町百夜月(訂正あり[72196])】
KK54大和紀伊飛び地瀞峡【嶋津】
KK55大和紀伊飛び地瀞峡【玉置口】
KK56大和紀伊飛び地瀞峡【北山村小松】
KK57大和紀伊飛び地瀞峡【北山村七色】
KK58伊勢大和紀伊大台ヶ原堂倉山
KK76阿波讃岐伊予M40曼陀峠の0.7km西
KK77阿波伊予土佐#35M41三傍示山

例により、国ごとの陸上隣接国と三国境のリスト

紀伊国 (大阪湾) 和泉 KK51 河内 KK52 大和 KK58 伊勢(太平洋)
淡路国 (大阪湾) 陸上隣接国なし(瀬戸内海)
阿波国 (太平洋) 土佐 KK77 伊予 KK76 讃岐(瀬戸内海)
讃岐国 (瀬戸内海)阿波 KK76 伊予
伊予国 (瀬戸内海)讃岐 KK76 阿波 KK77 土佐(太平洋)
土佐国 (太平洋) 伊予 KK77 阿波

[72159] オーナー グリグリさんの国名の組み合わせリストによると、自治体名では★三重県度会郡 紀勢町。文字通り、紀伊国錦町と伊勢国柏崎村の合併で成立。1957~2005年の約半世紀存続。
三重県には、ほぼ同じ頃に南牟婁郡紀和町も存在しました。例の瀞峡飛び地地帯[68737]ですが、北山川で大和国吉野郡十津川村に隣接しており、奈良の大仏のための銅を採掘したという歴史のある紀和鉱山[72115]の所在地でもありましたから、紀伊・大和に由来するのかもしれません。

自然地名に移ると、最初に紀淡海峡。「南海道」という見方からすると、紀伊・淡路の2国がリンクしているのは納得できます。
淡路を経ないで紀伊・阿波を直接にリンクしてもよさそうですが、「紀阿」という用法は見当らず、紀伊水道。この紀伊水道で和歌山と小松島とを結ぶ南海汽船は、かつては大阪から四国へのメインルートの一つでしたが、本四架橋には到底かなわず、敗退。

紀淡海峡の他にも、備讃瀬戸・備讃諸島・芸予諸島・防予諸島・豊予海峡と 海を隔てた国名の組み合わせが目立ちます。

山では、金剛生駒紀泉国定公園・阿讃山脈・阿土山地とありました。
国土地理院は、地勢図に讃岐山脈と記しています。これを徳島県で阿讃山脈と呼ぶのはともかく、香川県立三本松高校の校歌にまで“阿讃の連峰”とあるとは。[72014] 白桃 さん

定番の鉄道関係は、紀勢本線・予讃線・土讃線・予土線・阿佐海岸鉄道。
それに加えて★紀和鉄道と紀和駅とがあります。
19世紀末に紀伊と大和とを結んだ和歌山-五条間の鉄道が紀和鉄道を名乗ったのは当然ですが、1968年に和歌山駅の改名によって生まれた「紀和駅」の由来がよくわかりません。

この駅が旧紀和鉄道のターミナルとして開業したのは事実ですが、それは1898年から5年間だけのこと。
1903年には南海鉄道和歌山市駅の開設と共に連絡線が作られて、ターミナルでなくなります[61246]。そして翌1904年には関西鉄道になって、「紀和」という会社名も消えます。

それから 64年後の 1968年。東和歌山駅が和歌山駅を名乗るに先立って、旧和歌山駅を紀和駅に改名したわけですが、日露戦争前という大昔の私鉄の名が、いまさら国鉄の駅名に復活というのは、どうも納得できません。
紀伊と和歌山の合成[72015] 又は紀州和歌山の短縮 という説も考えられますが、その根拠もわからず、謎に包まれた「紀和駅」です。

土讃線の終点は土佐の窪川。全線開通は戦後の1951年ですが、大正時代に須崎までできていた高知線が、瀬戸内海側(讃岐鉄道[61226] として開業した丸亀琴平間は 1889年という古さ)と1935年につながった時に、讃岐の多度津を起点とする土讃線の名がつきました。

[72014] 白桃 さん
讃岐と土佐は接していないのに土讃本線という名称のせいか、接しているようによく誤解されます。

日本国有鉄道線路名称の「本線」は、グループの親分でした。ところが、土讃線には長いこと子分がいなくて、一家を構えることができませんでした。ようやく支線の中村線を従えた「土讃本線」を名乗ることができたのは 1963年でした。

ところが、その中村線は国鉄末期に第3次廃止対象線になり、民営化1年後の 1988年4月から三セクに転換。またもや子分のなくなった土讃本線ですが、今度はJR四国が「本線」という呼称自体を廃止して、土讃線に戻りました(1988/6/1)。

土讃線が土佐から讃岐に出る前に経由するのは阿波。
中央構造線の南側に続く四国山地。土讃線は吉野川の流れに沿ってここを越えます。大歩危・小歩危・支流の祖谷川あたりの地図を見ているうちに、足を踏み入れたことのない四国の内陸部に行ってみたくなり、岡山オフ会の前日に宿泊を予約してしまいました。
[61246] 2007年 9月 20日(木)23:04:32hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(5)買収された五大私鉄・その3 関西鉄道
「関西鉄道」も、山陽鉄道・九州鉄道と同様に、明治21~22年(1888-1889)にピークのあった第1次私鉄ブーム[61226]の時代の鉄道です。
明治20年の私設鉄道条例よりも後、国による全国鉄道網の建設を視野に入れた鉄道敷設法(明治25年)[61108]の制定前に発足した鉄道です。

草津-岐阜間の官設鉄道が中山道ルートで敷設され、後の「東海道線」沿線から外れてしまった滋賀県南部・三重県の「東海道筋の地域」は、両県知事の後押しで私設鉄道を作ることになりました。

出願したのは関西鉄道(かんせいてつどう)という大きな名の会社ですが、最初に得た免許は、草津から四日市・津までの区間でした。幹線でないという理由で、山陽鉄道や九州鉄道の得た政府援助は受けられない不利がありましたが、東海道官設鉄道と競合する幹線だったら許可されないのだから仕方ありません。

工事上の難関は加太(かぶと)越え。トンネルに列車が入ると、煙の逆流を防ぐため入口の遮断幕を引く作業が、SL廃止の1972年まで行なわれていた場所です。
この大工事に成功した関西鉄道は名古屋進出を申請。鉄道局は、弥富・桑名間の木曽・長良・揖斐三川の大橋梁工事を理由に難色を示しましたが、関西鉄道は東大土木科教授の白石直治(加太トンネル工事も指導)を社長に迎え、1888年に草津で着工してから7年後の1895年に、名古屋駅までの線路を全通させました。

競合線出現を危惧する官鉄を尻目に、関西鉄道は1896年に名古屋駅の西0.6kmに豪華なターミナル「愛知駅」を設置し、柘植から西へ、大阪への路線延長に着手します。1897年に買収した浪速鉄道(片町-四條畷)の路線と合わせて、後の片町線経由で名古屋・大阪(網島)間に急行列車を走らせたのが1898年。

王寺経由で湊町(現・JR難波)と奈良とを結んでいた大阪鉄道は、これにより経営が傾いてきたので1900年にはこれを買収。
こうして距離は四條畷経由よりやや長くなるものの官鉄よりは短く、奈良駅や天王寺駅を通る経路に勝れた 後の関西本線ルートが形成されました。

大阪鉄道からは、大阪環状線の前身の城東線や王寺-桜井間も引き継ぎましたが、その後も、1904-1905年に統合した紀和鉄道・南和鉄道(高田-二見)・奈良鉄道(京都-桜井)を含めて、関西鉄道の路線網の形成史はなかなか複雑です。
ともかく、鉄道国有化当時には、関西鉄道は、その大きな名にふさわしく、東海道線より南の地域の鉄道網の大部分を占める路線延長452kmの大規模私鉄になっていました。

紀和鉄道は、五条-和歌山間が1900年に全通していますが、1903年になると難波から伸びてきた南海鉄道が紀ノ川を渡り、和歌山市駅が開設され、同時に紀和鉄道の和歌山(1968年より紀和)駅との間に、両社からの連絡線が作られます。

南海難波から南紀方面への直通列車[61073]が通った線路の起源はここにありますが、まだ紀勢線がなかった時代のこと、「南紀直通列車」はあり得ません。おそらく橋本方面からの紀和鉄道の列車が、大阪への便利がよい和歌山市駅まで乗り入れるのに使われたのでしょう。

大阪-名古屋間をメインとする関西鉄道は、日露戦争前の1902~1904年に、官設鉄道との間で 異常とも思われる運賃ダンピングを含む激烈な 乗客獲得合戦 を演じたことが語りぐさになっています。

鉄道国有化にあたり、買収反対の先鋒だった関西鉄道には、ライバルの軍門に下ることへの抵抗が強かったのだと思います。
官設鉄道と対抗した関西鉄道の意気込みを示す象徴ともいえる「愛知駅」も、国有化によってその存在意義を失い、廃止されました。

関西鉄道は、運賃以外の面でもサービス改善に熱心でした。客車の窓下の色帯と切符の色(白、青、赤)で等級をわかりやすく区別するアイディアを創始し、これは鉄道局の指導により各鉄道の採用することとなりました。

急行用の「早風」、短距離用の「池月」など、機関車には優雅な形式名称を付けていました。国有化直前の輸入で、使いこなすには至りませんでしたが、ハンガリー製蒸気動車導入の試みもなされました。戦後の関西本線は、気動車準急や通勤型気動車の活躍する舞台となった時代がありますが、このような関西鉄道の歴史と何かの縁があるのかもしれません。

幹線鉄道の技術分野では、関西鉄道から国有鉄道に引き継がれた財産の一つとして、「広軌改築」や「弾丸列車」の計画で知られる鉄道技術者・島安次郎があります。標準軌・高速列車の夢は息子の島秀雄に受け継がれ、それまでに培った技術的蓄積をうまく利用した東海道新幹線が実現したのは1964年でした。
[61073] 2007年 9月 7日(金)00:05:03Issie さん
はたやま?
[60544] で触れた
知床→仙台→筑西市

…という出張から帰ってきました。
本当は明日までなのですが,台風接近で明日の筑西市の視察が吹き飛んでしまったので急遽仙台から新幹線で帰ってきたのでした。
千歳から仙台へ飛ぶときには,「千歳へ引き返すか,花巻空港に降りるかもしれない」とおどされたのですが無事に仙台に降り立ち,仙台の午後はまずまずの天候だったのでそれほどとは思わなかったのですが,まさか東京がこんなに「大騒ぎ」になっているとは思いもしませんでした。
西日本ではこれに近いことは毎年起こることでしょうが,東京では確かに多くはない経験で…,
でも,やっぱり,メディアの“一極集中”の姿ではあるのでしょうかねえ。

[61050] リトル さん
・南海難波~(紀勢本線)~新宮(時期により~名古屋も有り?、愛称「はやたま」別名「太公望列車」

[61052] N-H さん
国鉄の列車が「南海」難波ということはありませんよね。天王寺(あるいは湊町)~新宮だったのでは?

「ヨンサン・トオ」(1968年10月1日改正)当時のダイヤでは,件の列車(926レ)は“本編成”が 天王寺 22:40 発となっていますが,和歌山市駅 23:21 発の副編成(…というのか? 2926レ)が 和歌山駅 で併合されるようになっています。そして,この「市駅」発の列車は実は 南海難波 22:15 発の列車で,つまり,南海から紀勢線に直通する編成であったのですね。
この頃には,南海から紀勢線への直通列車はジーゼルカーがメインになっていましたが,それとは別に南海は国鉄直通用の客車も所有していました。
そもそも昭和になってから新たに敷設された阪和線(阪和電気鉄道)よりもずっと古く,明治から阪和間の輸送を担ってきたのは南海鉄道であって,なぜかその南海が国有化されなかったにもかかわらず,鉄道省が和歌山以南の紀勢線を敷設すると,南海難波から南紀方面への直通列車が運行されていました。
1970年代末頃まで,たくさんのら直通DC列車が南海線から紀勢線に乗り入れ,また南海が国鉄乗り入れ用の客車を持っていたのは,その名残です。
ただ,「はやたま」(924レ)という愛称名がついていた「ゴーサン・トオ」(1978年10月2日改正)では,すでに南海難波からの直通は廃止されていて,副編成(4924レ)は 和歌山市 始発となっています。

「はやたま」という愛称名がついたのは,この列車に組み込まれていた寝台車の座席指定手続き上の事情だったから,というように記憶しています。
実は私,1983年の夏にこの列車に乗ったことがあるのですが,すでに寝台車が外されて「はやたま」の名前もなくなっていました。しかも,亀山止まりとなっていましたが,和歌山駅で 市駅 からの編成の複雑な入れ替え作業を見ていました。

「はやたま」という名前,熊野三山について基本的知識をお持ちの方には常識ではあるのでしょうが,そのような常識を持ち合わせない私には“奇妙な”音の組み合わせに思えて,本当は「はたやま」なんじゃないの? なんて思ったものでした。

[61064] N-H さん
結局新潟まで行くという、「隠れた長距離鈍行」

確か,1982年10月の改正で廃止されたと記憶しています。
なぜなら,せっかく大学受験で長野に行くことにしていて,ついでに乗れることを楽しみにしちたのに(受験よりも,こちらの方が遥かに大事!),その直前になくなってしまって大変残念に思ったことを記憶しているからです。
常磐線の客車列車には,お昼にちょうど良い仙台行きの列車があったので,予備校の午後の授業をサボってしばしば土浦あたりまで乗りに行ったのもです(土浦で,ちょうど上りの客車列車と行き逢うので)。
…キセルしてね。

あああああ,鉄分いっぱいだ。
[61058] 2007年 9月 5日(水)21:00:55【1】小松原ラガー さん
鉄分たっぷりですが・・・
小松原ラガーです。

[61052] N-H さん
国鉄の列車が「南海」難波ということはありませんよね。天王寺(あるいは湊町)~新宮だったのでは?

件の列車がどうだったのか、よく知らないのですが、以前は急行「きのくに」(だったかな?)とかが南海難波と和歌山市以南を結んでいました。南海/国鉄の和歌山市駅から紀勢本線に入って和歌山駅経由で海南方面へ、という図式でした。どちらも狭軌だったから出来た技でしょうけど。

#どちらも狭軌と言えば、そのメリットは関空の連絡線で活かされていますね。
#成田のように京成とJRで別々の単線とする必要が無いのですから。

話を元に戻しますが、新宮~天王寺の普通列車にはかつて私も乗車したことがあります。が、福島⇒郡山⇒平⇒水戸⇒小山⇒高崎⇒長野⇒富山⇒高山⇒名古屋⇒新宮と、ほとんど優等列車を使わずに来た挙句の果てだったので、かつ、夜でもあったので、途中をほとんど覚えていません。あ~ぁ、もったいない。

東京~大垣はかつてよく、今はごくごくたまに、利用しますが、今年の2月に投稿させていただいたように大垣⇒東京の折り返しの普通に乗るということまで経験してしまいました。

山陰という愛称があったのは確か京都発の列車だったように記憶しています。これも利用した経験があります。

こちら方面、そう言えば一度だけ「山陰」のお世話になった覚えが。友人と昼間に日御碕を見て、その夜にひたすら京都に向けて帰ってきた覚えがあります。逆にこの方面では昼間の特急ですが大阪発山陰本線経由の博多行きの「まつかぜ」(だったと思う)という列車があったような・・・。一度だけ完乗したことがあるのですが、朝大阪を出て福知山線(今のJR宝塚線)に入って武庫川の清流を見ているうちはよかったのですが、山口県内に入って日が暮れてからは、真っ暗で何も見えず、座り続けたお尻の痛さもかなりなものになっていて、博多に着いたときには、いろんな感情が入り混じってウルウルしたものでした。もっとも、懲りずにその後に急行「かいもん」で西鹿児島に向かったのですが・・・。

先にも述べたように、今年の2月に神戸⇒北陸回り⇒東京⇒東海道回り⇒神戸という旅を約30時間くらいかけて、その間に睡眠2時間で決行しましたが、その時は「まだまだ自分も若い」と思っていましたが、まだまだかわいいもんで、昔を振り返ってみるとずいぶん無茶をやっていたなぁと、皆様の記事を見て思い返したしだいです。

#急行きのくに以外は自分の懐古ネタですみません。

と、既にYASUさんが南海乗り入れについては言及されていますが、ここまで書いたので投稿させていただきます。

【追記】なんと、これが私の500回目の書き込みでした。書き込み文字数も約26万文字。よくもまぁ、皆さんにとって決して有益ではない様な話ばかりでここまで来ちゃいましたが、今後とも皆様よろしくお願い申し上げます。そういえば、記念すべき第1回目の書き込みはグリグリさん提供の写真からグリグリさんが使った飛行機の便名だったか発着時刻だったかを当てるというものだったような・・・。メンバ紹介から確かめておこう・・・。
[41300] 2005年 5月 18日(水)00:36:33更級14 さん
パスネットは便利だけど…
[41252] 太白 さん
相互乗り入れしているわけでもないのに、違う会社が同じ改札の中に
知らないと、戸惑うんですよね…。和歌山市駅でJRに乗ろうとして、南海の改札しか見当たらないと思い込み、迷ったことがあります。

中野と西船橋はJRと東京メトロの改札が一緒なので、JRを使ったのか、東京メトロの東西線を使ったのかは、機械では調べようがありませんね。
東京メトロの切符やパスネットで入場すれば東西線を、JRの切符やスイカで入場すれば総武・中央線を使ったことになり、「自己申告」で運賃が決まることになります。実際の経路は調べようがありませんが。

気になるのは、改札を通らない複数の経路が想定できる場合、どのようにパスネットから差し引く運賃を決めているか、ということです。パスネットの場合には、改札で自動的に運賃が差し引かれるため、経路を「自己申告」することもできません。
例えば、東急大井町線九品仏~東武伊勢崎線西新井の場合、運賃の異なる経路が考えられます。いずれも、途中で改札を通ることはなく、所要時間も大差ありません。知らないうちにキセルしていた、あるいは、知らないうちに損をしていた、ということが考えられそうです。

経路東急メトロ東武合計運賃
九品仏~二子玉川~渋谷~押上~西新井210230240680
九品仏~自由が丘~中目黒~北千住~西新井150230160540
九品仏~大岡山~目黒~永田町~押上~西新井150230240620

また、運賃が同じでも鉄道会社の利害が対立するケースもあります。下北沢~都営三田線三田がそうです。

経路小田急京王メトロ・都営合計運賃
下北沢~代々木上原~※溜池山王~白金高輪~三田1200290410
下北沢~明大前~新宿~神保町~三田0150260410

※国会議事堂前・溜池山王は駅名が異なるが同一改札

[4781] だいてん さん
改札を出ずに、東京にある駅のほとんどから、ほとんどの駅へ行くことができます。
東京では相互乗り入れが発達しているためにこういう事態になっていますが、鉄道会社にとってこれは大変なことなのかもしれません。
[27277] 2004年 4月 14日(水)08:16:51ペーロケ[愛比売命] さん
本駅
 「本~駅」「~本町駅」や「~市駅」の使い方の例として、多くの方が反論されていますが、「同名回避」という言い方はかなり違和感ありましたかな??幹線を「シンプルな駅名」にしつつ、支線にある街の本町に近い駅を「自己主張」させた結果というべきかな??

[27240]湾岸太陽族さん
藤沢本町(ふじさわほんまち)駅は藤沢駅との同名回避というよりは、町名の「藤沢市本町(ほんちょう)」から来ているのではないかなー、と。
 本当に微妙なところです。町名が先なのか、駅名が先なのかは詳しくは存じませんが、住居表示実施されている「本町」という町名を南北に挟むように、住居表示された「藤沢○丁目」と、住居表示未実施の「藤沢」があるあたりから、もともとはこのあたりが中心で「藤沢」という集落が発達したものと考えられそうですね。それで、まず東海道本線が集落を避けるように開通し、その後、鉄道は便利なものだという認識に変わり、今の小田急江ノ島線にあたる鉄道がひかれ、藤沢の集落により近いこの地に「藤沢本町」と称した駅が設置されたのでしょうか?
 まさか、元々は「本藤沢駅」が「藤沢駅」で、「藤沢駅」は別の名前を付けていた?なんてことはありませんよね??

本鵠沼駅も、町名で「藤沢市本鵠沼」があり、そちらから来ているかもしれませんね。
 東海道本線の北側にも「鵠沼神明」という町名がありますし、「鵠沼」の範囲って結構広いですね。その範囲の中でもだいたい真ん中に当たるので、本来の「鵠沼」の中心集落がこのへんにあったのかもしれませんね。
 「鉄」はそれほど詳しいわけではありませんが、地図を見ただけなのにここまで推測するのって、とっても面白いですねぇ~。

[27242]烏川碧碧さん
東京メトロ南北線の「本駒込駅」は、同線及びJRの「駒込駅」からの同名回避とは少し違うように思います。
 これも藤沢と同じく、住居表示された町名と駅名のどちらが先かは詳しくは無いのですが、結局のところ、「駒込」の中心はどのへんにあったのか?といったことが関係してくると思います。ひょっとしたら、もともとは「駒込」と呼ばれていた集落から離れた町外れに山手線の「駒込駅」が作られたあと、路面電車もしくは地下鉄の駅を設置する際、その駒込駅と区別するためだけでなく、こっちのほうが元祖なんだぞという意味も込めて「本駒込」と付けられたのかな?その後、町名も住居表示実施されるときに駅名に合わせて付けられたのかなって勝手に推測しております。

[27243]N-Hさん
八戸駅についてですが、実は現在の本八戸駅が元々は八戸駅を名乗っておりました。
 形で言えば、「本~駅」の典型例ですが、元々は「本」が付かなかったけど後で改称させられた例は他にもありそうですね。「宇部新川」と「宇部」、「小野田」と「南小野田」(かな?)なども気になるところです。

[27265]太白さん
和歌山線(現紀勢本線和歌山-紀和間を含む)が最初にできて、南海のターミナルとして和歌山市駅が次にでき、のちに阪和線、紀勢本線とのターミナルとなった東和歌山駅が改称して「和歌山駅」となった…というのがおおまかな経緯ですが
 言われてみれば、和歌山線と紀和駅方面は真っ直ぐですね。名鉄三河線を彷彿とさせる複雑な付けかえ工事だったんだろうなあという想像もできます。

[27266]Issieさん
山陰線の「倉吉」も元は「上井(あげい)」という駅で,

山陽線の「岩国」駅も,もとは「麻里布」という駅でしたよね。
 この2例は隠れた「本~駅」でしょうね。代表的な自治体名を幹線駅に移すとなれば住民感情は複雑でしょうが、全国各地で行われたとすれば「本~」以外のパターンもありそうですね。

[27251]まるちゃんさん
関西にいた時は,奈良県民の方も含めて,「田原本」という言い方しかしませんでしたよ.
 なるほど。「町」が付かないでも地名として立派に定着しているのですね。
[27266] 2004年 4月 13日(火)23:28:39Issie さん
Re:和歌山駅と和歌山市駅と紀和駅
[27265] 太白 さん
和歌山線(現紀勢本線和歌山-紀和間を含む)が最初にできて、

…というわけで,紀和(旧和歌山)-和歌山市 間は和歌山線の一部で,紀勢本線(もと紀勢西線)は長い間 紀和 まででした。
和歌山線の終点が和歌山(旧東和歌山)へ付け替えられてから,紀和-和歌山市間が編入されて和歌山市までが紀勢本線となり現在に至ります。

[27243] N-H さん
八戸駅についてですが、実は現在の本八戸駅が元々は八戸駅を名乗っておりました。

山陰線の「倉吉」も元は「上井(あげい)」という駅で,ここから分岐していた支線(倉吉線)上に「倉吉」駅がありました。それを本線が奪い取って,市の中心部に近い支線の駅は「西倉吉」となりました。
今は支線が廃止されて,本線の「倉吉」駅が何事もなかったかのように“市の中心駅”に成り上がっています。

山陽線の「岩国」駅も,もとは「麻里布」という駅でしたよね。
城下町の近くに「岩国」駅があったのは岩徳線の方。
岩国と麻里布って,もともと別の町ではなかったのかしら。
現在の「本線」(別名:柳井線)と岩徳線の間にはやや複雑な関係があるのだけれど,いずれにしろ「岩国」の駅名は分岐点の麻里布が奪い取って,岩徳線の方は「西岩国」駅に。
かつて“本線上”にあった「岩国駅」にふさわしく,実に立派な駅なのですが。

ともかく,この2例は駅名を奪われた挙句,「本」を名乗ることさえできなかった実に可哀想な例ですが,こういう例,案外多いですよね。
今も,上越線の「小千谷」(←東小千谷)と魚沼線の「西小千谷」(←小千谷)なんて例を思い出しました。
[27265] 2004年 4月 13日(火)22:46:38【1】太白 さん
和歌山駅と和歌山市駅と紀和駅
[27150] 愛比売命 さん
和歌山 和歌山市駅 JR紀勢本線・南海電鉄 JR阪和線、紀勢線、和歌山線に「和歌山駅」

[27243] N-H さん
八戸駅についてですが、実は現在の本八戸駅が元々は八戸駅を名乗っておりました。

和歌山についても、当初和歌山駅を名乗っていたのは現在の紀和駅で、和歌山駅は「東和歌山駅」でした。実際、現在の和歌山駅は旧市街からはかなり外れた場所にあります。和歌山線(現紀勢本線和歌山-紀和間を含む)が最初にできて、南海のターミナルとして和歌山市駅が次にでき、のちに阪和線、紀勢本線とのターミナルとなった東和歌山駅が改称して「和歌山駅」となった…というのがおおまかな経緯ですが、詳細は[4649]でIssie さんが解説されています。
[27166] 2004年 4月 11日(日)12:57:15【2】地名好き さん
サヨナラ列車
[27135] かすみさん
和歌山の場合は、和歌山駅と和歌山市駅が存在するのでいっそうややこしく・・・。(笑)
新大阪駅から特急に乗ると、和歌山駅で阪和線から紀勢本線になりますよね。
和歌山駅←→和歌山市駅も紀勢本線ですよね。
紀勢本線の起点(終点)が和歌山市駅なんですよね?
初めのうちは、紀勢本線の支線だと思ってました。

支線といえば、函館本線の上砂川支線を思い浮かべます。もう廃線しましたけど。
特に想い入れはないですが、当時サヨナラ列車が走ったと思うので、最後に乗りたかったのですがダメでした。
そういえば近くに歌志内線、幌内線もありましたね。
幌内線は岩見沢駅起点だったでしょうか。
これはどちらもサヨナラ列車に乗車しましたよ。

愛比売命さん
[27155]いちえき
[27150]SHI・E・KI
[27112]中央駅
大量のデータを分析して独自の考察を加えることを得意とする…と、落書き帳メンバー紹介にもありますが…
さり気なく、本領発揮ですね。とてもわかりやすいですし。

*参考*
[4616][4697]いなさん
[4649]Issie さん
[27135] 2004年 4月 10日(土)20:12:21かすみ さん
市駅
[27119]地名好きさん

「~市」の駅ですが、堺市駅、和歌山市駅、熊野市駅、伊勢市駅、山梨市駅、伊那市駅など多いですよね。

和歌山の場合は、和歌山駅と和歌山市駅が存在するのでいっそうややこしく・・・。(笑)
前者がJR、後者が南海のターミナル駅。市役所を挟んで離れた場所に有ります。
ですが、和歌山市駅はJR駅も併設されていて和歌山駅との間をつないでます。
(歩いてだとかなりしんどい)
それぞれ「和駅」「市駅」で区別して使っています。

島根県においては、出雲市駅、大田市駅がありますね。
そのまま山陰本線で山口県に入ると長門市駅もある・・・。


[27126]湾岸太陽族さん

「尼崎センタープール」ってなんだろう? と思って地図を見たら、なるほど、「競艇場」でした。
一瞬泳げるプールと勘違いされる方が多いです・・・。(笑)


今日は一日家でゆっくりしていたので桃写真アップできました~♪
[17020] 2003年 6月 19日(木)15:59:27【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/27 和歌山県編
先の入試において、難関ゆえに受験生が敬遠し、定員割れを起こすという特異な現象を齎したとされる桐蔭、海草の両古豪ですが、和歌山から南海貴志川線で僅か二駅目り日前宮に位置する向陽高の前身が旧制史で隣接郡名を冠した事から、旧海草郡の地勢、特に現在の和歌山市街との関係がどうなっていたのか、気になるところです。もっとも、和歌山市街の中心駅は長らく南海電鉄の和歌山市駅だった様で、その辺りの事情は、1968年まで、現紀和駅を 「和歌山」、現和歌山駅を 「東和歌山」 と称した点、紀和から紀伊中ノ島経由で和歌山線への連絡線 (元々こちらが本線。) が 1974年まで存在した点、大阪府和泉地方において、大阪-和歌山の都市連絡を第一義とした阪和線の前身が旧市街を悉く避ける経路を採り、その沿線人口の少なさゆえに、1940-44年に南海山手線に移管した点などから窺えます。桐蔭高の校地は青陵、陵雲両高校と共有されている様な表記ですが、前者は定時制、後者は通信制ですね。

桐蔭の他、御坊市の日高高も所在地が一瞬どこかと感じる例ですが、湯浅町の耐久高に至っては、ある程度の事情通でないと先ず判らないでしょうね。湯浅と言えば、気勢線に先行して開業した並行経路を集約した関係から、長らく湯浅-藤並で国鉄に直通していた有田鉄道を思い出します。なお、日高高の最寄り駅は、紀州鉄道の学問。旧日高郡を代表する名門に敬意を表した命名感覚でしょうか。

田辺高が創立時に県立二中を名乗っている事から、桐蔭高が一中と位置付けられたものと思われますが、その旨の表記は今のところ見当たりません。

県立1852)耐久稽古場、耐久学舎、私立耐久中学、県立耐久中学
1879)桐蔭和歌山中学、※徳義中学
1896)田辺県立第二中学、県立田辺中学
1901)新宮第二中学新宮分校、県立新宮中学
1915)向陽県立海草中学
1922)伊都県立伊都中学
海南県立海南中学
日高県立日高中学

次号予告) 京都府編
[4697] 2002年 11月 9日(土)00:48:23いな さん
和歌山市駅・和歌山駅・東和歌山駅
[4649] Issie さん
>和歌山の場合は少し複雑な事情があって,

詳細なる解説、ありがとうございました。
地図を見ながら、紙にIssieさんの説明の順(和歌山での鉄道敷設の歴史に沿って)に線路を書きながら
理解していきました。
1,和歌山線 2,南海線 3,紀勢線 4,阪和線 の入ってきた順に、大きな変化を重ねてきたということなんですね。
(いちばんローカルっぽい和歌山線が真っ先だから、理解するのにややこしくなる <先入観・既成概念が悪さする)

もうもうかなり前になりますが、和歌山市駅の改装直後に行ったことがあります。
煉瓦色のきれいなビルで、階段を上がっていって、建物の入り口部分がアーチ状にきれいにデザインされていて
なんとも素敵なターミナルだと感じた記憶があります。
和歌山駅(旧東和歌山)は、まあふつうのビルだったんですが、私鉄と国鉄のセンスの差はすごいんだなあと思って
見てきた記憶があります。

このときは三河ナンバーをつけた軽4自動車で、紀勢線沿線というか、紀伊半島ひとまわりの旅でして
伊勢・志摩・鬼ヶ城・串本・橋杭岩・白浜(三段壁・千畳敷・円月島・白良浜)など、多くの観光名所を
巡ったものでした。(このとき見逃したのは、那智の滝・和歌浦)
もう一度、行きたいものだと思います。 <白浜と勝浦で豪遊だな、今度は・・・
[4664] 2002年 11月 8日(金)14:29:39深海魚[雑魚] さん
レス諸々
[4630] 白桃さん
>江田島町は、月毎の人口増減が激しいのですが、どうしてですか。
海自の幹部候補生養成学校の存在と何か関係があるのでしょうか。

[4635] らるふさん
大和高田市内を通過する鉄道三系統は互いに接点を持たず、各線独自に中心駅を
構えていますが、それぞれに、それなりの要衝性が窺えて興味深いところです。まず
最古参格と思しきJRの高田駅は 「みどりの窓口」 を擁するほか、駅前から市役所に
延びる主要道路沿いに、税務署、裁判所、検察庁、総合庁舎などが集中しています。
この辺りに、JTBが 「市代表駅」 と位置付けた根拠が感じられます。対する近鉄は、
大阪線の大和高田駅に快速急行、急行、準急が停車、南大阪線の高田市駅に特急、
急行、準急が停車という具合ですね。

[4643] 管理人様
御手数を御掛けしました。と同時に、機種依存文字の件、失礼致しました。ところで
文節改行にこだわるが故に、相変わらず自律的に改行を入れる私ですが、実際の
表示画面と書込窓の書式が一致すれば、文節改行のポリシーを充足させつつも、
他律的改行モードが可能かと思います。その辺り、いかがでしょうか?

[4648] でるでるさん
確かに首都圏の方にとって、群馬県伊勢崎市自体は馴染みが薄いかも知れません。
「いせさき」 と聞くと、横浜市の 「伊勢佐木」 を連想する向きが大きいと思われます。
かく言う私は幼少の頃、東武随一の幹線が名乗る街なので、伊勢崎駅とは、高崎に
比する様な要衝だろうと思い込んでいました。

[4649] Issieさん
小学校の頃、鉄道入門書で、紀勢線の正式な終点は紀和駅である旨、読んだ記憶が
ありますが、こうした事情を踏まえたものだったのですね。東和歌山駅が、要衝として
ある程度機能する様になって以降、同駅に寄らず和歌山市駅に直行する和歌山線の
運転頻度や運行区間はどんな感じだったのでしょうね。

東和歌山に限らず、東岸和田、東貝塚、東佐野と、後発組ならではの駅名が目立つ
阪和線ですが、広域的には南海本線を凌ぐ幹線に成長した手前、何か亜流めいた
「東○○○」 という類の駅名も、西鹿児島駅の改称例の様に、一捻り欲しいですね。

[4650] いなさん
結果主義的な 「乗り潰し」 に拘泥すると、Issieさんから 「それは邪道だ !!」 などと
一喝されかねませんが、昼間、車窓風景を楽しむ事を前提に、全国の九割以上を
乗り潰した私としては、達成率の上昇に伴って、モノレール等に食指が動く心境は、
良く理解できるところてす。私の場合、通常は一般開放されていないが、何らかの
拍子に旅客列車が設定される事がある貨物線や事業所線にも色気がでるところで、
鹿島臨海鉄道北鹿島以南 (旅客営業を行った時期あり。) 小金線、武蔵野貨物線、
名古屋港貨物線、城東-阪和貨物線、国交省立山砂防軌道 (抽選による見学) 等、
挙げれば際限なし。
[4649] 2002年 11月 8日(金)00:12:44Issie さん
市駅
[4616]いな さん
>混乱を避けるために、市駅を名乗っているのはそれほど多くないんですねえ <かなり意外

「○○市駅」を名乗る事情には,いろいろなパターンがあるようですね。
JR飯田線の「伊那市」駅は,元は「伊那町」という駅名だったものが“伊那市”発足を受けて駅名も「伊那市」に“昇格”したものです。このパターンは割合に多そうですね。

ちょっと変わっているのが東武東上線の「和光市」。この市名は元の「北足立郡大和町」が“市”になるときに創作された新地名ですから,東上線の駅名も元は違っていて「大和町」というものでした。合併で“大和町”になる前は「新倉」。というわけで,この駅は付近の市町の名前が変わるのにあわせて駅名も変えてきたわけです。
ちなみに“もう1つの武蔵大和”,西武拝島線の「東大和市」駅は元は「青梅橋」という駅名でした。

松山では,はじめは伊予鉄道の駅が当然「松山」駅でした。国鉄が入ってくるのはずっと後ですから。けれども後からやってきた国鉄が「松山」の駅名を横取りして,伊予鉄道は「松山市」を名乗る羽目になってしまいました。

和歌山の場合は少し複雑な事情があって,
最初に和歌山に乗り入れた鉄道は王寺から延びてきた現在のJR和歌山線。これが1898年に最初の「和歌山」駅を設置しました。ただし現在の和歌山駅ではなくて,現在は紀勢本線の中間駅になっている「紀和」駅がこれにあたります。橋本方面からやってきた和歌山線は,そのまま直進して「紀伊中ノ島」駅を通り,現在の紀和駅を「和歌山ターミナル」としていたのです。
1903年,大阪の難波から紀ノ川を渡って南海鉄道が和歌山に到達しました。和歌山線の和歌山駅西方に新しい駅「和歌山市」駅を設置します。やがて,この和歌山市駅に和歌山線も乗り入れて,両線の連絡が実現しました。
これが効果を発揮するのは,和歌山駅から分岐して紀伊半島へ紀勢(西)線が開通したときです。南海から紀勢線へ連絡列車を運転することで,以後長く続く大阪難波からの直通運転が開始されます。なお,紀勢線は和歌山線と分かれた後,和歌山市街の東側に「東和歌山」駅を設置しました。
大正から昭和初期の郊外電車ブームで,大阪-和歌山間でも汽車鉄道上がりの南海に対抗する“高速鉄道”として阪和電鉄が建設され大阪の天王寺から紀勢西線の「東和歌山」に乗り入れました(形の上では紀勢線の駅に隣接する別駅「阪和東和歌山」)。阪和電鉄は紀伊中ノ島で国鉄の和歌山線と交差しますが,当然後から建設された阪和電鉄の方が和歌山線をオーバークロスしています。
阪和電鉄は戦時統合で南海にいったん統合された後,国有化されて阪和線となりました。その結果,天王寺から“国鉄”の列車が紀勢線へ直通することができるようになりました。国鉄としては,以後「東和歌山」の方を拠点駅と位置づけるようになります。
1961年には短絡線を経由して和歌山線の列車が「東和歌山」駅に乗り入れるようになります(この間に南海の貴志川線も独自ターミナルから東和歌山駅をターミナルとしています)。
そして,1968年「東和歌山」に民衆駅(ターミナルビル)が開設されるのに合わせて,「和歌山→紀和」「東和歌山→和歌山」という駅名改称が行われました。
やがて和歌山線の全列車が(新)和歌山駅発着となり,紀伊中ノ島を経由して紀和(旧和歌山駅)に向かう線路は撤去されました。そして紀和駅は,“最初の和歌山駅”であることが想像できないほどに寂れてしまいます(それでも駅構内のあちこちにターミナルの面影がありました)。
いつの間にか,南海から紀勢線への列車乗り入れも廃止されて,東のJR和歌山駅と西の南海和歌山市駅とがそれぞれお互いに別個に存在するような感じになってしまいましたね。


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