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両白山地の三県境と大野

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加賀国の南、飛騨との国境に聳える白山。山岳信仰で知られ、日本三霊山の一つとされます。
その数km南、三ノ峰の先には 加賀・飛騨・越前の三国境(石川・岐阜・福井の三県境)があります。
飛騨・越前国境の尾根を南に辿ると、岐阜県側は飛騨から美濃へと変り、更に西に折れて能郷白山に至ります。
「両白山地」という自然地名は、この2つの「白山」を主峰とすることに由来します[53457]

三ノ峰の南にあるコブが「越前三ノ峰」と名付けられ、福井県の最高峰に「昇格」したという記事[76804]から、両白山地付近の3つの大野郡の存在や、その中の越前国大野郡が加賀国白山西麓の村々に拡大していたことが紹介された記事、越県合併した石徹白のことなどを思い出し、特集をまとめてみました。


記事数=16件 登録日:2010年11月18日
記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[732]2002年1月27日
少しく訂正 Issie
[68397]2009年1月19日
昭和大合併を前に桧峠にジープを通した石徹白、スキー場で冬季も“実質的な飛び地”でなくなる hmt
[68410]2009年1月20日
石徹白の話 ぼたん
[68491]2009年1月28日
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (1)高い両白山地に隔てられた3つの大野郡 hmt
[68512]2009年1月30日
越前と飛騨の大野郡 むっくん
[68513]2009年1月30日
越前と美濃の大野郡 むっくん
[68519]2009年1月31日
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (2)拡大していた越前側の大野郡 hmt
[68549]2009年2月3日
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (3)昔は美濃国大野郡:地震断層の西根尾村とダムに消えた徳山村 hmt
[68557]2009年2月5日
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (4)天領・高山は 飛騨国大野郡 hmt
[68561]2009年2月6日
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (5)1897年に誕生したのは 揖斐郡大野村 hmt
[68580]2009年2月9日
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (6)美濃国大野郡は明治30年廃止され、概ね根尾川を境に2つの郡に hmt
[68593]2009年2月12日
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (7)岐阜県内に2つある大野郡の取り扱い hmt
[68594]2009年2月12日
美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (8)郡変更を伴なう合併 [68561] の補足 hmt
[76804]2010年11月17日
千葉県と福井県と和歌山県の最高峰 k-ace
[76805]2010年11月18日
最高峰、最高点 futsunoおじ
[76807]2010年11月18日
大野市にある 福井県最高峰の 「越前三ノ峰」は 三県境・三国境から 少し外れている hmt


[732] 2002 年 1 月 27 日 (日) 09:33:23 Issie さん
 少しく訂正
hmt 両白山地の三県境と大野 ARC 北海道に同じ名前の郡がいくつもあるのは? ARC 支庁は北海道の専売特許か?−支庁とその制度について考える−

下の「支庁」のところ,「告示」が公布された大正15年はもちろん1926年ですね。訂正します。

ところで,北海道の「上川郡」のような例は“内地”にもありました。
越前国(福井県)の北東部に「大野郡」があります。九頭竜川と足羽川上流の山間部ですね。
実はこの郡と国境(県境)をはさんだ美濃国(岐阜県)側にも「大野郡」がありました。こちらは揖斐川上流の山間部となります。
この2つの郡はもちろんお互いに別々の国の別々の郡ですが,お互いに似たような地形でお互いに隣接しているという点で,偶然「オホノ」というコホリ名が一致したのか,それとも意識的なものなのか,興味深いものがあります。
ついでに,すぐ近くの飛騨国(岐阜県)にも「大野郡」がありますね。

言い忘れました。美濃国の大野郡は1890年ごろの「郡制」施行に際して,隣接する池田郡などと合併して,現在では「揖斐郡」になっています。

[68397] 2009 年 1 月 19 日 (月) 19:18:30 hmt さん
 昭和大合併を前に桧峠にジープを通した石徹白、スキー場で冬季も“実質的な飛び地”でなくなる
hmt 両白山地の三県境と大野 hmt 「県境」の変更

[68387] ぼたん さん
石徹白村は福井県大野郡から岐阜県郡上郡白鳥町に越県合併した地域ですが、合併当初は白鳥町の中心地域とは車道が通じていなかったと聞いた気がします(裏を取ろうとしたのですが、見つかりませんでした…)。

白山の神地として、無主無従の村民自治体制が中世から維持されてきた越前と美濃の国境の村・石徹白(いとしろ)。
18世紀には、郡上藩の取り潰し・幕府幹部の処罰という結果をもたらした石徹白宝暦騒動の舞台でもありました。
明治になると、この地は九頭竜川水系の上流にあたる越前国ということで、郡上八幡の支配を離れて、福井県に所属することになりました。

この山里の交通事情が、[54300] ズッキーさん がリンクした資料「桧峠」(現在はリンク切れ)に出ていたので、紹介します。

自動車が普及してきたのは、昭和10年代後半のこと。福井県は当然のことながら、大野市への道を優先。岐阜県側の郡上への道の新設には消極的でした。
石徹白村は、そこで岐阜県北濃村と力を合わせて林道で結ぶことになり、1943年着工。戦後の1951年念願の桧峠林道が開通したが、まだ自動車の通行は不可でした。

桧峠を越える自動車道路の開通は、昭和28年施行の町村合併促進法がもたらした結果した。
この時に、福井県大野郡石徹白村が選んだ道は、全国でも例の少ない越県合併(→岐阜県郡上郡白鳥町)でした。
奇しくも、石徹白宝暦騒動のあった郡上サイドに戻ることになるわけですが、ズッキーさんも書いているように、(桧峠さえ越すことができれば、)生活上は白鳥町との合併が有利と判断されたのでしょう。

この合併を実現させる環境整備として、白鳥町と石徹白村双方から桧峠への工事が行なわれ、昭和32年(1957)7月、ジープが通行可能になりました。

越県合併事案は、下記の2件と共に新市町村建設促進中央審議会で審議され、いずれも認められて、一部を分村(前日に境界変更)して元の県に残した上で、1958年10月15日に「越県合併」が実現しました。
長野県西筑摩郡神坂村→岐阜県中津川市 [55505]、埼玉県入間郡元狭山村→東京都西多摩郡瑞穂町 [4049]

つまり、昭和合併が実現する前年には、石徹白と白鳥町の間に自動車通行可能な林道が一応は完成しており、合併後は役場のジープが日に3往復ほど連絡しました。
この林道は、合併実現後に県道になり、変更・改良工事が加えられました。
しかし、通行量の少ないこの道は、冬季常時除雪体制をとることは不可能。
穴馬(福井県和泉村、現・大野市)経由で白鳥町本体と結ばれていた冬季に限れば、石徹白地区は岐阜県白鳥町の“実質的な飛び地”であったと言えるかもしれません。

この状態が解消したのは1972年でした。この年に石徹白地区内有志がスキー場を建設。全国的な雪不足の中で雪に恵まれた幸運もあって、名が売れました。岐阜県もこれに応じて除雪体制を整備。

石徹白小学校の元教師の回顧による、戦時中〜戦後の交通事情(特に冬季の交通途絶)。これも出典はリンク切れの資料「桧峠」
当時、石徹白は福井県だったので、学校といえば当然福井の学校へ通ったのです。夏の間は、石徹白から福井県和泉村、大野市へバスが通っており、大野市から福井まで電車で出て、そこから鯖江までは電車でもバスでも行けました。
それが11月から4月の冬の間だと大変です。新学期になって学校へ戻ろうと思っても、雪が多く、和泉村へ出ることはできません。桧峠を越えて(中略)北濃駅まで歩いて、そこから越美南線、高山線東海道本線、北陸本線と乗り継いで、鯖江まで行ったのです。行くだけで1日がかりでした。

[68410] 2009 年 1 月 20 日 (火) 01:28:31 ぼたん さん
 石徹白の話
hmt 両白山地の三県境と大野

[68397]htmさん

石徹白に関する詳細な解説、本当にありがとうございます。おそらく以前に「桧峠」を見たことがあるように感じました。

穴馬(福井県和泉村、現・大野市)経由で白鳥町本体と結ばれていた冬季に限れば、石徹白地区は岐阜県白鳥町の“実質的な飛び地”であったと言えるかもしれません。
とのことですが、では当時から冬期も穴馬から油坂峠を越えて白鳥に至る国道158号は冬期も通行可能だったんですね。…と思ってwikipediaを見たら明治22年には隧道が存在していたと書いてありますね…。越美線が石徹白を経由する計画だったとの事は、やはり油坂峠に向かう勾配が急だったため鉄道には向かなかったとの事なのですよね。

桧峠を越えて(中略)北濃駅まで歩いて、そこから越美南線、高山線東海道本線、北陸本線と乗り継いで、鯖江まで行ったのです。
ただただ唖然とするばかりです。すぐにルートこそイメージできましたがその意義を理解するまでにしばらく時間がかかりました。当時の鉄道の意義が明らかに現在とは違うことを意味しているように感じます。

石徹白のことを知ったのは、山口村が越県合併の可能性という新聞記事が出たときでした。おそらく2002年くらいのことと思われますが、当時はインターネット上の情報も今ほどではなかったので、「昭和の大合併では6例ある」との新聞での情報だけを元に学校の地図帳で旧国境と県境が一致しない場所をひたすら探し、初めにたどり着いたのが石徹白でした。その日以来、「いとしろ」というその響きに想いをはせています。


皆さんがセンター試験の話をされていますが、つい5年前(すみません、まだ23の若造です)に本番で97点を出したはずなのですが、今年は79点。使わない知識は抜けていくものですね…

[68491] 2009 年 1 月 28 日 (水) 19:43:14 hmt さん
 美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (1)高い両白山地に隔てられた3つの大野郡
hmt 両白山地の三県境と大野

山地を流れてきた揖斐川が「大きな野原」に出た付近にある岐阜県揖斐郡大野町。Google地形。もとは 大野郡 でした。

そこから50km以上も北。分水嶺を越えた九頭竜川沿いにも同じ地名を名乗る福井県の大野市。
濃尾平野に比べれば小柄とは言え、越前の大野盆地も 両白山地の中では目立って「大きな野」です。

更に東に約70km。高山盆地も、山国の飛騨では希少な存在である「大きな野」です。

こんなことを考えたのは、
[68442] 88 さん
岐阜県大野郡には美濃国大野郡と飛騨国大野郡があります。
という記事から、ずっと前の記事を思い出したからです。

[732] Issie さん
越前国(福井県)の北東部に「大野郡」があります。九頭竜川と足羽川上流の山間部ですね。
実はこの郡と国境(県境)をはさんだ美濃国(岐阜県)側にも「大野郡」がありました。こちらは揖斐川上流の山間部となります。
(中略)ついでに,すぐ近くの飛騨国(岐阜県)にも「大野郡」がありますね。

ここにも記されているように、豊後大野を含めて4つの「大野郡」は、“山間部”にありました。
山地の中に ぽっかりと開いた平らな空間が「大野」と呼ばれ、それが郡名になったようです。越前の 大野盆地 の地形を例示。
飛騨と越前の山間部で、盆地を表す地名の「大野」が独立に発生し、それが郡名に採用された結果、範囲が拡大し、隣接するようになったものではないでしょうか。

明治30年(1897)まで存在した美濃国の「大野郡」も全体としては“山間部”になりますが、事情が異なります。
最初に触れた大野町は、広大な平野の中で「大野」を名乗っています。「大野」は山間部だけでなく、平野部の地名でもあります。
# 落書き帳の中で度々登場している「相模大野」も、かつては台地上の「大きな野原」でした。

大野町郡家(ぐげ)は、「美濃国大野郡」の郡衙があった地のようです。古代からの歴史に裏付けられた平野部の「大野」が、郡名になって拡大した結果、大部分は山間部にりました。

# 山間部と平野部といえば、揖斐の山さん 改め 山野さん。大野町の対岸で、同じような地形とお見受けしました。

上の引用の(中略)部分。
この2つの郡はもちろんお互いに別々の国の別々の郡ですが,お互いに似たような地形でお互いに隣接しているという点で,偶然「オホノ」というコホリ名が一致したのか,それとも意識的なものなのか,興味深いものがあります。

私の意見は、上に書いたように「独立発生説」です。
しかし、平凡社の日本歴史地名大系21巻73頁(美濃国大野郡)に「総称説」があったので、一応反論しておきます。
越美山地を挟む形で、飛騨国・越前国にも大野郡があり、当地方一帯をさす総称であったと考えられる(日本地理志料・濃飛両国通史)。

古代には越前・飛騨は無論のこと、越前・美濃の国境を越えるハードルも高かったはずです。
地図上では隣接する3つの地域ですが、同一の総称「大野郡」で呼ばれるほどの一体性ある地域であったとは、到底思われません。
その総称が「山」に関係した地名ならともかく、特に平地を意味する「野」のつく地名ですからね。

現在の地図を見ると、大野市(もと越前国大野郡)と高山市(もと飛騨国大野郡)の境界線は僅かに2kmほどの長さで、しかも2000m近い高峰が連なっています。1958年の石徹白村越県合併[68397]以前の境界線は、もう少し長かったのですが、それにしても越前と飛騨の大野郡は、交通路のない高峰に隔てられていたことに違いありません。
# 現在でも、大野市と高山市を結ぶ交通路は、国道158号で油坂峠([68410]ぼたんさん)を越え、郡上市の白鳥を経由します。つまり2つの大野郡の隣接部は通らず、もと郡上郡の区域を経由するルートです。

越前国大野郡と美濃国大野郡との境界線も、能郷白山(両白山地の名の由来)に連なる大分水嶺です。
こちらは古代はいさ知らず、少なくとも近世になると直結する交通路が開けていました。現在は国道157号。
でも、1000m級の峠道に隔てられた両側の大野郡に一体性はなかったでしょう。

[68512] 2009 年 1 月 30 日 (金) 22:21:46 むっくん さん
 越前と飛騨の大野郡
hmt 両白山地の三県境と大野

[68491]hmtさん
現在の地図を見ると、大野市(もと越前国大野郡)と高山市(もと飛騨国大野郡)の境界線は僅かに2kmほどの長さで、しかも2000m近い高峰が連なっています。1958年の石徹白村越県合併[68397]以前の境界線は、もう少し長かったのですが、それにしても越前と飛騨の大野郡は、交通路のない高峰に隔てられていたことに違いありません。
hmtさんの話の本旨からずれますが、越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線の距離について記してみます。
まず、年代によって越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線の距離は以下のような変遷をたどります。

年代越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線の距離
〜1580年ごろ約15km(キョリ測
1580年ごろ〜1872年約25km(キョリ測
1872年〜1958(S33).10.14約15km(キョリ測
1958(S33).10.15〜現在約2.5km(のように見える)

古来、越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線は、三ノ峰の若干南側(地図)(加賀・越前・飛騨3国境で現在も石川県・福井県・岐阜県3県の県境)〜大日ヶ岳(地図)(美濃・越前・飛騨3国境で現在は岐阜県内)でした。

それが1580年ごろ、古来加賀国能見郡に属していた白山直下の16村(瀬戸村、女原村、二口村、五味島村、釜谷村、鴇ヶ谷村、深瀬村、下田原村、島村、牛首村、風嵐村、杖村、小原村、丸山村、須納谷村、新保村)が越前国大野郡に属することになりました(参考:図説福井県史12越前・若狭と周辺地域(1)牛首道)。これにより加賀・越前・飛騨3国の境が従来の箇所よりかなり北の、現在では岐阜県と石川県の県境の山として理解されている白山のやや北側に移動しました。
そのため越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線の距離が約10km延びたことになったのでした。
例えば江戸時代後期の天保国絵図・越前国天保国絵図・加賀国天保国絵図・飛騨国でも、このことは見て取れます。

白山直下の地では、江戸時代の明暦元(1655)年に、白山での杣取りなどの権利をめぐる争論が加賀国能美郡の尾添村と越前国大野郡牛首村・風嵐村で起こり、それが加賀藩と福井藩も巻き込んでの大争論へと発展してしまいました。(参考:谷峠
この時、加賀藩は加賀国能美郡の尾添村・荒谷村の支配を返上し、寛文8(1668)年に江戸幕府の裁定で前述の越前国大野郡16村と加賀国能美郡の2村は幕府領(天領)になりました。以後これら18村は「白山麓十八ヶ村」と国を越えて一体となった村々として人々に認識されるようになりました。

その後「白山麓十八ヶ村」は明治になって、明治3(1870)年12月に本保県、明治4(1871)年11月には福井県(同年12月に足羽県と改称)大野郡所属となります。しかしその直後の明治5年に嘆願書が出され、その時の実地調査によって同年11月に「白山麓十八ヶ村」はすべて石川県の加賀国能美郡所属となりました。(参考:白山信仰の一大拠点−平泉寺(勝山高校HP内)北陸歴史の謎
#「白山麓十八ヶ村」のうち、手取川沿いの村々は明治22(1889)年4月1日に能美郡尾口村&白峯村となり、昭和24(1949)年の石川郡への変更(尾口村白峯村)を経て、現在は白山市になっています。大日川・杖川沿いの村々は明治22(1889)年4月1日に能美郡新丸村となり、現在は小松市になっています。

これが明治5(1872)年の変化で、古来と同じ国郡に戻ったため、越前国大野郡と飛騨国大野郡の境界線の距離もまた以前に戻ったのでした(約10km短縮されました)。

その後、昭和33(1958)年の福井県石徹白村の岐阜県への越県合併に伴い、元・越前国大野郡と元・飛騨国大野郡の境界線の距離は、約2.5kmしかないように見えるようになったのでした。

[68513] 2009 年 1 月 30 日 (金) 22:21:52 むっくん さん
 越前と美濃の大野郡
hmt 両白山地の三県境と大野

[68491]hmtさん
越前国大野郡と美濃国大野郡との境界線も、能郷白山(両白山地の名の由来)に連なる大分水嶺です。
こちらは古代はいさ知らず、少なくとも近世になると直結する交通路が開けていました。現在は国道157号。
越前国大野郡と美濃国大野郡との間で一番古くから開けていた峠道は、現在の国道157号の峠でもある温見峠(地図)を経由するもので、遅くても鎌倉時代には開けていました。鎌倉時代当時、「いざ鎌倉」というときは、越前国の府中があった武生(現:越前市)からはこの温見峠を越えて、鎌倉に馳せ参じたと言われています。(参考:鎌倉街道
また、温見峠は越前国の平泉寺(加賀の一向宗門徒によって1574年に滅亡させられた)から美濃への布教への通路でもあり、多くの僧侶たちがこの峠を越しました。平泉寺の主唱した白山禅定道を登拝する白山講の時には美濃の信徒が大勢この峠を越しました。(参考:温見峠

さてこのように利用されてきた「温見峠」ですが、この峠を通る道の近代化は昭和になるまで待たなければなりませんでした。昭和に入り幾度かの改修はされましたが、峠まで改修されたのは昭和49(1974)年になってからでした。その後昭和52(1977)年の国道昇格により、車で福井県まで抜けることができるような道となりました。
とは言え、温見峠へ行く途中の道は現在でもまだまだ未整備です。沿道には落ちたら死ぬ!!というそのままずばりの標識もあり、過去記事にもあるように、とある筋では酷道として知られているようです。

ところで話は変わりますが、越前国大野郡と美濃国大野郡との往来に際し、最も利用された峠道は常に温見峠(地図)かというとそうではありません。
天保5(1838)年より大垣藩が黒津・這法師峠の新道を建設し、その峠道が完成した天保13(1846)年には、越前国大野郡と美濃国大野郡を結ぶ越前街道の本道の地位を這法師峠(地図)に譲り渡していたりもしています。
この這法師峠は、尊皇攘夷派の水戸浪士・武田耕雲斉らが冬の這法師峠越えをしたことで一瞬だけ歴史の表舞台?に現れます。(参考:蝿帽子峠
国土交通省岐阜国道事務所HPの「温見峠」(現在はリンク切れ)では
4.2 這法師峠と水戸浪士
 這法師峠で、歴史上最も有名なのは、幕末期、尊皇攘夷派の水戸浪士、武田耕雲斉ら約1000人の通過である。開国により国内が混乱が進む中、尊皇攘夷を訴えるこれらの人々は、京都に赴き、一橋慶喜にその志を訴えようと、この峠を通過したのである。元治元(1864)年12月のことである。
 一行は、幕軍が合渡(岐阜市)と呂久(巣南町)の2か所に、彦根・大垣藩が、揖斐川を前に砲列を敷いて、水戸浪士の通過に備えていたため、厳しい冬の這法師峠越えを選んだ。
 根尾村の人にとっては、1000人もの浪士の通過に恐れおののいて、雨戸を閉め、息を潜める家が多くあった。しかし、野営をする浪士に対して、蒔を持ち寄り、心尽くしの炊き出しをしたので、この素朴で親切な根尾人の接待に心から喜んだという。
 4日から雪が降り出し、這法師峠手前の大河原を出る5日には、1mを越えていた。雪は更に降り続き、這法師峠を越える時には、雪は2mは越えていた。この大雪をかき分け、よじ登りながら峠越えをした。積雪は道を埋め、滑りやすく、谷底に転落し、再び立つことができない人もいたという。途中には、大野藩の兵が、大木を倒して道を遮断し、行軍を防ごうとしており、行軍の厳しさは例えようがないものであった。
 ようやく峠を越え、大野郡黒戸村にたどり着いた時には、民家はことごとく大野藩によって焼き払われており、泊まるべき家が一戸もなく、全軍、橋の下などに野営をした。
 すでに、一行は心身とも疲れ果て、加賀藩に降伏し、敦賀市松原で処刑をされた。
と説明されていました。

[68519] 2009 年 1 月 31 日 (土) 17:02:07 hmt さん
 美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (2)拡大していた越前側の大野郡
hmt 両白山地の三県境と大野

[68512] むっくん さん
1580年ごろ、古来加賀国能見郡に属していた白山直下の16村(瀬戸村、女原村、二口村、五味島村、釜谷村、鴇ヶ谷村、深瀬村、下田原村、島村、牛首村、風嵐村、杖村、小原村、丸山村、須納谷村、新保村)が越前国大野郡に属することになりました。

近世には、越前側の大野郡が、現在は加賀国と認識されている白山西麓の16村に拡大していたというお話、興味深く拝見しました。天保国絵図・越前国を眺めたことはあったのですが、気がついていませんでした。
その範囲を、20万分の1地勢図で確認して、改めてその広大な面積に感嘆!

朝倉氏に代って勢力を増した一向一揆は、天台白山教団と対立して平泉寺を焼討ち。
その一向一揆も、柴田勝家に討伐されました。
白山信仰は依然として無視できない存在でしたが、戦国末期以降は、武家の力関係がこの地でも所属を決めるようになりました。
江戸時代を通じて、外様大名の加賀前田家でなく、親藩の越前松平家が支配する大野郡という状態が続いていたというわけですね。

巨視的には白山信仰により“国を越えて一体となった村々”だったのでしょうが、禅定道(登山ルート)の拠点(馬場)は、ライバル関係にあります。
越前勝山の平泉寺。その越前馬場に属しながら、平泉寺とも利害の衝突がある手取川上流の牛首村・風嵐村(明治以後の白峰村)。加賀馬場(旧・鶴来町に白山本宮の白山寺)とその前進基地の尾添村。それに加えて美濃馬場(旧・白鳥町の長滝寺)からの信者を迎えるのが石徹白村。
どこにお金が落ちるかは地元としては大問題です。

江戸時代を通じて福井藩と加賀藩とを巻き込んだ抗争対立を経て、「白山麓十八ヶ村」は幕府直轄領になりました(1668)。
そして、最有力勢力の平泉寺のある越前側が、事実上の支配権を失うことになったのは明治維新でした。

「白山麓十八ヶ村」は明治4年になって、福井県(足羽県と改称)大野郡所属となります。しかしその直後の明治5年に嘆願書が出され、同年11月に十八ヶ村はすべて石川県の加賀国能美郡所属となりました。【一部省略して引用】

リンクしていただいた資料によると、尾添村・荒谷村が“石川県に属したい”という嘆願書を出したのですね。もともと加賀馬場だった村ですから当然とも言えます。
ここで、2村を切り離して加賀(石川県)に戻すのなら普通の処置ですが、従来からのしがらみと絶縁した明治政府は、18ヶ村の一括処理を検討すべく、足羽県と石川県とに調査を命じました。
そして、足羽県と石川県の対応の違いが、「白山麓十八ヶ村」の帰属に影響した……

この説は、なかなか興味深いものでしたが、それはともかく。
この2村も福井県になっていたということは、越前国大野郡が、16ヶ村に及んでいた江戸時代よりも、更に拡大していたという事実を示しています。
明治4年から5年にかけてのごく短期間ですが、越前側の大野郡を更に拡大させていた2村は、旧・尾口村の東部です。
越前・飛騨両国の大野郡の境界線は、5kmほどプラスした約30 kmになっていた可能性があります。

[68549] 2009 年 2 月 3 日 (火) 17:32:30【1】 hmt さん
 美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (3)昔は美濃国大野郡:地震断層の西根尾村とダムに消えた徳山村
hmt 両白山地の三県境と大野

[68513] むっくん さん
越前国大野郡と美濃国大野郡との間で一番古くから開けていた峠道は、現在の国道157号の峠でもある温見峠
天保13(1846)年には、越前国大野郡と美濃国大野郡を結ぶ越前街道の本道の地位を這法師峠に譲り渡していた

地図の「蝿帽子峠」という奇妙な文字。いわれがありそうな地名と感じましたが、法師が這い登った険しい峠道でしたか。

大河原村から北に向かう2手の峠道が描かれた 天保美濃国絵図
村々は郡により色分けされていて、東(青色)が本巣郡、真ん中(褐色)が大野郡、南西(桃色)が池田郡。

明治22年の町村制で、峠から南東の大野郡6村は 大野郡西根尾村になりました。根尾川の谷沿い、約6里もある ほぼ一本道の細長い村でした。

その2年後、1891年に岐阜県・愛知県などが大地震に襲われました。M8.0という内陸では最大級の 濃尾地震 です。
それから10年近く後の鉄道唱歌にも、次のように歌われた大災害でした。
♪……地震のはなしまだ消えぬ 岐阜の鵜飼いも見てゆかん

地震の後で、西根尾村の水鳥(みどり)に6mもの崖が新たに現われたことを知った小藤文次郎は、この崖を作った急激な断層運動こそが地震の原因であると考え、1893年に発表しました。論文掲載写真

国指定の特別天然記念物となっている 根尾谷断層 の現状。樽見鉄道の終点一つ手前の水鳥駅近くです。

この大野郡西根尾村は、明治30年(1997)の郡再編制の時に根尾谷の東部と同じ本巣郡になり、明治37年(1904)に根尾村として統合されました。ちょうど100年後の2004年には、根尾川東岸沿いの下流域と共に本巣市が成立。

国絵図に戻ると、山を隔てた西側の揖斐川上流部にも、徳山村など大野郡の村々がありました。しかし、その支流沿いは池田郡です。
大野郡の本体は、根尾川が揖斐川に合流する濃尾平野の一角(大きな野)にあるので[68491]、この郡は2つの川に挟まれた地域ということで、黒い線で示されている境界線が引かれているのでしょう。
しかし徳山村のような上流部になると、大野郡本体との一体性は失われています。

明治22年になると、揖斐川最上流部の徳山村など4村は大野郡から池田郡に変更の上、池田郡徳山村 として統合、町村制が実施されました。
池田郡は、明治30年になると大野郡(本巣郡になる西根尾村を除く)と合併して揖斐郡に再編制され、現在に至ります。

時代は移り、第二次大戦後。揖斐川上流部には、1957年以来電源開発用のダムも検討されましたが、最終的には 1976年に水資源開発公団の事業による多目的ダム建設計画となりました。
巨大なロックフィルダムにより、日本一の貯水量(6.6億m3)を持つ人造湖を作る計画です。よく使われる浜名湖の2倍という容積はウソではないにしても、浅くて広い、しかも淡水でない浜名湖と比較するのが適切と言えるかどうか?

湛水面積13km2は諏訪湖クラスで、徳山村の全集落466戸が水没することになりました。
1983年に移転補償交渉が妥結して、住民は根尾川下流の糸貫町などに移転を開始。
1987年に徳山村の区域は藤橋村に編入されて98年間の歴史を閉じました。2005年揖斐川町。

2008年2月、ダム湖の名前は「徳山湖」になったそうです。>「ダム湖」コレクション の美濃織部さん

[68557] 2009 年 2 月 5 日 (木) 18:21:50 hmt さん
 美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (4)天領・高山は 飛騨国大野郡
hmt 両白山地の三県境と大野

それぞれが独立に生まれたと思われるが隣接している3つの大野郡[68491]
現在は石川県になっている「白山麓十八ヶ村」(の大部分)にまで拡大していたという越前国大野郡[68519]
郡の名は平野に由来するのに、何故か山間部の2村を話題にしてしまった美濃国大野郡[68549]
これに続いて、飛騨国大野郡の登場です。

飛騨国大野郡の中心であり、郡名の由来とも思われる「大きな野(盆地)」である 高山。

[68545] MasAka さん
先月19日、歴史まちづくり法に基づく「歴史都市」の第1号として金沢市ほか4市が認定されました。
その認定第1号が金沢市、高山市、彦根市、萩市、亀山市の5市というわけです。いずれも西日本の城下町というのが共通点といえるでしょうか。

天正13年(1585)、羽柴秀吉の命を受けて飛騨国を平定した金森長近。それに引き続いて、彼は高山に城と城下町を建設しました。(旧勢力の松倉城も高山)
それは事実なのですが、どうも高山は「城下町」という言葉が他の4市のようには しっくり きません。

城下町時代でさえも、商業経済活動に重点を置いた高山では、武家地を上回る面積を町人町が占めていたと伝えられます。
(多くの城下町では、武家地は町人町の2倍以上であったとされています。)
元禄5年(1692)、金森氏が出羽上山に転封された後の天領時代になると、森林や地下資源を経済基盤とする飛騨にとって、大勢の武士が常駐している必要はなくなりました。

飛騨郡代(1777年までは飛騨代官)をトップとして江戸から出向している武士(高山在番は)は僅か25人。
その倍ほどの地役人を加えても「小さな政府」です。
大名の権威を示す「御城」の存在意義はなくなり、維持管理費用がかかるだけの城郭・武家屋敷は、石垣さえも残さずに破却されました。
政務をとる場所は、町の中にある 高山陣屋 で十分です。

「歴史都市」高山の存在の背景には、何よりも天領時代 177年の間、飛騨の経済活動の中核的存在は、高山の町人であったという歴史があります。
そして、近代の交通路整備から取り残された(文明開化の象徴である鉄道開通は1934年)ことも手伝い、多くの歴史遺産が温存されたという事情もあると思われます。
例えば高山陣屋は、明治になってから短期間存在した高山県の庁舎にも利用され、更に 1969年まで岐阜県の事務所として使用されてきました。

歴史を伝える町・高山の実力の一端を示すのが人口データです。
明治8年の共武政表における 飛騨国大野郡高山町の人口 は1万3081人。これは美濃国の岐阜町1万0800人、大垣町1万0158人よりも大きな数字です。もっとも加納駅などを加えれば、岐阜の方が町の人口は多くなるのですが…

町村制実施の頃の飛騨国大野郡高山町の 現住人口 でも1万5462人であり、岐阜県の中では 岐阜市2万6233人、安八郡大垣町の2万0103人に次ぎます。
岐阜県内では、この3都市が他を大きく引き離しており、その次は郡上郡八幡町を抑えた吉城郡国府村が6734人と、飛騨国が健闘して4位を獲得しています。

白桃さんの領域を侵してはいけないので、ここでやめます。

織田信長時代からの金森長近の所領は、越前国大野郡でした。
でも、もちろん彼が「大野郡」の名を飛騨に持ち込んだわけではありません。
飛騨国大野郡は奈良時代から存在し、平安時代初期の870年に、北部の大野郡と南部の益田郡に分離しました。

[68561] 2009 年 2 月 6 日 (金) 23:12:19 hmt さん
 美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (5)1897年に誕生したのは 揖斐郡大野村
hmt 両白山地の三県境と大野

いつたび大野郡について。
「みたび、よたび」と「ななたび、やたび」を結ぶ言葉は「いつたび、むたび」だろうというわけで上記のように書いてみました。
しかし、現代語の中では「nたび」は通じにくくなっていますね。
「ごたび」という重箱読み。「いつたび」よりは「5」がイメージしやすくなったとしても、違和感は増します。
要するに、現代では、わざわざ「nたび」という表現を使う必要がない ということでしょう。
現代でも通用する独立の言葉として成熟しているのは、「ふたたび」で、その表記も「二度」から「再び」に変化しています。
“ななたび探して人を疑え”という成句は残っているのかな?
「たびたび」という言葉も通用していますね。

本題の大野郡。
[68491]で、岐阜県揖斐郡大野町に関して、“もとは 大野郡 でした。” と書きましたが、内心では、“もとは 大野郡大野村 でした。”と「大野」を強調して書きたかったのです。

市区町村変遷情報都道府県別一覧 岐阜県 の #89(1897.04.01)には、“大野郡大野村”と記されています。

その根拠を示す 明治30年岐阜県告示第58号 の記載は、次の通りです。
町村制第四条に依り各郡町村中明治30年4月1日より左の通廃置分合す
美濃国大野郡黒野村相羽村下方村六里村及麻生村を合し其の区域を以て大野村を置く

普通に解釈すれば、合併後の大野村の所属も美濃国大野郡となります。

しかし、この告示(1897/3/31)の前年に公布された 岐阜県下郡廃置及郡界変更法律(明治29年法律第86号) (施行は、翌年の明治30年4月1日)によって、既に
岐阜県美濃国池田郡を廃し其の区域と大野郡を廃し其の区域の一部(…黒野村六里村麻生村相羽村下方村…)とを以て揖斐郡を置く
ことが定められています。
岐阜県に属する郡の再編制(正式の用語は「郡廃置及郡界変更」)が行なわれた1897.04.01は、町村の廃置分合日と同日です。

つまり、1897年の合併で生まれた大野村は、告示だけからは大野郡だったように思えたとしても、同日施行の法律により揖斐郡に変ることが約束されており、「大野郡大野村」としての存続期間は実質的にゼロであり、「揖斐郡大野村」として誕生したのでした。

これが、大野町の区域が「大野郡であったのは、実質的には明治30年3月まで」という意味を込めて、あえて4月に成立した大野村の名を削った理由です。

近年の市区町村変遷情報において、このような「町村の廃置分合」と同日に行なわれた「郡の再編制」がある場合の取り扱いを調べてみました。こちらでは廃置分合は「新設」・「編入」などに細分され、郡再編制には「郡設置」という用語が使われています。

最も新しい例は、北海道一覧表 #703です。
種別「(市町村の)新設」、自治体名「新ひだか町」ですが、両者の間の列に新しい郡名「日高郡」が表示されています。
次の行 #704には、静内郡と三石郡とから日高郡になったレコードがあります。「新しい郡の設置」ですが、種別は「郡設置」と記され、市町村の廃置分合の一態様を表す「新設」とは別の用語で区別されています。

北海道一覧表 #687の二海郡八雲町も、同様に新しい郡名「二海郡」が表示されています。
50年遡った昭和大合併時代の三重県安芸郡芸濃町(三重県 の#178)も同様です。

岐阜県に大野村が生まれ、美濃国大野郡が消えた明治30年当時は、地方自治法による現代とは法制度が異なります。
町村の廃置分合は(明治21年)町村制第四条に基づく県告示、郡の再編制は(明治23年)郡制第一条に基づく法律 と 別々の法令によっていた時代であり、公示の文面も現在とは異なっていました。

しかし、実務上「町村の廃置分合」と「郡の再編制」とが連携して実施されたという事情は現代と同じです。
同日に実施された場合、別々に公示されたものであっても、「町村の廃置分合」レコードに「郡の再編制」の結果を反映させた統合データとして市町村変遷情報に入力するのが適切であろうと思います。

要するに、最初に示した一覧表に示されていた 1897.04.01 の “大野郡大野村” は、 “揖斐郡大野村” に改めた方が実態にかなっているのではないかという提案です。
大野村詳細データ には、廃置分合関係に加えて、“同日付で揖斐郡に変更”というような記載を追加することになります。

[68580] 2009 年 2 月 9 日 (月) 18:48:42 hmt さん
 美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (6)美濃国大野郡は明治30年廃止され、概ね根尾川を境に2つの郡に
hmt 両白山地の三県境と大野

[68561]でリンクした岐阜県下郡廃置及郡界変更法律
岐阜県美濃国池田郡を廃し其の区域と大野郡を廃し其の区域の区域の一部(揖斐町…【43村列挙】…)とを以て揖斐郡を置く
岐阜県美濃国本巣郡及席田郡を廃し其の区域と方県郡に属せし区域の一部(10村列挙)と大野郡に属せし区域の一部(18村列挙)とを以て本巣郡を置く

市区町村変遷情報の 揖斐郡設置詳細データを見ると、“参加自治体:池田郡,大野郡の一部”となっており、“一部”がどの町村なのかを具体的に示す記載はありません。
池田郡は全域が揖斐郡になったからまだよいのですが、それまで大野郡に属した村、例えば合併で生まれた大野村[68561]や、この時には合併しなかった西根尾村[68442][68549]が、揖斐郡と本巣郡のいずれの郡になったのかという、変遷情報を知ることができません。

一つの対処法は、法律に列挙された44町村を追加記載することでしょう。
しかし、市町村変遷情報は、時系列を遡ってきたという構築の歴史があり、利用者の視点も現在に原点があります。
利用者にとっては、むしろ現在に近い時点からの遡及利用に便利な記載の方がありがたいと思われます。

すなわち、過去の大野郡に属した村々がどうなったかよりも、明治30年4月に新編制された揖斐郡の各町村が、同年3月以前に何郡・何村だったのかを知りたいのです。

具体的には、揖斐郡設置詳細データには、下記文案のように記載して、その関係を説明したらどうでしょうか。
--------------------------------------------------------------
(1)大野郡から単独で揖斐郡になった町村:横蔵村、北方村、揖斐町、清水村、豊木村、
(2)池田郡から単独で揖斐郡になった村:徳山村、春日村
(3)大野郡内の合併を伴なって揖斐郡になった村:長瀬村、谷汲村、大和村、西郡村、鶯村、富秋村、大野村、川合村
(4)池田郡内の合併を伴なって揖斐郡になった村:久瀬村、坂内村、小島村、養基村、宮地村、本郷村、八幡村
(5)池田郡内の村と大野郡の村との合併:池田村
---------------------------------------------------------------

(1)と(2)、つまり明治30年に合併を伴なわずに郡だけが変更された7町村、例えば大野郡揖斐町→揖斐郡揖斐町については、上記のように記載するにより、本来は必要と思われる「郡変更」のレコード( 例:安代町 )を省略することができるでしょう。
(3)〜(5)に列挙した村(合計16村)については、廃置分合に関する個別詳細データが入力済みで、これを参照することにより、合併前の村を知ることができます。個別詳細データの側に“揖斐郡に変更”を追加することは前報[68561]の末尾に記しました。

揖斐郡23町村から逆行して、明治30年以前の95町村(大野郡44町村、池田郡51村)とを関係付ける。
上記のスタイルの資料は、原資料(法律や県告示)の単純な引き写しからでは困難であっても、Excelを使う 88さん の作業手順[67517]ならば、実現は可能であると期待しています。

同様に、(旧)本巣郡(65町村)・席田郡(8村)・方県郡の一部(10村)と大野郡の一部(18村)からなる、(新) 本巣郡設置詳細データ に記載する説明案。
旧101町村を列挙する代りに、新23町村で示しています。

(1)本巣郡のまま単独を維持した町村:文殊村、北方町
(2)大野郡から単独で本巣郡になった村:西根尾村
(3)方県郡から単独で本巣郡になった村:網代村、七郷村
(4)本巣郡内の合併を伴なった村:中根尾村、東根尾村、外山村、山添村、一色村、土貴野村、真桑村、生津村、本田村、穂積村、船木村、牛牧村
(5)大野郡内の合併を伴なって本巣郡になった村:弾正村、川崎村、鷺田村
(6)方県郡内の合併を伴なって本巣郡になった村:西郷村、合渡村、
(7)席田郡全体が合併して1村になり本巣郡になった村:席田村

結局のところ、美濃国大野郡は、概ね根尾川を境に西側が揖斐川上流域の池田郡と共に揖斐郡へ、根尾川東岸を主とする一部が(新しい)本巣郡へと、2つの郡に分割統合されました。
本巣郡に移行した区域のうち、大野郡最南端の平野部が上記(5)です。弾正村は真正町を経て本巣市に、川崎村と鷺田村は巣南町になっています。
上流部では、揖斐川との分水嶺が郡の境界になり[68549]、根尾川西岸の西根尾村が本巣郡になりました。上記(2)。

[68593] 2009 年 2 月 12 日 (木) 15:11:13 hmt さん
 美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (7)岐阜県内に2つある大野郡の取り扱い
hmt 両白山地の三県境と大野

大野郡をテーマにしたシリーズ ですが、その内容は、当初の地誌的な話題から、市区町村変遷情報への提言に移ってしまいました。
もう少し続けます。

[68442] 88 さん
岐阜県大野郡には美濃国大野郡と飛騨国大野郡があります。例えば、大野郡西根尾村(現本巣市の一部)は、美濃国大野郡、大野郡高山町(現高山市)は飛騨国大野郡です。

もちろん実質的に別々の郡なのですが、市町村制施行時の情報・岐阜県 では両者が区別されていないので、大野郡73町村の漢字コード順配列(#601〜#673)では、<美濃国>大野郡の62町村と<飛騨国>大野郡の11町村とが入り乱れています。

このような例こそ、地理的名称である旧国名を記載して区別すべきなのかもしれませんが、もし記載するのであれば他県分も一斉に編集作業するべきでしょうし、・・・。

大野郡に国名を記載するとしても、他県分を含めて国名の入った様式に統一する必要はないと思います。

同じ明治30年4月1日施行の法令ですが、 岐阜県下郡廃置及郡界変更法律ではすべての郡が「国」を入れた表記になっていたのに対して、町村の廃置分合を定めた 明治30年岐阜県告示第58号 では、前後の安八郡や池田郡には国名が付けられていないのに、“美濃国大野郡”と書いて、“飛騨国大野郡”(103コマ)と区別しています。

岐阜県内で同名という特別の事情を考慮して、両者を区別する必要のある大野郡だけには「国」を付ける。

このように、表記様式の統一にとらわれず、必要な場合だけ符丁を付けて区別するのは合理的な対処法であると思います。

スケールは小さくなりますが、埼玉県の町村制施行 に際して、北足立郡内で同名という特別の事情のある根岸村・別所村などを区別するために、『浦和領』などの符丁を付けて誤認を防止した例がありました[68339]

明治30年に岐阜県内の大野郡に付けられた国名は、あくまでも所在地を示す目的の「符丁」として使われており、地方行政区画の一部とは考えられません。
『浦和領』別所村の場合は、小さな字の『肩書き』で「符丁」であることを示していました。
同名の郡の区別をする今回も、例えば「岐阜県<美濃国>大野郡」・「岐阜県<飛騨国>大野郡」のように記して、例外的に使われた「符丁」であることを示しておけば良いのではないでしょうか。

ここで、郡の配列について。
市区町村変遷情報の配列の第1順位は日付であり、第2順位は原則として変更種別であるように思われます。
従って、行政区画や自治体の配列が問題になるのは、同一日付に同一種別で、多数のレコードがある場合に限られるでしょう。

近代の郡の配列の基本になるものは、明治11年(1878)に行政区画として復活した郡の配列でしょう。
もっとも、郡区町村編制法にも、新編制による郡を示した明治13年太政官第22号布告別冊[62795]にも、全体の配列表はありません。それを見ることができるのは「郡区町村一覧」[62815]です。

これを見ると、岐阜県美濃国22郡は県庁所在地周辺の3郡(厚見・各務・方県)を筆頭に、美濃南部(羽栗・中島・海西・下石津・多芸・上石津)を西へ進み、北に転じて美濃西部(不破・安八・大野・池田)から、本巣・席田・山県・武儀・郡上・加茂・可児・土岐・恵那と東へ進みます。
飛騨国3郡はその後。これも中心の大野郡が筆頭で、南の益田郡、北の吉城郡という順序。

明治30年(1897)の再編制で岐阜周辺が稲葉郡、南部は羽島郡・海津郡・養老郡に統合され、西部にも揖斐郡が生まれるなどの変化があり、美濃15郡・飛騨3郡になりました。

さて、1968年に自治省が市町村コード導入しました。この時に、(既に自然消滅していた稲葉郡を除く)羽島郡以下の17郡に所属する町村について、明治30年の郡の順番を維持したまま町村コードが付与されました。但し、飛騨3郡は南から北に変更。

市町村コードそのものは、多数の市が存在するために、県内の地域的順番として役に立たない情況になっていますが、明治10年以来の「郡の順番」は、ほぼ維持されて現代に至るわけです。
なお、古代の「郡の順番」例えば『和名抄』の順番は、およそ東山道の経路沿いに、西から東へとなっていました。

前記のように、市町村制施行時の情報では、岐阜県内25郡(大野郡を2と数える)が ほぼ漢字コード順に配列されていますが、1897.04.01の変更種別「新設」(一覧表 #22〜#189の168件)の配列は異なります。

これが、「幕末以降」順[67517] を反映したものか否かは知りませんが、「幕末以降」は この本が作られた当時の市町村コード順を基礎として、これに統合された旧市町村がぶら下がる構成です。郡部よりも前に記されている市部の旧町村があるので、地域順が乱れています。

[68594] 2009 年 2 月 12 日 (木) 18:23:46 hmt さん
 美濃・越前・飛騨の「大きな野」 (8)郡変更を伴なう合併 [68561] の補足
hmt 両白山地の三県境と大野

[68561]で、明治30年に<美濃国>大野郡内の廃置分合(5村合併)と郡変更とが同時に行なわれたケースを取り上げて次の提案をしました。
1897.04.01 の“大野郡大野村”は、“揖斐郡大野村”に改めた方が実態にかなっている

元の記事を書いた時に類例として挙げたのは地方自治法時代になってからの遠隔地の事例だったのですが、もっと時代も場所も近い事例がありました。

明治23年郡制よりも前になりますが、町村制施行時の郡変更・合併について、同じ岐阜県揖斐川沿いの事例が、最近取り上げられていました。

[66843] 88 さん
池田郡徳山村
暫定的に試行的に「郡変更」を変更種別に加え、合併を伴う場合は「郡変更/新設/村制」(中略)と修正しました。

この事例は、大野郡徳山村など揖斐川最上流部沿い4村が池田郡に変更され、同時に支流沿い3村(こちらは以前から池田郡)との7村合併が行なわれて、池田郡徳山村が成立したもので、[68549]で自分も取り上げた際に、変遷情報 をリンクしていました。
明治22年になると、揖斐川最上流部の徳山村など4村は大野郡から池田郡に変更の上、池田郡徳山村として統合、町村制が実施されました。

[68561]の提案は、既に実行されている明治22年徳山村のケースと同類の、郡変更と新設合併のデータ統合です。
対象になる町村は、[68580]をご覧ください。
揖斐郡関係が(3)〜(5)の合計16村、本巣郡関係が(5)〜(7)の合計6村です。

[76804] 2010 年 11 月 17 日 (水) 18:43:32【2】 k-ace さん
 千葉県と福井県と和歌山県の最高峰
hmt 両白山地の三県境と大野

こんばんは、k-aceです。

八幡の主婦、全都道府県の最高峰を制覇(京都新聞)
ニュース自体はタイトルの通り。「八幡」は京都府八幡市のこと。
(記事から一部引用)
最高峰は、県境の4か所を含む43か所。百名山と重なる山を除くと、あと23か所あった。日帰りできる低い山ばかりだが、百名山と違って情報が少ない。現地の役場に林道の状況や登山口を聞き、前泊する宿や温泉を探した。
仲間と山頂を目指し、標高を記した山名板と一緒に記念撮影して専用のアルバムに収めた。最も低かったのは千葉県の愛宕山(408メートル)。航空自衛隊の基地内にあり、事前に申請して、隊員の同行で頂上に立った。
43番目は福井県大野市の越前三ノ峰(2095メートル)。最高峰かどうか疑義があったが、ごく最近、「昇格」した。
千葉県最高峰の「愛宕山」に関しては、[37154]NTJ会長さんの記事がありますが。
各都道府県の最高峰の中で一番低い山である愛宕山が、航空自衛隊峯岡山分屯基地の中にあり、唯一自由に行けない都道府県最高峰であることに驚き。futsunoおじさん、「自治体の最高点」コレクションの愛宕山(千葉県及び南房総市)の参考情報の欄に良ければ「航空自衛隊峯岡山分屯基地」と。

さて福井県最高峰の「疑義」とは何ぞや?ということで調べてみました。
福井県最高峰である大野市(・高山市境?)の「越前三ノ峰」。「自治体の最高点」コレクションには「三ノ峰 南方」。[29535]futsunoおじ[sutekinaおじ]さんには「福井県最高点:打波の頭 2,095m(二ノ峰 1,962m とする案もある)」とあります。
こちらのHPを見ていると、
山と渓谷社の「1994年1月別冊」と「登山ガイド福井県の山」の記述に福井県の最高峰は二ノ峰と有りますが、国土地理院の刊行物には「三ノ峰・主峰の南側・2095m」と有ります、この打波ノ頭(2095m・1/25000では標高のみ記載)は確かに三ノ峰のコブと云えない事も有りませんが、私の勝手な論理ですが福井県最高峰ではないかと思います、これには色々の理由は有ると思います、先ず、打波ノ頭は2万5千分の地図では標高の記載は有りますが、名称が載って居りません(私の浅薄な知識では国土地理院の地図で、○○ノ頭、○○谷ノ頭の様な名前は山頂名として認めないのでは?)ので止むを得ないのではと思いますが、47都道府県最高地点で秋田県は鳥海山の中腹、大阪府は金剛山の中腹ですが、打波ノ頭(2095m)は、証拠写真の様にはっきり山頂を形成して居ります 、
とあり、どうやら最高「峰」ということに「疑義」ということか?と解釈。
で、「越前三ノ峰」という名前はどこから?と調べてみると大野親岳会
大野親岳会では、三ノ峰避難小屋の南側ピークについ
て、『越前三ノ峰』と命名しました。
県内の最高地点です。地籍は「三ノ峰」ですが、これまで定着した名称がなく、「三ノ峰」とも、「打波谷の頭」とも呼ばれていました。しかし、三ノ峰(2130m)のピークは、岐阜・石川県境で、福井県ではなく、打波谷の頭は、広く通用する名称ではありません。だから、県内の最高峰は、ニノ峰(1962m)とする人も少なくありませんでした。
 日本百名山を登り終えた人たちが、次に目指すのは、各県の最高峰だそうで、「福井県の最高峰はどこか」との問い合せも多くあります。そのためには、全国に通用する名称が必要だと考え、命名しました。広く、親しまれる事を願っています。
今年(平成19年)5月には、ささやかな表示板を取り付けました。
大野親岳会が3年前に命名されたようです。
ただ、ごく最近「昇格」というのがよく分からないのですが。

そういえば、和歌山県の最高峰である「龍神岳」(田辺市(旧龍神村)・十津川村境)も
Wikipedia(龍神岳)
従来は護摩壇山が和歌山県の最高峰とされてきたが、平成12年に、隣にある無名の山のほうが約10m高いことが判明し、田辺市が名称を募集した結果、平成21年3月3日、「龍神岳」と命名された。
ということがありましたね。

[76805] 2010 年 11 月 18 日 (木) 00:24:30 futsunoおじ さん
 最高峰、最高点
hmt 両白山地の三県境と大野

[76804] k-ace さん
「自治体の最高点」コレクションの愛宕山(千葉県及び南房総市)の参考情報の欄に良ければ「航空自衛隊峯岡山分屯基地」と。

情報ありがとうございます。少し時間がかかりますが追加しておきます。

最高峰の「峰」とは何を持って峰とするのか難しい場合があります。斜面にある小さなコブは峰とは言わないのか?, どれくらいの大きさであれば峰なのか? ・ ・ といったことですが。


日本百名山を登り終えた人たちが、次に目指すのは、各県の最高峰だそうで (以下省略)

次には「二百名山」や、様々な百名山に向かう人もあるようです。但し二百名山というのは百名山より難易度が高い山も多い事が知られています。
「三県境点」が山である場所も多いので、ここを訪れるのも興味深いと思います。なお[76741]-[76742]の三県境点改訂版を「県境の交通路」コレクションの最後に付録として押し込んでみました。

[76807] 2010 年 11 月 18 日 (木) 16:51:47 hmt さん
 大野市にある 福井県最高峰の 「越前三ノ峰」は 三県境・三国境から 少し外れている
hmt 両白山地の三県境と大野

hmtマガジンでは、筑波山オフ会2010の翌日訪問予定の 渡良瀬遊水地−4県が集まる境界地域 を特集しました。
この付近には、平地(M11)と渡良瀬川水面(M09)と江戸川水面(M10)との3つの三県境がありますが、全国に44ある三県境の大部分は山岳地帯です。

全三県境については、2004年に作成された futsunoおじ さん のリストが、その後の市町村の変化に対応して[第7回オフ会記念版][76741][76742]として改訂され、「県境の交通路」コレクション の末尾にも収録されています。
前記の三県境番号は、これに従っています。

三県境と関連深いアイテムとして三国境があり、また 県の最高地点も、三県境と一致する場合があります。
三国境については、みやこ♂さんの 「三国」コレクション があり、私も 国の隣接関係 というシリーズで触れたこともあります。
futsunoおじ さん は、三国境点と三県境点の比較[72232]もまとめており、自治体の最高点コレクションも作成済みです。

これらをふまえて、最近の話題。

[76804] k-ace さん
さて福井県最高峰の「疑義」とは何ぞや?ということで調べてみました。
[76805] futsunoおじ さん
最高峰の「峰」とは何を持って峰とするのか難しい場合があります。斜面にある小さなコブは峰とは言わないのか?

「自治体の最高点」コレクション福井県 にリンクされている ウオッちず を見ると、2095mの「コブ」は、三ノ峰の南にある福井・岐阜・石川の三県境点から少し外れていることがわかります。
このコブが福井県の最高点であることは疑いないが、これを福井県最高峰と呼んで良いかどうかという問いかけですね。

k-ace さんのリンク記事によると、大野親岳会が命名した「越前三ノ峰」は、2007年4月に大野市役所・福井県山岳連盟の承認を得ているようですから、いずれは国土地理院の地形図にも正式採用されること、ほぼ確実と思われます。
ごく最近「昇格」というのは、このことでしょう。

ところで、県境の交通路コレクション福井県岐阜県 の始点(石川県との3県境点) M22 としてリンクされている mapionでは、拡大してみると、このコブの位置が 三県境点になっています。おそらく 「少し外れている」 ウオッちずが正しいのでしょうが。
futsunoおじさんは、mapionを使用しながらも、ウオッちずの三県境点である登山道上を 矢印で指示していることがわかります。

この「越前三ノ峰」から少し北の加賀・飛騨国境には白山があり、南から西に連なる越前・美濃国境をたどれば能郷白山に至ります。「両白山地」という自然地名は、この2つの「白山」に由来するのですね。



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