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特集

横浜1 開港前後

hmtマガジン


落書き帳オフ会番外編が横浜で行なわれました。
たくさんある落書き帳過去記事に残されている 160余年に及ぶ横浜の姿を探りながら、まとめ記事を整理しています。
シリーズ「それは黒船から始まった」と、その中で引用した主要記事などを併せ、hmtマガジンのテーマ「都市」の中に新しい特集を2つ作ることにしました。

この特集は「横浜1 開港前後」です。

大部分のマガジンにおいてこれまで使ってきた記事番号順と違い、歴史的出来事の年代を基本に並べています。
下記は、今回の4つのまとめ記事を見出しとして利用し、関連過去記事を並べた開国・開港関連年表です。
マガジン未収録記事も含んでいます。必要に応じ、まとめ記事からの番号リンクもご利用ください。

(1)開港への序章 [91103] 記事集:欧米人との出会い 【嘉永6年までの 横浜登場前史】
1543年 南蛮人 種子島に鉄砲伝来
1600年 紅毛人 リーフデ号漂着(三浦按針とヤン・ヨーステン)
1702年 漂流民 伝兵衛がロシア皇帝に謁見、1783年 大黒屋光太夫
1792年 ロシアからの使者 ラクスマン、1804年 通商交渉を再開したレザノフは期待を裏切られた
1806年 文化露寇  これより 1813年のゴローニン、高田屋嘉兵衛の釈放まで 日露衝突時代
(1815年 ナポレオン戦争終結 イギリスを抑え込む大陸封鎖成功せず)
(1825年 イギリス機械輸出一部解禁 この頃以降、産業革命はイギリスから欧米諸国に広がる)
(1840-1842年 アヘン戦争)
1844年 日本との貿易を独占していたオランダも 国際協調に転向 通商開放政策を忠告
1846年 ビッドル浦賀来航
(1848年 欧州各国の革命でウィーン体制崩壊 米国ではカリフォルニアの金鉱発見)
1853年 ペリー浦賀来航、プチャーチン長崎来航

(2)1854年のペリー条約 と 1858年のハリス条約 [91104] 横浜の初舞台
1854年 品川台場、ペリー横浜来航、日米和親条約、プチャーチン下田来航、安政東海地震
1858年 米国など5ヶ国と 修好通商条約による開国を受け入れ

(3)神奈川と横浜 [91005] 開港場の地名問題 条約上の建前は神奈川、実務上は横浜
1859年 横浜開港 神奈川奉行所の管轄
1860年 堀川を開削、開港場は水面で囲まれた「関内」となるが、遊歩区域に出たら生麦事件(1862)
1868年 政権交代 開港場の管轄が横浜裁判所になったが、すぐに神奈川裁判所>神奈川府>神奈川県と改称

(4)外国人居留地 [91167] 中華街←山下居留地←横浜新田
(1859年 横浜開港により、横浜居留地は未完成状態で機能し始めたと思われる)
(1862年 生麦事件の現場は居留地内でなく、遊歩地域内)
1863年頃 山下居留地完成 1867年 山手居留地
(1894年 日清戦争開戦直前 日英通商航海条約調印 発効は内外人雑居準備期間を経た5年後)
1899年  日米通商航海条約発効 外国人居留地廃止


記事数=25件 更新日:2016年8月8日
記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[91103]2016年8月5日
それは黒船から始まった (1)開港への序章 hmt
[77711]2011年2月22日
北から訪れた異国人との出会い (3)オランダの忠告、アメリカ艦隊登場 hmt
[15871]2003年5月25日
アメリカ地理雑学2万マイル:(4)MA州ニューベッドフォード 〜東海岸の港町と日本との意外な関係 太白
[78654]2011年6月28日
世界遺産になる小笠原群島 (2)1830年の移民団から 1876年に国際的に認められた領有まで hmt
[91104]2016年8月5日
それは黒船から始まった (2)1854年のペリー条約 と 1858年のハリス条約 hmt
[80264]2012年2月9日
東京臨海部の陸地化 (10)品川台場 hmt
[77717]2011年2月25日
北から訪れた異国人との出会い (4)プチャーチンが来日して、日露和親条約を結ぶ hmt
[65167]2008年5月18日
数えてみたら,今年は安政155年 Issie
[28611]2004年5月25日
横浜の開港記念日 N-H
[70310]2009年5月27日
横濱地図博覧会2009において 完全復元伊能図を展示 hmt
[91105]2016年8月5日
それは黒船から始まった (3)神奈川と横浜 hmt
[18367]2003年7月16日
Re:県名と県庁所在地が一致しない理由 Issie
[20917]2003年10月12日
埼玉にない埼玉県庁 hmt
[54351]2006年10月6日
神奈川・横浜(1)横浜の居留地は、文字通りの「関内」だった hmt
[54352]2006年10月6日
中村川と堀川について N-H
[54388]2006年10月9日
神奈川・横浜(2)神奈川奉行所・条約改正 hmt
[54415]2006年10月12日
神奈川・横浜(3)外国人遊歩区域 hmt
[54421]2006年10月13日
神奈川・横浜(4)県域の変遷 hmt
[91167]2016年8月8日
それは黒船から始まった (4)外国人居留地 hmt
[57730]2007年4月3日
警察署の名称 N-H
[65179]2008年5月18日
中華料理よりも洋服仕立業と理髪業が多かった横浜中華街 hmt
[65180]2008年5月18日
横浜中華街の区画のずれ N-H
[65181]2008年5月18日
Re:横浜中華街の区画のずれ むっくん
[65182]2008年5月18日
Re^2:横浜中華街の区画のずれ Issie
[65183]2008年5月18日
横浜3題 hmt


[91103] 2016 年 8 月 5 日 (金) 17:47:50 hmt さん
 それは黒船から始まった (1)開港への序章
hmt 横浜1 開港前後

落書き帳オフ会番外編が横浜で行なわれました。
1854年まで無名の小漁村だった横浜が歴史にデビューした舞台。それは 黒船艦隊により浦賀に来航して開国を求めたペリーが、翌1854年再来して幕府との間で結んだ 日米和親条約でした。

でも、横浜にとり決定的に重要な転機となったのは、領事として下田に赴任してきたハリスとの交渉により結ばれた 日米修好通商条約 に基づく開港でした。その日付は安政6年旧暦6月2日[28611]

この1859年から 150周年にあたる 2009年に開催された博覧会の愛称は「開国博Y150」でした。
横浜での地方博覧会であるため、「日本開国150年」よりも「横浜開港150年」に重点が置かれた催しであったようです。実際、「開港博」と誤記されることもしばしば。[70310]

それはさておき、横浜オフ会を機会に hmtマガジンに横浜の記事を集め、開港場という特殊な地位から始まり 約160年の歴史を刻んだ横浜の姿を概観するシリーズを書いてみたいと思いつきました。

いまさら言うまでもないことですが、横浜の地理的特徴を一言で言えば「首都に近い港」であり、歴史的にも海外の諸国と接触する海運の拠点としての役割を果してきました。
外国人居留地、生糸の輸出、赤レンガ倉庫などのキーワードが思いつきます。かつての横浜は、華やかな客船を主役とする「日本の表玄関」でした。

時代と共に状況は変り、特に東京港の開港と空路の発達は、横浜に大きな影響を及ぼしました。
しかし、 横浜港自体は 健在です。そして、造船や鉄道貨物施設の跡地が「みなとみらい」地区へと生まれ変った横浜は、首都圏内の大都市として機能しています。

1853年の浦賀、その翌年の横浜に登場する主役は 米利堅合衆国水師提督【東インド艦隊司令官】マシュー・ペリーが率いる「黒船艦隊」でした。木造船ですが黒色塗装を施した外国軍艦は、白木の船だけを見慣れた目には異形の印象を与えたのでしょう。
それよりも日本人を圧倒したのは、旗艦「サスケハナ号」など一部の船が蒸気機関で外輪を駆動することで、黒船4隻が帆走せずに進む姿【曳航も併用】を見せ付けたのでした。まさに米国では「Steam Navyの父」と呼ばれたペリーの面目躍如です。

実は 米国からは ペリー艦隊よりも前に 帆船2隻のビッドル艦隊が派遣されています。
アヘン戦争(1840-1842)でイギリスに敗れた中国(清国)は、1844年に米国との間にも修好通商条約を結ばされており、ビッドルはこの望厦条約の批准書だけでなく、清国駐在の米国公使への対日外交折衝開始指令書も持参していました。既に公使は帰国後でしたが、ビッドルは条約締結の希望を伝えるために、弘化3年(1846)マカオから浦賀に来航しました。

日本側は 前年に老中首座が水野忠邦から阿部正弘に変った政権交代の後でした。国民の大多数は知らないことでしたが、政府当局は 阿蘭陀風説書【長崎出島のオランダ商館長による海外状況報告書】や、1844年のオランダ国書による忠告[77711]により このような海外情勢について、ある程度の知識を得ていました。

「阿部政権」のこの時の対応は、従来の拒絶姿勢を変えずに当座をしのぐというものでした。
正規の交渉権限を持っていなかったビッドルも 薪水・食料など提供を受けて引き下がりました。
間違いによるトラブルが発生しかけたが、大事には至らず。

横浜が歴史に登場する前も含めて、若干の予備知識を 開港への序章 として記してみました。

蛇足
米利堅(メリケン)という言葉は、嘉永7年に結ばれた日本国米利堅合衆国和親条約[1805]のタイトルに使われるなど、戦前には広く使われていました。
もっとも、この事例「米利堅合衆国」は 法令全書が編纂された明治20年頃の用法と推察します。
幕末の本文では「亜墨利加合衆国」となっています。

落書き帳内では「アメリカ」を意味する用例は少数で、最も多い使用例は神戸のメリケンパークで7件でした。

私の記憶に残っているのは、国産の「うどん粉」と異なる高品質の小麦粉を誇示する「メリケン粉」という言葉でした。真っ白で細粒の小麦粉。家庭でケーキを焼く薄力粉が主だったように思います。参考
なお、食用とは無関係の「メリケンを食らわせる」という用法もありました。参考

[77711] 2011 年 2 月 22 日 (火) 19:51:04 hmt さん
 北から訪れた異国人との出会い (3)オランダの忠告、アメリカ艦隊登場
hmt 横浜1 開港前後

日本人とロシア人との出会いの歴史は、17世紀末に カムチャツカで発見された 伝兵衛に始まりました[77689]
18世紀末には 最初のロシア使節が 日本に派遣され、19世紀初頭にかけて 日露両国の 公式な接触が行なわれたものの(平川論文 の第二段階)、通商合意に至らなかっただけでなく、外交上の不手際もあって、襲撃事件やその報復という、不幸な第三段階を招きました。[77693]

ゴローニンと 高田屋嘉兵衛とが 釈放されて、こじれた紛争が 一応解決した 文化10年(1813)から 40年後、1853年の プチャーチン来航により、日露関係は ようやく新たな段階を迎えます。
しかし、第四段階に入る前に、日露関係が停滞していた この40年間に 大きく変った世界の情勢、日本の環境を認識しておく必要があります。

…というわけで、本筋のロシアから少し離れます。

日本との通商を求める働きかけは、イギリス人ゴルドンの 浦賀来航(文政元年=1818)など、ロシア以外の欧米諸国からも ありました。しかし、幕府は 通商拒否の姿勢を崩さず、1825年には 異国船打払令を出します(葵文庫)。
1837年に 漂流漁民を連れて浦賀に来航した アメリカの貿易船モリソン号も、砲撃により 追い払ってしまいました。

このような 世間知らずの行動をしていた日本に対して、忠告してくれた国があります。
17世紀以来、欧米と日本との貿易を独占していた オランダです。
レザノフによる通商交渉[77693]の時代には、長崎のオランダ商館長による 通商特権継続の請願を出して、まだ日本市場独占体制を 維持する方針であった オランダですが、19世紀も半ばになると、国際協調へと舵を切りました。

今爰ニ 観望シカタキ一大事起レリ、素ヨリ両国ノ交易ニ拘ルニ非ス、貴国ノ政治ニ関係スル事ナルヲ以テ、未然ノ患ヲ憂ヒ、始テ殿下ニ書ヲ奉ス、伏テ望ム此忠告ニ因リテ其未然ノ患ヲ免レ給ハン事ヲ

オランダ国王は、目先の日蘭貿易の利益を捨て、日本に対して 諸外国との通商を開くように忠告する国書 を送り、世界情勢は変った、日本が鎖国を続けることは 無理であると説き、清国の二の舞にならぬようにと 戒めてくれました。1844年のことです。

“今ヲ距ルコト三十年前、欧羅巴ノ大乱治平セシ時”つまり ナポレオン戦争終結後の ヨーロッパが 産業革命の時代に入ったこと、清国は アヘン戦争(1840-42)に敗れ、“国人数千戦死シ、且数府ヲ侵掠敗壊セラルヽノミナラス、数百万金ヲ出シテ火攻ノ責ヲ贖フニ至レリ”と説き、“今亦此ノ如キ災害ニ罹リ給ハントス”る貴国も、“異国人ヲ厳禁スル法ヲ弛メ給フヘシ”と忠告しています。

幕府は 天保13年(1842)に、異国船打払令を 少し緩和して、薪水供給だけは認めていました。
しかし、その水野忠邦も 既に力はなく、阿部正弘政権の日本は、折角のオランダの忠告にもかかわらず、諸外国に対して 通商の門戸を開くことには 踏み切れませんでした。
弘化3年(1846)の アメリカのビッドル艦隊浦賀来航 の際も、拒絶の姿勢を保ち、なんとか当座をしのぎました。

ここで 対日外交に新たに登場した アメリカ合衆国。
ビッドル来航の 1846年に始めた メキシコとの戦争で カリフォルニアを獲得し(1848)、引き続く ゴールドラッシュにより 太平洋岸の人口が急増してゆき、海の彼方の 日本への関心も 一段と深くなってきます。
そして、日本開国については、1846年の失敗経験をふまえて 更に準備を整え、7年後 ペリー艦隊の成果に結びつけたのでした。

[15871] 2003 年 5 月 25 日 (日) 07:08:30【4】 太白 さん
 アメリカ地理雑学2万マイル:(4)MA州ニューベッドフォード 〜東海岸の港町と日本との意外な関係
hmt 横浜1 開港前後 ARC Geographical Topics of the U.S.-アメリカ合衆国の地理-

 マサチューセッツ州の南端、ロードアイランド州境近くに、ニューベッドフォード(New Bedford)市があります。今回は、この街に焦点を当てたいと思います。
(地図)
http://maps.yahoo.com/py/pmaps.py?Pyt=Tmap&ed=7xDCPOp_0To_G8ToYZCr76unchFdapj1us41QobKVAr5JQQyvWoBWNbWnu7X3TueKzsQNzqYcfYZ8rOKThvOqC.GbQ--&csz=New+Bedford,+MA&country=us&cs=4&name=&desc=&poititle=&poi=&uz=02740&ds=n&BFKey=&BFCat=&BFClient=&mag=5

 突然ですが、日本人に「歴史上のアメリカ人で知っている人を挙げてください」という質問をしたら、1位は誰になるでしょうか?
 ケネディ? リンカーン? エジソン? アインシュタイン? エルビス・プレスリー?

 私は、実は「ペリー提督」なのではないかと思っています。日本史にも出てきますし、開国を迫った黒船のインパクトもあります。また、黒船来航という史実が、彼が「アメリカ人」である印象をより強めていると考えられます。

 さて、そのペリーですが、彼が日本に来たわけは、大きく分けて2つあると言われています。1つは、アメリカ製の繊維を有望市場としての中国へ輸出するにあたり、その寄港地(補給基地)として日本が絶好の地理的位置にあったこと、もう1つは、北太平洋における捕鯨船の漂流船員救助と船舶の寄港地を求めたとされています。

 現在は「反捕鯨」の急先鋒であるアメリカですが、19世紀には、照明用などの油を採取するため、世界最大の捕鯨国でありました。その、最大の捕鯨基地が、ニューベッドフォードでした。1850年代、アメリカ西海岸はようやく開拓がはじまった頃で、大陸横断鉄道や太平洋航路は整備されていません。ですから、港湾基地は東海岸にありました。ニューベッドフォードを出た捕鯨船は、アフリカの南端(喜望峰)を回り、インド洋に進出していました。インド洋で鯨資源が枯渇しはじめた1850年代には、地球をぐるっと回った北大西洋も漁場となっていました。

 ペリー自身も、日本まで太平洋を渡ってきたわけではなく、1852年11月にバージニア州のノーフォーク(現在も海軍基地があります)を出港したあと、ケープタウンやスリランカ、上海などを経由し、約半年かけて浦賀にやって来ています。上海寄港後沖縄や小笠原諸島に寄っているのは、捕鯨船の補給基地の確保という意図を裏付けるものと言えるでしょう。
 なお、ペリー本人は、ニューベッドフォードの南西30kmほどにあるロードアイランド州ニューポートの出身であり、この地に彼の銅像があるようです。
http://explorer.road.jp/us/special/mperry/index.html

 さて、捕鯨問題を主目的にやってきた黒船ですが、当のアメリカではその後、1859年に石油が発見され、優れた照明用燃料として急速に普及していきます。対して、アメリカの捕鯨産業は19世紀末にかけて衰退へ向かうこととなりました。
 往時を知るものとして、ニューベッドフォードには現在、世界最大の捕鯨博物館があります。
http://www.whalingmuseum.org/

 もう1つ、幕末、漁に出て漂流しているところをアメリカの捕鯨船に救助された「国際人」ジョン・万次郎は、この地で学んでいます。その縁で、彼の出身地である高知県土佐清水市とニューベッドフォード市は姉妹都市になっています。

[78654] 2011 年 6 月 28 日 (火) 14:47:45【1】 hmt さん
 世界遺産になる小笠原群島 (2)1830年の移民団から 1876年に国際的に認められた領有まで
hmt 小笠原諸島 hmt 横浜1 開港前後

小笠原は 明治13年10月8日太政官布告第44号 で東京府の管轄になり、現在も東京都に属しています。

何を今更?と思われるかもしれませんが、小笠原に最も近いのは静岡県で、県庁所在都市にしても、静岡や横浜の方が東京よりも近くにあります。
実現の可能性は小さかったでしょうが、[76048]の末尾に記したように、小笠原が琉球所属となる可能性さえありました。

それなのになぜ東京府? その答えは [339]Issieさんの記事にあります。
伊豆諸島や小笠原が「東京都」なのは,一言で言ってしまえば「どこも面倒を見てくれなかった」からです。
伊豆諸島は【足柄県を経て】“伊豆の一部”として「静岡県」に編入されました。けれども静岡県はこの離島を管轄することを嫌がって,結局,当時の「東京府」にお鉢が回ってきたわけです。
当時の東京府は,(中略)「府」の権限が弱く,政府の影響力が強かったせいもあったのか,伊豆七島や小笠原を管轄するハメにもなったのかもしれません。

南の島がなぜ「東京」なのか という副題の記事[71887] でも、とりあえず内務省直轄にした小笠原を 「本国化」するために 引き取らせる府県を 選んだ事情に触れました。
内務省直轄以前を更に遡った経緯は、前回リンクした 記事集 のトップ[26683]に記してあります。

明治13年(1880)東京府移管前 50年間の「さかのぼり小笠原史」

明治9年(1876) 小笠原諸島規則を制定し各国にも通達 日本の小笠原領有が国際的に確立
明治8年(1875) 明治丸による小笠原「再回収」
文久3年(1863) 生麦事件(1862)賠償問題による緊張の影響で、日本は小笠原から撤退
文久元年(1861) 小笠原回収の方針を決め、駐日各国公使に通告[10121]→咸臨丸を派遣[26683]
嘉永6年(1853) ペリー、次いでプチャーチンの日本来航[77717] いずれも小笠原経由
天保元年(1830) 欧米人とオアフ島民からなる移民団が定住 無国籍の「南海の楽園?」時代

最終的には日本領になることが確定した幕末〜明治初期ですが、最初に定住したのは日本人ではありませんでした。
1830年に 25人の移民団がハワイ王国のホノルルで結成された背後には、英国領事が関係していました。
しかし英国の支援は、英国の領有宣言(1827 ビーチー)を裏付けるには不十分な状態でした。
入植者は自力で自給自足のコミュニティーを創り上げ、米英露仏の捕鯨船などに飲料水・食料を供給しながら暮しました。

捕鯨船という言葉が出てきましたが、当時の夜間照明の主流は鯨油ランプでした。
ドレークが石油の機械堀りに成功したのは 1859年で、原油を精製した灯油の普及はそれ以後のことです。
鯨の漁場は、大西洋の資源が枯渇した後 太平洋に移り、沿岸から太平洋全域へと拡大。
ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』も、この時代のものでした(1851)。

小笠原に人が定住するようになった背景は、このようにクジラ抜きでは語ることができませんが、ここは 税金のない「南海の楽園」だったのでしょうか? 
そうありたいところですが、警察力の及ばない島では来航する船乗りの勝手気ままな行動を取り締まることもできません。例えば 1850年に米国軍艦が父島を訪れた直前に 婦女拉致事件が起きており、島民たちは海賊的な船乗りからの保護を求めていました。

この時に来た米国軍艦は 14年ぶりでしたが、3年後に琉球から江戸に向う途中のペリーが、英国人がピール島 Peel Island と名づけていた 父島のロイド湾に寄港しました。彼は、ハワイ・小笠原・琉球・台湾等を結ぶ 海上ルートの設営を目指しており、小笠原には その拠点として石炭補給所を設け、この基地の 安全保障も提供する という構想を抱いていました。

ペリーは、短い小笠原滞在中に 島の指導者セボリー Nathaniel Savory([26683]ではセボレー)と会談し、石炭置場用地を 50ドルで購入。島民自治組織ルール作成にも協力。牛4頭など家畜も提供。

[26683]で“領有宣言”と書きましたが、エルドリッヂ著 『硫黄島と小笠原をめぐる日米関係』 37頁の記述は 少し違っていました。すなわち、ペリーは日本訪問後に部下を派遣して 母島諸島(ベイリー島)を調査させ、「合衆国の名の下に正式にボニン諸島を占領し」と記された銅板を掲げたとのことです。
当面は小笠原を占領する姿勢だったペリーですが、後には日本の潜在主権を認める発言をしています(同書p.38)。

小笠原をハワイのような太平洋海運の基地にする構想を持ったのは米国のペリーです。
1854年の条約で下田と箱館、1858年の条約で神奈川・兵庫・長崎・新潟・箱館の五港が約束された 日本の開港、ペリーの死去(1858)、米国の南北戦争(1861〜65)と時代が進むと、ペリー構想自体は立ち消えましたが、彼の『日本遠征記』は小笠原を放置していた幕府に その価値を教える結果になりました。

「決定せず・行動せず」の幕府が、文久元年(1861)に ようやく決めた 小笠原回収[26683]
…我が南海属島 小笠原島渡航中絶の所 今般外国奉行水野筑後守 目付服部帰一等差遣はし 追々開拓の挙に及ばんとす
一時的には撤退、再回収という経過はありましたが、幕府老中安藤信正による 1861年の決定が、潜在主権に留まっていた小笠原を、国際的に認められた 正式の日本の領土[10121] にした 第一歩だったのでした。

[91104] 2016 年 8 月 5 日 (金) 18:05:22 hmt さん
 それは黒船から始まった (2)1854年のペリー条約 と 1858年のハリス条約
hmt 横浜1 開港前後

さて、ビッドルから7年後のペリー。今度は清国に行く ついで というわけでなく、日本について本格的に研究し、フィルモア大統領の国書も携えた正式の使節です。

ペリーの黒船艦隊は有名ですが、太平洋を越えて日本にやってきたわけではありません。19世紀中頃の米国は 米墨戦争(1846-48)【墨西哥=メキシコ】により手に入れたカリフォルニアで金鉱が発見された頃です。サンディエゴに海軍基地ができたのは ずっと後の1907年でした。ホノルルも1900年まではハワイ王国でした。

経路はビッドルと同様に喜望峰経由。出港地は東海岸の海軍基地・ノーフォーク。[15871]太白さん
上海で4隻が集結した後、日本本土に先立ち琉球王国を訪れ、更に小笠原諸島を訪れました。これは日本遠征の目的が開国だけでなく、捕鯨基地の確保もあったからで、これについては[78654]で言及しています。

嘉永の浦賀来航は 4隻のうち2隻が蒸気軍艦。日本のことをよく研究し、大統領の国書も持参した米国の態度に接し、会見した浦賀奉行も相手が本気であることを実感したのでしょう。
12代将軍徳川家慶が病気中で【ペリー退去後、間もなく死去】、受け取った国書の返事は翌年までと先送りしたものの、「阿部政権」の対応もビッドル来航の時とは変わらざるを得ません。

「品川台場」[80264]を築造し、急拵えながらも、翌年には数を増して再来航し 江戸湾に入った米国艦隊に対し、辛くも日本の「海防体制」を示すことができました。

1854年の日米和親条約締結については [77711]に記しましたが、条約調印の場所に 江戸から少し離れた横浜が選ばれた背景には、品川台場の威嚇効果も多少は寄与していたのかもしれません。
林大学頭らの日本側全権との協議が行なわれた応接所は、神奈川宿の対岸にある砂洲の上の漁村、武蔵国久良岐郡横浜村に作られ、これが横浜の初舞台になりました。
アメリカ側の 武力を見せつけながらの協議を経て、嘉永7年(安政元年)3月3日(1854年3月31日)に、横浜村で 日米和親条約(日本国米利堅合衆国和親条約[1805])が締結されました。

でも、この時に開港したのは下田と箱館の2港だけで、条約を結んだ横浜を開港したわけではありません。
下田には米国領事館を置くことを認めたものの、自由貿易を認めたわけでもありません。日米両国が「和親」状態になったと言っても、米国捕鯨船【石油以前には鯨油ランプが使われていました】への食料・水・石炭[61271]などの補給基地として、遠隔地の港への入港を認めるという程度の段階でした。

次の大きなステップは 安政5年で、この年に実質的な開国への道が開かれました。
日米が「修好」だけでなく「通商」段階に進むのは、和親条約によって交渉の座を確保し 安政3年に来日したた米国総領事タウンゼント・ハリスの仕事でした。武力に訴えて清国と争っている英仏が日本に襲来する前に、友好的な米国との間で通商条約を締結する利益。これがハリスの強硬の主張の骨子で、消極的な態度の幕府を説得しました。その成果が 日米修好通商条約です。

ポイントであるアヘン輸入禁止条項はどこに記されているのか? 
日本開きたる港々に於て亜米利加商民貿易の章程第二則の末尾近くに、次の言葉がありました。
阿片の輸入厳禁たり 然るに密商し又其事を謀る輩は阿片一斤毎に15ドルラルの過料を日本役所に納むべし

条約調印は 安政5年(1858)6月19日 アメリカン・アンカレッジに碇泊した軍艦ポーハタン号の上で行なわれました。現在の横浜市金沢区八景島付近の海上です。

余談ですが、このポーハタン号は最大級の蒸気外輪軍艦でした。既に嘉永7年の来航時に この碇泊地に投錨し、ペリーは旗艦をサスケハナ号からポーハタン号に変更しています。日米和親条約で開港した下田では、吉田松陰の密航を拒絶しています。
ポーハタン号は、日米修好通商条約批准書【署名者は もちろん孝明天皇ではなく、14代将軍徳川家茂です】交換に渡米する日本使節団[77630]を迎えるためにも使われました。この航海にはサンフランシスコまで咸臨丸が随行しました。

この条約の結果 開港場になったのが 神奈川・兵庫・長崎・新潟・箱館 、総称して「五港」[51062]です。

…とは言っても、通商条約の調印と開港とが、すんなり実現したわけではありません。

最初のハードルは「勅許」問題でした。
17世紀以来 国政を任されている江戸幕府が 今更「勅許」を求める というのも、考えてみれば 奇妙なことです。
そもそも【19世紀の造語ですが】「鎖国」を決めた 17世紀には、勅許など考えてもいなかった筈です。
天皇のお墨付きがあれば 反対派対策に役立つ という老中首座・堀田正睦【阿部正弘の後任】の甘い見通しが 裏目に出てしまった ということでしょうか。

それはさておき、堀田の上洛中に 政権の実質トップとして 大老職に就任したのが 彦根藩主の井伊直弼です。

もともと開国に消極的だった井伊直弼が、勅許を得ないまま 「日米修好通商条約」を結んだ政権のトップ【注】になってしまったのは、歴史の運命でしょうか。政権運営に反対する浪士たちに桜田門外で襲われ、落命したのは 安政7年=万延元年(1860)3月3日でした。
日米条約に続いて、日蘭・日露・日英・日仏条約も締結されました。総称して「安政の五ヶ国条約」と呼びます。
「安政の仮条約」という呼び名は、誰が言い出したのか知りません。もちろん「仮に結んだ約束」という言い訳が国際的に通用する筈もなく、後の明治政府は 条約改正[54388]で苦労することになりました。
【注】
幕府の形式的なトップは、言うまでもなく 13代将軍徳川家定[80264]ですが、条約調印 約半月後に死去。

[80264] 2012 年 2 月 9 日 (木) 19:06:15 hmt さん
 東京臨海部の陸地化 (10)品川台場
hmt 東京臨海部の陸地化 hmt 横浜1 開港前後

用途面から特筆に値する造成地[80259]と言えば、幕末に江戸防衛の目的で 急遽築造された「品川台場」を欠かせません。

嘉永6年(1853)6月、ペリー浦賀来航という外圧に直面した 幕府老中・阿部正弘は、かねて海防に関する建言を行なっていた 韮山代官 江川太郎左衛門に 調査を命じました。江川は 翌7月に復命して、江戸湾口(観音崎と富津)と内海(品川沖)とに【大砲の】「台場」を設置することによる 江戸湾防備を提案しました。
財政窮乏の幕府としては、三浦半島と房総半島の間に防衛線を設けることは 困難であり、結局のところ採用された計画は 江戸市街部を直前で守る 「品川台場」の築造でした。

台場は 品川猟師町(天王洲アイル)から深川洲崎(江東区東陽)に至る海上に 11基を2列に並べる設計で、黒船浦賀来航の翌々月には着工。
そのうち、第1〜第3砲台の3基は嘉永7年(1854)4月完成というから、2度目の来航時には江戸湾の中にまで入ってきたペリー艦隊に対して、完成に近い姿を見せつけることができたのでしょう。
急拵えの品川砲台の効果であったか否かわかりませんが、米利堅艦隊は 江戸よりも少し南に引き下がり、神奈川宿の対岸・横浜村に設けられた応接所で、日米和親条約を締結した後に、退散したのでした。[77717]参照。

完成した3つの砲台には川越・会津・忍3藩の兵が配備されました。
翌安政2年(1855)には 13代将軍家定が臨席して、砲台の試射を検分したそうです。天璋院篤姫が輿入れする前年のことでした。

完成した海上台場は、上記第1〜第3台場と、それに続いて同じ嘉永7年12月に竣工した第5・第6台場だけです。
第4・第7台場が 未完成のまま工事中止になったのは 同年5月とあります。これは日米和親条約締結により 当面の危機が去ったこと、更には切実な資金不足が原因と思われます。安政東海地震(11月4日)の影響ではなさそうです。
東側の海上に計画されていた 第8〜第11台場は未着工のまま中止。

迅速測図 により、明治初期の状態を示しておきます
左端の海岸・目黒川の河口に、海上台場と同じような「地付台場」が見えます。御殿山下砲台 とも呼ばれ、品川台場の仲間でした。
その名も「品川区立台場小学校」という学校のある一角。ここが 現在も 五角形の街路で囲まれていることは、地図 で確認することができます。

緊急を要した品川台場築造ですから、その資材の調達と輸送は結構大変だったようです。木材は下総国根戸村の御林や八王子付近の鑓水村から調達。相模国の真鶴には「品川台場礎石乃碑」があります。埋立土は、品川の御殿山や高輪の泉岳寺境内など。山土では足りずに、隅田川の浚渫土も使用したとか。

このように苦労してできた品川台場の現状を確認するために、品川台場配置図 を示しておきましょう。

最も恵まれた形で余生を送ることができたのは第3台場で、1928年に 都市公園 として開園しました。
第6台場も 1926年に第3台場と共に国史跡に指定されました。現在はレインボーブリッジの下で野鳥の楽園になっています。
不運にも 撤去されたのは、第2台場(1961)と未完成の第7台場(1965)。

戦後の「東京港改訂港湾計画」による品川埠頭の造成で その中に埋没し、倉庫の敷地になっているのが第5(1962)・第1(1963)の両台場。

同じような境遇の埋立地埋没組で、倉庫やセメントサイロが並んでいた地区になっていたが、バブル景気末期の大規模な都市開発のおかげで、事務所ビルやホテルなどの高層建築物が立ち並び、脚光を浴びているのが、先に紹介した御殿山下砲台のすぐ東にあった 第4台場(未完成)の跡地です。
ここが目黒川河口南(東)側の天然の砂洲を利用して作られた埋立地(現在の東品川2丁目)中に埋没したのは、戦争間近の 1939年でした。
古い地名を現代風にアレンジした「天王洲アイル」という島名が付けられたのは、1990年代初頭に再開発が完成した頃でしょう。
1992年には、東京モノレール「天王洲アイル駅」開業。現在は埼京線とも直通する りんかい線の駅もでき、交通の便利なビジネス街になっています。

この島(アイル)の北東隅にあたる区域が、「シーフォートスクエア」と命名されており、まさに「海の砦」=「海堡」[26206]として利用される予定であった 第4台場の跡地です。

台場と言えば、フジテレビの所在地は 港区台場2丁目。近くには「ゆりかもめ」の台場駅もありますが、もちろん 品川台場跡地 ではありません。
この付近には、第三台場の「台場公園」の他に、お台場海浜公園 があります。
そんなことも「お台場」という言葉のネームバリューに貢献し、地名として拡大解釈されるようになったのでしょう。
東京都港湾局の 臨海副都心紹介 によると、「台場地区」は 「13号地の港区部分 = 住所地名としての台場」 に留まらず、潮風公園のある品川区東八潮の一部にも及んでいるようです。

[77717] 2011 年 2 月 25 日 (金) 19:58:21【2】 hmt さん
 北から訪れた異国人との出会い (4)プチャーチンが来日して、日露和親条約を結ぶ
hmt 横浜1 開港前後

嘉永6年(1853)6月3日、浦賀沖に黒塗りの外輪蒸気船を含む4隻の外国船が来航。いわゆる黒船です。
その正体は、マシュー・ペリーの指揮するアメリカ東インド艦隊で、相模国三浦郡の久里浜に上陸して、日本の開国を要求する国書を浦賀奉行に手渡しました。日本側は、将軍(12代家慶)の病気を理由に、1年間の返答猶予を求め、ペリーは翌年の再来航を約して、6月12日に浦賀を離れました。

ペリーが去った翌月、嘉永6年7月18日に長崎に入港したのが、これも4隻のロシア艦隊です。指揮官のロシア使節は、エフィム・プチャーチン。皇帝ニコライ1世からの国書に記された目的は、樺太・千島の日露国境を定め、日本との交易を開くことでした。

ここで、ちょっとお断りしておきますが、シリーズのタイトル“北から訪れた異国人との出会い”は、必ずしも正しくないのです。
シュパンベルク探検隊[77693]の根拠地は オホーツクですが、その後の外交使節の 出発地は首都のペテルブルクです。
もっともアダム・ラクスマンの経由地はシベリア経由オホーツク。レザノフは南米回り、カムチャツカ。
でも、今回のプチャーチンは、首都を 1852年に出て、喜望峰回り 小笠原経由で、南から日本を訪れたようです。

ペリーの時は将軍の病気を理由に返事を先送りしましたが、今度は 13代将軍家定に代替わりしています。
幕府は、応接掛として 筒井政憲・川路聖謨らを長崎に派遣して、12月から交渉させました。
翌年正月4日まで行なわれた協議で、択捉は日本領、樺太は実地調査の上、再協議するという日本の主張が通りました。
通商条約については、当面締結を拒絶するが、日本が他国と通商を結んだ場合は、ロシアにも同条件で許すということで合意が成立し、ロシア船は 一旦日本を去りました。

さて、対米交渉は1年間待たせたつもりでしたが、アメリカの軍艦は 嘉永7年正月早々から集結し始め、合計9隻もの大艦隊になりました。
ペリーが前年訪れた 浦賀や久里浜は 江戸湾の湾口より外側ですが、今回は 日本の領海深く 江戸湾内に侵入しました。
2月6日から 林大学頭らの日本側全権との協議が行なわれた応接所は、神奈川宿の対岸にある砂洲の上の漁村、武蔵国久良岐郡横浜村に作られ、これが横浜[54351]の初舞台になりました。

アメリカ側の 武力を見せつけながらの協議を経て、嘉永7年(安政元年)3月3日(1854年3月31日)に、横浜村で 日米和親条約(日本国米利堅合衆国和親条約[1805])が締結されました。
力ずくで鎖国の扉を こじ開けた成果である、神奈川条約第2条の主文を写しておきます。
伊豆下田松前地箱館の両港は日本政府に於て亞墨利加船薪水食料石炭欠乏の品を日本にて調候丈は給候為メ渡来之儀差免し候 尤下田港は約條書面調印之上即時にも相開き箱館は來年三月より相始候事

さてロシアですが、以前から続いていたトルコとの争いはエスカレートして、トルコの同盟国のイギリス・フランスから宣戦布告されてしまいました。クリミア戦争です。東洋でもイギリス・フランスの軍艦に攻撃されるおそれもあります。
プチャーチンは3隻を沿海州に残し、自らは新しい旗艦のディアナ号単独で再び来日します。最初はペリーが開港させた箱館に行ったものの、そこでの外交交渉は拒否され、結局は下田に回されて、江戸から来る川路聖謨らと交渉することになりました。

英仏とのトラブルも心配でしたが、災難は別のところからやってきました。日露協議が始まって間もなく、11月4日(1854/12/23)に突然の大地震と津波に襲われたのです。この災害については別稿に記します。

突発的な災害による一時中断はありましたが、プチャーチンは、地震の9日後には外交交渉を再開させ、安政元年12月21日(1855/2/7)には 日露和親条約 の締結に成功しています。フーチヤチン、筒井・川路の名を 画像 により確認することができます。

日米和親条約との最大の違いは、第2条で国境について取り決めていることです。
今より後日本國と魯西亞國との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「ヱトロプ」全島は日本に屬し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亞に屬す「カラフト」島に至りては日本國と魯西亞國との間に於て界を分たす是まて仕來の通たるへし

先に[77647]で ニジェガロージェッツ さんが紹介してくれたロシアの教科書の記述はこれに基づいています。
1855年,初めての露日条約《通商と国境について》【中略】において,サハリン島は《ロシアと日本で分割せず》と承認し,クリル諸島南部は日本領と承認した。

【中略】=(調印された時期はロシアにとってクリミア戦争によって不成功) について。
ニジェさんは、“日本とは無関係であるクリミア戦争への言及など,ちょっとおかしなところがあるものの”と評しておられます。
これは、「下田条約を調印した 1855年の 時代背景の説明」と 単純に理解すれば よいのではないでしょうか。
「1855年は クリミア戦争中で、ロシアにとって 外交的に不利な時代であった。」
それだけのことで、日本との関係や、極東でのイギリスとの覇権争いにまで言及したものと、深読みする必要はないと思われます。

日付について。
ペリーとプチャーチンが再来日した嘉永7年(1854)は、異国との応接に慌ただしい年でしたが、4月には京都大火・内裏炎上、11月には巨大地震と津波に襲われ、災異が続いた年でもありました。そこで、嘉永7年を改めて安政元年と為す という宣下(11月27日)により、改元が実施されました。
日露和親条約は改元後ですから、もちろん安政元年12月ですが、日米和親条約や地震のような改元宣下よりも前の事象も、歴史記録としては嘉永7年でなく安政元年になります。だから安政東海地震。

ところが、日露和親条約が調印されたのは安政元年も押し迫った 12月21日なので、年初の決め方の異なる太陽暦では 1855年になってしまいます。政府が好んで使う「グレゴリオ暦換算」[49122]による表示では、1855年2月7日。
これが、「北方領土の日」[77647] を「2月7日」とする根拠です。
当時のロシアが使っていたのはユリウス暦で、グレゴリオ暦との差は12日ですから、1855年1月26日という勘定になります。ところが、条約の前書には「魯暦第一月廿七日」とあります。なぜ?

[65167] 2008 年 5 月 18 日 (日) 01:34:13【1】 Issie さん
 数えてみたら,今年は安政155年
hmt 横浜1 開港前後

[65163] 日本人 さん
鎌倉は、大仏などの歴史の勉強で、箱根は、宿泊時の宿で、横浜は、中華街と言えばいいのでしょうか?

横浜が中華街だけとは,大変さびしい。
何で横浜に中華街があるかというと,今からちょうど150年前の 安政5年6月19日(西暦=太陽暦では1858年7月29日) に“神奈川沖”に浮かんだアメリカの軍艦の上で「日米修好通商条約」が調印されたのがそもそもの始まりなのですよ。そしてこの条約にもとづいて,翌年の 安政6年6月2日(1859年7月1日) に横浜港が開かれました。なので,横浜市では 6月2日 が「開港記念日」で横浜市立の小中高校(横浜市立大も?)はお休み。来年は,いよいよ「開港150周年」です。
で,もちろん,江戸時代のおしまい以降の歴史で,横浜はとっても大事な町の1つなんですよ。

修学旅行の行き先って,ずーーーーーーーーーっと前に話題になっていた記憶があるのですが,私が小学生だった1970年代,千葉県の習志野市の小学校は日光に行っていましたよ。東北道は岩槻から先しかできてなかったから,千葉からだとバスで 県道船橋・取手線→国道16号→国道4号→国道119号 を延々と走って行きました。船橋ヘルスセンターではない,硫黄のにおいのする温泉に入ったのはこれが初めて。
私が小学校2年生の年までは,学校から京葉道路をはさんだすぐ前が海だった(我が家からも)からか,「臨海学校」という行事はなかったな。逆に,4年生の時から毎年,鹿野山へ「林間学校」のようなものに行きました。学校の(そして我が家の)前の海は干潟だったので,潮干狩りはできたけど泳げる海ではありませんでした。今は陸地になっちゃいましたけどね。
中学校の修学旅行は,あの時代あの辺りの定番で,新幹線で奈良・京都。そういえば,京都から奈良まで乗った近鉄特急は専用列車だったかな。
私よりももっと年配の人だと,新幹線じゃなくて,東海道の在来線を走る「ひので号」というまさしく“修学旅行専用列車”で関西へ行ったのではないでしょうかね。

[65166] 紅葉橋律乃介 さん
誤字なのか故意なのか分からない文章は、避けられないのでしょうか?

私も同感。
子どものうちから,こういう「遊び」はまねしない方がいいですよ。
まずは,きちんとした漢字を書くことを心がけましょう。

[28611] 2004 年 5 月 25 日 (火) 18:30:00 N-H さん
 横浜の開港記念日
hmt 横浜1 開港前後

[28609]足利人@伊勢原住人さん
関東圏では県民の日(東京は都民、神奈川は開港記念日)があるようですね。
あ、神奈川の場合ですが、あくまで横浜港の開港記念日なのです。ですから横浜市以外には関係のないことというわけです。6月2日というのは安政6年の旧暦6月2日に江戸幕府が横浜港をアメリカほか計5カ国に開港したことによります。
これがお隣の横須賀市になりますと、当然ペリー来航のほうが大切なわけでして、8月の頭に「よこすか開港祭」というのを最近ではやるようです。こっちは学校はもとから夏休みですね。

[28608]みかちゅうさん
私の中学・高校は都内の私立でしたが、ちゃんと10月1日の都民の日は休みでした。
「都」というスケールが「市」よりも大きく上位の行政機関だからかなあ。横浜市内の私立学校でも6月2日がお休みのところもないとはいえません。

[70310] 2009 年 5 月 27 日 (水) 18:18:04 hmt さん
 横濱地図博覧会2009において 完全復元伊能図を展示
hmt 横浜1 開港前後

横浜開国博Y150が4月28日の開幕から久しいのに、この落書き帳で話題になっていないと思っていたら、ようやく発言[70302] [70304]がありました。

でも、盛り上がっていないようだし、博覧会の名前も、地元の方に「開港博」と誤記されている始末。
横浜開港150周年協会 が主催する「横浜開港150周年記念テーマイベント」です。
この用例のように、地元では、日本の「開国」よりも、横浜の「開港」の方が、使い慣れた言葉なのでしょうね。

実は、今回ご紹介したいのは、「横濱地図博覧会2009」 です。
地図博覧会チラシの右上には 開国博Y150 の文字があるのですが、開国博Y150主催者の イベントカレンダー を見ても、地図博覧会は掲載されていません。

なにやらアングラ博覧会?めいた雰囲気になってきましたが、決して怪しい博覧会ではありません。

リンクしたサイトに記されているように、6月2日11時から、大さん橋ホールで伊能大図のフロア展示があります。最終日の5日は早仕舞いなのでご注意ください。

実は、去る4月12日に東京の深川で同様の展示会を見ました。この時は、2日しかない会期の最終日だったので、皆さんに事前にお知らせすることができませんでした。
今度の横浜はウイークデーですが、会期は4日間もあります。
全国巡回を予定しているようなのですが、スケジュールはおそらく未定です。

伊能図については、これまで落書き帳に度々書いてきました。記事の一部
過去に国土地理院主催による全国巡回展示もあり、ご覧になった方も多いと思います。
国土地理院主催展示の中心になったアメリカ大図(2001年に米国議会図書館で発見)は、多数の未発見大図があったという点で貴重な発見だったのですが、明治に実用目的で作られたらしい簡略化された模写図で、大部分は無彩色でした。

今回展示品の特徴は、伊能忠敬研究会が「完全復元伊能図」と銘打ったセットに基づくカラーコピーであることです。
報道への公開
大図(3万6千分の1)214枚の内容は、良好な模写本が日本に残されている図幅はこれを用い、それがない図幅はアメリカ大図を含む他の資料によりこれを補い復元したものです。
中図8枚は、フランスで発見された図。小図3枚は、2003年東京国立博物館で発見されたものです。

国立国会図書館のサイトで公開されている大図[22356]は43枚だけですが、丁寧に模写されたオリジナルに近いコピーと推定されています。
無彩色のものが多いアメリカ大図には、この国会大図を参考にして、コンピューターグラフィックスにより色が付けられました。
しかし、集落の表現については、屋根を描いた国会大図と、黒点で簡略化したアメリカ大図とは不統一のままです。

アメリカでの大量発見後も欠図がありましたが、最後の4枚が海上保安庁の倉庫で発見されました(2004年)。
[29977] ニジェガロージェッツ さんのリンク記事は切れているので 別の記事

最後の4枚の中に含まれていたのが京都ですが、山を鳥瞰式でなくケバ式に表現するなど、独自の改変がありました。
今回の展示では、他の図に合せて緑色の彩色をつけた鳥瞰式の山の姿に復元しています。
改めてこの図を見ると、当時は存在した巨椋池の姿が目を引きます。

私にとっては3回目の展示会ですが、何回見ても興奮します。
展示内容も、その都度、充実してきていますが、今回は無料でなく500円かかります。

[91105] 2016 年 8 月 5 日 (金) 18:16:42 hmt さん
 それは黒船から始まった (3)神奈川と横浜
hmt 横浜1 開港前後

ハリスによる日米修好通商条約の第3条には、ペリーの時に開いた下田・箱館以外に開く4港【神奈川・長崎・新潟・兵庫】とその期日が記されています。最初の開港場は神奈川と長崎で、期日は条約調印から約15ヶ月後の 1859年7月4日。期日は米国独立記念日でしたが、実際は最恵国条項にもとづき 7月1日に開港しました[54351]。安政6年6月2日は 旧暦の日付ですが、何故か6月2日が現在の横浜開港記念日に採用されています。

それよりも問題なのは、開港を約束した「神奈川」の解釈です。
オランダ・中国との限定貿易時代からの窓口・長崎は ともかく、江戸に近い東海道の宿場町である「神奈川」に外国の商人が来て 一般の日本人と接触する。それにより 問題が起きたらどうするのか?
 
日本側は トラブル回避のために、東海道筋から外れた横浜村を神奈川の一部であると解釈して、ここを開港地とすることを画策しました。しかし、ハリスら外国側は 長崎の出島貿易の再来になることを心配し、神奈川宿付近に領事館を設けてこの動きを牽制しました。参考

両者の駆け引きはありましたが、条約発効を前に幕府は横浜村での開港場建設を開始し、既成事実化しました。結局のところ、水深の深い横浜を貿易港とする利点に 外国側も納得し、横浜開港の運びとなりました[65179]

万延元年(1860)になると、幕府は中村川から海岸までを直結する長さ580間の堀川を開削[54352]。元町・中華街駅は、堀川の地下を横断しています。
これによって居留地は、北を海、西を大岡川末端部の内海、南西を派大岡川、南東を堀川に囲まれた「出島」状態になり、派大岡川の大岡川への合流点の南側にある吉田橋などには木戸門と見張番所が設けられました。
このような関門に囲まれた内側が「関内」、外側が「関外」です[54351]
条約には「居留地の周囲に門墻を設けず出入自在にすべし」とあります。番所は日本人用で、外国人については出入自在ということなのでしょう。

「神奈川県横浜市神奈川区」というように、地名としての神奈川と横浜とは入り乱れています。
これは元々は狭域地名[6474]だった両者が、時代の流れの中でそれぞれ広域地名化してしまったことに由来します。

最初に示すのは、明治7年に水路局が発行した 海図 YOKOHAMA BAYです。
図の下方に象の鼻を中心とした開港場・横浜の市街地が描かれています。街路は海岸線に従った約40度の斜め方向ですが、中華街だけはほぼ正しく東西南北を向いています。その左の白地には外国人居留地の文字もあります。『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の遊郭[54351]は 現在の横浜公園付近にありました。

大岡川河口部の内海は既に埋め立てられ、そこに開業後間もない(初代)横浜駅があります。
現在の桜木町駅ですが、その西側には野毛山・掃部山が迫っています。掃部山の県立青少年センターには神奈川奉行所跡の碑があります。
この神奈川奉行所[54388]は 慶応4年3月19日に新政府軍に接収されて横浜裁判所[75497]になりましたが、翌月には神奈川裁判所と「神奈川」の名が復活しました。
3月に横浜裁判所を名乗りながら翌月には神奈川裁判所という朝令暮改ぶりから、“開港場は横浜”と認識していた日本の新政府が、前政権が締結した条約の手前、対外的には“ここは神奈川”で押し通さなければならないことに気付き、慌てて改名した事情を読み取ることができます。[20917]
慌ただしい改称はその後も続きましたが、神奈川府を経て明治元年9月21日 神奈川県 で落ち着きました。
「県庁は横浜にあるのに神奈川県」という ねじれ現象は現在まで続いています。

なお、初代の神奈川県庁舎は明治15年に焼失、2代目は明治末期に解体。「キングの塔」で有名な4代目庁舎は、関東大震災で倒壊した3代目庁舎の後に 1928年完成したもの。開港のひろば88号
知事が執務する現役の庁舎としては、1927年竣工の大阪府庁本館に次いで全国で2番目に古いものとか。なお、群馬県昭和庁舎[55438]も 1928年の建築で、分館として使用されているようです。

庁舎のことはさておき、県名の由来「神奈川」という地名は、海図の北の方に見えています。
江戸日本橋から 1品川・2川崎と上る東海道3番目の宿場町でした。
明治末期の地形図を見ると、右上に「かながは」駅が見えます。現在の横浜駅のすぐ近くで、少し前の1901年に橘樹郡神奈川町から横浜市に編入された後でした。

昔からの郡名を調べると、東海道筋の宿場は 2川崎・3神奈川・4保土ヶ谷と武蔵国橘樹郡が続いた後、5戸塚で相模国鎌倉郡に入ります。 久良岐郡横浜は明らかに陸路の本筋から外れています。
このような横浜の位置が、鉄道の時代になってから、スイッチバックやら直通線やらを必要とした原因になったのでした[49808]

地名として全国に知られるようになった村名「横浜」とは対照的に、郡名「久良岐」は忘れられた地名になっています。調べたら久良岐橋がありましたが、中村川の上を通る高速道路の橋のようです。新吉田川が大通公園になる前は「川の十字路」でした。

また話が逸れてしまいましたが、明治末期の地形図に戻ります。明治7年の海図から30年以上後なので、陸地化が進んでいますが、それでも現在の横浜駅の西側には大きな内海が残っていました。
現在の地名では大部分が西区で、帷子川に近い南側が南幸、北側が北幸。この付近は内海橋名も残っている かつての岡野新田でした。

大まかに言えば、東海道【赤線】と横浜道【緑線】とが昔の海岸沿いです。
神奈川駅の先、弧を描く埋立地を初代横浜駅目指して進む鉄路の西端付近に 萬里橋[79942] の文字が見えます。
横浜オフ会では横浜駅から2代目横浜駅へのルートとして 万里橋経由が予定されていましたが、本隊から遅れた私が実際に渡ったのは帷子川の河口の築地橋でした。

万里橋については [49808][82973]で Old Map Roomを引用して説明していました。それによると、明治24年の 1:20,000地形図 など各時代の地形図が掲載されていたのですが、現在では残念ながらアクセスすることができません。

それはさておき、幕府が横浜開港に伴って設置した役所の名が何故「神奈川奉行所」だったのか?
条約での約束「神奈川を開港する」と辻褄を合わせるためとしか考えられません。
神奈川/横浜と同じように「兵庫を開港する」と約束して開港した神戸とペアにしたシリーズを書いたのは 10年前でした。[54297][54430]

[18367] 2003 年 7 月 16 日 (水) 20:37:36【1】 Issie さん
 Re:県名と県庁所在地が一致しない理由
hmt 横浜1 開港前後 ARC 都道府県名の由来 〜都道府県名はいかにして命名されたのか〜

[18304] 赤尾鯰 さん
戊辰戦争影響説は、戊辰の役で官軍に協力しなかった藩が中心となる県の場合、その藩の中心都市名を県名にしなかったという説です。

私はヘソ曲がりなもので,いわゆる「鉄道忌避伝説」も「我田引鉄説」も疑ってかかることにしているのですが,この件も充分に疑わしいと考えています。

神奈川県横浜市神奈川区も全く同じ事情。

これは,そういう事情でしょうか。
それよりも旧幕府の「神奈川奉行所」を「神奈川県庁」が引き継いだ,と解釈するほうが自然に思います。
お互いに都市として隣接していた「神戸」と「兵庫」とは違って,久良岐郡の「横浜」と橘樹(たちばな)郡の「神奈川」とは,間に入り江と掃守(かもん)山下の断崖絶壁をはさんだ別個の都市です。なぜ「横浜」に「神奈川奉行所」か,という問題になりますが,それは明治政府ではなく徳川幕府の問題です。

普通にいけば、弘前・米沢・会津・長岡が県庁所在地になっていた。

米沢は県庁所在地でした。
明治4(1871)年11月[旧暦]の全国的な“第1次”府県統合以来,1876(明治9)年8月の“第2次後期”府県統合で「山形県」に統合されるまで,米沢は「置賜(おきたま)県」の県庁所在地でありました(置賜県は,「置賜郡」1郡だけを管轄区域とする全国で唯一の県です)。
会津(若松)も同様に「若松県」の県庁所在地でした。置賜県と同日に「福島県」へ統合されました。
奥羽越列藩同盟への「懲罰」であるなら,なぜすぐに県庁所在地の地位を奪わなかったのでしょう。5年も引張った理由は何なのか。
ちなみに,旧山形藩(水野家)も旧福島藩(板倉家)も旧幕府・徳川政権内では非常に有力な譜代藩でしたよね。さらに両家とも,明治になってから旧山形藩・水野家は近江朝日山へ(明治3年),旧福島藩・板倉家は三河重原へ(明治2年)それぞれ移転しています。
移転は将軍家に代わる明治政府の命令でしょうから,「それほどの藩」だったということでしょうね。明治政府は両藩の移転後,速やかにその“跡地”に「山形県」「福島県」を設置しています。
にもかかわらず,今に至るまで県庁所在地であり,さらに県名と県庁所在地名とが一致するというのは,どういうことでしょう。

長岡藩は,明治4年7月[旧暦]の廃藩置県を待たず,明治3年に廃止・消滅して「柏崎県」に編入されています。
維新後に大幅に領地を没収され,戦闘で城下町や領内が荒らされたことによる財政破綻が原因であって,もちろん戊辰戦争が直接の原因ではあるのですが,「懲罰」とは次元の違う問題ですね。
「柏崎県」は旧幕府時代から越後南部の幕府直轄領を支配するために柏崎に設けられていた代官所を引き継いだものです。「倒産」した長岡藩の領地・住民を隣接する柏崎県が吸収するのは当然のことであるし,戦争で焦土と化したばかりの長岡にわざわざ県庁を移転する理由はないでしょう。
傍目から見れば「身の程知らず」にも“あのような行動”をとったために大変に目立つ存在となった長岡藩ですが,そもそも三古(さんこ:三島・古志)2郡を中心とする地域を領知していた「7万余石」の小藩(譜代としては中規模ですが)に過ぎません。
長岡城下町と柏崎とは都市としての規模にそれほど大きな開きがあったわけではないのです。
結局,第1次府県統合の段階では越後南部の各県が「柏崎県」として統合されました。
それがさらに1873(明治6)年6月に越後北部を統合していた「新潟県」と合体します。
越後全域の中心として,「開港場」に指定されている新潟に県庁を置くのは,至極当然な選択だと思います。

明治4(1871)年の廃藩置県から,1888(明治21)年に現在と同じ45府県(北海道と沖縄を除く)となって安定するまで,各府県はかなり複雑な廃置分合を繰り返しています。
この間には,一時的ではありますが“薩長土肥”の“肥”,「佐賀県」が消滅しています。「山口県」の廃止が俎上に上ったこともあります(さすがに,これは潰されましたが)。

個々の府県をのぞいてみれば,旧徳島藩・蜂須賀家との関係に発する淡路島の帰属問題とか,筑摩県廃止・長野県への統合をめぐる話題とか,キナ臭い話が伝えられているところも少なくないのですが,それでは明治政府に一貫した方針があったのかというと,とてもそのようには思えません。
そもそも「廃藩置県」自体が周到な準備・計画の上に行われたことではなくて,かなり「行き当たりばったり」のものだったらしい,という指摘があります。

「戊辰戦争影響説」は,明治もだいぶ経ってからこれを唱えるジャーナリストが現れてくるようなのですが,それは政権内部の側の人ではありません。
すでに落ち着いた「45府県」を眺めてみて,「そういえば…」というレベルで思いつくことはあるでしょうが,実際にそのような「証言」をした人がいたのかどうか。

そのようなわけで,私はこの説を支持していないのです。

[20917] 2003 年 10 月 12 日 (日) 13:58:51 hmt さん
 埼玉にない埼玉県庁
hmt 横浜1 開港前後

[20742]ズッキー さん
明治22年の合併まで、岐阜町に県庁が無いのに、岐阜県と名乗っていたんですね!昔の人はおおらかだったのかな?他にもそんな県庁所在地があったんでしょうか?

岐阜県庁の場合は、暫定的な笠松から1年余で岐阜郊外の今泉村に移った時点で実質的な所在地と看板とが一致したと考えても良いのではないでしょうか。

「看板に偽りあり」が永続したのは埼玉県庁です。埼玉郡岩槻町に置く予定で命名された埼玉県庁は、暫定的に足立郡にあった旧 浦和県庁を利用して1871年発足しました。1876年に県域が西側(旧入間県域)に拡張したことや、1883年に日本初の私設鉄道として上野―熊谷間が開通した鉄道路線を考えると、県庁が岩槻に移転せずにそのまま浦和に居座ったのは、正しい判断だったと思われます。しかし、浦和定着の時点で看板を浦和県又は足立県に改めることはありませんでした。
県庁の移転に先立ち金沢県から石川県(郡名)に改称して「看板の偽り」を避けた例もあるのに、埼玉県が名実不一致のまま現在に至ったのは、“できるだけ早めに…”という発言がなかったせいですかね(笑)。
100年以上放置された名実不一致は、2001年に埼玉郡域でないところに「さいたま市」という僭称地名を誕生させてしまった原因にもなりました。

神奈川県庁も神奈川宿や現在の神奈川区の領域に存在したことはないようですが、この場合は少し複雑な事情があるようです。
安政5年(1858)の日米修好通商条約で開港を約束した5港のひとつは「神奈川」でしたが、幕府は警備上の理由から開港場を横浜村に変更し(警備区域内であったことは「関内」という地名に残されています)、外国に対しては「横浜は神奈川の一部である」という強引な論理で押し通しました。
幕府から新政権に引き継がれた神奈川奉行所は、慶應4年(1868)3月19日に横浜裁判所、4月20日に神奈川裁判所、6月17日に神奈川府、9月8日の改元を経て明治元年9月21日に神奈川県と慌しく改名されました。樋口雄一氏 http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/401_1.html によると、神奈川府の前には慣用的に横浜県の名もあったようです。
3月に横浜裁判所を名乗りながら翌月には神奈川裁判所という朝令暮改ぶりから、“開港場は横浜”と認識していた日本の新政府が、前政権が締結した条約の手前、対外的には“ここは神奈川”で押し通さなければならないことに気付き、慌てて改名した事情を読み取ることができます。
すなわち、神奈川県庁(神奈川裁判所はIssieさんの説明[229]のように行政機能を持ち、県庁の前身と言えます)は、実質的には神奈川宿の地域にはなかったものの、形式的には「横浜をその一部として含む(ご都合主義で設けた)仮想的神奈川」に存在していたということになるのでしょうか。

[54351] 2006 年 10 月 6 日 (金) 18:36:27【1】 hmt さん
 神奈川・横浜(1)横浜の居留地は、文字通りの「関内」だった
hmt 横浜1 開港前後

兵庫開港と神戸との関係について[54297]「兵神市街之図」、[54322] [54339]兵庫開港の3編を記しました。
関連して、「神奈川」開港と横浜との関係について続けます。
[54340] ezekiel さんの
神戸の場合と横浜の場合との相似と差異とを比較すると面白いだろうなあ〜と思います。
の趣旨にも沿うものになるかどうかわかりませんが。

最初に、「神奈川」(実際は横浜)開港の日付から。
日米修好通商条約による「神奈川」の開港日は、条約締結の翌年・1859年の7月4日(米国独立記念日)となっていましたが、続いて締結されたロシア・イギリスとの間の修好通商条約において、切りのよい7月1日開港とされたので、最恵国条項により3日繰り上がりました。当時の暦では安政6年6月2日。
横浜開港記念日は、7月1日(西洋流の日付)だったものが、わざわざ6月2日(日本流の日付)に変更されたのですね。

「兵庫」(実際は神戸)開港は、[54322]で詳しく記したように8年半後の1868年1月1日。明治になる直前とも言える時期で、この間に、政局も治安の状態もも激変しています。

さて、地形条件に目を向けると、もちろん横浜と神戸とは大幅に異なります。

中世文書に神奈河として現れる神奈川(金川)は、近世には東海道でこの付近で最も大きな宿場町として繁盛していました。
神奈川港もあり、三浦方面の産物を江戸に運ぶ中継地でもありましたが、貿易港としての長い歴史を持つ兵庫津には及ぶべくもない、ローカルセンターという程度の存在でしょう。

神奈川宿と海を隔てた横浜村は、大岡川低地の前面をふさぐ砂洲の上の漁村でした。横浜村の漁師が、対岸の神奈川宿に船で魚を運び、納めていたという関係でしょう。
かつて砂洲の内側に入り込んでいた入り江は、江戸時代後期に干拓されて、横浜新田・太田屋新田・吉田新田などが開発されていましたが、本土との間には水路が残り(派大岡川)、ここに大岡川の分流の中村川が流れ込んでいました。現在の横浜市中区に、太田町1丁目〜6丁目、吉田町という名を残しています。

条約文の「神奈川」の解釈を巡って、米国総領事ハリスは、商売上の見地から東海道神奈川宿を主張しましたが、幕府は横浜村を出島化して外国人を隔離しようと対立します(安政6年「神奈川宿本陣対話書【誤記訂正】」)。
結局のところ、幕府は外国側の反対を無視して横浜に開港場の建設を開始し、既成事実化してしまいました。
パークスの賛同[54339]を経て神戸に建設された「兵庫居留地」とは大きな違いです。

万延元年(1860)、幕府は中村川の川尻から海岸までを直結する長さ580間の堀川を開削。
これによって居留地は、北を海、西を内海(大岡川末端部)、南西を派大岡川、南東を堀川に囲まれた「出島」になりました。
派大岡川の大岡川への合流点の南側にある吉田橋などには木戸門と見張番所が設けられました。
このような関門に囲まれた内側が「関内」、外側が「関外」です。

[54297]で参照した講談社「日本の古地図7」(1976)には、横浜も収録されていますが、安政6年の「横浜御開地明細之図」では堀川が未開削の時代、また文久の頃と思われる「御開港横浜正景(YOKOHAMA CHART)」や「御開港横浜大絵図」では、堀川開削後の島状になった横浜居留地が描かれています。

現代の地図 では、首都高速道路の石川町JCTから海岸までの間が堀川の上を覆い、石川町JCTから桜木町駅の少し南までが派大岡川の跡で、島状の横浜居留地の形がわかります。

【1】 N-H さんのご指摘[54352]により、“堀川の跡”を“堀川の上を覆い”と修正

Mapionの中心・神奈川県庁の位置には、絵図で「御運上屋舗」があり、その南側・横浜新田の中には、目立って大きく外国人向けの遊郭街(岩亀楼など)が描かれています。現在の横浜スタジアムの位置でした。開港神戸之図にも福原町遊郭がありました[54297]

そうそう、[54297]に、明治13年の地図で“兵庫県庁の海側には「神戸市役所」らしい文字”と書いた部分がありました。実は印刷の解像度が低くてよく読めないものの、この年代には、もちろん「神戸市」ではあり得ません。「神戸区役所」と書くべきところを、誤記していました。

兵庫と神戸の間には、湊川や宇治川があるだけで、神奈川と横浜のように、複雑な地形条件によって隔てられるということはありません。
兵庫開港の時代には、「居留地」とは言っても、警備の厳重な「関内」を作る必要性も少なくなっていました。居留地造成工事の遅れが理由ですが、臨時の措置として「雑居地」が設定され、しかも居留地完成後も既得権として存続を望んだ外国側に応えて混住状態が維持されたくらいです。
「関内」という言葉に象徴される横浜と、特有の「雑居地」を生んだ神戸では、外国文化の流入に違いが生じたはずです。

[54352] 2006 年 10 月 6 日 (金) 19:15:32 N-H さん
 中村川と堀川について
hmt 横浜1 開港前後

[54351] hmt さん
首都高速道路の石川町JCTから海岸までの間が堀川の跡、石川町JCTから桜木町駅の少し南までが派大岡川の跡で、島状の横浜居留地の形がわかります。
「堀川の跡」と書かれていらっしゃいますが、堀川は石川町JCTから山下埠頭の南側の海まで、高速の下を現在も流れております。
現在の横浜観光ガイド風にわかりやすく言いますと、元町商店街と中華街とを隔てる川が堀川です。
元々は大岡川から分かれた中村川が、石川町JCTのある地点から桜木町の方向に向けて派大岡川として急旋回していたものを、そこから東北東へと自然な形で海岸まで掘って行ったのが堀川。
その後、派大岡川は埋め立てられ、その場所を高速道路が掘割のような形で桜木町手前の大岡川にかかる桜橋付近まで通ったために、現在はあたかも中村川の下流が堀川と単に名を変えたように見えます。

なお、大岡川から派生した川としては、堀川とまぎらわしい掘割川というのがあります。
これは中村川と吉田川(市営地下鉄建設時に埋め立てられ、上は大通り公園となっています)との分岐地点からほぼ国道16号線沿いに磯子まで流れて海にそそぐ川で、こちらは中村川・堀川との間は中洲のような平坦地ではなく、山となっています。
もちろんこの掘割川も人口水路です。明治にはいってからの掘削です。

[54388] 2006 年 10 月 9 日 (月) 23:38:56 hmt さん
 神奈川・横浜(2)神奈川奉行所・条約改正
hmt 横浜1 開港前後

居留地の外、すなわち「関外」に目を転じます。
「御開港横浜正景(YOKOHAMA CHART)」や「御開港横浜大絵図」などの絵図[54351]で、帆船の浮かぶ海の手前に描かれた神奈川宿は、Mapion では上方に現れます。

絵図の右上、入り江を隔てて居留地を見下ろす戸部の丘の上には、「御奉行所」が描かれています。 Mapionでは桜木町駅の北西、市教育会館という文字のあたりです(西区紅葉ケ丘)。開港場を管轄する役所が、横浜の外、しかもわざわざ急な坂を登った上にある通称「戸部役所」であるという姿は、当時外交姿勢を窺わせる姿です。

神奈川奉行所 の設立は、安政6年の開港と同日。5人の外国奉行 のうち水野忠徳と堀利煕とが神奈川奉行を兼任しました。

慶応4年(1868)になると、明治政府の「進駐軍」がここに入り、幕府の神奈川奉行から事務を引き継いだ東久世通禧 (みちとみ)が「横浜裁判所」総督に任じられますが(3月19日)、1ヶ月後の4月20日には「神奈川裁判所」になっています。
開港地は「横浜」だと思っていた新政府が、条約の建前上「神奈川」で押し通した幕府を引き継ぐ立場にあることに気が付き、その結果の朝令暮改ではなかろうかという推測を、[20917]で記したことがあります。

この神奈川裁判所が、「神奈川府」を経て明治元年と改元された9月に「神奈川県」と変わり、これ以後も、横浜区や横浜市が生まれた後までずっと、横浜は神奈川県の管内ということになっています。
なるほど、こうして「横浜は神奈川の一部」ということにしておかなければ、外国に対して“条約に定めた通り「神奈川」を開港した”と主張することができません。

樋口雄一氏 によると、東久世日記(慶応4年6月26日)に、“此迄横浜県と唱来候処、爾来神奈川府と被改候”と書かれているものの、公文書には「横浜県」の名は見えず、「横浜県」は慣用的なものとされています。
たしかに、「神奈川開港」という条約の建前からすると、県の名前まで、横浜にするわけにはゆかなかったのですね。

兵庫県庁が神戸に移っても、神戸区や神戸市が生まれても、県の名前まで神戸県にするわけにはゆかず、あくまでも「兵庫」県というのも、同じように安政条約による足かせということになります。

言うまでもないことですが、横浜県や神戸県になれなかったことは派生的な問題であり、安政条約の本質的な問題点は、「治外法権」という言葉に代表される当事国の不平等関係にありました。

締結当時の国際常識からすれば、安政条約は驚くほど日本に有利な“外交史上の奇跡”だったとする評価もありますが、明治になってみれば「治外法権」が問題になったのは当然であり、長年にわたる条約改正交渉の末、日英通商航海条約が調印されたのは1894年でした。

日英通商航海条約 第二十条
本条約ハ其ノ実施ノ日ヨリ両締盟国間ニ現存スル…安政五年七月十八日…締結ノ修好通商条約…ニ代ハルヘキモノトス。而シテ該条約及諸約定ハ右期日ヨリ総テ無効ニ期シ、随テ大不列顛カ日本帝国ニ於テ執行シタル裁判権及該権ニ属シ、又ハ其ノ一部トシテ大不列顛国臣民カ享有セシ処ノ特典、特権及免除ハ本条約実施ノ日ヨリ別ニ通知ヲナサス全然消滅ニ帰シタルモノトス。而シテ此等ノ裁判管轄権ハ本条約実施後ニ於テハ日本帝国裁判所ニ於テ之ヲ執行スヘシ。

他の列強もこれに続き、5年後の1899年7月に居留地が返還され、わが国の裁判権が開港場にも及ぶことになり、日本はようやく一人前の独立国になったのでした。

# Great Britainに「大不列顛」という字をあてています。[40148]ではAngliaに「諳厄利亜」という文字を当てた時代もあったと記しましたが、その一例は後にシーボルト事件に巻き込まれた高橋景保が吉雄忠次郎に翻訳させた「諳厄利亜人性情誌」(文政8年・1825)です。

[54415] 2006 年 10 月 12 日 (木) 16:01:18 hmt さん
 神奈川・横浜(3)外国人遊歩区域
hmt 横浜1 開港前後

[54388]では、安政条約を話題の中心に据えて、神奈川奉行所から、条約改正による居留地の消滅(明治32年)までを語りました。
今回は、その安政条約に規定されていた「外国人遊歩区域」のお話です。

米利堅合衆國修好通商條約 安政五年六月十九日
第七條 日本開港ノ場所ニ於テ亜米利加人遊歩ノ規程左ノ如シ
神奈川 六郷川筋ヲ限トシテ其他ハ各方へ凡十里
函館 各方ヘ凡十里
兵庫 京都ヲ距ル事十里ノ地ハ亜米利加人立入サル筈ニ付其方角を除キ各方ヘ十里且兵庫ニ来ル船々ノ乗組人ハ猪名川ヨリ海湾迄ノ川筋ヲ越ユヘカラス
都(すべ)テ里數ハ各港ノ奉行所又ハ御用所ヨリ陸路ノ程度ナリ
一里ハ亜米利加ノ四千二百七十四ヤルド日本ノ凡ソ三十三町四十八間一尺二寸五分ニ当タル
長崎 其周囲ニアル御料所ヲ限リトス
新潟ハ治定ノ上境界ヲ定ムヘシ

横浜開港資料館所蔵の「横浜周辺外国人遊歩区域図」 には、 DESCRIPTIVE MAP SHEWING THE TREATY LIMITS ROUND YOKOHAMA と記されており、1865-1867年というから慶応年間に作成された地図です。
横浜から半径約10里の扇形が、江戸の方角だけは、六郷川(多摩川)によって大きく切り取られている姿を見ることができます。

この遊歩区域内には、江戸市民にとっての著名な観光スポットでもある鎌倉、江ノ島や金沢八景があり、更には信仰と遊覧を兼ねて人気のあった大山参りの対象の地も含まれていました。
なお、「遊歩」とは、ウォーキングに限らず乗馬も含んでいます。上記安政条約の英文では、“Americans shall be free to go where they please”と表現しています。
横浜居留地には、外国人のウォーキング専用道路(遊歩新道)も建設されました(慶応2年)。

F・ベアトも、厚木から丹沢山地に入った宮ヶ瀬、そして関東シルクロード[30364]になる八王子・鑓水・原町田方面にも出かけて、写真を残しています。

遊歩区域は、横浜の居留地に準じた重要警戒地域だったわけですが、現実には、遊歩中の外国人がサムライの襲撃を受ける事件もありました。
最も有名なのは、川崎大師への遊歩途中の英国人力査遜(碑文の表記による)が島津久光の行列と遭遇して切り殺された生麦事件(文久2年・1862)です。
ベアトの写真にも、「リチャードソン氏殺害現場」があります。
# 生麦とは珍しい言葉ですが、生麦生米生卵でも有名。この地が麒麟麦酒の工場になっているのは「麦」の縁でしょうか。

生麦事件は正当な遊歩区域内で起きた事件ですが、時にはこの境界を越えて行動する外国人もあり、その冒険体験が、話題になっていたそうです。(J.R.ブラック 「ヤングジャパン」)。
津軽海峡のブラキストン線で有名な博物学者で貿易商の T.W.Blakiston が、旅行免状を持たずに遊歩区域外を旅行したことを問われた事件(明治7年)等を機に、遊歩境界傍示杭についての周知不足や、その距離の不正確について外国側からの苦情が出て、きちんとした測量による境界標石が建てられることになりました。

もちろん、制限付きながら遊歩区域外への旅行も実施されました。外交特権のある外交官は、富士山にも登りました。
明治2年頃からは、病気療養名目で箱根や熱海への湯治にも「内地旅行免状」が交付されました。
hmtの出身地・津久井も遊歩区域外でしたが、幕府のお雇いフランス人技師が業務出張で現れています(慶応3年)。もちろん幕府役人と同道で、横須賀製鉄所建築用材入手のための検分が目的でした。
実家に残る「仏人御林御見分ニ付立替物控」には、 hmt幼少の頃には残ってた旅館に宿泊した異国人へのご馳走品やその値段が記されています。津久井県[41805]の青山村は、幕末には小田原藩領になっていましたが、御林関係ですから幕府の御用を勤めたわけです。

後にトロイア発掘で有名になった ハインリッヒ・シュリーマン も、来日中に許可を得て江戸を見聞し、また遊歩区域内では八王子や原町田を訪れています。小野路村[33902]の記事で触れたことがあります。

[54421] 2006 年 10 月 13 日 (金) 19:47:08 hmt さん
 神奈川・横浜(4)県域の変遷
hmt 横浜1 開港前後

神奈川宿から海を隔てた横浜村の砂洲の上に造成された開港場[54351]、開港場を見下ろす丘の上に設けられた戸部役所[54388]、その神奈川奉行所が慶応4年に新政府に移管された後、慌しく何度かの改名を経て明治元年(1868)9月21日に「神奈川県」と改称され、現在に続く名前が生まれました。

今回は、開港場・横浜の外国人と深い関係にあった「神奈川県」の管轄区域の変遷を振りかえります。

[54415]で紹介した「横浜周辺外国人遊歩区域図」
この区画、現在の「神奈川県」の管轄区域と似ているようでもあり、違うようでもあり…

発足当初の神奈川県の管轄区域は、この外国人遊歩区域内の旧幕府領・旗本領を引き継いだものでした。
遊歩区域内には、武蔵金沢の六浦藩、相模の荻野山中藩、その他諸藩の飛び地が存在し、神奈川県管内図は虫食い状態でした。その一例である高座郡の状態が、Issieさんのページ の中で詳細に紹介されています。

この虫食い状態は、廃藩置県後の明治4年(1871)11月、旧藩領だった六浦県及び各県の飛び地が神奈川県になって解消されました。しかし、11月14日の(第1次府県統合) 太政官布告 では、武蔵国多摩郡と相模国高座郡とは神奈川県に含まれていませんでした。
これに対して神奈川県は、外国人遊歩区域に含まれる多摩郡と高座郡とは、従前通り神奈川県の管轄区域であるべきとする上申書を提出しました。

この上申が認められた結果、神奈川県の区域は多摩川以北の多摩郡にも拡がりました。
一方、相模川から酒匂川の間は足柄県になっており、県域は外国人遊歩区域と比べて少し北東にずれてくることになりました。
なお、多摩川以北の多摩郡のうち、東京市街地の西に隣接する地域は、明治5年(1872)8月に東京府に移管されました(後に東多摩郡→豊多摩郡の一部→中野区・杉並区になった部分)。

神奈川県の管轄区域は、第2次府県統合(明治9年4月)によって足柄県(伊豆国を除く)を併せ、相模国全域と武蔵国4郡(多摩郡の分割後は6郡)に拡大し、最大の領域になりました。

しかし、明治26年(1893)に至り、神奈川開港以来横浜と密接な関係にあった多摩川以南(南多摩郡)を含む三多摩を失います。

[33700] Issie さん
北・西多摩郡はともかく,南多摩郡の東京府移管については,(中略)自由民権運動の盛んな地域であったことがしばしば指摘されています。
やはり神奈川県にとって,南多摩郡を失ったことは返す返すも残念なことだったかもしれないなあ,と思ったりもします。

東京の水源確保関連では、既に1881年に玉川上水の左右十数尺の東京府移管が合意されました。
その後も、コレラ流行に端を発する上水汚濁取締強化のための北多摩郡・西多摩郡移管上申(明治19年=1886)があり、甲武鉄道開通の翌年(1890)には、住民からの北多摩郡・西多摩郡管轄替の建白も出されていました。この段階まではいずれも両多摩移管案です。
南多摩郡を含む三多摩の東京府移管上申は、明治25年(1892)9月に東京府知事から出されたものですが、これは既に神奈川県知事の積極的な合意を得ていたものでした。

南多摩郡は、生糸貿易の横浜との関係が深い繭・生糸の集散地である八王子や原町田を含み、県の財政にも重大な影響があります。それにもかかわらず、南多摩郡を東京府に移管することに神奈川県知事(内海忠勝)が賛成したことは、たしかに異常なことでありました。

その背景としては、1892年の「大干渉選挙」で罷免要求を突き付けられていた内海による、南多摩自由党に対する報復的措置と伝えられています。三多摩移管の政治的背景参照。

[91167] 2016 年 8 月 8 日 (月) 18:11:12 hmt さん
 それは黒船から始まった (4)外国人居留地
hmt 横浜1 開港前後

[65167] Issieさん
【修学旅行の目的地としての】横浜が 中華街だけとは,大変さびしい。

横浜を訪れて学ぶべきことは多いわけですが、幕末の開港に始まった「外国人居留地」。
中華街を通じて「外国人居留地」が存在した過去を学ぶのも大切なので、このシリーズに取り上げます。

ご存知でない方も多いと思いますが、「租界」(そかい)という言葉がありました。大辞林の説明。
19世紀後半から解放前の中国の開港場で、外国人が行政権と警察権を握っていた地域。

現在の学校では どのように習っているか知りませんが、19世紀後半(幕末)の開港から、明治の条約改正[54388][62517]までの間、上海など中国の都市の「租界」と同じような地域が日本にもありました。それが「外国人居留地」です。
横浜居留地を示しておきます。開港場以外の大都市(東京・大阪)にもありました。

明治30年の地図【クリックで拡大】を見ると、 官有地・民有地と異なる色分けがされており、特殊地帯であったことが明らかです。山下居留地という文字付近の南京町【現在の中華街】に隣接した三角形の官有地にも注目してください。現在の地図と照合すれば すぐにわかりますが、加賀町警察署[57730]です。

言うまでもなく清国は領事裁判権を持つ国ではありませんが、清国人も居留地の住民でした。時期により異なりますが居留地内に雑居した日本人もいました。加賀町警察署の位置は、このような複雑な状況に対応するものであったのでしょう。
多数の中国人が住むようになった事情は[65179]に記しました。南京町という呼び名は長い間使われてきましたが、戦後に犯罪多発地のイメージを一掃する目的もあり、横浜中華街として再生しました。

山下居留地の30ヶ町。[65183]では明治19年の資料に基づいて山下居留地の29町名を紹介しました。
横浜市中区史地区編 第3章山手・山下地区 の11/88コマによると、花園町を加えた30ヶ町は 明治12年1月に命名され、加賀町警察署の他に薩摩町バス停、電話線の支線名に現存しているそうです。

関内の街路は基本的に海岸線基準の碁盤目(並行と直交)ですが、中華街だけは 東西南北の正しい碁盤目なので話題になりました。下記 中国の学者の発言は [65181]にリンクされています。
中華街は斜めではない。斜めなのは周りのほうだ。

この向きは、開港のひろば99号 図2に示されているように、開港より前の嘉永4年の水田畦道に遡ることが確認されています。「横浜新田」の造成時からとすると文化年間(19世紀初期)でしょう。海岸線基準の「周りの道路」は 1858年以後。
文久2年(1862)に幕府の工事が行なわれ、水田は居留地に造成され、街路も整備されました。しかし実務(高低差や補償の処理)を考慮し、農地の形は 街路の向きとしてそのまま残されたようです。「風水に基づいて中国人がこの土地を造成した」という都市伝説は否定されるが、風水の観点から優れたこの地は中国人に好まれ、中華街になった。開港のひろば100号は、このように伝えています。[65180][65183]

話が江戸時代の横浜新田造成に及んだ機会に、横浜の土地造成に少し触れておきます。
横浜市中区史地区編 第1章素顔の中区 の13/49コマによる概況。
明暦2年-寛文7年(1656-1667) 吉田新田 約120ha 江戸の商人吉田勘兵衛(最初の名は野毛新田)
宝暦-天明年間(1751-1788)  隣接の西区の区域に尾張屋新田、宝暦新田、安永新田、藤江新田
天保4年-10年(1833-1839)   岡野新田、平沼新田
文化年間(1804-1818)     横浜新田
嘉永年間(1848-1853)     太田屋新田【現在の関内】 三河出身の商人太田屋徳九郎
明治初年(1868-1871)     野毛浦【現在の桜木町付近】

地図があった方がよいですね。
[65182] Issieさん
こちら は個人のページのようですが,横浜開港以前の地図(横浜村外六ヶ村之図)が掲載されています。
小さくて見えにくいけれど,「横浜新田」と書かれているところが,今の中華街ですね。

現在の地図とほぼ逆向きで、北北東にある海を下に描かれていますが、「横浜村外六ヶ村」を数えてみます。
半島状をなす「横浜村」の南に「横浜新田」。その右(北西)の「太田屋新田」は まだ水面状態。
図の中央部は左の中村川と右の大岡川との間に大きく描かれているのが「吉田新田」で、一部は派大岡川を隔てた太田屋新田と同様の水面状態です。
大岡川の左(西)には「太田村」があり、大岡川の河口・左岸には「野毛浦」があります。現在の桜木町付近。

これに、図の右側・緑色の野毛山のある「戸部村」と、中村川右岸沿いの「石川中村」とを加えると8ヶ村になり、「横浜村外六ヶ村」より多くなってしまいます。水面だけの太田屋新田はノーカウント?

この地図の出典は記されていないのですが、前記開港のひろば99号図2と似ており、『横浜村並近傍之図』(横浜市中央図書館)に基づいて模写したものではないかと推察します。

[57730] 2007 年 4 月 3 日 (火) 10:37:31【1】 N-H さん
 警察署の名称
hmt 横浜1 開港前後

[57728] miki さん
そろそろ山梨署に名称変更してもいいと思いますが?栃木署も沖縄署も、それに岩手署まであるのに...。
このへんは各県警本部の考え方によるんでしょうね。
たとえば私の地元でいいますと、横浜市西区全域を管轄する警察署は西署でも横浜西署でもなく、戸部警察署。
横浜市中区を管轄する警察署は、伊勢佐木署、山手署、加賀町署の3つ。
この最後の加賀町警察署が神奈川県および横浜市の都心部を管轄する警察署になるわけですが、「加賀町警察署」なる名称はなんと明治26年につけられたもの。
庁舎があるのは中華街、付近の現在の地名は横浜市中区山下町、というわけで加賀町なる地名は実に1899年に山下町に変更されているので、百年以上も前に消えた地名を今でも公的機関が使っているわけです。
ただ、この町名変更には紆余曲折があったようで、加賀町という名称はずっと後までかなり使われたらしいことが中区の資料からうかがえます。

この警察署を、今更横浜中警察署なんかに変えようって話は、まずききませんね。
あ、ちなみに神奈川署というのは横浜市神奈川区を管轄する警察署としてちゃんと存在します。

[65179] 2008 年 5 月 18 日 (日) 19:04:19 hmt さん
 中華料理よりも洋服仕立業と理髪業が多かった横浜中華街
hmt 横浜1 開港前後

[65167] Issie さん
何で横浜に中華街があるかというと,今からちょうど150年前(中略)「日米修好通商条約」が調印されたのがそもそもの始まりなのですよ。そしてこの条約にもとづいて,翌年の 安政6年6月2日(1859年7月1日) に横浜港が開かれました。

もともと開国には反対だった大老・井伊直弼が、歴史の運命によって勅許を得ずに結ぶことになった「日米修好通商条約」。これに続いて、日蘭・日露・日英・日仏の条約も締結。
「陸の孤島」状態だった横浜では長崎の出島貿易の再来になることを心配して、開港地として神奈川を主張し、神奈川付近に領事館を設けて牽制していた諸外国。
両者の駆け引きも、「安政の五ヶ国条約」の発効により横浜を強行開港した幕府の態度により、水深の深い横浜を貿易港とすることに外国も納得し、横浜開港の運びとなりました。

でも欧米五ヶ国との条約なのに、なぜ「中華街」?

横浜の居留地に住むことになった欧米人貿易商が直面した問題は、第一に言葉です。
言葉の通じない日本人を相手に、どのようにして商取引をするのか?
また、横浜に住むためには、生活のためのインフラ(衣食住のサービス体制)整備も必要です。

そこで登場するのが、一足先に開港させられた結果、欧米の言葉や習慣になじんでいた中国の人々です。
中国人も最初は日本語が話せないこと、欧米人と同じです。しかし、発音は違っても、ずっと漢文に親しんできた日本人ですから、中国人が漢字で書く文章は理解できます。

このようにして「筆談」に始まった通訳と、衣食住のサービスを目的として、欧米人貿易商に伴なって来日した中国人は、日本側にとっても欠かせない存在になりました。

当時、日本と清国との間には条約が結ばれていませんでしたが、貿易実務上の仲介者として必要な中国人を非合法のまま放置するわけにもゆかず、横浜に住む中国人に「籍牌」(住民登録)を義務付けることで、居留地での居住と経済活動を許可したそうです。これが慶応3年(1867)とか。
「日清修好条規」が批准されて、中国人の正式入国が可能になったのは明治6年(1873)のこと。

横浜の居留地における外国人住宅は、比較的地盤の良い海岸の砂嘴の上や、後には山手にも作られましたが、中国人の居住地は地価の安い低湿地でした。
地図 を見ると、周囲の町と道路の向きが明らかに異なる不自然な区画の横浜中華街ですが、ここは砂嘴の内側に開拓された新田の跡で、海側の隣接地よりも一段低く、道路の向きは当時の畦道の名残りだそうです。

日本人よりも少し早く欧米文化に接した中国人たちは、あらゆる分野で欧米の生活や仕事のやり方を日本に伝える役割を果たしました。
召使い・執事・船舶荷役から食料品店・ペンキ屋・ピアノ調律・印刷・クリーニングなどその職種は多岐に亘りますが、中でも「三刀業」と呼ばれる料理人(厨刀)、洋服仕立屋(剪刀)、理髪屋(剃刀)は中国人の得意分野だったようです。

現在は500m四方に200軒もの中華料理店が密集する横浜中華街ですが、南京町が形成された頃は料理屋は2軒だけで、明治20年頃にも85店舗中料理屋は10軒ほどとか。
洋服仕立屋と理髪屋の店の方が多かったようです。

弱い地盤の南京町は関東大震災で壊滅。これから復旧したものの日本と中国との戦争、横浜大空襲と苦難の日々。
大戦後、一転して戦勝国になった中国人には援助物資が優先的に供給されて闇市景気。しかし、お金と共に犯罪の町のイメージも生まれ、昭和30年(1955)に南京町の名を捨て、「横浜中華街」として再生することになりました。
「横浜中華街」という名前は、意外に新しく作られた地名でした。

以前に開国の頃の 神奈川・横浜 について記したことがありますが、この時代に貢献した中国人の寄与については全く触れていなかったので、この記事で補足しました。

[65180] 2008 年 5 月 18 日 (日) 20:52:45 N-H さん
 横浜中華街の区画のずれ
hmt 横浜1 開港前後

[65179] hmt さん
地図 を見ると、周囲の町と道路の向きが明らかに異なる不自然な区画の横浜中華街ですが、ここは砂嘴の内側に開拓された新田の跡で、海側の隣接地よりも一段低く、道路の向きは当時の畦道の名残りだそうです。

この区画のずれの理由に関する出典はありますでしょうか?
私が不確かながらどこかできいた話として、中華街の区画の不自然なずれは、風水によるものであるという説があったものですから。

風水というのも、なんだかいかにもありそうでいて、そうはいっても後付けのまやかしの理由にすぎないような気もしますね。

[65181] 2008 年 5 月 18 日 (日) 21:12:12 むっくん さん
 Re:横浜中華街の区画のずれ
hmt 横浜1 開港前後

[65180]N-Hさん
この区画のずれの理由に関する出典はありますでしょうか?
明治後期などの古地図から目的地を探し出してミッションを解く、という約2年前のNHKの番組でもhmtさん御紹介の説が紹介されていました。

横浜開港資料館館報「開港のひろば」なども参考になるものと思います。

[65182] 2008 年 5 月 18 日 (日) 21:39:02 Issie さん
 Re^2:横浜中華街の区画のずれ
hmt 横浜1 開港前後

こちら は個人のページのようですが(ブログだから,やがてはリンクが切れるのかも),横浜開港以前の地図(横浜村外六ヶ村之図)が掲載されています(著作権上の問題からか,“生”の地図ではなく“イメージ図”ですが)。
小さくて見えにくいけれど,「横浜新田」と書かれているところが,今の中華街ですね。近代測量法による実測図ではありませんから,おおよその対照しかできませんが,新田の畔道と現在の中華街の街路とがほぼ同じ向きであることがわまります。

そんなわけで,開港資料館の説明でも「ここに住み着いた中国人が風水を意識した可能性」は排除していないものの,「風水に基づいて造成された」とまでは言えなさそうだ,という見解が有力であるようですね。
そこで,最近の一般向け歴史ガイドでは,こんな書き方をしているものがあります。

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……また中華街の向きが斜めになっているのは,かつてあった横浜新田の畔道をそのまま利用したという説が有力だが,風水学的にみてよい土地でもあったようである。……

   (神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会編『神奈川県の歴史散歩・上 川崎・横浜・北相模・三浦半島』,山川出版社,2005年;p.109 「中華街」)
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ところで,この「横浜村外六ヶ村之図」,ほかにも横浜の原風景が読み取れて,とても面白いです。

[65183] 2008 年 5 月 18 日 (日) 22:41:51 hmt さん
 横浜3題
hmt 横浜1 開港前後

[65180]N-Hさん 横浜中華街の区画のずれの理由に関する出典

この件に関しては、出典と言えるほどのものは持ち合わせていませんが、NHKの番組「知るを楽しむ・なんでも好奇心」 2005年4月 の中で紹介されていた記憶があります。
既に[65181] むっくん さん、[65182] Issieさん から示していただいたものと、大筋では共通していると思います。

横浜の外国人居留地の町名
明治19年 「地方行政区画便覧」 に出ていた町名が面白かったので、類型別に示します。
【都市名】 長崎町、神戸町、大阪町、京町、小田原町、前橋町、上田町、函館町、
【国名】  薩摩町、豊後町、阿波町、加賀町、尾張町、駿河町、武蔵町、越後町、
【広域地名】九州町、蝦夷町、琵琶町、富士山町、日本大通、
【その他】 本村通、武蔵横町、角町、堀川町、二子町、本町通、水町通、海岸通

横浜はいろんなものの発祥地



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