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特集

横浜2 都市横浜

hmtマガジン


落書き帳オフ会番外編が横浜で行なわれました。
たくさんある落書き帳過去記事に残されている 160年余に及ぶ横浜の姿を探りながら、まとめ記事のシリーズを書くつもりです。
そして、過去記事と併せて hmtマガジンのテーマ「都市」の特集にします。

この特集は、「横浜2 都市横浜」です。 
横浜市域の変遷や港湾・鉄道・水道などを含む横浜の都市施設を対象とするつもりです。

横浜に関する記事は多すぎて、とても全部を紹介することができません。
限られた数の中で、N-H さん や ありがたき さんが地元から発信した記事は、できるだけ収録するつもりです。


記事数=24件 登録日:2016年8月5日
記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[16752]2003年6月14日
横浜市中区 Issie
[59657]2007年7月7日
☆書き込み50件&過去ログ10000件読破☆ 横浜賛美 スピカ
[84263]2013年10月24日
横浜へようこそ N-H
[84274]2013年10月26日
横浜駅 vs 桜木町駅 N-H
[25471]2004年2月27日
馬車道と日本大通り ありがたき
[9969]2003年2月28日
汽車道を走っていた鉄道 N-H
[21137]2003年10月16日
復活路線、超番外編 ありがたき
[21138]2003年10月16日
汽車道 N-H
[21149]2003年10月16日
東横浜駅、横浜港駅、山下埠頭駅 ありがたき
[24427]2004年2月3日
新高島の閑散ぶりと、偉人・高島嘉右衛門と、みなとみらい地区の開発と ありがたき
[82972]2013年3月9日
横浜みなとみらい21 hmt
[82973]2013年3月10日
横浜みなとみらい21 (2)高島駅と高島埠頭 hmt
[27546]2004年4月19日
ステーション物語 ありがたき
[49808]2006年3月12日
トライアングルの頂点だった時代もある横浜駅三代記 hmt
[56597]2007年2月3日
同名の駅 デスクトップ鉄
[31361]2004年8月4日
トロリーバスは、ゆっくり走るバスのことである(Y/y?) ありがたき
[61533]2007年10月6日
100年前、国有化の頃の鉄道(15) 市内電車と行楽電車 hmt
[23564]2004年1月9日
水道道 N-H
[23600]2004年1月10日
首相の支持率か、大統領の支持率か ありがたき
[34770]2004年11月3日
近代水道 事始めの三井(みい)村 hmt
[43001]2005年7月14日
相模川水系・コレクションに集められた5つのダム湖 hmt
[58684]2007年5月26日
Re:横浜市の水源、雨乞いの神様 hmt
[58728]2007年5月29日
水道の蛇口の向こう側(1)江戸の水道から近代水道へ hmt
[58758]2007年5月31日
水道の蛇口の向こう側(4 )相模川水系 hmt


[16752] 2003 年 6 月 14 日 (土) 10:33:16 Issie さん
 横浜市中区
hmt 横浜2 都市横浜

横浜市が区制を実施したのは,1927年4月1日の第3次市域拡張で上大岡地区や日下地区,保土ヶ谷地区,城郷(しろさと=小机)地区,綱島地区などが編入されたその半年後の同年10月1日のことです。
このときに,「鶴見区」「神奈川区」「中区」「保土ヶ谷区」「磯子区」の5区が設置されました。

「中区」の範囲は現在よりも広く,市制・編入前の
 旧横浜区・本牧村・根岸村
 中村・大岡川村・日下(ひのした)村
 神奈川町(南部=芝生[しぼう])・保土ヶ谷町(岡野新田・)・戸太(とだ)町
の区域にわたっていました。
大岡川デルタ(河口の砂洲上に建設されたのが「関内」地区)から山手・本牧,野毛山から戸部,そして現在の横浜駅周辺(ちょうどこの頃,それまでの高島町から現在位置に横浜駅が移転してきますが,当時,このあたりは何もない場末でした)と,つまり「横浜都心」のすべてを領域としていました。「中区」たる所以です。

この大「中区」が,戦時中に相次いで分区されました。
まず1943年12月1日に,大岡川デルタ西半分から上流側が分区して「南区」となりました。
それ以前,1936年11月1日に鎌倉郡の永野村が「中区」に編入されています。この新規編入区域も含めて,旧中区の南西部が「南区」として分立したわけです。
(1936年11月1日には,同時に久良岐郡から金沢町と六浦荘村が磯子区に編入されています。これで久良岐郡は消滅しました。)

さらに1944年4月1日には野毛山・掃部(かもん)山以北の区域が「西区」として分区されました。おおよそ,旧戸太町の大部分と,神奈川町から旧中区に入った横浜駅周辺の地区がこれにあたります。この際,運河(現在は道路になっている)と鉄道高架線にはさまれた細長い「桜木町」が中区と西区とに分割されました。

つまるところ,「西区」「南区」というのは,もとの大「中区」の中での“西”“南”という感覚の命名であるように思います。

なお「南区」は前述のとおり,1969年10月1日に南部の上大岡地区(旧大岡川村南部)と旧日下村・永野村の区域が分割され,戸塚区の一部も加えて「港南区」として独立しました。
同時に,保土ヶ谷区からは「旭区」が,港北区からは「緑区」が,戸塚区からは「瀬谷区」が分立しています。

そういえば,1939年に現れた「港北区」という区名は,神戸市が1931年の区制実施に際して設置した「湊西(そうさい)区」「湊東(そうとう)区」というのと名前の感覚が似ていますね。横浜市が参考にでもしたのでしょうか。神戸のこの区名は,その後消滅してしまいますが。

[59657] 2007 年 7 月 7 日 (土) 22:58:33【2】 スピカ さん
 ☆書き込み50件&過去ログ10000件読破☆ 横浜賛美
hmt 横浜2 都市横浜

早いもので落書き帳への書き込みが50件になりました。また、過去ログも読み進めており、先日10,000件を突破しました。

そこで、というわけではないですが、横浜市の編入前の町村について調べてみました。

〈内容〉1920年当時の横浜市と横浜市編入前の町村の人口と、現在の同じエリアの人口を比較してみるという極めてしんどいデータを作る。

〈方法〉1.1920年の国勢調査のデータを手に入れる。→横浜中央図書館でゲット。
    2.現在の町名ごとの人口データを手に入れる。→市のHPからゲット。
    3.町名の変遷が分かる資料を用意。→『横浜の町名』
    4.2と3を用いて、現在の町名を当時の市町村名に整理する。→骨折。
    5.市町村ごとに当時の市町村域の現在の人口を割り出す。→ひたすら計算。
    6.以下のようにまとめてみました。

〈表の見方〉
町村名…当時の市町村名を表す。当時は1市2町29村に分かれていました。
1920年…1920年当時の人口を表す。大正9年の国勢調査によるものです。
2007年…2007年の人口を表す。4月31日のデータ、「住民基本台帳・外国人登録原票」によるもので、横浜市統計ポータルサイトによりました。
*…1920年の人口を100とした時の現在の人口です。小数第一位を四捨五入しています。
現在の区名…現在市町村が属している区の名前です。
編入…横浜市への編入時期。下記参照。
   第一次市域拡張…1901年久良岐郡戸太町、中村、根岸村、橘樹郡神奈川町、子安村子安
   第二次市域拡張…1911年
   第三次市域拡張…1927年
   第四次市域拡張…1936年
   第五次市域拡張…1937年
   第六次市域拡張…1938年
※区画整理等による町村界の変更はメインの町に集計していますが、判断がつかない神奈川区松見町、青葉区桜台、たちばな台、さつきが丘、すすき野、すみよし台は人口を半分ずつ2村に振り分けました。
また、よりデータを忠実にするため、当時は無かった埋立地(西区みなとみらい、金沢区並木など)の人口は2007年の人口には入っていません。

〈結果〉
横浜市(中区、磯子区の一部、神奈川区の一部、西区、南区の一部、保土ヶ谷区の一部)
市名1920年(人)2007年(人)
横浜市422,938421,397100

久良岐郡(磯子区、南区の一部※、金沢区、港南区の一部)
町村名1920年(人)2007年(人)現在の区名編入
屏風浦村2,658112,6384238磯子区第二次・第三次
大岡川村2,621163,2086226南区・港南区第二次
日下村3,912138,2563534磯子区・港南区第三次
金沢村5,232105,4822016金沢区第四次
六浦荘村4,21983,4941979金沢区第四次
※南区は全域が久良岐郡ですが、1920年当時一部が既に横浜市に編入されていました。

橘樹郡(神奈川区、鶴見区、港北区の一部、保土ヶ谷区の一部)
町村名1920年(人)2007年(人)現在の区名編入
保土ヶ谷町21,431144,664675保土ヶ谷区第三次(一部は一次・二次)
城郷村5,294108,4012047神奈川区・港北区第三次
大綱村4,782169,9823555港北区・神奈川区第三次
旭村3,971117,7412965鶴見区・神奈川区・港北区第三次
生見尾村15,22590,198592鶴見区第三次
町田村16,94993,746553鶴見区第三次
日吉村※3,76967,476港北区・川崎市第五次
※日吉村は川崎市のデータが取れないので、比較は無し。

都筑郡(保土ヶ谷区の一部、港北区の一部、旭区、緑区、青葉区、都筑区)
町村名1920年(人)2007年(人)現在の区名編入
都田村5,02260,6741208都筑区第六次
新田村3,53757,6681630港北区・都筑区第六次
中川村3,285106,3953238都筑区第六次
山内村3,060125,4944101青葉区・都筑区第六次
中里村4,369122,1082795青葉区・緑区第六次
田奈村3,958120,3283040緑区・青葉区第六次
新治村4,446139,9133147緑区・保土ヶ谷区第六次
都岡村3,996127,3373187旭区第六次
二俣川村3,828121,5473175旭区・保土ヶ谷区第六次
西谷村2,67136,6021370保土ヶ谷区・旭区第六次

鎌倉郡(戸塚区、瀬谷区、港南区の一部、泉区、栄区)
町村名1920年(人)2007年(人)現在の区名編入
戸塚町4,28971,7501673戸塚区第六次
中川村3,915127,2153249戸塚区・泉区・瀬谷区第六次
川上村2,67980,9353021戸塚区第六次
永野村1,23594,3127636港南区第六次
豊田村2,27250,9902244戸塚区・栄区第六次
本郷村3,106102,7373307栄区第六次
大正村2,95466,7642260戸塚区第六次
中和田村5,72599,1011731泉区第六次
瀬谷村3,90390,9682331瀬谷区第六次

※都筑郡・橘樹郡から川崎市になった部分及び鎌倉郡から鎌倉市・藤沢市になった部分のデータは載せていません。

〈感想〉郊外の人口の伸びには凄まじいものがあって、永野村は76倍になっているのには驚きました。当時の横浜市域の人口は現在とあまり変わりないあたりも興味深いです。



地名コレクション関係 横浜スペシャル
ぺとぺとさん  「企業名由来町名」コレクション
鶴見区大東町(昭和16年〜)
「大日本塗料」と「東亜科学」から1文字ずつとった地名です。倒産していたらダメだという事で調べたところ、「大日本塗料」は簡単に見つかりましたが「東亜科学」がどうなったのかが分かりません。昭和26年の横浜市3000分1地形図鶴見(画像を直接貼れません)では、大東町には「大日本塗料」しか見当たらないので不安ですが、一応報告しておきます。
鐘紡は今月からクラシエホールディングスになっております。


笠津前浜さん 「職業由来町名」コレクション
栄区鍛冶ヶ谷町・鍛冶ヶ谷一丁目・二丁目
鎌倉時代に鍛冶氏が居住していたことに由来します。「鍛冶町」の形でなければいけないとは書いてなかったので。


星野彼方さん  「交通由来町名」コレクション
神奈川区新子安一丁目・二丁目
1910年 京浜電気鉄道「新子安駅」開設
1936年 神奈川区子安町字溝下、打越、神之木から「新子安」を新設
1943年 国鉄京浜線「新子安駅」開設 東京急行電鉄品川線「新子安駅」を「京浜新子安」に改称
1966年 神奈川区新子安、入江町、神之木台、子安台の各一部から「新子安一丁目」「新子安二丁目」を新設
新興住宅地ではないですが…。


表作りはかなり大変な作業でしたが、何とか見れるようになりました。くどい説明や不足な説明が多くて、今回に限らずご迷惑をお掛けしていますが、100件200件と、皆様に話題を提供していけるよう頑張っていきたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。

【1】少々の加筆で、表を増強。
【2】白桃さんの指摘で表の数値のミスを訂正。その他の数値も手許のデータと照合して合っていることを確認しました。

[84263] 2013 年 10 月 24 日 (木) 23:04:20 N-H さん
 横浜へようこそ
hmt 横浜2 都市横浜

[84262]ペーロケ さん

あらためまして、横浜へようこそいらっしゃいました。
私もかれこれ横浜市の居住期間が人生の半分を超えて数年経ちました。

貿易、いえ、某駅とは、桜木町駅です。私が大好きな山口県出身の歌手、山崎まさよしの「One more time,One more chance」という歌で登場する地名ということで、いつか行って見たいと昔から憧れた街でもあります。
そう、桜木町、あの歌に出てきますね。しかし、白桃さんはもとよりデスクトップ鉄さんも、おそらく思い浮かべたのは桜木町のひとつ先、関内駅じゃなかったでしょうか。

桜木町駅はご存知日本で鉄道が最初に開通した初代横浜駅を引き継いだ由緒ある駅ですが、ここは実は当時からの横浜の中心市街の「入口」といったほうがよく、本当の中心は、商業は伊勢佐木町、ビジネスは関内だったものと思います。いずれにしても今の関内駅が最寄りということになります。これに商業地区としては元町、山下町(中華街)、野毛あたりが続きます。
しかし、長らく桜木町駅は行き止まりで、その先関内まで国鉄が開通したのは昭和30年代になってから。それまでは、長らく市電が横浜中心市街のメインの交通手段だったわけです。

そして桜木町から先の根岸線が開通した昭和30年代に横浜駅西口にデパートや駅ビルができて様相がだいぶ変わります。昭和の終わりごろには、横浜駅周辺にはデパートが3つのほか駅ビルや地下街が発達し、西口にはおびただしい飲食店街ができることになり、その頃には逆に伊勢佐木町の凋落がすすみ、横浜の商業の中心地区は横浜駅周辺に完全に移動したと言ってよいでしょう。

そして平成になるころから桜木町と横浜駅の間の海側の造船所等の跡地にみなとみらい地区が開発されることになります。しかし、バブルの崩壊に直面し、なかなかビルが埋まらず、今でも建設中の地区がいくつもありますが、それでも相当数の高層ビルが建つことになりました。そうなると、ようやく桜木町駅の海側が新たな横浜の中心地区のひとつの顔としての側面を見せ始めます。逆に横浜駅周辺は、老朽化した駅ビルの取り壊し再建モードにはいっており、これが現状ということになります。

とまあかなり複雑な経緯を経てはいますが、今の桜木町の立ち位置は微妙ですね。妹さんの「桜木町の方が栄えている」というのは、おそらくみなとみらい地区のことを念頭においているのだろうと思いますが、当の桜木町駅に最も近い古くからの繁華街である野毛の人たちは、東横線の桜木町駅の廃止とみなとみらい線の開通で、むしろ桜木町から山側は衰退モードになるのじゃないかと心配しているわけです。
個人的にはまだ横浜駅周辺のほうが日常的な集客力は桜木町駅周辺よりも高いのじゃないかと思いますが、みなとみらい地区のポテンシャルは日増しに上がっているのは確かです。

[84274] 2013 年 10 月 26 日 (土) 17:45:23 N-H さん
 横浜駅 vs 桜木町駅
hmt 横浜2 都市横浜

[84272]k_ito さん
話題にお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
ちなみに私は2年半前から東横沿線住民で、その前は長らく相鉄沿線住民でした。

みなとみらいに行くときに、運賃が高いみなとみらい線に乗ることは少ない。
これは感覚として確かにわかります。50円の差ではありますが。ただし、東横沿線住民となった今ではそのままみなとみらい駅を使うことがほとんどです。

根岸線電車が桜木町駅に着くときはみなとみらいの景色(個人的には、特にコスモクロック)が見えるが、みなとみらい線からでは見えない。
こちらは、みなとみらいへ行く目的がたまの観光ということならわかります。私のようにさすがに横浜市民を25年以上やってるとこれについてはこだわりはありませんね。

横浜駅は確かに利用者数は多いですが、乗換ターミナルとしての利用がかなりを占めるんじゃないでしょうか。多数の鉄道事業者が乗り入れているので、それら相互間の乗り換えが逐一カウントされてしまいますから。それだけをもって横浜駅のほうが中心だ、とは言い難いのではないでしょうか。
休日の横浜駅周辺は今でも人があふれ、駅近くの飲食店はどこでもあるチェーン店ですら列になっています。ところが、駅を少し離れると、個性的な店に空席がいくつもあったりする。確かに駅の直近にいろいろなものが集まりすぎているきらいはありますが、それでも駅から降りて何がしか横浜駅近辺で用意をする人の数は桜木町駅での同様の人よりも圧倒的に多いものと思われます。

ということで、前にも書きましたけれども、長年の横浜住民のイメージとしては、現在トータルな中心としては横浜駅、ビジネスや官公庁の中心は関内駅、ショッピングやレジャーだと横浜駅、桜木町駅、石川町駅、みなとみらい駅、元町・中華街駅に分散しているといったところでしょうか。

[25471] 2004 年 2 月 27 日 (金) 22:04:42 ありがたき さん
 馬車道と日本大通り
hmt 横浜2 都市横浜

[25465]両毛人さんのお話に乗っかりますと、先日開業した横浜高速鉄道みなとみらい線の新駅5つのうち、馬車道駅と日本大通り(県庁・大さん橋)駅の2つは通りの名前をとっています。共に本町通(ほんちょうどおり)とそれぞれの通りとの交差点に位置するのですが、このうち馬車道について、本町通よりおおよそ400メートル山側の国道16号線と馬車道の交差点名が「馬車道」で同名のバス停もあります。馬車道駅は本町5丁目停留所もしくは横浜第二合同庁舎停留所が最寄りでして、しかも本町通より海側は実は万国橋通(ばんこくばしどおり)という名前に変わるのです。もっと言っちゃうと、その本町通も県庁側からみなとみらい方面に進んで馬車道駅の上を通過して直進するとみなとみらい大通になっちゃうんですねぇ。ちょっと文章だけではわかりにくいのですが、地図を見ていただければ一目瞭然です。

http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.26.44.974&el=139.38.30.380&la=1&sc=2&CE.x=124&CE.y=180

[9969] 2003 年 2 月 28 日 (金) 06:03:08 N-H さん
 汽車道を走っていた鉄道
hmt 横浜2 都市横浜

[9947]雑魚 さん

確か横浜博の頃には SLが運転された区間

SLではなく、ディーゼル車が走っていました。この路線には思い出がありまして、
初日の列車と最終日の最終列車に乗車しました。ディーゼル車ですが、レトロな
雰囲気につくってありました。

この路線は、桜木町側は古いもののようですが、山下公園側は実はそれほど歴史
があるものではないそうで、昭和30年代ごろの建設だそうです。公園よりもよ
ほど後からできたわけで、景観を無粋に悪くする存在だったわけです。
なお、現在ところどころに線路跡のようなものが見られますが、あれは本当に当時
のものなのか、最近になって意図的に作ったものなのか、判断できずにいます。

最近タモリがこの貨物線跡に言及したそうな。

これ、半分眠りながら見てましたがおもしろかったですよ。先週のタモリ倶楽部で
したでしょうか。あのあたりの貨物線の遺構は結構健在なようでした。タモリはかな
りの鉄道好きでもあるようです。

[21137] 2003 年 10 月 16 日 (木) 16:04:58【3】 ありがたき さん
 復活路線、超番外編
hmt 横浜2 都市横浜

[21128]月の輪熊 さん
白河〜磐城棚倉の白棚線は鉄材供出による廃線後、鉄道が復活せずにバス専用路線となったものですが。

同じく「鉄道」としての復活ではないのですが、「鉄路」の復活であれば、身近にもあります。
JR桜木町駅広場の海側から赤レンガ倉庫方面に海の上を行く「汽車道」なる遊歩道は、元々は国鉄東横浜貨物駅から山下埠頭を結ぶ貨物線跡(旧国鉄高島線)を転用したものです。レールが残されたまま枕木を連想させるウッドデッキ調の床面にて整備されています。また、赤レンガ倉庫前から山下公園を結ぶ高架の遊歩道「山下臨港線プロムナード」も、同じく貨物線(旧国鉄山下臨港線路)を転用したものです。山下公園前に架っていた高架は撤去されたので、あぶない刑事に登場し、タカとユウジが駆け回った景色はなくなりましたが、設備自体は有効に復活したわけですね。

ちなみにこの貨物線、1989年に開催された「横浜博覧会」に合わせて日本丸(桜木町)〜山下公園でレトロ調ディーゼルカーが走りました。東横浜駅は1979年10月に廃止されているので、10年ぶりのプチ復活だったわけですね。このときの車両は博覧会に合わせて新造されたもので、博覧会終了後は岩手県に譲渡され、三陸鉄道が借入使用しており、現在でも元気に走っています。

[21138] 2003 年 10 月 16 日 (木) 16:50:16【1】 N-H さん
 汽車道
hmt 横浜2 都市横浜

[21137]ありがたき さん

汽車道についてですが、

レールが残されたまま枕木を連想させるウッドデッキ調の床面にて整備されています。

私はどうもあのレールについては「あやしい」と思っています。一旦レールは完全に撤去された後からもっともらしくレール様のものをはめこんだだけのような感じがするのです。
違うかなあ。

1989年に開催された「横浜博覧会」に合わせて日本丸(桜木町)〜山下公園でレトロ調ディーゼルカーが走りました。

なにを隠そう、この期間限定路線の初日と最終日に乗車しております。初日はたまたま山下公園前のホテル・ニューグランドで所用があり、それならというわけで利用しました。
一方最終日は私の誕生日にもあたり、また横浜ベイブリッジが開通直後ということもあり一日中横浜デートの締めくくりにこの鉄道の最終列車に乗車したのでした。

この路線、今にして思えば横浜駅東口から日本丸までみなとみらい地区の大通りの真ん中あたりを路面電車として延長して山下公園まで走らせれば恒久的観光兼実用施設としておもしろかったんじゃないかな、なんて妄想しています。まあ、まもなくMM21線が開通しますけれどもね。

[21149] 2003 年 10 月 16 日 (木) 22:28:30【2】 ありがたき さん
 東横浜駅、横浜港駅、山下埠頭駅
hmt 横浜2 都市横浜

[21138][21142]N-H さん
[21139][21143]深海魚 さん

汽車道についてですが、
私はどうもあのレールについては「あやしい」と思っています。一旦レールは完全に撤去された後からもっともらしくレール様のものをはめこんだだけのような感じがするのです。

元々が単線仕様だとして、大岡川河口の トラス橋部分で海側に偏って敷かれているのは不自然ですし、車両限界の点でも 「怪しい」 存在ですが、高層 ビルを擁する ウォーター・フロント地区でのこうした 「遺構」 は 「妖しい」 存在でもありますね。

まず、「汽車道」についてですが、レール部分は昔からの本物です。3つのトラス橋ですが、2つは本物、ご指摘の1つは別の場所からの移設です。桜木町駅側から新港埠頭方面を見て、順番に「港一号橋梁」「港二号橋梁」「港三号橋梁」と名前がついていますが、このうち一号と二号は1909年(明治42年)にこの場所に架けられました。一方の「港三号橋梁」ですが、実はこの場所に架るのは3箇所目になります。元々は1906年(明治39年)に北海道の夕張川橋梁として作られたものを、1907年(明治40年)に作られた総武鉄道江戸川橋梁と共に、1928年(昭和3年)に生糸検査所引込線として転用・架設されました。このうち旧・夕張川橋梁の橋長を短縮し1997年(平成9年)に現在の場所に移設したものです。移設されたものですが、紛れも無く鉄道橋として使われていたものです。線路とずれた位置にあるのは、汽車道を整備する際に元々敷かれていたレールを剥がすことなくそのまま利用した為です。この部分について、レールは港三号橋梁の移設に伴って敷き直しても良かったのかなとかも思いますが、それはまた別のお話。

赤煉瓦 パークに敷かれた線路は明らかに復元物と思われます。

こちらは復元物ですね。赤煉瓦パーク内にあるホーム跡ですが、海上保安庁の設備を整備する際に約半分に切られてしまいましたが、実際の横浜港駅跡です。ただ、傷みが激しかったこともありずいぶんと手を加えていることもまた事実です。屋根材はまるっきり新材です。ただ、線形はほぼ当時のままですから雰囲気は充分です。

山下公園前の高架については、敷設されたのは実はかなり新しく、昭和30年代になってからのはず。当時景観問題も起きたようです。

東横浜〜山下埠頭2.8kmについては、1962年(昭和37年)に建設が始まり、1965年(昭和40年)に完成したものです。しかし、1986年(昭和61年)にこの区間を含む高島〜山下埠頭は廃止されました。

ちなみに、山下埠頭部分の線路ですが、埠頭入口の交差点で道路を横切る線路以外はなくなっています。駅の跡も見ることは出来ません。ただ、山下埠頭自体が港湾機能として脆弱で、商用地転用も検討されていますから、もし公園なんぞになったあかつきには復元されるかもしれませんね。

ところでこれらの廃線跡はなぜ今まで残っていたのでしょう?わたしが推測するには、高島〜東横浜〜山下埠頭の区間はそのほとんどが港頭地区ですから、その部分はおそらく横浜市港湾局の管理地区だったと思われます。最近でこそみなとみらい地区として再開発されていますが、それまでは当然道路も港湾道路だった訳ですから、一般車両の通行もないこともあって線路の撤去などを積極的にせずともよく、むしろ多額の費用がかかるこれらの撤去には消極的で、半ば放置されていたのだと思われます。ちなみに、山下臨港線プロムナードの高架下は倉庫として長らく使用されていますし、代替設備のこともありますから撤去せずにこういった形で整備することで結局は万々歳だったのでしょう。

[24427] 2004 年 2 月 3 日 (火) 02:31:10【2】 ありがたき さん
 新高島の閑散ぶりと、偉人・高島嘉右衛門と、みなとみらい地区の開発と
hmt 横浜2 都市横浜

[24410]みかちゅう さん
それにしても「新高島」はどうなるのでしょうか。高島町駅も利用客は少なかったと思いますが、それ以上に利用者が少なそうです。マンションなら造れば人気が出そうですが、商業用地となるとなかなか店が建ちそうにありません。それにあとの観光目的でつけたような駅名に対し、ゆりかもめの「青海駅」のように違和感を感じるのは私だけでしょうか。

新高島駅は、当初の「みなとみらい21線」計画には無く、平成9年4月に横浜市の請願という形で後から追加された駅です。みなとみらい線で唯一相対式ホームを採用したのはそれを示すもののひとつでして、トンネル区間を開削に変更して新高島駅を構築したのですが、線形は基本的に変更しないことと、みなとみらいトンネルで掘削したシールドマシンを高島トンネルで再利用するために構内を縦移動可能なスペースを確保すること等の理由によります。
ところで、この一帯は旧国鉄高島ヤードの跡地のあたりで、みなとみらい地区の中でも後発の開発が計画されています。ちょっと前の新聞報道(日付は忘れました。神奈川新聞横浜版)によれば、日産の本社機能がこのあたりに移転することもどうやら決まったようでして、今現在は正直言って「何も無い」駅ですが、確実に開発される地域です。大江戸線・ゆりかもめの汐留駅が、街の開発を待って後開業したのとは逆の展開で、駅を先に開業させ街は追って開発という形になるのですね。
それから、「高島町」「新高島」と、このあたりの駅名に「高島」を使うのは、横浜市にとって相当の思い入れのある地名であるから。あくまで私見ですが、わたしにはそう思えてなりません。その「高島」という地名ですが、高島嘉右衛門という人名に由来した名称でして、彼は日本で初の鉄道、新橋〜横浜間が開業する時の横浜駅付近の開発に深く関わっているのです。当時この一帯は野毛浦という入り湾が広がっており、鉄道を横浜の居留地まで引くために神奈川宿と現在の高島町駅付近を結ぶ湾の上に幅約60メートル、長さ約1400メートルの築堤を135日で造成したのです。当時としてはかなり大規模な事業で、今で言う東京湾アクアラインを完成させたような感じとでも言いえたかもしれませんね。そして、鉄道、国道用地以外の土地は嘉右衛門の土地となり、「高島町」と名づけらたのです。
他にも、開港後の横浜でガス・水道・電気事業のほか高島学校の設立・易学の普及など文明開化的事業を行い、横浜の発展のために数多くの功績を残した人なのです。彼の功績をたたえ、高島町内には高島山公園と横浜市の地域文化財になっている望欣台の碑があります。こちらはみなとみらい地区とはちょっと離れた場所になるのですが、興味があれば訪れてみるのも良いかもしれませんね。

[82972] 2013 年 3 月 9 日 (土) 19:56:57 hmt さん
 横浜みなとみらい21
hmt 横浜2 都市横浜

現在東京メトロ副都心線で渋谷駅まで乗り入れている東武東上線・西武池袋線ですが、来週の土曜日 2013年3月16日から東急東横線・横浜高速みなとみらい線への乗り入れも始まることになっています。

私の居住地からは遠いと感じていた「横浜みなとみらい21」ですが、これで少しは身近になるかと思っていたら、電車の直通運転開始後3日後の3月19日 「みなとみらいトンネル」開通の記事 が落書き帳に現れました。

…というわけで、「MM21」とも略称されるこの地域について、少し調べてみました。

この地域の歴史を語る上で欠かすことができないのが造船所です。
渋沢栄一が地元の財界人と協力して横浜船渠を設立したのが明治22年(1889)。市制町村制と同じ年です。
三菱重工業に合併したのが1935年。占領下の財閥解体時代には、東日本重工業と名乗ったこともあります。
その後、船舶の大型化が進むと、横浜という立地ではこれに対応することができず、歴史あるドックも使われなくなり、横浜造船所自体も1980年以降に本牧・金沢地区に移転しました。

ところで、横浜市の本来の中心地は関内ですが、明治5年に開通した鉄道は この地区に入ることができず、初代横浜駅は町の手前で行き止まり。日本を東西に結ぶ幹線鉄道が東海道と決められた後も この事情は変らず、スイッチバックで凌いだりした時代を経て作られた 3代目の現・横浜駅[49808]の位置は、神奈川との境界付です。
こうなると、横浜駅付近には新たな都心部が形成されてきて、都心部の二分化をもたらします。

1965年 横浜市の飛鳥田市長は、分断された横浜都心部を一体化する再編成を提案したのですが、当時は盛んに仕事をしていた横浜造船所や鉄道貨物施設を移転させることができませんでした。

経済状況の変化を受け、「横浜市都心臨海部総合整備計画」が発表されたのは、1979年の細郷市長時代。
1983年の横浜造船所の移転完了と共に「みなとみらい21」事業がスタートしました。
造船所跡地に建設された横浜ランドマークタワーは 296mで、1993年に日本で最も高いビル(未開業の阿部野橋ターミナルビルは300m)としてオープン。石造の第2号ドックを復元したドックヤードガーデンも作られています。
なお第1号ドックは、これに先立ち「日本丸メモリアルパーク」(1985)として保存されています。

「みなとみらいトンネル」がその地下を通っている 横浜臨海道路(パシフィコ横浜前付近)を中心とする地図 を見ると、ドックのあった海岸線よりも数百m沖であることがわかります。
参考までに、横浜市三千分一地形図新港町(昭39) をリンクします。左端中央付近に第1号ドック(注記なし)があります。新港ふ頭の北西にあるMM21の主要部が海面であったことを、この地図で確認することができます。

なお、みなとみらい地区の北部には、高島駅や高島埠頭など 横浜造船所や海面とは異なる歴史を持つ土地もあります。

[81986]で紹介された新聞記事によると、横浜市の臨港幹線道路は、神奈川区恵比寿町―中区本牧ふ頭間を結ぶ全長10.5kmの市道として、1982年度に策定された港湾計画によるもので、今回のトンネルはその一部です。
トンネル開通発表資料 には 「開削トンネル」と記されていましたが、実は将来の交通量増大を見越して、海面埋立の土地造成に際して地下トンネルになる大きなコンクリ箱を埋めておいた「沈埋トンネル」であったようです。はまれぽ記事

20世紀末(1986-1999)に 約300億円(はまれぽ)をかけた 先行投資によるトンネル。
4車線構造のうち 当面は2車線のみ使用だが、ようやく生きることになりました。
もっとも、今回開通したのは大部分が道路の「地下路線」(一部に換気用の開口部)であり、水底部分は ほんの僅かです。
一部だけが水底になっている鉄道の「地下路線」(JR東京トンネルや東京メトロの各線)を除外している 前例 からすると、「水底トンネル」コレクションへの収録は難しいかもしれません。

[82973] 2013 年 3 月 10 日 (日) 17:22:17【1】 hmt さん
 横浜みなとみらい21 (2)高島駅と高島埠頭
hmt 横浜2 都市横浜

[82972] hmt
みなとみらい地区の北部には、高島駅や高島埠頭など 横浜造船所や海面とは異なる歴史を持つ土地もあります。

高島駅と高島埠頭についても記しておきましょう。

Old Map Room横浜 には、1999年当時のみなとみらい北部の地形図が示されています。
2003年開業の横浜高速鉄道みなとみらい21線は、まだ姿を現していません。
19日開通するトンネルが通る道路も、画面右端を僅かにかすめるのみで、殆んど見えません。

「大正11年測量」のボタンを押すと、関東大震災で罹災する直前の2代目横浜駅の隣に、高島駅が大きく描かれています。

脱線しますが、万里橋付近を通るカーブした道路は明治5年に開通した最初の鉄道が、海上を通った路線の遺跡です[79942]。Old Map Roomで「明治24年出版 1:20,000地形図」【追記】を見ると、よくわかります。
陸上を通れば遠くなる神奈川と横浜との間を海上築堤で短縮したこの工事を行なったのが 高島嘉右衛門で、彼の名は「高島町」など多くに残されています。高島易断でも有名な人物です。

本筋に戻って、横浜における鉄道貨物の拠点「高島駅」。
横浜港整備のために 20世紀初頭に造成された新港埠頭。ここには臨港鉄道も作られましたが、貨車入換作業用地がなく、初代横浜駅(後に東横浜駅)も不十分。
そこで表高島町の埋立地に新設されたのが、巨大な貨車入換作業設備を持つ高島駅です。
東海道本線からのアクセスとしては、鶴見駅から分岐して旅客線の少し南を通る約7kmの貨物線も作りました。

大正初年には、旅客線関係でも新設備が登場し、横浜の鉄道は 高島町を軸に 新時代を迎えました。
東京〜横浜(高島町)間に専用線を作り、電車運転を開始したのが 大正3年(1914)12月[39140]
東京駅と同じように赤煉瓦造りだった 2代目横浜駅が 高島町にできたのが 大正4年8月[49808]
(本格的な国電の元祖だった 京浜間の院線電車運転は、初代横浜駅改め 桜木町駅まで 延長、平沼駅は廃止。)
高島駅ができたのが 大正4年12月。鶴見から複線の貨物線ができて横浜付近の貨客分離ができたのは大正6年。

このように、一時は横浜の鉄道の中心だったこともある 高島駅付近ですが、横浜駅は 1928年に現在の位置に移転。
高島駅が担った鉄道貨物輸送は 戦後まで繁栄したものの、1980年代には衰退。JR貨物の高島駅が廃止されたのは1995年でした。
その後、みなとみらい再開発が進められたわけですが、貨物線自体は 迂回や地下化【下記2006年撮影空中写真の中央付近】などの変化はあるものの、桜木町駅まで続いているようです。

高島駅があった1977年撮影の 空中写真
右下には「高島埠頭」も写っています。
高島埠頭の海面が陸地になった2枚目の写真(2006年撮影)。
右下でカーブしている道路が、トンネル開通[82971]の「横浜臨港道路」です。道路の左側には、みなとみらい高層ビル群の影が写っています。

1977年撮影の空中写真に示されているように、「高島埠頭」は高島駅の南東側に並行した埋立地です。
横浜市港湾局 の年表によると、昭和5年(1930)に 1号さん橋完成、昭和60年(1985)供用廃止とあります。
第二次大戦後 全設備が占領軍に接収された横浜港の中で、講和条約発効前の 1950年に接収解除された 高島埠頭は、横浜復興の さきがけ となったようです。しかし、廃止後30年近い現在、WEBを探しても高島埠頭の情報は少ないようです。

【追記】地形図について
リンクしたOld Map Room本文の地図は、横浜駅付近から高島町駅付近までの範囲でしたが、画像一覧 には、北は青木橋から南は桜木町駅までをカバーする広範囲の地形図が収録されていました。
残念ながら東側は拡がっていないので、トンネル開通により今回の話題の発端になったパシフィコ横浜前を通る「横浜臨港道路」には及んでいません。
それでも、この細長い地形図4枚により、下記の変遷が非常によくわかります。
H11地形図:ランドマークタワー等のみなとみらい地区、横浜桜木町間の鉄道は根岸線・東横線・市営地下鉄の3線
←S23地形図:三菱横浜造船所、高島埠頭、高島貨物駅、現在の3代目横浜駅
←T11地形図:横浜船渠会社、高島町の2代目横浜駅、高島貨物駅、トライアングル名残の旧直通線[49808]
←M24地形図:海面と築堤上の鉄路(万里橋)、スイッチバックの初代横浜駅(現・桜木町駅)

[27546] 2004 年 4 月 19 日 (月) 23:32:58【1】 ありがたき さん
 ステーション物語
hmt 横浜2 都市横浜

[27531]湾岸太陽族 さん
『裏横浜』ってなんじゃ?!と思ったのですが、どうやら横浜駅東口から、こないだ廃止された東急高島町駅を通り、相鉄平沼橋駅あたりまでの一帯をそのように呼ぶ向きがあるのだそうです。
なんだか裏原宿の二番煎じのようですし、わざとらしい感じがして個人的には好きになれないのですが(笑)、隠れ家・隠れ街的な売り出し方(?)というのはまあ面白いかな、と思ったのも事実。

[27542]ズッキー さん
鉄道関係の本で、横浜駅が出来た当時は東口が表口だったという記述を見ましたし、昭和40年の飛鳥田市長の都市計画提案時にも東口を表口として出されていたようですが、タウン誌の記者はそういった事実確認無く、ただ見た目だけで、表口側を裏横浜と表現したのですね!

[27543]Issie さん
私は今だって当然に東口こそ「表」と思っていましたが…。

「本当の横浜」(関内+元町に伊勢佐木町と野毛・山手・本牧,あとはせいぜい大岡川デルタ一帯)に対して高島町のあたりが「裏」というならわかるけど。
「横浜のドはずれ」の「西口」は“表”横浜ではなくて,「裏神奈川」ですよぉ…。

横浜って大きい都市ですし、いろんな顔があるもんですね〜

せっかくなので、横浜駅の変革をちょっとまとめてみましょうか。
横浜駅が現在の場所に移ったのは昭和3年のこと。(それまでの横浜駅は2代目で高島町駅付近にありましたが、関東大震災で焼失してしまいました。)当時の駅玄関は現在の東口にありました。

一方の西口ですが、今でこそデパートやホテル、電器量販店などが立ち並ぶ立派な駅前をしていますが、昭和30年頃まで石油会社が所有する砂利置き場がある意外には何もなく、とても駅前といった風貌ではなかったそうです。

その西口の開発を推進したのは相鉄でした。複雑な所有者の区画を整理し、運河(新田間川)を埋め立てて駅前広場の用地を確保しましたが、開発の核となるデパート誘致は難航しました。元々砂利置き場の何もない所からの開発ですから無理もありませんね。いきなりのデパートはあきらめ、高島屋が高島屋ストアを出店し、同時期に名店街が出来ました。昭和31年のことです。その後、昭和34年に高島屋ストアがデパート(横浜高島屋)になり、昭和37年には東急ホテルとステーションビル(現在のシャル)が、昭和39年にはバスターミナル直下にダイヤモンド地下街が、昭和43年には横浜おかだや(現在の横浜岡田屋モアーズ)が、昭和47年には当時市内で最大の高層ビルだった天理ビルが、昭和48年には相鉄ジョイナスと三越横浜店が、昭和53年にはニチイ横浜店(現在の横浜ビブレ)ができ、高度経済成長の後押しも手伝って西口は開発から約20年で急速に発展しました。

さて、話は東口に戻します。急速に発展する西口に対し、東口には360度回転する展望レストランを擁するスカイビルと中央郵便局があるだけで、立派な駅舎の割にはどこか寂しい感じの駅前だったようです。そんな東口が変わったのは昭和55年のこと。駅ビルのルミネ横浜とポルタ地下街がオープンしたのです。ルミネは俗に4代目横浜駅と呼ばれますが、西口のステーションビルはカウントされていませんね。同時に東西自由通路が完成し、それまで駅によって東口と西口に分断されていたものが広い通路で結ばれたのです。さらに昭和60年には横浜そごうがオープンし、東口もほぼ現在の形になりました。

平成に入ってからの主だったものとしては、平成2年に東急ハンズ横浜店が西口に、平成8年に新スカイビルが東口に、平成10年には横浜ベイシェラトンが西口にオープンしています。

今では東西どちらを表玄関とするかというのは愚問ですね。東口が明確に「表」であった名残をしいて挙げるとすれば、今でもバスの行先は「横浜駅」と言えば東口バスターミナルを指すことでしょうか。(西口バスターミナルは「横浜駅西口」です)

時代と共に変化を遂げている横浜駅、先日はみなとみらい線開業で東急の駅が地下に切り替わったところですが、近々京急横浜駅も下りホームが独立し、単独駅舎もできるようです。仮設感のありありなみなみ通路の本開業はいつのことやら。いずれにしても、一横浜市民としてはいろんな意味で楽しみなところです。

[49808] 2006 年 3 月 12 日 (日) 16:20:36 hmt さん
 トライアングルの頂点だった時代もある横浜駅三代記
hmt 創業期の鉄道 hmt 横浜2 都市横浜

失われた「トライアングル」が横浜にありました [49796]。この機会に横浜駅の歴史を振り返ってみます。

よく知られているように、日本の鉄道のはじまりは明治5年です。
初代の「横浜駅」(現・桜木町駅)は、品川−横浜間が仮開業した明治5年5月7日(1872/6/12)に誕生した“日本最初の鉄道駅”です。
4ヶ月後には新橋駅も完成し、重陽の節句を期して正式の開業式が行なわれる予定でしたが、暴風雨のために3日後の明治5年9月12日となりました。太陽暦換算[49122]で1872年10月14日(鉄道記念日→鉄道の日)。

満20歳になる直前の明治天皇は、1時間の乗車(仮開業時代にも乗車経験あり)の後、横浜駅で
東京横浜間ノ鉄道朕親シク開行ス 自今此便利ニヨリ貿易愈繁昌庶民益富盛ニ至ランコトヲ望ム
という勅語を発せられました。

これを事始めとして、鉄道建設は東海道を西へと進み、やがて京都・大阪に達した……わけではありません。

この鉄道は、あくまでも首都と開港場とを結ぶ「東京横浜間鉄道」であり、横浜駅は外国人居留地に突き当った町はずれの地に設けられました。そう言えば、新橋駅も明石町の外国人居留地[35134]に近い場所でした。
新橋駅・横浜駅共に、市街地を突っ切らなければ鉄道の延長ができない立地であり、文字通りのターミナルでした。
東京の市街高架線が通じたのは1910年。電車唱歌の時代[35062]よりも後です。横浜の根岸線に至っては1964年になってようやく実現しました。

では、西京と東京とを結ぶ鉄道は?
もちろん東西両京を結ぶ鉄道の必要性は認められていましたが、資金がなくては着工できないし、東海道経由と中山道経由との利害得失も考えなければなりません。

西南の役などを経て、鉄道の軍事的価値も認識され、地域開発や防備上の見地から中山道ルートの鉄道が選ばれて着工しました。しかし、やがて山岳地帯の工事困難や輸送力低下が明白になり、明治19年(1886)に至ってコロッと方針を変更します。
こうして、ようやく東海道鉄道を建設する体制になりました。

そうなると、行き止まりの横浜駅からどのようにして西へ進むのか?
止むを得ず、スイッチバックで東海道の程ヶ谷に向かったのですね。このようにして、横浜−国府津間は明治20年7月に開業。

他方、神戸−京都間から鉄道敷設が始まった西側では、中山道鉄道時代の明治17年には琵琶湖の汽船連絡を含めて大垣までが開通し、武豊から名古屋へと進んだ工事も、明治20年4月には木曽川橋梁で西からの鉄道と結ばれていました。

御殿場ルートの足柄越え、伊吹越えルートの変更、汽船に頼っていた湖東線部分の建設を含む残りの区間の工事を終えて、東京−神戸間が全通したのは明治22年7月でした。

横浜駅の話に戻ります。
Old Map Room で明治24年測量を選び「↓」により表示位置を切り替えてみてください。

神奈川方面(上方)から南下してきた鉄道線路が、下端に近い初代横浜駅でスイッチバックして、程ヶ谷方面(左方)へと伸びている様子が示されています。高島町から程ヶ谷(現・保土ヶ谷)へと向かう線路は、ほぼ現在の国道1号沿いです。

「↑」によって分岐点よりも北を見ると、横浜駅と神奈川駅(横浜駅の1ヶ月後に開業、地図の北端近くで緑色の東海道と青木橋で交差)との間の鉄道線路は、細長い埋立地を何個も連ねて、入り江を弧状に横断した築堤の上に敷設されたことがわかります。万里橋はこのような埋立地を結ぶ橋の一つでした。神奈川の港があった湾入は、「平沼」に変っています。この埋立を請け負ったのが高島嘉右衛門で、鉄道用地などの官有地を除いた部分の土地を取得しました。高島町の名は、もちろん彼に由来します。

この地図から3年後の明治27年に日清戦争が勃発すると、陸軍は青山練兵場[35062] (現・神宮外苑)の軍用停車場に集結させた兵士を鉄道で西に送ることになりました。ところが、新宿・品川・横浜とスイッチバックが続いて、すこぶる非能率です。そこで品川線の大崎から大井へと短絡させて品川スイッチバックを解消しました。大井には、後に新橋から鉄道工場が移転して現在に至っています。

本稿の主題である横浜にも、神奈川駅から程ヶ谷駅へと直線で結ぶ軍用列車直通線を建設しました。
日清戦争は翌1895年に終わりましたが、鉄道局はこれを横浜スイッチバック解消の好機ととらえ、直通線を複線化して東海道線に転用します(明治31年=1898)。このようにして、神奈川駅・横浜駅・程ヶ谷駅という「トライアングル」が出来上がりました。

しかし、本線から外れて、神奈川または程ヶ谷での乗換を強いられることになった横浜の商業会議所はもちろん猛反対です。
妥協の産物として、明治34年に直通本線上に平沼駅を開設することになったのですが、この駅も横浜からの交通の便が悪くて不評だったそうです。

Old Map Roomには、この時代の地図はありませんが、大正11年に切り替えてみると、平沼を埋め立てた土地にできた石油タンクやゴム会社の付近に「旧直通線」という表示が見えます。

スイッチバックは解消しなければならないが、横浜の立場を無視するわけにもゆかない。そこで、神奈川からの線路を程ヶ谷への直進でなく横浜の方へねじ曲げることになり、高島町に2代目横浜駅が誕生することになりました。東京駅が完成して、京浜間が高速電車の専用線(現・京浜東北線)で結ばれた[39140] 翌年、大正4年(1915)のことです。
この時に初代横浜駅は桜木町駅と改名され、高島町から延長された電車のターミナルとして再出発しました。
このようにして、「トライアングル」の時代は17年間で終り、不評の平沼駅は廃止されました。

Old Map Roomの大正11年の地図は、この2代目横浜駅時代です。埋立てが進み、貨物駅、造船所などが目立ちます。
大正11年という年代からわかるように、翌年には関東大震災に襲われ、1年先輩の東京駅と同じように赤煉瓦造りだった2代目横浜駅も、新築後わずか8年で大きな被害を蒙ります。

震災復興にあたっては、平沼中央駅計画案などもあったようですが、結局のところ、本線は直通するが桜木町への電車線は残し、両者の分岐点に3代目横浜駅を造ることになりました。
大正11年の地図で、ライジングサンとスタンダードの油槽所の間を「旧直通線」が通っていた場所で、昭和3年(1928)10月開業。

昭和23年と平成11年の地図にある通り、これが現在の横浜駅であり、横浜駅と近くなりすぎた神奈川駅は廃止されました。新しい地図でも万里橋とその付近の道路のカーブが、最初に鉄道を敷設した弧状の埋立地の痕跡を残していますが、古い地図と比較しなければ、なかなかこの事実に気付きません。

三代記と銘打ちながら、明治、大正の「トライアングル」の時代を中心としたので、現・横浜駅が生まれたところで終わります。
戦後を中心とした「ステーション物語」は、ありがたき さんの[27546]をご覧ください。

[56597] 2007 年 2 月 3 日 (土) 03:52:06 デスクトップ鉄 さん
 同名の駅
hmt 横浜2 都市横浜

[56595] ペーロケ さん
5駅は横浜市が該当します。
JR「横浜」
相鉄「横浜」
京急「横浜」
東急「横浜」
市営地下鉄「横浜」
横浜高速鉄道(みなとみらい線)もありますので6駅になります。そしてどの駅にも接頭語がつきません。

[31361] 2004 年 8 月 4 日 (水) 00:36:28【1】 ありがたき さん
 トロリーバスは、ゆっくり走るバスのことである(Y/y?)
hmt 横浜2 都市横浜

[31303]白桃 さん
このトロリーバスですが、大都市にはいつ頃まで見られたのでしょうか?

[31310]hmt さん
日本の都市で最後までトロリーバスが動いていたのは横浜ですが、1972年3月31日に最後の横浜駅西口起点の循環線9.5kmが廃止されました。

[31322]N-H さん
白桃さんでさえ記憶が定かでないとおっしゃり、Issie先生も見た記憶がないとおっしゃる東京のトロリーバス。
ははは、そんな貴重な東京のトロリーバスに私はしっかりと乗車の記憶があるんですよ、はい。

[31324]いっちゃん さん
私もトロリーバスに乗ったことがあります。ただ、どこの街のトロリーバスだったかが分からないのです。
乗り物が大好きな幼児だった私は、自分からこの不可思議な乗り物(線路の無い電車)について親に尋ねた記憶があります。
当時、私は川崎市に住んでいましたので、東京、川崎、横浜のトロリーバスが考えられます。

都市部のトロリーバスが廃止されたのがいつ頃かは発覚したところですので、「なぜトロリーバスは急激に終焉を迎えたか?」についてを補足的にコメントいたします。

その前に。最後まで動いていた横浜のトロリーバスですが、こちらは現在で言うところの横浜市営201・202系統循環線がほぼ合致するルートですね。市電全盛の頃に路面電車ではなくゴムタイヤのトロリーバスが採用されたのは、和田町から常盤園、鶴屋町から泉町あたりの急勾配を登るためにいうのが理由のようですが。

そもそもトロリーバスの利点は、(1)軌条が要らない、(2)バスよりも大きな輸送力、(3)電力で走行するので排気ガスや騒音の発生がない、というものでした。路面電車網を急ピッチで拡張する必要が出てきたときに軌条が要らないトロリーバスは実験的な要素が盛り込まれて採用され、そこそこの規模に成長したのですが…。最初の設備更新の時期が来たとき、既に時代は変わっていました。架線を用いるために路面電車と一元的に運行されていた場所が多く、経済成長に伴い増加した自動車と勢力が逆転し圧されて衰退した路面電車に引きずられたというのと、トロリーバスの代替車両を導入するにはおよそバス3台のコストがかかるというのがネックになったのです。
それらの経緯を要約して一般的な読み物にて「車体の老朽化が進み、路面電車の廃止と相まってトロリーバスもその使命を終えた」という簡潔な記述で説明されているのを多く見受けますが、実はあまり知られていない(かもしれない)もうひとつの理由があったのです。
残念ながら軌道法の改正の影響で正確な資料を今すぐ掘り起こすことが出来なく記憶に頼る情報にしかならないのですが、その当時トロリーバスの安全基準の改正で「常に架線と集電装置の監視をしなければならない」ことになってしまったのです。その頃営業していたトロリーバスのほとんどはワンマン運転を実施していたのですが、これには参ったそうです。集電ポール間近の屋根に監視窓を取り付け、ミラー越しに運転手が監視するという手段で乗り切ったのですが、無軌条のいわば“バス”な訳ですから、ワンマンで運行するには大変取り扱いにくいものとなったのです。この事がネックとなり、前述の事情も相まってトロリーバスは一気に無くなったのです。

ところで、現在運行されているトロリーバスは、立山黒部アルペンルートの立山トンネルトロリーバスと、関西電力の関電トンネルトロリーバスの2路線だけですが、過去の都市トロリーバスが軌道法に準拠していた“軌道”なのとは異なり、いずれも専用道路を走行するので鉄道事業法によって運行されている“鉄道”なんだそうです。(準拠する法律が異なるだけで、運行システムに差異があるわけではないんですが)

[61533] 2007 年 10 月 6 日 (土) 20:17:14 hmt さん
 100年前、国有化の頃の鉄道(15) 市内電車と行楽電車
hmt 100年前、国有化の頃の鉄道 hmt 横浜2 都市横浜

東京は、大都市内の公共交通機関として最初の馬車鉄道を誕生させ、試験的ながら 1890年に電車の運転[61516]もあり、企業計画も早くから進みました。しかし、民営を許すか市営にするかなどの方針で当局の意見が決まらず、政争もからんで特許が大幅に遅れました。

東京がモタモタしている間に、官民一体で推進した 京都[61516]は、電車の営業線で先を越しました。
狭軌民営でスタートした会社は、1912年から標準軌の市営電車との競争になり、経営が苦しくなって 1918年に市営に統合されました。市営電車は、1957年度 77kmをピークに 1978年全廃。

次いで市内電車が走った名古屋(1898)も狭軌民営でしたが、1922年に市営化。1960年度 107km。1974年廃止。

大阪は最初から市営の方針で標準軌。1903年に開業した築港線は、魚釣り電車と呼ばれたくらいで、市内電車というよりも、当時としては郊外電車的な性格かもしれません。二階建て電車も存在。1954年度111km。1969年には他の大都市に先駆けて市内電車全廃。

東京では、「軌道」の元祖になった東京馬車鉄道が 東京電車鉄道、通称「電鉄」という名で電化を計画。これに対して、新線建設の三派は合併して 東京市街鉄道「街鉄」に一本化。両社共にやっと特許を得て、大阪と同じ 1903年に電車が営業開始しました。翌年には 東京電気鉄道「外濠線」も開業。
3年前の 電車唱歌で巡る100年前の東京 は、この3社鼎立の時代です。軌間は馬車鉄道から引き継いだ1372mmに統一。
1906年には3会社統合して東京鉄道となり、1911年に買収されて東京市営になりました。1943年、東京都営。

路線長は民営時代の末期に 95km、昭和になった頃 163kmと延び、1941年に「王子電車」と「城東電車」[39140] を買収して 200kmを越えました。
しかし、発祥の地であった銀座通りの路線も 1967年に廃止され、1972年からは旧・王子電車の路線だった荒川線を残すのみになっています。
「市内電車」というより路面区間が少ない「郊外電車」に近い路線だったために残された都電荒川線ですが、一応「鉄道」とは一線を画した軌道として、存在し続けています。

残る六大都市のうち、横浜市内電車の軌間は東京と同じ 1372mm。1904年に民営でスタート。1921年市営。1956年度 52km。1972年度廃止。
神戸市も1910年に標準軌民営でスタート。1917年市営。1946年度 36km。1970年度廃止。

電車は、大都市内だけでなく、特殊な交通需要の或る地方交通の分野でも利用され始めました。
その一つである、参詣・行楽鉄道のうち、東京にも近い川崎大師へは、1899年に六郷橋−大師(現・川崎大師)間を大師電気鉄道が開業しました。欧米の標準軌間である 1435mmを日本で最初に採用した路線です。

翌 1900年に馬車鉄道を電化した小田原電気鉄道は、官設鉄道の国府津から小田原を経て箱根湯本までを結んでいました。最初は馬車ゲージでしたが、1435mmに改軌。この会社は電力事業も営んでいたので、関東進出を図る日本電力[28294]に買収され、子会社の箱根登山鉄道になりました。電力と鉄道の分離により五島慶太の手に。現在は箱根湯本までの区間は狭軌に変わり、小田急の延長線の形になっています。

大分−別府間の豊州電気鉄道(後の大分交通別大線)も、同じ 1900年開業。狭軌新設軌道。これも九州水力電気という会社の直営になった時代があります。
江ノ島・鎌倉も東京近くの参詣・行楽地で、江ノ島電気鉄道は、1902年の藤沢−片瀬から、1904年極楽寺へと進んだ狭軌の新設軌道でした。一時は横浜電気→東京電燈の子会社でしたが、やがて別系統に。

1903年、東京の「電鉄」と「街鉄」、それに大阪の「市電」が開業した同じ年、参宮鉄道の山田(伊勢市)から二見への電車が走り出し、やがて宇治の内宮方面へも通じます。この電車は、会社名がいろいろ変遷していますが、1939年に 東邦電力[19892]から分離されるまでは電力系です。分離後の名は 「神都交通」→三重交通神都線で、1961年廃止。
[29157] 今川焼 さんが挙げている“神都・伊勢”の実例です。

1904年になると、地方都市では初めての市内電車「土佐電気鉄道」が高知市内で開通します。[61516]では書き落としていましたが、この「とでん」は横浜より先でした。
高知は別格として、1909年には和歌山、岩国、呉に電車ができます。岩国は、1890年に東京上野公園で日本最初の電車運転を実現した東京電燈技師長・藤岡市助の故郷です。

福岡では、1910年開業した、福沢桃介と松永安左エ門が組んだ東邦電力による「福博電気軌道」と、翌年開業した地元設立の「博多電気軌道」との2社が誕生。後者は、別大線でも登場した九州水力電気の支配下になり、競合した結果、ようやく 1934年に「福博電車」に一本化されたそうです。
九州における東邦電力と九州水力電気との争いについては、かつて周波数がらみの話題で、[28405] TGRS さんの記事がありました。

東京の3社合併(1906)を別とすると、同一の市内で2社が争った例は、福岡のほかに京都[61516]があり、市内電車第1号の歴史を持つ会社が市営に敗れて統合されました。また、道後温泉への客を争った松山の事例[61378]にも触れました。

現在、市内電車が運行中の都市における最初の開業年を見ると、岡山・広島が1912年、長崎1915年、熊本1911年、鹿児島1914年。函館(馬車鉄道1897)の電化は1913年、札幌は(最初馬力で)1918年電化。富山 1913年、豊橋 1925年で、廃止された岐阜が 1911年と、1910年代前期に集中していました。

[23564] 2004 年 1 月 9 日 (金) 08:10:56 N-H さん
 水道道
hmt 横浜2 都市横浜

[23551]ありがたきさん
「水道道」あるいは「水道道路」という名前が結構たくさんあることですね。
[23558]みかちゅうさん
定規で引いたように直線があるとちょっと不気味です(笑)。

そうそう。地図では目立ちますよね。井の頭通りぐらい大きな通りだとかえってあまり目立ちませんけど、世田谷区にある荒玉水道道路なんか、地図上ではとても目を引きます。
私はここはあまりに目立つのでどんなところか一度実況見分に行きましたら、これがおもしろい。
細い一方通行の舗装道路なんですが、下に埋まっている水道管の保護のために通行車両幅に制限があり、いたるところに幅制限のためのポールが立ってました。

実は私の自宅のすぐ近く(間に建物が2つしかない)にも水道道が通っています。横浜の西谷浄水場と野毛山とを結ぶ限りなくまっすぐな道です。
こちらはひたすらまっすぐなだけでごく普通の道路です。
ただその「ひたすらまっすぐ」加減はかなりのもので、間に川があろうが鉄道があろうが、どんな山だろうがぶちぬいております。このため野毛山近くになるとものすごい急坂の連続。
つい先頃この急坂を通るバスがやっとできました。

[23600] 2004 年 1 月 10 日 (土) 13:02:08 ありがたき さん
 首相の支持率か、大統領の支持率か
hmt 横浜2 都市横浜

[23558]みかちゅう さん
市街地なのに不自然に斜めに横断している道路があるときは大体水道管があると思っていいでしょうね。定規で引いたように直線があるとちょっと不気味です(笑)。

[23564]N-H さん
実は私の自宅のすぐ近く(間に建物が2つしかない)にも水道道が通っています。横浜の西谷浄水場と野毛山とを結ぶ限りなくまっすぐな道です。

N-Hさんちの近所の水道道は、ウチの比較的近所にも続いています。このなが〜い道路ですが、この道路を示すバス停名称「水道道」は藤棚交差点の至近にありますね。

こちらはひたすらまっすぐなだけでごく普通の道路です。
ただその「ひたすらまっすぐ」加減はかなりのもので、間に川があろうが鉄道があろうが、どんな山だろうがぶちぬいております。このため野毛山近くになるとものすごい急坂の連続。
つい先頃この急坂を通るバスがやっとできました。

そうなんです。まっすぐですが高低差はすごいものでして。西戸部町の尾根をまたぐ部分は、その前後で17%と20%の勾配になっています。以前、バイクで遊びに来た友人を先導しここを通ったとき、わたしの姿がストンと消えたので、崖から落ちたと思ったそうでして。
で、そのバスですが、高齢者などのおでかけにやさしい交通機関をと鉄道駅から比較的遠く、坂道が多く、高齢者が多い古くからの住宅地帯を選定し、期間限定で運行開始されたものですね。ウチの近所にもこの循環路線解説に伴ってバス停が新設されたのですが、循環する方向からすると、帰宅方向は便利なものの出発する際はちょっとねぇ…って感じでして<N-Hさんでしたら位置関係が大体わかったのではないでしょうか?

[34770] 2004 年 11 月 3 日 (水) 18:44:58 hmt さん
 近代水道 事始めの三井(みい)村
hmt 横浜2 都市横浜

[34657]Issieさんが明治の大合併から拾い出してくれた神奈川県の「合成地名」にある津久井郡三沢村。

小仏山地の南部、相模川北岸に隣接する三井(みい)村と中沢村が、1889年(明治22)に合併してできた三沢村ですが、旧2村を結ぶ山道は か細いもので、相互の交流も少なかったことと思います。クルマ社会(と言っても自動車ではなく、「馬力」と称する荷車)が到来し、太井(おおい)村(1925中野町)荒川経由の相模川に沿った新道が開通した20世紀には、三井と中沢の「隣接」は、単に地図上で繋がっているにすぎない状態といえたでしょう。

…と、ここまで書いて思い出したのが中郷村[34572]合併協議会HPの一番下にある地図を見ると、辛うじてぶら下がっています。ここは三井と中沢の間よりもはるかに険しい大毛無山など1000m以上の稜線。新井市側に南葉山林道がありますが、通りぬけできないのではないかな?

それはさておき、三沢村が、昭和大合併の際に、旧三井村が中野を中心とする津久井町へ、旧中沢村が久保沢を中心とする城山町へと分裂したのは当然の成り行きでしょう。

三井への交通体系は、昭和合併後に建設された城山ダムにより、また一変します。江戸時代には荒川番所が設けられていた かつての交通結節点・荒川は、1965年に津久井湖の底に沈むことになりました。湖上には赤い三井大橋(ランガー橋)が架けられ、ダムが完成して国道413号が堤の上を通行できるようになる前には、中野と橋本を結ぶ臨時のメインルートとして使われた時期もありました。

その三井村。明治大合併前の1887年、イギリス人技師パーマーにより、横浜水道の取水口が設けられました。相模川からポンプで揚水し、横浜の野毛山浄水場まで11里4町(約44km)を導水した、日本最初の近代水道(濾過、常時加圧給水)です。

これが [23576] Issieさんの“道志と横浜をつなぐ道”ですが、最初は道志川からの取水でなく、合流点から下流の相模川からの取水であり、事業主体も神奈川県でした。
1890年水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することになって横浜市に移管され、給水能力増強のため、合流点から3km上流の青山村で道志川からの自然流下方式により取水することになりました。この工事は1897年完成。

20世紀に入って1907年、山梨県全域が大水害に襲われ、水害対策の一つとして県内の御料地が県有地として下賜されました。水源確保問題をかかえていた横浜市は、これに注目。水源涵養の造林計画を立てて山梨県に運動し、1916年、道志村の3分の1以上の面積を占める恩賜県有林の買収に成功しました。
昨年、道志村から横浜市への県境越え合併問題が話題になった頃に、[19727]てへへ さんの記事があります。

水源を確保した横浜市は、更に串川村(1909年青山村他2村が合併して成立)青山地内で取水設備の変更や拡張工事を進め、戦後、神奈川県が実施した水利事業で、道志川から相模湖への導水や城山ダムによる水道管橋の水没などの影響は受けましたが、現在も道志川の水を横浜に送り続けています。

この横浜水道は、世界中から集まる船乗りに「赤道を越えても腐らない」との好評を得ていましたが、人口が増えた現在では、道志川系統の取水は、全体の10%にもならない状況になっているようです。 http://www.city.yokohama.jp/me/suidou/ja/mizu/suigen.html 参照。

ついでに合成地名コレクションに以前から収録されていた神奈川県中井町。
中村と井ノ口村の合併により成立ですから、「井ノ口」に対応する「もとの地名」は「中村」でなく、「中」になるのでしょうか。

[43001] 2005 年 7 月 14 日 (木) 13:53:40 hmt さん
 相模川水系・コレクションに集められた5つのダム湖
hmt 横浜2 都市横浜

[42974]で登場させた相模川水系の流域は、hmtの出身地を含みます。もう少し続けさせてください。

桂川の源流部は、宇津湖という湖だったものが、富士山の溶岩流によって山中湖と忍野湖に分かれ、更に忍野湖は干上がって、8つの湧水口のみが残り、現在の忍野八海(おしのはっかい)になったとされています。
「海なし県」にも「海」があったのですね。海コレクションにも収録されています。
個々の名前は○○池なのに、集まると なぜか八海?

相模川水系の水は、利水と発電に高度に利用されています。
明治20年(1887)から給水を開始した「近代水道事始め」の横浜水道については既に[34770]で記しました。
水道敷設の目的は、明治10年代に流行したコレラなどの伝染病感染防止にありました。少し後のことになりますが、東京の淀橋浄水場建設も同じ動機でした[36207]

高電圧長距離送電の草分けとして技術史に残る駒橋発電所(1907、現・大月市)を始めとして、明治から大正にかけて建設された数多くの発電所の電力は、京浜地区の工業化に役立ちました。駒橋発電所の下流にある日本三奇橋のひとつ「猿橋」に隣接し、観光客の目に触れる「八ツ沢発電所一号水路橋」(1912)も、発電に付帯する施設です。

明治・大正時代に水道局や電力会社の個別の事業としてスタートした相模川の利水・発電は、昭和になると、神奈川県が主体となった「相模川河水統制事業」へと変わってゆきます。これは、アメリカ合衆国のTVAの成功などの影響を受けた、ダムによる河川開発の一環で、1937年当時の内務省を中心に、全国17河川で実施されたとのことです。

具体的には、与瀬町(現・相模湖町)に相模ダムを造って発電を行い、下流の水量を安定させるための調整池(沼本ダム)から久保沢方面に導いて、横浜市と川崎市の水道用水および相模原台地の灌漑用水を分水し、残りを「谷ヶ原」(相模川の谷に臨む台地)から本流に還元する際生ずる落差により再び発電をするという計画でした。

相模ダムは、日本最初の本格的な多目的ダムです。勝瀬部落を中心とする136世帯の水没地区住民の反対も強権発動ともいえる圧力で押し切られた「ご時世」の中、1940年着工。第二次大戦の影響を受けて 戦後(1947)にずれ込んだ完成式典には、昭和天皇が臨席し、ダム湖は「相模湖」と命名されました。
1955年には、支流の道志川に道志ダム(奥相模湖)が作られ、発電と秋山川を経由した相模湖への導水に利用されます。

戦前に計画されたこの河水統制事業には、農業用水が含まれていました。そして、食糧増産を目指して、大戦後の1948年から相模原台地に大規模な農業用水路の建設が開始されました。しかし、日本の復興に伴ない、相模原台地の畑の一部は工場用地に転用され、次いで都市化の波が訪れ、1963年完成の時には、この「大規模畑地かんがい」の用水路は使われなくなる運命が待ち受けていました。

ところで、相模川総合開発事業は、1960年に決定された城山ダム建設によって、次の段階を迎えます。
これは、洪水調節、水道及び工業用水の供給、日本初の大規模揚水式発電を目的とするもので、付帯設備として上流調整池の本沢ダム(城山湖)と、支流・串川からの取水路も作られました。

このダムで水没することになった285世帯の中心・荒川地区は、江戸時代には「荒川番所」[34770]が設けられていた かつての交通結節点です。
江戸時代末期に嫁入りした曽祖母の実家は、ここ太井村の名主でした。私も子供の頃、バスでよく荒川橋を通り、老朽化した木製の吊り橋を、乗客を下ろした木炭バス(実際には薪を使用)が空車で渡ってしのいだことも経験しました。

この由緒ある集落の住民も、度重なる移転補償交渉の末、相模原市二本松地区等に移り、1965年3月にダムが完成。
その5月には台風6号により 満水の津久井湖が出現しました。

更に次の段階は、2001年 支流の中津川に完成した宮ヶ瀬ダムです。
国内最大級の重力式コンクリートダムによって支えられる宮ヶ瀬湖(貯水容量183百万m3)は、相模湖(40百万m3)や津久井湖(54百万m3)をはるかに超える大きな水がめですが、支川(中津川)の集水面積は小さいので、単独で貯水するのにかなりの時間を要します。一方、相模湖や津久井湖は流域面積の大きい本川と道志川の水を集める反面、貯水能力が十分でなかったので、水資源を有効に利用できなかったきらいがありました。

そこで、道志川の奥相模湖から宮ヶ瀬湖へ8kmの道志導水路、宮ヶ瀬湖から津久井湖へ5kmの津久井導水路を設けて、宮ヶ瀬湖の貯水能力を道志川および相模川本川と連携させ、総合運用する仕組みになっています。
宮ヶ瀬湖による水没は281世帯。水没面積が広い(490ha)せいもあるが、意外に多いです。住処を追われたのは住民だけでなく、サル・イノシシ・クマなどにも及んでいるはずですが、彼らに対する補償はなし。

このようにして、ダム湖コレクションの相模川水系の部に集められた、相模湖、奥相模湖、津久井湖、城山湖、そして宮ヶ瀬湖という 5つのダム湖は、相互に連携して働く存在なのです。

この話題の発端、川の名前についての補足。
山梨県内の桂川、神奈川県内の相模川、河口部限定の馬入川の他に、古名の「鮎川」がありました。
昔ほどではないでしょうが、相模川は 今でも鮎釣りにとっては 知られた川です。厚木で 中津川と共に本川に合流する「小鮎川」という支流もあります。
1940年代後半、通学の帰路によく通った この三川合流の河原には、砂利採取船[41599] が稼動していました。[41660]参照。

[58684] 2007 年 5 月 26 日 (土) 23:39:23 hmt さん
 Re:横浜市の水源、雨乞いの神様
hmt 横浜2 都市横浜

[58669] N-H さん
横浜市の水道をまかなっている水源のうちどの程度が道志村起源なのかは知りませんが

[34770] hmtでは、“人口が増えた現在では、道志川系統の取水は、全体の10%にもならない状況”と記しました。
これは、横浜の水はどこから で示された全5系統の中に占める「道志川系統」(鮑子取水堰からの取水量)の割合(約9%)です。

参考までに、他の系統は、相模川が津久井湖に入る手前の沼本から取水する相模湖系統が約20%、その先はずっと下流になり、東名高速道路の先・相模大堰から取水する企業団相模川系統の一部が25%、寒川町の馬入川系統が15%で、相模川水系合計で69%(残り 31%は酒匂川水系)となっています。

「道志村起源の水」ということになると、道志川本流の他に、奥相模湖から宮ヶ瀬湖へ流す道志導水路の水、秋山川経由で相模湖へ分ける水もありますから、他の3系統の一部にも含まれる可能性があります。
しかし、
津久井湖(城山ダム)の水は,今や緑色ですからねえ…。([34777] Issie さん)
という状態ですから、下流から取った水の多い水道水の品質は、期待できないのでしょう。

[46257] みかちゅう さん
横浜市では「はまっ子どうし」なるペットボトルの水を100円にて販売しています。

このブランド水は、正真正銘「どうし」村の水源 から取水したもののようです。

[58674] Issie さん
大山の阿夫利神社に雨乞いをしなければ

水道局まかせになっている現代の都市生活は「雨乞い」から遠ざかっていますが、相模国の秀峰・大山(おおやま)は、阿夫利(あふり)山=雨降山 とも言い、雨乞いの神様 として有名な存在でした。大山阿夫利神社由緒

生活に余裕の出た江戸時代になると、江戸から格好の距離にある観光地として、大山詣でが流行しました。落語「大山詣り」 でも、お山の帰りに金沢八景見物という筋立てになっており、信心に名を借りた行楽旅行でした。

落書き帳の記事を振り返ってみると、「上福岡」の人も、「宝暦4(1754)年6月吉日 大山石尊講帳 上福岡村」[19388]という記録を残しています。幕末の外国人遊歩区域[54415]の件にも登場しました。武蔵国南埼玉郡「大相模村」[37519]も、大山寺に関係していました。
国道246の大山街道、東上線の大山駅など、現代の地図にも大山詣で流行の痕跡を残しています。

[58728] 2007 年 5 月 29 日 (火) 23:36:25【1】 hmt さん
 水道の蛇口の向こう側(1)江戸の水道から近代水道へ
hmt 横浜2 都市横浜

香川用水の第一次取水制限[58648]から始まり、水資源に関係した話題が出ています。
世界的には降水量の多い日本ですが、人口密度も大きく、急流が多いせいで、せっかく降った雨水が陸上に留まってくれる時間が短いという不利もあります。
雨水の無駄な流出を防いで陸水として保留してくれるのは、地表の河川、湖水、雪山、地下の帯水層、それに森林などです。

その中でも、琵琶湖は最も恵まれた天然の貯留施設であると思っていたのですが、
[58725] むっくん さん
近畿の水がめである琵琶湖の水位の低下で琵琶湖のある滋賀県ですら15%の給水制限
と、現実は厳しく、徹底した節水を含む自助努力が必要なことは、お説の通りと思います。

香川県は、降水量が少ないだけでなく、水を蓄える山地の少なさが、特に厳しい状況の背景にあるものと思われます。
香川用水 は、水道用が約半分で、あとは農業用、そして工業用も少々。

以下、首都圏の都市水道、特に江戸・東京の水道事情から、水の安定供給を求めた人々の努力の歴史を概観します。

瀬戸内海沿岸ほどではありませんが、関東地方も、降水量が日本全国平均を下回っています。人口の集中した都市圏に供給する水道施設は、徳川家康の江戸入府(1590)以来、現在まで続く課題です。

溜池や千鳥ヶ渕の利用から始まった江戸の水源は、神田上水までは武蔵野台地の湧き水に頼っていました。
杉並区善福寺の地下水 は、現在でも東京の水道に使われています。但し、供給量は、全体の僅か0.2%です。

大都市江戸が次に求めた水源は、関東山地に源を発する多摩川でした。多摩川は江戸の3〜4里ほど南で海に入りますが、多摩川下流から江戸へは流れてくれません。
町人の庄右衛門・清右衛門兄弟の案は、10里以上も上流で取水し、巧みに武蔵野台地の稜線に導き、尾根筋の水路により江戸へ導くものでした。

この計画が幕府に採用され、承応2年(1653)僅か8か月で、羽村取水堰から四谷大木戸までの「玉川上水」が造られ、標高差約90mを平均 0.2% の緩勾配で見事に流れ下りました。翌年には虎ノ門までの地下配水管も完成、江戸城や麹町・京橋などの市中に給水しました。

しかし、川の水をそのまま使い、配水路での汚染も起き易い江戸以来の水道は、明治に入ると管理不良も相俟って水質悪化が目立ちました。明治10年前後には改良設計案も出ましたが実現しないうちに、明治19年(1986)コレラが流行して1万人近い死者を出し、近代水道への脱皮が切実になります。

浄水場で濾過等の処理を行ない、使い勝手が良いだけでなく、配水管路での汚染を防ぐ「常時加圧給水」の施設を備えた近代水道は、明治20年(1887)に神奈川県の手による横浜水道で始まり、1890年水道条例制定に伴い横浜市に移管されました[34770]。横浜水道の目的も、やはり伝染病感染防止でした [43001]

東京でのコレラ流行は、当時神奈川県だった北多摩郡・西多摩郡を、上水汚濁取締強化のために東京府に移管する契機となりました。水道改良工事は、(水源地域でない南多摩を含めた)三多摩が東京府に移管された[33700][54421]明治26年に着工。明治32年(1899)に淀橋浄水場 [36207]を含む改良水道工事が完成しました。東京市が、「自治体」として発足した[33692] 翌年のことです。

[58758] 2007 年 5 月 31 日 (木) 17:50:45 hmt さん
 水道の蛇口の向こう側(4 )相模川水系
hmt 横浜2 都市横浜

[58751]で 東京の水は“78%が利根川・荒川水系、19%が多摩川水系”と紹介しました。100%には、あと少し必要です。
ごく僅か(0.02%)の地下水[58728]と共に、東京水道の約3% を担っているの相模川水系です。

[58674] Issie さん
私の右手数十メートルの地下を川崎市の水道が通っています。相模川の相模湖(相模ダム)と津久井湖(城山ダム)の水を水源としているものです。川崎市水道全体では,横浜市と同様,宮ヶ瀬湖や丹沢湖の水も水源としています。
で,確か,この水の一部は東京都にも“お裾分け”していたはずです。

相模湖の水は沼本ダムで、津久井湖の水は城山ダムで取水され、共に津久井分水地に送られて、ここで水道用と発電用などに分けられます。水道用原水は、下九沢分水池(相模原市)で既に言及した横浜用[34770][58684] と川崎・東京用とに分けられ、後者のトンネル水路は、川崎市の多摩丘陵にある 長沢浄水場 に向かいます。

ここには、川崎市の浄水場(24万m3/日)と東京都の浄水場(20万m3/日)とが隣接しています。
東京都水道局の長沢浄水場は、その 建築 が有名なようですね。仮面ライダーの「城南大学」とか。

というわけで、相模川水系の水は、東京の水源の一部にもなっているのでした。東京都水道局の浄水施設の紹介 の末尾には、一覧表がありました。相模川水系から“お裾分け”された20万m3/日は、確かに、東京の総処理能力686万m3の約3%を占めていました。

川崎市の水道が出てきたので。
[58667] hiroroじゃけぇ さん
神奈川県の東部は多摩川に依存しているとばかり思っていました。

たしかに川崎市の水道に関しては、多摩川表流水を水源としてスタートしました(1921)。
川崎市の水道は、その後相模川水系を中心に拡大し、現在は神奈川県内広域水道企業団を通じて、丹沢湖など酒匂川水系から配分される水量が半分ぐらいになっています。
一方、多摩川については、2003年から伏流水取水が廃止されています。




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